東京に戻った頃には、空気は少しだけ落ち着いていた。
京都での出来事はすでに共有されている。誰も直接は触れないが、向けられる視線の意味は分かる。それでも、以前のような重さは残っていなかった。
遊真自身が変わっている。
高専の廊下を歩いていると、見慣れた気配に気づく。視線を向けると、そこにいたのは乙骨だった。
以前とは違う。
あの圧倒的だった呪力の密度が消えている。空気を押し潰していたような重さはなく、代わりに、整えられた静けさがある。
「……戻ったのか」
声をかけると、乙骨が振り向く。
「はい。九条さんも、おかえりなさい」
少しだけ笑う。その表情は以前よりも落ち着いていた。余計な揺れがない。
短い沈黙が流れる。
言葉にしなくても、互いに理解していることがある。
「……弱くなったな」
先に口にする。
乙骨は一瞬だけ驚き、それから苦笑する。
「はい。リカちゃん、もういないので」
それで十分だった。
「でも、その方がいい気がしてます」
遊真は少しだけ考える。
京都での自分を思い出す。止まらなかった流れ。削れていった制御。
「……だな」
短く返す。
視線が合う。
どちらからともなく、わずかに笑う。
同じ選択をしていると分かったからだ。
力を落とした。
それでも前に進むと決めた。
その一点だけで、十分だった。
「これからどうするんだ」
「海外に行きます」
「海外?」
「はい。ミゲルさんと」
「修行か」
「そんな感じです。ちゃんと扱えるようになりたいので」
言葉に迷いがない。
「九条さんは?」
少しだけ間を置く。
「残る」
それだけで伝わる。
乙骨が小さく頷く。
「……そっか」
それ以上は踏み込まない。
「また会いましょう」
「ああ」
背を向けて歩き出す。
⸻
その背中を見送ったあと。
「いい感じじゃん」
軽い声が落ちる。
振り向くと、五条が立っている。
「二人とも、ちゃんと“落とせてる”」
「落とす?」
「一回ちゃんと弱くなるってこと」
軽く言うが、内容は重い。
「強いまま崩れるやつと、弱くなってやり直すやつ。どっちが上に行くと思う?」
「後者」
「正解」
五条は笑う。
「残るんでしょ?」
「ああ」
「いいんじゃない?」
軽い言い方のまま続ける。
「その選択できるなら大丈夫でしょ」
それだけ言って去っていく。
⸻
その日の夜。
空気が変わる。
抑えきれていない苛立ちが、そのまま音になる。
「従う気はねぇ」
秤の声だった。
上層部と向き合っている。言葉に迷いはない。その横に綺羅羅が立つ。二人とも、引くつもりはない。
やり取りのあと、廊下で鉢合わせる。
「……お前、どうすんだ」
秤が聞く。
短いが、意味は明確だった。
「来るなら連れてくぞ」
軽く言う。
だが、その奥は本気だ。
少しだけ考える。
行けば自由に動ける。効率も上がる。止めるものもない。
一瞬、その選択が浮かぶ。
だが。
「行かない」
はっきり答える。
秤が目を細める。
「理由は?」
「ここでやり直す」
短く言う。
「逃げたくない」
沈黙が落ちる。
綺羅羅が小さく息を吐く。
「……らしいね」
秤はわずかに笑う。
「ほんとブレねぇな」
肩をすくめる。
「いいんじゃねぇの」
それ以上は言わない。
引き止めもしない。
「死ぬなよ」
「ああ」
それだけで十分だった。
⸻
二人はそのまま去っていく。
迷いのない背中。
静けさが戻る。
遊真はその場に立つ。
行くこともできた。
だが、選ばなかった。
ここに残る。
逃げないために。
見届けるために。
そして、もう一度積み上げるために。
静かに息を吐く。
遠回りでもいい。
遅くてもいい。
今度は間違えない。
そう決めて歩き出す。
その足取りは、以前よりもわずかに軽かった。