ナンバーワン戦隊ゴジュウジャーVSゴーストコンサート : missing Songs ユニバースライダー大戦 作:ボルメテウスさん
翌朝の寺は、少しだけ軽かった。
黒い潮霧はもうない。石畳に濡れた足跡も残っていない。昨日まで黒く脈打っていた封蝋は砕け、布に包まれて雪庭の部屋に収められている。境内の端には、戦いの名残のように欠けた石がいくつか残っていたが、朝日はそれさえも乾かしていた。
鳥の声がする。
箒が石畳を擦る音もする。
それだけで、昨日の出来事が遠くへ行ったように感じる。けれど、消えたわけではない。消えたのではなく、ここで生きている人たちの日常の中へ、静かに沈んだのだと角乃は思った。
縁側に腰を下ろしていると、瑠衣が茶を持ってきた。
歩き方はいつも通り静かだった。盆の上の湯呑みも揺れない。ただ、茶を置く時、瑠衣はほんの少し顔を上げた。角乃の目を見るほどではない。けれど、以前のようにすぐ下を向くのではなく、そこにいる相手を確かめるような間があった。
「ありがとう、市川さん」
角乃が言うと、瑠衣は小さく頷いた。
「……どうぞ」
たったそれだけの返事だった。けれど、昨日までの沈黙とは違う。声を使うことを、少しだけ自分で選んでいるように聞こえた。
境内では遊真が伸びをしていた。昨夜泊まったというより、いつの間にか寺の朝に混ざっていたという方が近い。彼はまだ眠そうな目をこすりながら、きょろきょろと周囲を見回している。
「昨日、あんなに霧だらけだったのに、朝になると普通なんだな」
「そういうものだよ。大変なことがあった次の日でも、お腹は空くし、掃除もある」
陸王がのんびりと言う。
「寺の朝ってのは忙しいんだよ」
吠が箒を持ったまま横から口を挟んだ。
「吠兄ちゃん、寺の人みたいな言い方してる」
「誰が寺の人だ」
「でも馴染んでるじゃん」
「馴染んでねえ」
「まあまあ、吠っちもすっかり馴染んできたということだね」
禽次郎が笑いながら茶菓子を摘む。吠は何か言い返そうとしたが、瑠衣がその横に黙って新しい布巾を置いたため、言葉を飲み込んだ。
遊真の前にも、瑠衣が茶と菓子を置く。
「あ、ありがと、瑠衣姉ちゃん」
瑠衣は少しだけ遊真を見た。
「……うん」
それだけで、遊真の顔がぱっと明るくなる。大げさな反応ではないが、彼には十分だったのだろう。
角乃は湯呑みを手に取りながら、そのやり取りを眺めた。
事件が終わった証拠は、敵が倒れたことではなく、こういう小さな変化の中にある。誰かの名前が、昨日より少し自然に呼ばれること。呼ばれた相手が、それに応えること。派手ではないが、探偵の目には十分すぎる結末だった。
片づけが一段落した頃、遊真が縁側の角乃を呼び止めた。
「角乃姉ちゃん、ちょっといい?」
「何かしら。手品の再挑戦なら、タネは三つくらい先に見えているけれど」
「まだ何もしてないだろ!」
「あなたの視線が袖口へ行ったわ」
「探偵ってほんとズルいな……」
遊真は悔しそうに唇を尖らせたが、今日はそれ以上ふざけなかった。彼の手には、小さなライドウォッチが握られている。
ウィザードのライドウォッチ。
角乃はそれに視線を落とし、すぐには手を出さなかった。
「これ、預かってほしい」
「ウィザードのライドウォッチね」
「うん」
遊真はライドウォッチを両手で持った。軽く扱ってはいない。自分の大事なものだと、指先の力の入り方で分かる。
「オレ、昨日分かったんだ。待つの苦手だし、すぐ突っ込むし、力があるからって上手く使えるわけじゃない。危ないこともした」
「それを理解できたなら、十分前進よ」
「でも、真実を知るのは諦めない」
遊真は顔を上げた。
その目は、昨日寺へ忍び込んできた時と同じようで、少し違っていた。好奇心だけではない。怖いものを見た後でも、その先を知ろうとする覚悟が混ざっている。
「争奪戦が何のために始まったのか、絶対に調べる。幼馴染も親友も巻き込まれたんだ。知らないまま終わらせたくない」
「でしょうね。あなたはそういう目をしている」
「だから預ける」
遊真はウィザードのライドウォッチを差し出した。
「角乃姉ちゃんなら、勝手に奪ったりしないだろ。銭山みたいに、誰かの力を自分のものみたいに扱ったりもしない。必要な時に、ちゃんと使ってくれると思ったから」
角乃はライドウォッチを見た。
銭山は「預かった」と言った。けれど、それは相手の意思を塗り潰す言葉だった。今、遊真が言った「預ける」は違う。自分で決めて、自分の大事なものを誰かへ一時的に託す。手放すのではなく、信じて置く。
「これは戦利品ではないわね」
「うん。預け物」
「なら、預かるわ」
角乃はようやく手を伸ばし、ウィザードのライドウォッチを受け取った。
「あなたの夢と宿題ごとね」
「宿題?」
「争奪戦の真実を知ること。世界一のマジシャンになること。その両方を、他人任せにしないこと」
「うわ、宿題多いな」
「ハイクラスな宿題よ」
「それ、絶対難しいやつじゃん」
「当然でしょう」
遊真はむっとした顔をしたが、すぐに小さく笑った。安心したような、でも少し悔しいような顔だった。
その時、少し離れたところで瑠衣が立ち止まっているのに、角乃は気づいた。
瑠衣は何かを持っていた。片づけ途中の布巾だろう。けれど、手は止まっている。視線は、角乃の手の中のライドウォッチに向いていた。
「……預ける」
瑠衣が呟く。
遊真が振り返った。
「うん。あげるんじゃなくて、預ける。オレ、ちゃんと強くなって、またこれを使えるくらいになるから」
瑠衣は少し考えるように瞬きをした。
「……自分で、決めた?」
「当たり前だろ。自分の大事な力だし」
「……そう」
瑠衣は小さく頷いた。
その短いやり取りで、何かが彼女の中を通っていったのが分かった。かつて彼女は、誰かに買われ、誰かの代わりとして差し出され、名前も役割も勝手に決められた。そこには本人の意思などなかった。
けれど、今の遊真は違う。自分で決めた。自分の大事な力だと知ったうえで、預けた。
角乃はライドウォッチを握る手に、少しだけ力を込めた。
この預かり物を、間違えないように扱わなければならない。探偵としてではなく、一人の大人として。
昼前、瑠衣は雪庭へ茶を出した。
いつもの動作だった。湯呑みを盆に載せ、静かに運び、雪庭の前に置く。けれど、置く時の手は震えていない。昨日のような黒い潮霧も、封蝋の脈動も、悪意ある呼び名も、今はここにはない。
雪庭は湯呑みを受け取り、瑠衣を見た。
「瑠衣」
「……はい」
たったそれだけだった。
けれど、角乃には分かった。昨日クラウスが一度も呼ばなかった名前。花嫁、偽物、買われた者。そんな言葉の代わりに、雪庭はいつも通り瑠衣と呼んだ。
そのいつも通りが、今は何より強い。
「無理はしていないか」
雪庭が問う。
瑠衣は少しだけ視線を落とし、それから答えた。
「……少し」
「そうか」
「でも……大丈夫」
雪庭は否定しなかった。本当に大丈夫なのかと問い詰めもしない。瑠衣が自分で言った言葉を、そのまま受け取った。
「なら、今日はそれでいい」
瑠衣は頷いた。
その後、瑠衣は寺で使う小さな札を整理し始めた。
湯呑みや道具の置き場を示す札だ。古くなったものを新しく書き直すのだと、芹亜が教えてくれた。瑠衣は筆を取り、墨を含ませる。角乃は少し離れて見ていた。
瑠衣の手が、一枚の札の前で止まった。
そこには何も書かれていない。真新しい木札だ。
瑠衣は少しだけ迷った後、筆を下ろした。
ゆっくりと、丁寧に、文字が書かれていく。
市川瑠衣。
それは名乗りでも、証明でもない。寺の道具の札に書く、日常の中の小さな文字だった。けれど、昨日「その名を名乗るな」と言われた彼女が、今日、自分の手でその名前を書いた。
遊真が横から覗き込む。
「お、字うまいな」
「覗くな、ガキ」
吠がすぐに突っ込む。
「ガキじゃないって!」
遊真が言い返すと、瑠衣が彼を見た。以前なら目を逸らしていただろう。けれど、今は少しだけ視線を合わせた。
「……市川瑠衣」
遊真は一瞬きょとんとした。
それから、笑う。
「うん。瑠衣姉ちゃんだ」
瑠衣は筆を置き、書いた名前を見た。
「……私の、名前」
角乃は、その言葉を聞いた。
クラウスを倒した時よりも、封蝋が砕けた時よりも、今の方が事件の終わりに近い。名前を奪おうとした事件は、名前を取り戻すことで終わる。誰かに宣言するためではない。自分がそう思えるようになるために。
「いい名前ね」
角乃が言うと、瑠衣が顔を上げた。
「昨日、あなたが守った名前よ」
瑠衣は少し考え、静かに頷いた。
「……はい」
その声は小さいままだったが、沈んではいなかった。
昼を過ぎる頃、遊真は一度寺を出ることになった。
完全に別れるわけではない。彼は争奪戦の真実を追うために、また調べることがあるらしい。寺に残りたい気持ちと、動きたい気持ちの間でしばらく揺れていたが、最後には自分で決めた。
「角乃姉ちゃん、ちゃんと預かっててよ」
遊真が言う。
「当然よ。預かり物を粗末に扱う探偵はいないわ」
「あと、勝手にタネ見抜くの禁止な」
「それは無理ね」
「即答!?」
「見えてしまうものは仕方ないわ」
「やっぱ探偵ってズルい」
「マジシャンほどではないわ」
遊真は不満そうに口を尖らせたが、すぐに笑った。そこへ、瑠衣が小さな包みを持ってきた。
「……帰り道」
「え、これオレに?」
包みの中には茶菓子が入っていた。遊真は両手で受け取り、顔を明るくする。
「ありがと、瑠衣姉ちゃん」
瑠衣は少しだけ彼をまっすぐ見る。
「……市川瑠衣」
遊真は一瞬だけ目を丸くし、それから元気よく頷いた。
「うん。市川瑠衣姉ちゃん」
「……長い」
「あ、確かに」
そのやり取りに、縁側の空気が少しだけほどけた。吠が呆れたように息を吐き、陸王が笑い、禽次郎が「若いねえ」と頷く。
角乃はその様子を見て、手の中のウィザードのライドウォッチへ視線を落とした。
預けた力。
受け取った名前。
どちらも、誰かが勝手に奪うものではない。自分で決めて、誰かに託し、あるいは自分の中へ抱き直すものだ。
「預けた力と、受け取った名前。悪くない結末ね」
「また探偵っぽいこと言ってんな」
吠が言う。
「探偵だもの」
「しかもハイクラス」
陸王が付け足すと、角乃は当然のように顎を上げた。
「分かっているじゃない」
瑠衣は寺の中へ戻っていく。
足取りは大きく変わったわけではない。声が急に増えたわけでも、笑顔が多くなったわけでもない。ただ、少しだけ顔が上がっていた。
縫蘇霊獣たちがその後を追う。木札は棚の上に置かれ、まだ乾ききっていない墨で、はっきりと名前を刻んでいる。
市川瑠衣。
その文字は、朝の光を受けて静かにそこにあった。