銀河皇帝のスペアに転生した元社畜、地球軌道上の要塞でネトゲ三昧の隠居生活を満喫する 〜足元では超大国が滅亡級の異星遺産を巡って暗躍中ですが、主人公(ぼく)の命は絶対安全なので特等席で傍観します〜   作:パラレル・ゲーマー

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第106話 石になりなさい

 グレン・モラグの森の内部。

 

 森へ入っていくのは、徹底的に絞り込まれた最小限の小規模班だった。

 イギリス調査隊長、セレスティアル・ウォッチの若き博士、計測担当、記録担当、そして警護のための武装した兵士が二名。

 

 本来であれば、警護の兵士も外したかった。だが、イギリス政府としては、「完全な非武装で未確認事象の中心へ部隊を送る」という決断に踏み切ることがどうしてもできず、最低限の自衛火器の携行を許可してしまったのだ。

 この妥協が、今回の最悪の事故の『種』となる。

 

「銃を構えるな」

 調査隊長は、森に足を踏み入れる直前、二人の若い兵士に向かって厳命した。

「命令されるまで、絶対に安全装置(セーフティ)を外すな。何かを見ても、撃つな。……相手が人間に見えても、人間ではない前提で動け。いいな」

 

「了解しました」

 若い兵士は、強く頷いた。

 彼は決して素行の悪い兵士ではなく、優秀で任務に忠実な男だった。だが、その若く青ざめた顔には、未知の領域へ踏み込むことへの明らかな『緊張』と『恐怖』が張り付いていた。

 

 それを見たセレスティアル・ウォッチの博士が、小声で兵士に告げた。

「……恐怖しているなら、ここに残った方がいい」

 

 兵士は、少しムッとしたように博士を睨み返した。

「任務です。問題ありません」

 

 博士はそれ以上、何も言わなかった。

 だが、そのやり取りが、この森の異常な法則においては、すでに致命的な『フラグ』となっていることを、誰も止めることはできなかった。

 

 森に入ると、即座にあの『異常』が彼らを包み込んだ。

 

 ザクッ、ザクッ、という自分たちの足音が、妙に遠く、まるで水底を歩いているようにくぐもって聞こえる。

 無線の通信には、わずかな遅延とノイズが混じり始める。

 そして何より不気味なのは、彼らの呼吸に合わせて、周囲の白い霧がまるで生き物のように濃さを変え、蠢いていることだった。

 

「……コンパスが使い物になりません」

 計測担当が、狂ったように回転する針を見て呻く。

「木々の配置が、事前の衛星地図と全く一致しません。空間が……歪んでいます」

 

「現実強度計の数値、ゆっくりとですが、確実に低下を続けています」

 博士が、タブレットの画面から目を離さずに報告する。

「心拍数モニターにも警告が出ています。……隊長、隊員たちの心理的ストレスが、空間の低現実化に同調し始めています」

 

 調査隊長は、深く、冷たい息を吸い込み、部下たちを落ち着かせようと努めた。

 

「全員、ゆっくり呼吸しろ。……恐怖を言葉にするな。何かを見ても、すぐに報告しろ。勝手に動くな」

 

 だが、博士は、森の奥の濃い霧の向こう側を見つめながら、ポツリと呟いた。

 

「……こちらを見ています」

 

「魔女が、ですか?」

 隊長が、ハッとして銃に手をかけそうになるのを堪えて問う。

 

「いえ」

 博士は、青ざめた顔で首を振った。

 

「【森】が、です」

 

 その言葉に、兵士たちの喉がゴクリと鳴った。

 空間そのものが、無数の目を持って彼らを観察しているような、圧倒的な被・観測感。背筋を氷のムカデが這い上がるような悪寒が、彼らの理性を少しずつ、確実に削り取っていく。

 

 ***

 

 さらに奥へと進み、少し開けた場所に出た。

 そこには、苔むした古い石積みの跡があり、獣道のような小道が交差していた。

 

 そして。

 その小道の先、乳白色の霧の向こう側に。

 

【人影】が、立っていた。

 

「……ッ」

 調査隊の全員が、息を呑んで完全に足を止めた。

 通信越しに、ロンドン、ワシントン、東京の会議室も、その映像を見て一斉に静まり返った。

 

 灰色の、ボロボロのローブを深く被った人物。

 顔はフードの影に隠れて見えない。身長は、小柄な人間の女性程度。

 手には杖も持っておらず、武器らしいものは一切見当たらない。

 

 ただ、そこにいる。

 まるで、最初からこの森の一部であったかのように、音もなく、静かに立っているのだ。

 

 ロンドンの危機対応会議室の空気が、完全に凍結した。

「……いた」

 内務大臣が、震える声で呟く。

 

 ワシントンのヘイズ大統領は、無言のまま、画面を食い入るように睨みつけていた。

 

 東京の会議室では、三神編集長が、モニターに映るその姿を見て、表情を限界まで強張らせていた。

 

「……まずい」

 三神が、呻くように言った。

「あの姿は……完全に、“魔女”として見えます」

 

「つまり、こちら側の認識が固定されるということですか?」

 沖田が鋭く反応する。

 

「ええ」

 三神は、ギリッと奥歯を噛んだ。

「あの存在が何者であれ……調査隊の全員が『魔女だ』と思った瞬間、この低現実強度の空間では、あの存在は【魔女として振る舞わざるを得なくなる】可能性があるんです」

 

 認識が、現実を決定づける。

 すでにこの時点で、状況は極めて危険な領域へと突入していた。

 

 現場の調査隊長は、額に冷や汗を流しながらも、事前プロトコルに従い、可能な限りゆっくりと、丁寧な口調で声をかけた。

 

「……我々は、あなたに危害を加えるつもりはありません」

 隊長は、両手を軽く広げ、敵意がないことを示す。

「こちらは、イギリス政府の調査隊です。……この森について、少しお話を聞きたい」

 

 灰色のローブの人物は、何も答えなかった。

 フードの奥で、ただ一度だけ、調査隊の面々を静かに『一瞥』したように見えた。

 

 そして。

 彼女は、ゆっくりと背を向け、再び霧の深い森の奥へと向かって、音もなく歩き出したのだ。

 

「……追わないでください」

 セレスティアル・ウォッチの博士が、慌てて隊長に小声で告げた。

「向こうから距離を取っている。……これは、明確な【拒否】です」

 

 ロンドンの会議室から、通信越しに指示が飛ぶ。

『追跡を禁止する。接触失敗として、直ちに後退せよ』

 

 ワシントンからも、ヘイズ大統領の厳しい声が重なる。

『追跡禁止。後退なさい』

 

 東京の沖田も、完全に同意した。

『ここで追えば、それは対話ではなく「捕縛」や「追跡」の文脈になります。即時撤退すべきです』

 

 すべての指揮系統が、「引け」という完全な正解を出していた。

 調査隊長も、その判断に従うべく、部下たちに後退の合図を出そうと口を開いた。

 

「全員、動くな。追うな。後退準備――」

 

 だが。

 その、理性のコマンドが完全に現場に伝わり切る前に。

 

「――っ」

 

 極度の緊張と恐怖に晒され続けていた、あの【若い警護兵】が、動いてしまったのだ。

 

 兵士の心理は、悲しいほどに『正常な人間』のものであった。

 相手が背を向けた。それは彼にとって、明確な「逃走」と解釈された。

 

 人間相手の警備任務であれば、国家が封鎖した重大な区域で、身元不明の不審者が呼びかけを無視して立ち去ろうとすれば、それは制止し、確認しなければならない対象である。彼の受けてきた軍事訓練とマニュアルは、そう教えていた。

 

 それに加えて、彼は恐怖していたのだ。

 相手は、物理法則を捻じ曲げる魔女かもしれない。ここで見失えば、霧に紛れて背後から襲ってくるかもしれない。二度と見つからず、自分たちが未知の脅威に晒され続けるかもしれない。

 

 逃がしてはならない。

 恐怖と、任務意識と、強烈なプレッシャーが、彼の脳内で完全にショートを起こした。

 

「おい、待て!!」

 

 静寂の森に、若い兵士の荒げた声が響き渡った。

 

「やめろ!!」

 調査隊長が、血相を変えて怒鳴る。

 

 だが、兵士の足は止まらない。

 彼は、反射的に数歩前に出た。

 

「身元を確認する!!

 ……止まれ!!」

 

 兵士が叫ぶ。

 だが、灰色のローブの人物は、振り返らない。ただゆっくりと、霧の中へと歩き続けている。

 

 その「無視」が、兵士の中の恐怖を、一気に『怒り』へと変換させた。

 

「無視するな!!!」

 

 兵士のその絶叫が森に響いた瞬間。

 博士の持っていた現実強度計の数値が、ガクンと、致命的な音を立てて【一段落ちた】。

 

「敵意を向けるな!!」

 博士が、悲鳴に近い声で叫んだ。

 

 だが、もう遅かった。

 兵士は、恐怖に震える手で、アサルトライフルをガシャッと構え、相手の背中に銃口を向けてしまったのだ。

 

「止まれ!!!

 フリーズ(動くな)!!!」

 

 隊長が、兵士を取り押さえようと飛びかかる。

 博士が、「撃つな!」と絶叫する。

 通信越しに、ヘイズ大統領が「No!!」と叫ぶ。

 

 すべての制止が、ほんのコンマ数秒、間に合わなかった。

 

 極限の恐怖に呑まれた兵士の指が。

 反射的に、引き金を引いた。

 

 ダァァンッ!!

 

 静寂に包まれた森の中で、一発の銃声が、あり得ないほどに大きく、暴力的に響き渡った。

 放たれた5.56ミリの弾丸が、音速を超えて、灰色のローブの人物の背中へと一直線に向かって飛んでいく。

 

 ロンドン、ワシントン、東京のすべての会議室で、モニターを見つめる人間たちの心臓が止まった。

 

 だが。

 弾丸は、届かなかった。

 

 魔女の背中まであと数十センチという虚空で。

 弾丸は、まるで見えない分厚い壁に衝突したかのように、ピタリと【停止】した。

 

 キィン、という金属の跳弾音ではない。

 パスッ、という、水面に石を落としたような、ひどく鈍く、柔らかい音が響いた。

 

 弾丸は、潰れるのではなく、空中でその形そのものを失い始めた。

 まるで、『弾丸である』という状態そのものを空間から否定されたかのように。先端からボロボロと灰色の砂のように崩れ落ち、さらさらと地面の苔の上へこぼれ落ちていった。

 

「……ッ!!」

 

 セレスティアル・ウォッチの博士が、計測器の異常な波形を見て、狂乱したように叫んだ。

 

「局所現実改変!!

 弾丸の運動エネルギーが消えたんじゃない!

 “撃たれた”という事実そのものが、完全に【拒否】されている!!」

 

 その一言で、各国のインテリジェンス機関は完全に悟った。

 魔女の力は、単なる物理的なバリアや念動力ではない。現象そのものを書き換える、上位の現実改変能力なのだと。

 

 銃声の反響が消え。

 森から、すべての音が完全に消滅した。

 鳥の声もない。雨音もない。隊員たちの荒い呼吸音すら、まるで真空に吸い込まれたように遠くなる。

 

 灰色のローブの人物が。

 ゆっくりと、振り返った。

 

 フードの奥に、灰色の瞳が見えた。

 

 そこに、撃たれたことへの怒りはなかった。

 驚きも、軽蔑もなかった。

 

 ただ、ひどく、ひどく【疲れたような目】をしていた。

 

 その態度が、調査隊員たちにとって、どんな怒り狂う怪物よりも恐ろしく感じられた。

 それはまるで、何百年も、何千回も、同じ愚かな過ちを繰り返す人間たちを見続けてきた者の、果てしない諦観の目だった。

 

 彼女は、静かに口を開いた。

 

「……また、そうするのですね」

 

 その一言が響いた瞬間。

 イギリスの会議室にいた官僚たちは、背筋に氷の柱を突き立てられたような悪寒を感じた。

 それは、中世の魔女狩りの時代から連綿と続く、人間の暴力と不寛容の歴史の記憶が、現代の彼らの喉元に刃として突き返された言葉だった。

 

「違う! 待ってくれ! これは――」

 調査隊長が、血の気を失った顔で弁明しようと両手を前に出す。

 

 だが、魔女は、隊長の言葉を遮ることはしなかった。

 ただ、静かに、発砲した若い兵士を見つめた。

 

 兵士は、ガタガタと激しく震えていた。

 銃を構えたまま、後ずさろうとしている。だが、足が動かない。指が、引き金から離れない。

 

 そして、魔女は、感情の一切ない声で、告げた。

 

「石になりなさい」

 

 呪いでも、魔法の詠唱でもない。

 ただ、その空間のルール(現実)を、言葉で【決定】しただけだった。

 

「……あ、あ、あ……っ」

 兵士の口から、掠れた声が漏れた。

 

 最初に、彼の指先が灰色に変わった。

 皮膚が石化していくというよりも、彼という人間が存在している『現実』が、石像という『現実』へと、ピクセル単位で強制的に置換(上書き)されていくような、おぞましい光景だった。

 

 灰色への変質は、一瞬だった。

 爪。指。手首。腕。顔。そして、喉。

 彼は絶叫しようとしたが、声は出なかった。喉の振動帯が、完全に石の塊へと変わってしまったからだ。

 

 目だけが、最後まで動いていた。

 極限の恐怖に見開かれた瞳が、完全に灰色に染まり、固定される。

 

 一秒後。

 そこには、銃を構えた姿勢のまま、完璧な精緻さを持った【灰色の石像】が立っていた。

 

「……っ!!」

 通信越しの各国の会議室で、悲鳴すら上がらないほどの絶対的な絶望が落ちた。

 

 だが、恐怖はそれで終わらなかった。

 

「現実強度が急落!!」

 セレスティアル・ウォッチの博士が、後方に下がりながら絶叫した。

「対象範囲が広がっています! 『敵意を持った者』の全員が、同一の敵対的カテゴリとしてシステムに分類されている!!」

 

 魔女は、「撃った兵士」だけを罰したのではない。

 武器を持ち、彼女を追跡し、命令し、制止しようとした【探索隊全体】を、一つの「排除すべき悪意」として認識したのだ。

 

「全員、武器を捨てろ!! 敵意を――ッ」

 

 調査隊長が、部下たちに向かって叫んだ。

 だが、その言葉の途中で、彼自身の足元から急速に石化が始まった。

 

 銃を構えていたもう一人の警護兵が、石になる。

 身元確認をしようと近づいていた隊員が、石になる。

 魔女を追跡してカメラを回していた記録員が、石になる。

 止めようと手を伸ばしていた隊長が、石になる。

 

 彼らは、血を流して殺されたのではない。

 肉体が砕け散ったわけでもない。悲鳴も、途中でぷつりと途切れた。

 

 ただ、人間が、石像という無機物に変換された。

 その「痛みすら伴わない完全な停止」が、どんな流血よりも、はるかにグロテスクで恐ろしかった。

 

 調査隊長は、最後まで抵抗しなかった。

 彼は、自分たちが決定的な失敗を犯したことを悟っていた。

 

 石化が首まで達し、最後に顔が灰色に染まる直前。

 彼は、かすれた声で、静かに言った。

 

「……撃つなと、言っただろうが……」

 

 それは、彼自身には何の悪意もなかったが、現場の恐怖を止められなかった指揮官としての、悲痛な責任の言葉だった。

 そして、彼もまた、手を伸ばした姿勢のまま、永遠の沈黙へと固定された。

 

「……こちら現地博士チーム!」

 後方でギリギリ境界線の外側にいたセレスティアル・ウォッチの博士が、震える声で通信機に向かって叫んだ。

 

 彼らは銃を持っておらず、敵意ではなく「観測と制止」の意思を持っていたため、奇跡的に石化の対象から外れていた。

 だが、それでも完全に無事だったわけではない。

 一人の博士が、恐怖で「死にたくない」と強く願ってしまった瞬間、彼の手袋の表面が灰色に固まりかけた。彼は悲鳴を上げながら、自らの手袋を歯で引きちぎって投げ捨てた。

「恐怖の感情にも反応している……!」

 

 博士は、涙目で本部に報告する。

「イギリス前進班、全員石化! 繰り返す、前進班が石化しました!

 対象Wが明確な現実改変能力を行使!!」

 

 魔女は、石の彫刻群となった探索隊を見ても、勝ち誇ることも、怒鳴ることもなかった。

 ただ、深い霧の中で、静かに告げた。

 

「……森を荒らす者は、森の記憶になる」

 

 その一言で、彼らが「殺された」のではなく、この森の永遠の一部として組み込まれたのだということが示された。

 

「待ってください!」

 博士が、恐怖に震えながらも、必死に叫んだ。

「我々は、敵対の意図を――」

 

 魔女は、一瞬だけ博士の方を見た。

 灰色の瞳が、彼を射抜く。

 

「……ならば」

 魔女は、静かに言った。

 

「次は、言葉を選びなさい」

 

 それだけ言うと、彼女の姿は、霧の奥へと完全に溶け込み、幻のように消え去った。

 

 彼女が消えた瞬間、異常低下していた現実強度が、少しだけ反発して戻るのが計測器に表示された。

 だが。……石像となった探索隊のメンバーたちは、二度と人間の姿には戻らなかった。

 

 森の中には、銃を構えた兵士、制止しようとした隊長、記録機材を持った隊員たちの石像が、まるで悪趣味なモニュメントのように残された。

 

 完全な、死のような静寂。

 

 ***

 

 臨時現地指揮所は、完全なパニックの渦に包まれていた。

 

「前進班のバイタル、消失! ……いや、違います、生命反応が石材反応に置換されています!」

 通信オペレーターが、信じられないデータを見て絶叫する。

 

「何だその報告は! 死亡なのか!?」

 イギリス軍の連絡官が怒鳴りつける。

 

「分かりません! 死亡ではなく、物質状態の変換です! 人間だったものが、石像として安定しています!」

 セレスティアル・ウォッチの技術者が、半狂乱で答える。

 

「救出班を出せ!!」

 連絡官が、無線を掴んで怒鳴る。

 

「出すな!!!」

 博士チームが、マイクを奪い取るようにして絶叫した。

「武装した救出班を入れれば、第二波が石になります! 絶対に森に入るな!」

 

 現場の警備兵たちは、モニター越しに仲間が石になった映像を見て、完全にパニックを起こしていた。

 森へ突入して助けようとする者、逆に恐怖で後退する者、銃を構えて森を睨みつける者、泣き出す者、「あれは悪魔だ」と叫ぶ者。

 

「全員を森から離せ!」

 セレスティアル・ウォッチの博士が、現地指揮官に向かって必死に怒鳴った。

「銃口を下げろ! 恐怖を口に出すな!

 今この場の『集団的な恐怖と敵意(パニック)』が、次の現実改変(現象)を呼びます!!」

 

 現地指揮官は、その言葉の恐ろしさを理解し、青ざめた顔で命令を下した。

「全隊、後退! 森を見るな! 銃を下げろ!

 ……医療班ではない、心理班を呼べ!」

 

 それは、撃てば勝てる通常の戦闘ではない。

 恐怖そのものが敵の武器になる、狂気の戦場でのギリギリの対応だった。

 

 ***

 

 ロンドン。ダウニング街10番地。

 

 会議室では、全員がモニターに映る「石化の瞬間」の映像を見て、完全に言葉を失い、凍りついていた。

 

「……我が国の兵士が、石にされたのか?」

 国防大臣が、震える声で呟いた。

 

「兵士だけではありません」

 科学顧問が、蒼白な顔で答える。

「探索隊全体が、敵対的カテゴリとして一括処理されたのです」

 

「戻せるのか……?」

 内務大臣が問うが、科学顧問は絶望的に首を横に振るしかできなかった。

 

 首相は、両手で顔を覆い、真っ白な顔で呟いた。

 

「我々は……魔女に、発砲したのか」

 

 兵士が撃ったのではない。

 国家として、未知の存在に対して「命令し、制止し、引き金を引いた」。その主権国家としての責任の重さが、首相を押し潰そうとしていた。

 

 さらに、悪い情報が追い打ちをかける。

 

「……首相! 現地からの追加報告です!」

 情報機関のトップが、血相を変えて立ち上がった。

「石像化した前進班の映像データが……現地の電磁ノイズの影響か、一部の民間通信網に混線(漏洩)した可能性があります!」

 

「なんだと!?」

 ロンドンの会議室が、さらに深い絶望に凍りつく。

 

 もし、この映像がネットに流出すれば。

『スコットランドの魔女』は一瞬で世界的なトレンドとなり、イギリス政府が隠蔽していたと大炎上する。

 他国の情報機関が殺到し、オカルト系配信者がこぞって森へ向かう。

 そして何より……世界中の人間が「魔女狩り」か「魔女崇拝」の意識を持ち、その数億人規模の『集団的な信仰と恐怖』が、あの現実強度の低い森へと流れ込む。

 

 それは、魔女の力を無限に増幅させる、最悪の連鎖(フィードバック・ループ)を意味していた。

 

「通信を遮断しろ!」

 首相が、狂ったように叫んだ。

「現地の全回線を物理的に押さえろ! 映像を絶対に外に出すな!」

 

「ですが首相! 今『完全隠蔽』していると思われれば、逆に疑念を呼び、噂が暴走します!」

 科学顧問が警告する。

「噂が膨らめば、それもまた森の現実改変に影響する可能性があるのです!」

 

「では、どうしろと言うんだ!!」

 首相は、完全に逃げ場を失い、頭を抱えて吠えた。

 

 ***

 

 ワシントンD.C.、ホワイトハウス地下。

 

 キャサリン・ヘイズ大統領は、無言のまま、スクリーンに映るイギリスの惨状を見つめていた。

 

「……大統領。これは明確な攻撃です」

 国防長官が、怒りと恐怖を滲ませて進言した。

「同盟国の部隊が無力化された。我々も即応部隊を展開し、対応を――」

 

「違う」

 

 ヘイズは、即座に、氷のような声で遮った。

 

「しかし――」

 

「先に撃ったのは、こちら側よ」

 ヘイズは、冷酷なまでに客観的な事実を突きつけた。

 

 沈黙。

 

「魔女は、近づいてきたわけではない。立ち去ろうとした。

 ……それを、こちらが止めようとし、命令し、銃を撃った」

 ヘイズの目は、感情に流されず、事態の本質を正確に捉えていた。

「これは攻撃ではなく、報復。……あるいは、ただの防衛反応よ」

 

 モニターの端で、セレスティアル・ウォッチの連絡官が静かに頷いた。

「大統領の仰る通りです。対象Wは、発砲に対し『限定的』に反応しました。石化の範囲は前進班のみに留まり、現地指揮所や周辺部隊への拡大は確認されていません」

 

「……つまり」

 ヘイズは、低く呟いた。

「彼女は、あの場の全員を石にできた可能性があるのに……そうしなかったのよ」

 

 その一言で、会議室の空気が完全に凍った。

 魔女は、全力を出していない。ただ「警告」しただけなのだ。

 

「……米軍の警戒レベルは維持」

 ヘイズは、冷静に命令を下す。

「ただし、森への接近は絶対に禁止。追加部隊は『退避支援』に限定すること。セレスティアル・ウォッチに石化の解析チームを準備させなさい。

 ……心理作戦部門は、情報流出対策を。日本政府と即時協議を繋いで」

 

 そして、ヘイズは国防長官を鋭く見据えた。

「イギリスには、『報復攻撃は絶対にするな』と釘を刺しなさい」

 

「しかし、彼らの兵士が……!」

 

「この状況で一番最悪なのは、イギリスの国内世論に押されて“魔女への反撃”を叫ぶことよ」

 ヘイズは、冷徹に言い放った。

「それをやれば、今度こそ本当に……血みどろの魔女狩り(破滅)になるわ」

 

 ***

 

 東京、首相官邸地下。

 

 矢崎総理、沖田室長、三神編集長の三人は、送られてきた石化映像を前にして、重い沈黙に沈んでいた。

 

「……やってしまいましたね」

 三神編集長が、低い、しかしどこか諦観の混じった声で言った。

 

「石化は……魔女伝承にあるのですか?」

 官僚が、震える声で問う。

 

「直接的な石化の呪いは、ギリシャ神話のメドゥーサの方が有名ですが……」

 三神は、腕を組みながら解説する。

「ヨーロッパの民間伝承には、“森を荒らした者が石になる”“妖精の輪に入った者が戻れなくなる”といった類型が数多く存在します。

 ……重要なのは、その【象徴的な意味】です」

 

「象徴?」

 沖田が眉を寄せる。

 

「ええ」

 三神の目が、鋭く光る。

「『石にする』というのは、殺すことではないんです。

 動きを止める。時間を止める。侵入者を、その土地の記憶として固定する。

 ……つまり、魔女は彼らを“罰した”のではなく、“森の風景の一部に固定した”可能性がある」

 

 矢崎総理が、苦い顔をした。

「……元に戻せる可能性は?」

 

 三神は、即答しなかった。

 代わりに、沖田が冷徹な見解を述べる。

 

「対象Wが、自らの意思で戻せる可能性はあります。

 ……ただし、こちら側が謝罪と交渉の手順を一つでも間違えれば、彼らは永久に固定されたままになるでしょう」

 

 日本政府は、直ちに英米に向けて緊急の【助言プロトコル】を送信した。

 

『石像を勝手に動かさないこと』

『ハンマーや工具を絶対に近づけないこと』

『医療処置の名目で、表面を削らないこと』

『成分分析のために破片を採取しないこと』

『彼らを「遺体」と呼んではならない。「戦死者」と呼んではならない。「標本」と呼んではならない』

『暫定呼称は、「固定化された隊員」とする』

 

「ここで科学者が、“石像のサンプルを採りたい”などと言い出したら終わりです」

 三神が、画面の向こうの英米の官僚たちに向けて警告する。

「彼らはまだ、人間かもしれない。……少なくとも、魔女の理屈では“殺していない”可能性が高いんです」

 

 その助言は、パニックに陥っていたイギリス政府にとって、冷水を浴びせられるような衝撃的なものだった。

 

 ***

 

 緊急に開かれた、英・米・日の三国合同会議。

 

 イギリス首相は、明らかに動揺し、プライドと恐怖の間で引き裂かれていた。

「我が国の兵士が、石にされたのだぞ。……これを、国内世論にどう説明しろと言うのだ」

 

「まだ説明しないのよ」

 ヘイズ大統領が、画面越しに冷酷に言い放つ。

「まず、彼らを“死者”として扱わないこと」

 

「日本側も同意します」

 矢崎総理も、静かに、しかし強く同調した。

「石化が状態変化であるなら、死亡認定は極めて危険です」

 

「では、あのまま森に放置しろと言うのか!」

 イギリス国防大臣が、怒りで机を叩いた。

 

「動かせば、さらに悪化する可能性があります」

 沖田が、冷徹に説明する。

「石化した彼らは、今もあの森のシステムと接続状態にあるかもしれない。無理に引き剥がせば、それこそ本当に『死』を確定させることになる」

 

 セレスティアル・ウォッチの連絡官が、決定的なデータを提示した。

「現実強度計のログでも、石像化した隊員たちは、完全な無機物の反応ではありません。微弱ですが……【情報構造】が残っています」

 

 イギリス側が、一斉に息を呑んだ。

 

「……つまり、生きているのか?」

 

「生物学的には、死亡に近いです」

 連絡官は、慎重に言葉を選んだ。

「しかし、情報的には……『停止している』。この表現が最も正確です」

 

 ヘイズ大統領は、深く息を吐き出し、最終的な結論を下した。

 

「なら、やることは一つよ」

 ヘイズの灰色の瞳が、イギリス首相を真っ直ぐに射抜く。

「反撃ではない。救出でもない。

 ……まず、【謝罪】と【交渉】よ」

 

「……魔女に、謝罪しろと?」

 イギリス首相は、大英帝国の指導者としての屈辱に顔を歪めた。

 

「ええ」

 ヘイズは、一歩も退かずに言い切った。

「こちらが、撃ったのだから」

 

「ここで謝れない国家は……神話領域では生き残れません」

 矢崎総理も、静かに、だが絶対的な重みを持って頷いた。

 

 ***

 

 夕暮れの、グレン・モラグの森。

 

 霧が深く立ち込める森の入り口近くに。

 石像となった四人の探索隊員が、無言のまま並んでいる。

 

 いや、並んでいるのではない。

 それぞれが、石化した瞬間の姿勢のまま、完全に時間を止められているのだ。

 

 銃を構えた兵士。

 手を伸ばして止めようとした隊長。

 通信機を握った隊員。

 ノートを抱えた記録員。

 

 灰色の霧が、彼らの足元を静かに撫でていく。

 湿った苔が、ほんの少しだけ、石像の靴に絡み始めていた。

 

 遠くの境界線の外側から、セレスティアル・ウォッチの博士が、その光景を震える双眼鏡越しに見つめていた。

 

「……森の一部に、なり始めている」

 

 博士の手元の現実強度計は、石像の周囲だけ、異常なほど安定した数値を示していた。

 まるで、そこだけ現実が強固に『固められている』ように。

 

「固定化の進行を確認。……早急に交渉しなければ、彼らは完全に“森の記憶”として定着する可能性があります」

 

 通信越しに、ロンドン、ワシントン、東京の全員が、深い沈黙に沈んでいた。

 

 そして。

 誰もいないはずの、深い森の奥から。

 静かな、冷たい声だけが、霧に乗って響いてきた。

 

 姿は見えない。

 

 ただ、声だけが。

 

「――次は、言葉を選びなさい」

 

 その日、イギリス政府は初めて理解した。

 

 スコットランドの魔女は、伝説ではなかった。

 そして、伝説に銃を向けた者は……物語の中で、容赦なく罰を受けるのだということを。

 

 




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