銀河皇帝のスペアに転生した元社畜、地球軌道上の要塞でネトゲ三昧の隠居生活を満喫する 〜足元では超大国が滅亡級の異星遺産を巡って暗躍中ですが、主人公(ぼく)の命は絶対安全なので特等席で傍観します〜   作:パラレル・ゲーマー

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第104話 スコットランドの魔女と、現実の薄い森

 ロンドン。ダウニング街10番地、イギリス政府の危機対応会議室。

 

 重厚なマホガニーの円卓を囲む閣僚たちの顔は、窓の外に広がるロンドン特有の鉛色の空よりも、さらに重く、暗く沈み込んでいた。

 室内の空気は澱み、誰もが深い疲労と、言葉にし難い焦燥感に苛まれている。

 

 壁面を覆い尽くす巨大なマルチモニターには、数日前から世界中のニュースネットワークを席巻している映像が、音声のないまま繰り返し再生され続けていた。

 

 インド・パンジャブ州、サトレジ川。

 かつて化学物質とヘドロで黒く濁り、悪臭を放っていた「死の川」は、いまやヒマラヤの雪解け水のように透明に澄み渡っている。川底の小石が日光を反射し、水鳥たちが羽を休め、魚が跳ねる。

 そして、その奇跡の中心にそびえ立つ、翡翠のように滑らかな幹とダイヤモンドのような結晶の葉を持つ巨大な樹木――『ソーマの樹』。

 画面の端には、その輝く大樹に向かって、涙を流しながら祈りを捧げる現地の人々の姿が映り込んでいる。

 

 世界中のメディアが、この映像を「奇跡」「環境再生の光」「人類史上初の救済型アーティファクト」という見出しで報じ、熱狂的な称賛を送り続けていた。

 

 イギリスの閣僚たちは、その美しすぎる映像を、まるで毒を飲まされたかのような苦渋の表情で見つめていた。

 

 これまでのアーティファクトは、すべて「危険」「破壊」「覇権」「争奪戦」の象徴だった。

 アメリカの『アポロン・ソード』は、あらゆる装甲を両断する究極の矛。

 ロシアの『サイボーグ』は、歩兵の概念を覆す冷酷な鉄の軍隊。

 中国の『仙人』は、不老無病を餌にして世界を狂気のデスゲームに引きずり込む精神的覇権。

 そして、ロンドンのサザビーズで発表された『万象器』は、経済の概念そのものを崩壊させる世界の自爆スイッチだった。

 日本の『出雲』に至っては、近づく者の脳を焼き切る不可侵の領域である。

 

 だが、インドが手にした『ソーマの雫』は違う。

 それは、純粋な「救済」の象徴として世界に現れた。アーティファクトは国を滅ぼすだけでなく、国を救うこともあるという事実を、世界に初めて見せつけてしまったのだ。

 

「……インドは、川を蘇らせた」

 

 重い沈黙を破ったのは、円卓の最上座で両手を組んでいたイギリス首相だった。

 彼の声には、政治家としての建前を削ぎ落とした、剥き出しの焦りが混じっていた。

 

 誰も、その言葉に返事をしなかった。

 

 首相は、モニターの中で風に揺れるソーマの樹を見据え、さらに言葉を重ねた。

 

「世界中が、次は自分たちの番だと叫び始めている。……福島、チェルノブイリ、アマゾン、アフリカ、中東……。救済を求める土地は、この地球上に無数にある」

 

 内務大臣が、腕を組みながら冷ややかに口を挟んだ。

「しかし、総理。それはあくまで、インドが抱えている問題です。次世代の種子をどこで使うか、彼らがどんな倫理的ジレンマに苦しもうと、我が国が直接関与できるものではありません。我々は我々の足元を固めるべきです」

 

 内務大臣の指摘は、平時の政治論としては極めて正しい。

 だが、首相は眉間を深く揉み込み、苦々しく言い返した。

 

「そうだ。だから問題なのだ」

 首相は、円卓の閣僚たちを一人一人、鋭い視線で睨みつけた。

「我々は、また他国の奇跡を……他国の手札を、ただ指をくわえて眺めているだけだ」

 

 その言葉に、会議室の空気が一段と重くなった。

 大国が次々と超常的な手札を切り、世界のパワーバランスが根底から書き換わっていく中で、かつて七つの海を支配した大英帝国は、完全に蚊帳の外に置かれている。その国家的な無力感が、彼らのプライドを激しく苛んでいた。

 

 首相は、手元の端末を操作し、モニターの映像を切り替えさせた。

 インドの美しい樹木の映像が消え、代わりに映し出されたのは、ロンドン・ニューボンドストリートのサザビーズ本店周辺の厳戒態勢を記録した、極秘の監視カメラ映像だった。

 

 アシュワース卿。

 アシュワース遺産財団。

 世界中を巻き込んだオークションという名の評価手続き。

 集結した各国の情報機関、富豪、代理人たち。

 アメリカのセレスティアル・ウォッチによる暗躍。

 そして、日本政府の『所有しない』という宣言による、スイスへの永久封印の決定。

 

「……我々の首都で起きた事件だ」

 首相は、吐き捨てるように言った。

「我々の国の貴族の遺産から始まった事件だ。にもかかわらず……我々は、あの騒動において、何一つ主導権を握れなかった」

 

 国防大臣が、渋い顔をして手元の資料をめくる。

「アシュワース卿のコレクションの全貌と、彼が張り巡らせた法的な防壁は……我々の予想以上に深かった。あれを強引に接収すれば、間違いなくロンドンは各国の特殊部隊が入り乱れる戦場になっていたでしょう」

 

「あの財団に、追加の資料提出を求めた件はどうなったのだ?」

 内務大臣が、苛立ったように実務官僚へ問い詰める。

 

 官僚は、冷や汗を拭いながら立ち上がり、申し訳なさそうに答えた。

「……拒否されました」

 

「拒否?」

 内務大臣が、信じられないというように眉を吊り上げる。

「国家安全保障の危機だぞ。たかが民間の財団が、政府の要請を蹴ったというのか」

 

「はい。極めて丁重に、そして法的に完璧な形で、です」

 官僚は、アシュワース遺産財団から送られてきた回答書を読み上げた。

 

 イギリス政府は、事態の収拾後、財団に対して非公式に以下の要求を行っていた。

 ・未公開コレクション目録の全提出

 ・異常物品の政府への登録

 ・保管施設の政府監査の受け入れ

 ・危険性のある品の一時提出

 ・今後の売却・移送の事前通知

 

 しかし、財団側の回答は完全な『ゼロ回答』であった。

 

「彼らの言い分はこうです。『アシュワース卿の遺志に反する』。『政府による私有財産への不当介入である』。『文化財保護の観点から、性急な接収は認められない』……と。

 さらに、『本物かどうか科学的に未確定な物品を、国家安全保障を名目に包括的に差し出す義務は、現行の英国法において存在しない』と主張しています」

 官僚は、深くため息をついた。

「財団側は、世界トップクラスの弁護団を雇い入れており、もし政府が強権を発動して強制捜査に出れば、国際司法裁判所への提訴も辞さない構えです」

 

「……つまり、我々は国内の財団ひとつ、まともに動かせないのか」

 内務大臣が、机を拳で叩いて吐き捨てた。

 

「動かせないのではありません」

 科学顧問が、眼鏡のブリッジを押し上げながら静かに言った。

「動かせば、世界中に“イギリス政府は、自国内の民間のアーティファクトを強権で接収する国である”という強烈なメッセージを出すことになります」

 

 首相は、黙ってその事実を受け止めた。

 今の世界でそれをやれば、どうなるか。国内外のアーティファクト所有者、あるいはそれを偶然手にした者は、二度と表に出てこなくなる。闇市場に深く潜り、政府の目の届かないところで最悪の暴走を引き起こすリスクが高まる。

 だからこそ、強引には奪えない。民主主義と法の支配という建前が、この非常時においては最大の足枷となっているのだ。

 

「……ならば、こちらで探すしかない」

 

 首相の決断に、会議室が静まり返った。

 

「アシュワース卿の遺産にいつまでも頼るのではない。……我が国自身の足元を、徹底的に調べるのだ」

 首相の目に、決意の光が宿る。

「古城、修道院、湖、森、巨石遺跡、古戦場、地下墓所(カタコンベ)。……この島には、伝説だけなら山ほどあるはずだ」

 

「政府直属の探索隊を作る、ということですか?」

 内務大臣が確認する。

 

「そうだ」

 首相は力強く頷いた。

「仮称……『王立異常遺産調査班(Royal Anomalous Heritage Investigation Unit)』とする」

 

 表向きは、文化財・危険物・環境異常の調査チーム。

 しかしその実態は、イギリス国内に眠るアーティファクトや未確認事象を国家として探し出し、確保するための極秘の政府部隊。

 科学者、歴史家、MI6などの情報機関員、元特殊部隊の軍人、そして文化財担当官によって構成される、異分野の混成チームである。

 

 ただし、立ち上げ直後の彼らには、アメリカのセレスティアル・ウォッチのような圧倒的なオーバーテクノロジーもなければ、日本のように出雲や与那国といった明確なターゲットへの対応ノウハウもない。

 完全に、手探りでのスタートだった。

 

 数日後。

 編成された調査班の作戦室では、膨大な数の「調査候補地」のリストが机の上に山積みになっていた。

 

「ストーンヘンジ。ネス湖。グラストンベリー・トー。ウェールズの赤い竜の伝承地。ロンドン塔の地下。各所の廃城における幽霊目撃譚……」

 若手分析官が、リストを読み上げながら、あまりの多さに頭を抱えて呟いた。

「……この国、伝説が多すぎます……。どこから手をつければいいのか」

 

「伝説の多い国ほど、ノイズも多い」

 科学顧問が、リストの一枚を手に取りながら静かに言った。

「古い歴史を持つ国の宿命です。大半は、古代人の天文学的知識の誤認や、ただの迷信、後世の創作に過ぎない。

 ……だが、今の世界では。その膨大なノイズの中に、本物が混じっている可能性を、完全に否定することはできない」

 

 調査班は、手始めに、国内外で最も有名ないくつかのスポットへと部隊を派遣した。

 

 ストーンヘンジ周辺。

 太古の巨石文明の謎に包まれたこの場所なら、何らかのアーティファクトの反応があるのではないか。

 調査隊は、夜間に最新の電磁波測定器や地中レーダーを持ち込み、徹底的なスキャンを行った。

 しかし……異常は何も出なかった。

 ただの石だった。昼間になれば、世界中から集まった観光客がスマホで写真を撮るだけの、平和な史跡。

「世界一有名な石の輪が、完全な空振りですか」

 調査隊員が、肩を落として報告した。

「有名すぎるものほど、すでに掘り尽くされていて、逆に何もないのかもしれません」と別の隊員がぼやく。

 

 古い修道院跡。

 地下の隠し部屋に、怪しい箱があるという古文書の記録。

 防護服を着た隊員たちが慎重に扉を開けると……そこにあったのは、何世紀も前の古いワインの空き瓶と、丸々と太ったネズミの巣だけだった。

 

 湖の伝説。

 夜中に光が見えるという伝承のある湖。

 高性能ソナーと赤外線カメラで夜通し監視を行ったが、光の正体は地元の若者がイタズラで勝手に飛ばしていたLED付きのドローンであったことが判明し、警察に補導される始末。

 

 古城の幽霊。

 深夜の城内で不自然な熱源反応をキャッチし、特殊部隊が突入。

 ……正体は、城の管理人がこっそり飼っていた野良猫だった。

 

 数週間が経過し、目ぼしいリストを潰していく中で。

 調査隊の空気は、最初の「世界の裏側に触れるかもしれない」という極度の緊張感から、完全に緩みきっていた。

 

 作戦室で、イギリス調査隊長――元SAS(特殊空挺部隊)出身の屈強な男が、コーヒーを飲みながら苦笑いした。

 

「やはり、そう都合よく奇跡は落ちていませんな」

 

「アーティファクト探索というより、ただの国内観光地巡りですね」

 若い隊員が、泥だらけのブーツを拭きながら皮肉っぽく笑う。

 

「インドのソーマの雫みたいなものが、このイギリスの田舎にも眠っていたら、我々もこんなに苦労しませんよ。結局、アシュワース卿が世界中から集めてきたものが特別だっただけで、国内には大したものは残っていないんじゃないですか?」

 別の隊員も、すっかり気の抜けた様子で同調した。

 

「まあ、何も出ないと証明するのも、我々の重要な仕事です」

 調査隊長は、リストの最後の数枚を見つめて言った。

「残るは、スコットランドの魔女伝説の森……これを調べたら、この初期の絨毯爆撃的な任務もひとまず終わりでしょう。数日でロンドンに戻れますよ。帰ったら、旨いエールでも飲みに行きましょう」

 

 どこにでもある、任務消化前の安堵の会話。

 後から振り返れば、それは彼らが発した、あまりにも古典的で致命的な【死亡フラグ】そのものであった。

 

「……スコットランドの、魔女伝説ですか」

 若手分析官が、最後のファイルを開きながら、少しだけ怪訝な顔をした。

「場所はスコットランド北部のハイランド地方。地元に古くから『魔女が住む』と言われている、深い森です。

 ……ただの怪談やフォークロアに見えますが、過去数百年の記録を洗うと、妙な共通点が浮かび上がってきます」

 

 分析官は、抽出されたキーワードを読み上げた。

 

「『森に入ると方角が分からなくなる』

 『真っ直ぐ歩いているはずなのに、同じ場所へ何度も戻る』

 『時計の針が狂う』

 『霧の中で、黒い外套の女を見る』

 『迷子になった子供が、数日後に一切の傷も空腹もなく、無傷で戻ってくる』

 『逆に、木を伐採しようとしたり、森を荒らそうとした者は、原因不明の行方不明になる』」

 

「典型的なフェアリー・テイル(妖精物語)ですね」

 隊長が鼻で笑う。「コンパスが狂うのは、地下の磁鉄鉱の影響でしょう。同じ場所に戻るのは、特徴のない森で方向感覚を失うリングワンデルング現象。子供が無傷で戻るのは、幸運か親の狂言だ」

 

「ええ、科学的にはそう処理されてきました」

 分析官も同意しつつ、さらに付け加えた。

「ですが、中世の魔女裁判の記録にも、この森に関する記述が残っています。……『処刑しようと追った役人たちが、いつの間にか森の入口へ戻されていた』。そして、『その女は、何十年経っても年を取らなかった』と」

 

 科学顧問が、歴史的背景を補足する。

「スコットランドが、欧州の中でも特に激しい魔女裁判で知られる土地であることは事実です。魔女法の廃止は1736年。それまで、魔女という概念は妄想ではなく、法と処罰の明確な対象でした」

 

「だからといって、本当に空を飛ぶ魔女がいたという話にはならないでしょう」

 内務大臣が、報告を聞きながら眉をひそめた。「そんなものに予算をかけるのか?」

 

「もちろんです」

 若手分析官は、真剣な顔で言った。

「ですが……もし当時の人々が、アーティファクトを使用している人間、あるいはアーティファクトの力そのものを【魔女】と呼んで恐れていたのだとしたら?」

 

 会議室が、一瞬だけ静まり返った。

 

「……あるいは、不老の異星人そのものを、魔女と呼んだ可能性もあります」

 別の官僚が、中国の仙人の例を思い出しながら言った。

 

「二十一世紀のイギリス政府が、スコットランドの魔女を探すわけか」

 国防大臣が、半ば呆れたように、半笑いで言った。

「まるでB級ホラー映画の導入だな」

 

 だが、首相は笑わなかった。

 彼は疲れた顔で、モニターの資料を見つめたまま、重く呟いた。

 

「今の世界では……それを完全に笑い飛ばせないのが、最大の問題なのだ」

 

 中国の仙人、ロシアのサイボーグ、そして万象器。

 これらを経験した今、「魔女」という単語をただのおとぎ話として切り捨てることは、国家の安全保障上の怠慢に他ならない。

 

 首相は、決断を下した。

 

「……念には念を入れよう」

 首相は、アメリカとのホットライン回線の準備を命じた。

「我々だけの機材と知識では、万が一それが本物のアーティファクトの力場であった場合、出雲の時のような予測不能の事態になりかねない。……アメリカの『専門家』に、協力を要請する」

 

 表向きは、同盟国間の異常遺産調査における技術協力。

 だが実態は、世界で最もアーティファクトの解析に長けた組織――セレスティアル・ウォッチの専門知識を借りたいという、なりふり構わぬ依頼であった。

 

 ホットラインが繋がり、キャサリン・ヘイズ大統領の顔がモニターに映し出される。

 

 イギリス首相は、少し言いづらそうに、しかし真面目な顔で要件を伝えた。

「……我々はこれから、スコットランドの魔女伝説を調べる」

 

 ヘイズ大統領は、一瞬、完全に黙り込んだ。

 画面の向こうのアメリカの官僚たちも、「魔女?」という顔をしているのが分かる。その数秒の沈黙が、イギリス側には針の筵のように痛かった。

 

 だが、ヘイズは笑わなかった。

 彼女の目は、数々の狂気を見てきた戦時指導者のそれであり、極めて冷徹だった。

 

『……もう、そういう話を笑える時代ではないわね』

 

 ヘイズは、深く頷き、セレスティアル・ウォッチへの限定協力を指示することを約束した。

 

『ただし、今回は軍事作戦ではないわ。英国の主権に配慮し、戦闘用の特殊部隊ではなく、純粋な調査用の【博士チーム】を送る。……それでいいわね?』

「感謝する、大統領」

 

 こうして、イギリスの調査隊と、アメリカの影の組織の観測チームが、スコットランドの深い森で合流することになった。

 

 数日後。

 スコットランド北部の地方空港に隣接する、臨時調査拠点。

 

 冷たい霧雨が降る中、イギリス側の調査隊が待機しているところへ、アメリカ軍の輸送機が到着した。

 タラップを降りてきたのは、映画に出てくるような筋骨隆々の特殊部隊員でも、黒ずくめのエージェントでもなかった。

 

 全員が、二十代から三十代前半の、驚くほど【若い】男女のグループだった。

 服装も、白衣や軍服ではなく、動きやすさを重視した高機能なアウトドア用ジャケット。巨大な機材ケースをいくつも抱え、タブレットを操作しながら降りてくるその姿は、軍人というより、大学のフィールドワークに向かう研究室のチームにしか見えない。

 

「……失礼ながら、もっと物々しい特殊部隊が来るものかと」

 イギリス調査隊長が、拍子抜けしたような顔で、出迎えに出た。

 

 アメリカ側の代表である、眼鏡をかけた細身の若い博士が、人懐っこく笑って握手に応じた。

「こんにちは。セレスティアル・ウォッチから派遣されました、観測チームです。今回はよろしくお願いします」

 博士は、イギリス側の戸惑いを察したように付け加えた。

「今回は『魔女伝説の調査』と聞いています。……相手が物理的な軍隊でないのなら、銃よりも我々のセンサーの方が、よほど役に立つでしょう」

 

「本当に大丈夫なのか?」

 イギリス側の隊員が、小声で囁き合う。

「ただの学生の集まりみたいだぞ」

「まあ、どうせ何も出ない。アメリカの若先生方には、スコットランドの自然観光を楽しんでもらえばいいさ」

 

 だが、セレスティアル・ウォッチの博士チームの雰囲気は、決して浮ついたものではなかった。

 若いが、その目つきは極めて鋭く、機材を展開する動作には一切の無駄がない。軽口は叩くが、現場に対する絶対的な敬意(あるいは未知への恐怖)を忘れていない、プロフェッショナルのそれだった。

 

 イギリス調査隊長が、苦笑混じりに言う。

「わざわざ遠路はるばる申し訳ありません。……おそらく、今回もただの迷信の空振りに終わると思いますがね」

 

 その言葉に。

 若い博士は、曖昧に微笑み、そして静かに、だが重く言った。

 

「……空振りなら、それが一番です」

 

 その、一切の油断のない返しに、イギリス側の隊長は微かに眉を動かした。彼らは、決して観光気分で来ているわけではない。

 

 車列を組み、一行はスコットランドの森へと向かった。

 

 どんよりとした灰色の空。

 湿った大地。道路の脇に続く古い石垣。

 通り過ぎる寂れた村の風景には、古い墓地と、遠くに鉛色の湖が広がっている。

 そして、その先に見えてきたのは、深い霧に包まれた鬱蒼とした針葉樹の森だった。

 

 イギリス側の隊員たちは、まだ観光気分が抜けきっていなかった。

「雰囲気はありますねえ」

「魔女が出るなら、真夜中でしょう。昼間にこうして大勢で調べるのは、反則じゃありませんか?」

「帰りに、エディンバラのパブに寄れますかね。旨いスコッチが飲みたい」

 

 調査隊長が、軽く手を叩いてたしなめる。

「諸君、我々は公式任務中だぞ。……まあ、何も出ないだろうが、上に提出する報告書に書ける程度には、真面目にやろう」

 

 現地の案内役として同乗していた、地元の森林管理官の男が、ずっと青ざめた顔で窓の外を見ていた。

 彼は、森の入り口の数十メートル手前で車を降りると、「私はここまでだ」と頑なにそれ以上進むことを拒否した。

 

「地元の方は、まだ魔女伝説を本気で信じているのですか?」

 イギリス調査隊長が、笑いながら聞く。

 

「信じているというより……近づかないだけです」

 案内人の男は、森の奥の霧を恐ろしいものを見るように見つめて答えた。

 

 隊長は、肩をすくめて笑った。

「賢明な迷信ですな。子供を森で迷子にさせないためには、魔女の話が一番効く」

 

 案内人は、一切笑わず、真顔のまま隊長を見た。

 

「……迷信なら、どれほどよかったか」

 

 その言葉の響きに、イギリス側の隊員たちが少しだけ黙った。

 だが、彼らはまだ、本気では受け取っていなかった。

 

 森の入り口で、セレスティアル・ウォッチの博士チームが、次々と異常な機材を展開し始めた。

 

 空間位相センサー。

 量子基準時計。

 重力偏差測定器。

 認知影響モニター。

【現実強度計】。

 自律型マッピング・ドローン。

 地磁気測定器。

 生体反応スキャナー。

 

 イギリス側の隊員たちが、その機材の多さと見たこともない形状に目を丸くする。

「……ずいぶんと本格的ですね。ただの森の調査に、そこまで?」

 

 アメリカの博士は、淡々とセッティングを続けながら答えた。

「民間伝承系の調査ほど、ノイズの切り分けが重要なのです。……人間の『思い込み』なのか、それとも物理空間の『異常』なのか。それをデータで証明しなければなりませんから」

 

「やはり、こういう話はほとんどがノイズ(気のせい)ですか?」

 調査隊長が聞く。

 

「ええ、ほとんどは」

 

 隊長は笑った。

「では今回も、その“ほとんど”でしょうな」

 

 博士は、答えなかった。

 ただ、モニターの初期設定を完了させ、短く指示を出した。

 

「マッピング・ドローン、投入します」

 

 プロペラの低い回転音とともに、数機の小型ドローンが、霧の立ち込める森の中へと飛んでいく。

 

 最初は、何も異常はなかった。

 モニターに映し出されるのは、苔むした倒木、湿った土、小川、そして鬱蒼とした木々の映像。

 

「ほら、ただの森ですね」

 イギリス側の隊員が、安心したように言う。

「魔女も、今日は休暇中でしょう」

 

 だが。

 セレスティアル・ウォッチの博士は、モニターの数値を見て、ピクリと眉をひそめた。

 

「……ドローンのテレメトリーがおかしい」

 

「どうしました?」

 隊長が覗き込む。

 

「GPSの座標と、機体内部の慣性航法(ジャイロセンサー)の移動データが……全く一致していません」

 博士の指が、キーボードを叩く。

「GPS上では、ドローンは北へ直進していることになっている。……しかし、慣性航法のデータは、南東へカーブを描いて進んでいると示している」

 

 さらに、博士はドローンのカメラ映像のログを比較した。

「……映像を見てください。この倒木の形。……ドローンは真っ直ぐ飛んでいるはずなのに、同じ倒木の上を、すでに三回も通過しています」

 

「機材の故障ですか?」

 イギリス隊員が首を傾げる。

 

「量子時計の基準波長も、ごくわずかですが、外部サーバーの標準時とズレ始めています」

 博士は、画面を見つめたまま、極めて深刻な声で言った。

「この距離で、GPS、ジャイロ、カメラ、時計……独立した複数の機材が、同時に、しかも同じ方向へズレる(エラーを起こす)なら。

 ……それは、故障ではありません」

 

 調査隊長の顔から、少しだけ笑みが消えた。

「……では、何だと言うのですか」

 

 博士は、森の奥の霧を見据えた。

「空間そのものが……歪んでいるか、ループしています」

 

 その言葉を合図にするように。

 調査隊の全員が、ゆっくりと森の中へと足を踏み入れた。

 

 一歩、境界線を越えた瞬間。

 

「……っ」

 全員が、明確な違和感に襲われた。

 

 周囲の音が、急に遠くなったのだ。

 さっきまで聞こえていた風の音が消える。鳥の鳴き声が消える。

 自分たちの足音が、湿った土と苔に不気味なほど吸い込まれ、全く反響しない。

 まるで、巨大な吸音材で囲まれた無響室の中に閉じ込められたような、耳鳴りのするような静寂。

 

「……急に、雰囲気が出てきましたな」

 イギリス側の隊員が、強がって軽口を叩く。

「ここで黒猫でも横切れば、映画のセットとして完璧ですね」

 

 その直後だった。

 セレスティアル・ウォッチの機材の一つが、ピーッ、ピーッ、と甲高い警告音を鳴らし始めた。

 

 ピタリ、と。

 イギリス側の隊員たちの軽口が止まった。

 

「計測結果が出ました」

 博士チームが、複数のモニターの数値を確認し、報告を上げる。

「重力、正常。温度、正常。地磁気、大きな異常なし。放射線量、正常範囲内です」

 

「なんだ、異常ないじゃないか」

 隊長が息を吐く。

 

「……いえ。一つだけ、異常です」

 

 博士は、ある一つの特殊なパラメーターを示す画面を指差し、血の気の引いた顔で言った。

 

「【現実強度(ヒューム値)】が……異常に低いです」

 

「現実強度?」

 イギリス調査隊長が、聞き慣れない言葉に困惑する。

 

「自然環境では、絶対にあり得ない数値です」

 博士は、手元の端末を操作しながら、早口で説明を始めた。

「難しい概念ですが、簡単に言うと……その空間の『現実がどれだけ硬いか(安定しているか)』という数値です」

 

 隊長は眉をひそめる。

「現実が、硬い?」

 

「はい」

 博士は、森の木々を見回した。

「普通の空間では、人間が何を願っても、物理法則は決して変わりません。

 石は石です。水は下へ流れる。傷は勝手に塞がらない。火は燃料なしには燃えない。死んだ人間は、絶対に戻らない。……これが、現実が『硬い』ということです」

 

 イギリス側の隊員たちは、黙って博士の言葉に耳を傾けた。

 

「ですが」

 博士の声が、低く沈む。

「宇宙には、あるいはアーティファクトの中には……現実を『意思の力』で捻じ曲げることのできる種族、またはそういう技術体系を持った文明が存在します。

 彼らにとって、人間の意思、認識、名前、象徴、祈り、あるいは恐怖といったものは……単なる心理的な現象ではなく、物理現象に直接干渉するための【入力値(プロンプト)】として機能するのです」

 

 隊長は、ゴクリと唾を飲んだ。

「……つまり、この森の現実強度が低いということは……?」

 

「意思が、現実へ反映されやすい空間になっている、ということです」

 

 その言葉に、別のイギリス隊員が青ざめた顔で言った。

「……それは、魔術と何が違うんですか?」

 

「科学的なシステムとして説明できるなら、魔術ではありません」

 博士は、冷徹に答えた。

「ただし。……当時の人間が見れば、間違いなくそれを『魔術』と呼んだでしょう」

 

「……」

 イギリス調査隊長が、先ほどの自分の軽口を思い出し、半分冗談に逃げようとして言った。

「では、魔女が実在するとでも?」

 

 博士は、その冗談を一切笑わずに、真っ直ぐに隊長を見て返した。

 

「“魔女”という言葉を、どう定義するかによります」

 

「……黒い外套の女が、森で願いを叶えたり、傷を治したり、火を使わず湯を沸かしたりする存在、という意味なら?」

 隊長が問う。

 

 博士は、少しだけ沈黙し。

「……その伝承の事象は、この低現実強度空間の性質と、完全に一致します」

 

 隊長の顔が、完全に固まった。

 

 さっきまで笑っていたイギリス側の隊員たちも、誰一人として口を開かなくなった。

「何も出ないでしょう」と笑っていた調査隊長は、ゴクリと喉を鳴らし、霧の濃い森の奥を睨みつけた。

 

 一人の隊員が、震える声で呟く。

「……まさか、本当に?」

 

「観光気分で来る場所じゃなかったな……」

 別の隊員が、ライフルを強く握りしめる。

 

 調査隊長は、小さく咳払いをし、指揮官としての声を取り戻した。

「全員、軽率な発言を控えろ!

 記録装置を確認しろ。勝手に森の奥へ進むな。落ちているものに、絶対に触れるな!」

 

 その指示に、セレスティアル・ウォッチの博士が、淡々と、しかし最も重要な警告を付け加えた。

 

「それと。……絶対に【強く願わない】でください」

 

「願わない?」

 イギリス側が戸惑う。

 

「はい」

 博士は、森の空間を見つめながら言った。

「この現実強度では、強い恐怖や願望が、そのまま物理的な【現象化】を引き起こす可能性があります。

 ……“何か出るな”、“襲われるかもしれない”と強く思い続けるのも、極めて危険です。あなたのその恐怖が、本当に化け物を創り出してしまうかもしれない」

 

「そんな無茶な……! 怖いと思うなと言われても……」

 隊員が悲鳴のような声を上げる。

 

「ですから、精神訓練を受けていない人間には、極めて危険な場所なのです」

 

 ここで、イギリス側は自分たちの「甘さ」と、ここが本当の意味での『異界』であることを完全に理解した。

 

 博士チームは、森の入り口から数十メートルごとに、慎重に測定を繰り返していった。

 

 入口ではやや低い現実強度が、十メートル奥に進むとさらに低下する。

 小川の付近で急落し。

 古い石積みの祭壇のような跡の近くで、通常空間の基準値を致命的に下回る数値を叩き出した。

 

「……中心が、あります」

 博士が、モニターの等高線グラフを見て言った。

 

「森の奥に?」

 隊長が問う。

 

「はい」

 博士は頷く。

「この低現実強度領域は、自然環境の変化で広がっているのではありません。……【何か】を中心にして、意図的に維持されています」

 

「アーティファクトですか?」

 

「可能性はあります」

 博士の目が、鋭く光る。

「あるいは、アーティファクトを長年使用し続けている『存在』。

 ……もしくは、現実改変能力を後天的に獲得した『個体』」

 

「……人間、ですか?」

 隊長が息を呑む。

 

「……人間だったもの、かもしれません」

 

 イギリス側の隊員たちが、一斉に背筋を凍らせた。

 

 イギリス側の若手分析官が、持参した古い資料の束を開き、震える手で過去の証言と照合を始めた。

 

「……森の中では祈りが形になる」

「魔女は傷を撫でて塞いだ」

「火を使わず湯を沸かした」

「獣が襲った時、霧が壁になった」

「処刑しようとした役人たちは、いつの間にか森の入口へ戻されていた」

「……彼女は、年を取らなかった」

 

 分析官が読み上げる、かつて「おとぎ話」として片付けられていた記録の数々が。

 今、セレスティアル・ウォッチの計測器が弾き出した「現実強度の低い空間で起こりうる現象(意思の物理干渉)」と、恐ろしいほどの精度で完全に一致していく。

 

 セレスティアル・ウォッチの博士は、そのデータを見て、静かに言った。

「……この伝承は、単なる作り話ではない可能性が極めて高いです」

 

「可能性、ですか」

 調査隊長が、わずかな希望を込めて問う。

 

「科学者としては、断言するには対象との直接的な接触(追加データ)が必要です」

 博士は、冷静に答える。

 

「では、現場担当者としての感想は?」

 

 博士は、深い霧の奥……空間そのものが歪み、何かが見え隠れしているような暗がりをじっと見つめたまま、言った。

 

「……この森には、確実に【何か】います」

 

 これ以上、奥へ進むべきか。

 それとも、このデータを持ち帰って報告すべきか。

 イギリス側の調査隊は、当初の気楽さを完全に失い、極限の緊張感の中で判断を迫られていた。

 

 調査隊長が、博士に向かって、重い声で聞いた。

 

「博士。……現時点での評価を聞かせてください」

 

「この森は、自然環境ではありません」

 博士は、計測器を仕舞いながら答えた。

「少なくとも、通常の地球物理現象では絶対に説明できない、低現実強度領域です」

 

「危険ですか?」

 

「分かりません」

 博士は首を振った。

「相手がどのような『意思(ルール)』でこの空間を維持しているのかが不明な以上。……無知なまま踏み込むには、あまりにも危険すぎます」

 

 隊長は、自嘲するように、苦い顔で笑った。

「……我々は、魔女を探しに来たつもりだったんですがね」

 

 博士は、静かに頷いた。

「ええ」

 

「まさか本当に、空を飛ぶ魔女がいるとでも言うのですか?」

 隊長が、最後の抵抗のように問う。

 

 博士は少し考え、科学者として最も正確な表現で言い直した。

 

「厳密には……“魔女”という民間伝承が、現実改変型の異常存在、またはアーティファクト適合者の『目撃記録』であった可能性が高い、ということです」

 

「……普通の言葉で頼みます」

 隊長がため息をつく。

 

 博士は、霧の奥を見つめたまま、はっきりと答えた。

 

「……魔女は、実在した可能性が高いです」

 

 別のイギリス隊員が、恐怖に顔を引き攣らせて小声で言う。

「……本当に?」

 

 博士は、淡々と頷いた。

「ええ。まあ、そういうことです」

 

 スコットランドの湿った森の奥で、イギリス政府の探索隊はようやく理解した。

 自分たちは、おとぎ話を調べに来たのではない。

 おとぎ話として封印されていた、現実そのものの薄い場所に足を踏み入れてしまったのだ。

 

 




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