ナンバーワン戦隊ゴジュウジャーVSゴーストコンサート : missing Songs ユニバースライダー大戦   作:ボルメテウスさん

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大奥の大騒動

 大奥の廊下は、静かすぎた。

 

 足音が吸い込まれるんじゃなく、逆に全部拾われる。畳の上に乗せた足の重さ、衣の擦れる音、息を吐く間。そういうものが、廊下の奥に並んだ行灯の灯りにまで見られている気がする。

 

 金色の襖をくぐった先にいた女中たちの影は、全員が同じ角度で頭を下げた。

 

 動きが揃いすぎている。

 

 人間なら一人くらい遅れたり、袖が揺れたり、目線が逸れたりするはずだ。なのにこいつらは、まるで大奥って場所そのものが人の形をして並んでるみたいだった。

 

「お声を、お控えくださいませ」

 

 先頭の女中の影が言った。

 

「まだ何も言ってねえだろ」

 

「吠さん、今の声です」

 

 芹亜が小声で突っ込む。

 

「これでかよ」

 

「大奥では声も足音も品格の一部よ」

 

 角乃は、もう完全に馴染んでいた。袖を軽く揃えて、背筋を伸ばして、足音ひとつ立てない。こういう時だけ無駄に強い。

 

「息も詰まるわ」

 

「お息は、静かに」

 

「息までかよ!」

 

 女中たちの影が、一斉にこっちを見た。

 

 畳の上の空気がぴんと張る。俺は口を閉じた。閉じたはずなのに、陸王が横で肩を揺らしている。

 

「吠君、入って十秒で三回注意されてるよ」

 

「数えるな」

 

「……早い」

 

 瑠衣まで小さく言った。

 

「瑠衣まで言うな」

 

 瑠衣は縫蘇霊獣を抱えたまま、すっと目を逸らした。逃げ方がうまくなってる。前なら何も言わなかったのに、最近は短い言葉で刺してから何食わぬ顔をする。成長って、こういう方向にも進むのかよ。

 

 廊下の奥から、香の匂いが流れてくる。

 

 甘いのに、どこか乾いている匂いだった。寺の線香とは違う。ここでは祈るためじゃなく、空気の形を整えるために焚かれている気がした。俺の呼吸だけが、その形からはみ出している。

 

「歩幅は半歩。床を鳴らさず、お進みくださいませ」

 

 女中の影が淡々と言う。

 

「半歩って何だ。歩いてねえだろ、それ」

 

「あなたの場合、一歩が大きすぎるのよ」

 

 角乃が俺の足元を見た。

 

「足があるんだから使うだろ」

 

「ここは獣道ではないわ」

 

「またそれかよ」

 

 俺は足を小さく出した。

 

 衣が足に絡む。帯が腹を締める。肩に力が入る。自分でも分かるくらい動きがぎこちなくなった。廊下の行灯が揺れたわけでもないのに、光が俺だけを見て笑っているみたいだった。

 

「吠君、動きが捕まった狼みたいになってる」

 

「誰が捕まった狼だ」

 

「……罠にかかった感じ」

 

「追い打ちすんな」

 

 瑠衣の声は小さいのに、よく届く。大奥向きだな、と思ったが、口には出さなかった。言ったらまた何か刺される。

 

「まあまあ、吠っち。肩の力を抜くんだよ」

 

 禽次郎が後ろから言う。

 

「抜いたら転ぶ」

 

「転倒は無作法にございます」

 

「転ぶ前提で言うな」

 

 女中の影は顔色ひとつ変えない。顔色があるのかも怪しいが。

 

 俺は歯を食いしばって歩いた。戦う時なら、足の裏が地面を掴む感覚がある。駆ける方向、避ける距離、相手の間合い。そういうものは身体が勝手に拾う。けどここじゃ、足の裏が何も掴ませてもらえない。廊下そのものが「お前はここに合わない」と言っているみたいだった。

 

 その時、腰の方へ手が伸びかけた。

 

 癖だ。変な気配があると、王鎧武装に手が行く。触る前に止めた。なのに、廊下の影が全部止まった。

 

「武具に触れること、禁じられております」

 

「触ってねえ。触ろうとしただけだ」

 

「それを触ろうとしたと言うのよ」

 

 角乃が横目で見る。

 

「吠君、手が勝手に行くんだね」

 

「癖だよ、癖」

 

 その瞬間、廊下の奥から声が落ちてきた。

 

「癖であっても、刃は刃にございます」

 

 春日局の声だった。

 

 御簾も襖も見えないのに、声だけがまっすぐ届く。行灯の火が一度だけ細くなった。俺は手を完全に離して、袖の中に押し込んだ。

 

「いやさか。ここでは己の癖すら律せよ、ということですか」

 

 竜儀が低く言う。

 

「なかなか厳しいねえ」

 

 禽次郎の声は軽いが、目だけは廊下の奥を見ていた。

 

「……見られてる」

 

 瑠衣が言った。

 

 言われてから気づく。襖の隙間、行灯の陰、曲がり角の先。そこに目があるわけじゃねえ。なのに、視線だけがある。大奥って場所が、俺たちを測っている。

 

「吠さん、ここでは少しだけ我慢してください」

 

 芹亜がそっと言った。

 

「少しだけで済む気がしねえ」

 

「済ませなさい。あなたが一回暴れると、全員退場よ」

 

「俺を爆弾みたいに言うな」

 

「……近い」

 

「近くねえ!」

 

 女中たちがまた一斉にこっちを見る。

 

 陸王が小さく指を立てた。

 

「声」

 

「……分かってる」

 

 声を落とすと、今度は自分の息の音が気になった。面倒くせえ。息まで管理される場所なんて、長くいたら身体のどこかが錆びそうだ。

 

 控えの間に通された時には、俺の足はもう畳と喧嘩していた。

 

 金屏風が立ち、低い卓が置かれ、茶と菓子が用意されている。綺麗すぎる部屋だった。物が少ないのに、どこへ座っても作法が足りねえと言われそうな圧がある。

 

「まずは、お座りくださいませ」

 

 女中の影が言う。

 

 全員が座った。

 

 俺も座った。

 

 足がすぐ文句を言い始めた。

 

「……これ、どれくらい座んだ」

 

「まだ座ったばかりよ」

 

 角乃の声が冷たい。

 

「足がもう文句言ってる」

 

「足も吠君に似てせっかちだね」

 

「うるせえ」

 

「お言葉を、やわらかく」

 

 女中の影が即座に入る。

 

 俺は口を曲げた。

 

「……うるさくない」

 

「直し方が下手ね」

 

 角乃が茶碗を持つ手つきは妙に綺麗だった。悔しいが、隙がない。袖が畳に落ちる角度まで決まってる。こういうのは、戦いとは違う強さだ。俺には一生いらねえ強さだけどな。

 

「茶は静かに。菓子は一口で頬張らぬよう」

 

 女中の影が言う。

 

 俺は菓子を見た。

 

「一口じゃ駄目なのか」

 

「駄目です」

 

 芹亜が即答する。

 

「……駄目」

 

 瑠衣も続く。

 

「二人で言うな」

 

 禽次郎は何の苦もなく茶を飲んでいた。湯呑みを置く音すらしない。

 

「お見事にございます」

 

「いやはや、褒められると照れるねえ」

 

「何であんた馴染んでんだ」

 

「長く生きると、意外なことが役立つものさ」

 

 竜儀が深々と頭を下げる。深すぎて、もはや祈りだった。

 

「お心はありがたく。ですが、少々重うございます」

 

「いやさか……重うございましたか」

 

「竜儀君、礼が祈りになってるね」

 

 陸王が笑う。竜儀は真剣に頷いて、次は少し浅く頭を下げた。浅くしたつもりでも、やっぱり重い。あいつはあいつで大奥に向いてない。

 

 その中で、角乃だけは女中の影たちに褒められていた。

 

「一河角乃様。たいへん見事な所作にございます」

 

「当然よ。格式に合わせることは、ハイクラスの基本だもの」

 

「自分で言うな」

 

「事実は控えめにしても事実よ」

 

 芹亜も少し感心したように角乃を見ている。

 

「角乃さん、本当に自然ですね」

 

「場を読むのは探偵の仕事よ。畳の上でも事件現場でも、足跡を乱さないことが第一」

 

「作法の話か事件の話かどっちだよ」

 

「両方よ」

 

 女中たちが角乃へ頭を下げる。

 

 角乃は余裕の顔だ。

 

 俺は足を少し崩そうとした。

 

「お足」

 

「まだ何もしてねえ」

 

「……動いた」

 

「見逃せよ」

 

 瑠衣は目を伏せた。肩が少しだけ揺れた気がした。笑ったのかどうかは分からねえ。けど、そう見えた。

 

 金屏風の向こうで、衣擦れの音がした。

 

 部屋の空気が一段、固くなる。

 

 春日局が現れた。

 

 年寄りってわけじゃない。けれど、場を従わせる歳月の重みみてえなものをまとっていた。背筋は真っ直ぐで、視線は柔らかいのに逃げ道がない。あの人が歩くと、行灯の光まで少し低くなる。

 

「ようこそ、大奥へ。ここでは武も荒声も不要にございます」

 

 春日局の目が俺に向いた。

 

「何で俺を見る」

 

「理由は明白ね」

 

 角乃が小さく言う。

 

「上様の御前では、さらに慎みをお持ちくださいませ」

 

「分かってるよ」

 

「分かっているなら、もう少し声を……」

 

 芹亜が言いかける。

 

「……分かってる」

 

 今度は本当に抑えた。自分で言うのも何だが、かなり頑張った。

 

 春日局は芹亜と瑠衣へ向き直った。

 

「相葉芹亜様、市川瑠衣様。そなたらには、上様の御心を見極めていただきます」

 

「はい」

 

「……はい」

 

「ただし、御心を曲げてはなりませぬ。動かすとは、無理に押すことではございませぬ」

 

 瑠衣の指が、縫蘇霊獣の背で止まった。

 

「……押さない」

 

「ええ。押してはなりませぬ。されど、止まった心をそのままにもできませぬ」

 

 春日局の言葉は綺麗だった。

 

 けど、綺麗すぎて少し引っかかった。押すなと言いながら、止めるなとも言う。なら、どこへ進ませたいのか。誰のために進ませたいのか。

 

 芹亜も同じ場所で何かを拾ったらしい。彼女は春日局の顔を見て、すぐに目を伏せた。歌う前の息を探すみたいに。

 

 奥座敷へ通されると、空気はさらに薄くなった。

 

 御簾の向こうに人影がある。

 

 徳川家光。

 

 こっちはただの脱出係のはずなのに、妙に喉が乾いた。声を出したらまた注意される。出さなくても息が重い。畳は柔らかいのに、足元だけが硬い。

 

「上様、TERAより参りました者たちにございます」

 

 春日局が告げる。

 

 芹亜が静かに頭を下げた。

 

「相葉芹亜と申します」

 

 瑠衣も続く。

 

「……市川瑠衣、です」

 

 ちゃんと言った。

 

 俺は横目で見た。瑠衣の指は少しだけ袖を掴んでいたが、声は途中で消えなかった。芹亜がほんの少し目元を緩める。

 

 角乃がすっと前に出る。

 

「一河角乃。ハイクラス名探偵にして、ゴジュウユニコーン。失礼のなきよう努めさせていただくわ」

 

 完璧だった。

 

 たぶん。

 

 俺には細かい所作なんか分からねえが、女中の影たちが何も言わなかったから多分そうなんだろう。

 

 御簾の向こうの家光は、ほとんど動かなかった。

 

「ふむ」

 

 それだけだった。

 

 角乃の眉が、ほんの少しだけ動く。

 

「なかなか手強いね」

 

 陸王が小声で言う。

 

「もう帰っていいか」

 

 俺も小声で返したつもりだった。

 

 女中たちが一斉にこっちを見た。

 

「吠さん……」

 

 芹亜の声が刺さる。

 

 俺は口を押さえた。小声のつもりだったんだが。

 

 春日局が場を戻そうとする。角乃も、さらに丁寧な言葉を並べた。

 

「上様。大奥の静けさは、確かに美しいものです。けれど、人の心は静けさだけでは――」

 

 御簾の向こうは動かない。

 

 金屏風の光も、行灯の炎も、全部止まっているように見えた。ここにいる誰もが、正しい言葉を選んでいる。正しい角度で頭を下げて、正しい間で息をしている。

 

 そのせいで、息苦しい。

 

 口から勝手に漏れた。

 

「何なんだよここ。息が詰まる」

 

 座敷が凍った。

 

 春日局の扇が止まる。

 

「……今、何と」

 

「吠さん」

 

「小声のつもりだったんだよね」

 

 陸王がフォローになってないことを言う。

 

「小声だっただろ」

 

「……聞こえた」

 

「マジか」

 

 瑠衣の一言は容赦ない。

 

 御簾の向こうで、家光が動いた。

 

 それまで置物みたいだった影が、初めてこちらへ身を乗り出す。

 

「今のは誰だ」

 

 全員が固まった。

 

 俺は一度だけ息を吐いて、頭を下げた。

 

「……悪い。聞こえてたか」

 

 春日局の顔がほんのわずかに強張る。

 

「上様、こちらは緊急時の脱出役にございまして」

 

「脱出役」

 

 家光の声が変わった。

 

 ほんの少し、温度が乗った。

 

「面白い」

 

「何でそうなる」

 

 思わず返してしまった。

 

 また女中たちがこっちを見る。もういいだろ。見すぎだろ。

 

「誰もここで、そのようなことは言わぬ」

 

 家光は御簾の奥から俺を見ている。目が合っているのか、影越しだから分からない。けど、視線ははっきりこっちへ来ていた。

 

「言わねえ方がいいなら謝るけどよ」

 

「いや。面白い」

 

「面白くねえよ」

 

「上様、その者は攻略役ではございませぬ」

 

 春日局がすぐに入る。

 

「攻略役ではないからこそ、飾らぬのだろう」

 

 角乃が小さく呟いた。

 

「……飾らぬ?」

 

「その眼。誰にも飼われぬ獣のようだ」

 

「褒めてんのか、それ」

 

「たぶん、かなり褒めてるね」

 

 陸王が横で楽しそうに言う。

 

「やめろ」

 

「……気に入られてる」

 

 瑠衣がぽつりと言った。

 

「気に入られてねえ!」

 

 女中たちがまた一斉に見る。

 

 芹亜が口元に指を立てる。

 

「声……」

 

「……気に入られてねえ」

 

 小声で言い直した。

 

 何で俺がこんなことになってんだ。脱出係だぞ。ここにいる中で一番この場所に向いてねえ奴だぞ。角乃なんかさっきまで女中に褒められてたじゃねえか。芹亜も瑠衣も正規の攻略役だ。なのに何で御簾の奥の上様は俺を見てんだよ。

 

 春日局も同じことを思っていたらしい。

 

「上様、こちらには歌を得意とする相葉芹亜様、そして所作に優れた一河角乃様も――」

 

「うむ。美しい所作だ」

 

 角乃の背筋が、ほんの少し伸びた。

 

「だが、あの狼の者はより面白い」

 

 角乃の表情が止まった。

 

「……狼の者」

 

「俺は見世物じゃねえ」

 

「噛みつくか」

 

「噛みつかねえ!」

 

 女中たちが見る。

 

 陸王が肩を震わせる。

 

「吠君、今日はその台詞多いね」

 

「誰のせいだ」

 

「上様、そちらではございませぬ」

 

 春日局の声に、わずかな乱れが混じった。

 

「そちら、とは」

 

「その者は大奥攻略の者ではなく、万一の際の脱出係にございます」

 

「脱出係。なお面白い」

 

 春日局の扇を持つ手に、力が入るのが見えた。紙の端が、ほんの少し曲がる。

 

 角乃がゆっくり春日局へ顔を向けた。

 

「春日局様。念のため確認するけれど」

 

「何でございましょう」

 

「あれが、高評価なの?」

 

 扇で俺を示すな。

 

「あれって言うな」

 

 春日局は一拍置いた。

 

「……私にも、分かりませぬ」

 

「大奥の審美眼、なかなかハイクラスに難解ね」

 

「角乃ちゃん、ちょっと悔しそう」

 

 陸王が言う。

 

「悔しくはないわ。ただ、現象として不可解なだけ」

 

「……悔しそう」

 

 瑠衣が三撃目を入れた。

 

「市川さん?」

 

 瑠衣はすっと目を逸らした。

 

「お前も刺されてんじゃねえか」

 

 俺が言うと、角乃は扇で口元を隠したまま沈黙した。珍しい。ちょっとだけ溜飲が下がった。

 

 その時、家光の声がまた降ってきた。

 

「狼の者。近う」

 

「行かねえ」

 

 座敷の空気が止まった。

 

 芹亜が慌ててこっちを見る。

 

「吠さん、上様の御前です」

 

「だからって近づく理由ねえだろ」

 

「脱出係が一番奥に呼ばれるの、なかなか面白いね」

 

 陸王は完全に面白がっている。

 

「面白がるな」

 

「上様、この者は礼に不慣れにございます」

 

 春日局が止めようとする。

 

「それがよい」

 

「よくはございませぬ」

 

 春日局の声が少しだけ早くなる。厳格な顔は崩れていないが、扇の角度が落ち着かない。

 

「吠、せめて歩幅は半歩よ」

 

 角乃が小声で言う。

 

「そこかよ」

 

「そこからよ」

 

「……逃げ道、確認する?」

 

 瑠衣が言った。

 

「今のは俺の逃げ道か?」

 

「……たぶん」

 

「たぶんなのかよ」

 

 俺は仕方なく立った。

 

 半歩。足音を立てない。視線は真っ直ぐすぎない。背筋は伸ばす。袖は引っかけるな。角乃が小声で次々に指示を飛ばしてくる。

 

「注文多すぎるだろ」

 

「真っ直ぐでよい」

 

 家光が言った。

 

「上様が余計な許可を出さないでくださる?」

 

「一河様、御言葉を」

 

 春日局がすかさず注意する。

 

「失礼。少し取り乱したわ」

 

「少し?」

 

 陸王が小声で突く。

 

「黙りなさい」

 

 俺は御簾の前まで進んだ。

 

 膝をつく動きが硬い。足が文句を言っている。帯が苦しい。座敷中の視線が背中に刺さる。戦場ならどうとでもなる距離なのに、今は一歩ごとに罠を踏んでいる気分だった。

 

「名は」

 

「遠野吠」

 

「吠。名まで狼めいている」

 

「好きでこういう名前なんだよ」

 

「上様の御前でございます」

 

 春日局の声が飛ぶ。

 

 俺は少しだけ顎を引いた。

 

「……遠野吠です」

 

「よい。そなた、誰に仕える」

 

 その質問だけは、やけに真っ直ぐ来た。

 

 御簾の向こうの目が、さっきより近い気がした。誰に仕える。誰のために、何のために、ここにいる。大奥の畳が、その答えを待っているみたいだった。

 

 俺は考えるより先に言っていた。

 

「誰にも仕えねえ」

 

 座敷が凍った。

 

「吠」

 

 角乃の声。

 

「吠さん」

 

 芹亜の声。

 

「あー」

 

 陸王の声。

 

 俺は慌てて手を振った。

 

「……いや、そういう意味じゃなくてだな」

 

 御簾の向こうで、家光が笑った。

 

 声は大きくなかった。けど、さっきまで動かなかった空間の芯に、ぽんと石が落ちたような笑いだった。波紋が広がる。春日局の扇が止まる。芹亜が顔を上げる。瑠衣の指が、縫蘇霊獣の背で止まる。

 

「ますます面白い」

 

「面白くねえって言ってんだろ」

 

 言ってから、俺は口を押さえた。

 

 もう遅い。

 

 家光は御簾の向こうで、確かにこっちを見ていた。

 

 春日局が困ったように息を止める。けれど、その目は少しだけ家光の方へ向いている。久しぶりに動いたものを、手放していいのか測っているみたいだった。

 

「春日局様」

 

 芹亜が静かに言う。

 

「何でございましょう」

 

「上様の御心は、今、確かに動いています」

 

 春日局は答えなかった。

 

 ただ、扇を握る手が止まった。

 

 瑠衣が小さく呟く。

 

「……役目じゃなくて」

 

 芹亜が瑠衣を見る。

 

「……何を見てるか」

 

 角乃が俺と家光を見比べる。さっきまでの引っかかった顔が、探偵の顔に戻っていく。

 

「なるほど。不可解ではあるけれど、糸口ではあるわね」

 

「俺を糸口にすんな」

 

「もうなってるよ」

 

 陸王が楽しそうに言う。

 

 御簾の奥で、家光が少し身を乗り出した。

 

「吠。そなた、なぜそのような眼をしている」

 

「知らねえよ」

 

「ならば、知りたい」

 

 また、座敷の空気が変わった。

 

 春日局は止めない。角乃は扇の陰で目を細める。芹亜は息を整え、瑠衣はじっと家光を見ていた。

 

 俺だけが、この場に置いていかれている。

 

 畳の匂いが濃い。行灯の火が静かに揺れる。御簾の向こうの将軍は、なぜか俺から目を離さない。

 

 俺は小さく呟いた。

 

「……やっぱ帰りてえ」

 

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