帝国と自由惑星同盟、共に軍事侵攻が起きず平穏に過ぎ去った帝国歴484年から、はや1ヵ月が過ぎ去った485年の1月末。
真冬の
無論現実はそのような夢物語とは無縁である。王宮では昼夜を問わず陰謀の糸が張り巡らされ、貴族の館では毒の注ぎ合いが繰り広げられる。宇宙を見渡せば争いの火種は大火の前触れのように常に燃えている。人は未だ争いから抜け出る事は無かった。
宮殿の西苑にある男子禁制の寵姫の園、ベーネミュンデ侯爵夫人の館にて、フェリクスは雪の日でも数名の宮廷医師と共に職務に励んでいた。ただし今回は主である侯爵夫人の回診以外にも仕事があった。
まだ生まれてから一年も経たない小さな命を丹念に診る。赤子の名はフレイア。フェリクスが個人的な理由で世に生み出した他人の愛の結晶。
そばに居る侯爵夫人は微かに落ち着きを失くして見守るしかない。公的には一家纏めて事故死した使用人の子であり、哀れに思った夫人が引き取り養育している。そういう筋書きになっていた。さらに付け加えるなら、現在は二人は戸籍上では義理の親子の関係になっている。血統上の繋がりが認められないため、侯爵家は継げないが夫人にとってはどうでも良い事だった。
二度と抱けないと諦観していた子供をこの手に抱いて成長を見守れる。それだけで侯爵夫人は幸福の絶頂にある。
検査を終えたフェリクスは素早く異常無しとカルテに書き込んだ。元々頑丈に育つように受精卵の段階から手を加えておいたのだから、こんなものは定期的な確認作業にすぎない。それでも侯爵夫人とのパイプ維持には必要な仕事だった。
そうした医者の職務を部屋の扉越しの隙間から覗き見る幼児の存在には気づいている。夫人も視線に気付き、侍従に扉を開けさせた。
「あら、エルウィン様。お昼寝から起きましたか」
「かーさま―――ふん」
幼児はフェリクスには近づかず、夫人のスカートの後ろに隠れてしまった。幼児の名はエルウィン。3歳になる皇帝の孫である。
「嫌われていますね。子供は敏いから、私がろくでなしなのに気付いているのでしょう」
「まあ慧眼ですこと。それは将来が楽しみですわ。エルウィン様はいずれ素晴らしい皇帝になられます」
母親代わりの侯爵夫人に褒められたエルウィンは初めて笑顔を見せる。
子供に嫌われるのは慣れているからフェリクスは気にしない。それにどう考えても己の所業は狂った悪の科学者である。そんな輩が人々から好意を持たれたり、尊敬を集める方が世の中間違っている。
「さて、フレイアさんは健康ですから、嫌われている私はこれで退散します」
「もうくるな」
幼児からの遠慮の無い罵倒を意に介さず、苦笑いを浮かべて悪徳医師は凍える雪の積もった外に放り出された。
「―――というわけでベーネミュンデ侯爵夫人の館から叩き出されました」
「ぷくくくくっ……ああ申し訳ありません。こんなに笑ったのは随分久しぶりです」
グリューネワルト伯爵夫人は必死に笑いを堪えても、結局耐えきれずに噴き出してしまう。
ベーネミュンデ侯爵夫人の館を辞した後、今度はグリューネワルト伯爵夫人の回診を済ませて、サロンでコーヒーと共に手製のケーキを振る舞われている。
アンネローゼは回診の折、こうしてフェリクスとテーブルを共にするのが、寵姫となってからの数少ない楽しみになっている。他はヴェストパーレ男爵夫人とシャフハウゼン子爵夫人との談笑ぐらいだ。彼女は皇帝の寵姫として帝国指折りの権勢を持ちつつも、派手な娯楽や趣味を持ち合わせない。ただ季節の移りを眺めて過ごす、植物のような女性である。あるいは姉として、弟とその友人が健やかに生きる事だけを願っていた。
そこに弟の友人としてそれとなく助けて、面会すら滅多に許されない中で伝言を運んでくれるフェリクスの存在は、貴族から贈られる宝石の山よりも輝いて見えた。加えて遺伝子疾患の治療を施してくれたのを弟本人から聞かされているので、恩人扱いだった。
「子供にとって母に近づく見知らぬ男は全て敵なのでしょう。あとは妹を護ろうとする意識もあったかもしれませんね」
伯爵夫人は相槌を打つ。男には血縁や地位の知識は無くても、本能的に身近な女を護ろうとする意識が働いたのだろう。あのエルウィン・ヨーゼフという皇孫は、将来気持ちの良い青年になるかもしれない。
「母の記憶の無い私にはよく分からない感情ですが、弱い子供を守ろうとする気持ちは少し分かりますよ」
思い浮かぶのは母の血に塗れた幼いカーテローゼ、あるいはやんちゃなサビーネもか。従姉妹のエリザベートはあれで己よりしっかり者だから、守るような感情はついぞ持ち合わせない。そういえば最近自宅の掃除にカーテローゼが来ているのを思い出す。今年12歳になり、随分大きくなった。侍従として周りの評価も高い。いずれは良い男を見つけて家庭を持つと思うと、その時自分はどうなっているのか。多くの男のように所帯を持っているのか、それとも変わらず研究の虫として楽しくやっているのか。明確に想像が出来ない。
翻って友人ラインハルトとキルヒアイスはどうだろうか。あの二人は今も軍艦を翼に宇宙を飛び回っている。そこに女性が入り込む隙間は限りなく狭い。娼館にでも通うならまだ色気の盛りと笑い話も出来るが、たまの休暇は下宿先で戦術や政治研究、チェスを嗜み酒を飲む。見事なまでに女っ気が無い。異様に異性への興味が薄いのは、もしや男色の嗜好と邪推してみたものの、あの二人からは色事の気配が読み取れない。遺伝コードから性的嗜好の解析は無理だ。未知の発見は楽しいが、友人の性癖など知りたくもない。しかし女を宛がってどういう反応をするか試してみたい気もある。
娼館は過去に断られたから、それとなく建前が作りやすい貴族の夜会に連れて行くのが良い。容姿は文句無し、身分も寵姫の弟かつ現在は准将にまで昇進した新鋭の軍人。貴族令嬢が蟻のように群がってくること間違い無いわけだ。
そういうわけで姉に弟を貴族のパーティーに連れて行く意向を伝えると、快諾を得られた。
「ところで弟君はどういう女性を好むのかご存じですか?」
「申し訳ありません。私もあの子が女の子と接するのを見た事が無いもので。いつもジークと一緒に居るんですよ」
「ふぅむ、では総当たりで貴族令嬢を紹介してみるか。一人ぐらい反応が良い女性がいるでしょう」
「もしよろしければジークも連れて行ってあげてください。戦ばかりでなく良き縁が得られるかもしれません」
ラインハルトは既に准将の地位を得ているので、軍高官の立場から拒否はされない。キルヒアイスの方は自分の連れという形なら、拒否を示される事は無かろう。パーティーで良縁が得られれば、それを肴に伯爵夫人との茶飲み話も盛り上がる。
甘いコーヒーを飲み終えて、伯爵夫人の館を辞したフェリクスは宮廷医の事務所に今日の分のカルテと報告書を提出して、無駄に広い
2mの長身に牡牛を思わせる発達した筋肉を纏う、巨躯と評するに相応しい益荒男。左頬には相変わらず大きな傷がある、帝国一の戦士『装甲擲弾兵総監』オフレッサーである。
フェリクスは見上げる大男の前に立ち、深く頭を下げる。それは恐れからの仕草ではない。道を極めた一人の偉人への最大の敬意を示したのだ。
「ご無沙汰していますオフレッサー上級大将。私の事を覚えておいでですか?」
「おお覚えているぞフレーゲル殿。最初に会った幼年学生から5年は経ったか。さすがに坊やの顔ではなくなったな」
オフレッサーは義歯だらけの歯を見せた後、頭一つ低いフェリクスの顔をまじまじと見つめて豪放に笑った。
「人死にを幾度も見てきた良い面構えだ。兵と医者とで違いはあるが、卿は既に一端の男だ!」
「閣下にそのように言っていただけるのは誉です」
人を殴り殺すために生まれた野人と数百年に一人の天才学者が仲良く談笑している。周囲に居合わせた官吏や貴族は目を丸くして驚いた。
オフレッサーとは幼年学生の頃から付き合いがある。学生時代にパワードスーツに搭載する補助AIの開発に、装甲擲弾兵の動きを参考にしたのが始まりだった。そして新型スーツは完成して、今では正規軍の多くが制式採用している。
フェリクスが幼年学校を卒業してから暫く足も遠のいたが、スーツの売上の一部を高級酒や特別仕様の医療ナノマシンとして、装甲擲弾兵総監部に毎年届けているため今も良好な関係は続いている。
「おれの娘が卿と同じぐらいの年頃だ。妻に似たまずまずの顔立ちでな、卿が望めば嫁にやるぞ」
「意外ですね。閣下なら『娘が欲しければおれを倒して奪っていけ』と無理難題を吹っ掛けると思っていました」
「わはは!それではいつまで経っても娘が嫁に行けんわ。軟弱者には娘はやれんが、卿は見た目以上に強靭だからな」
力強くオフレッサーに肩を叩かれる。当人は軽いスキンシップのつもりでも、フェリクスにとっては結構痛い。そしてこのままでは本当に娘と結婚させられてしまうので、さりげなく話題を変える。
「最近は叛徒も大人しいので、斧を振るう機会が無く閣下も退屈しているのでは?」
「ん?まあ体が鈍らぬ程度に訓練は積んでいるが……ちょっと耳を貸せ」
オフレッサーは熊のような巨体をやや屈めて、フェリクスに耳打ちする光景が滑稽だった。
「実は近々叛徒の星域に出兵があるらしい。おれにもお声が掛かってな。これから部下たちの心身を締め直すつもりだ」
心なしか声が昂っている。二年ぶりの大規模な軍事行動を前に血が滾るのだろう。
反対にフェリクスは顔には出ないが辟易している。また無駄な戦いで人命と金と資源が宇宙の塵になってしまう。次の戦にどれだけ動員されるか知らないが、帝国と惑星同盟双方合わせて最低100万人は散っていく。それが分かっていても軍人でも政治家でもない銃後の己には、精々治療用のナノマシンを増産して、余裕をもって軍に配布してやるぐらいしかやることが無い。
「御武運を大神に祈っておきます」
「うむ、土産に叛徒共の髑髏でも持って帰ろう」
陰で『挽肉屋』と畏怖と侮蔑の籠った異名を囁かれる戦士は、冗談を飛ばして笑いながら去って行った。
友人の金赤コンビも久しぶりの戦に喜び勇んで参じるだろう。どれほどの勇者でも、生きて帰れるかは全て運次第。
手柄はともかく、パーティーで貴族の令嬢に群がられる友人達を肴にしたいから、珍しく無事を祈った。