フェリクスが宮廷医師団の見習い医師になってから、そろそろ三ヶ月を迎える。この間、雑用を粛々とこなして侍医達の信頼を勝ち取り、既に寵姫もこの年若い俊英の顔を覚え始めている。
寵姫にとっては医者など皇帝に贈られた館の使用人と差が無くとも、若い男と言うだけで少しばかり目で追ってしまう。
無論そこから何かする事はなく、まして肉体関係へと発展するような事は万に一つも無い。
そのような不義密通が発覚した場合、当人だけでなく一族郎党纏めて死を賜るのは銀河帝国なら子供でも知っている。
だから青年医師と寵姫がサロンのテーブルを共にして茶を飲んでいても、何らやましい関係ではなかった。
館の主たるベーネミュンデ侯爵夫人を前に、フェリクスは思案に耽る。今の状況は望んだものだが決して楽観的に構えられない。
15歳の時に後宮に納められた美貌の美姫は皇帝の寵愛を一身に受け、もし後継者を産んでいれば皇后にもなれたかもしれない女性だった。
たった一言でも礼を失して相手の勘気を被ったら、その日のうちに自分は毒を煽らねばならない。
皇帝の寵姫とはそういう存在だ。幾つもの星系を荘園として有する経済力、木っ端の貴族程度なら容易く死を贈り、家ごと取り潰せる権力を皇帝から与えられていた。
「そう緊張せずとも良いのですよ。私はただ、フレーゲル殿を労っているだけですから」
「はっ、恐縮です」
言葉は柔らかくとも、彼女の瞳に宿る苛烈な感情がいつ飛び火するか分からないのでは、全く気が抜けない。口に含んだコーヒーの味も分からない。
現在フェリクスは何度目かの寵姫の回診に数名の宮廷医と共に出向き、最後の診察を終えた時に寵姫に呼び止められた。そして暇つぶしの茶会を強要された。他の医師は苦言を述べようとしても、相手は爵位を与えられた上位者。しかも非常に気位の高い女性とあって、年若い同僚を生贄に捧げて逃げるしかなかった。
「一体どんな目的で私に近づいたのかしらね、若鳥さん」
「無論医師として侯爵夫人の健康を保つ事が私の望みです」
「ふぅん………それは私の精神的健康も含まれているの?」
そんなものは精神科医の仕事だと口にしたかった。しかし馬鹿正直に申せず、極力言葉を選んで非才の自らに出来る事は思ったより少ないとだけ恭しく伝える。
「心配には及びません。貴方は医師としてあの女に近づける立場にあるのですよ。あの忌々しいグリューネワルトに」
グリューネワルト伯爵夫人の名を口にした瞬間、皇帝をも魅了した侯爵夫人の美貌が憎悪に染まり、『鬼神』とでも題打った美術品の如き様相を世に知らしめる。
悪意と激情に身を任せた夫人はサロンにフェリクスや女中が居ようとも、帝国最上位の身分に似つかわしくない罵声を吐き出し続ける。
要約すると
煮え滾るような激しい熱を帯びた女の憎悪を間近で受ける羽目になったフェリクスは、痴情のもつれに自分から関わった迂闊さを呪った。
「あの女には陛下のお心を惑わした報いを与えます。自死など生温い!一族共々死体を切り刻んで犬の餌にしてやりましょう」
「それほどの刑罰となると余程の罪を犯さなければ実現いたしませんが。それこそ大逆罪でもなければ」
「ほほほ、男は短絡的ね。そこまで仰々しい罪は必要ありません。不義密通を行い身籠ってしまえばよいのです」
それこそ男の出入りが制限される後宮では無理な話だろうと思った。まだラインハルトが皇帝弑逆を謀って、大逆罪で連座で姉も処刑される方が現実味がある。フェリクスだけでなく、給仕をしていた女中も目を丸くしている。
しかも相手を用意する必要は無いとまで言ってのける。適当な男の精子を用意して人工授精をしろとまで言い放った時は、思考を読まれているのかと心底恐れを抱いた。
頭の良い学者も謀は苦手。恐れを思い違いながら感じ取った夫人は嗜虐的な笑みを浮かべる。
「侯爵夫人の目論見通り、グリューネワルト伯爵夫人が顔も分からぬ男の種を宿して、死を賜ったとします。その後は如何いたします?」
「なにも。あの女さえ居なくなれば陛下は私の元に戻ってこられる。私は陛下が傍に居るだけで満足です」
この時ばかりは苛烈な憎しみの炎も消え去り、皇帝が愛した稀代の美女は蕩けるような艶顔を見せつける。
対してフェリクスは気が気でない。せめて兄ぐらいの策謀家なら使われても良いが、こんな雑な謀の走狗にされるのは御免蒙る。
仮に策略が成就した所でいずれ事は露見する。その時連座で罪を背負うのは己だ。他人の痴情のもつれで死罪など納得しかねる。
おまけにグリューネワルト伯爵夫人が後宮から排除されても、必ず皇帝の寵愛がベーネミュンデ侯爵夫人に戻ってくる確証だって無い。徒労に終わる可能性も十分にあるのだ。
それすら考慮せず、ひたすらに己の都合の良い未来を夢見ている女など、操り人形にはなれても指揮者は務まるまい。過去にラインハルトを誅殺するために辺境の基地司令を抱き込んでも、失敗どころか抹殺対象に情報を抜かれて警戒される始末。
これ以上は三流脚本家の一人舞台に付き合いたくなかった。
「侯爵夫人のご意向は理解しました。なれどグリューネワルト伯爵夫人が不貞を働いたと知った皇帝陛下は甚く悲しまれるのではないでしょうか」
フェリクスの指摘に、初めてベーネミュンデ侯爵夫人は動揺した。怒りと憎しみが消え失せて、ただただ唇が震える。
「慈悲に満ちた陛下は寵姫の裏切りを大層お嘆きになられます。夫人はそのような責め苦を陛下に味わわせて宜しいのですか?」
「そ、そのような事を私が望むなど……」
次第に夫人の口は閉じていく。フェリクスはまるで叱られた幼児のように縮こまる夫人を見て、人の動かし方を学んだ。優位な状況を作るには相手の弱い所を揺さぶればいいのだ。
「グリューネワルト伯爵夫人の排除よりも、如何に皇帝陛下に関心を抱いていただくか。それが何よりも重要かと愚考します」
「ならばどうすればよいのです?」
「叔母のアマーリエ様から伺いましたが、最近の陛下はエルウィン様の様子を見に、守役の侯爵夫人を訪ねられると。男というのは自らの血を分けた子や孫の成長を見るのが楽しいのです」
夫人の目が険しくなる。彼女にとって子供の話は逆鱗に近い。皇帝フリードリヒ4世の男児を出産したものの死産。流産も二度経験している。兄は毒を盛られた可能性があると話していた。尤もそれは確たる根拠の無い社交界の噂に過ぎぬ。それでも皇位継承権を持つ子が一人増えれば、どれほどの政治的パワーバランスが変動するかを考えれば、まるっきりつまらない噂とも思えない。
「私が陛下のお子を懐妊すればよいと仰るのかしら。他ならぬブラウンシュヴァイクの甥が」
「おっしゃる意味を分かりかねます。叔父が何か粗相を?」
「………そうね、貴方はその年なら知らないのも無理はないでしょう。私の、いえ……私と陛下のお子を殺したのはブラウンシュヴァイク公爵と言ったら信じますか?」
サロンを沈黙が支配する。
フェリクスにとっては厳しくも優しさに溢れた親代わりの叔父でも、銀河帝国の五本指に入る権力者だ。時に冷酷な手段を選択する事は一度や二度で済まない。貴族である限りは謀略とは無関係ではいられない。
だから頭ごなしに否定はしない。同時に彼女一人の証言では肯定もしなかった。
「真偽のほどは私には分かりかねます。ですが私は医師として赤子を殺すより活かす方を選びます。それは信じて頂きたい」
「……ひとまずその言葉を信じましょう。それで、私に今一度陛下のお子を授かれと。そして三度目の流産が待っていますね」
「確かに侯爵夫人の懐妊が知られれば、再び策謀が張り巡らされるのは過去の事例から確実。ならば貴女が懐妊しなければよいのです。先程のグリューネワルト伯爵夫人への謀を思い出してください」
夫人は何度か瞬きをした後に、言葉を理解して目を見開いた。
フェリクスの案はこうだ。まず皇帝フリードリヒ4世の精子とベーネミュンデ侯爵夫人の卵子を用意する。それを体外受精させてから、別の女の子宮に入れて着床、成長させて出産。
自ら腹を痛めて産んだ子ではなくとも、紛れもなく愛する皇帝との血を継いだ子が抱ける。
当然だが真相は公にしない。DNA鑑定で実子と認められても、現在の帝国の法では自然受胎の出産以外は認められない。
公的には使用人の子として手元に置いて養育するのが精々だろう。父の皇帝にも真実を告げてはならない。
「皇帝陛下の精子は夫人にお会いになられた翌日に、こっそり採集して冷凍保存すれば何とかなります。問題は卵子の方か」
精子は射精してから最長数日は生きられる。しかし卵子は卵巣から直接採集する手段しかない。精子の受け渡しぐらいなら誤魔化しが利いても、複数の典医が立ち会う回診での処置は不可能ではないが、医師を抱き込んで黙らせても露見する危険は非常に高い。
ここが踏ん張りどころだ。一世一代の勝負といこう。
意図的に沈黙を作り、いかにも知恵を振り絞って難題を解くような仕草を見せて、侯爵夫人を苛立たせる。
「出来ぬのか、出来るのかはっきりいたせ!」
「技術的に可能な手法はあります。ですがルドルフ大帝の法『劣悪遺伝子排除法』の要項の幾つかに触れる行為です。内務省の社会秩序維持局が嗅ぎつける危険性があります」
夫人はそんな法など無視しろと喉元まで出かかったのを止める。いかに後宮に押し留められている寵妃でも、社会秩序維持局の悪名と実行力は耳にしている。幾ら皇帝の愛妾とて秘密警察を好きにする権限は無い。
「ではどうするのですか。そこまで話しておいて無理とは言わせませんよ!」
「簡単な話です。法に触れる行為ならば、その法自体を廃棄すればよいのです。侯爵夫人、貴女が皇帝陛下に『劣悪遺伝子排除法』の廃止を働きかけて頂きたい」
「そのような政治的な話は貴方の叔父に進言すれば済む話でしょう。どうして私が?」
「叔父から陛下への上奏では、反対する者が些か出るやもしれません」
たとえ帝国に有益な活動でも、公爵の名声を高めるような行為を政敵が邪魔をする事だってある。その点、寵姫が枕元で皇帝に囁き、帝国の最高権力者がやれと言えば、妨害する者は誰も居ない。居たらその時点で破滅が待っている。
侯爵夫人はまだ納得し切れていないため、フェリクスはさらに畳みかける。
もし帝国民に極めて不評な『劣悪遺伝子排除法』を廃止に追い込んだ場合、誰もが万雷の拍手をもって施政者のフリードリヒ4世の叡智と慈悲を讃えるだろう。さらに助言した侯爵夫人も真の国母として敬愛される。何もせず、ただ見栄えの良い人形のように立っているだけのグリューネワルト伯爵夫人より、貴女こそ帝国の庇護者たる皇帝陛下に相応しい皇后である。
「ほほほ、貴方は分かっていますね」
夫人は堕ちた。フェリクスは心の中で喝采どころかカーニバルを開いていた。これでやっと忌々しい悪法を葬って自由に研究が行える。
『劣悪遺伝子排除法』は単に身体障碍者や遺伝子異常者の生存を否定する法律ではない。遺伝子操作やクローン技術の禁止を盛り込んだ法だ。
銀河帝国の前身の銀河連邦には閉塞感と倦怠感が跋扈していた。その中で元気に人類の繁栄を掲げて昼夜を問わず職務に勤しむ科学者が居た。
ただしそれは、遺伝子操作の実験から生まれた成果と、生命倫理を無視した禁忌に快楽を感じる外道集団が実態だった。
大義を掲げて生命の尊厳、それも人類のを徹底的に踏み躙る、常人には想像もつかない凄惨な実験・研究。犠牲となった人命は万やそこらでは収まらない数と言われている。それが当時の連邦首相、後の銀河帝国初代皇帝ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムを激昂させた。
彼は生命の倫理と尊厳を弄ぶ学者を『退廃的な精神異常者』と断じて、『劣悪遺伝子排除法』の適用者に当てはめた。加えて人間への遺伝子操作技術と人クローン技術も禁止した。クローン技術の中には体細胞から特定の臓器や生殖細胞を培養成形する遺伝子技術も含まれている。
辛うじて遺伝子治療と食糧用の動植物への遺伝子操作は対象外になったものの、そもそも治療が必要な障碍者を法の名の下に根こそぎ殺処分ないし断種したため、不要な技術として以後『晴眼帝マクシミリアン』の時代まで殆ど触れられなかった。
現在フェリクスは治療として遺伝子操作を扱っている医者だから、ギリギリ法に触れない位置に立っている。門閥貴族出身かつ治療対象も貴族ばかりだから社会秩序維持局も多少手心を加えて見逃している空気を感じ取れた。そこから一歩どころか全力で踏み込んでいくには、なんとしても『劣悪遺伝子排除法』を廃絶したかった。
「いいでしょう。貴方の口車に乗って差し上げます。それで他に必要なものは?」
受精卵を着床する仮腹の女性を挙げる。夫人は思案の末にサロンに居た女中に役目を担わせた。彼女はハンナという名で、数代前から侯爵夫人の実家に仕える騎士の家の身分だ。生まれた時から夫人に仕えて、主人の秘密を決して洩らさない。結婚して子供も二人いるから妊娠しても誰も疑わない。
筋書きはこうだ。まずハンナが妊娠したので育児休暇を言い渡す。無事に出産して実家に赤子を見せに行く時に運悪く家族が乗った宇宙船が事故に遭って赤子だけが生き残った。不憫に感じた侯爵夫人が引き取って養育する。
無論事故は狂言で、ハンナの一家は名前を変えて夫人が所有する星系の荘園にて、不自由なく生活できるように取り計らう。公的な役職に就きたければ、フレーゲル家も便宜を図る。ここまで約束して納得させた。
もとより彼女の家は侯爵夫人の庇護によって暮らしている。全てが終わった後に口封じに始末されるより、余程情と誠意があると思わないとやってられない。
脚本を話し終えたフェリクスは夫人の血液を採取して館を辞した。あまり話し込むと医師達から不審に思われる。あとは皇帝の勅命による『劣悪遺伝子排除法』の廃絶を見届けるまで待たなければならない。
翌日、夫人宛にコーヒーの礼として、大量のアイスクリームを冷蔵庫付きで贈った。その中に精子を冷凍する保管機材とマニュアルを忍ばせてある。
それから約1ヵ月後、銀河帝国全土に皇帝フリードリヒ4世の勅令が降りた。『劣悪遺伝子排除法』の完全廃止が宣言されたのだ。
世間は悪法を廃絶した皇帝を讃え、幾つかの帝国臣民の家ではお祝いの席が設けられる。
降って湧いた祝賀の中、フェリクスは人知れず自宅兼研究室に招いたハンナに受精卵を着床させた。
受精卵はベーネミュンデ侯爵夫人から受け取ったフリードリヒ4世の精子と、夫人の血液から細胞を摘出培養した卵子を受精させた胚だ。
当面の仕事を終えたフェリクスはいつになくハイテンションになって、叔父に協力してもらい適当な理由を付けて祝賀パーティーを開いた。公爵も娘のエリザベートの事もあって全面的に賛成した。
ブラウンシュヴァイク一門以外にもキュンメル男爵、マリーンドルフ伯爵親子、リッテンハイム侯爵家、治療した貴族、連絡のついた幼年学校の同期と科学技術研究会、多少のかかわりのある大学医学部の知り合い等々。とにかく知り合いなら誰でもいいとばかりに、片っ端から招待状を送った。
パーティーでは兎にも角にも浮かれて、周囲から「あれほど感情を露にしたのを初めて見た」と驚かれた。
浮かれはしてもパーティーの翌日には素面に戻り、早速今まで溜め込んでいた設計図や企画書を所有する資源衛星のアントン・フェルナーと技術者達に送って、新施設の建築を命じた。
専門知識の無いフェルナーは言われた通り物資と機材を調達して、衛星にある生産工場の反対側の軌道上に設備の建築工事を始める。そして知識のある技術者たちは自分達が何を作らされるのか気付いて一様に慄いた。
新たな施設は生体プラント。しかも人体も培養可能な大規模な設備だった。
余談だが後世の歴史家は、殆ど政務を執らず軍事的評価も低い皇帝フリードリヒ4世のほぼ唯一の偉業が『劣悪遺伝子排除法』の完全廃止、と歴史書に書き記した。