グレーザーという宮廷医がいる。皇帝侍医団の一員の医学博士として、皇帝以外にも寵姫の脈を取る事もある中年男だ。生まれは決して身分が高いと言えない帝国騎士だったが優れた頭脳とそれ以上に媚びへつらい相手に取り入るのが上手く、その才能を遺憾無く発揮して帝国最高の医師団に席を確保していた。
彼が最も欲するのは医師としての地位と名声ではなく財貨であった。ゆえにフェリクスはこの男を取っ掛かりに選んだ。金を欲しい者には金を、名誉が欲しい者には名誉、地位なら地位を。欲しい物を目の前に積んでやれば俗人は容易く靡いた。
白衣を纏ったフェリクスは現在、
「後宮の景色は如何かなフレーゲル博士」
「興味深い光景です。同じ王宮でも東苑とは趣が異なるように見えます」
緊張と浮つきの無いフェリクスの回答に、一行の責任者の宮廷医オレンブルグ医学博士は穏やかな笑みをたたえる。最初はまだ医師免許を取ったばかりの子供を、研修とはいえ栄誉ある宮廷医に同行させるのは渋ったが、隣に座る自分の娘より若い青年は医師の心構えが既に出来ている。出自は確か、才覚は比類なし、現役宮廷医の推薦もあるとなれば、背後のブラウンシュヴァイク公爵の影もあり、強硬に拒否する理由も無い。おそらく家を継げない甥に寵姫の脈を取らせて、箔付けをさせたいのだろう。ゆくゆくは宮廷に送り込む意図もあるかもしれない。
外野の思惑はどうあれ、見習い医師のフェリクスは優秀だった。雑用程度の仕事だったが二人の宮廷医の補佐を滞りなく済ませて、診察は予定通り進んでいく。今日の寵姫の診察は六人。既に四人は終わり、後は二人だ。
今上の皇帝フリードリヒ四世は漁色家で有名だった。かつて1000人の女性と褥を共にした事があり、寵姫だけでも数十人を超えていた時期がある。現在は多くの寵姫が暇を出されて、残っているのは十名前後。おかげで昔に比べれば仕事も減ったが、それでも寵姫の診察は楽とは言えない。
「初めての医師の仕事はどうかねフレーゲル君」
「やはり大学での実技とは勝手が違います。それに相手が寵姫ともなれば立ち振る舞いにも細かく気を遣いますよ、グレーザー博士」
やや疲労の籠った返事に、二人の宮廷医はさもありなんと頷き同意する。寵姫とは帝国の至高の殿方に見初められた最高の淑女の称号。門閥貴族の男すら時に見下して、使用人のように扱うほど気位が高い者もいる。まして彼は一見して駆け出しの雑用係。軽んじられて背景のように扱われていた。医師としての矜持を傷つけられたのではないか秘かに心配していたが、幸い気疲れはあっても失意は感じられない。フェリクスが打たれ強い精神の持ち主でオレンブルグは安心した。
「なんにせよ今日はあと二人だ。気張りたまえ」
もっとも、そのうちの一人が非常に扱い辛いのを宮廷医たちは口にしない。
五人目の寵姫の館を訪れた三人は待たされる事無く女主人の私室へと通される。
侯爵夫人は医師達が来ても部屋の中央に鎮座するゆりかごから顔を上げず、自らの指を力強く握る至高の宝の寝顔を慈悲に満ちた笑みで眺めていた。しかし診察の時間が迫っていたために、名残惜しそうにエルウィンの手から指をするりと抜き取り、フェリクス達に向き直る。
「定期回診に参りました、ベーネミュンデ侯爵夫人」
「ええ」
短い応答の後、夫人は女中の手でドレスを脱ぎ、かつては皇帝フリードリヒの寵愛を一身に受けた柔和の肌を晒す。
侯爵夫人はそろそろ齢30に届く。肉体に衰えが出始める時期に加えて近年皇帝の子を身籠ったものの流産したため、やや精神的に不安定になっているので注意が必要だ。
綿密な検査が終わり、医師達が目立った異常が見当たらない事に安堵を見せる。
夫人に検査結果を知らせて片づけをする最中、彼女は年若いフェリクスに興味を持ち、オレンブルグに問う。
「彼はフェリクス・フォン・フレーゲル。若いですがれっきとした免許を持つ医師ですので、ご安心ください。ブラウンシュヴァイク公爵の甥にあたるので出自も保障します」
「ブラウンシュヴァイクの……宮廷でも噂になっていましたが貴方がそうですか」
一瞬だけ侯爵夫人は鋭い目つきになり、眉間に皴を刻んだがすぐに笑みを貼り付けて、深層の感情を覆い隠した。
フェリクスは叔父の指示と己の思惑の為に侯爵夫人に顔と名を覚えられて興味を持たせた。最初の接触は成功したと言える。ここからより踏み込んだ関係を構築したいが警戒されては本末転倒。今はとにかく腰を低く、謙虚な姿勢を崩さないように振る舞いつつ、さりげなく夫人に贈り物を渡す。
「叔母のアマーリエ様より、エルウィン様への贈り物をお預かりしていました」
「それは何よりの気遣いです。後ほど返礼は致しますが貴方からアマーリエ様に感謝をお伝えくださいませ」
皇女アマーリエにとってエルウィンは甥。守役を介して贈り物をするのは何らやましい行為ではない。若い男が寵姫に貢ぐよりはあらぬ疑いを抱かれずに済み、侯爵夫人に印象付けられる。これは兄ヴィクトルの差配だった。目論見は成功したと言ってよい。
滞りなく謀の第一手を終えたフェリクスは二人の侍医と共に侯爵夫人の館を辞して、今日最後の寵姫の館へと赴いた。
寵姫の館はベーネミュンデ侯爵夫人の館からかなり離れた場所にあり、館の前には菩提樹が青々と葉を茂らせ、池は
館の前には寵姫に仕える執事のコルヴィッツが医師達を出迎えた。この執事は元は宮内省に勤務する一職員だったが、皇帝フリードリヒ四世にまだ15歳だったアンネローゼ・フォン・ミューゼルを献上したことで多額の財産を得た。さらに伯爵位を賜りグリューネワルト伯爵夫人となったアンネローゼの執事に納まり、伯爵家の執事として栄誉を享受していた。元が帝国騎士階級の下級官吏しては大層な成り上がりだろう。アンネローゼの弟のラインハルトは肉親を連れ去った怨みもあり、露骨に彼を見下して内心は『寄生虫』と蔑んでいた。そうした出自と己の功績で得た地位もあって、どこかふてぶてしく尊大な印象を余人に与える。とはいえ職務には勤勉らしく、医師を自ら出迎える労を厭わないのは美徳だろう。
執事の案内で古典的調度品に囲まれた一室に、美の女神の化身のごとき女性が静かに佇んでいた。
「グリューネワルト伯爵夫人、ご機嫌麗しく。本日は定期健診に参りました」
「はい、いつもご足労頂きご苦労様です」
他の寵姫に比べて他者を思いやる慈愛に満ちた声は、それだけで気分を和ませる。その上に天性の美貌が加われば成程、漁色家の皇帝の寵愛を厚く受けるのも頷ける。
伯爵夫人は初顔のフェリクスに何かを思い出し、少し戸惑いの顔を見せた。
「貴方はもしかしてラインハルトが話していた―――あっ、ごめんなさい。診察がありましたね」
すぐに微笑をたたえて、粛々とオレンブルグ医師に脈を取らせた。
ほどなく診察も終わり、医師の三人は心身に異常が無い事を確認した。流産を経験したベーネミュンデ侯爵夫人とは別の意味でグリューネワルト伯爵夫人の診察は気を遣う。皇帝の寵愛を最も受ける寵姫にもしもの事があれば、侍医達は皇帝から死を賜る事も過去にはあった。さらに受胎が確認された場合、何かと門閥貴族ないしライバル関係の寵姫が蠢動する。帝国の政治闘争に巻き込まれる可能性もあり、恩恵も多いが気の抜けない立場に立たされるのが皇帝の侍医団だった。
これで今日の寵姫の回診は全て終わり、後は宮廷の医師局にカルテを提出するだけだ。
手早く後片付けをする三人に、身支度を整えた伯爵夫人が控え目に声をかける。
「あの…今日の診察は私が最後と聞いています。皆さんにはせめてお茶でもお出ししたいのですが」
三人は顔を見合わせた後、伯爵夫人のご厚意を承諾した。
グリューネワルト伯爵夫人の提案により、フェリクスは館前の菩提樹の下に設けたテーブルに夫人と共に就き、二杯目の甘ったるいコーヒーを啜る。お茶請けのケーキはなんと伯爵夫人手製のケーキである。
年長の医師二人は伯爵夫人がフェリクスと話をしたかったのを察して、早々に一杯目のコーヒーを飲んで庭園を散策していた。無論二人っきりではなく、給仕をする館のメイドは側にいる。
フェリクスはコーヒーを啜りながら、失礼にならない程度に対面に座る寵姫を観察する。友人の一人のラインハルトによく似た顔立ち。髪の色は夕陽に照らされて黄金のように輝き、アイスブルーの瞳にはどこか憂いと影がある。その負の感情のコントラストが一層美を輝かせていた。
(この人がラインハルトとキルヒアイスに皇帝弑逆を決意させた女性か)
かつて友人達が吐露した野望の原点。その美貌さえなければ今も慎ましく家族やその友人と仲良く暮らしていた身の上。今年21歳になるから、どこかの若い男と結婚してそれなりの幸せを享受しているかもしれない。その時はあの二人はどうしたのやら。
ある意味、帝国の犠牲者と言えるが、存在自体が騒乱の元になりかねない罪作りな女性である。さしずめ傾国の美女だろう。
「急に同席して頂いてごめんなさい」
「いえいえ、伯爵夫人のお酌とあらば。やはり弟君の事を?」
「ええ。あの子はあんな性格だから、ジーク以外に友達が出来てとても嬉しいわ。良ければフレーゲル先生から見た弟の事を話してもらえますか」
さすが肉親だけあって弟の性格をよく把握している。それに幼年学校でのラインハルトの五年間の所業は耳にしている事だろう。寵姫ゆえに表立って誹謗を受けはしないが、怪我をした貴族子弟の親族から非難の視線を無数に受けたに違いない。それでも彼女の瞳には弟への悪感情ではなく憂慮が見えた。なんとも人の出来た女性である。
「弟君を言語化するなら才気溢れる英俊。古の英雄豪傑の類。良くも悪くも厳格で真っすぐ過ぎて妥協を知らないせいで、必要以上に周囲との衝突が生まれてしまう。小賢しく生きろとは申しませんが、少しぐらい我を抑えないと生き辛いですよ。ただし親しい者には意外と気を遣う方ですね」
フェリクスは過去に何度か差し入れに菓子やパンを貰った事を話すと、夫人は目元を緩ませて微笑んだ。
他にも休日にはキルヒアイスと二人で街に遊びに出かけたり、学校の料理が不味くて姉の料理が恋しいと何度かボヤいているのを耳にした事を伝える。すると彼女は諦観を滲ませ寂しそうに夕陽を見つめる。
「あの子ったら、いつまでも私の事を忘れられないのね。ラインハルトとジークには私に構わず自由に生きてほしいのですが。けれどそんな風に本心を漏らせる友達が増えて姉として嬉しく思います」
微笑みを向けられたフェリクスは内心、忘れるのは無理だろうと思った。今この瞬間にもあの二人は宇宙で軍艦を駆って闘争に身をやつして功績をあげている。それは全て姉を奪った皇帝を殺すために地位を得て近づくためだ。無論そんな妄動が叶う前に粒子となって宇宙に霧散する方が遥かに確率が高いが、諫めただけで止まるような輩ではない。そしてそんな危険分子を報告せずに放置しているのだから、己も帝国貴族失格で何も言えない。
そんなことを考えながら一つ打算を思いついた。無いよりマシ程度だが損は無いので実行に移す。
「私は学問の道に進み、彼らは軍の道を選んだので大した力にはなれませんが、時折顔を合わせる程度の縁は残っています。伯爵夫人から何かお言葉があれば、今後も回診の折にお預かり致します」
「ありがとう。ご厚意に甘えて、これから頼りにさせてもらいます」
予定外の収穫だ。今回の回診だけでベーネミュンデ侯爵夫人だけでなく、現在最も皇帝の寵愛を受けるグリューネワルト伯爵夫人と定期的に接触する機会を得られた。政治的には無力な寵姫でも、もしもの保険ぐらいにはなる。
その後も二杯目のコーヒーを飲み切るまで、下宿先の大家姉妹と良好な関係を築いていたり、フリカッセが美味しいなど、何気ないラインハルトとキルヒアイスの日常の話に花を咲かせた。さらに最近は酒を嗜み始めた事を伝えれば、父親のように酒浸りにならないように、それとなく健康にも気を配るよう頼まれる。
回診を終えて宮廷医の会合という名の酒宴に付き合わされたフェリクスが
疲労と酒精からすぐにでもベッドに潜り込みたい欲動を抑えつつ、コンピューターを立ち上げて届いた電子メールに目を通す。数多くの案件から一通のメールの差出人に目が留まり、中身を開いて内容を何度も確認して口元を吊り上げた。メールの差出人はアントン・フェルナー。
「新型駆逐艦の一番艦が完成。来週には資源衛星近郊の宙域でテストを始める、か。ようやく一歩目かな」
新たな生を得て既に16年。ようやくと言うべきか早かったと言うべきか。スタートラインに立っただけだが感慨深い。
頑張ってくれた工廠の作業員や、これまで資源衛星を運営してくれたフェルナーには臨時報酬を用意しよう。
ひとまず喜びを噛み締めつつも、技術者として横たわる問題にも思考を割く。
新型艦の形は出来た。しかしそれを運用する人間が足りない。艦隊勤務の経験のある徴用兵はそれなりにいても、士官、特に艦長クラスの人材が殆ど居ない。
ラインハルトの言葉を借りるわけではないが、優れたハードウェアがあってもソフトウェアに相当する経験を積んだ兵が運用しなければ、新型艦も少々頑丈な的にしかならない。
一個艦隊を指揮する将官とは言わずとも、せめて艦長が務まる士官ぐらいはそれなりの数が欲しい。一人でも上級士官が居れば教官を任せて将来の艦長を育成する事も出来る。
フェルナーは優秀な将校だが彼は文官寄りだし、資源衛星の運営の要だからおいそれと動かせない。
実家の私設軍にいるシューマッハは兄の参謀として忙しそうだから、おそらく無理。
公爵家付のアンスバッハは優秀な武官で前線指揮官として有能。同様に叔父の家臣にシュトライト中佐という将校が若いが優秀と耳にしている。彼ならアンスバッハよりは引っ張り易いかもしれない。そのうち打診ぐらいはしておきたい。
人材一つとってもやるべき事が山のようにある。全てを一から構築するのがこれほど時間がかかるとは思いもしなかった。もどかしさと共に、しかし新鮮な刺激を感じている。
心地よい疲労感を得て、フェリクスは作りかけの図面を電子データから引っ張り出して作業を始める。
結局朝まで作業を続けてしまったが満足のいく仕上がりになった。
出来たばかりの設計図の隅には、この時代に普及したワープ航法と異なる理論によって成り立つ装置の名が記されていた。
【異層次元航行推進システム】と。