帝国歴489年2月末。春の暖かさは未だ遠かったものの快晴に恵まれた。ラインハルト・フォン・ローエングラム宰相は今日ぐらいは神に感謝してやった。なにしろ今日は姉と親友の生涯一度の晴れ舞台である。もしも雨模様だったら雲を戦艦の砲で蹴散らしてやると、数日前から息巻いていた。それも杞憂だったため、当日出動する予定を組まされた艦長達は天に感謝を捧げた。
ジークフリード・キルヒアイス高等弁務官とアンネローゼ・フォン・グリューネワルトの結婚式は、帝都オーディン郊外の式場にて執り行われる。前皇帝フリードリヒ4世の元寵姫かつ、宰相の姉と政府高官の結婚を執り行う式場にしては、ややこじんまりとした建物だったが当人達がここで良いと納得していた。
それに建物の規模と装飾など、花嫁の神々しいまでの美麗により霞んでしまう。それこそ屋外だろうがボロ屋でも大した差にはならない。参列する招待客は誰もが雪のような純白のドレスとヴェールに包まれたアンネローゼに感嘆の息を漏らす。もう一人の主役である新郎キルヒアイスの友人であるフェリクスの隣に居たサビーネですら、言葉を失うほどの衝撃と感銘を受けていた。
アンネローゼと腕を組み連れ立って歩くキルヒアイスもまた長身かつ美形もあって非常に映える。まるで古代の英雄と姫君との成婚の一幕だったと、参列者は口々に語った。
参列者はまず新郎の両親と近しい親類、新婦の弟ラインハルト。次に友人のフェリクスとおまけのサビーネ、ヴェストパーレ男爵夫人、シャフハウゼン子爵夫妻、一時期同じ館で過ごしていたカーテローゼ。元同僚だった元帥府の多くの諸将。カストロプ動乱の折、命を救われたマリーンドルフ伯と娘のヒルデガルド、共に戦ったキュンメル男爵。アンネローゼの元執事のコルヴィッツとその妻、それにキルヒアイスとラインハルトが世話になった下宿先の大家のクーヒリ、フーバー老姉妹。幼年学校の同期生が数名。リップシュタット戦役から従軍したイザーク・フェルナンド・フォン・トゥルナイゼンなども呼ばれていた。
二人は多くの参列者の壁を通り抜けて、祭壇で待つ結婚の証人の前に立つ。老境の証人は結婚の証書を読み上げる。
「今日この時、ジークフリード・キルヒアイスとアンネローゼは晴れて夫婦となった。二人の末永き関係に祝福を」
キルヒアイスは妻となるアンネローゼの顔を覆うヴェールを上げて、誓いの口づけを交わした。
参列者一同からの拍手で会場は満たされて、歓声は最高潮に達した。
式が一先ず終わり、参列者がそれぞれ新たな夫婦に祝福の言葉を投げかける。キルヒアイスは妻になったアンネローゼと共に両親と昔話に花を咲かせる。両親も元はアンネローゼがミューゼルを名乗っていた頃の隣家の住民なので一応の顔見知りだったが平民官吏と、既に返上したとはいえ元寵姫の伯爵夫人では、義娘になっても思うように距離感が掴めなかった。
参列者は新たな夫婦以外にも客同士で積極的に交流を深める。招待を受けたのはキルヒアイスの元同僚の軍人が多かったが、プライベートな客人もそれなりに居て、クーヒリ、フーバー姉妹などは軍高官でも物怖じせずに声を掛けている。明らかに声を掛けにくいオーベルシュタインにも朗らかに接する様は、他の将官に敬意すら持たれていた。
ローエングラム元帥府は全体的に若く、将官の多くは独身者だ。その中で数少ない妻帯者のミッターマイヤー上級大将は妻を連れ立って参列していた。彼の妻はエヴァンゼリンといい、すみれ色の瞳を持ついかにも良妻然とした雰囲気の女性だった。
二人は主賓のキルヒアイス夫妻に挨拶した後、フェリクスとサビーネに声を掛けた。元から知り合いだったフェリクスは簡単に挨拶を交わして、連れのサビーネを紹介する。意外にも侯爵令嬢だったサビーネは平民夫妻にも丁寧な挨拶を心掛ける。連れて来てくれたフェリクスの面子を潰したくないので、内心はどうあれ穏やかに、しかし生まれ持った品位をさりげなく見せるような仕草を忘れない。
「実は先生にご報告があります。妻が懐妊いたしました。これも先生の治療のおかげです」
「それは良かった。これで世の中から一組、悩む夫婦が減りましたね」
ミッターマイヤー夫妻はフェリクスに深々と感謝の礼をする。サビーネはどういうことか疑問符を顔に出したので、フェリクスは簡単に説明する。
ミッターマイヤー夫妻が結婚したのは今から6年前。夫は24歳、妻は19歳。夫婦になってから6年間、二人は喧嘩も無く幸福な関係を続けていたが、一つだけ悩みがあった。これまで一度も妻エヴァンゼリンが妊娠していない。お互いその事で残念に思っているのは知っていた。そこでミッターマイヤーは昨年の末に思い切って、以前世話になったフェリクスに悩みを打ち明けた。
フェリクスは快く悩みを聞き、まず二人の遺伝コードから先天的な生殖機能を調べてみた。結果はどちらも異常は見つからなかった。今度は生殖器官を重点的に調べた結果、ミッターマイヤーの精巣が損傷していたのが分かった。どうも長年の軍務による肉体の酷使が原因ではないかと思われる。
旦那は自分の不徳で妻に長年寂しい想いをさせてしまった事を強く恥じた。
「もっと早くフェリクスに相談していたら解決した問題じゃない」
自らも先天性の病を治療してもらった事があるサビーネの言葉に、ミッターマイヤーは納まりの悪い髪を撫でて、全く以てその通りだと肯定した。事実、二人が知り合ったのは数年前だったから、その時に相談していれば余分な時間を浪費する事は無かった。もっともそれは家同士がライバル関係で迂闊に言えなかったサビーネも同じことが言える。むしろ自分のような貴族のしがらみのない平民だからこそ、彼女は呆れを感じたのだろう。
原因を特定したフェリクスは調整した治療用ナノマシンを数日で用意して使用した。治療を受けてから暫くしてエヴァンゼリンの妊娠が発覚。現在は妊娠2ヵ月とのこと。
「フレーゲル先生のおかげです。その……貴方の一族を破滅させた者の一人が何を言うかと憤るかもしれませんが、生まれてくる子には先生の名を頂けませんか」
「以前も言ったかもしれませんが互いに死力を尽くして戦った以上、私は貴方達軍人を恨んではいませんよ。名前の方は元々ありきたりな名前ですからどうぞ遠慮なく」
「ありがとうございます。では生まれてくる子が男の子ならフェリックス、女の子ならフェリシアにします」
どちらも幸運という意味の名である。帝国ではそれなりに見かける名前で、奇異の目で見られる事も無い。
ここでサビーネはある考えが浮かんで、誰が見ても分かるほどに顔を紅潮させた。もしも自分とフェリクスの子供が出来たらどんな名前がいいか。16歳の少女には些か刺激的な思考実験である。勿論言葉に出す事はなく、周囲はなぜ彼女が顔を赤くしているのか不思議がった。
後年、ジークフリード・キルヒアイスが実は幼児性愛者だったという、トンデモ主張をする歴史家が現れた。その歴史家は当時宰相だったリヒテンラーデ公爵の手記と、彼が一族の幼女を彼の婚約者に選定していた点を根拠とした。尤も世間の反応はすこぶる冷たく、単にリヒテンラーデが老年性認知症を患っていた程度にしか受け取られなかった。
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二人の男女が一つの夫婦になってから、はや一ヵ月が経とうとしていた。暦は既に4月の半ば。ようやく冬の厳しさも過ぎ去り、土からは若葉が芽を出し、春の到来を告げる。
季節の変わり目と共に、帝都には時代の節目が到来した。かねてから予定されていたエルウィン皇帝の退位の式典が
王冠の譲渡。すなわち次の皇帝への権限移譲の儀式である。甥から受け取った王冠を抱えたアマーリエは重荷を背負わせてしまった甥に、周囲に聞こえない程度の小さな声で謝罪し、これからは自由に生きられる事を告げた。自由を得た子供は笑顔を見せて、母の下に軽い足取りで向かう。
エルウィン・ヨーゼフ・フォン・ゴールデンバウム。6歳で即位して7歳には譲位した。1年と半年に満たない在位期間であった。彼自身が成した功績は何も無い。全ては周りの大人にされるがままの傀儡皇帝だったが、少なくとも悪意に晒される事だけは無かったのが幸いと言えた。それは帝国にもエルウィン個人にも幸運な事である。当時の知識人は彼に悪意も好意も無く、ただ事実のみを書き記した。
以降彼は伯爵となり、義母のベーネミュンデ夫人がかつて寵姫だった頃に下賜された荘園を領地に賜った。
アマーリエは王冠を絹のクッションの上に置き、隣に置かれた女性用に軽く作られた黄金のティアラを妹の手で頭に被せられる。その足で玉座へ腰かけた。傍らには副帝になる妹クリスティーネと宰相のローエングラム公爵が侍る。
「第38代銀河帝国皇帝アマーリエ陛下ばんざい!」
広間に響き渡るゴールデンバウム王朝初の女帝にして最後の皇帝への空虚な賛美は、却って参列者の心に寒々しい隙間風が吹き込んだ。
反対にアマーリエ帝とクリスティーネ副帝の心は安堵に満たされていた。互いに伴侶を失ったが娘だけは守り切れた。後世の汚名は自分達が引き受け、次の世代に希望を託す。姉妹の心は母として一つになっていた。
新帝の即位式が行われてから半月後の5月1日。帝都オーディンより遠く離れた星域、イゼルローン回廊でも極めて重要な式典が行われていた。ある意味では皇帝の即位式以上に歴史に残る出来事。本来一年前に行われるはずだった捕虜交換式である。
昨年はバーミリオン星域パラス星でのバイド汚染に加えて、帝国同盟双方の内戦により無期限の延期となっていた。同盟の方はゴタゴタがまだ続いているが、帝国は一息つけた事で交渉が再開。めでたく実現にこぎつけられた。
しかも前回と形式が大きく異なり、捕虜交換の責任者が軍部から新帝アマーリエに代わっていた。過去に何度か行われた捕虜交換の時にも決して皇帝の名は出なかった。あくまで皇室と宮廷が関与しない態で、臣下の裁量で行われていたに過ぎない。これは帝国が同盟を国家として認めず、あくまで逃亡奴隷の子孫が不当に帝国の領土を占拠して叛乱を起こしていると、公的に言い続けていたからだ。今年の1月にレムシャイド伯爵に代わり、新たに任ぜられたキルヒアイス高等弁務官が携えた書簡は宰相のローエングラム公爵の名が記されていた。
それが交渉の大詰めの時になって、急に皇帝の親書が届けられた。皇帝の親書には確かに【叛徒】ではなく、自分達の国名【自由惑星同盟】と記されていた。自由惑星同盟の中央政府上層部は歓喜した。ついに帝国が自分達を無視しえない存在と公式に認めたのだ。
同盟の最初の指導者アーレ・ハイネセンが仲間と共にアルタイル星系を脱し、後世の歴史家が長征一万光年の旅路の末に、子孫たちは皇帝に自分達を対等の存在と認めさせた。この事実は時の政府首班ヨブ・トリューニヒト最高評議会議長を歓喜させたが、親書を読むうちに困惑が大きくなった。
『捕虜交換式の同盟側の代表者はジェシカ・エドワーズ議員を指名する』
この一文の意味を誰もが瞬時に図りかねた。元々捕虜交換再開の話はイゼルローン回廊を駐留するヤン・ウェンリー大将から件のエドワーズ議員に伝わり、ハイネセンの最高評議会に持ち込まれた。トリューニヒトは陰謀の臭いを感じてはいたものの、今更破談するわけにはいかず、交渉相手の顔を立てる意味で要望を飲んだ。
そして当日、同盟が建造した小さなイゼルローン要塞の式典会場にて調印式が執り行われた。銀河帝国からはジークフリード・キルヒアイス高等弁務官が、自由惑星同盟からは和平派のジェシカ・エドワーズ議員がそれぞれ歩み寄り、互いの捕虜200万人のリストを交換して、証明書にサインした。
「この式典を機に、同盟と帝国の戦争が正式に終結することを切に願います」
「全くですエドワーズ議員。私もいずれ生まれてくる子供を戦わせたくありません」
代表者二人の握手する姿は無数のカメラに撮られ、超光速通信により帝国同盟双方に届いている。
握手を交わす両者の顔は笑顔でも、ジェシカの方はどこか陰のある微笑みだった。
ジェシカ・エドワーズは二年前のアスターテ星域での戦いで婚約者のジャン・ロベール・ラップを失っている。婚約者の死を契機に反戦運動を始め、幾多の困難を乗り越えて補欠選挙で議員当選。今では和平推進派の顔として、同調する同盟市民から支持を集めている。
時には主戦派の嫌がらせを超えた暴力に晒された事もある。昨年の武装蜂起騒ぎでは反対集会の中で、毅然と同盟軍の愚策と暴走を批判。支持者を大きく増やして野党勢力の中でも抜きん出た存在感を示している。
さらに今回の捕虜交換式の責任者になり、帝国との和平は大きな前進を見せた。いずれは最高評議会入りを果たすのではないかと噂される。
自らの信念が実現すれば、自分のように大切な人を不当に奪われる事は減る。単なる政治家の道具として使い捨てにされる軍人も、帝国同盟双方から消えるだろう。平和な時代の到来を誰もが待ちわびている。
(でも私の愛したジャン・ロベールは帰ってこない)
ジェシカの心に得体の知れない感情が滲み出る。それは握手の相手、キルヒアイス高等弁務官を見た時からだった。彼はアスターテ星域での戦いでは司令官の副官だったという。直接的にではないにせよ、愛した男の死に関わっている。
そんな男がつい最近結婚して、いずれは子供も授かり、家族とこれからも幸せな人生を歩んでいく。
対して自分は?今年30歳を超えて夫も子もいない。女としての幸せを擲って平和を実現させた後、自分には何が残っているのか。あるいは―――――――――今はよそう。個人の幸せへの問いかけよりも、政治家の責務を果たすべき。ジェシカは幻影を生む心に蓋をして和平派政治家の仮面を付け直す。
両国の調印が済み、あとは双方の捕虜を迎えるわけだが、実は前日に帝国側から一つ追加の催しが提案された。
『互いの友好の証として帝国より自由惑星同盟に贈り物がある』
中身までは教えられなかったが、下手をすれば帝国の代表団も一緒に死亡する爆発物ではなかろう。
式典場に浮遊する赤い一つ目の作業機械【POWアーマー】が大型コンテナを運び込む。
元同盟軍人のアーサー・リンチが端末を操作して、コンテナの外壁が全て解かれた。
同盟の報道関係者は一体何なのか訝しみ、第十三艦隊の将兵と政府関係者はなぜこれが贈られるのか分からず混乱する。
それは全長16mほどの黒い機械だった。全体的に直線的な装甲と複数のユニットが結合、機体下部には銃身、後方には複数のスラスターノズルを備える。機体前方にはコックピットらしき部位が接続されている。
「R戦闘機が贈り物ね」
式の参列者の一人ヤン・ウェンリー大将が相手を意図を図りかねる。隣に居た養子のユリアン軍曹は目の前にあるR戦闘機が記憶にある形状と異なる事に気付いた。年下の友人カーテローゼの愛機だったR-9Cに比べて全体的に直線的に構成されている。それにコックピットの青いキャノピーが妙に直線的だった。まるで学校の化学の授業で使った【試験管】を思わせる直線的な形状。おまけに何の冗談か目盛りまで刻まれていた。側面装甲に白字で同盟語がペイントしてある。
「R-9W WISE MAN(賢者)って書かれていますよ。あの機体の愛称なのかな」
「兵器に賢者なんて名付けるなんて、良い趣味をしているよ」
ヤンは決して褒めたわけではない。それに友好の証に兵器を相手に贈り付けるなど、少々皮肉が過ぎると思った。
ジェシカも贈り物の意図が読めずに、強張った顔をキルヒアイスに向ける。
「元は同盟軍との戦いに投入するため、私の友人フレーゲル博士が開発した新型兵器です。ですが今後和平が実現して用済みになるのなら、決して同盟人を殺さない不戦の証として自由惑星同盟に受け取ってほしいと」
同盟報道陣に喧騒が起きる。フレーゲルといえば帝国最高の科学者であり、同盟の惑星パラスを絶滅させた生物兵器の開発者として知られる。そんな非人道的なマッドサイエンティストが不戦と非殺人を謳って最新兵器を譲渡する。非常にセンセーショナルな催しは、人々に様々な印象を植え付ける。
今の言葉を額面通りに受け取るなら、フレーゲル博士は非常に複雑な精神構造を持っている人物といえる。ただ、本当に不戦が目的なのか、ヤンは数度顔を合わせた事のある人物の裏にある思惑を疑ってしまう。しかも兵器名が賢者である。己を賢者と見做しているのか、贈る相手に賢者であれと願いを込めたのか。歴史に類似する人物が見当たらないため、推測は困難を極める。
多少の混乱はあれど、捕虜交換式は無事に終わった。帝国側から同盟軍人が、同盟側からは帝国軍人がそれぞれすれ違って、同国人に迎えられた。
捕虜だった帝国軍人には新皇帝即位の恩赦という形で、捕虜になっても罪科に問われず、軍に残るか退役の選択も許された。捕らえられている間の給料も纏めて支払われ、故郷への手土産も配布される。兵士は所定の輸送船に乗り込み、明日の出発に備えて早めに休むか、振る舞われた帝国の酒を久しぶりに味わい、夢にまで見た故郷への想いを語り合った。
ヤンが親睦パーティーから自宅に帰ったのは夜の10時を過ぎていた。式が終わってからも公務として、同盟の政治家や帝国の役人に囲まれて毒の瘴気を吸い続けた。建前は平和を望む連中ばかりだが、どれほどが本気で成そうとしているのか分かったものではない。
旧友のジェシカも昔に比べて余裕が無い。彼女の和平への想いは本物でも、婚約者を殺した帝国軍人を前にすれば、やはり平静ではいられないのか。感情を押し殺してでも笑顔を作るのは並大抵の自制心ではあるまい。自らが選んだ道とて何かと心配になる。
物思いに浸りながらリビングのドアを開けると、血の繋がらない16歳の息子がエプロン姿で出迎えてくれた。
「おかえりなさい提督、パーティーお疲れ様です。紅茶を淹れましょうか」
「ただいまユリアン。ブランデーと茶を半々で頼むよ」
ユリアンは口では了承しつつ、紅茶に匙一杯のブランデーを注いで義父へ出す。ヤンは最近あしらい方が雑になったと思いつつ、ブランデーの匂いがする美味しい紅茶を一口啜る。
やっと一息ついたヤンは、いつもの自宅に嗅ぎ慣れない匂いが混ざっている事に気付いた。おそらく香水か化粧品の匂いだろう。身近な人間で香水をつけて自分達を訪ねる者はそれほど多くない。副官のグリーンヒル大尉は同じ会場に居た。ポプランやシェーンコップかと思ったがアレはユリアンを連れ回すから、残り香が付くほど家に長くは居ないだろう。
「そうだ、美味しいケーキがありますよ。今持ってきますね」
そう言って冷蔵庫から欠けたケーキを取り出して、包丁で一人分切って皿に乗せて持ってきた。
「シュトロイゼルクーヘンという帝国のケーキだそうです」
「帝国?…ああカーテローゼさんが来ていたんだね」
「今回の帝国代表団の護衛だそうです。せっかく新型R戦闘機を受領したのに、ポプラン少佐を撃墜出来ないのを残念がってました」
帝国の腕利きパイロットの少女がわざわざ養子に会いに来る。ユリアンは自分と違って、良い青春を送れている事に喜びを感じる。心配なのは相手が帝国人かつお互いが軍に属している事だ。このまま何事も無く和平を結べれば良いが再び戦いが起きた時、二人が戦場で再会するのは可能なら避けたい。
ヤンは頂いたケーキを一口頬張る。美味い。
「あの子、料理も凄い上手いんですよ。帝国式の夕食も美味しかった」
この家のキッチンを使って、今食べているケーキや夕食を作ってくれたらしい。あのフレーゲル博士の教育が良かったのだろうか。残念ながら今回の式典には博士は来ていないから疑問を聞きようが無いのが惜しい。
それとポプランにも去年のチョコレートのお返しに、余った材料で焼いたクッキーを預かったそうだ。
帝国の美味しいケーキを完食して、政治の毒が抜けたような気分だ。お茶のお代わりを淹れてもらい、寝る前の息子との会話を続ける。
「提督は今後、帝国と戦う事はあると思いますか?」
養子の何気ない世間話に見せかけて、内心はかなり気にしている質問に義父のヤンは思考する。
自由惑星同盟と帝国は150年以上戦っている。同盟の建国理念と戦争の理由は、ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムが生み出した銀河帝国の専制政治の否定だ。この理由だけを挙げれば帝国を容認など出来ない。しかしかつて同盟を築いた先人たちはゴールデンバウム王朝の圧政を否定しているだけで、帝国そのもの、ひいては帝国に住む民を絶滅させようとは思っていない。彼等もまた自分達の先祖と同様に、悪逆非道の皇帝の圧政に苦しむ無辜の民である。こうした大義名分のためにこれまで戦っていた。
問題はその歴代の悪の皇帝が既に絶えてしまい、実際の政治は若きローエングラム公爵の手の中にある。彼は下級身分の出であり、善良で有能な政治家でもある。これまで同盟が主張してきた一部の特権階級による帝国の圧政を一掃して、民を救済し解放した。
かつての帝国から変質する新しい帝国と見做して和平を結ぶか、これまで通り敵国として戦いを選ぶか。同盟は上から下まで意見が纏まらない。
「現状なら半々かな。今回の式典で同盟の和平派が勢いを付けて、帰還兵やその家族票が増えてもまだ主戦派の方が多い。2~3年は戦は無いが10年後は分からないよ」
同盟は民意が二つに分かれれば、それだけ政治がごたついて戦争から遠のく。さらに和平派が力を付ければ、数十年の和平への道が見えるのが救いだろう。せめて自分が退役して年金生活を送り、ユリアンが結婚して子供が生まれるまでは平和であってほしい。
その場合は帝国から亡命したメルカッツ客員提督は、戦うことなく異郷の地に骨を埋める。今回のような歩み寄る帝国の変わりゆく姿を見て何を思うのか。
しかもゴールデンバウム王朝への忠誠がまだ残っている老将にとって、新皇帝が簒奪者になるローエングラム宰相と協調して帝国を作り替える様は酷い裏切りに感じる。今日の捕虜交換式が先代の幼帝のままならローエングラムが専横を極めていると言えるが、新たな皇帝は中年女性と聞く。しかもキルヒアイス高等弁務官はある種の取引により、女帝と宰相が協力し合っていると教えてくれた。
『ならば皇帝と皇室のために命をかけて戦っていた我々軍人の忠誠心は何だったのか』
ヤンはメルカッツの嘆きを聞いたわけではないが、ローエングラム宰相と戦うために亡命までして生き延びた彼の心は穏やかではあるまい。
「下手をすれば同盟を離脱した地方政府と戦う方が早いかもしれないよ」
「えー!?そんな同盟人同士で戦うなん……って去年もう戦ってましたね」
「遠くの仲良くしようと努力する元敵と、近くの裏切り者のどちらを優先して殴るかと言われたらね」
歴史的にも似たような事例は幾らでもある。それに人間は明らかに人種や宗教観の異なる遠い国より、目に付く離反者や宗派の異なる異端者を目の敵にする。同盟から分離独立した辺境星域の【自由連合協定】は軍備を増強しているという話もある。まだ話し合いの余地こそ残っていても、行き詰まれば戦いはいずれ起きる。
「帝国と平和になっても世に争いは尽きぬ、か。これで笑うのは帝国のローエングラム公爵……あぁ、この捕虜交換はそういう意味もあるか」
「帝国宰相がどうしたんです?」
「帝国と仲良くすれば同盟内でも反発する者が増える。いっそ捕虜交換で戻って来た同盟兵にも焚き付けさせて、どんどん分離独立させて内部から崩してやろうって魂胆さ。平和こそが同盟を弱体化させる武器になる。下手に大軍で攻め入るよりタチが悪い」
何しろ帝国は和平の姿勢を崩さない。こちらが勝手に仲違いして争うのを見ているのはさぞ愉快だろう。しかも相手の思惑が分かったところで同盟には手の打ちようが無い。思えばジェシカを代表にしたのも和平派へのテコ入れに違いない。
ローエングラム公爵はただ戦が強いだけの軍人じゃない。政治にも長けた優れた為政者の顔も持つ。
優れた専制君主は長期政権になればなるほど帝国は栄えていくだろう。はたして同盟はその時、抗う力が残っているのか。ヤンには遠い未来までは見通せなかった。
先に宣言しますがなぜR-9Wが同盟に譲渡されるか次話で発覚するのでお楽しみに