現在のフェリクス・フォン・フレーゲルは微妙な立場に置かれている。3000名以上の貴族が参加した賊軍リップシュタット貴族連合の盟主ブラウンシュヴァイク公爵の甥であり、勅命を受けた討伐軍総司令官ローエングラム元帥の友人。どちらにも加担しうる立場でありながら、明確に立場を決めずに医師として
そのくせ100隻の艦艇という無視しえぬ規模の私設軍を抱えており、帝都オーディンの留守を預かったモルト中将などは毎日神経を尖らせている。王宮に度々足を運ぶフェリクスと接する機会は多く、医師としての人柄は認めていても血統ゆえに完全には疑いが晴れない。かと言ってローエングラム元帥からは手荒な事は厳禁されている。郊外に駐留する私設兵を刺激しないように、放し飼いの猛獣と接しているような緊張感を孕んだまま、留守番部隊は治安維持に努めるしかなかった。
私設兵らの多くは日々の訓練を消化して、勤務時間が終われば街に繰り出して歓楽街で楽しむ事は認められていた。雇い主は気前が良く、基本給以外にも戦闘の危険手当などをたっぷり払っていた為、兵は派手に遊び、飲む打つ買うの定番で店を潤した。上からフェザーン商人に買収された同盟士官の襲撃を例に、機密漏洩や内通には極めて厳しい罰則が言い渡されており、彼等は休息の中でも一定の緊張感を持って楽しんだ。
カーテローゼも士官待遇のパイロットとして、かなりの高給が口座に振り込まれていた。ただ、彼女はずっと男爵家で養育を受け、屋敷の使用人として働き、今は衣食住が保証された軍人だった。つまり自分で金を使った経験が全く無かった。14歳の少女ともなれば、金があれば流行りの服なりアクセサリーを買ったり、美味しいケーキやアイスクリームなどを腹いっぱい食べる事も出来たが、色々な意味で彼女は普通の少女ではなかった。
せめて同世代や近しい年の女性が近くに居れば、遊びに行ったり何かと世話を焼いてもらえても、軍隊はほぼ男社会。そんな女性は周囲に皆無である。
たまの休みに実家のようなフレーゲル男爵邸に顔を出して、養育者の老メイドや執事とお茶を飲みながら話をするぐらいだった。これは問題があると気付いた屋敷の使用人が主のフェリクスに相談する。彼も問題を受け止めて、一つアイデアを実行に移した。
ある日、主従が訪れたのはとある館。それなりに大きな家屋は、下級の貴族が住むにはちょうど良い広さと格式でも、持ち主の身分に比べれば随分と慎ましい佇まいだった。周囲からはシュワルツェンの館と呼ばれている。住民は姉弟が二人、弟の方はローエングラム侯爵、姉の方はかつて皇帝の寵姫でありグリューネワルト伯爵夫人と呼ばれていた。またの名をミューゼル姉弟ともいう。
五千名の兵が館を警護する中、珍しい客人を姉アンネローゼは出迎えた。
「ようこそフレーゲル博士。お連れのお嬢さんもよくいらしてくれました」
「ご無沙汰しております伯爵夫人。こちらは使用人のカーテローゼです」
自らが世話になり、弟達の友人でもある青年医師の久しぶりの訪問にアンネローゼは心から喜びを表す。
夫人は自らキッチンに立って作ったビーネンシュティッヒ(蜂蜜味のアーモンドとクリーム)のケーキで二人をもてなした。
カーテローゼは使用人ゆえに後ろで控えようとしたがフェリクスは同席を命じた。やや気後れする少女に、アンネローゼは優しくケーキと紅茶を勧めた。遠慮がちにケーキを一口食べたカーテローゼは顔をほころばせる。自らも菓子作りを仕込まれたからこそ、伯爵夫人の腕前に感嘆する。
「最近のお加減はいかがですか」
「特に悪い所はありません。この辺りの空気と環境が合うのでしょう」
控え目な返答だったがフェリクスは
15歳から突然50歳を超える皇帝の愛妾として召し抱えられて、ずっと自らの運命を嘆き諦観の中で過ごしてきた。至高の栄誉と尽きぬ財に群がる白蟻ばかりが無限に寄り、嫉妬と悪意、直接は憚られても中傷も無数にあったに違いない。何もかもが10代の少女にはあまりにも重く苦しい。だからせめて弟とその親友だけは自由に生きてほしいと願い生き続けてきた。
そして前皇帝の死により、ようやく解き放たれた喜びは常人には理解出来まい。
「ただ、やはり警護の方々のご負担は心苦しく思います。弟やジークは必要と言いますが、私には守られる価値はもう無いでしょう」
「万が一という言葉もあります。貴族は千の内の一つが上手くいけば儲けもので謀略を進める。貴女が相手の手中にあれば、ラインハルトは必ず動揺します」
ラインハルトは常勝の将、戦争なら誰も勝てない天才。ならば戦場以外で勝つ術を選択するのは誰もが考える。最も手堅いのが妻子を人質にして降伏を促すなり、命令を聞かせる事。あるいは味方とて逃亡防止用に妻子に銃を突き付ける。ましてグリューネワルト伯爵夫人は唯一の肉親。必ず効果があると貴族連合は狙ってくる。
フェリクスは後で知った事だが、実際にラインハルト暗殺を企てた者が居る。ブラウンシュヴァイク公爵家に仕えるシュトライト准将は、無用な戦を回避するために独断で暗殺を企てて、後に捕まり暗殺対象の前に引き立てられた。そこから色々あって自由の身になり、現在はオーディンの自宅で大人しくしている。前例がある以上は警戒を解くのは愚行以外の何物でもない。
それはアンネローゼ自身も分かっている。ただ、やはり既に寵姫からただの下級貴族の女性に戻ってもなお、数千の兵に囲まれて日々を過ごすというのは、口には出さずともストレスがある。
「伯爵夫人がよろしければ、うちのカーテローゼを預かっていただけませんか」
「えっ?あのフェリクス様…」
主人からの突然の申し出にカーテローゼは混乱する。アンネローゼも相手の意図が読めずに微かに警戒心が出る。
「深刻な理由はありません。この子は使用人として私や
加えて教育が偏っていたせいか、年頃の女性の嗜好が薄い。夫人の傍にいれば少しは女性らしい楽しさを学べる。あるいは伯爵夫人と交友がある貴族の夫人と面識を持つ事で、様々な手ほどきを受けられるかもしれない。
「それに伯爵夫人はケーキ作りの達人です。刺繍も優れていると耳にしました。うちの子にご指導願えませんか」
「……そういう理由でしたら、カーテローゼさんをお預かり致します。いいですね?」
「は、はい。こちらこそご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします」
「何事も経験です。それに戦は長くても半年でしょう。それまでしっかりやりなさい」
勝手に話が進んで纏まった。貴族に仕える使用人にとってはよくある事だ。それでも極めて和やかな頼みだったので、アンネローゼも快く了承した。少しだけフェリクスを疑ってしまった罪悪感も影響があったかもしれない。
翌日からカーテローゼはシュワルツェンの館でアンネローゼと寝食を共にするようになる。初めは使用人として仕えている感覚だったが、次第にアンネローゼの方から距離を縮めていき、二人は街で買い物をしたり、ケーキレシピを交換、親交のある貴族夫人を呼んでお茶会にも興じた。
シャフハウゼン子爵夫人などは、年の離れた姉妹のように見えると二人を評した。
ヴェストパーレ男爵夫人もカーテローゼを気に入り、よくドレスで着飾らせて連れ回しては、貴族令嬢のように扱って周囲の若い男を謀る事もあった。夫人たちは知らなかったが血統で言えば彼女も帝国貴族だったので、全くの出鱈目とも言えない。
フェリクスの目論見は成功した事になる。
ちなみにドレスで着飾ったカーテローゼと、いつもの男装姿のヒルデガルドが同席した事が一度あった。その時フェリクスはうちの子の方が余程貴族令嬢に見えると、かなり失礼な事を内心思ったのは秘密である。
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カーテローゼをグリューネワルト伯爵夫人に預けて数日後。フェリクスは宮廷医としてベーネミュンデ夫人の屋敷を訪れて、養子のフレイアの診察を済ませた。既に4歳になった幼児は落ち着きが無く、四六時中舌足らずな言葉でまくし立てたり、診察中でも部屋から逃げ出して遊びに行こうとするような活力の有り余る子供に成長していた。
実母にして養母のベーネミュンデ夫人は口では大人しくするように叱っても、本心では娘の壮健を誰よりも喜んでいるから効果は芳しくない。先立たれた夫が残してくれた忘れ形見となれば、ただ健やかに成長してくれるのが夫人にとって何よりの救いだった。
やんちゃな娘に手を焼かされて、早くも疲れを見せながら宮殿を歩くフェリクスは、廊下の曲がり角で妖怪に出くわす。
「これは宰相閣下。ご壮健な様子、何よりです」
「フレーゲル博士はふむ、少々疲れが見えるようだな」
政治の鬼、保身の妖怪、死にぞこないの腐れ爺、様々な異名を持つ銀河帝国宰相リヒテンラーデ公爵に深々と頭を下げる。宰相は顔には出さずともフェリクスを警戒する。ブラウンシュヴァイク公爵が盟主となった賊軍(貴族連合)と討伐軍の全面衝突が目前に迫る中で、公爵の甥ではたとえ宮廷医師として中立を明言しても色々と邪推する者はいる。リヒテンラーデも70歳の半ば、50年以上宮廷に棲み続ければ相手の腹の内を探るのは本能になっていた。
「先程、幼児の診察を済ませたところです。お見苦しい姿をお見せして申し訳ない」
「ははは、それは仕方のない事だ。儂もひ孫の相手は政務より余程疲れる」
矍鑠とした笑いは好々爺と呼ぶに相応しい。ただし、妖怪がそんな人の良い老人なはずがない。笑みの裏には必ず謀略があると
老人はさりげなく若者を労うための茶に誘った。宰相からの直々の誘いとあらば若者が断る事は無理だった。仕方なくフェリクスは妖怪爺のお供をする羽目になる。
王宮内の客間の一室にて、腐れ狂科学者とド腐れ宰相は対面してコーヒーを啜る。宰相は無糖、フェリクスは砂糖マシマシだ。
「貴殿とは一度腰を据えて話しておきたかった。先帝やエルウィン陛下もお主の事を口にしていた」
「それは恐れ多い事を。大抵は罵倒でしょうが」
宰相は否定せず含み笑いを止めない。幼帝エルウィンが即位してからは彼を診察する事はないが妹扱いのフレイアは定期的に診ているので、未だに敵扱いをされる。幼くとも皇帝から敵意を向けられるのは割とシャレにならないのだが、そこは母代わりのベーネミュンデ夫人が宥めてくれるため、今も首が繋がっている。
「陛下がこのまま長じて頂ければ、帝国はこの先数百年安泰なのだがな。それが分からぬ者が多いのは嘆かわしい」
さっそく嫌味攻撃である。叔父や兄が率先して反乱軍を形成して国を二つに割った恨み言を、唯一残った肉親のフェリクスに遠回しにぶつける。
(あんたが強引に皇帝を決めたからだろうが。そのくせいつまでも引退しないから怨みを買うんだぞ)
内心色々と言いたいがさすがに直接罵倒は拙いので、遠回しに「宰相閣下のご心労こそ帝国の宝です。いつまでも忠義を尽くし下さい(精々苦労して寿命を縮めろ)」と空々しく持ち上げておいた。
その後も妖怪は遠回しに、貴族連合と連絡を取っているのかとか、今からでも自分の陣営に来れば少しは美味しい思いをさせてやる、などと腹を探る会話が続いた。
フェリクスは陰湿爺の疑り深さに嫌気がさした。政治の中枢に居るとここまで人を疑ってかかる、性根が捻じ曲がって腐るとは思わなかった。叔父や兄はよくもこんな煮ても焼いても食えぬ毒魚の干物と、毎度顔を突き合わせて鍔迫り合いを続けられると、心底尊敬の念を抱いてしまう。
「―――時にフレーゲル博士はローエングラム侯爵と親交が厚いと聞いている」
「ええ、幼年学校からの付き合いですから、そろそろ10年に届きますが」
「副将のキルヒアイス上級大将とも同じぐらいか?」
頷くと、リヒテンラーデは一拍子沈黙を挟んだ後、至極自然を装いながら二人が仲違いをした事があるか尋ねた。
「私が知る限り一度もありません。常に二人は同じ道を歩み、戦場での苦難を共にしました。並々ならぬ絆ですよ」
「なるほど、断金の契りというものか。侯爵と上級大将の仲はそれほどに強固と。ではもう一つ、キルヒアイス上級大将は友に相応しい爵位を望むか?侯爵はそれを喜ぶだろうか」
空気が変わった。フェリクスは宰相から放たれる粘着いた悪臭を感じ取った。兄が陰謀を企てる時にたまに放つ臭いに近いモノを、対面の腐れ爺が垂れ流している。以前薔薇園で先帝と同席した時には爵位の話が出ても全く感じなかったのに、こっちの爺はあからさま過ぎる。
ここで思案する。陰謀に軽々しく加担などしたくない。かと言って見え透いた出鱈目など、政治の鬼と呼ばれるリヒテンラーデは容易く見抜くだろう。嘘をつかず、爺の利にならぬ回答。中々難しい言葉選びだ。
「キルヒアイスは元々平民出です。爵位にはさして拘らず、分を弁えた男です。侯爵は…さて、妬心よりは友が軽んじられる方が面白くないでしょう」
「ふぅむ………では賊軍を討伐した暁には叙爵も考えねばならんか。後は箔付けにいずれかの名家から嫁を貰い、帝国の新たな藩屏となってもらわねばな」
読めた。この爺、キルヒアイスを自分の家に引き込んで、ラインハルトと仲違いさせるつもりだ。いずれかの家などと空々しい、自分の身内の娘を娶らせてキルヒアイスを使い捨ての猟犬にする気だろう。
ラインハルトは覇気が強すぎて扱いにくく、野心を隠しもしない。下手をすれば宰相自身が喰われる危険がある。それに今はマリーンドルフ伯爵家とその令嬢と懇意にある。既に相手の居る男に無理に婚姻をねじ込むと話が拗れる。
だからもう一人の比肩する、そして平民で政治に疎いキルヒアイスを抱き込んで、握らせた毒刃で友の心臓を突かせる。そんな筋書だろう。何とも陰湿極まりない。
「下世話な話になってすまぬが、キルヒアイス上級大将はどのような娘が好みなのだろうか」
「……以前、私は二人を娼館に誘った事があります。その時、それなりに歳と経験を積んだ娼婦を紹介しようとしたのですが、彼等は断ってしまいました。年下の方が好みだったのでしょう」
「年下か。あの二人は20を過ぎた程度だったな。それぐらいなら婚姻を結んでいない適齢の娘は多かろう」
「キルヒアイスはより幼い方が好みだと思います。年端も行かぬ、6~7歳ぐらいがちょうど良いでしょう」
「な、それは本当かね!?いやさすがにそれは幼過ぎる」
「人の好みは人の数だけあるという事でしょう。世には様々な人間が居る、閣下もご理解ください」
リヒテンラーデは脂汗をかいて考え込む。500年の帝国の歴史の中には、そうした倒錯的な性癖の皇帝や貴族は一定数いる。過去の判例に詳しい保守的な門閥貴族だからこそ一概に否定出来ない。まして10年付き合いのある友人からの証言だ。碌に知らぬ自分よりは確実な情報だろう。
キルヒアイスを抱き込むためには幼い身内を生贄に差し出さねばならぬ。政治の鬼とまで言われても、罪悪感や躊躇は捨て去っていない。しかし、ここは一族の繁栄と帝国の未来のために苦渋の決断をせねばならない。
「フレーゲル博士、貴重な情報を感謝する。そろそろ執務に戻る時間ゆえ、失礼させてもらう。お主とはまたゆっくり話をしたいものだ」
席を立ち、年に似合わぬ機敏な足取りで糞爺は退出した。あの様子なら出鱈目を真に受けただろう。ああいう手合いは意味や利害のある嘘なら簡単に見抜くが、どうでもいいしょうも無い嘘の方がバレにくい。人物評の前半は正直に言ったから、事実と嘘を混ぜる事で余計に嘘と見抜くのは難しい。
数日して我に返って気付くかもしれないし、そのまま本当に友人に幼女を送り付けるかもしれない。どちらにせよ嫌味の報復に、からかって遊ばれた事には気付くだろう。
若造の悪戯に本気で怒るほど宰相も暇ではない。根に持つような小心ならとっくにストレスであの世行きだ。さらなる報復は無かろう。
「いっそ本当にストレスであの世に行ってくれないかな」
まあ無理だろう。あの手の妖怪は長生きするのが世の常だ。政治的に追い詰めるのは困難だろうから、力技で襲撃して暗殺なりしたほうが幾らか成功するだろう。
ラインハルトがあの爺と決別する時、どういう手段で排除するだろうか。部外者は楽しみに眺めていよう。
そういえば自分は前世の年齢も加えればあの宰相より年上だった。