銀河皇帝のスペアに転生した元社畜、地球軌道上の要塞でネトゲ三昧の隠居生活を満喫する 〜足元では超大国が滅亡級の異星遺産を巡って暗躍中ですが、主人公(ぼく)の命は絶対安全なので特等席で傍観します〜   作:パラレル・ゲーマー

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第10話 鳴動の淵と、国が踏み込んだ最初の一歩

 首相官邸の地下、第二区画。

 先日の極秘通信室よりもさらに一段奥に位置し、通常は有事の際のオペレーションルームとして使われる無骨な部屋が、今日から「既存技術外事象評価セル」の初会合の場として割り当てられていた。

 

 長机を囲むのは、内閣情報調査室長の沖田剛(おきた たけし)を筆頭に、防衛省技術研究本部の解析官、気象庁の地磁気観測部門から出向してきた研究者、そして内調の実務官が数名という、極めて小規模で実務的な編成だった。

 彼らの前には、通常の官僚文書の書式を完全に無視した、表紙もインデックスもない簡略化されたファイルが置かれている。

 

 部屋の空気は、ひどく乾いていて、どこか落ち着かなかった。

 彼らは皆、自分たちが集められた理由の「異質さ」を肌で感じている。国家の安全保障を担うエリートたちが、アメリカからの「既存技術の枠外」という曖昧な警告を機に、これまで意図的に目を背けてきたオカルトすれすれの事象を検証しなければならないのだ。誰も本気で「神秘」など信じていない。だが、総理直轄の命である以上、笑い飛ばすことも許されない。

 

 そんな中途半端で居心地の悪い空気を、沖田の低く重い声が切り裂いた。

 

「勘違いしないでいただきたい。ここは『超常現象対策室』ではない」

 

 沖田は、机上で組んだ両手の上に鋭い視線を乗せ、出席者たちを順番に睨みつけた。

 

「我々の任務は、アメリカが示唆した“既存技術外”という可能性を、国家として雑に切り捨てないための、最初の確認ライン(フィルター)として機能することだ」

 

 彼の言葉には、一切の幻想やロマンは含まれていなかった。あるのは、冷徹な現実主義と、無駄を極端に嫌う官僚としての矜持だけだ。

 

「いいか。面白がるな。信じ込むな。だが、検証する前に捨てるな。我々が求めるのは、魔法の証明ではない。『既存の科学技術のモノサシでは測りきれない物理的な異常が、確かにそこに存在している』という、冷厳な事実の積み上げだ」

 

 沖田の釘刺しによって、部屋の空気は「困惑」から「実務の緊張」へと明確に切り替わった。

 

「では、最初の重点事案を決定する」

 

 沖田の指示で、内調の実務官がスクリーンに一枚の地図を投影した。

 それは、全国各地の過去の観測データの中で「説明不能な異常」として棚上げされてきた事象のプロット図だった。

 

「防衛省、気象庁、そして各大学の研究機関から集約した『異常値ログ』をクロスチェックした結果、一つの地域が際立って高いノイズを放っています」

 

 実務官がポインタで指し示したのは、島根県――出雲地方の山深い一帯だった。

 政府文書上の扱いは、味気ない文字列に過ぎない。

『島根県某山域異常観測案件』。

 

「この山域の特定地点では、数年前から局所的な磁場異常が断続的に報告されています」

 

 気象庁から出向してきた科学班責任者が、手元の資料をめくりながら補足した。彼の目には、長年この「正体不明のノイズ」に振り回されてきた研究者特有の、微かな疲労の色が浮かんでいる。

 

「高精度な地磁気観測機器を持ち込むと、なぜか強烈なスパイクノイズが乗る。特定の周波数帯で通信が著しく乱れ、一部のセンサーは理由もなく突然沈黙する。……地質、鉱床の分布、気象条件など、考え得るあらゆる物理的要因でシミュレーションを回しましたが、この局所的な偏りと異常性を完全に説明しきることはできていません」

 

「では、なぜ今まで放置されていた?」

 沖田が問う。

 

「『危険性の証明』ができなかったからです」

 

 科学班責任者は、苦々しげに答えた。

 

「致死性の放射線が出ているわけでも、有毒ガスが発生しているわけでもない。ただ『機材の調子がおかしくなる』というだけでは、学術的にも行政的にも、踏み込んだ調査予算を下ろす理由になりません。最終的には『特異な地殻応力による一時的な磁気異常、あるいは機材の初期不良の連続』という玉虫色の結論で、実質的に棚上げ(ペンディング)にされていました」

 

「……異常はあるが、再現性が悪く、決定打が出ない。だから『故障』として処理せざるを得なかった、ということだな」

 

 沖田の整理に、科学班責任者は無言で頷いた。

「機材の故障」として片付けるには、あまりにもその異常の出方に偏りがありすぎる。理系としての誠実さが、彼を長年苛立たせていたのだ。

 

「数字の乱れだけなら、いくらでも後付けで地質異常のせいにできますよ」

 

 部屋の隅、パイプ椅子に浅く腰掛け、退屈そうに資料の端を折っていた男が、唐突に口を開いた。

『ムー』編集長、三神。

 この極秘セルにおいて唯一の民間人であり、非公式助言者(アドバイザー)という特異な立ち位置で同席を許された男だ。

 

「出雲の本当の厄介さは、たぶんそこじゃない」

 

 三神の言葉に、沖田はあからさまに嫌そうな顔をした。彼は、科学的根拠のない曖昧な言葉を最も嫌う。

 

「……では、何だと仰るのですか」

 

「神職を入れてください」

 

 三神の要求に、会議室の空気が一瞬で凍りついた。

 

「非科学的だ!」

 防衛省の解析官が、反射的に声を荒げた。

「ここは超常現象の対策室ではないと、室長が最初に仰ったはずだ。国家の安全保障に関わる政策評価の場に、霊感だのオカルトだのを持ち込むつもりか!」

 

「機材のノイズを測定しに行くのに、神主が何の役に立つと言うんですか。お祓いでもしてもらう気ですか」

 科学班責任者も、呆れたようにため息をついた。

 

 当然の反発だ。だが、三神は彼らの嘲笑を全く意に介することなく、ゆっくりと立ち上がり、机の上に両手をついた。

 

「皆さん、少し勘違いをしているようだ」

 

 三神の瞳の奥で、普段の飄々とした態度の裏にある、鋭い観察者の光が瞬いた。

 

「巫女や神主が古来より扱ってきたのは、魔法や超能力じゃありません。言い方を変えれば、彼らの技術とは『長年その土地に積み上がった違和感を、身体で拾う技術』なんです」

 

 三神の言葉に、反発しかけていた官僚たちの動きが止まった。

 

「『霊感』と一言で片付けるとオカルト臭くて雑ですが……人が普通ならノイズとして無視して通り過ぎてしまう微細な環境の変化を、彼らは『無視できない感覚』として知覚する訓練を積んでいる。そう言った方が、現実的でしょう?」

 

 彼は、スクリーンに映し出された出雲の地図を指さした。

 そして、少しだけ間を置き、意味深に声を落とした。

 

「出雲には、黄泉比良坂(よもつひらさか)がある。……生と死の間の境界の話が、ただの神話や昔話の比喩で済まない土地なんですよ、あそこは」

 

 三神はそこで口を噤んだ。それ以上は言わない。

 彼が知る「魂の庭」という深淵の正体を、この段階で政府の役人たちに理解させることは不可能であり、混乱を招くだけだと分かっていたからだ。

 

 沖田は、眉間を深く揉みほぐしながら、三神を睨みつけた。

 

「……私は、神様を国家の政策に組み込む趣味はない」

 

「私もですよ、室長」

 三神は、真顔で即答した。

「ですが、高度な観測機材が理由もなく沈黙し、数値が嘘をつく場所に行くのなら……人の感覚も、極めてアナログな観測手段の一つとして扱うしかないんじゃないですか?」

 

 その言葉は、極めて論理的で、かつ強烈な説得力を持っていた。

 科学が機能しない場所で、科学の補完として「人間の感覚」を使う。それはオカルトではなく、実務的なリスクヘッジの提案だった。

 

「……いいだろう」

 

 沖田は、長く重い息を吐き出し、最終的な判断を下した。

 

「出雲の当該山域への、再調査を決定する。科学班を再投入し、観測網を再構築しろ。そして……三神氏の提案を容れ、現地の神職を同行させる。三神氏もオブザーバーとして参加だ。内調からは実務官を付け、全行程の記録と安全確保を担わせる」

 

 沖田は、出席者たちを厳しく見回した。

 

「深追いはするな。我々の目的はあくまで『確認』だ。機材が動かないなら、その『観測不能な状態』を正確に観測しに行く。成果がなくても構わん。だが、以前より一段、事実の輪郭をはっきりさせて戻ってこい」

 

 国家の極秘セルが、論理の枠組みの外側へ、最初の一歩を踏み出すことが決定した瞬間だった。

 

 ***

 

 島根県出雲市郊外。

 市街地から車で一時間ほど分け入った山間部に、林野庁の古い無人観測所を急遽借り受けた「既存技術外事象評価セル」の現地仮設ベースが設営されていた。

 

 プレハブめいた簡素な建物の内部には、数台のサーバーとモニターが運び込まれ、乱雑にケーブルが這い回っている。

 沖田室長、内調の実務官、三神、そして今回特例で同行を求められた地元の古社に連なる神主とその娘である巫女が、パイプ椅子に腰掛け、科学班責任者の事前ブリーフィングを聞いていた。

 

「……これが、過去三年間で我々がこの山域で収集した異常データの全てです」

 

 科学班責任者は、モニターに不規則なスパイク波形が記録されたグラフを映し出した。彼の声には、長年「幽霊の正体」を論理的に証明しようと足掻き、結果が出せなかった理系研究者特有の、消耗と苛立ちが混じっていた。

 

「特定のポイント――我々が『ポイントP7』と呼称し、地元では『鳴動の淵(めいどうのふち)』と呼ばれている一帯に近づくにつれ、地磁気が異常な乱高下を見せます。同時に、特定の周波数帯の電波が著しく減衰し、デジタルカメラの録画データには、数秒間だけノイズと共にフレームが『飛ぶ』現象が確認されています」

 

 彼は、忌々しそうにレーザーポインターでスクリーンを叩いた。

 

「しかし、残留放射能や異常な有毒ガス、特異な地質構造など、これらの現象を引き起こす物理的・化学的な要因は一切検出されていません。つまり、完全に『原因不明』です。機材の故障として処理すれば行政的には綺麗に片付きますが……これほど局所的で、同じ偏り方をする故障など、確率論的にあり得ないんです。結局、学術的には『妙な場所ですね』という曖昧な結論で止まっていました」

 

 沖田は、腕を組みながらその波形を冷徹に睨みつけた。

 異常はあるが、証明できない。官僚組織が最も嫌う「グレーゾーン」の典型だった。

 

「……『妙だが証明しきれない』案件ほど、後でろくでもないことになるんですよね」

 

 部屋の隅で、紙コップのコーヒーを啜っていた三神が、ぽつりと呟いた。

 

「ただの機械の故障なら、放っておけばいい。でも、機械が『故障させられている』のだとしたら、そこには必ず何らかの意図か、あるいは圧倒的な環境の歪みがある。……そろそろ、直接ご挨拶に行きましょうか」

 

 一行がベースキャンプを出発し、ポイントP7「鳴動の淵」へと向かう山道に足を踏み入れたのは、午後一番のことだった。

 

 先頭を科学班のメンバーが環境測定器を片手に進み、その後ろを沖田と内調の実務官、そして神主と巫女が続く。三神は最後尾を飄々と歩き、さらにその後ろには万が一に備えた医療要員が距離を置いて追従していた。

 

 最初は、ただの日本のありふれた深い森だった。

 木漏れ日が差し込み、土と枯れ葉の匂いが鼻を突く。過剰にホラーじみた空気など微塵もない。むしろ、あまりにも普通すぎる自然の光景が、これから「既存技術の外側」を観測しに行くという彼らの目的を、滑稽にすら思わせた。

 

 だが、行程の半分を過ぎたあたりから、その「普通」が、静かに、しかし確実に剥がれ落ち始めた。

 

「……班長。方位磁針が、定まりません」

 

 先頭を歩いていた科学班の一人が、足を止めてコンパスを軽く叩いた。

 針が北を指さず、フラフラと無目的に揺れ動いている。電子コンパスの表示も、エラーを吐き出して点滅していた。

 

 同時に、内調の実務官が耳に当てていたインカムの無線から、それまでクリアだったベースキャンプとの通信に、ザザッ、という不快な砂嵐混じりのノイズが混入し始めた。

 

「……通信、ノイズが酷くなっています。まだ距離的には十分届くはずなんですが」

 

 そして、何よりも彼らの感覚を粟立たせたのは、「音」だった。

 それまで森のあちこちから聞こえていた鳥のさえずりや、虫の羽音が、まるで巨大な見えないドームに入り込んだかのように、唐突に、完全に消え失せたのだ。

 風が木々を揺らす音と、自分たちが踏みしめる落ち葉の音だけが、不自然なほど大きく耳に響く。

 

 科学班のメンバーたちは「またこの現象か」と嫌な顔を見合わせた。彼らにとっては、これまで何度も経験した「機材の不調」の始まりだった。

 だが、神職の二人は違った。

 神主は厳しい表情で口を真一文字に結び、十代後半の若い巫女は、不安げに周囲の木々を見回しながら、自分の肩を抱くように身を縮ませていた。彼らは無言になった。

 

 最後尾の三神は、その変化を正確に感じ取りながらも、あえて何も言わず、ただ黙々と山道を登り続けていた。

 

「鳴動の淵」まで直線距離で数百メートルに迫った時、科学のモノサシは完全に崩壊し始めた。

 

「駄目です。地磁気センサーがスパイクしっぱなしで、測定上限を振り切っています!」

「カメラのオートフォーカスが合いません。マニュアルに切り替えても、レンズの奥で映像が滲んで……」

「記録端末が勝手に再起動を繰り返しています! バッテリー残量も、さっきまでフルだったのに一桁台まで急降下を……!」

 

 科学班のメンバーから、悲鳴に近い報告が次々と上がる。

 ただのノイズや磁気嵐ではない。持参したあらゆる電子機器が、一斉に意味不明なエラーを吐き出し、機能不全に陥っていく。

 音声レコーダーをモニタリングしていた内調の実務官は、イヤホンを叩きつけるように外した。

 

「……低い、ハムノイズのような音が録音データに乗り続けています。不快で、頭の芯が痛くなるような音です」

 

 科学班責任者は、狂ったように点滅するタブレットを握りしめ、青ざめた顔で沖田を振り返った。

 

「室長。これは……故障じゃない。環境ノイズのレベルを超えています。まるで、機材そのものが、強力な電磁波か何かの干渉を『向こうから直接受けている』ような感じです」

 

 ただの環境要因ではなく、明確な「干渉」。

 理系の研究者が、オカルトめいたその表現を口にせざるを得ないほど、現場の物理的異常は常軌を逸していた。

 

「……数字が、騒ぎ始めましたね」

 

 三神が、ポケットに手を突っ込んだまま、壊れたコンパスを見下ろして淡々と呟いた。彼はまだ、その先にある本質を説明しようとはしなかった。

 

 機材の異常が頂点に達しようとしていたその時、それまで無言で歩いていた巫女が、突如としてビクリと身体を震わせ、その場に立ち止まった。

 

「どうした?」

 沖田が訝しげに尋ねる。

 

 巫女の顔色は、抜けるように白かった。彼女の呼吸は浅く、小刻みに乱れており、目の焦点がどこか遠くを彷徨うように揺れている。

 彼女は、胸元を強く握りしめ、苦しそうに息を吐き出しながら言った。

 

「……気が、乱れています。とても、強い……」

 

 だが、彼女はすぐに首を激しく横に振り、自分自身の言葉を訂正した。

 

「……違う。乱れているんじゃない。ここは……」

 

 彼女は、怯えた瞳で前方の薄暗い森の奥――鳴動の淵がある方向――を見据え、震える声で紡いだ。

 

「嫌がっているんです。私たちがここに来ることを」

 

 その言葉は、科学班の「干渉されている」という表現よりも、さらに生々しく、そして直感的な真実を突いていた。

 

 傍らにいた神主もまた、額に脂汗を滲ませながら、深く、重々しい声で言った。

 

「……室長。ここから先は、人の身で立ち入るべき場所ではない気がします」

 

 沖田は、ピクリと眉を動かし、冷徹な官僚としての顔を崩さずに神主を見た。

 

「『気がする』では、国家の調査は止められん。引き返すというなら、論理的な理屈を提示していただきたい」

 

 神主は、沖田の鋭い視線から逃げることなく、静かに首を振った。

 

「理屈をお求めなら、ありません。我々にも、それが何なのかは分からない。ただ、こういう場所は確かに存在するのです。『見に行く』『測りに行く』という、人間の傲慢な態度そのものが、空間の側から弾き返される場所が」

 

 その神職の静かな警告に、科学班のメンバーたちも言葉を失い、微かに揺らいだ。

 狂い続ける機材と、神職たちの異常な反応。二つの全く異なるアプローチが、同じ「ここから先は異常だ」という結論を導き出している。

 

「……前進する」

 

 沖田は、躊躇することなく冷酷に命じた。

 

「我々は国家の命を受けて、この『異常』を確認しに来たのだ。引き返すのは、前へ進めなくなった時だけだ」

 

 彼の命令に、一行は重い足取りで再び歩みを進めた。

 だが、そこから数歩踏み出した瞬間だった。

 

 ズンッ、と。

 物理的な衝撃ではない。だが、まるで脳髄の真ん中に巨大な鉛の塊を直接叩き込まれたような、強烈で圧倒的な「圧力」が、その場にいた全員の身体を同時に貫いた。

 

「っ……!?」

 

 内調の実務官が、うめき声を上げてその場に蹲った。

 強烈な頭痛。心臓が早鐘のように打つ激しい動悸。そして、胃液が逆流してくるような猛烈な吐き気。

 

「はぁっ、はぁっ……酸欠か……!?」

 科学班のメンバーが胸を掻き毟りながら喘ぐ。

「いや、違う、違う……空気はあるのに、息が……吸えない……!」

 

 それは高山病でも、ガス中毒でもない。

 理由のない、圧倒的な喪失感。ここにいてはいけない、今すぐ立ち去らなければ存在そのものがすり潰されるという、生物としての本能に直接働きかけてくる強烈な「圧迫」だった。

 

 巫女は、耐えきれずにその場に両膝をつき、嗚咽を漏らした。

 神主は、歯を食いしばり、額に滝のような汗を浮かべながらも、杖にすがって辛うじて立っている。

 

 三神もまた、普段の余裕のある表情を完全に消し去り、土気色の顔で片手で木に寄りかかっていた。だが、彼の言葉だけは、この異常事態にあっても驚くほど冷静だった。

 

「……完全な、拒絶ですね」

 

 三神は、かすれる声で沖田を見た。

 

「我々は、全く歓迎されていない。これ以上踏み込めば、精神の形が保てなくなりますよ」

 

 沖田自身もまた、その強烈な「圧力」に苛まれていた。

 視界が明滅し、平衡感覚が狂う。強靭な精神力で無理やり立ってはいるものの、論理的な思考ができなくなる寸前まで追い込まれていた。

 理不尽なまでの、空間からの絶対的な拒絶。

 オカルトを信じない冷徹な官僚である沖田の肌に、その「見えない境界線」の存在が、痛いほどのリアルさをもって突き刺さっていた。

 

 現場は限界だった。

 機材は全て沈黙し、人員の半数以上がまともに歩くこともできない状態に陥っている。

 

 沖田の脳裏で、一瞬の葛藤が走った。

 国家案件として立ち上がった「既存技術外事象評価セル」の、最初の現地調査。

 ここで何も目に見える物理的証拠(サンプル)を持ち帰らずに引き返せば、また「原因不明の体調不良」として片付けられ、成果なしの空振りと見なされるかもしれない。

 

 だが、ここで無理をして前進を命じれば、確実に隊が壊れる。人員の生命に関わるか、あるいは精神に不可逆のダメージを負う。

 冷徹な官僚としての計算と、現場指揮官としての責任がせめぎ合う。

 

 沖田は、荒い呼吸を整え、血走った目で森の奥を一度だけ鋭く睨みつけた。

 

「……撤退する」

 

 その掠れた、しかし絶対的な命令に、苦しんでいたメンバーたちの動きが一瞬止まった。

 

「空振りではない」

 

 沖田は、膝をつく実務官の肩を引き起こしながら、這いつくばる科学班に向けて強い声で言い放った。

 

「機材が壊れ、人間が同時に倒れる。……“何もない場所”なら、絶対にこうはならない」

 

 それは、敗北の宣言ではなかった。

 彼らは今、「異常が存在する」という確たる証明を、自分たちの身体と壊れた機材をもって、確かに掴み取ったのだ。

 

「正しい判断です、室長」

 

 三神が、青白い顔のまま、小さく息を吐いて言った。

 

「こういう場所は、『近づけたこと自体』が、最大の成果なんですよ」

 

 ***

 

 出雲近郊の仮設ベースキャンプへと逃げ帰った一行は、医療要員のチェックを受けながら、泥のように重い疲労の中で報告の整理を行っていた。

 

 沖田は、ホワイトボードの前に立ち、壊れた機材のログデータと、メンバー全員の証言を冷徹に箇条書きにしていく。

 

 ・鳴動の淵周辺(ポイントP7)において、再現性のある異常が存在することを確定。

 ・各種観測機材の同時多発的な誤作動・シャットダウンは、偶然や自然故障ではない。

 ・科学班、神職、内調実務官を含む複数名に、原因不明の強烈な身体的・精神的拒否反応が同時に発生。

 ・危険性の評価は未確定だが、通常の自然現象や地質案件の範疇には絶対に収まらない。

 ・当該山域の立入制限レベルの再評価が急務。

 

「……観測データとしては不完全だ。使い物にならん数字の羅列と、壊れた機材しかない」

 

 沖田は、ホワイトボードをペンで強く叩いた。

 

「だが、この『不完全さ』には明確な再現性がある。複数の異なるアプローチが、同じ境界線で同時に弾き返された。……国家として『無価値だ』と切り捨てるには、あまりにも材料が揃いすぎている」

 

 その言葉は、沖田自身が、アメリカの警告を起点とするこの「超常案件」の重さを、完全に、そして自らの実体験として認めた瞬間だった。

 

 ***

 

 翌日。東京へと帰還した沖田は、直ちに官邸地下の「既存技術外事象評価セル」の会議を再召集し、結論を下した。

 

「出雲の『鳴動の淵』案件は、これより正式に『第一級・国家特異事象』として格上げする」

 

 沖田の宣言に、もはや反発する者はいなかった。科学班も防衛省も、現場でのあの圧倒的な「拒絶」の報告を受け、これが自分たちの常識の範疇にないことを悟っていた。

 

「方針はこうだ。物理的な干渉や深追いは当面禁止。周辺からの遠隔監視とデータ収集を継続しつつ、追加の機材と人員を投入する。また、今回有効性が証明された神職ルートのアプローチも継続して確保しろ。三神氏には、引き続き非公式助言者として知恵を借りる」

 

 内調の実務官が、別のリストを提示した。

「室長。もう一つの懸案であった、与那国島沖の海底遺構案件についてはどう扱いますか?」

 

「海底遺構案件は、現時点ではまだ観光都市伝説の域を出ていない。優先は出雲だ。与那国は別枠で保留とするが、定期的な観測対象のリストには残しておけ」

 

 沖田は、無駄を削ぎ落とした指示で、セルの次の一手を明確に定めた。

 

 その日の夜遅く。

 沖田は総理執務室を訪れ、矢崎首相に直接、分厚い報告書を手渡した。

 

「……総理。ご報告します」

 

 沖田は、まっすぐに矢崎の目を見て言った。

 

「アメリカが警告した『既存技術外の何か』を見つけた、とはまだ言えません」

 

 彼は、自らが現場で味わったあの圧倒的な拒絶の感覚を思い出しながら、その声に確固たる力を込めた。

 

「ですが……『そこには何もないとは、もう言えない』段階は終わりました。出雲案件は、国家の最重要案件として扱うべきです。あそこには確かに、我々の理解を超えた『何か』があります」

 

 矢崎は、報告書を受け取り、静かに、しかし深く頷いた。

 日本政府が、見えない地図の最初の一歩を、確かに踏み固めた夜だった。




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