ナンバーワン戦隊ゴジュウジャーVSゴーストコンサート : missing Songs ユニバースライダー大戦 作:ボルメテウスさん
寺の本堂に、朝の光が渗んでいた。
窓から差し込む白い光が、古い畳の上に四角い影を落とす。空気中に浮かぶ埃の粒が、光の中でゆらゆらと泳いでいる。静かだ。無人の本堂には、何の音もない。――いや、正確にはほんの少しだけある。
縫蘇霊獣の小さな物音だ。
床を這う足音。カサカサと軽い音が、畳の上を移動している。時々、ぴょこんと何かが跳ねる音が混じる。小さい生き物が小さく動いている音。それだけが、本堂の空気を揺るがしていた。
俺は本堂の隅に座り込んでいた。背中を柱に預けて、膝を立てる。野良犬の定位置。ええ、わかってますよ。隅っこがお似合いですよ。何度も言うな。
目の前の光景を、ぼんやりと眺めていた。
瑠衣がいた。
本堂の中央あたりに、一人で立っている。市川瑠衣。小柄な体。朝の光の中で、細い輪郭が逆光になっている。じっとしているように見える。だが俺にはわかった。こいつは何かを始めようとしている。
呼吸だ。
ゆっくりとした呼吸。肩が上がり、下がる。腹式呼吸だ。歌う前の準備。発声練習の前の儀式みたいなもんだ。俺は歌わねえから詳しくは知らねえが、雰囲気でわかる。こいつは声を出そうとしている。
縫蘇霊獣が瑠衣の足元でカサカサ動いた。小さな体が瑠衣の裸足の横を通り過ぎる。瑠衣は動かなかった。足元の生き物に気づいているはずだが、呼吸に集中している。
吸って、吐いて。吸って、吐いて。
三度目の呼吸の後、瑠衣が口を開いた。
声が出るかと思った。
だが。
出なかった。
口が開いた瞬間、瑠衣の喉が微かに動いた。声にならない空気が漏れかけた。だが、それが形になる直前、瑠衣が息を止めた。ぐっと唇を閉じる。喉の筋肉が引き締まる。声を、引っ込めた。
(……)
俺は柱に背中を預けたまま、その様子を見ていた。瑠衣の右手が、自分の喉に触れた。指先だけ。軽く。まるで喉の様子を確かめるみたいに。それから手が下がる。瑠衣の目が伏せられた。長い睫毛が、頬に影を落とす。
迷っている。
声を出そうとして、出せなかった。いや、出さなかった。どっちかはわからねえ。外からじゃ区別がつかねえ。だがあの手の動き、あの伏せた目。あれは、出せなかったんじゃねえ。出さなかったんだ。何かが、瑠衣の声を止めた。
瑠衣はそのまま、ゆっくりと目を開けた。
そして何事もなかったかのように、足元の縫蘇霊獣の方へ向き直った。しゃがみ込む。小さな生き物に餌をやる。世話をする。日常の動作に戻る。
歌うことを、やめた。
俺は何も言わなかった。野良犬は余計なことを吠えねえ。今はその時じゃねえ。
* * *
本堂の隣にある台所に、違う音が漂っていた。
卵が焼ける音だ。
フライパンの上で、卵の液がジュワジュワと音を立てている。白い湯気が立ち上り、古い台所の天井まで届きそうになる。油の匂いが鼻をくすぐる。
禽次郎がいた。
猛原禽次郎。軽快な身のこなし。人懐っこい笑顔。朝からヘラヘラしている。エプロンをつけている。なぜか寺にエプロンがあった。誰のものかは知らねえ。だが禽次郎が着けている。サイズが合っていねえ。少しきつい。だがこいつは気にしていないみたいだ。
「おっ、いい感じに焼けてきてるぞー」
禽次郎がフライパンを覗き込んだ。箸で卵の端を持ち上げる。下の方がきつね色になっている。いい焼き色だ。こいつ、意外と料理ができる。へらへらしている割には、手が止まらねえ。手際がいい。
「味見、味見~」
禽次郎が焼けた端っこをちぎって、口に入れた。もぐもぐする。
「うん、塩加減はこんなもんかな。まあ瑠衣さんに最終チェックしてもらうか」
禽次郎は自然に瑠衣の名前を出した。歌のことには触れない。さっき本堂で瑠衣が声を出さなかったこと。それに気づいているのか気づいていないのか。こいつはたぶん気づいている。気づいた上で、触れない。そういう男だ。
俺は台所の入り口の柱に寄りかかっていた。野良犬は入り口あたりがお似合いですよ。ああしつこいって。
禽次郎が俺の方を見た。
「吠先輩も座ってたら? 朝ごはんまだでしょ」
「……別に」
「別に、は肯定と受け取りますよー」
禽次郎がにやりと笑った。生意気なガキだ。だが嫌な気配じゃねえ。こいつの笑顔には、人を安心させる成分が混ざっている。不思議なガキだ。
瑠衣が台所に入ってきた。
縫蘇霊獣の世話を終えたのだろう。手を洗った後なのか、指先が少し濡れている。台所の入り口で立ち止まった。中に禽次郎がいるのを見て、一瞬だけ足が止まった。
(ああ、この間の空気)
俺は敏感に察した。瑠衣は禽次郎と顔を合わせるのが少し苦手かもしれない。さっきの発声のことがある。声を出そうとして出せなかった自分を、誰かに見られたくない。そういう心理だ。だが禽次郎は本堂にはいなかったはずだ。見ていない。知らないはずだ。だが瑠衣は、知っている人間の前で声が出ない自分を晒すのが怖いんだ。
「あ、瑠衣さん! おはよー!」
禽次郎が振り返った。明るい声だ。朝の光みたいに明るい。めったに曇らない笑顔で、フライパンを掲げて見せる。
「ちょうど厚焼き卵焼いてたんですよ。味見、手伝ってくれます? 吠先輩の味覚は当てにならないんで」
「……なぜ俺の名前が出る」
「だって吠先輩、こういうの適当に『うるせえ』って言って食べるだけでしょ。味の感想とか出てこないタイプでしょ」
ぐさ。ちょっと刺さった。実際そうだからタチが悪い。
瑠衣が、少しだけ表情を緩めた。微かに。本当に微かにだが、口元が和んだ。禽次郎のペースだ。こいつのペースに乗せられると、張り詰めていた空気が緩む。不思議な才能だ。
「……おはよう」
瑠衣が言った。小さな声だ。だがちゃんと届いた。短い返事。それだけ。だがそれで十分だった。
禽次郎が頷いた。
「はい、おはようございます。ささ、どうぞどうぞ。ここ立ってください」
禽次郎が場所を譲った。フライパンの前に。瑠衣の方へ。
瑠衣が、一歩踏み出した。もう一歩。そして禽次郎の隣に立った。フライパンの前に。卵の湯気が、二人の間に漂う。
「……どうすれば」
「あ、卵の焼き加減見てくれればいいんですよ。もう一回巻こうと思ってるんで、箸持ってくれます?」
禽次郎が箸を差し出した。自然に。何の気負いもなく。歌のことには一言も触れない。「さっき声出そうとしてたじゃん」とも「歌えなくなったの?」とも言わない。ただ卵を巻く手伝いをしてくれと、それだけを頼む。
瑠衣が箸を受け取った。
指先が少し震えていた。だが箸を握る手は、しっかりしていた。禽次郎の隣に立って、フライパンの中の卵を見つめる。
「巻きますね。箸で端を持っててください」
禽次郎が言った。瑠衣が頷く。短く、一回だけ。二人の動きが重なる。禽次郎がフライパンを傾け、瑠衣が箸で卵の端を押さえる。ゆっくりと、卵が巻かれていく。
「いいすね、その感じ。上手いです」
「…… just これくらい」
「謙遜しないでくださいよ。吠先輩にやらせたら卵が発射される可能性ありますから」
「……俺を何だと思ってんだ」
「野良犬でしょ」
瑠衣が、少しだけ笑った。
本当に少しだけ。口元が和んだだけ。だが本堂で伏せていた目が、今はフライパンを見つめている。迷いはまだある。喉に触れた指先の感覚は、まだ消えていないはずだ。だが、その手は今、箸を握っている。卵を巻いている。隣に禽次郎がいる。何も聞かない。何も言わない。ただ卵を焼く。
沈黙があった。
だが、気まずくねえ。卵が焼ける音が、湯気が、二人の間の沈黙を埋めている。朝の光が台所を照らしている。縫蘇霊獣がどこからかカサカサと這ってきて、禽次郎の足元で止まった。小さな生き物が、二人の足元で丸くなる。
「次、味見しましょうか。焼けたんで」
禽次郎が巻き終わった卵をフライパンの上で転がした。きつね色の表面が、朝の光を浴びてつやつやと光っている。
「瑠衣さん、切ってくれます? 味見用に」
「……うん」
瑠衣が箸で卵を切り分けた。四等分。一つを小皿に取る。箸で持ち上げて、少し冷ます。湯気が立ち上る。
「……あつ」
「熱いから気をつけて。ふーふーしてから食べてくださいね」
禽次郎が自分の分も取った。ふーふーと息を吹きかける。子供みたいだ。こいつ、高校生だよな。ほんとに高校生だよな。
瑠衣が卵を口に入れた。
もぐもぐと、咀嚼する。表情が変わる。少し目を丸くした。
「……おいしい」
「でしょ! 自分で言うのもなんですけど、うちの卵焼きはいけますよ」
「……味付け、何を使ったの」
「それは企業秘密です」
「……教えて」
「え、ここまで食べてから交渉くるんですか。さすが瑠衣さん、食い意地張ってますね」
「……張ってない」
「はいはい、教えます教えます。まず出汁なんですけど――」
禽次郎が話し始めた。出汁の種類、砂糖の分量、火加減のコツ。どうでもいいことだ。だがそのどうでもいい話が、台所の空気をふにふにと柔らかくしている。
瑠衣が、もう一切れ卵を口に入れた。
手元が、落ち着いていた。
さっきまでの迷いが、少しだけ薄くなっている。消えたわけじゃねえ。喉に触れた指先の記憶は、まだどこかに残っているはずだ。だが今、この瞬間は、箸を握る手が安定している。
(ふん)
俺は柱に寄りかかったまま、二人の背中を見ていた。
禽次郎は歌のことに触れなかった。一言も。瑠衣が声を出せなかったことを知っているのか知らないのか。たぶん知らない。だがもし知っていたとしても、同じだったろう。こいつはそういう男だ。理由を問い詰めない。代わりに卵を焼く。
(野獣にでもできるやり方だな)
俺は心の中で呟いた。言葉にしない。ただ二人の背中を見ている。朝の光が台所を照らしている。卵の匂いが漂っている。縫蘇霊獣が足元で寝ている。
静かだ。
悪くねえ朝だ。
言えるわけねえだろ。口が裂けても言えねえ。
だが心の中だけでなら、認めてもいい。
ほんの少しだけだぞ。ほんの少しだけ。
卵の匂いがまだ漂っていた。
その空気を、打ち破った。
ドン。
低い音が、境内の奥から届いた。太鼓だ。だが普通の太鼓じゃねえ。もっと重い。もっと深い。腹の底に響くような音だ。寺の古い床が、微かに振動した。フライパンの上の卵が、ふるりと揺れた。
「…なんだ?」
禽次郎が箸を止めた。明るい表情が一瞬だけ引き締まる。あの一瞬の切り替え。こいつがふざけているだけじゃねえって証拠だ。だがすぐにまた表情を戻す。へらりと。早い。切り替えが早い。そういう男だ。
ドン。ドン。
二度目。三度目。間隔が等しい。正確だ。機械じゃねえ。人間の力で叩いている。だが、人間の太鼓にしては重すぎる。まるで地響きみたいに床を伝ってくる。
瑠衣が箸を置いた。半歩、後ろに下がる。禽次郎の背中側へ。警戒している。無理もねえ。この寺は最近、ろくでもないことばかり起きてるからな。
そして、花弁が流れてきた。
桜だ。
風がねえ。
風は一切吹いてねえ。台所の窓から外を見た。境内の木々が一本も揺れていない。なのに桜の花弁が流れてくる。山門の方から。淡いピンク色の花弁が、まるで目に見えない風に乗せられて、境内を横切って本堂の方へ流れていく。
(嫌な予感がする)
野良犬の本能が吠えた。俺の本能は大体当たる。ロクなことがねえ時によく吠えるからだ。今回は特に鋭い。
「瑠衣さん、ちょっと下がってて」
禽次郎が言った。声は明るい。だが目は笑っていない。ふざけた態度の奥に、真剣な目がある。こいつはそういう男だ。明るさで空気を変える。だがその明るさの下で、ちゃんと見ている。
瑠衣が頷いた。短く、一回。そしてもう半歩下がった。禽次郎の背中に隠れるような位置だ。
太鼓の音が止まった。
花弁が止まった。
同時に。まるで音も花も、何かの合図を待っていたかのように。境内に静寂が落ちた。完全な静寂。鳥の声も、虫の音も、風の音も。全部が止まった。
その静寂の中央に、奴がいた。
山門の下。桜の花弁が散り敷いた石畳の上。そこに、一人の人影が立っていた。
小柄だ。
少年だ。いや、少年に見える。高校生くらいの体格。だが雰囲気が違う。あの立ち方。あの姿勢。ただ立っているだけだ。だが、ただ立っているだけの中に、何十年分もの時間が染み込んでいるような立ち方だ。
(何だこいつ)
俺は柱に寄りかかったまま、人影を眺めた。
白みのある金髪。端正に整えられている。だが頭頂の一房だけが跳ねている。跳ねた一房が、整えられた髪の中で唯一の不規則。計算された不規則だ。鮮やかな緑色の瞳。まるで宝石みたいに透明な目だ。
服装が派手だ。深緑の金縁マント。白いフリルシャツ。黒い半ズボン。膝下までの白い靴下。整った顔立ちと相まって、まるで時代劇の貴公子みたいな格好だ。古風で華やか。現代の高校生が着る服じゃねえ。
花弁が、奴の足元に散り積もっている。風もねえのに散った花弁の上に、奴は静かに立っていた。音が止まってから姿を見せた。演出だ。わざとだ。こいつは自分の登場にこだわるタイプだ。面倒くせえ奴が来た。
「おはようございます」
奴が言った。声が綺麗だ。透き通るような声だ。だがその声の中に、年齢の重なりが感じられる。若い声じゃねえ。若い声を演じている古い声だ。
「よい朝ですね。卵の匂いがして、つい足が向いてしまいました」
にこりと笑った。穏やかな笑みだ。だが目が笑っていない。鋭い。緑色の瞳が、台所の中をゆっくりと舐めるように見渡している。俺を見た。一瞬だけ。それから禽次郎を見た。そこで目が止まった。
(止まった?)
禽次郎を見て、目が止まった。興味。純粋な好奇心みたいな光が、緑色の瞳の中に浮かんだ。
「初めまして。鬼崎音弥(おにざき・おとや)と申します」
奴が名乗った。恭しく、頭を下げる。マントの裾が、花弁の上を掠めた。
「元音楽家でして。今は…そうですね、隠居のようなことをしております」
音楽家。鬼崎音弥。聞いたことのねえ名前だ。だが俺は音楽界のことなんて何も知らねえ。知らねえ名前が出ても判断がつかねえ。
禽次郎が前に出た。一歩だけ。瑠衣がその半歩後ろにいる。禽次郎の背中から、瑠衣の肩が少し見えている。
「あ、どうも。猛原禽次郎です。こっちは市川瑠衣さん。で、奥の柱にいるのが吠先輩」
「うるせえ。勝手に紹介すんな」
俺が柱の陰から低く言った。音弥の視線が俺に向いた。一瞬だけ。だがすぐに禽次郎に戻った。やっぱりこいつ、禽次郎に興味がある。
「鬼崎さん、でしたっけ。元音楽家って、どんな音楽を?」
禽次郎が聞いた。明るい声だ。へらりと笑って。だが俺にはわかる。こいつの明るさの下で、目が動いている。音弥の立ち方、視線、服装、声。全部を観察している。軽い態度の奥で、慎重に来訪目的を探っている。
「ピアノを。作曲を。色々とやっておりました。もう昔の話ですが」
音弥が言った。優雅に。まるで昨日の天気の話をするみたいに軽く。
「それで、寺に何かご用ですか? ここ、あんまり観光地じゃないんですけど」
禽次郎が笑ったまま聞いた。核心を、柔らかい声で包んでいる。上手い。こいつはこういうのが上手い。
音弥が微かに首を傾げた。マントの金縁が朝の光を反射して、ぎらりと光った。
「用事、というほどのものではありません。ただ、良い音が聞こえたもので」
「良い音?」
「太鼓の音ですよ。私が叩いたのですが、この境内に響く音がとても美しくて。つい長居をしてしまいました。失礼しました」
音弥が花弁の上を歩いた。一歩ずつ。ゆっくりと。歩く姿が奇妙に滑らかだ。高校生の体格だが、歩き方が大人だ。若者の動きじゃねえ。何十年も歩いてきた人間の歩き方だ。
禽次郎がそれを見ていた。
笑みを保ったまま。だが俺にはわかる。こいつも気づいている。音弥の立ち方、歩き方、視線の動かし方。全部が若者らしくねえ。高校生の皮を被った何か別のものがいる。禽次郎はそれを見抜いている。だが問い詰めない。笑みで包んで、探りを入れている。
(似てるな)
俺は思った。こいつら、似ている。禽次郎の明るさの下に隠しているものと、音弥の優雅さの下に隠しているもの。形は違うが、やっていることは同じだ。何かを隠して、何かを探って、表面上は挨拶をしている。
音弥が台所の前に立った。花弁の散った境内から、一段高い位置へ。マントの裾を払って、禽次郎を見た。目線が同じくらいだ。小柄な音弥と、軽快な禽次郎。身長は近い。
「ところで猛原さん。あなた、いくつですか?」
音弥が聞いた。唐突に。だが穏やかに。笑みを崩さずに。
「高校生ですよ。十八でーす」
禽次郎が答えた。にこやかに。嘘をついているようには見えねえ。多分本当だ。
「十八。若いですね」
音弥が言った。羨む声じゃねえ。もっと複雑な響きだ。懐かしさと、諦めと、それから少しの興味が混じった声。
「私も、この姿だと同じくらいに見えますが」
「え、見えないっすか? めっちゃ高校生に見えますけど」
「ありがとうございます。そう言っていただけると嬉しい」
音弥が微笑んだ。整った顔立ちが、さらに整って見えるくらい綺麗な笑みだ。だがその笑みの端に、ほんの一瞬だけ、老人めいた影が差した。
「ですが、実を申しますと」
音弥が一つ、息を吐いた。白い息だ。朝の冷気の中に、小さな白い雲が浮いて消えた。
「私は、今年で八十二になります」
台所の空気が、止まった。
禽次郎の箸が止まった。笑みは保たれている。だが目が一瞬だけ硬くなった。八十二。その数字が、若い姿と整合しねえ。整合しねえが、音弥の目は嘘をついていない。八十二年分の時間が、あの緑色の瞳の奥に沈んでいる。
瑠衣が、禽次郎の背中の後ろで、小さく息を呑んだ。
俺は柱に寄りかかったまま、音弥を見た。八十二。こいつ、八十二歳だと。見た目は高校生だ。だが立ち方、歩き方、声の響き。全部が辻褄が合う。八十二年分の時間を、若い体に詰め込んでいる。だからあの立ち方に年輪が感じられるんだ。
「八十二…」
禽次郎が呟いた。笑みを保ったまま。だが声のトーンが変わった。明るさの中に、一つ下の音が混じった。真面目な音だ。
「それ、冗談っすか?」
「冗談であればよいのですが。残念ながら事実です」
音弥が言った。穏やかに。余裕を崩さずに。だがその余裕の中で、緑色の瞳が禽次郎を真っ直ぐに見ている。
「あなたのように、見た目と中身が食い違っている人間は珍しい。だから聞いてみたくなりました」
食い違っている。音弥はそう言った。禽次郎の見た目と中身が食い違っている。軽い態度の奥に、真面目すぎる自分を隠している。音弥はそれを見抜いた。見抜いた上で、自分と同じ種類の人間だと感じ取ったんだ。
禽次郎の笑みが、少しだけ変わった。
いつものへらりとした笑みじゃねえ。もう一つ奥の、真面目な目が見える笑み。へらへらしてるだけじゃねえよ、って前に言っていた時の顔だ。
「鬼崎さん、でしたっけ。あんた、何しにここへ来たんです?」
禽次郎が聞いた。声は明るい。だが目は笑っていない。
「良い音が聞こえた、って言ってましたけど。それだけっすか?」
音弥が、微かに目を細めた。楽しそうだ。本当に楽しそうに、禽次郎を見ている。
「面白い子だ」
音弥が言った。微笑んだまま。
「警戒しているのに、声は明るい。探っているのに、笑顔を崩さない。自分の時間のずれを隠しているのに、他人の時間のずれには気づく」
言い当てられた。禽次郎の表情が、ほんの一瞬だけ固まった。だがすぐに戻る。早い。やっぱり早い。
「あはは、何すかそれ、褒め言葉として受け取っていいやつっすか?」
「褒め言葉ですよ。同類を見つけるのは、久しぶりなもので」
同類。音弥はそう言った。禽次郎と自分を同類だと。見た目と中身が食い違った人間。時間のずれを抱えた人間。
「だからこそ、興味があるのです」
音弥が一歩近づいた。花弁が、奴の足元でふわりと舞った。風はねえ。だが花弁が舞った。
「猛原禽次郎くん。あなたという人間を、もう少し知りたくなりました」