風に揺られて漂って、生くるも死ぬるも風だより、今時期の雲は大概こうだ。
妖怪の山にかかっている大きな笠雲も少し前まではゆるゆる流れる吊るし雲だったが、今ではその頂きを包み隠す立派な笠となった。上空で吹き荒ぶ風に煽られて端の方から少しずつちぎれては雲霞へと成り果てているけど、それでも白い丸さは失わないる夏の雲は愛らしく、自らが雨をもたらせる側だと言うのにその名は傘だなんて、ちぐはぐ具合までが可愛らしい。
そんな雲をあたしは結構好いていて、いつだったか追いかけたことがある。
いつの間にかに現れていつの間にかに消えてしまうあれらは何処へ行ってしまうのか、ちょっとだけ気になって、母体の入道から千切れて流されていく小雲を追いかけたこともあった。
だけど、いつからから追わなくなってしまった。
霞と消えた雲を追えば大概面倒な者と出会ってしまうことを、あたしは知ってしまったから。
その者ら、例を上げるなら仙人てのが筆頭か。人を超え、その頂上に至った者。
近場で言えばあの片腕有角や無理非道な仙人様が思い浮かぶがあの人達も会えばなにかと面白い、関わるとはた迷惑なことばかりが起きて楽しいよりも手間が多いのが玉に瑕だけど彼女達に玉はないしあたしにもないからそれはいいとして……玉持ちの仙人といえば別の、昔に見かけた男の仙人も強く思い出せるか。そいつは寺のお堀に住むって噂が立つような変わり者で修行の末に空を飛べるようになったという、別の意味でも世から浮いた男で仙人らしい仙人だった。我が記憶にあるのは伐採した木材を神通力で空運しているところで、あたしが昼寝していた近くで木を切り出し始めた絵面なのだけれど、その日は物凄く煩くて一言文句を言ってやろうと思ったものだが、別の日にはたいそう笑わせてくれたからそれはよしとしてある。
その笑い話、こちらは別の日に見かけたものだが、その時はたしか遠くの空を飛ぶ姿を眺めていた昼のことだ。その日もゆるく飛んでいた仙人だったがふと目についた眼下、川辺で洗濯する女の
あの絵面も中々に面白いものだったな、仙人が女にみとれて墜落するなんざお茶目さんだと笑ってしまったし、悠々自適に霞食ってりゃ生きられるくせに女も食いたくなるって贅沢な、世捨て人となっても俗な想いは断ち切れないのだとその身で教えてくれるのも面白くて、色々楽しませてくれる男だった。
霞と言えばだ、あちらの霊山におわします科学好きな神様や発明馬鹿が言うには雲は白く見えるだけで本当は無色、今あたしの視界いっぱいに広がっている水と同じで透明な色合いだから見えなくなっても不思議ではないというお話を聞いたことがある。真実はそのまま然り、幻想郷の先端を行く連中が科学を用いて暴いた結果だからそれで正しいのかもしれないが、科学の真逆に立ち位置を置いているあたしとしてはその答えに少しの異を唱えてみたくもある。不服があるわけではないけど、なんとなく面白い答えに聞こえないから違う可能性を探してみたくなる。
では反論するならば、そうだな、先の通りあの山には霞を主食とするはずの仙人が住んでいるし、あたしが知るその仙人は大昔から大食らいだ、おつかいに出すペット達が買わされているのも食い物ばかりだからそれは周知であると言えよう。そこを踏まえて論じるならばあたしはあの仙人様が霞をとっ捕まえて食うなり、家に隠して保存していたりするからいつの間にか消えているんじゃないかと説こうか。
あのお山の空には河童が作った便利アイテム、霞だけを捕らえる霞網という物が張り巡らしてあるのだって話もあったはずだから、山の技術部門と仙人で結託、ではないな昔は顎で使っていた河童連中に声をかけて自身の食料確保をさせているんじゃないかってのが今考え得る最良の答えだとあたしは思っている。
このネタを特集として組んだ天狗記事の中でもばっさり否定していたし本人に問い質した際にもそんなことあるわけないでしょと一蹴されたが、元々の話も腹まで黒い天狗の書いた新聞が情報源でどこまでが本当のことなのかすら怪しいのだ、はなっから信憑性などないのだからそれを否定する意見にも信憑性なんぞない、だから華扇さんの言葉なぞどうでもよいと考えている。
無論あたしも鴉のネタを鵜呑みにしているわけではない、話した通りで信じちゃあいない。ならば何を根拠にするかだが、化かす狸なあたしが狐に化かされぬよう眉唾なお話に乗るのも一興と、そう思ってしまって一人笑うことが出来たから、そうであろうと思い込んでいる次第だ。
「
だけどだけどと接続し、紡ぐ中身は空模様。
あれじゃ期待出来そうにないか、笠雲や吊るし雲がかかるとその後の天気は下り坂なのだが、流れるそばから空の青色に飲まれていく夏雲は育つどころか消えていくだけ。盛りの頃なら千切れても空のどこかで纏まって背丈のある入道雲へと姿を変じさせ、幻想郷の大地に潤いの雨をもたらしてくれたものだが、夏の終わりの見えた今では恵みを蓄え育つよりも季節の最後に吹く
「一雨降ってくれれば涼しくなってくれて嬉しいのだけど、このお天気じゃ降ったところでそれほど冷えもしないか」
お彼岸まではまだあるし、もう暫くは暑いままかね。
青一辺倒になってしまったかんかん照りのキャンパスを眺め、ぼやく。
暑さ寒さも彼岸まで、誰が言ったか知らないが冬の余寒は春が分かれる頃までで、夏の残暑も秋が分かつ頃までには和らぐことが多い、言い得て妙だと死んで彼岸の住人になったあたしも思う。
彼岸と言えば今年の盆には精霊馬を持ち込んでくる奴はいなかったな。いつだったかの入り盆には胡散臭いスキマやら無意識な妹やらが死んだあたしへの嫌味として胡瓜の馬や茄子の牛を我が家に持ってきたものだが、流石に毎年やるようなネタでもないし早々に飽きてくれたのかね。だとしたらいいな、今日は湖で冷やした胡瓜馬を齧るにはいい気候だが茄子牛の方はあまりいい気分にはなれないから、昨晩の悶着のおかげでその手の乗り物に乗る気にはなれそうにない。
「ね~? なんか言ったぁ?」
二度目のぼやきを吐き捨てて少し、別の思いにふけ始めた頃に届く声。
その声はあたしの視線の先にある岩、霧の湖の湖底よりそそり立つ大きな岩で寝そべる水着姿の女の子、丁度眺めていた空のような濃い青のビキニな奴から届いた。
「なんでもないわ」
「なんでもなくないよ! なんか聞こえたから聞いてんの!」
手をブンブン、口ではわんわん騒ぐ誰かさん。あからさまにはぐらかされたのが面白くないのか、アイツの口調らしい間延びした『エ~ナニ~?』って問いかけも聞こえてきた。
濡れた茶髪を一度纏めて、オールバックでこちらに向かって叫ぶ女の子。暫くは呼びかけてくれていたが少し待ってもみてもあたしからの返事がないことにしびれを切らしたのだろう、湖に飛び込んで泳ぎ始めた。
タプンと飛び込む水の音を鳴らしてくれるのはいいけれど、お前は琴の付喪神で蛙じゃあないんだからそんな風流な音を立てても様には……ならなくもないな、今の性格はアレだが八橋の奴も元々は雅楽を奏でる
「ね~え~、さっきの、なんて言ってたの?」
「秋が恋しいって言ったの、ご飯も美味しくて景色も綺麗、厚着してお洒落もできるしなにより涼しい秋が待ち遠しいって言ったのよ。涼しくなればあんたらに付き合わされてこんな格好しないですむし」
「なにそれ~、さっき言ってたのより全然長いじゃな~い!」
一潜りしてそばに来た琴古主、買ってやったフリフリ水着をふりふりしながらプリプリ騒いでくれるけどあたしは言ってやったままの心境だ、気にせずに顔を背けて立ち上がる……と尻に布地の挟まる感覚。本当にもう、さっきから歩いたり立ったり座ったりする度にこれで開放的な姿のはずなのに窮屈で困る、これだから着たくはなかったのだが……直さにゃあ気持ち悪いままだし致し方なし、着ている水着のパレオに纏わり付いた湖畔の芝を払い、そのまま食い込んだ尻も直す。
と、所作に出ていた乗り気のなさもお気に召さなかったのだろうな、隣の奴に絡まれる。
「泳ぎに行くって言った時はアヤメも乗り気だったじゃん!」
「あたしはアンタらを眺めるだけでよかったの」
「んじゃあなんで自分の水着も買ったのさ~」
「それは、似合うって言われたから?」
「なんで疑問系なのよ……それって雷鼓が言ったからでしょ」
「そうよ、これがいいって選んでくれたから買ったの」
ふわっとパレオを翻しどんなもんよとアピールしてみる。これで褒め言葉の一つでも飛ばしてくれるなら可愛げもあるるのだが、そうした言葉は何もなく、八橋は無邪気な笑みを見せるだけ。
その顔の真意はなんだろか、もしかして似合ってなかったりするのだろうか。だとしたらお前ら楽器トリオの見立てがなってないのだ素材であるあたしは決して悪くない……と、開き直ってもいいが、今にして思えば早計だったな。
水着を強請る可愛げに負けなけりゃ良かったかも、そんなことを着替えた今更になって思うが後の祭だ、お囃子の楽器連中に負けた囃子方が誘いに乗って踊らされたが悪いのだから否定はしないで伝えよう。
「……アヤメって変なところだけチョロいよね~」
欲しかった一言はなしで、変わりに別の言葉をもらう。
あたしに向かってチョロいなど聞き捨てならん物言いであるが、ご尤もと感ずる部分もあるから今は捨て置くこととしよう。
自分でも雷鼓というかお前ら付喪神や地底のペット達など、可愛がるのに申し分ない奴らにゃ甘っちょろいなと思う節が多々あるからそこを言い返したりはしない、別の言い回しはするが。
「これ着て一緒に泳ぎに行きましょって可愛いお強請りに負けたのよ」
「あ、今可愛いって言った? 言ったね?」
「まぁ、可愛いし似合ってるとは思うわ」
「そうよね~やっぱりこの水着可愛いよね、私達の分までまとめて買ってくれてありがと~!」
「ちょっと、アンタら姉妹のは別よ、後で返しなさい」
「だって好きなの選べって言ってたじゃん」
「言ったけど買ってやるとは言ってないわ」
「えぇ~……あ、アヤメのも可愛いよね、 白いのしか着てないイメージだったけど黒も似合うんだ。ねぇその下ってどうなってんの?」
隣でくるり、一回り。
コロリと変えた会話に同じく、どこぞの厄の神様のように片足立ちでふわっと回って、胸元や腰回りを飾るフリルごと八橋本体もふわふわ揺れて我が外周を回る。
どこぞの邪仙の連れ合いのように可愛さアピールしてからあたしが着ている水着も可愛いよねと、上と同じ色合いの黒いパレオを摘み上げひらひらしてくれる妹。たしかに濃淡のある空色のフリルはかわいいし姉の弁々と似た透き通る肌の色に映えるものだとは思うけど、人に近い姿のお前と違ってあたしの水着は股上が浅い尻尾ありでも履けるやつなのだ、そう翻されては大事なところが見えてしまいそうで、真っ昼間に見せびらかす趣味はないからやめてほしい。
「待って、引っ張らないでってば」
「いいじゃん、減るものじゃないって」
「御代官でもないんだからやめて、言うこと聞かないなら減らすわよ」
「減らす? なにを? あぁ、貸しってやつ? それならもっと頑張らな――」
「――頑張ったらその分なくしやるって言ってるの。減らすのはあんたに対する慈愛の心、復帰のお祝いってことで買ってあげたことにしてやってもよかったんだけど、これ以上絡んで――」
「いいの!? やた~!」
被せて放った売り言葉に被せられる買い言葉。
余暇の片手間に貸しつけ業を嗜む狸として貸しはきっちり返してもらう予定だったが、引っ張られ持ち上げれて食い込む尻や腰の嫌悪感にあたしの心が負けた為ここは譲歩のひとつとして策を話す、つもりが遮られ、抱きつかれる。貸した側から譲ってやるつもりだというのに人に飛びつきくるくると、さっきから回るのに忙しいお琴だこと。
「ありがとね~、こういう時のアヤメって気前良くって好き~!」
「はいはいあたしも好きよ。好きだから、暑苦しいから、さっさと離れて、ほら」
ほれほれしっし、我が首へと回されているやわく温かな悪戯顔にそんな気持ちを込めてぶつける。するとその言葉が効いて、ないな、邪険にされて凹むどころか人懐っこい笑顔を見せてくれるばかりだ。こいつもこいつですっかりあたしの物言いに慣れてしまわれたようで、些細な憎まれ口程度は効くこともなくなってしまって面白くない。
が、まぁいい、こいつらに好かれるなら悪くないしこいつにおだてられるのも悪い気はしないから、今日は大人なあたしから譲ってやることにしよう。一つ譲るも二つ譲るも大差などないしな。
「でさ、着替えたのに泳がないの? 木陰でダラダラしてるだけじゃん」
「日焼けしたくないし、泳がないわよ」
「なんでよ、水の中って涼しいし、気持ちいいよ?」
「知ってるけど今のあたしは水中はダメなのよ、ここは一度溺れてるから余計に苦手に感じるの、だからイヤ」
そうだ、あたしがこの湖で溺れたのはちょうどこいつらが柔らかな肉体を得た異変の頃、というかあの異変で真っ先に気が膨らんだ相手にあたしは沈められたのだったな。そういやその相手、この湖にいるという噂の主かもしれないわかさぎ姫はなにをしているかといえば、八橋がいた大岩の奥、あたしでギリギリ足がつかないくらいの浅いところで雷鼓達の腹を支えて泳ぎを教えてくれている。というより八橋もあたしに絡んでないで泳ぎに来たんだから泳いでいたらいいのに、そいつが今日の本題だろうに。
「そんなこと言って、本当はアヤメも泳げなかったりするんでしょ?」
「あんたらと一緒にしないで、狸は泳ぎも上手よ」
「じゃあなんで」
「うるっさいわね、あんまりしつこいとひん剥いて取り上げるわよ?」
強めに言っても離れない、それどころかあたしの腕をとり絡みついてくる付喪神。ぺたっとくっつけられている柔らかな腹を押し返しても離れてくれなくて、このままではぬるくなってしまいそうでそれもイヤだな。
アヤメも、なんて八橋は言うがその通り、この付喪神達は泳げない、わかさぎ姫に指導してもらうまで沈むばかりでまともに泳げなかった。玄翁やトンカチではなく木製の楽器上がりなのだから水に浮くくらいは容易いはずと、そう思っていたけれど楽器上がりとしては水場で湿気るのはとても嫌だったらしく、これまでは泳ごうって意識すらなかったそうな。だというのに湖へ、自分達から泳ぎたいと誘ってきたのはある重大な理由があったりする、それは……
「ね、ね、その溺れたってなに? 紅魔館の門番さんがずぅっとこっち見てるのと関係ある?」
「あるにはあるけどあんたには関わりないわ、いいからもう離れてよ、暑いのよ」
「私は冷たくていいよ~、雷鼓が抱きつくのもわかるわ~」
だろうな、あたしも夏場に冷たい抱き枕があったら抱っこしていたくなるってそうじゃない、お前があたしで涼しさを味わえば味わうほどあたしの体はぬるくなっていくのだ、本当に勘弁してほしい……からそうだな、そろそろ焚き付けよう。であれば……
「八橋……」
低めの声を作り名を呼ぶ。普段の軽々しい声色をやめ古狸らしい年季を滲ませて伝えるのは、あんまりにもしつこいからあたしのご機嫌が傾き始めましたよって空気。
そうやって面倒が起こる前兆を知らせるよう耳に囁きかけると漸く離れて、上がりっぱなしだった調子を幾分抑えてくれた。強めに言えば聞いてくれるんだから最初から聞き分けよくしてくれればいいのに、と考える裏では手間や面倒なんてあたしらしい部分で信用されているのが好ましくて、思わずニンマリしてしまう。
「怒った?」
「そう思う?」
「だって顔怖い……ごめんね? 調子に乗っちゃった」
「わかったならいいわよ、青筋立てて怒るほどのことでもなし。それよりいいの? このままだとあんただけ置いてけぼりになるわよ?」
突き放した八橋、その眼前に指立ててあちらを見ろと促す。そうして泳いだ目線の先では今日の水泳のコーチ役であるわかさぎ姫が雷鼓と弁々の手それぞれをとり促す景色。
二人それぞれオレンジのビキニと白いラッシュガードの、遠景遠でも目立つ水着を着込んでバシャバシャ足をばたつかせてはいるが、あれだけ水飛沫を上げていては前に進むものも進まなさそうだけど、今回はそれでいいんだな、その無駄遣いをしに来たのだから。
「おいてかれるってなに? 私のが泳ぐの上手になったよ?」
「泳ぎはね。別の方で一人だけ取り残されるって言ってるのよ、その二の腕の振り袖、弁々は見た目変わらないけどあんたと雷鼓は……あんたがサボってる分雷鼓のほうが早く引き締まって、いい体に戻っちゃうんじゃない?」
「振り袖って! 私は姉さんと一緒でそんなには……」
「そう思うのって本人だけよ、体型の変化って本人より回りのやつのが気付くものだったりするの、抱いたり抱きつかれたりすると余計にね」
語りながら手をわきわき、さっき確かめたとわかるような素振りで動かすと揉みしだくような指使いと憎まれ口から察したのか、八橋が自分のお腹に軽く触れてから、やわやわした二の腕までも摘まんで確認し始めた……ならばここだと、その隙を狙って一撃。少し屈んだ頭の天辺を鷲掴み、そのままググッと押し込んで、さっき上がってきた背後の湖に突き落とす。
当然聞こえるドボン。
雅な調べには程遠いその音だが今のこいつにゃソレが似合いだと笑う。
ともかく頑張って泳いだり潜ったりして身体を引き締めてくれたまえ、言い出したのは自分達なのだ、昨日はあれほど騒いでいたのだからその勢いをあたしに魅せつけてくれたまえよ。
ケラケラと嫌味な笑い声をあげながら頬を撫でる己の髪、水着に着替えた後で『そうやって下ろしていたら泳ぐのに邪魔でしょ』と、弁々とお揃いにしてもらったポニーテールに指を通して思い出すのはここに来る前、昨晩の事。
昨日の帰宅は夜半過ぎ、昨日の日中も残暑厳しいものであたしは朝から避暑地を巡ろうとあちらこちらにお邪魔していた。まず訪れたのはここ霧の湖、ここにはあの氷の妖精が住んでいるからちょいと騙って取っ捕まえてあの涼し気な翅の一枚でも失敬するか本体が放つ氷の結晶を集めてかき氷でも食えれば気持ちよく過ごせると考えたのだが、お目当ての彼女は既に住まいにおらず、近所で門番しながら花壇の手入れをしているやつにチルノなら朝一番から出掛けていないはずですよと教えてもらえて、仕事中に余計な気を回してくれたことに感謝し、その場はすんなり諦めた。
で、次に向かったのは人間の里。
里には思い当たるものもなかったけど里には中央を流れる大きな川があるし、そこで足を浸しながら近くに生える柳の下にいるはずのデュラハンでもからかって遊ぼうと思って訪れてみた。しかしこちらもハズレを引いて遊び相手はいなかった、寺子屋方面から偶然歩いて来た愛らしい子狐の子に聞けば、目立つマントのお姉ちゃんは魔法の森方面に出て行く後ろ姿だけを見たとのこと、どうやらあたしと入れ違いになったらしい。ならもう一度とも思ったのだけど素直に湖へ出戻るのもなんだか癪だったし、また来たと気を使う妖怪に気を使われて愛想笑いされるのも癪だからこっちもさらっと諦められた。
それからあちこち、人気がなくて涼しいはずの妖怪神社や同じく人気のない、むしろ人として終わった連中しかいない冥界や三途の川にも顔を出してみたけど誰とも会えず、あたしは誰を冷やかすこともできぬまま帰路に着く羽目になったのだった。
そんなわけで我が家に着いたのはいい時間、既に夕餉を済ませた者達が寝入るか団欒しているかって頃合いになってしまい、無論あたしの家でも同じような絵面が繰り広げられていて、落とし穴をこさえた兎詐欺が楽器トリオを冷やかす光景を見られたのだが、この辺は端折っていいな、他人の冷やかしではあたしが涼めないし。兎も角、土汚れを落とすのに風呂を借りて出て行った白兎詐欺を送り出し、後に残ったのは遊びに来ていた付喪神の姉妹と我が家の付喪神の三人で、そいつらはちゃぶ台囲んで金色のクモが云々とよくわからないことを話していた。
で、ここで発したあたしの一言が今日のお出かけの原因なのだそうだ。なんのことはない、食うだけ食って動きもしないとクモどころか牛になるなんてあたしが言ったものだからそれなら明日は身体を動かしに行きましょうなんて話になってそれがこの現状だ。
あたしとしては茶化したつもり、食い散らかしたまま洗い物もせずだらけているのは消化に悪くて肌ツヤの悪さにも繋がる、この家に来るのはあたしを含め顔だけは愛らしい奴しかいないんだから荒れたりしては勿体無いぞって、そんな意味合いで言ってみたのだがこいつらはなんでかそのことわざにやたらと食いついてきやがった。その時は特に思うこともなく、最近まで永遠亭でダラダラしていたからマトモな活動でも、その肩慣らしでもしたいのかなとしか考えなかったのだが……あいつらが食いついた理由はその夜になってはっきりとわかった。明日出かけるなら一旦帰ると言い出した九十九姉妹をお見送りして、風呂を沸かし、雷鼓が入った後であたしも湯船へ混ざりに行った時、あたしはちょっとした変化に気付いた。
元々があたし独り暮らしの一人風呂で二人で浸かるにゃ狭いから大概は先に入っているやつが組んだあぐらの上にもう一人が乗っかるのだけど、そうやって雷鼓の上に座って両足を腰に回し内股で触れた際に、腰骨の感覚がなにやら柔らかいと気が付いてしまったのだ。その時は気を回してちょっと抱き心地がよくなった? と、遠回しに伺ってみたのだけど……言われずとも本人もわかっていたらしく、その為に明日はお出かけ、泳ぎに行くのだと気合いを入れた顔で微笑まれてしまい、その笑顔に撃ち抜かれたあたしは断りきれなくなってしまった。
なんでも、体を引き締めながら痩せたいのであれば泳ぐのが健康的だとか八意先生に唆されているようで。消費するならこの後でいつもより激しく運動をすればと首筋に催促の口吻しながら提案してもみたのだけど、それでは姉妹が混ざれないと言われ、それなら見物くらいはさせろとあたしも同行することに相成ったわけだ。
そもそも冬でもライブで汗を流す連中が消費せずに永遠亭で静養していればそうもなるだろうに、派手に動くことの少ないはんなり蓬莱人に付き合ってまったり過ごして食っちゃ寝していれば肉付きもよくなるとわかりそうなものだが、自制はしなかった……できなかったのかね、あの姫様も物はを大事にする暇人だ、暇を潰してくれるものらが傍にいるなら甘いほどに可愛がりそうで、制するどころか怠惰へのおもてなしまでしてしまいそうだものな。
因みに、あぁ言ったが三人とも見た目じゃそれほど変わってない、輪郭に女の子らしいフォルムが加わってより愛らしさに磨きがかかった程度、ライブで絞って作られた筋張る体よりも女の子の柔らかい丸みが前面に出てきた雰囲気で、程よい弾力がありそうな腹や内腿、二の腕なんかは以前よりも美味しそうな仕様になったとあたしは見る。
なんて本心も言ってやったのに雷鼓といったら変に気合いを入れて泳ぎ回ってくれて、あたしは眺めているだけに飽いてきたから少しはかまってもらいたいし、味の妄想なんてしたからそろそろ昼餉としたいところなのだけど……
「……子方さん?……突き落としたら危ないですよ、聞いてますか?」
昨日の流れを思い返していると今の流れを泳ぐ者に呼び戻される。
今度は誰がサボりにきたのか、湖に目をやるとその直後で大きく美しく広がる尾ビレ。
よくよく見れば生徒役の二人は疲れて岩で寝そべり、その横では肩で息するサボり生徒の姿までがあった。なるほど、突き落とした生徒の救助を最後に今日の授業はおしまいとなったらしいな。
「ちょっとした悪戯よ?」
「悪戯でも危ないものは危ないんですよ」
「凍える季節でもないし、ここなら姫に助けてもらえるから大丈夫でしょ?」
「それは……まだ不慣れなんですし、本当に溺れてしまったらどうするんです?」
「どうするって、それを姫が言うの? 面白い冗談ね」
溺れたら危ないのはわかる、体感しているから。けれどそれを言う相手を間違えてないか、天邪鬼の起こした異変であたしを沈め、溺れさせてくれたのは一体何処の何方だったのだろう。
それとも煽りのつもりか? だとしたら買ってやらなくもないぞ、可愛さしか感じない挑発に乗るなんぞあたしらしくはないが今はちょっとだけ、両方の意味で飢えているから。
そんな含みを笑みに偲ばせて返すと、耳のようなヒレを下げちょっとだけたじろぐお姫様。
気弱なのは知っているけどこの程度、お遊びの軽口くらいで怯んでみせてくれなくとも。
「えっと……」
「あ、いいのよ気にしないで。あの時はあの時でもう水に流したし、別に怨んじゃいないわ。あたしはむしろ感謝してるくらいなんだからね」
「感謝されるのはさすがに違うと思いますけど」
「だから気にしないでって、今のは今日に対してよ。いきなり来て泳ぎを教えてってお願いに付き合ってくれてるし、おかげであたしはあいつらの水着姿も見れたし、ありがたいわ」
「泳ぎを教えるくらいは、私こそ普段は影狼や蛮奇ちゃんくらいしか話し相手がいないので。今日みたいに遊び相手が増えるのは楽しいですから、皆さんで来てくれて嬉しいです」
ニコリ笑む人魚姫。
あちらさんがどうだったかはしらんが、あたしは遊びの冗談だったというのは今ので伝わったらしく、涼やかな水辺に半身沈めているのにあたたかそうなピンク色に頬を染めた笑みを眩しくしてくれた。この笑みもとても柔らかで、ただでさえ綺麗な顔付きしているのにそんなに朗らかに笑われると今はその、くるものがあるな。
「あんまり素直に笑われても困るわね」
「でも――」
「――喜んでもらえたみたいであたしも悪い気はしないんだけどね、そういう顔はあんまり……気軽に見せないほうがいいわよ?」
笑顔に笑顔で返しながらそれはよしてと語りかける。
その質問にも笑顔のままで小首を傾げて聞いてくれて、それもまた愛くるしい……いや、今あたしにある欲は愛玩や寵愛ではないから愛くるしいのはちと違うか。今感じる思い、溺れてしまいたい欲は別のあれだ。
「同性から見ても可愛い笑顔でホント、美味しそうね」
言い漏らしてすぐに聞こえる水の音。鳴り響いたそれは姫の尾ビレから発せられたもので、あたしに向かい真っ直ぐに向けられていた。飛んでくる水飛沫、会えば毎回美味しそうだの食べてみたいだの言っているからこの軽口も水に流してくれるものと思っていたのだが今日はなぜだか受け流されず、姫の返答は冷えた水の勢いとなってあたしの身に降りかかる。
泳いでもいないのに頭から尻尾の先までびっしょりと、容易に出来上がるいい女。
ついでに頭も冷えてちょうどいいから少しだけ、なんで今日に限ってきつめのツッコミが飛んでくるのかと思案するが……難しく考えなくともわかるな、みんなで遊びに来たというのにあたしは眺めるだけ、混ざらずに口を挟むだけの、水を差すだけで過ごしていたのだからこうされても仕方がない。
ぶつけられた水の勢いにズラされた眼鏡。
それを直して正面を捉えると奥の岩で復活を果たした八橋に指で差されて笑われているのも見えて、弁々や雷鼓にもいい女になったわなんて冷やかされる始末。
ちょっと口を滑らせただけなのにこうも笑われるものか。
なんとも笑えない状況であたしの立つ瀬など見当たりもしないが、ココはもとより湖で瀬などなし、そも遊びに来たのだから遊ばれても致し方なしと再度開き直ってみせよう。悪戯を返してきたわかさぎ姫も皆と一緒に仲良く笑っていることだし、嬉しいという魚心は話してくれたのだからそれに答えて笑い返すのが濡れ濡れなあたしの水心だ、変にむくれてはみずくさい。