銀河皇帝のスペアに転生した元社畜、地球軌道上の要塞でネトゲ三昧の隠居生活を満喫する 〜足元では超大国が滅亡級の異星遺産を巡って暗躍中ですが、主人公(ぼく)の命は絶対安全なので特等席で傍観します〜 作:パラレル・ゲーマー
パンジャブ州、サトレジ川流域。
かつて、工業廃水と生活排水が混ざり合い、息をすることも憚られるほどの悪臭を放っていたその「死の川」は、いまや全く別の風景へと生まれ変わっていた。
ヒマラヤの雪解け水を思わせるほどに澄み切った水面が、朝の光を反射してきらきらと輝いている。
川底の石の模様すら肉眼ではっきりと見える透明な水の中を、群れをなす小魚が銀色の鱗を煌めかせて泳ぎ、岸辺に芽吹いた青々とした水草の間では、長い間この地から姿を消していた水鳥たちが羽を休めている。
大気を覆っていた化学物質の澱みは完全に消散し、肺の奥まで吸い込みたくなるような、清浄で甘い香りを孕んだ風が吹き抜けていた。
その奇跡の風景のまさに中心に、巨大な『ソーマの樹』が静かにそびえ立っている。
磨き上げられた翡翠のように滑らかで半透明な幹。
そこから伸びる枝には、ダイヤモンドの結晶のように多面的な構造を持つ葉が密生し、風がそよぐたびにシャラシャラと、微かな、しかし魂の底まで染み渡るような美しい鈴の音を奏でていた。
「……信じられない光景です。何度見ても」
環境保護服を脱ぎ捨てたアリヤ・ヴァルマ博士は、土壌センサーのデータから目を上げ、神々しい輝きを放つ翡翠の巨樹を見上げた。
周辺の土壌や水質から、異常な放射線値や重金属、有害化学物質は完全に検出されなくなっている。それどころか、生態系そのものが、数十年前に時計の針を巻き戻したかのように、最も理想的なバランスで再構築されていた。
「浄化プロセスは、ほぼ完了したと見てよいでしょう」
横に立つエンジニアのラヴィが、タブレットの画面をスワイプしながら報告した。
「吸い上げるべき『毒』が周囲から完全に消滅したため、ソーマの樹の成長速度は停止し、現在は環境の安定維持モードに入っているようです。……ですが、博士。一番重要なのは、これです」
ラヴィが指差した先。
ソーマの樹の幹の中心部、半透明の翡翠の奥深くに、ひときわ眩い光の塊が明滅しているのが見えた。
ヴァルマ博士は息を呑んだ。
「……賢者のメッセージの通りですね」
彼女の声が、微かに震える。
『この植物は、新たな種子をたった一つだけ残し、完全に消滅する』
「ええ」
ラヴィが頷く。
「樹の中心部で、新しいカプセル状の『種子』が形成されつつあります。……現在、エネルギーの凝縮フェーズに入っており、あと数日、あるいは数時間で、完全に抽出可能な状態になるかと」
ヴァルマ博士は、美しくも残酷な宣告を口にした。
「つまり……次の使用先(救うべき土地)を、決めなければならない時が来た、ということですね」
その報告は、厳重な暗号回線を通じ、即座にニューデリーの中枢へと届けられた。
***
インドの首都ニューデリー、首相官邸。
アニル・チャンドラ首相の執務室の重厚なデスクの上には、現在、世界中から殺到した『要請書』の山が、文字通り天井に届かんばかりの高さで積まれていた。
「総理。……現時点で、公式な外交ルートを通じた国家からの要請だけで、六十三カ国に達しています」
秘書官が、疲労の色を濃く滲ませた声で報告した。
「さらに、非公式な首脳間の照会、国連および関連機関からの協議要請、国際的な環境NGOからの公開請願、宗教組織からの嘆願書、学術機関からの共同研究提案……。それらを含めると、総数は数千件を軽く超え、現在も毎分単位で増え続けています」
チャンドラ首相は、デスクの上の書類の束を、重苦しい目で見つめた。
ただの書類ではない。その一枚一枚の向こう側に、血を流し、苦しんでいる数え切れないほどの人々の顔があるのだ。
深刻な化学物質で汚染され、奇形児の出生率が異常に跳ね上がっている南米の鉱山地域。
長年の内戦で化学兵器と枯葉剤が撒き散らされ、二度と作物が育たなくなった中東の荒野。
石油流出によって豊かな漁場が完全に死滅し、住民が餓死の危機に瀕しているアフリカの沿岸部。
砂漠化が進行し、飲み水すら枯渇しようとしている中央アジアの農村。
そして……人類が自らの手で生み出した最も重い十字架である、福島とチェルノブイリ。
それらの悲痛な叫びを収めた映像メッセージや嘆願書には、奇形や病に苦しむ子供たちの姿や、真っ黒に染まった大地を前に絶望する住民たちの姿が、これでもかとばかりに添えられていた。
チャンドラ首相は、ゆっくりと目を閉じ、深く息を吐き出した。
「……奇跡を得た瞬間、我々は、神の席に座らされたわけか」
首相の独白は、冷たい執務室の空気に虚しく吸い込まれていった。
兵器であれば、使わないという選択ができる。だが、これは救済の道具だ。「使わない」ことは「見殺しにする」ことと同義になる。
これほど残酷な玉座が、他にあるだろうか。
***
首相官邸のさらに地下深くに設けられた、極秘の会議室。
円卓を囲むのは、チャンドラ首相をはじめ、チャクラ・プロジェクトのプリヤ・ナーラーヤン長官、環境相、外相、国防相、内相、科学技術担当相、農業・水資源担当相、宗教・文化担当相、そして情報機関のトップたち。
さらに、現場の最前線から呼び戻されたヴァルマ博士、カプール教授、ラヴィ、そしてアジット大尉の姿もあった。
現在のインドを牽引する最高首脳陣と専門家たちが、たった一つの議題のために集結している。
壁面の巨大なスクリーンには、世界地図と、そこにプロットされた無数の『深刻な汚染地域(候補地)』を示す赤いマーカーが、不気味に点滅していた。
「……議題はただ一つ。次世代のソーマの種子を、どこで使うかだ」
チャンドラ首相の重い声が、会議の始まりを告げた。
だが、各省庁から提出された評価シートには、環境被害の深刻度、人口規模、国際的象徴性、政治的リスク、警備リスク、科学的検証価値、外交的影響といった項目が並んでいるものの……どの項目にも、誰一人として明確な「点数」をつけることができずにいた。
当然だ。これは単なるインフラ投資の優先順位を決める会議ではない。誰を先に救い、誰に絶望的な順番待ちを強要するのかを決定する、命の選別の場なのだから。
その息苦しい沈黙を破ったのは、農業・水資源担当相だった。
「総理。……次は、間違いなく国内で使うべきです」
彼は、強い口調で主張した。
「サトレジ川の浄化は、あくまで始まりにすぎません。我々の国には、まだ救われていない川が数え切れないほどある。工業排水で汚染された農地がある。化学工場跡地の土壌汚染に苦しむスラムがある。飲み水にすら事欠き、病に倒れる村人がいるのです」
環境相も、深く頷いて同調した。
「国民の期待は、すでに限界まで膨れ上がっています。我々の足元にも、救うべき命と大地が山ほどある。……なぜ、ヒマラヤの奥地で、我々インドの僧侶が守り抜いてきた聖なる遺産を、インドの民を差し置いて、真っ先に外国へ渡さねばならないのか。そう問われた時、政府はどう答えるつもりですか。国内の不満は爆発しますよ」
内相が、現実的な政治リスクを補足する。
「現在、国内世論は『インドが世界を癒やす奇跡を起こした』という祝祭状態にあります。しかし、次の種子を国外へ出すと発表すれば、状況は一変するでしょう。“自国民を見捨てて、外国に奇跡を売り渡した売国政府”という烙印を押されかねません。暴動が起きるリスクすらあります」
出雲の聖域から出たものではないが、それに等しいインドの神聖な遺産。
ラオシャンと白蓮峰寺の僧侶たちが九十年間命懸けで守り抜いてきたもの。
最初の使用で、見事にインドの国内を救済した実績。
ならば、次もインド国内の被害地を救うのが、為政者として当然の義務ではないか。国内優先派の論理は、政治家として極めて真っ当であり、揺るぎない説得力を持っていた。
だが。
「……国内優先の感情は、痛いほど理解します」
外相が、苦渋の表情を浮かべながらも、敢えて反対の立場をとった。
「しかし、総理はあの世界への会見で、ソーマの雫を『人類全体への希望』と表現されました。……これをインドだけの宝として囲い込み、私物化するような振る舞いをすれば、あの言葉は完全に空虚なプロパガンダへと地に落ちます」
科学技術担当相も、外相を援護する。
「国際的な共同研究を進めるという観点からも、国外での使用例はいずれ必ず必要になります。
異なる気候帯、異なる土壌の成分、異なる性質の汚染物質への反応を確認しなければ、ソーマの雫の真の能力と限界は、永遠に正確な把握ができません。自国内の似たような環境でばかり使っていては、科学的な検証が偏ります」
外相は、タブレットを操作し、スクリーンに具体的な国外の候補地を大写しにした。
チェルノブイリ関連地域。
福島関連地域。
太平洋核実験場跡地。
内戦による化学兵器汚染地域。
枯葉剤の後遺症に苦しむ土地。
「これらは、単なる『外国の問題』ではありません」
外相は、言葉に熱を込めた。
「人類史が刻んだ、深い傷跡です。……もしインドがその一つを癒やせば、我々は環境分野における道徳的主導権を、世界の中で完全に確立することができます。大国間の覇権争いを凌駕する、圧倒的な外交的優位(発言力)を得られるのです」
「道徳的主導権のために、あのかけがえのない種子を、危険な国外へ持ち出すというのか?」
国防相が、冷ややかな声で外相の夢想を叩き斬った。
「護衛はどうするつもりだ。移送中に奪われたら、誰が責任を取る?」
国防相の言葉に、会議室の空気が一気に冷え込んだ。
「相手は、ロシアのスペツナズやアメリカのセレスティアル・ウォッチだけではない。非国家武装組織、環境カルト、過激派、民間軍事会社。……今や世界中のあらゆる暴力装置が、あの種子を狙っている。国外への持ち出しは、警備の観点から見て、自殺行為に等しい」
その一言で、国際貢献派の勢いが削がれた。
どれほど崇高な理念を掲げようと、種子を奪われてしまえばすべてが水泡に帰す。それどころか、悪意ある者の手に渡れば、環境浄化のシステムがテラフォーミング兵器(地球環境の強制書き換え)として転用される最悪のリスクすらあるのだ。
「……私は、次の使用先を、政治や外交の都合だけで決めるべきではないと考えます」
激論が交わされる中、現場の科学者であるアリヤ・ヴァルマ博士が、凛とした声で発言した。
会議室の視線が、彼女に集まる。
「皆様は、ソーマの雫を『どこにでも使える魔法の杖』のように語っておられますが。……ソーマの雫は、まだ【一回しか】実証されていません」
ヴァルマ博士は、科学者としての厳密な視点から、甘い見通しに警告を発した。
「サトレジ川では、見事に成功しました。しかし、それはあくまで『あそこの環境、あそこの汚染条件、あそこの気候』における結果に過ぎません」
ラヴィが、タブレットのデータを示して技術的な補足を入れる。
「次の使用先が、放射線汚染が中心の場所なのか、重金属汚染なのか、あるいは有機化学汚染なのか、大気汚染が中心なのかで……植物としての成長プロセスや、浄化の反応がどう変化するのか、我々には全く予測がつきません。
……我々はまだ、ソーマの雫の『得意・不得意(限界値)』すら把握していないのです」
「古代賢者は、『有効に、そして正しく用いること』と言いました」
カプール教授も、文化的・神話的観点から言葉を添える。
「有効とは、ただ善意だけでどこにでも植えればいいということではない。正しくとは、その効果や副作用を知らずに、人間の願望だけで盲目的に使うことでもないはずです。……もし見当違いの場所に植えて、種子が枯死してしまえば、我々は神話の遺産を永遠に失うことになります」
ヴァルマ博士が、結論を提示する。
「ゆえに。次の使用は、世界を救う大舞台や政治的な象徴の場ではなく。……科学的に緻密な検証が可能であり、なおかつ人道的な意義が両立する場所であるべきです」
「だが、それがどこなのかが問題なのだろう」
国防相が、苛立ちを隠せずに言う。
「それに、安全性の検証と言うが……あの種子を狙っている連中が、悠長な実験を待ってくれると思うか?」
国防相は、情報機関のトップに発言を促した。
「……すでに、複数国のインテリジェンス機関が、ソーマの樹の周辺および白蓮峰寺に向けて、露骨な情報収集活動を開始しています」
情報機関トップが、重苦しい報告を上げた。
「衛星による監視は当然として。現地協力者(スパイ)の獲得を狙う動き、さらには通信網へのハッキングの試みも確認されています」
「それは、国外の話か? それとも国内か?」
内相が鋭く問う。
「……国内です」
情報トップの答えに、会議室がざわめく。
「宗教団体への寄付、環境保護NGOの視察、海外財団の支援プログラム、民間企業を装った学術調査。あらゆる建前を使って、彼らは接触を試みてきています。
目的は、ソーマの雫の正確な保管場所の特定、次世代種子の形成タイミングの把握、そして……移送計画の奪取です」
「つまり、次の種子は……いま世界で最も狙われている物体の一つ、ということです」
アジット大尉が、現場の警備担当として、冷厳な事実を突きつけた。
「国外に持ち出せば、どんなに偽装しようと、護衛の難易度は天文学的に跳ね上がります。かといって、国内に留めておいても、決して安全とは言えません。……我々は常に、目に見えない無数の銃口に狙われていると認識すべきです」
「結局、そういうことだ」
国防相が、腕を組んで吐き捨てるように言った。
「我々は、使用先を決める前に、まず【どうやって守り抜くか】を決めなければならないのだ」
各派閥の主張は、どれもが正論であり、どれもが致命的なリスクを孕んでいた。
その、出口の見えない泥沼の議論の中で。
宗教・文化担当相が、ゆっくりと口を開き、極めて静かな、しかし深い精神性を帯びた声で、事態の『倫理的な前提』を整理し始めた。
「……皆様。議論の前提が、少しズレてはいないでしょうか」
宗教・文化担当相は、円卓の面々を見回した。
「ソーマの雫は、果たして我々インド政府の『国家資産』なのでしょうか。それとも、人類全体への『託し』なのでしょうか」
「どういう意味だ?」
外相が問う。
「白蓮峰寺の聖域は、寺院が創建されて以来、何百年も守られてきました。ラオシャン師は、九十年以上もの間、誰に命じられるでもなく、ただ『開かない扉』を毎朝見守り続けた」
担当相は、その途方もない時間の重みを語る。
「そして、賢者のメッセージは、我々政府ではなく、まず何よりも彼(ラオシャン師)への感謝から始まりました。
……つまり。ソーマの雫は、力ある国家に与えられた『褒美(戦利品)』ではないのです。守り続けた者の誠実さに対する『信頼』として、ただ【託されたもの】に過ぎない」
その発言は、国家の所有欲に囚われかけていた官僚たちの胸に、深く、鋭く響いた。
「ならば、我々が問うべきは、“どこに使えばインドが得をするか(外交的・政治的に有利か)”ではありません」
宗教・文化担当相は、静かに、しかし断固として言った。
「“どこに使えば、託された意味を裏切らないか”。……それだけが、我々の判断基準であるべきです」
「……その通りだな」
チャンドラ首相が、深く頷いた。
「プリヤ長官」
首相は、チャクラ・プロジェクトのトップに視線を向けた。
「その『裏切らない場所』の候補を、具体的に並べてみろ。我々は現実から目を背けるわけにはいかん」
プリヤ長官は、手元のタブレットを操作し、メインスクリーンに【候補地リスト】を展開した。
それは、どれを選んでも血が流れ、どれを選んでも批判を浴びる、文字通りの『地獄のリスト』であった。
「……現在の要請と状況を総合し、大きく五つの候補に分類しました」
プリヤ長官が、一つずつ読み上げていく。
【候補A:インド国内の別の死の川(または重度汚染地帯)】
メリット:国内世論が最も納得しやすく、政治的安定が保てる。移送リスクが極めて低い。気候や土壌条件がサトレジ川と近いため、科学的な追加検証が容易。インド国内の環境再生を確実に加速できる。
デメリット:国際社会からは「結局、インドが独占(私物化)している」と猛烈な批判を浴びる。世界中からの救済要請を無視した形になり、首相の「人類の希望」という発言との整合性が問われる。
【候補B:福島関連地域(日本)】
メリット:世界で最も深刻な『放射能浄化能力』の象徴的な実証となる。同じくアーティファクト保有国であり、慎重な管理姿勢を見せる日本との関係強化に繋がる。成功すれば、人類史的なインパクトは計り知れない。
デメリット:政治的、社会的、科学的に極めて繊細な地域であり、地元の合意形成が不可欠。もし浄化に失敗し、予期せぬ生態系の破壊を招いた場合、インドが『日本の歴史的傷口に塩を塗った』ことになり、取り返しのつかない外交的ダメージを負う。
【候補C:チェルノブイリ関連地域(ウクライナ)】
メリット:放射能汚染の世界的象徴であり、欧州およびウクライナからの期待と悲鳴が最も大きい。成功すれば、20世紀最悪の傷を癒やしたという、究極の道徳的勝利を得られる。
デメリット:地政学的なリスクが最高レベル。ロシアの軍事力とサイボーグ部隊が蠢く戦線の間近であり、輸送・警備の難易度は絶望的。種子が奪取されるか、あるいは実験そのものが武力攻撃の標的となる危険性が極めて高い。
【候補D:国連管理下の小規模汚染実験地】
メリット:国際的な公平性を最もアピールでき、各国の不満を逸らすことができる。環境が統制されているため、科学的な検証が安全かつ正確に行える。政治的リスクと独占の批判を抑えられる。
デメリット:象徴的なインパクトが最も弱い。現在進行形で苦しんでいる被害地域の住民からは「人が死んでいるのに、安全な実験を優先するのか」という激しい非難と絶望を生む。また、国際管理が始まると、インドの主導権が弱まり、システムが国連(大国の思惑)に食い物にされる恐れがある。
【候補E:太平洋の核実験場跡地(マーシャル諸島など)】
メリット:核汚染と環境再生の象徴性が高く、大国(アメリカやフランス)の負の責任問題を国際的に浮き彫りにできる。気候変動に苦しむ島嶼国の強い支持を得られる。
デメリット:核保有国の猛反発を招く可能性。海洋環境(海水やサンゴ礁)でのソーマの雫の挙動が全くの未知数であり、失敗のリスクが高い。
プリヤ長官が説明を終えると、会議室は再び重苦しい沈黙に沈んだ。
「……見事なまでに、どれも一長一短だな」
国防相が、忌々しげに吐き捨てる。
どれを選んでも、誰かが救われ、誰かが絶望する。
正解などない。あるのは、どの批判とリスクを背負い込むかという、為政者の覚悟だけだ。
チャンドラ首相は、目を閉じ、口を真一文字に結んだまま、一言も発さなかった。
彼の前には、赤く点滅する候補地のリストと、そして……九十年もの間、誰にも知られず扉を守り抜いたラオシャン師の写真が並べられていた。
(……救済とは、選別なのか)
首相の内心で、声にならない問いが渦巻いていた。
(神の力を得た者は、神のように『生殺与奪』を選ばなければならないのか。……我々人間に、そんな資格があるというのか)
沈黙が続く中。
コンソールに向かっていた秘書官が、ふと立ち上がり、一枚の封筒を持って首相の元へ足早に歩み寄った。
「……総理。白蓮峰寺から、緊急の便りが届いております」
秘書官は、声を潜めて言った。
「白蓮峰寺から?」
チャンドラ首相が目を開く。
「はい。……ラオシャン師からです」
その名を聞き、カプール教授がハッとして身を乗り出した。
「読み上げろ」
首相の指示に、カプール教授が封筒を受け取り、中の手紙を恭しく開いた。
手紙の文面は、極めて短く、簡潔だった。
だが、そこに込められた言葉は、政治家たちの複雑に絡み合った議論を、一刀両断にするほどの深遠な真理を突いていた。
カプール教授が、静かな声で読み上げる。
『ソーマの雫は、誰か一人の所有物ではありません。
しかし、誰にでも渡してよいものでもありません。』
『扉は九十年、開きませんでした。
……開かなかったことにも、意味があるのです。
使うべき時と、待つべき時があります。
焦って救おうとすれば、救いそのものを壊すことになります。』
『まず、次の一粒を、ただ静かに守りなさい。
そして。
……救う場所を選ぶ前に。
【選ばれなかった場所への言葉】を、用意しなさい。』
教授が読み終えた後。
会議室の空気から、焦燥と対立の熱が、スゥッと引いていった。
「……選ばれなかった場所への、言葉……」
チャンドラ首相は、その一文を、自らの魂に刻み込むように呟いた。
そうだ。
救済の順番を決めるということは、それ以外のすべてに「あなたは後回しだ」と宣告することなのだ。
その残酷な現実に対する【言葉(責任)】を持たずに、ただ技術の力に酔いしれて振り回せば、それはもはや救済ではなく、暴力と変わらない。
チャンドラ首相は、ゆっくりと立ち上がった。
その顔には、先ほどまでの迷いは完全に消え去り、国家の未来を背負う指導者としての、静かで強固な決意が宿っていた。
「……次の使用先は、今日、ここでは決めない」
首相のその宣言に、会議室が小さくざわめく。
「総理、しかし世界は……」
外相が言いかけるが、首相はそれを手で制した。
「焦って救おうとすれば、救いを壊す。……ラオシャン師の言う通りだ」
チャンドラ首相は、円卓の全員を力強く見据えた。
「我々はまず、【救済の原則】を決める。
……誰を救うかを決める前に、どのような基準で、どのような責任のもとに救うのかを、世界に対して明らかにするのだ」
首相は、インド政府がこれから取るべき、確固たる『方針』を次々と打ち出していった。
「一つ。ソーマの雫はインドの所有物ではなく、インドが管理責任を負う【託された遺産】と位置づける。
二つ。次の使用先は、政治的利益や大国の圧力ではなく、被害の深刻度、科学的妥当性、安全性、住民合意、および警備の可能性のみで判断する。
三つ。候補地の受付は、国内外を問わず広く公募する。
四つ。……ただし、次世代の種子が成熟しても、すぐには使用しない。周囲の環境への影響を見極めるための、十分な【追加検証期間】を設ける」
「それは、実質的な『使用の保留』ですね」
ヴァルマ博士が、科学者としてその慎重な判断を高く評価して言った。
「そうだ。そして五つ目。この選定プロセスを透明化するため、国際機関の代表、各分野の専門家、そして被害地域の代表者を含む【ソーマ運用諮問委員会】を設置する」
首相は、外相を見た。
「これをもって、我々は国際社会との協力を受け入れる」
「総理」
外相が、慎重に確認する。
「それは……アメリカやEUが求めているような、『国際管理(インドの主権放棄)』を受け入れるということですか?」
「違う」
チャンドラ首相は、はっきりと、そして絶対的な力強さで否定した。
「国際協力は受け入れる。……だが、責任は絶対に放棄しない。
我々はこの種子を、インド一国で独占するつもりはない。
……しかし、誰かに奪わせもしないし、単独の管理権を他国に売り渡すことも、決してしない」
それは、インドという国家が、アーティファクト時代において、大国に媚びず、かといって世界から孤立もせず、最も困難で責任の重い「真ん中の道」を自らの足で歩くという、気高き宣言であった。
***
数日後。
インド政府は、チャンドラ首相の方針に基づき、全世界に向けて公式な発表文を発出した。
『ソーマの樹は、次世代の種子を形成しつつあります。
インド政府は、世界中から寄せられた救済を求める声を、極めて重く、真摯に受け止めております。
次の使用先は、現時点では未定です。我々は科学的検証、安全性、住民の合意、そして国際協力を最優先に考えます。
インドは、この希望の雫を自国のみで独占するつもりはありません。しかし同時に、無責任な争奪戦や、政治的な駆け引きの道具として利用されることも、決して許しません。
近日中に、国内外の専門家を含む「ソーマ運用諮問委員会」を設置し、公正な議論を開始いたします』
この発表は、世界中に様々な波紋を広げた。
「まずインドを救うべきだ」と息巻いていた国内優先派は、首相の「独占しない」という言葉に不満の声を上げた。
「すぐにチェルノブイリへ」と期待していた国際貢献派も、追加検証期間という『保留』の姿勢に、やや物足りなさと焦りを覚えた。
アメリカやEUの政治家たちは、「インドが管理権を手放さなかった」ことに舌打ちをしつつも、諮問委員会という形で国際社会が介入する余地が残されたことに、次の工作の糸口を見出そうとしていた。
誰も、完全には満足していない。
誰もが、不満と疑念を抱えている。
「……誰も完全には満足しない。だからこそ、今はこれが正しい」
チャンドラ首相は、執務室で各国の反応のレポートを見ながら、静かにそう呟いた。
***
場面は再び、パンジャブ州・サトレジ川。
夜明け前の、深く青い空。
ソーマの樹のダイヤモンドのような結晶葉が、星の光を受けて静かに、そして神秘的に輝いている。
隔離されたテントの中でモニターを監視していた観測チームが、ふと、異常な数値の変動に気づき、息を呑んだ。
「……博士! 樹の中心部です!」
ヴァルマ博士がモニターの前に駆け寄る。
樹の幹の奥深く、翡翠のような半透明の層の内部で。
これまでぼんやりとした光の塊だったものが、ゆっくりと、しかし確実に、明確な『形』を持ち始めていた。
それは、ラピスラズリの深い青と、翠色が美しく混ざり合った、小さな、本当に小さなカプセル状の結晶。
光の粒子がフワリと分離し、その小さな結晶が、一つの完成された『個体』として、脈動を始めた。
「……次世代種子の形成を、完全に確認しました」
ヴァルマ博士は、震える声で、しかし確かな科学者としての歓喜を込めて報告した。
「ソーマの雫……第二粒です」
その報告は、暗号回線を通じて、即座にニューデリーの首相官邸へと届けられた。
執務室で、一人その知らせを受けたチャンドラ首相は。
窓の外、東の空がゆっくりと白んでいく夜明けの光を見つめながら、ポツリと呟いた。
「……では、我々の試験も始まるな」
一粒目のソーマの雫は、死の川を蘇らせ、世界に希望を与えた。
だが、二粒目のソーマの雫は、まだ何も癒やしてはいない。
それはただ、世界中の傷ついた土地と人々の前に置かれた、残酷な『問い』だった。
誰を先に救うのか。
誰に待ってもらうのか。
そして、選ばれなかった者たちに、どんな言葉を差し出すのか。
ソーマの雫は、兵器ではない。
だが、その小さな種子は、いまや世界中の政府と民衆に、最も重く、もっとも残酷な選択を突きつけていた。
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