買い物がひと段落した頃、空は少しだけ傾き始めていた。
夕方特有の柔らかい光が、街の輪郭をゆるくぼかしている。人の流れは相変わらず多いが、その中に混じる呪力の気配は、もう違和感として認識できる程度には慣れていた。
「じゃ、行くわよ」
釘崎野薔薇 が当然のように言う。
言葉に迷いはない。
「任務」
伏黒恵 が短く続ける。
「俺たちだけでやります」
その声音は落ち着いていた。以前のような硬さはない。判断と覚悟が噛み合っている。
「いけます」
虎杖悠仁 が笑う。
真っ直ぐな目だった。
無理をしているわけではない。ただ、自分たちの現在地を理解した上での言葉。
遊真は三人を見る。
ほんの少し前と比べるだけでも分かる。
動きが整っている。
視線の配り方、立ち位置、距離感。
どれもが“戦う側”のそれに変わっている。
「……分かった」
短く言う。
余計な言葉は要らない。
「気をつけろ」
それだけを残す。
「はい!」
虎杖が力強く返す。
釘崎は軽く手を振り、伏黒は一度だけ頷く。
三人はそのまま人混みの中へ消えていった。
騒がしいまま。
だが、確かな足取りで。
⸻
静けさが戻る。
人の流れは変わらないのに、その場だけが少しだけ切り離されたような感覚があった。
「いい感じだね」
軽い声が落ちる。
隣に立っていたのは、五条悟 だった。
いつの間にかいた、というよりは、最初からいたのだろう。
「まとまってきてる」
空を見たまま言う。
「そうだな」
短く返す。
それ以上は続かない。
珍しく、言葉が途切れる。
五条が横目で見る。
「……なに、悩み事?」
いつもの調子。
軽い。
だが、視線は外さない。
「……まあな」
正直に返す。
誤魔化す必要はないと思った。
「珍しいね」
「そうでもない」
小さく息を吐く。
言葉を探す。
少しだけ間が空く。
人の足音と、遠くの雑踏だけが耳に残る。
「……空っぽ、って言われた」
ぽつりと落とす。
誰に言われたかは、言わなくても分かるだろう。
五条は何も言わない。
ただ、聞いている。
それだけで十分だった。
「自我がないって」
続ける。
「否定はできない」
自嘲でも、諦めでもない。
ただの事実として。
「前は、強くなることしか見えてなかった」
視線を少しだけ落とす。
アスファルトに映る影が、少し伸びている。
「今も、完全に違うとは言えない」
一度言葉を切る。
「だから、分からなくなった」
何を選べばいいのか。
どこに向かえばいいのか。
それを考え始めた時点で、以前とは違うのは分かっている。
だが、その先が見えない。
「どう進めばいいか」
ようやく言葉になる。
五条はしばらく黙っていた。
珍しく、すぐには答えない。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……いいんじゃない?」
軽い一言だった。
「分かんなくて」
視線を向ける。
五条は空を見たまま続ける。
「分かってるつもりのやつの方が危ないよ」
少しだけ笑う。
「僕もそうだったし」
その言葉に、わずかに重みが乗る。
遊真は小さく呟く。
「……夏油か」
五条の表情が、ほんの一瞬だけ変わる。
目を細める。
「止められなかった」
短い言葉。
だが、その中に含まれるものは重い。
「一番近くにいたのに、気づけなかったし、止められなかった」
淡々としている。
感情を抑えているわけでも、誤魔化しているわけでもない。
ただ、そのまま言っているだけ。
「で、最後は僕が殺した」
静かに言う。
その言葉は、空気に重く沈む。
通り過ぎる人の声が、遠くなる。
「正しかったかは、今でも分からない」
五条が小さく笑う。
自嘲でも、開き直りでもない。
ただの事実として。
「だからさ、“正しい進み方”なんてないよ」
そのまま続ける。
「選ぶしかない」
一拍。
「その時、自分で納得できる方を」
それだけだった。
⸻
遊真は視線を落とす。
納得。
それは、これまで一度も基準にしたことのない言葉だった。
効率でもない。
強さでもない。
もっと曖昧で、だが確実に自分の内側にあるもの。
「……納得、か」
小さく呟く。
「そ」
五条が軽く頷く。
「後悔するかどうかじゃなくてさ」
少しだけ笑う。
「後悔しても、自分で選んだって言えるか」
それが基準。
シンプルだった。
だが、今の自分にはそれで十分だった。
⸻
しばらく、二人で立っていた。
会話はない。
だが、沈黙は重くない。
人の流れは変わらず続いている。
その中で、二人だけが少しだけ外側にいるような感覚。
頭の中は、さっきよりも整理されていた。
完全ではない。
だが、方向は見えた。
「……ありがとな」
小さく言う。
五条が肩をすくめる。
「珍しいね」
「何が」
「ちゃんと礼言うの」
「言う時は言う」
「成長したじゃん」
「うるさい」
短く返す。
少しだけ笑う。
自然に。
無理のない形で。
⸻
遠くで、呪力の気配が揺れる。
三人の任務。
荒れていない。
問題はなさそうだ。
「……さて」
小さく息を吐く。
進み方は、まだ分からない。
正解もない。
だが。
選ぶことはできる。
自分で。
それだけで、十分だった。
ゆっくりと歩き出す。
夕焼けの色が、少しだけ濃くなっていた。