任務を記したスクロールを渡すように言われ部屋を訪れるとヒルフは手紙を握りしめて泣いていた。何回ものノックにも気が付かず、鍵も開けっ放しで。そこには黄昏の恐ろしい魔女ではなく、人一人の苦しみを抱えるただの少女がいた。
「……」
僕はスクロールを静かに仕舞って、何も言わず隣に座る。
それを彼女が見ると顔を皺くちゃにして、俯いて顔を手で覆ってしまう。
極悪非道の女が何を苦しんでいるんだ……なんて。
正直に言ってしまえば、そんな気持ちが湧かないわけでも無かった。
『泣いているのなら手を差し伸べるべきだ』
でも、目の前には一人の人間がいた。
例え僕がこの女にかつて切り刻まれていたとしても、話くらいは聞いてやってもいいんじゃないか。そう思って言葉を待ったけれど、ヒルフはいつまで経っても口を開かなかった。
まぁ、それでもいいか。泣いている時はただ傍に誰かいるだけでも心が安らぐだろうし。そう思ってそれ以上は気にせず、本を読もうと懐に手を入れた。
「うわっ」
けれどその時、両の手首を掴まれヒルフに押し倒された。
僕を掴むその手は震えていて、僕を見下ろす顔は怒りと悲しみでさっきよりも酷くなっていて。化粧が崩れてぐちゃぐちゃになってしまったその顔は、彼女の心模様を体現していた。
「あなたを、夫にして、連れ帰る……一切の不自由はさせません。苦痛は与えません。食、睡眠、性、衣住……全てを満たす代わりに、体液を貰う契約を結びます」
「……」
「既成事実さえあればいい、物理世界はそうなのでしょう?」
歪な笑顔と脈絡のない宣言が目の前に飛び出す。
僕は何も言わず、何もせず、困惑しつつも何の表情も作ってやらないでいた。けれど彼女は僕の衣服に手もかけず、自分の衣服にも手をかけずに、ただずっと掴んだ僕の手首を見つめて見下ろし続ける。
「不満ですか、私の肉体は美しく扇情的ですよ」
何も返してやらなかった。
「何か言ってくださいよ」
何も言ってやらなかった。
「拒否しないんですか」
何もしてやるつもりも無かった。
だって何を思ってかは知らないけれど、泣いてる彼女の姿とちぐはぐな行動を受けたら、これは自棄で、ただの自傷行為なのは誰にだって分かることだから。
自惚れでもなく僕が貴重な存在である事は自覚している。
でも、だからと言って他人が自分を消費してまで手に入れようとするとは僕には思えない。だってそうまでして手に入れたいならもう一度襲い掛かればいい。そして既成事実を盾にするなら有無を言わさず襲えばいい。
それを戸惑うのが良心の呵責故なのか不本意なのかは分からないけれど……
「……」
ここで彼女の自棄を否定するのは少し早いと思ったから、何もしなかった。
「〜〜〜ッ」
歯噛みをしながら彼女は勢い任せに自分と僕のシャツをはだける。
目の前には豊かなものが見えて、大人びた肌着が見えた。
容姿で言えばヒルフは綺麗で魅力的な人だ、そこに異論はない。
こんな状況でもなければ、だけど。
ついでに、僕は泣いてる人には興奮できない人間らしい。
「何とか、言って────!」
「……何かを言うべきなのは貴女です、ヒルフ」
「っ」
「一体どうしたんですか?」
問いかけると、彼女はまた歯噛みをして押し黙ってしまった。
『────その手にある選択肢を手放してはいけない』
親友の言葉を借りるのであれば、僕はまた一つ選択をする事になる。
僕の手にはまた、選択肢が握られているようだから。
他人の人生を……ほんの少しだけ変えるかもしれない可能性が。
けど、どうだろう。
彼女にそうしてやる必要が、僕にあるのだろうか?
僕とヒルフは仲良くしてやる程の関係ではなく、彼女は事情を聞いても黙ってしまう。
その上で襲うような人間に手を差し伸べてやる必要はあるのか……
助けられたい人間が助けてもらうためには……「その時」が来た時に、助けて貰えるだけの仮面を被っていなければいけない事を、彼女は理解しているのだろうか。
「何があったのか言ってください」
「……」
「言わないのなら僕も何も言えないし、何も出来ない。ただ貴女が一人勝手に痴態を晒す事を記憶するだけです。僕が貴女を信用して取引するほど頭の抜けた人間でない事くらいは、知っているでしょう?」
真っ直ぐ彼女の目を見つめて冷たく言い放つと……
頭の後ろで、くしゃりと手紙が潰れた。
「私には許婿が、夫いるんです」
言葉の露が零れ落ちる音がした。
「私は冷たく接しました。だって彼に求められているのは彼の体液と、私の律を補うためで……彼の役割は、物だったから。人として扱ってしまったら私が傷ついてしまうと思ったから、私はそうしたんです」
「……」
「でも、先日、彼の家であるヤークト領が滅亡しました」
「その手紙は……」
「そうです。その旨を伝える母上からの手紙です」
ヒルフはくしゃくしゃになった手紙を持った手で涙を拭って、拳の中の紙きれを見つめる。
「私たちは領と領の友好のために夫婦。けれどその相手が滅んでしまったら、そこに残るのは男の魔女であるという価値だけ。だから彼は……彼は、もう私の夫ではなく領の共有資産として扱われる、でしょう。私が生まれた理由も、特権を持つのも、クヴェーレ領の次期当主として、そして僻地の一つとして魔女の圏域の壁となり砦となるため。それは彼────ヴィダーも同じことなんです」
『
僕はあまり多くを生まれ持たなくて、対して彼女は多くを生まれ持った。
だからといって二人の自由に大きな差はなく、むしろ僕の方が今では自由に思える。
「────でも。貴方を連れ帰ったら、今からでも貴方をヴィダーの代わりにしたら。」
「その功績で旦那さんは共有資産に行く事を免れるかもしれない、ですか」
「そうです……ふふ、やっぱり貴方はリーベさんに預けるには惜しい人ですね」
彼女がクスッと笑うと、僕の手にはより多くの力が乗り掛かった。
「一体何をしたいのでしょうね、私は。貴方を懐柔するために面倒だった彼女らを粛清して、貴方の情報も規制して。コツコツと積み上げてきたのに手紙一枚が手に渡ったらその全てを崩してしまって。冷たくした癖にヴィダーの事で悩んで……」
「だから僕の性別が広まらなかったんですね」
「貴方は物理世界からやってきて、その上でかなり頭の固い人なのは分かりましたから。強引に支配する事に失敗した以上、貴方の道理に従って、正面から招いた方が適切でしょう」
「最初からそうしてくれればここまで貴女に悪感情を持つ事も無かったかもしれないですね。一番最初のきっかけはススピロの攻撃でしたけど……それも自分で自分を慕う人に向き合わなかった事が原因でしたね」
おかしいとは思ってた。
律が崩れた時に星の力を使った事に気付く人はヒルフを始めとして必ずいるだろうし、拉致された時にヒルフ以外の魔女の中には僕の価値を知っている者が殆どだろう。なのにあれ以来僕の性別に関する面倒ごとは無かったから。
「あれは私を慕う者ではありません。私ではなく、私の地位を好いている生き物なのです。そしてあの手の者共は総じて劣悪で仮に招いた所でロクに使えもしない……いえ、ススピロさんを始めとして例外はいましたけど……」
「ススピロもそんな風に言っていましたね」
「……あんなモノ共よりも、私は貴方達、圏域外派が欲しかった」
「はい、僕たちを?」
ヒルフの抱えていた感情が言葉になっていく内に、その声色にも変化が現れ出す。
今度の話は、いじけてた子供のような色をしていた。
「ミコさん、ムネメさん、リーベさんは語るまでもありません。フレスノさんは通信魔法の開発に成功すれば、我が領でそのまま採用出来ます。彼女が指摘する莫大な特許料を払う必要もなくなりますから。アンさんは日の目を浴びていませんが、その実、魔法薬学の腕前にのみ限れば私よりも遥か上の高みにいます」
「アン先輩ってそんなに凄かったんですか……?」
「魔法薬学だろうと魔法工学だろうと、上級属性を十全に扱え、その上属性の複合が出来る魔女が凡庸なはずがありませんよ。ジロフソニアとの戦いで渡された薬など火と水の属性を巧みに扱っている物でした。もしあれを量産出来れば僻地の死傷者を飛躍的に減らせるでしょうね」
「使わなかったけどこれ、こんな凄いものだったのか……」
僕が使うんじゃなくてリーベさんら上の魔女が服用した方がよっぽど効果的な気がしてきた。結局使わないで今も手元にあるけどさ。
「貴方達に欠点があるとすれば、それは我欲が無い事ですわ。」
「皆、貴女の提案なんか知ったことじゃないですからね」
「えぇ。本当に……リーベさんが妬ましい。男の癖に自由な貴方も……」
手首の骨が軋む。
「ぃっつ……別に、僕だって自由ではなかったですよ。貴女ほどでないにしても僕も背負って生まれたました。でも僕は先に荷を下ろされたんです。義務や期待が無くなって、次に親の愛とお金が無くなって。結果的に明るい未来も無くなりました」
「その割には随分と平気そうな声ですね」
「……はっ、泣いて悲しんで喚いてどうにかなるとでも?家から食べるものが無くなって、恥を忍んで給食を多く食べるようになってから、一々悲しんでる暇なんて無くなっただけだ。物理世界は魔法世界ほど希望に満ちてないんだよ。」
「魔法世界も、希望に満ちてなどいません。」
僕はそうして初めて、腕に力を込めてヒルフの手を押し返し始める。
「いいや。魔法世界の方がずっと希望がある。物理世界には奇跡も魔法もないし、傷ついたら死ぬし、死ななくても一生傷が残る事だってある。お金が無ければ勉強も難しい。そして勉強出来なかった人間はロクな末路を辿らない。人格も、人生も、誰かが手を差し伸べようがどうしようもない所まで堕ちていく。」
「……っ」
起き上がる僕の身体を説き伏せたままにしようとヒルフは抗うけれど、今度は僕が彼女の手首を掴んで押し倒した。
「いいかヒルフ。貴女の手にはまだ選択肢が握られてるんだ。ヴィダーを優先するか、領を優先するか。貴女は選ぶ事が出来るんだ」
「私に、選択肢があると?私はクヴェーレ領のために生まれて、育てられたのに……!?」
「他人が下す貴女の役割はそうかもしれませんね。でも貴女が貴女に下す役割は違う。ヴィダーを優先した結果、貴女は全てを喪うかもしれないでしょうね?親の期待も信頼も責任も、あるいはヴィダーすらも。」
「分かっているなら────」
「けど、貴女の言葉の通りなら。何もしなかったら。ヴィダーはほんの僅かの可能性すら残らずに、貴女の彼では無くなる。」
「っ……」
組み伏せたままじっと目を見つめると彼女は目を逸らした。
「僕を襲うと言ったのに組み伏せられた魔女に何が出来るっていうんですか?まさか本当に僕を攫えばヴィダーが助かるとでも?貴女たちの事情は知らないですけど、少なくともこんな軟弱な魔女にその願いを叶える力なんてないでしょうね。」
「ではどうしろと言うのですか!?私は母上に勝てません、そもそも彼を優先する事が正しいのかも分からないんです!ヴィダーを選ぶと言って何をしろと!?」
「母親に勝つ必要なんてあるんですか?逃げればいいじゃないですか」
「逃げ……!?」
僕こそ母親から逃げ出したというのに、この口から出る恥知らずの言葉に反吐が出る。
……でも。
強者が力を振りかざす時、弱者が生き残る方法は殆ど無いから。
そうしてもし、彼女がヴィダーを連れて逃げる事が出来るのなら。
「先に二人で逃げ延びる算段を立ててから、直談判でもすればいい。あるいは貴女なら他の素晴らしい方法を思いついて見事に掻い潜る事が出来るかもしれないですしね?」
「私が母上を、領地を本当に捨てて……?」
「僕は貴女ほどきちんと背負うものが無いから簡単に捨てられただけで、貴女にとっては僕なんかよりもずっと重い選択肢だとは思いますけれど……それでも」
それでも。
『────その手にある選択肢を手放してはいけない』
「その手にある選択肢を、手放してはいけないと思います」
ヒルフから手を離して身なりを整える。
開放された彼女は苦虫を噛み潰したような顔をしている。彼女が感じている気持ちがどうであれ、選択の重さがどうであれ、もうこれ以上僕がしてやる必要はないだろう。
そして、これ以上してやれる事もないだろう。
「これ。」
スクロールを現出させてベッドテーブルに置く。
「任務です。貴女が学園にいる間、僕たちが学園長に信頼されている間……過去の事は置いて協力して仕事はしてるんですから。貴女も早く立ち上がってください」
「……手厳しいですね」
「貴女に優しくする役割は僕ではないでしょう」
それをする人は、彼女が自分で掴み直さないといけないから。
そうして僕はヒルフの部屋を後にした。