馬娘に転生伝説と呼ばれるまで   作:チャレンジャーTTS

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第2話「主席の足音」

 

春の朝は、どこか不安定だ。

冬の名残がまだ空気に溶けていて、それでいて確かに季節は前に進んでいる。そんな曖昧な温度の中で、私はその門の前に立っていた。

大分西トレセン学園。

地方トレセンのひとつに過ぎないその場所は、しかし今の私にとっては世界のすべてだった。

「……ここか」

小さく呟く。

自分の声が思ったより落ち着いていることに、少しだけ驚いた。

門をくぐると、視界が一気に開ける。

広い。想像していたよりもずっと広い。グラウンド、校舎、寮、そして――遠くに見えるダートコース。

乾いた土の色が、妙に現実感を伴って目に入る。

(あれが、戦う場所)

胸の奥で何かが小さく鳴る。

緊張ではない。恐怖でもない。もっと静かな、けれど確かな感覚。

――覚悟、に近いものだった。

周囲を見渡せば、同じように新しい制服を着たウマ娘たちが集まっている。

耳の形、尻尾の動き、体格、表情。それぞれ違うが、ひとつだけ共通していることがあった。

全員、“速そう”だった。

「ねえ、あの子じゃない?」

「え、どの子?」

「ほら、主席で入ったっていう……」

視線が、集まる。

ひそひそとした声は隠しているつもりでも、耳にはっきり届く。

「思ったより普通じゃない?」

「ていうか細くない? 大丈夫あれ」

「なんか、走れる感じしないよね」

――好きに言えばいい。

私は軽く息を吐いた。

評価なんて、走ってから決めればいい。いや、もっと言えば――今は低い方がいい。

“普通”。

それはこの場では、最高の擬態だ。

入学式は、淡々と進んだ。

校長の話は長く、内容はほとんど頭に入っていない。ただ一つ覚えているのは、「ここでの三年間が君たちの未来を決める」という言葉だけだ。

(三年もいらないけどね)

心の中で呟く。

私の目標はもっと先にある。ここは通過点だ。

だが――

「それじゃあ軽く、適性確認を兼ねて走ってもらうからねー」

式が終わった直後、その一言で空気が一変した。

ざわめき。

緊張。

そして、期待。

ウマ娘にとって“走る”という行為は、呼吸と同じくらい自然なものだ。だからこそ、それを見せる場には本能的な熱が宿る。

私はゆっくりとグラウンドへ向かった。

ダートコース。

近くで見るそれは、やはり芝とは違う。

土は粗く、乾いていて、どこか荒々しい。踏み込めば力を吸い取られそうな感触がある。

(……相性、最悪だな)

心の中で苦笑する。

ステータスでも分かっていた。ダート適性F。つまり、ほぼ適性なし。

それでも、ここで走らないわけにはいかない。

「位置についてー……」

整列する。

周囲のウマ娘たちが、わずかに前傾姿勢になる。脚に力を溜めているのが、空気越しに伝わってくる。

「よーい……」

静寂。

「ドン!」

その瞬間、世界が弾けた。

速い。

一歩目から、違う。

爆発的な加速。地面を蹴る音が、連続する雷鳴のように響く。

私は一瞬遅れてスタートを切った。

「っ……!」

遅い。

体が前に出ない。

脚が重い。地面に力を伝えきれない。

前を走る背中が、一瞬で遠ざかる。

(分かってた、けど……これは)

予想以上だった。

短距離型、マイル型。

その違いが、これほどまでに顕著に出るとは思っていなかった。

だが――

(落ち着け)

頭の中で、もう一人の自分が冷静に告げる。

(これは“戦い”じゃない。ただの確認だ)

視線を前に向ける。

先頭争いをしている数人の動きを観察する。

腕の振り。

脚の回転。

呼吸のリズム。

(……速いけど、粗い)

無駄な力み。

序盤からの全力加速。

持久を無視した走り。

(短い距離なら、それでいい)

でも。

(長くなったら、崩れる)

私は一歩ずつ、確かめるように走った。

速くはない。

だが、崩れない。

自分の呼吸を保ち、フォームを維持する。

地面を“蹴る”のではなく、“押す”感覚。

結果。

最下位ではなかったが、下から数えた方が早い順位でゴールした。

「え、あれで主席?」

「マジで? ちょっと期待外れじゃない?」

「勉強だけの人っぽいよねー」

声が飛ぶ。

耳に届く。

全部、聞こえている。

それでも。

「……まあ、いいか」

私は小さく呟いた。

悔しさは、ある。

胸の奥がじわりと熱くなる。

でもそれ以上に、確信があった。

(私はここじゃない)

この距離、この環境。

ここでは、私は弱い。

だが。

(長ければ、違う)

その確信だけが、静かに燃えていた。

帰り道。

私は人の流れから外れ、一人別の方向へ歩いた。

向かう先は決まっている。

あの場所だ。

バブルの残骸。

未完成のレース場。

柵は錆び、スタンドは崩れかけ、誰もいない。

それでも、ここには確かに“コース”が残っている。

長い。

とにかく長い。

「……やっぱり、ここだ」

私はゆっくりと息を吐いた。

ここなら、誰も邪魔しない。

ここなら、距離を気にしなくていい。

「姉ちゃん、準備いいよ」

弟がタイマーを構えている。

「うん、お願い」

スタートラインらしき場所に立つ。

誰もいない。

観客も、ライバルもいない。

あるのは、風と、自分だけ。

「……よし」

踏み出した。

最初はゆっくり。

体を慣らすように。

一周。

呼吸は安定している。

二周。

脚に少しずつ重さが乗る。

三周。

「……っ」

肺が焼ける。

空気が足りない。

それでも。

(まだ、いける)

ペースを崩さない。

無理に上げない。落とさない。

ただ一定に。

四周。

世界が、少しだけ変わる。

音が遠くなる。

代わりに、自分の鼓動がはっきりと聞こえる。

ドクン。

ドクン。

足音と重なり、リズムになる。

(これだ)

五周。

苦しさは消えない。

だが、支配できる。

六周。

体が軽くなる。

錯覚ではない。確かに、軽い。

「……これが」

私は走りながら、笑った。

「私の距離だ」

走り終えたとき、私は地面に手をついていた。

息は荒い。汗が止まらない。

それでも、心は妙に静かだった。

「遅いけどさ」

弟が言う。

「なんか……すごかったよ」

「でしょ」

私は顔を上げて笑った。

速さでは負けている。

それは事実だ。

でも。

「私、長いほうが強いから」

夕焼けが、コースを赤く染める。

誰もいないスタンド。風だけが吹き抜ける。

ここはまだ、何も始まっていない場所。

だからこそ。

「――ここから、全部ひっくり返す」

その言葉は、小さく、しかし確かに世界に刻まれた。

この日。

“速くない主席”は、笑われた。

だが同時に。

誰にも知られない場所で、

誰にも理解されない才能が、静かに目を覚ました。

長距離という、孤独な王の資質が。

ゆっくりと。確実に。

牙を研ぎ始めていた。




書きだめをしていたのでもうすこしだせます
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