春の朝は、どこか不安定だ。
冬の名残がまだ空気に溶けていて、それでいて確かに季節は前に進んでいる。そんな曖昧な温度の中で、私はその門の前に立っていた。
大分西トレセン学園。
地方トレセンのひとつに過ぎないその場所は、しかし今の私にとっては世界のすべてだった。
「……ここか」
小さく呟く。
自分の声が思ったより落ち着いていることに、少しだけ驚いた。
門をくぐると、視界が一気に開ける。
広い。想像していたよりもずっと広い。グラウンド、校舎、寮、そして――遠くに見えるダートコース。
乾いた土の色が、妙に現実感を伴って目に入る。
(あれが、戦う場所)
胸の奥で何かが小さく鳴る。
緊張ではない。恐怖でもない。もっと静かな、けれど確かな感覚。
――覚悟、に近いものだった。
周囲を見渡せば、同じように新しい制服を着たウマ娘たちが集まっている。
耳の形、尻尾の動き、体格、表情。それぞれ違うが、ひとつだけ共通していることがあった。
全員、“速そう”だった。
「ねえ、あの子じゃない?」
「え、どの子?」
「ほら、主席で入ったっていう……」
視線が、集まる。
ひそひそとした声は隠しているつもりでも、耳にはっきり届く。
「思ったより普通じゃない?」
「ていうか細くない? 大丈夫あれ」
「なんか、走れる感じしないよね」
――好きに言えばいい。
私は軽く息を吐いた。
評価なんて、走ってから決めればいい。いや、もっと言えば――今は低い方がいい。
“普通”。
それはこの場では、最高の擬態だ。
入学式は、淡々と進んだ。
校長の話は長く、内容はほとんど頭に入っていない。ただ一つ覚えているのは、「ここでの三年間が君たちの未来を決める」という言葉だけだ。
(三年もいらないけどね)
心の中で呟く。
私の目標はもっと先にある。ここは通過点だ。
だが――
「それじゃあ軽く、適性確認を兼ねて走ってもらうからねー」
式が終わった直後、その一言で空気が一変した。
ざわめき。
緊張。
そして、期待。
ウマ娘にとって“走る”という行為は、呼吸と同じくらい自然なものだ。だからこそ、それを見せる場には本能的な熱が宿る。
私はゆっくりとグラウンドへ向かった。
ダートコース。
近くで見るそれは、やはり芝とは違う。
土は粗く、乾いていて、どこか荒々しい。踏み込めば力を吸い取られそうな感触がある。
(……相性、最悪だな)
心の中で苦笑する。
ステータスでも分かっていた。ダート適性F。つまり、ほぼ適性なし。
それでも、ここで走らないわけにはいかない。
「位置についてー……」
整列する。
周囲のウマ娘たちが、わずかに前傾姿勢になる。脚に力を溜めているのが、空気越しに伝わってくる。
「よーい……」
静寂。
「ドン!」
その瞬間、世界が弾けた。
速い。
一歩目から、違う。
爆発的な加速。地面を蹴る音が、連続する雷鳴のように響く。
私は一瞬遅れてスタートを切った。
「っ……!」
遅い。
体が前に出ない。
脚が重い。地面に力を伝えきれない。
前を走る背中が、一瞬で遠ざかる。
(分かってた、けど……これは)
予想以上だった。
短距離型、マイル型。
その違いが、これほどまでに顕著に出るとは思っていなかった。
だが――
(落ち着け)
頭の中で、もう一人の自分が冷静に告げる。
(これは“戦い”じゃない。ただの確認だ)
視線を前に向ける。
先頭争いをしている数人の動きを観察する。
腕の振り。
脚の回転。
呼吸のリズム。
(……速いけど、粗い)
無駄な力み。
序盤からの全力加速。
持久を無視した走り。
(短い距離なら、それでいい)
でも。
(長くなったら、崩れる)
私は一歩ずつ、確かめるように走った。
速くはない。
だが、崩れない。
自分の呼吸を保ち、フォームを維持する。
地面を“蹴る”のではなく、“押す”感覚。
結果。
最下位ではなかったが、下から数えた方が早い順位でゴールした。
「え、あれで主席?」
「マジで? ちょっと期待外れじゃない?」
「勉強だけの人っぽいよねー」
声が飛ぶ。
耳に届く。
全部、聞こえている。
それでも。
「……まあ、いいか」
私は小さく呟いた。
悔しさは、ある。
胸の奥がじわりと熱くなる。
でもそれ以上に、確信があった。
(私はここじゃない)
この距離、この環境。
ここでは、私は弱い。
だが。
(長ければ、違う)
その確信だけが、静かに燃えていた。
帰り道。
私は人の流れから外れ、一人別の方向へ歩いた。
向かう先は決まっている。
あの場所だ。
バブルの残骸。
未完成のレース場。
柵は錆び、スタンドは崩れかけ、誰もいない。
それでも、ここには確かに“コース”が残っている。
長い。
とにかく長い。
「……やっぱり、ここだ」
私はゆっくりと息を吐いた。
ここなら、誰も邪魔しない。
ここなら、距離を気にしなくていい。
「姉ちゃん、準備いいよ」
弟がタイマーを構えている。
「うん、お願い」
スタートラインらしき場所に立つ。
誰もいない。
観客も、ライバルもいない。
あるのは、風と、自分だけ。
「……よし」
踏み出した。
最初はゆっくり。
体を慣らすように。
一周。
呼吸は安定している。
二周。
脚に少しずつ重さが乗る。
三周。
「……っ」
肺が焼ける。
空気が足りない。
それでも。
(まだ、いける)
ペースを崩さない。
無理に上げない。落とさない。
ただ一定に。
四周。
世界が、少しだけ変わる。
音が遠くなる。
代わりに、自分の鼓動がはっきりと聞こえる。
ドクン。
ドクン。
足音と重なり、リズムになる。
(これだ)
五周。
苦しさは消えない。
だが、支配できる。
六周。
体が軽くなる。
錯覚ではない。確かに、軽い。
「……これが」
私は走りながら、笑った。
「私の距離だ」
走り終えたとき、私は地面に手をついていた。
息は荒い。汗が止まらない。
それでも、心は妙に静かだった。
「遅いけどさ」
弟が言う。
「なんか……すごかったよ」
「でしょ」
私は顔を上げて笑った。
速さでは負けている。
それは事実だ。
でも。
「私、長いほうが強いから」
夕焼けが、コースを赤く染める。
誰もいないスタンド。風だけが吹き抜ける。
ここはまだ、何も始まっていない場所。
だからこそ。
「――ここから、全部ひっくり返す」
その言葉は、小さく、しかし確かに世界に刻まれた。
この日。
“速くない主席”は、笑われた。
だが同時に。
誰にも知られない場所で、
誰にも理解されない才能が、静かに目を覚ました。
長距離という、孤独な王の資質が。
ゆっくりと。確実に。
牙を研ぎ始めていた。
書きだめをしていたのでもうすこしだせます