銀河皇帝のスペアに転生した元社畜、地球軌道上の要塞でネトゲ三昧の隠居生活を満喫する 〜足元では超大国が滅亡級の異星遺産を巡って暗躍中ですが、主人公(ぼく)の命は絶対安全なので特等席で傍観します〜 作:パラレル・ゲーマー
インドの首都ニューデリー。
うだるような熱波と喧騒から完全に隔絶された、首相官邸地下の国家安全保障会議室。
数日前にヒマラヤ奥地の白蓮峰寺へと派遣された『国家遺産及び未確認事象調査局(チャクラ・プロジェクト)』の特別調査隊が帰還し、今まさに、その最終報告が行われていた。
巨大なマルチモニターには、調査隊が記録してきた映像とデータが次々と映し出されている。
寺院創建以来、ただの一度も開いたことのない分厚い石の扉。
その奥に広がる、何千年も密閉されていたとは到底思えないほど清浄なドーム状の空間。
黒曜石の台座。そしてその上に安置されていた、翠色とラピスラズリの青が混ざり合ったような不思議な種子の入ったカプセルと、虹色の光を放つ多面体のデータクリスタル。
さらに、クリスタルから再生された、古代の賢者による【現代ヒンディー語】のメッセージ音声が、ノイズ一つないクリアな音質で会議室に響き渡っていた。
『……大気と土壌に染み込んだ死の毒と、不可視の滅びの光を、完全に浄化し、星の生命力を再生させるためのテラフォーミング種子。我々はこれを、【ソーマの雫】と呼んだ』
音声が途切れ、黄金色の光が収束していく映像の終わりとともに、会議室は水を打ったような、いや、鉛を呑み込んだかのような重い沈黙に包まれた。
アニル・チャンドラ首相は、テーブルの上で両手を強く組み、微動だにせずにモニターを見つめていた。
同席しているのは、チャクラ・プロジェクトのプリヤ・ナーラーヤン長官、国家安全保障顧問、科学技術顧問、環境相、内務相、そして軍上層部の代表者たち。必要最小限の書記官を除けば、現在のインドを動かす最高首脳陣がこの密室に集結している。
「……以上が、白蓮峰寺の『開かずの聖域』における調査結果のすべてです」
調査隊のリーダーである素粒子物理学者、アリヤ・ヴァルマ博士が、緊張で微かに掠れた声を整えながら報告を締めくくった。
「賢者のメッセージによれば、この種子は環境汚染と放射能汚染を吸収し、浄化するためのシステムです。そして、使用の条件として『生命への限りなき慈しみをもって、有効に、そして正しく用いること』が明確に指定されています」
誰もが、頭の中で世界地図と、各国の手札を思い浮かべていた。
アメリカは、すべてを両断する『光刃』という絶対的な矛を手にした。
ロシアは、シベリアの凍土で『サイボーグ』という機械化された軍隊を量産している。
中国は、『仙人』という物理法則を無視する超人体系を構築した。
EUは『魔術』を、日本は『独自の神域』を。
大国がこぞって、軍事力や超人、精神支配、都市制御といった【覇権と破壊の力】を欲し、手に入れているこの狂騒の時代において。
インドが引き当てたのは、人を殺すための兵器ではなく……文字通り、傷ついた星を癒やすための【救済の種】だったのだ。
「……」
チャンドラ首相は、驚愕を通り越した深い思索の海から浮上し、すぐに政治家としての、そして国家指導者としての冷徹な思考回路へと頭を切り替えた。
「博士」
首相は、低く、威厳に満ちた声で問うた。
「その種子が、本当に放射能や重金属による汚染を『無害化』できるのであれば……それは、単なる環境改善の域を大きく超えるものだ。そうだな?」
「はい、総理」
ヴァルマ博士は、科学者としての見地から答えた。
「もし汚染物質を完全に再編成・無害化できるのであれば、それは現代の錬金術に等しい技術です。放射能の半減期を強制的に短縮、あるいは別の元素に変換するシステムが成立していることになります」
その言葉に、軍上層部の代表が身を乗り出した。
「総理! であれば、この技術は【最高レベルの国家機密】として厳重に秘匿すべきです!」
将軍の目には、明らかな野心と計算が渦巻いていた。
「放射能を完全に無害化できる技術があるならば、それは世界の『核戦略』そのものを根底から覆します! もし工業汚染を跡形もなく消せるなら、我々は環境規制を無視して軍需生産を極限まで加速できる。外交交渉上においても、アメリカやロシアに対する極めて強力なカード(切り札)になります!」
「待ってください!」
環境相が、将軍の言葉を遮るようにして激しく反論した。
「賢者のメッセージを聞かなかったのですか!? 託されたのは、苦しむ大地と人々を救うための技術です! それを最初から軍事利用の隠れ蓑や、外交の恫喝材料として扱えば、それは遺産への明確な裏切りです!」
「裏切りだと? これは国家の生存戦略の話をしているのだ!」
将軍が机を叩く。
「綺麗事で国が守れるか! そもそも、この『ソーマの雫』とやらは、我が国の思想的・倫理的な“試金石”かもしれない。安易に使用して、もし未知のパンデミックや制御不能の植物災害を引き起こしたらどうするのだ!」
「だからこそ、慎重に、正しい目的のために使うべきなのです!」
カプール教授が、宗教史の観点から助け舟を出す。
「神話の力は、その意図を歪めて使えば必ず呪いとなって返ってきます。ナチスがアステカの心臓をどう扱ったか、我々はアルゼンチンの惨状で嫌というほど見たはずです」
「ならば、少なくとも効果の検証が先だ!」
軍側はさらに食い下がる。
「地下の極秘施設か、軍が完全に管理する砂漠の閉鎖実験場で、少量の汚染土壌を使って安全性を確認すべきだ。……失敗した場合、この種子は一つしかないのだぞ。一発勝負で自然環境に放つなど、あまりにもリスクが高すぎる!」
激しい激論が交わされる中。
チャンドラ首相は、ゆっくりと右手を上げ、会議室の喧騒を一瞬にして静まらせた。
「……賢者は、この種子を『最も苦しむ民と大地のために』託した」
首相の声は、深く、静かだったが、いかなる反論も許さない絶対的な重さがあった。
「軍の懸念も理解できる。我が国がアーティファクト時代に乗り遅れていると焦っていることも、痛いほど分かっている。……だが、焦りのままに、この種子を軍事施設の地下に隠し、己の利益だけのために計算ずくで使えば。我々は、あのナチスや、アーティファクトを独占しようとする他国と、何一つ変わらなくなる」
首相は、円卓の上のホログラムに映る翠色の種子を見つめた。
「最初の一手を誤れば、我々はこの技術に値しない国になる。……五千年の歴史を持つインドが、世界の前に立つ最初の姿が、小賢しい『兵器の出し惜しみ』であってはならない」
チャンドラ首相は、総理大臣としての最終的な決断を下した。
「最初の使用は、軍事施設の地下でも、無菌の国家実験場でもない。
……現実に、今この瞬間にも人々が苦しんでいる【最悪の汚染地帯】にする」
「総理……! しかし、それでは……」
将軍が息を呑む。
「ただし、実験は軍とチャクラ・プロジェクトの厳重な封鎖下で実施する。成功が完全に確認されるまで、外部への公表は一切行わない」
チャンドラ首相の目は、決して理想論だけで語る夢想家のものではなかった。
「そして……もしこれが本物であり、見事に大地を救うことができたならば。その時は、インド政府が国家の責任を持って、全世界に向けて堂々と発表する。我々が、何を選んだ国であるかをな」
***
かくして、インド政府は、アーティファクトの最初の使用地として「最も傷ついた場所」を選定する作業に入った。
会議室のスクリーンに、インド国内の深刻な汚染地域のデータが次々とリストアップされる。
工業廃水で赤黒く染まり、生態系が死滅した大河の支流。
不法投棄された化学物質と生活排水が混ざり合い、強烈な異臭を放つスラム街の土壌。
過去の事故や不適切な廃棄によって、異常値の放射線量が疑われている立ち入り禁止区域。
深刻な農薬汚染で、二度と作物が育たなくなった広大な荒野。
そして、最終的に選ばれたのは。
パンジャブ州を流れるインダス川の支流、サトレジ川の最も深刻な汚染区域だった。
モニターに、ドローンで撮影された現在のサトレジ川の映像が映し出される。
かつては豊かな恵みをもたらしていたはずの川面は、無数の工場から垂れ流された未処理の化学廃水と、都市部の生活排水によって、どろどろに黒ずんで泡立っていた。
映像からでも、鼻をつくような強烈な悪臭が漂ってきそうだった。周辺の土壌は黒く変色してひび割れ、農地としての再生の見込みはとうに絶たれている。
水鳥の姿はなく、魚類は完全に死に絶え、近隣の住民たちには原因不明の皮膚病や呼吸器疾患が蔓延している。
さらに悪いことに、一部の区域では違法な産業廃棄物の長年の蓄積により、局地的な『異常な放射線値』すら計測されているという、文字通りの“死の川”であった。
「……ここだ」
チャンドラ首相は、その目を背けたくなるような大地の傷口の映像を見て、確信を持って言った。
「最初に救うべきは、最も傷ついた場所だ。……インドが世界に何を示すかは、この一手で決まる」
***
決断が下されると、インド政府の動きは迅速だった。
『ソーマの雫』は、白蓮峰寺から移送される際、ラヴィが急造した外部の電磁波や放射線を完全に遮断する特製の保護容器に厳重に収められた。
輸送には、チャクラ・プロジェクトの特別班、ヴァルマ博士を筆頭とする科学者チーム、そして軍の最精鋭の警護部隊が動員された。
空からは無数の監視ドローンが飛び交い、広範囲に電子妨害網が敷かれ、いかなる外国の偵察衛星やスパイの目も届かない完璧な「国家級封鎖」が実行された。
だが、チャンドラ首相から現場のアジット大尉には、厳格な命令が下されていた。
『これは戦争の品ではない。守るが、決して武器のようには扱うな。過剰な軍事色を出して、神聖な意味を損なうことは許さん』
サトレジ川の汚染区域一帯は、「環境災害対応の緊急試験区域」という名目で、二重三重のバリケードによって完全に封鎖された。
周辺住民には、有毒ガスの発生リスクを理由に限定的な避難命令が出されたが、過度な混乱やパニックを避けるため、アーティファクトの使用という真の目的は完全に伏せられていた。
深夜。
封鎖された死の川の岸辺に、ヴァルマ博士、カプール教授、ラヴィ、そしてアジット大尉たち現場の責任者が立ち並んだ。
現場は、不気味なほどに静まり返っていた。
夜の闇の中で、サトレジ川は化学物質の油膜で淀み、ブクブクと有害なガスを孕んだ泡を立てては弾けている。強烈な硫黄と腐敗の入り混じった臭気が、防護マスクのフィルター越しにすら微かに感じられた。
それはまさに、人間の欲望と無責任が生み出した「大地の傷口」そのものだった。
遠く離れたヒマラヤの白蓮峰寺では、老僧ラオシャンが、この時間に合わせて本堂で深く祈りを捧げていた。
『これはもはや、私の仕事ではない。……だが、あの種が、正しくインドの土に植えられることを、ただ祈ろう』
軍事的な厳戒態勢のピリピリとした緊張感と、未知の奇跡に対する静かな祈りの空気が、このサトレジ川の汚染された河川敷で不思議に交差していた。
***
「……最終測定、完了しました」
ラヴィが、手元の端末を確認しながら報告する。
「土壌サンプルのPH値、化学物質濃度、重金属の含有量、局地的な異常放射線量。すべて想定通りの『最悪』の数値です。……ここに、埋設します」
汚染の中心部。最も黒く変色し、有毒な泥が堆積している地点に、埋設ポイントが設定された。
特製の保護容器が、暗証番号と生体認証によって静かに開かれる。
内部には、ラピスラズリと翠色が混ざり合った、あの小さな種子が、微かな光を放ちながら安置されていた。
この国家の未来を決める種子を、誰が土に埋めるのか。
官邸の意向としては、環境相や軍の代表が立ち会うべきだという声もあった。だが、チャンドラ首相は「発見者であり、最もその性質を理解している者に任せる」と一任していた。
「私が、やります」
ヴァルマ博士が、特殊なコーティングが施されたグローブをはめ、静かに前に出た。
彼女の顔には、科学者としての冷静さと、一人のインド人としての深い決意が刻まれていた。
(託されたものなら……責任を持って、私の手で植えたい)
ヴァルマ博士は、専用の保持器具を使い、容器から種子を慎重に取り出した。
そして、ゆっくりと膝をつき、悪臭を放つヘドロのような汚染土壌の中心に、その翡翠色の小さな種子をそっと置き、黒い土を薄く被せた。
「……」
全員が、息を呑んでその地点を見つめた。
魔法のように、一瞬で光が広がり、川が清らかになるのではないか。
あるいは、汚染の強さに耐えきれず、種子が砕け散ってしまうのではないか。
数秒。
数十秒。
数分が経過した。
だが。
……何も、起きなかった。
風が吹き抜け、川のヘドロがブクブクと泡を立てる音が聞こえるだけ。
計器にも、全く変化はない。
「……失敗、か?」
警備に当たっていた若い兵士の一人が、張り詰めた空気に耐えきれず、思わず微かな声で漏らしかけた。
「静かに」
カプール教授が、それを厳しく制した。
「これは人間の作った爆弾やスイッチではない。自然を模した、星を癒やすための技術だ。……種が土に馴染み、根を張るための時間が必要なのだ。即座の反応がないことの方が、むしろ自然の摂理にかなっている」
「……その通りです」
ヴァルマ博士が立ち上がり、手袋を外した。
「埋設は完了しました。これより、本件を『厳重監視モード』へと移行します」
その夜から、サトレジ川の埋設地点を中心に、二十四時間体制での徹底的な監視が始まった。
赤外線カメラ搭載のドローンが上空を旋回し、土壌センサーが常時ミリ単位の成分変化を測定し、放射線量や化学物質濃度の推移がリアルタイムでスーパーコンピューターへと送られ続ける。
彼らは、希望を埋めた。
あとは、その奇跡が目を覚ますのを、ただ待つしかなかった。
***
埋設から、きっかり二十四時間が経過した、翌日の早朝。
「……博士! 大尉! 来てください!」
夜勤で監視モニターに張り付いていたラヴィが、突然、裏返ったような声で叫んだ。
仮設テントで仮眠を取っていたヴァルマ博士とアジット大尉が、弾かれたように飛び起きてモニターの前に駆けつける。
「地表に……埋設ポイントの地表に、微細な隆起があります! 生体反応(バイタル)が急激に上昇しています!」
夜明け前の、冷たく靄のかかった空気の中。
ヴァルマ博士たちは防護マスクを装着し、足早に埋設ポイントへと向かった。
そして、彼らは見た。
ひび割れ、悪臭を放っていた真っ黒なヘドロの地表。
その硬い泥を押し退けて。
鮮やかな、あまりにも鮮やかな【緑色の新芽】が、ひょっこりと姿を現していた。
だが、それはただの植物の芽ではなかった。
その緑は、地球上のいかなる植物とも違う、内側から透き通るような翡翠(ひすい)の輝きを帯びていた。
そして、東の空から昇る朝日の光を受けた瞬間、その新芽は、まるで自ら発光しているかのように、淡く、神秘的な光の粒子を周囲に撒き散らし始めた。
「……数値が! 数値が変わっています!」
背後で、タブレットを抱えたラヴィが狂乱したように叫んだ。
「新芽の半径十メートル圏内の、有害な化学物質濃度が急激に低下しています! 空気中の硫化水素などの悪臭成分も分解されている!……いや、分解じゃない!」
ラヴィは、信じられないデータを見て頭を抱えた。
「吸収しているんだ……! この新芽は、土壌や大気中の致死性の汚染物質を文字通り『喰って』、自分自身の成長エネルギー(生命力)へと【変換】している!!」
ヴァルマ博士は、泥だらけの地面に膝をつき、その光り輝く翡翠の新芽を、震える目で見つめた。
「……本当に」
博士の目から、科学者としての驚嘆と、抑えきれない感動の涙が溢れた。
「本当に……生きているのね」
アジット大尉は、すぐに通信機を取り出し、ニューデリーの官邸へと緊急の暗号通信を入れた。
『……総理。発芽を確認しました。浄化のプロセスが、開始されました』
数秒後。通信の向こう側で、徹夜で報告を待っていたチャンドラ首相の、低く、しかし確かな熱を帯びた声が返ってきた。
『……監視を継続しろ。
そして。……誰よりも先に、あの土地の住民たちを救う準備を始めろ』
この小さな翡翠の芽吹きは。ただの植物の成長ではない。
それは、病みきった世界が変わり始める、本当の【奇跡の始まり】であった。
***
そこからの『ソーマの雫』の成長速度は、地球上のあらゆる生物学の常識を完全に置き去りにするものだった。
【二日目】
新芽は、わずか二十四時間で人間の膝丈ほどの高さにまで急成長を遂げた。
その成長に必要な莫大なエネルギーは、すべて周囲の「汚染物質」から賄われていた。新芽の周囲の真っ黒だった泥の色は明らかに薄まり、茶色い本来の土の色を取り戻し始めている。
川の表面を覆っていた不気味な泡は減少し、風に乗って漂っていた鼻をつく悪臭が、嘘のように一段階消え去っていた。土壌中の有害物質濃度は、すでに危険値の半分以下にまで低下している。
【三日目】
明確な「幹」が形成され始めた。
その幹は、樹皮を持つ普通の木ではなく、磨き上げられた巨大な翡翠のように滑らかで、半透明だった。幹の内部を、まるで血管を流れる血液のように、淡い白金色の光の脈動が下から上へと流れていくのが肉眼でも確認できた。
枝が伸び、葉が展開し始める。だが、その葉は緑色の細胞ではなく、まるで極薄のダイヤモンドの結晶のように多面的な構造を持ち、太陽の光を浴びてプリズムのように複雑で美しい虹色を反射していた。
水質検査の結果、川の水に溶け込んでいた重金属や有害化学物質が異常な速度で減少。そして何より科学班を戦慄させたのは、一部の土壌から検出されていた「異常な放射線値」すらも、説明不能なメカニズムによって完全に無害化され、低下し始めていたことだった。
【四日目】
それは、すでに立派な「大樹」と呼べる大きさに達していた。
樹高は十メートルを超え、輝く結晶の葉が風に揺れて、シャラシャラと風鈴のような美しい音を立てている。
大樹の周囲の空気は、フィルターを通したように青く澄み渡り、数日前に上空を覆っていた汚染の靄(もや)は完全に消滅していた。
「……鳥の、声がする」
監視員の一人が、双眼鏡を覗きながら信じられないというように呟いた。死の川と呼ばれ、何年も生物の姿を見なかったこの場所に、どこからか小鳥が飛来し、安全な空気を求めて樹の枝に止まっていた。
さらに、川の浅瀬には、水質が改善したことを感知した小魚の群れが、泥の中から姿を現して泳ぎ始めていた。
【五日目】
樹冠が巨大な傘のように広がり、周囲の地面に、柔らかなステンドグラスを通したような美しい木漏れ日の光を落とし始めた。
サトレジ川の黒ずみは、もはや過去のものになろうとしていた。ドロドロだった水は本来の流動性を取り戻し、岸辺近くでは、数十年ぶりに川底の小石が透けて見えるほどにまで水質が回復していた。
大樹の根が及ぶ範囲では、土壌の浄化が完了し、周囲に生えていた枯れかけの雑草たちが、息を吹き返したように青々とした新しい葉を広げ始めている。
土壌サンプルからは、化学物質も異常放射線も、ほぼ「検出不能レベル」にまで激減していた。
【六日目】
樹は、神々しい巨大樹へと変貌を遂げた。
その翡翠の幹と、無数の結晶葉が織りなす異様な美しさと神聖さに、警備に当たっていた百戦錬磨の軍人たちすらも言葉を失い、銃を下ろしてただ見惚れていた。
上空を飛ぶ水鳥の群れが、川面に降り立ち、羽を休めている。
監視ドローンから送られてくる広域の赤外線映像や環境データマップでも、この一帯だけが、まるで砂漠の中のオアシスのように、完全に色味が変わっている(浄化されている)ことがはっきりと見て取れた。
もはや、誰一人として、ここが数日前まで「死の川」と呼ばれていた地獄だとは信じられない風景だった。
そして。
【七日目】
完全体としての【ソーマの樹】が、その圧倒的な姿を完成させた。
***
一週間後。
特別調査隊による、最終的な環境観測とデータ収集が行われた。
その結果は、もはや「成功」という言葉では言い表せない、完全なる【奇跡の証明】であった。
川の水は、ヒマラヤの雪解け水のように透明に澄み渡り、底を泳ぐ魚たちの鱗がきらきらと光を反射している。
周囲を覆っていた腐敗と化学物質の悪臭は完全に消失し、代わりに、森の奥深くのような清浄な空気と、かすかに甘い花の香りが漂っている。
水中の有害物質検出、ゼロ。
土壌中の化学物質および異常放射線の検出、完全なるゼロ。
生態系の回復は、目に見える形で爆発的に進んでいた。
魚が群れをなし、水鳥が川辺で羽を繕い、草むらからは数年ぶりに虫の音が響き渡っている。泥の上には、水を飲みに来たと思われる小動物の足跡までが確認された。
「……ここは、本当に、一週間前まであの『死の川』だった場所なのか?」
環境庁から派遣された観測班のスタッフが、澄み切った川の水を両手で掬い上げながら、夢でも見ているかのように呟いた。
「これは……浄化というレベルじゃない。環境の再生……いや、完全に真っさらな状態への【再創造(リ・クリエイト)】だ」
一部の現地スタッフや兵士たちは、そのあまりにも圧倒的な生命の奇跡を前に、思わず膝をつき、両手を合わせてソーマの樹に向かって深い祈りを捧げていた。
「兵器の破壊力など、これに比べればちっぽけなものだ」
常に警戒を怠らず、現実主義者であったアジット大尉ですら、防護マスクを完全に外し、深呼吸をしながら短く言った。
「これは……兵器よりよほど恐ろしい。……いや、途方もなく偉大だ」
ヴァルマ博士は、白衣を風に揺らしながら、巨大な翡翠の幹を見上げていた。
彼女の目からは、とめどなく涙がこぼれ落ちていた。
(私たちは、世界を壊すのではなく……世界を救うための力に、触れることができた)
さらに、ラヴィが地中スキャンレーダーで確認したところによると。
大樹の根の最深部において、最初に埋設した元の種子は完全に消失し。その代わりに、樹の中心部のコアの中で、まるで真珠が作られるように【次世代の新しい種子が、たった一つだけ】形成されつつある兆候が確認された。
汚染を喰らい尽くし、大地を浄化し、そして次代へ命を繋いで消えていく。
古代の賢者が残したメッセージは、一字一句違わぬ真実であったことが、ここで完全に裏付けられたのだ。
***
数日後。ニューデリーの首相官邸地下。
サトレジ川での一週間の観測データをまとめた、最終報告会が開かれていた。
会議室の空気は、興奮と熱狂、そしてそれ以上に「国家としてこの途方もない奇跡をどう背負うか」という重圧に包まれていた。
「結論として申し上げます」
ヴァルマ博士が、科学チームを代表して総括を行った。
「この現象は、環境の自然回復や、再現不能な偶然などではありません。
『ソーマの雫』は、極めて高度なプロセスで環境汚染と放射能汚染を吸収し、無害化し、再編成しました。……この樹として成長する過程そのものが、巨大な環境浄化プラント(機構)として機能しているのです。
これは単なる未知の植物ではなく、明確に【テラフォーミング技術】と呼ぶべき、オーバーテクノロジーの結晶です」
その報告を受け、会議室の一部から、再び強い懸念と欲望の声が上がった。
「総理! この事実を世界に公開すれば、各国は間違いなくこの技術を狙ってきます!」
国家安全保障顧問が、青ざめた顔で訴える。
「アメリカは自国の放射能廃棄物を処理するために、中国は砂漠化を防ぐために。……種子は、次にできる『たった一つ』しかないのです。もしテロリストや他国の工作員に奪われれば、インドは最大の切り札を失う。……やはり、これは非公開のまま、国内の極秘施設で我々だけで独占し、管理し続けるべきでは?」
その「独占」という甘い誘惑は、政治家であれば誰しもが抱く当然の防衛本能だった。
だが。
アニル・チャンドラ首相は、その提案を、静かに、しかし断固として退けた。
「……我々は、すでにこれを使ったのだ」
チャンドラ首相は、円卓の全員を見渡した。
「サトレジ川のような巨大な河川を一週間で浄化し、あのような巨大な翡翠の樹を生やしておいて、世界中の衛星の目からいつまでも隠し通せると思うか? 隠そうとすればするほど、疑念を生み、他国の不当な介入(スパイ活動)を招くだけだ」
首相は、さらに深い国家哲学の観点から言葉を続けた。
「何より。……我々がこの奇跡の種子を、兵器の実験場ではなく、最初に『最も苦しむ大地と民』のために使ったというこの歴史的事実こそが。これからのアーティファクト時代における、我々インドという国家の【揺るぎない立場(スタンス)】そのものになるのだ」
首相は、力強くテーブルを叩いた。
「もし我々が、この力を兵器化したり、独占して利益を貪るのではなく。純粋に『生命の救済』のために使うのだと、世界に対して真っ向から宣言して示せば。……少なくとも我々は、この神話の時代への最初の一歩において、決定的な道を誤らずに済む。
……すべてを公開する。包み隠さず、堂々とだ」
かくして、インド政府の歴史的な発表方針が完全に固まった。
公開する内容は以下の四点。
一、ヒマラヤの寺院で発見された、古代賢者のメッセージの存在。
二、テラフォーミング種子『ソーマの雫』の驚るべき浄化の性質。
三、サトレジ川における一週間の極秘実験の、完全なる成功の成果。
四、そして、この技術に対するインド政府の、今後の明確な運用方針。
これを、全世界に向けて、公式に発表する。
***
発表の準備は、極秘裏に、かつ超特急で進められた。
官邸の一室では、首相、ヴァルマ博士、環境相、広報官、国家安全保障顧問が缶詰めになり、一言一句のニュアンスまで計算し尽くされたスピーチの草案作りが深夜まで行われていた。
「総理、『地球外技術』あるいは『宇宙由来』という言葉は、直接使うべきでしょうか?」
広報官が確認する。
「使わなくていい。我々は『古代賢者の遺産』と呼ぶ。それが神話の神々であろうと、異星人であろうと、本質は変わらない」
「軍事転用は絶対にしないと、明確に宣言しますか?」
「当然だ。我々は『再生の守り手』を名乗るのだ。そこに一片の軍事的な野心も匂わせてはならない」
「他国への技術(種子)の提供可能性については、どう示唆しますか?」
「……今は、明言を避ける。まずは我々インドが国家的責任を持って管理・研究することを強調しろ。安売りはしないが、門前払いもしない。……この技術は、人類共通の希望になり得るのだからな」
チャンドラ首相のスタンスは、一貫してブレなかった。
『これはインドだけの勝利(覇権)ではない。人類全体の希望である。ただし、その使用には極めて重い倫理的責任が伴う。インドは、この技術を乱用せず、生命を救うためにのみ用いる』
発表に用いる映像資料の編集も完了した。
白蓮峰寺の開かずの聖域の荘厳な内部。
データクリスタルから響く、賢者のメッセージの音声抜粋。
ヴァルマ博士が泥にまみれて種子を埋設する緊迫の瞬間。
そして、二十四時間体制で撮影された、ソーマの樹が発芽し、汚染を喰らいながら七日間で巨大樹へと成長していく、息を呑むようなタイムラプス映像。
どろどろの「死の川」が、透明な清流へと一変する、浄化前後の劇的な比較映像。
インドが「環境の守り手」という、アーティファクト時代における全く新しい、そして誰にも真似できない強力なポジションを取るための、完璧な準備が整った。
***
そして、運命の時が来た。
インドの首都ニューデリー、首相官邸のプレスルーム。
そこから、国家放送およびインターネットのライブ配信を通じて、全世界向けの【重大な公式会見】が開始された。
無数のカメラのフラッシュが瞬く中。
アニル・チャンドラ首相が、毅然とした足取りで演台へと登壇した。
彼の表情には、焦りも、野心もなく。ただ、大国を率いる指導者としての深い覚悟と、品格だけが湛えられていた。
「全世界の皆様。……本日、我々インド政府は、人類の歴史における極めて重大な発見と、一つの『奇跡の証明』について、皆様にご報告いたします」
首相の重厚な声が、翻訳システムを通じて、世界中の何十億という人々の耳に届けられる。
「数日前。我が国は、ヒマラヤの奥地に存在する古刹において。寺院創建以来、一度も開かれることのなかった『聖域』の扉の奥から、古代の遺産を確認いたしました。
……それは、かつて地球に存在した高度な知性が残した、環境再生のためのテラフォーミング種子。【ソーマの雫】と呼ばれる技術の結晶です」
世界中の報道機関のデスクが、その「ソーマ」という神話の単語に一斉に色めき立った。
首相は続けて、古代賢者のメッセージの要点――生命への慈しみをもって有効に用いること、そして、それが大気と土壌の汚染、さらには『放射能汚染』すらも浄化する力を持つことを、包み隠さず発表した。
「……信じられないという方も多いでしょう。当然です。我々も、最初は目を疑いました」
チャンドラ首相は、背後の巨大スクリーンに視線を向けた。
「言葉よりも、事実をお見せしましょう。……これが、我々が直面した【奇跡】の全貌です」
スクリーンに、サトレジ川での一週間の実験の映像が映し出された。
真っ黒なヘドロの川。そこから発芽する翡翠の芽。
タイムラプスでみるみるうちに成長し、美しい多面体の葉を展開していくソーマの樹。
そして、その大樹が放つ光とともに、どろどろの「死の川」が、わずか一週間で、水鳥が舞い小魚が泳ぐ、透明で清らかな生命の川へと劇的に蘇っていく様子。
会見場に集まった世界各国の記者たちから、どよめきと、信じられないものを見たという驚愕の叫びが沸き起こった。
魔法ではない。映像の手品でもない。厳密な科学データと、リアルな自然の再生のプロセスが、そこに明確に記録されていた。
騒然とする会場の中で、チャンドラ首相は静かに、だが力強く宣言した。
「……ご覧いただいた通りです。
インド政府は、この神話の技術を、他国を脅かすための軍事的な駆け引きの道具や、覇権のための兵器として用いることを、明確に拒絶しました。
我々は、この最初の奇跡を……我が国で最も深く傷つき、苦しんでいた民と大地のために用いることを決断したのです」
首相の言葉は、世界中の国家指導者たちの胸に、鋭く突き刺さった。
「我々インドは、他国を打ち負かす『覇権』ではなく……傷ついた星を癒やす『再生の責任』を引き受けます。
これは、我がインドの奇跡であると同時に。……力に溺れようとしている人類全体に対する、一つの『問い』でもあります」
チャンドラ首相は、インドのこれからの新たな使命として、三つの柱を提示した。
インドは、ソーマの雫の管理と研究に、国家として全責任を負うこと。
今後もこの技術を極めて慎重に運用し、決して自国の利益のためだけに乱用・消費はしないこと。
そして、世界の環境再生と文明維持の在り方について、インドが新たな道(モデル)を示していく用意があること。
最後に、首相は演台に両手をつき、カメラの向こうの世界中の人々へ向けて、静かに、だが深く魂を揺さぶる一言で、会見を締めくくった。
「我々は、神話の力を得ました。……しかし、その力の本当の価値は、『それで何を壊せるか』ではなく……『それで何を救えるか』で、決まるのです」
***
発表の直後。
インド国内は、建国以来最大の、地鳴りのような熱狂と歓喜の渦に包まれた。
街頭の大型ビジョンを見上げていた人々は、涙を流して抱き合い、神々に祈りを捧げた。
官邸の裏側では、極度の緊張から解放された環境省のスタッフたちが泣き崩れ、チャクラ・プロジェクトの関係者たちは「ついにインドが、誰にも真似できない形でこの時代に名乗りを上げた」と、固く握手を交わした。
ヴァルマ博士は、控室のモニターを見つめながら、自分が震える手で触れたあのクリスタルが、インドという国をここまで誇り高い未来へと導いたことに、深い感動で胸を震わせていた。
一方、ヒマラヤの奥地。白蓮峰寺。
小さなラジオの通信機から流れてくる首相の演説を聞いていた老僧ラオシャンは、静かに、深く頷いた。
彼が九十年間、ただ愚直に扉を見守り続けたあの日々が。ついにこうして、下界の多くの人々の命と大地を救う、最高の形となって結実したのだ。彼の心は、これ以上ないほどの静寂と満ち足りた思いで満たされていた。
画面の向こう側。
サトレジ川の畔では。
かつて悪臭を放っていた泥は消え去り、ヒマラヤの雪解け水のように澄んだ水面が、朝の光をキラキラと反射している。
戻ってきた水鳥たちが羽ばたき、風に揺れる巨大な翡翠の幹と結晶の葉――『ソーマの樹』が、シャラシャラと美しい音を立てながら、癒やされた大地の上に神々しい木漏れ日を落としていた。
インドはこの日、狂騒のアーティファクト時代において初めて。
「世界を制する力(兵器)」ではなく、「世界を癒やす力(救済)」を持つ国家として、歴史の表舞台に圧倒的な名乗りを上げた。
そして、その美しすぎる奇跡の映像と、チャンドラ首相の気高き宣言は、国内の熱狂とともに国境を越え……世界全体のネット空間と各国の政府中枢を、次なる強烈な衝撃と、新たな次元の「欲望」へと導いていくことになるのである。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!