帝国歴489年1月2日。銀河帝国の新年は穏やかに始まった。昨年の貴族が軒並み没落した激流に比べれば、実に静かな幕開けに見える。尤もそれは単なる嵐の前のほんの小休止でしかない事は、聡い者ならすぐに分かる。
嵐の一つは1日に正式公表された現皇帝エルウィンの譲位と新帝アマーリエの即位の予告である。今年の3月に幼帝が退き、その翌日に叔母であるアマーリエが即位する。公表はされなかったがゴールデンバウム王朝最後の女帝として。
元々6歳で即位した幼帝に政治など分からない。代わりに公爵夫人として、それなりに人生経験を積んできた女性の方が皇帝には相応しいと考える臣民の方が多かった。民にとっては雲の上の顔すら碌に見ない皇帝など、誰がやっても大した問題にしない。必要以上に粛清をせず、悪法を敷かず、重税を課さない皇帝なら誰でも歓迎された。
それに今は若き軍人宰相ローエングラム公爵が政治の実権を握っている。彼なら上手く帝国を切り盛りしてくれる信頼があった。
『きっとローエングラム公爵が新王朝を建てても、より良い方向に帝国を導いてくれる』
民は激しく移り変わろうとする帝国に吹く良き風を期待していた。
風の中心に立つ若き宰相は新年とて休む事を知らない。午前中は元帥府で軍事、午後は宰相府にて政治を消化している。兼務しているならどちらかに居座るか統合してしまえば済むのに、やたら潔癖で頑固だから形式を変えようとしない。まあ一緒くたにすると、後々妙な前例になるから、やらない方が長い目で見て合理的と判断したと思われる。
現在は午後3時を回った。よって今のラインハルトの仕事場は宰相府である。辺境の治安維持組織の再編成の報告書に目を通している時、不意に秘書官の一人から急な来客の連絡があった。宰相相手にアポ無しで面会するのは普通門前払いをされるが、秘書が連絡を寄越す程度には判断に困る相手なのが察せられる。この時点で宰相は客が誰か気付いて、名を出す前に執務室に通すように命じた。
部屋に入ってきたのは友人のフェリクスである。新年の挨拶をそこそこに、来客用のテーブルに荷物を乗せて、椅子に座って黙っている。ラインハルトが書類を読み終わるまでは仕事を中断しないのは、長年の付き合いで分かっている。
しばらく待って書類に決裁の国璽の印とサインをして、年配の秘書に取りに来させてからやっと客の対面に座す。
「相変わらず仕事の虫ですね。新年なら3日ぐらい休んでも誰も文句を言いませんよ」
「今が一番大事な時だ。1日でも周りを気遣って休んだのを褒めろ。それで何か問題でも起きたか?」
「個人的に面倒な事があるだけで、今のところ困っていません。友人に新年の挨拶と差し入れを持って来ただけですよ」
箱を開けると豚の顔をした沢山の小さなパン『グリュックスシュヴァイン』がラインハルトを見つめている。豚は古くは豊穣のシンボルであり、おめでたい生き物として扱われる。豚を模ったお菓子は新年を祝う定番だった。給仕がコーヒーを持って来たから二人で食べる。一口食べてラインハルトが疑問を持った。
「姉上の味に似ている」
「うちのカーテローゼが焼いたものです。レシピを教えてもらったんでしょう」
ラインハルトは納得した。昨年の貴族連合との戦いの最中、友人の従者にして凄腕パイロットの少女が姉と寝食を共にしていた。フェリクスなりに姉を気遣って同性を傍に置いてくれたのを知っている。
その姉は現在キルヒアイスと一緒に館で新年を祝っている。二人は既に婚約しているため、誰にも憚らずに同じ館で絆を深めていた。弟であり親友のラインハルトは少々寂しいと思いつつ、二人を祝福するためキルヒアイスに新年の休暇を言い渡した。いつも側に居る首席秘書官のヒルデガルドは家のパーティーに父親共々出席している。ラインハルトは他に親しい友人や身内もいないから、一人で官舎の自宅に居ても仕方が無いから仕事をしているんだろうとフェリクスは思って、宰相府を訪ねてきたわけだ。
「卿の口からカーテローゼ嬢に礼を言っておいてくれ。そういえば個人的な面倒な事とは?」
「自称親戚が新年早々群れを成して家に来るのは面倒でしょう」
フェリクスの心底忌々しいという口調に、ラインハルトは嘲りと共に同調した。
昨年の内戦が終わってから、没落したブラウンシュヴァイク一族の生き残りが家の再興を求めて頻繁に面会を希望していた。多くは叔父と共に戦争に参加して死亡した者の遺族である。彼等は一族でほぼ唯一、勝者のラインハルトと友好的だったフェリクスに、貴族への復帰の仲介を頼んでいた。もしくは経済的に困窮しているから援助を頼んだり、働き口の斡旋(労働ではなく領地管理など)を求めていた。碌にあった事も無い親族が家系図を持ち込んで、何代前に血が繋がっているから助けろなどと言われても通るわけがない。
中には管理している資源衛星の研究所に直接乗り込んで、勝手に『自分は親戚だから今から監督する』などと言い放った男には、フェリクスも激昂して即座に生体工学研究所に被験体として放り込んだ。その後どうなったか知らない方が賢明な末路を自称親戚は迎えた。
ラインハルトも身に覚えのある話である。彼も姉が寵姫に召し抱えられた直後、会った事すら無い親族が異様に増えた。幸いすぐに幼年軍学校へ行き、後はずっと軍務に就いたおかげで直接会わなかったが、裏で社会秩序維持局が色々と動いて、結構な数が不敬罪に問われて刑務所に放り込まれるか死亡していた事を後で知った。お気に入りの寵姫を煩わせないように、皇帝が何か手を回したとの噂もある。
ともかく一族の誰かが成功すると、砂糖に群がる蟻の如く浅ましい人間が集まるのは、古来より絶えぬ伝統である。
「恥を知らん奴はどこでもいる。俺の家が電気を止められるほど貧しかった時に手を差し伸べなかったくせに、何故そんな輩を重用せねばならん」
「中にはシュトライト准将とかシューマッハみたいな有能な者もいるんですが、比率1%では会う気にはなれません」
「ああ、シュトライトは知っている。なかなか見識がある義理堅い男だったな。出来れば俺の秘書官の一人にと思ったが卿の下に行ったか」
シュトライト准将はかつてブラウンシュヴァイク公爵の下に居た高級士官である。リップシュタット戦役が始まる前にラインハルト暗殺を献策して、却って公爵に疎まれてオーディンに置き去りにされた。その後に憲兵に捕まりラインハルトの前に突き出されたが、才と忠義を気に入ったラインハルトが無罪放免にして、内戦中は家族とひっそりと暮らしていた。
戦が終わると糧を得るために、過去の縁を頼ってフェリクスに跪いた。能力は知っていたので、シュトライトをアントン・フェルナー少将の下に送り、資源衛星の管理を手伝わせた。元は同じ公爵家に仕えていたため、二人はある程度知る仲。今も上手くやっているとのこと。
シューマッハ大佐も元はフレーゲル男爵の参謀だった。彼は内戦を部下と共に生き抜いて、男爵の最期の言葉に従って弟の下に来た。実戦経験豊富な軍人は大歓迎だったので、彼とその部下達は私設艦隊へと編入された。シューマッハは現在グリルパルツァー提督の幕僚に加わっている。
「ところで卿の所にメルカッツ提督は顔を出していないか?内戦後も行方が分からん」
「いえ見ていません。私はその提督を詳しく知りませんが、誰かに匿われていると?」
「死んだという話は聞かん。あれほどの老将に国内で騒がれると少々厄介でな」
「帝国で比類なき権力を振るう宰相閣下に盾突いてでも、敗軍の老将を匿って戦力にしようとする勢力。貴族ならそんな事をせず突き出して、貴方に媚びを売るか信用を得て後ろから刺す。かと言って平民がする理由が無い。―――どちらかに亡命したかな」
「同盟かフェザーンにか。メルカッツの性格では商人に下るとは思えん。となると消去法だな。奴は同盟に居る」
「で、メルカッツを理由にまた戦をしますか?」
「論外だ。亡命者など過去に幾らでもいる。それこそ皇帝でも亡命しない限りは、亡命者が戦の理由になどならん。向こうから攻めるなら話は別だが、連中は割れて今それどころではない」
帝国の最上位実務者が戦は無いと言えば戦は無い。そして同盟が帝国に兵を差し向ける余裕が無いのも事実。
昨年4月1日に帝国同盟双方で起きた内戦は、フェリクスもイゼルローン回廊で耳にした。
帝国は貴族の反乱。同盟は幾つかの惑星の武装蜂起と地方星域政府の独立である。
地方の惑星が【救国軍事会議】なる反乱軍の手で同時に複数武装蜂起して、これらにヤン・ウェンリー大将率いる第13艦隊が鎮圧にあたった。結果は蜂起した反乱軍は全て早期に鎮圧された。
【救国軍事会議】の武装蜂起は大した事は無かった。より深刻な問題だったのが地方政府の独立宣言である。
首都星ハイネセンから離れたフェザーン回廊に近い三つの星域、バラトプール星系、ジャムシード星系、シャンダルーア星域が中央政府の度重なる政治的失敗に対して、不信感から独立を宣言。『自由連合協定』を結成している。自由惑星同盟と敵対こそしないが今後は独自路線を進む事を突き付けた。
当然ハイネセンの中央政府と最高評議会は激しく狼狽えた。地方政府が武力制圧されたわけでも、独裁政治を市民に強要もしていない。ごく自然的に同盟市民が政策投票を行い、賛成多数により中央政府の干渉を拒否した。実に民主主義らしい手段を以って、無能な政治を行い続けるハイネセンの政治家共に中指を立てた。
当然ハイネセンの最高評議会臨時議長トリューニヒトは、三つの星域の地方政府を『共和主義への重大な背信行為』と批判。投票結果の無効を公式表明した。しかし既に『自由連合協定』は同盟全土に大々的に独立宣言しており、他の星系の地方政府も最初に声を上げた者に倣うような動きを見せている。
まるで家庭を顧みず事業にも失敗した家長の夫に離婚届を突き付けた妻を、必死で宥めて撤廃させようと苦心している。あげくに日頃の悪い行いを知っている子供や親族も関りを避けるような状況だ。家庭内に手一杯で
「あとは噂程度だが同盟は、我々帝国と和平と共存を結ぶか、戦争継続の意見で民衆が揺れている。フェザーン駐在の役人がそのような書簡を送ってきた」
本来その役目は一役人ではなく、帝国の外交官に相当する高等弁務官だったが現在は空席になっている。
以前はレムシャイド伯爵が長年席を護り続けていたが旧体制により任ぜられたため、いずれは座を追われる事を悟り自ら職を辞した。新体制の最高権力者であるラインハルトに膝を折れば、あるいは再任されたやもしれぬ。しかし彼は成り上がりに媚びを売るの善しとしない名門意識が強かった。現在は余りある財産を投資に充てて、利潤により不自由の無い生活を送っている。尤も当人は無聊を託つ生活を強いるラインハルトを強く恨んでいるとの話だ。
帝国は伯爵の後任をフェザーンに送っていない。既にフェザーンを重要視しない。精々が同盟の簡単な情報を得るための場ぐらいにしか見ていなかった。
「隣国が新体制に代わった事を契機として、新しい関係を模索するのはよくある事です。帝国も内政に力を割く時が必要なら和平も悪い選択ではない」
「そうだが同盟がどのような結論を下すのか不明な点が多くてな。卿は俺より民主主義に詳しいようだから、色々と意見を聞いておきたい」
フェリクスの前世は一応民主主義国家の国民だったから、碌に選挙に行かなくても基本的な事は知っている。
現状同盟の政局で分かっているのは、和平推進派のエドワーズという新人の女性政治家が中心になって反戦運動と帝国との和平を模索している事。民衆は帝国憎しの論調が強くまだ弱小勢力でも、最高評議会議長のトリューニヒト陣営の中にも賛同者が居るため、思ったより無視しえない存在になっている。
軍部の中にも無能な政治家の命令で死地に送られる事に腹を立てている者が多く、表向きはともかく潜在的には戦いを歓迎しない空気がある。
「加えて同盟内の武装蜂起と地方の独立騒ぎ。こんな状況で戦争を続けたら、ますます地方政府は中央政界に愛想を尽かす。帝国の皇帝と貴族の関係と違って、同盟の中央と地方は主従ではない。離反の加速を恐れて、主戦派もおいそれと軍は動かせない」
「ではしばらくは同盟も軍は寄越さないか。こちらから何か軍事行動を見せれば、却って危機感を煽って結束を招くな」
「向こうが勝手に仲間内で争ってくれるなら我々は何もしないか、対立を煽るような工作をした方が効率的です」
年単位で煽り続ければ同盟は確実に弱体化、さらなる分裂につながる。そして中には帝国側に身を寄せる集団も出てくる。その時、武力制圧して領地に加えるか、従属国化するなり自治を約束して勢力圏に組み込めばよい。それなりに時間はかかるが兵の損失と軍事費は抑えられる。
ラインハルトは対立の工作という言葉に、以前同盟との捕虜交換が棚上げになっていたのを思い出す。あれは同盟にスパイを送り込んで一騒動を起こす策謀の一環だったが、バイド汚染からのフェザーンの工作で霧散した。その後、同盟の不手際の積み重ねに助けられた形で内紛が起きて、貴族との戦に介入されずに済んだ。もう一度同盟に打診して、弱い方の和平派に点数を稼がせてやり、捕虜の中に地方独立の工作員も混ぜてもいいかもしれない。
「和平派の政治家に接触できればいいが伝手が無いのが歯がゆい。この際軍人でも構わんが……そういえばイゼルローン回廊に駐留しているヤン大将は戦には否定的とキルヒアイスが言っていた」
フェリクスもヤンの事は多少知っている。軍人よりも冴えない学者のような風貌。観察眼に優れて感情よりも理性や利を優先する中年に見えた。イゼルローン要塞を陥落させる詐術、武装蜂起した軍を速やかに鎮圧する鮮やかな手際。それにアーサー・リンチが帝国の捕虜になった、エル・ファシル星の民を脱出させる指揮を執ったのも彼と聞いている。帝国の主だった将は大体好戦的で武人面をしているのに、出世街道を歩む切れ者軍人が非戦的思考をしているのは面白い。例外はキルヒアイスぐらいか。彼は幼馴染のシスコン戦狂いに付き合っているだけで、そこまで戦いが好きではない。だからすっぱり軍人を辞めて文官に転身出来た。
ヤンは今もイゼルローンに張り付けられている。反乱鎮圧の功績があっても昇進はされず、元々上に対して反抗的な態度が問題視されて、政治家にも煙たがられていた。それでも同盟屈指の将として使えるため、最前線のイゼルローン回廊に番犬として留め置かれていた。それが今回は幸いして、またキルヒアイスを使者に送って捕虜交換を再開させるように書類を作る。肩書は現在空位となっていた高等弁務官である。宰相の名代として同盟に赴くなら、これぐらいの役職に就いていなければ相手に軽く扱われる。いっそ和平派のエドワーズ議員とやらを責任者に指名して、同盟を内部分裂させてもいい。
「実際の捕虜交換式は無理だろうが何とか結婚式前に話を纏めたいものだ」
「結婚早々長期出張をさせたら二人に恨まれますからね」
「姉上はずっと苦労してきた分、これからは幸せになってもらいたい」
「貴方自身は結婚を考えないんですか?皇帝になる以上はそういう話はずっとついて回りますよ」
友人に何気ない疑問を投げかけられた宰相は、きまりが悪そうに豚のパンを頬張って無言を貫いた。
同じような話題は宰相になってから、幾度となく役人がそれとなく舌に乗せている。その都度その気は無いと告げても、さしたる効果が無かった。
ラインハルトも宰相府に持ち込まれる婚姻相手の写真や家系図の山に、役人が苦慮しているのを知っているから、努めて感情を出さずに素っ気なく結婚への関心を遠ざけていた。
「……卿も王朝を存続させるには血統が必要と思うのか?」
「必須ではないですが代替わりを安定させる手段としては有効です。能力ありきの継承は血統主義以上に揉める元ですよ」
「だがゴールデンバウム王朝はルドルフの血に拘り過ぎて潰えた。権力は個人の能力に付随ものであり、玉座を血などという不当な理由で独占して、多くの人々を数百年に渡って不幸にする。俺は過ちを繰り返すわけにいかん」
世の混乱を憂うのは殊勝な心掛けでも、能力を担保にした王位の継承とて古代から内乱や戦争の火種になってきた。血統による権力継承が完全な悪とは言えないのだが、この友人は前王朝という酷い反面教師のせいで過剰に嫌っているように思える。
ゴールデンバウム王朝に育てられたラインハルトがろくでなしの親に反発するのは、単に潔癖だからだろうか。
それとも自分の子供が権力を振りかざして、誰かの家族を奪う事を恐れているのか。
あるいは姉を皇帝に売った父親のようになりたくないから、結婚せず子供も作らないのか。
「ひとまず権力の継承の条件は置いておくとして、結婚しない場合、令嬢は良いんですか?」
「えっ?いや、なぜそこでマリーンドルフ令嬢の名が出る?」
おっ、語るに落ちやがった。フェリクスは内心笑った。誰もヒルデガルドの事は言っていない。単に令嬢とだけ言っただけだ。つまり最低でも女性として見ているのは確実だ。
ラインハルトはほんの少し、親しい者に分かる程度の動揺を見せる。
「何故も何も周囲は皆、貴方と令嬢が恋人だって見ていますよ。グリューネワルト夫人以外にも軍の諸将とか、キルヒアイスも次はラインハルト様の番だと言っていましたが」
キルヒアイスの発言は嘘である。
「な、なんだと!お、俺は別にフロイラインの事を恋人などと思った事は無いぞ。あ、あくまで彼女の知性と政治的センスを頼ってだな」
「素直じゃないですね。では明日にでもマリーンドルフ令嬢が結婚すると言い出しても、貴方は構わないと?」
「それは―――」
お若い帝国宰相はその先の言葉が出てこなかった。仮にヒルデガルドが誰かと結婚した所で、あくまで能力を頼りにしているに過ぎないから、そのまま秘書官として働いてくれればそれでいい。
そう思っても心の奥底が酷く不快になる。死んだ恥知らずの父親や先帝程ではないにしても、夫になる男の事を想像すると尽きる事の無い黒いタールのようなネットリとした炎が噴き上がった。
「自分の事というのは存外分かっていないものですね。私が言えることは他人に迷惑を掛けない限り、己の心から生まれる衝動と感情には素直になって行動する事です。でないと本当に父親のマリーンドルフ伯が一人娘に適当な結婚相手を紹介しますよ」
勿論マリーンドルフ伯は娘の自主性を重んじてそんな事はしない。彼もまた娘の相手はラインハルト以外に居ないと思っている。それでもこれぐらい言わないと、異性への関心を母親の胎内に置いて来たような戦争狂は意識しない。
百面相の如く顔色が変わって唸り続ける帝国最強の軍人と、そんな友人を面倒臭い坊やと半ば呆れる狂人。そして宰相の執務室のドア一枚隔てた廊下にて、あまりの羞恥に顔を手で覆う不審者。短く切り揃えた金髪に男装の組み合わせは、美形の青年に見えてしまうがマリーンドルフ令嬢は女性である。
彼女は実家の新年パーティーをそこそこ切り上げて、仕事をしているラインハルトに挨拶に来た。そこで来客中だったため出直そうとして、自分の話題だったため、品が無いと思いつつも好奇心から立ち聞きしてしまった。
男の友人二人の気の許せる本音で、尊敬する上司が自分の事を女性として憎からず想っていたのを知り、顔から火が出るほど恥じらいを覚えてしまった。
部屋に入るに入れず、さりとて宰相の心の内をもっと知りたい好奇心のせいで足が動かない。幸い廊下には誰もおらず、不審者として咎められないおかげでヒルデガルドの名誉は辛うじて守られている。
しかし客人のフェリクスの帰る素振りに気付いて、逃げるようにトイレに駆け込んた。
その後ろ姿をしっかりフェリクスに見られていた事を彼女は知る由も無い。
後日、ラインハルトとヒルデガルドの二人は上司と秘書として顔を突き合わせる。どこかぎこちなく余所余所しい二人の態度に、勘の良い者は何か心境に変化があった事を察して噂し合った。
フェリクスもキルヒアイスに二人の事を軽く話したため、一層事実は拡散した。外堀の埋め立ては加速していく。