違和感は、任務が終わったあとも消えなかった。
廃ビルの外に出て、夜の空気を吸い込んだ瞬間、本来ならそこで区切りがつくはずだった。重く淀んでいた空気は外に出れば薄れ、緊張は自然と抜ける。任務は終わったと、身体が判断する。
そういうものだと理解している。
だが。
何かが、引っかかっている。
喉の奥に小さな棘が刺さったまま、飲み込めずに残っているような感覚。消えそうで消えない、わずかな違和。
足が止まる。
呼吸が浅くなる。
ゆっくりと振り返る。
暗いビルの入口。何も見えない。光も、動きもない。ただの廃墟。
それでも。
確かに“何かが残っている”。
さっきまでの呪霊とは違う気配。
もっと濃い。
もっと歪んでいる。
「どうした?」
隣で秤が眉をひそめる。
「残ってる」
短く答える。
「何が」
「気配」
それ以上の説明はしない。言葉にする必要がない種類のものだと分かっている。
綺羅羅がわずかに視線を動かし、周囲を確認する。入口、窓、屋上、気配の流れを丁寧に拾うが、やがて小さく首を横に振った。
「……感じないけど」
「ある」
断言する。
勘ではない。
曖昧でもない。
確信に近い。
沈黙が落ちる。
夜の音だけがやけに大きく聞こえる。
「戻る」
そう言って、一歩踏み出す。
「は?」
秤が声を上げる。
「おい、もう終わってるって。報告も——」
「先に帰ってていい」
言葉を被せる。
「確認するだけ」
「いや、それ——」
「問題ない」
短く切る。
迷いはない。
止まる理由もない。
それが伝わったのか、秤は一度だけ舌打ちして肩をすくめる。
「……分かったよ。好きにしろ」
綺羅羅も小さく息を吐く。
「死なないでよ」
「死なない」
即答だった。
二人の足音がゆっくりと遠ざかっていく。完全に気配が消えるのを待つ。
静寂。
それから、再び中へ足を踏み入れる。
さっきと同じ廊下に足を踏み入れる。
同じ空間、同じ配置、崩れた壁も積もった埃も変わらないはずなのに、踏み込んだ瞬間に“違う”と分かる。空気がわずかに歪んでいる。温度も匂いも変わらないはずなのに、そこに本来混ざらない何かが溶け込んでいる感覚がある。
薄暗い廊下に足音が響く。その反響がやけに大きく、距離感を狂わせるように耳に残る。
そして、その奥に。
確かに、“いる”。
視界には何も映らない。それでも、そこに存在していると断言できるだけの“重さ”がある。
「……いるな」
小さく呟きながら視線を奥へ向ける。見えないままでも構わない。位置は掴めている。
「出てこい」
静かに言葉を落とす。それは挑発でも命令でもなく、ただ事実を提示するような声音だった。
数秒の沈黙が流れる。空気が張り詰め、わずかな音すら飲み込まれる。
やがて。
「……はは」
笑い声が、暗がりの中から滲み出る。
低く、粘つくような声。空気に絡みつくように広がり、遅れて耳に届く。
影が揺れる。
壁の奥、光の届かない場所から、ゆっくりと一人の男が姿を現す。
服装は普通だった。体格も特徴がなく、どこにでもいる人間にしか見えない。だが、その見た目と中身がまったく一致していないことは、一目で分かる。
まとっている呪力が、明らかに異質だった。
濁り、歪み、ねじれている。整っていないのではなく、“歪んだまま完成している”ような不快さ。まるで感情そのものが腐り、固まって形を持ったかのような質感だった。
「バレたか」
男が軽く笑う。気の抜けた声だが、その奥には確かな悪意が滲んでいる。
「ガキのくせにやるな」
「呪詛師か」
短く確認する。
男は肩をすくめるようにして笑う。
「正解。まぁ見りゃ分かるか」
そのまま壁にもたれかかる。力の抜けた姿勢。しかし、どこにも隙はない。緩んでいるのではなく、“いつでも動ける状態で緩めている”だけだと分かる。
「雑魚ども、いい感じに散らしてくれたな」
楽しそうに言葉を続ける。
「お前らが処理してくれるの、待ってたんだよ」
理解する。最初から隠れていたのだ。呪霊を盾にして様子を見て、最後に出てくる。
効率を優先した、人間の戦い方。
「……そう」
短く返す。興味はない。ただ、そこに敵がいるという事実だけが重要だった。
男が視線を上げる。こちらを測るような目。
「で?」
わずかに首を傾ける。
「どうする?」
試すような声音。
「逃げるなら今だぞ?」
「逃げない」
即答だった。思考を挟む余地すらない。
「へぇ」
口角が上がる。
「いいね、その目」
次の瞬間、空気が変わる。
男の気配が一気に収束し、同時に距離が消える。
速い。
呪霊とは違う、人間特有の“技術で詰める速さ”。無駄が一切ない踏み込みと同時に打撃が伸びる。一直線、最短距離、急所を正確に捉えた軌道。
(速いな)
だが、見える。
身体をわずかに傾ける。それだけで拳は空を切る。最小の動きで軌道を外し、そのまま踏み込む。
間合いに入る。
「は?」
男の目がわずかに見開かれる。予想外の反応に、一瞬だけ判断が遅れる。
「遅い」
短く言い切り、拳を叩き込む。
鈍い音が響く。芯を捉えた感触が腕に伝わる。
だが。
「……っ、クソが!」
男は即座に後方へ跳び、距離を取る。反応は速い。崩れない。
同時に呪力を練り上げる。
「爆ぜろ」
次の瞬間、近距離で呪力が爆発する。
床が抉れ、破片が弾け、空気そのものが震える。
だが。
そこにはいない。
すでに横へ抜けている。
(雑だな)
威力は高い。だが、当たらなければ意味がない。
踏み込む。距離を詰める。
男が構える。迎撃の構え。拳、蹴り、連撃が途切れずに繋がる。
速い。
だが。
(読みやすい)
一つ一つの精度は悪くない。だが、繋ぎに“間”がある。流れが途切れる瞬間が必ずある。
その“間”に入る。
「っ!?」
懐に潜る。
距離ゼロ。
回避も、防御も間に合わない位置。
「終わり」
呪力を乗せる。
斬る。
一閃。
音が遅れてついてくる。
男の動きが止まる。
時間がわずかに遅れたような感覚。
そして。
崩れる。
身体が力を失い、床に落ちる音だけが静かに響いた。
Lv.27
⸻
視界に浮かぶ数字が、大きく跳ね上がる。
さっきまでとは明らかに違う増え方だった。単に数値が上がったというより、“重さ”がある上昇。経験値としての密度が違うのだと、感覚で理解できる。
小さく息を吐く。
だが、驚きはない。
それよりも先に浮かんだのは、別の感覚だった。
(……効率がいい)
その一言に尽きる。
呪霊を相手にした時よりも、明らかに伸び方が違う。同じ時間、同じ動きでも、得られるものの質が段違いに高い。
視線をゆっくりと落とす。
倒れている男。つい数秒前まで確かに生きていた人間。
だが、その事実に対して、何も引っかかるものはない。
恐怖もない。
後悔もない。
罪悪感もない。
ただ、結果だけが残っている。
倒した。
そして、強くなった。
それだけだと、自然に割り切れている。
ポケットからスマホを取り出す。
無駄な動きはない。必要な操作だけを淡々と行い、発信する。
「九条。任務地点に呪詛師一名。排除済み。位置送る。回収頼む」
声は静かで、揺れもない。報告として必要な情報だけを正確に伝える。
通話を切る。
音が消える。
再び、静寂が戻る。
やるべきことは終わっている。
それでも。
(……まだ足りない)
その感覚だけが、消えない。
むしろ、さっきよりも強くなっている。
戦うほどに、倒すほどに、その“足りなさ”は輪郭を持つ。
もっと上がある。
もっと強くなれる。
だから、止まる理由がない。
ビルを出る。
夜の空気が、わずかに冷たい。
だが、その温度すら意識には残らない。
視線は前に向いている。
次を探す。
それだけを考えている。
どこかで、何かが待っている。
そんな確信だけが、静かに、確実に残っていた。