『再現性がないですね。失敗です』
僕の両親は政府が主導するプロジェクトに参加していた。
けれど、両親によれば。それは僕の出来が悪いせいで失敗したらしい。
何が原因だとか、何をしていたかとか。
そんな事は質問しても答えてくれる人は誰もいなかった。
ただ、自分がやってきた事だけは忘れられないだろう。
経験は嫌と言う程に刻み込まれて、記憶は薄れてくれない。
手放してなお、願いは今でも押し寄せる。
☆☆☆
「稀懸様、稀懸様。妻のガンを取り除いてください」
「いいよ」
その日も僕は汚れた古い社の中で、扉越しに参拝客の願いを聞いていた。
僕には他者の願いを叶える力があった。
この現代日本でこんなボロボロな社に神頼みに来る人はそうそういないけど、だからこそ殆どの人間が必死に願って、それ以外の何もいらないと言わんばかりの感情を押し出していた。
それ以外に頼むツテを持っていないからだろう。
『うぅむ、凄まじい能力ではありますが同条件で実験をしてもあの願いを叶える力が発現しませんね……あれに再現性さえあれば、いやしかし……』
「ねぇ覡。どうしてお願いを叶えることが出来るの?ママに教えてちょうだい?」
「えっと、えっと、分かんない……」
番いになる者の精を受け子を産み育てる役割を自ら負った女性は定期的に僕にそんな質問を投げかけた。けど、僕は「どうしてそれが出来るのか」を理屈に立てて説明する事ができなかった。
誰だって感覚的なものを言語化するのは難しい。
「まぁ、覡に聞いたところで無理だろう」
「そうね……」
とりわけ、その時の僕はまだ七歳にもなっていなかったから。
でもきっと今でも出来ないだろうね。
息を吸うことは、誰だって出来るだろうから。
息を吸わないで生きる人間に、息を吸う感覚を説明した所で理解出来ないだろう。息を吸える人間が感じる息を吸わない感覚と、息を吸わないで生きる人間の感じる息を吸わない感覚は、同じ「息を吸わない」という言葉でも、感じる感覚は異なるだろう。
「しゃこしゃこしゃこ」
「こら、あんまり力入れちゃダメだよ」
「ふぁーい」
女性と共に歯磨きをする。
その日も僕の底からは酷い臭いが込み上げる。
鏡に映る瞳には、罰印と十字の光が見えた。
「あー、稀懸様、稀懸様。俺をお金持ちにしてくださーい」
「やだ」
たまに変な人がやってくる事もあった。扉で隔てられている上に僕の声は小さかったから、頷くのも断るのも咎められる事はなかった。
「稀懸様、稀懸様……!浮気したあいつの股間を潰して二度と一人で排泄すら出来ない身体にしてやってください、稀懸様、稀懸様……!」
「……やだ」
断った人は大体二つのパターンがある。
一つは、真剣な願いではない人。
もう一つは、他人を害そうとする人。
前者はそもそも願いとして僕の中に入ってこないから叶えようもなくて、後者は僕の中のもやもや────暫く成長してから「私」として区別する自分の善性から、願いを叶えようとしなかった。
前者は不真面目な人間だったけど、心の中に押し寄せる事は無いから、そんな人が来た時はかえって良い人が来てくれた、なんて思わないでもなかった。
「うえぇ、うぷっ……」
暗い社の中で胃の中身が床に広がる。
その日はご褒美にチョコレートを貰って食べていたから、酸っぱくて気持ち悪い臭いが更に妙に甘い臭いになっていて、余計にえづいた。
強く願う人の心はいつだって僕の心に入り込んできて僕の心を占領する。
自分ではない存在が自分の願いのために居座ると、自分ではない感情や記憶が僕を押し潰してくる。悲しい気持ちや愛おしい気持ち、そんなプラスの明るい世界から来る気持ちならまだマシだけど、他人への憎悪に満ちた感情は最悪だった。
一人の願いをただ聞くだけで不快感がお腹から迫り上がって、毎回こうして吐いた。他人への害意がより最悪なだけで、必死に願う人の感情と記憶は強いから、結局子供の心は悲鳴をあげていたのだと思う。
苦しくて、気持ち悪くて、臭くて、辛くて、怖い。
でも他人が幸福になれるなら良いかなと思って、周りの大人には黙ってた。
その人たちも、僕が願いを叶えるのを見るのは好きだったようだから。
吐瀉物はその日床に染み込んで消えていった。
「お疲れ様。じゃあお家帰ろっか、覡」
「うん!」
「今日はママがハンバーグ作ってくれるらしいぞ〜」
「ハンバーグ!!」
「はしゃがないの、ハンバーグは逃げないよ」
その人が作るご飯は殆ど全て好きだったけど、ハンバーグは特に好きだった。
辛い事があってもご褒美にチョコレートやジュースを飲めたり、お夕飯がハンバーグだったり、あるいはおもちゃを買ってもらえたりして、他の一般家庭の子供より少し裕福な暮らしをしていたと思う。
そうやって辛い暗い世界と、穏やかな明るい世界を行き来していた。
夕焼け小焼けが空を染めて、雉鳩の不思議な鳴き声がする。
僕の両手を握る二人の手は大きかった。
でもね。人間、満ち足りていると傲慢になるのかな。
ある日ふと思っちゃったんだ。
「苦しいのは嫌だ」「願いを叶えるのは嫌だ」って。
それは七歳の誕生日を迎えた時の事で……
最初で最後の、自分のために願った時だった。
「覡くんの能力が消えました」
「……はい?」
「……」
その日、僕は大人たちが険しい表情で会話する中に連れてこられた。
元々そうした場に連れかられる時があったから、今回も大人の退屈な話を聞き流さないといけないのか、暇だなぁ。なんて思いながらついていったら。
「そんな、それじゃあうちへの支援は!?」
「◯月をもって終了となります」
女と男は酷く狼狽した様子で、そんな質問をした。
帰ってきた答えは数ヶ月後を指していた。
「……覡」
女の視線が僕に突き刺さる。
それは絶望と未練の感情が強く、その未練は誰に対するものでもなく、自分を飾り立てるためのキラキラとした石や細かいお洋服やバック、何も面白味のないように見える値段ばかり高い服に向けられていた。
女は中学生の頃から片親の家庭になったから、母親を助けながら高校を出て働き出していた。「何故自分がこんな想いをしなければならない」「母親が心配」「何故こんな親の元に生まれてきたのか」……愛憎が入り混じって、自分の記憶すらノイズが走っていた。たまに見る願いの持ち主と、女はそう変わらない人間だった。
「そうか、支援が無くなるか……」
男の視線が僕に突き刺さる。
それは関心の喪失で、先ほどまで僕の心に押し寄せていた男の感情と記憶が僕の心から急速に退去していった。最後に感じたのはたった数分の言葉で、一人で歩いて行こうと心を切り替えてしまった男の足跡だった。
男は自ら会社を立ち上げ運営していた。
このプロジェクトに参加する事で何かしらの対価を得ていた。
僕は初めて、僕の心に押し寄せてきた人間が一瞬で居なくなる経験をした。
「うぷっ」
床に吐き出す。
床に残る黒い液体はすえた甘い香りを放っている。
それが僕が最後に食べたチョコレートだった。
「……」
不快、恥、憤慨、軽蔑。
女の感情が押し寄せる。
男の感情はもう僕の心には入る事はなかった。
「ママ」
「……」
世界から急速に色彩が失われていく。
白と黒を混ぜたら濃い灰色になる。
暗い世界はそのままで、明るい世界が僕から失われた。
「支援金が入らないなら意味がないな。それじゃ」
「待ってよあなた!」
男はその場を立ち去る。
女は男を引き止めようとするが、未練のない者と未練のある者とでは行動の早さが決定的な差があり、一歩追う毎に二歩差がついていた。決して女の歩く速度は遅くないのに、二人の距離はすぐにも埋まらなくなる。
「それでは、私たちはこれで」
他の大人は別の部屋へと入っていく。
そこには女と僕が残された。
僕には願いが注がれた。
『死ねばいいのに』
稀に懸るという姓名。
僕以外にも、多くのプロジェクト参加者がその作られた姓名へと変えた。
それは変数を引き寄せるための言霊でしかなかった。
覡は僕が最初につけられた子供だった。
覡は巫女、
七歳までは神の子と言う。
僕は人間になって、人間として暮らす資格を失った。