銀河皇帝のスペアに転生した元社畜、地球軌道上の要塞でネトゲ三昧の隠居生活を満喫する 〜足元では超大国が滅亡級の異星遺産を巡って暗躍中ですが、主人公(ぼく)の命は絶対安全なので特等席で傍観します〜 作:パラレル・ゲーマー
アメリカ合衆国の首都、ワシントンD.C.。
深夜の静寂に包まれた街の中心部に位置する『ワシントン・クロニクル』紙の本社ビル。その中枢である国際報道部のフロアは、締め切られたブラインドの向こう側で、息が詰まるような極度の緊張感と、熱病のような興奮に完全に支配されていた。
編集長のデスクの上には、政府の国家安全保障会議(NSC)およびホワイトハウスの報道担当から直接届いた、「掲載延期の強い要請」を示す赤いタグのついたメールが表示されたままになっている。それは事実上の圧力であり、国家権力からの明確なストップサインであった。
「……編集長。政府は『国家の安全保障上の重大な懸念』を理由に、最低でも七十二時間の猶予を求めてきています」
国際部長が、乾いた唇を舐めながら、重苦しい声で告げた。
「CIAも動いているようです。このまま掲載を強行すれば、我々は政府と完全に敵対することになります。……最悪の場合、国家反逆罪に近い扱いで、編集部のサーバーごと差し押さえられる危険性もあります。あるいは、我々自身が何らかの嫌がらせを受けるリスクすらある」
編集長は、コーヒーのシミがついたマグカップを無造作に置き、深く刻まれた眉間のシワを揉みほぐした。彼の目は、連日の徹夜でひどく充血しているが、その眼光の鋭さは少しも失われていなかった。
「……政府がそれほどまでに必死に止めたがるということは。このリークが『本物』であるという、何よりの証明だ」
アーティファクトの存在が公となり、世界のパワーバランスが日々根底から書き換わっているこの狂った時代において。メディアが握る「真実」は、時としていかなる軍事兵器よりも強大な破壊力を持つ。編集長は、目の前のモニターに展開された、暗号化されたデータパッケージから抽出された数々のファイルを見つめた。
「七十二時間待てば、その間にCIAの特殊部隊が南米に飛び、証拠をすべて焼き払うか、あるいは自国の管理下に置いて隠蔽するだろう。我々が報じるべき真実は、完全に闇に葬られる」
編集長は、ゆっくりと立ち上がり、フロアに集まった記者たちを見渡した。
「我々の仕事は、政府の都合に合わせて記事の公開日を決めることではない。世界が知るべき疑惑が存在するなら、それを白日の下に晒すことだ。たとえそれが、どんなに血生臭い過去の亡霊であったとしてもな」
彼は、配信システムの担当者に向かって、短く、しかし決定的な指示を出した。
「出せ。トップニュースだ。ただし、断定はするな。読者に『考えさせる』余白を残した、慎重な表現で組め」
「了解しました」
オペレーターの指がキーボードを叩き、最後の承認ボタンが押し込まれる。
その瞬間。
ワシントン・クロニクルの電子版トップページが更新され、世界中の通信社、インテリジェンス機関、そして何億という大衆のスマートフォンに向けて、一つの巨大な爆弾が投下された。
画面いっぱいに表示されたのは、黒塗りの検閲痕が残る古いドイツ語のタイプライター文書と、現代の鮮明な衛星写真を組み合わせた、極めて不気味で扇情的なグラフィックだった。
その上に、太いゴシック体で打たれた見出しが躍る。
『旧ナチス《ゾンネンヘルツ計画》、南米へ移送か。
アルゼンチン政府が未公開アーティファクトを保管との匿名資料』
そして、その下には、読者の想像力を極限まで掻き立てる副題が並べられていた。
『“太陽の心臓計画”は実在したのか。
戦後資料、輸送記録、未分類施設を巡る新疑惑』
記事の本文には、編集部が入手した断片的なリーク資料が、モザイク処理やぼかしを最小限に抑えた形でそのまま掲載されていた。
黒く塗りつぶされた文章の隙間から読み取れる、『Subjekt Nr.(被験者番号)』という人間を物として扱う無機質な記述。
解剖学的に精密に描かれた、しかし明らかに人間のそれとは異なる構造を埋め込まれた『心臓の図解』。
不気味なほど精緻に描かれた『太陽を示す古代の印(シンボル)』。
1945年4月の日付が入った、Uボートによる『南米行き極秘輸送記録』。
そして、その古い航路の終着点と重なるように示された、現代の『アルゼンチン軍管理施設』の厳重なゲートの衛星写真。
記事の文面は、あくまで客観的な事実の羅列に徹していた。
『これらの資料が示すのは、第三帝国が敗戦の直前まで、南米由来の儀式型アーティファクトを用いた人体強化の実験を行っていた可能性である。そして、その未分類の物品と実験の成果が、戦後、アルゼンチン政府によって極秘裏に回収され、現在に至るまで軍の施設で保管・研究されているという疑惑が浮上している』
ワシントン・クロニクル紙は、「これは真実である」とは一言も断定しなかった。
「資料が存在する」「疑惑がある」という、極めて慎重なジャーナリズムの表現に留めている。
だが。
それらの断片的なピースが提示されただけで、現在の「何でもあり」のアーティファクト時代を生きる大衆にとっては、想像力を暴走させるための燃料としては、あまりにも十分すぎるほどの致死量だった。
記事が公開されてから、わずか数分。
その疑惑は、英語、スペイン語、ロシア語、中国語、そして日本語へと瞬時に翻訳され、世界のインターネットの海を、文字通り爆発的な速度で駆け巡り始めた。
***
「な、なんだこの記事は……!」
「ワシントン・クロニクルが、とんでもないものを出しやがったぞ!」
世界中のSNSのタイムラインが、それまでの政治や経済の話題を完全に吹き飛ばし、一つの禍々しいキーワードで完全に埋め尽くされた。
アメリカのネット空間では、これまでハリウッド映画の中でしか存在しなかった悪役の設定が、現実のニュース記事として現れたことへの、強烈な困惑と恐怖が渦巻いていた。
『Nazis. Artifacts. Argentina. This is not a movie?』
(ナチス、アーティファクト、アルゼンチン。これ映画じゃないのか?)
『I thought the lightsaber was peak surrealism, but now we have Nazi occult experiments? What timeline is this?』
(ライトセーバーがシュールレアリスムの頂点だと思っていたが、今度はナチスのオカルト実験だと? これは何の世界線なんだ?)
『Sonnenherz sounds exactly like something they would do.』
(ゾンネンヘルツって、いかにも奴らがやりそうな名前だ)
『The government tried to stop the publication. That means it’s real. The CIA is probably already on their way to South America.』
(政府が掲載を止めようとした。それは本物だという証拠だ。CIAはもう南米に向かっているに違いない)
日本国内のネット空間もまた、この特大のスクープに完全に沸騰していた。
深夜帯にもかかわらず、X(旧Twitter)のトレンドは一瞬にしてオカルトと歴史の用語で真っ黒に染め上げられた。
@History_Nerd_00
うわあああ! ナチスのアーティファクト研究、やっぱり出たか!!!
絶対どっかで出てくると思ってたけど、まさかの南米逃亡ルート込みで現実のニュースになるとか、歴史オタクとして震えが止まらん。
@Occult_Sleuth_Z
「太陽の心臓計画(ゾンネンヘルツ)」。名前がヤバすぎる。
アステカとかインカの太陽信仰系のアーティファクトを、ゲルマン民族の優越と結びつけて人体実験してたってことかよ。オカルトの文脈として完璧すぎて吐き気がする。
@Pol_Sci_Expert
アルゼンチン政府、急に世界の中心(あるいは最大の標的)に躍り出ましたね。
戦後に多くのナチス残党を匿ったという歴史的背景があるだけに、このリークの説得力は異常なまでに高い。アメリカやイスラエルがこの疑惑を放置するはずがありません。
@Medical_Info_Bot
被験者番号と、心臓の図解……。
ロシアのサイボーグ化は、異星の医療AIによる『安全な置換』でした。しかし、このナチスの資料から漂ってくるのは、ただの無知で野蛮な『心臓摘出』と、無理やりの接続実験です。嫌な予感しかしない。成功したのか、それとも失敗した化け物がそのまま南米に封印されているのか。
@Anime_Otaku_00
ライトセーバーの次がナチス心臓とか、地球の運営さん、イベントのジャンルが濃すぎるってば!!
もうちょっと平和なアーティファクトはないの!? 毎日毎日、世界の終わりみたいなニュースばっかりで胃が痛いよ!
[5ちゃんねる:ニュース速報板]
スレタイ:【緊急】ナチス「太陽の心臓」計画、南米で現在も継続中か。米紙が特大スクープ
1 :名無しさん@涙目です
おい、起きてるかお前ら。世界がまたひっくり返ったぞ。
18 :名無しさん@涙目です
心臓の図解見たけど、グロすぎる。人間の心臓の代わりに、黒曜石の塊みたいなのを埋め込もうとしてるスケッチがあった。
32 :名無しさん@涙目です
黒曜石ってアステカっぽくない? 太陽神に心臓を捧げる儀式のやつ。
あれを工学的に再現しようとしたってこと? 発想が邪悪すぎるだろ。
45 :名無しさん@涙目です
南米に移送って、もう完全に逃亡ルートじゃん。
アルゼンチン政府がそれを回収して、今までずっと裏で研究してたってことか。
60 :名無しさん@涙目です
これ、アメリカ政府が掲載を止めようとしたってのが一番の答え合わせだよな。
ガチでヤバい(アメリカも欲しがってるか、恐れてる)証拠じゃん。
75 :名無しさん@涙目です
でも本当にアーティファクトなら、各国動くぞ。
モサド(イスラエル諜報特務庁)なんか、ナチス絡みってだけで国ごと更地にしかねない勢いで乗り込んでくるだろ。南米が火の海になるぞ。
熱狂と恐怖がないまぜになったアメリカや日本のネットの反応とは対照的に。
その歴史の重みと傷跡を直接背負っている当事者、ヨーロッパの空気は、極めて冷ややかで、怒りに満ちたものであった。
[海外大手フォーラム Reddit / r/europe(ヨーロッパ板)より翻訳]
u/Berlin_Historian (ドイツ):
これはエンターテインメントではない。旧ナチスの人体実験が関与しているのなら、国際法廷によって徹底調査されるべきだ
u/French_Resistance_Net (フランス):
ナチス神秘化は許されないが、隠蔽も許されない。
もしアルゼンチン政府が本当に戦犯たちの遺産を秘匿し、それを軍事利用しようとしていたのであれば、それは人類全体に対する裏切りだ。
u/Ethics_Prof_EU (ベルギー):
彼らは魔法使いではなく、ただの虐殺者だ。アーティファクトの力で超人を作ろうとしたというのなら、その裏には数え切れないほどの無実の犠牲者の血が流れているはずだ。アルゼンチン政府は、即座に国際社会に対してすべての施設を開示し、説明する義務がある。
そして、突然「世界の最大の疑惑の的」としてステージのど真ん中に引きずり出された当事者、中南米のネットユーザーたちは、降って湧いた超大国からの暴力的な視線に、激しいパニックと怒りを露わにしていた。
[X(旧Twitter) / 中南米クラスタのタイムライン(翻訳)]
@BuenosAires_Voice (アルゼンチン):
嘘だろ……。また南米が大国の争奪戦の舞台になるのか!?
ただでさえ経済がボロボロなのに、アメリカやロシアの特殊部隊がアーティファクトを奪いに乗り込んでくるとか、勘弁してくれ!
@LatAm_Watcher (ブラジル):
もし本当なら、アルゼンチン政府は今すぐ説明すべきだ。我々の大陸に、そんな呪われた兵器を隠し持っていたなんて。
@History_Truth_AR (アルゼンチン):
政府は昔から、ナチスの残党を匿った歴史を誤魔化してきた。旧ナチスの残骸を隠していたなら許されない。だが、アメリカのメディアがこのタイミングで記事を出したことにも裏があるはずだ。我々はまた、大国に資源(アーティファクト)を搾取されるのか。
疑惑は、数時間のうちに世界中の怒りと恐怖を吸い上げ、巨大なうねりとなってアルゼンチン政府の喉元に突きつけられた。
各国の外務省からは非公式な照会が相次ぎ、国連でも緊急の議題として取り上げられる気配が見え始めている。
メディアのカメラは一斉にブエノスアイレスの大統領府へと向けられ、「イエスかノーか」の決断を迫っていた。
沈黙を守り続けることは、もはや疑惑を肯定することと同義であった。
そして、記事公開から約半日が経過した頃。
世界中の圧力を受けきれなくなったアルゼンチン政府は、ついに重い腰を上げ、公式な声明を発表せざるを得なくなったのである。
***
【アルゼンチン共和国政府・外務省 公式声明】
配信時刻:15:00(現地時間) / 03:00(JST)
(アルゼンチン大統領府のブリーフィングルーム。報道官は額に微かな汗を浮かべ、集まった無数のマイクとカメラの砲列を前に、手元の原稿を硬い表情で読み上げた。その声には、平時の外交的な余裕は一切なく、ただ用意された言葉を正確にトレースすることへの極度の緊張感が張り付いていた)
「……本日、アメリカ合衆国の一部メディアにおいて報じられた、我が国に関する重大な疑惑について。アルゼンチン共和国政府としての公式な見解を表明いたします」
報道官は、一度大きく息を吸い込んだ。
「アルゼンチン共和国政府は、報道されている『旧ナチス由来アーティファクト秘匿疑惑』について……根拠のない憶測であると認識しております」
フラッシュが激しく瞬く。だが、報道官は記者たちの質問を遮るように、声を一段階高くして言葉を続けた。
「我が国は、国際法と歴史的責任に基づき、過去の不適切な入国者や関連施設についての必要な資料調査を継続しております。
……現時点で、報道にあるような『危険なアーティファクトの存在』は、確認しておりません。
我が国が国際社会の安全を脅かすような兵器開発や、非人道的な研究を行っているという主張は、断固として退けられるべきものです。……本日の声明は以上です」
報道官は、記者たちの「施設への立ち入り調査は認めるのか!」「なぜ明確に否定しないのか!」という怒号のような質問を一切無視し、足早に演台から立ち去った。
時間にしてわずか数分。質疑応答はゼロ。
だが、世界に向けて放たれたその「短い声明」は、事態を鎮静化させるどころか、逆にネット上の疑惑という炎に、最高級のガソリンを注ぎ込む結果となってしまったのである。
[YouTube Live / 各国ニュース同時視聴枠 チャット欄]
「は?」
「え、終わり?」
「逃げたぞ」
「否定が弱い!!!!」
「『根拠のない憶測であると認識している』って、なんだその回りくどい言い方は!」
「『存在しない』ってどうしてハッキリ断言しないんだよ!!」
「これ完全に黒だろwww」
「『確認していない』=『あるやつ』のテンプレ構文じゃねえか」
「『資料調査を継続している』って、現在進行形で何か探してるって自白してるようなもんだろ」
「政府文書でよく見る『嘘は言ってないけど本当のことも言ってない』言い方」
「あーあ、これでアルゼンチン完全にロックオンされたな」
「アメリカ軍の介入フラグが立ちました」
「終わったわこの国」
ネットの住人たちによる「言葉遊び」の解剖は、残酷なまでに的確だった。
「ない」とは言わなかった。「確認していない」とだけ言った。
もし本当に何もないのであれば、怒り狂って「完全なフェイクニュースであり、法的措置を検討する」とでも強気に出ればいい。だが、アルゼンチン政府の声明は、どこか及び腰で、言葉尻を濁し、将来「実は見つかりました」と言い訳できる余地(逃げ道)を慎重に残しているようにしか見えなかったのだ。
その、極めて官僚的で曖昧な声明に対する冷徹な評価は、一般のネットユーザーだけでなく、海を越えた超大国の中枢においても、全く同じ温度で下されていた。
***
ワシントンD.C.、ホワイトハウス地下・極秘危機対応室。
壁面の巨大モニターに映し出されていたアルゼンチン政府の会見の中継が終わり、ニュースキャスターの解説へと切り替わる。
会議室の円卓を囲むアメリカの安全保障のトップたちは、誰一人としてその声明に安堵の色を浮かべることはなかった。むしろ、彼らの顔には「やはりそうか」という冷酷な確信だけが張り付いていた。
「……否定が弱いですね」
CIA長官が、手元のタブレットで声明のテキストデータを解析ソフトにかけながら、忌々しげに吐き捨てた。
「『存在しない』と断言する度胸すらない。外交辞令のテンプレで誤魔化し、時間稼ぎを図ろうとしているのが見え見えです」
「でしょうね」
キャサリン・ヘイズ大統領は、椅子の背もたれに深く寄りかかり、腕を組みながら冷ややかな視線をモニターに向けていた。
「もし彼らの手に、すべてをコントロールできる完璧な兵器が握られているなら、あんな怯えたような声明の出し方はしないわ。中国のように堂々と世界を威圧するか、ロシアのように開き直って見せるはずよ」
ヘイズの灰色の瞳が、鋭く細められる。
「……彼ら自身も、自分たちの地下にあるものが『何なのか』、完全に把握しきれていないのよ。だから、断言できない。……扱いきれない爆弾を抱えて、世界中の視線に震え上がっているだけね」
「大統領の仰る通りです」
国防長官が、身を乗り出して同意した。
「アルゼンチンの軍部は、過去の遺物を秘匿してはいるが、それを実戦レベルの技術にまで昇華できていない可能性が高い。……だが、だからといって放置していい理由にはなりません。彼らがコントロールできない代物であるなら、暴走のリスクはかえって増大する」
「……」
ヘイズは黙って、テーブルの中央に投影された南米大陸のホログラム地図を見つめた。
アルゼンチンのパタゴニア地方。
広大な荒野と、アンデス山脈の険しい尾根に抱かれた、人跡未踏の領域。
その奥深くに、八十年もの間、誰の目にも触れることなく隠され続けてきた旧ナチスの亡霊。
アーティファクト時代は、未来だけを巡る輝かしいレースではない。
血に塗れた過去の業を、現代のテーブルの上に容赦なく引きずり出す、残酷な審判の時代でもあるのだ。
「……」
その日、世界の視線は、一斉に南米へと向いた。
***
アルゼンチン国内、某所。
アンデス山脈の山麓に位置する、地図上には存在しない古い軍管轄の施設。
鬱蒼とした木々に隠された搬入口から、地下深くへと続くエレベーターを降りると、そこには、現代の洗練された研究施設とは程遠い、重苦しく、湿った空気が澱む空間が広がっていた。
湿ったコンクリートの壁。
壁に沿って這い回る、太く、無骨な送電ケーブルの束。
そこかしこに点在する機材には、現代のスペイン語の備品シールの下に、色褪せた古い『ドイツ語のラベル』が辛うじて見て取れた。
ところどころ剥がれかけた塗装の奥から覗く、かすれた警告文字。そして、古びた鉄の扉にステンシルで刻まれた、かすれた文字列。
『SONNENHERZ』
埃をかぶった分厚い金属の扉。
その扉の向こう側は、何重もの電磁シールドと鉛の壁で物理的に隔離されている。
だが。その厳重な封印の奥底から、空間の空気を微かに震わせるような、極めて低い、這いずるような音が、ゆっくりと、しかし確実に響いてきた。
……ドクン。
それは、機械の稼働音ではない。
巨大な、規格外の生き物が、深い眠りの中で打つ【鼓動】のような、重い反響音だった。
分厚い防爆ガラスのこちら側、計器のランプだけが頼りの薄暗い監視室。
並べられた無数のモニター越しに、その封印された部屋の内部を血走った目で見つめ続けている、白衣姿の人物がいた。
彼は、モニターの端に表示された『エネルギー出力波形』のグラフが、突如として不自然なスパイク(跳ね上がり)を描いたのを見て、ゴクリと生唾を飲んだ。
「……また、反応した」
白衣の人物は、震える指でコンソールを叩き、データを記録しながら呻くように呟いた。
「ここ数日……波長の間隔が、明らかにおかしくなっている。外部からのエネルギー供給は完全に絶っているはずなのに、出力が落ちるどころか、自己増殖的に熱量を上げている……」
彼の背後から、軍服を着た別の男が、忌々しげに舌打ちをして近づいてきた。
「外の騒ぎに、反応しているのか」
軍服の男は、ポケットから取り出したスマートフォンに表示された、世界中のニュース画面を睨みつけながら言った。
「アメリカの新聞社が余計な真似をしてくれたおかげで、世界中が我々(ここ)を監視しようと電波や衛星の目を向けてきている。……その世界中の『熱(情報量)』を、この化け物が吸い上げているとでも言うのか」
「分かりません。……我々は、このアーティファクトの基礎理論の数パーセントすら、まだ解明できていないのですから」
白衣の人物は、自嘲気味に笑った。
「八十年です。……八十年間、我々の先達がどれほど血と肉を注ぎ込んで実験を繰り返しても、こいつは完全な起動を拒んできた。
……なのに。今になって、世界がこれに気づいた途端に、自ら目覚めようとしている」
白衣の人物が操作したコンソールによって、モニターの映像のノイズが少しだけ晴れ、封印室の中央の光景が鮮明に映し出された。
そこにあったのは、ロシアのサイボーグのような洗練された機械の美しさでも、中国の仙人のような神聖さでもない。
ただ、純粋に【おぞましい】何かの集合体であった。
部屋の奥に鎮座しているのは、古代アステカの遺跡から削り出されたような、黒曜石の巨大な祭壇の断片。
そして、その祭壇の中央に設置された、複雑な無数のチューブと冷却液に満たされた透明な耐圧ケースの中で。
赤黒く、ドロドロと蠢くように光る、人間の『心臓』に酷似した未知のアーティファクトが。
……ドクン。
再び、重く、周囲の空間そのものを歪めるような脈動を打った。
軍服の男も、白衣の研究者も、その赤黒い光から目を離すことができなかった。
恐怖と、それ以上に抗いがたい「魅惑」。
この熱を取り込めば、自分たちはアメリカにも負けない無敵の存在になれるのではないかという、呪いのような誘惑。
アーティファクト時代は、輝かしい未来だけではなく、血に塗れた過去の業をも容赦なく掘り返す。
そしてその日、世界の視線は、一斉に南米の奥地へと向けられた。
旧ナチスの亡霊と、太陽の心臓。
《ゾンネンヘルツ計画》という名の、人類史の深く汚い傷口が、八十年の長い沈黙を破って、今まさに、赤黒い血を流しながら開き始めていたのである。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!