銀河皇帝のスペアに転生した元社畜、地球軌道上の要塞でネトゲ三昧の隠居生活を満喫する 〜足元では超大国が滅亡級の異星遺産を巡って暗躍中ですが、主人公(ぼく)の命は絶対安全なので特等席で傍観します〜   作:パラレル・ゲーマー

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第11話 魂の庭の管理人は、かなり怒っていた

 大気圏外、高度四百キロメートルの熱圏。

 地球上のあらゆるレーダーや光学観測網から完全に隠蔽され、ただ静かに軌道上を滑る超弩級ステルス宇宙ステーション〈サイト・アオ〉。その最奥に位置するティアナ・レグリアの私室は、眼下で繰り広げられる国家間の暗闘や血生臭い覇権争いとは完全に無縁の、極めて文明的で、そして気の抜けた静寂に包まれていた。

 

 金属の摩擦音すら立てずに自動ドアが滑らかに開き、ティアナが部屋に足を踏み入れた。

 銀河帝国最高権力者のクローン・スペアとして培養された、完璧な美しさと威厳を備えているはずのその姿には、今この瞬間、緊張感の欠片もなかった。ティアナは重い足取りで一直線に部屋の中央へと向かい、人間工学の極致とも言える形状記憶素材の広大なソファに到達するなり、自らの体重を支えることすら放棄したかのように、どさりと全身を投げ出した。

 

「あー……疲れた」

 

 クッションに顔を半分埋めたまま漏れた第一声は、呆れるほどだらしなく、そしてひどく人間臭い響きを帯びていた。

 流体金属でコーティングされた滑らかなボディを持つ副官、XT-378が音もなく寄り添い、絶妙な温度に調整された地球の嗜好品――今日は少し渋めの緑茶だった――をそっとテーブルに置く。ティアナは身を起こすことすら面倒そうに、念動力(テレキネシス)を使って湯呑みをふわりと宙に浮かせ、そのまま自分の口元へと引き寄せて喉を潤した。

 

 部屋の隅で、地球の文化アーカイブを整理する作業に没頭していたエミリー・カーター研究員が、その深いため息を聞きつけてデータパッドから顔を上げた。

 普段、ティアナがこのステーションで「疲れた」と口にするのは、地球の理不尽なインディーゲームに手こずった時か、退屈すぎる定例報告を聞かされた時くらいのものだ。本気で生命力を消耗しているというよりは、何かひどく神経を使う「面倒な外交と火消し」をたった一人で押し付けられて帰ってきたような、独特の精神的な摩耗が漂っている。

 

 別室のラボからホログラムで繋いでいた科学部門責任者のザーラ・クォルム博士も、作業を止めてこちらを注視していた。キノコに似た巨大な傘を持つ異星人である彼女は、普段なら論理的な思考を示す青緑色の光を放っているはずだが、今はその明滅をピタリと止め、ティアナの次の言葉を静かに待っている。

 

「……代表。一体、何があったんですか?」

 

 エミリーは、隠しきれない好奇心と微かな不安が入り混じった声で尋ねた。彼女の顔には、「代表がまた私たちの見えないところで、地球規模の規格外の騒動を起こしてきたのではないか」という疑念が微かに張り付いていた。

 

 ティアナは、空になった湯呑みを再び念動力でテーブルにコトリと戻し、ソファの上でゴソゴソと寝返りを打って、ようやくエミリーの方へと顔を向けた。

 

「いやね」

 

 まるで、近所の偏屈な老人に理不尽に怒鳴り散らされたとでも言うような、ひどく軽い、日常の愚痴をこぼすトーンで、ティアナは口を開いた。

 

「魂の庭の管理人さん、ガチギレしてたよ」

 

 その一言が放たれた瞬間、エミリーのタイピングの手がピタリと止まり、部屋の空気が一瞬だけ凍りついた。

 ホログラム越しのザーラ博士の傘が、驚きを示す黄色い光をほんの一瞬だけフラッシュさせる。傍らに控えていたXT-378でさえ、情報処理の優先順位を切り替えたのか、光学センサーの明滅パターンを僅かに変化させた。

 

「……何をしたんですか」

 

 数秒の空白の後、エミリーが絞り出すような声で尋ねた。彼女の脳内では、ティアナが神話的な領域で何か取り返しのつかないスイッチを押してしまった最悪のシミュレーションが駆け巡っている。

 

「いやいや、誤解しないで。僕は何一つ悪いことはしてないよ」

 ティアナはソファの上で慌てて両手を振り、身の潔白を主張した。

 

「怒られたのは僕じゃなくて、日本の政府の調査隊。あいつらが、勝手に土足で入ろうとしたからさあ」

 

 ティアナは事も無げに言った。

 ここ数日、〈サイト・アオ〉の高度なセンサー網は、日本の出雲地方――古くから「鳴動の淵」と呼ばれ、彼らが「魂の庭」へのアクセスポイントの一つとして監視している特定の山域に、日本政府の極秘調査隊が接近しているのを継続してモニタリングしていた。

 

「いい? あそこはただの自然公園でも、見捨てられた古代遺跡でもないんだ。資格がない人間が、ろくに挨拶もせずにいきなり門の前までやって来て、勝手にドアノブをガチャガチャ回して開けようとしたんだ。そりゃあ、怒るに決まってるでしょ」

 

 ティアナは、やれやれといった体で肩をすくめた。

 

「それにさ、ここ数年は、近くで科学者チームが環境測定だなんだって言って、やれ磁力計だの通信機だのって機材を振り回しながら、あの森の周辺をウロウロしてたでしょ? 管理人さんは、あれのこともずっと『まあまあ鬱陶しい連中だな』って思って、静かに我慢してたみたいなんだよね。人間で言えば、家の周りを毎日カメラ持ってウロウロされてるようなもんだから」

 

 ティアナは、神話の領域に属する超常的な施設を、まるで身近なご近所トラブルのように解説した。

 

「で、今回はそれに加えて、神職まで連れてきて、昔の『呼びかけ』の真似事みたいなことまで始めた。科学のノイズに加えて、変にチャンネルを合わせようとする古いノイズまで混ざってきたもんだから、ついに『おいおい、いい加減にしろよ。ここはそういう場所じゃないんだよ』って、我慢の限界を突破してキレちゃったみたい」

 

 そのあまりにも俗っぽい言い回しに、エミリーは少しだけ表情を緩めたが、すぐにその言葉の裏にある重大な事実に気づき、真顔に戻った。

 

「……つまり、あの出雲の山奥にある特異点は、単なる空間の歪みや未知のエネルギー溜まりといった自然現象ではなく……明確な『意思』を持って、あの場所を管理している存在がいる、ということですか?」

 

「そう。完全な無人設備じゃないんだよ」

 

 ティアナははっきりと肯定した。

 

「だから、地球人から見れば『国家の命を受けた科学的な調査』のつもりでも、向こうから見れば、ルールも境界線も理解していない蛮族が、土足で上がり込もうとしているようにしか見えない。特に、あの場所のデリケートさを一切理解していない人間が踏み込むのは、本当に最悪の行為なんだ」

 

「……でも」

 

 エミリーは、文化人類学者としての、そして地球人類の代表としての抗いがたい知的な欲望を口にした。

 

「人類としては……研究したい、中身を知りたいという彼らの気持ちは、痛いほどよく分かります。もし、地球上の全生命の記憶や精神の痕跡が集まる『魂の庭』なんていう途方もない施設が本当に存在しているのなら……。それは科学的にも、哲学的にも、人類の歴史を根底から覆す大発見です。どんな手段を使ってでも知りたいし、中に入ってみたいと願うのは研究者として当然の欲求だと思います」

 

 彼女の主張は、人間として極めて真っ当なものだった。未知なるものを解き明かしたいという根源的な欲求こそが、人類の文明を前進させてきたのだから。

 

 だが、その純粋な探求心に対し、残酷なまでの冷や水を浴びせたのは、ティアナではなく、ホログラム越しのザーラ博士だった。

 

「……管理人の許可と、適切な保護プロトコルが存在しない状態での侵入は、いかなる手段を用いても物理的に不可能です、エミリー研究員」

 

 ザーラの声は、一切の感情を排した、冷徹な事実の羅列として部屋に響いた。

 

「『魂の庭』は、地球人類が想像するような、単なる立ち入り禁止の古代遺跡や機密データバンクではありません。そこに蓄積された情報量と、空間そのものが放つ高次元の精神的な波動は、現在の地球人類の精神構造にとっては、あまりにも負荷が強すぎます」

 

 ザーラは、非情な結論を突きつけた。

 

「管理人のフィルターや、正規のアクセスルートを経由せずにあの境界線を越えれば、人間の脆弱な認識能力は一瞬でオーバーフローを起こし、不可逆的な崩壊を迎えます。肉体は無傷でも、精神が完全に破壊され、二度と自我を回復することのない『廃人』となるでしょう」

 

 その言葉の圧倒的な重みと恐ろしさに、エミリーは息を呑み、完全に絶句した。

 

「……研究、どころじゃないですね」

 

 数秒後、彼女は血の気の引いた顔で、震える声で呟いた。

 

「入口に立つだけで精神が壊れてしまうなら、そもそも対話も観測も……話になりません」

 

 人類の知的好奇心という「正義」が、宇宙の絶対的なシステムとスペック差の前に、あっさりと、そして無残にへし折られた瞬間だった。

 

 エミリー・カーターは、文化人類学者としての自身のアイデンティティが、音を立てて崩れ落ちていくのを感じていた。

 未知なるものを観測し、記録し、理解する。それが人類の文明を前進させてきた絶対的な正義だったはずだ。しかし、出雲の山奥に存在するという「魂の庭」は、その前提を根本から否定していた。観測することはおろか、その入り口に立つだけで人間の精神が破壊されるというのなら、地球人類は永遠にその深淵を知ることはできない。

 彼女の肩が力なく落ち、顔から完全に血の気が引いているのを、ホログラム越しに見ていたザーラ・クォルム博士は、自身の巨大なキノコ型の傘の明滅を、警告を示す色合いから、少しだけ穏やかな薄紫色へと変化させた。

 

「誤解のないように言っておきますが、エミリー研究員」

 

 ザーラの声は、先ほどの冷徹な宣告に比べれば、いくぶんか温度を取り戻していた。それは、途方もない絶望に打ちひしがれる若き地球人研究者に対する、異星の科学者なりの不器用な配慮だった。

 

「『魂の庭』と呼ばれる施設それ自体は、この広大な宇宙のスケールで俯瞰してみれば、決して珍しいものではありません。いえ、むしろ普遍的とすら言えます」

 

「普遍的……ですか」

 エミリーは、虚ろな瞳のまま聞き返した。

 

「ええ。ある程度の時間をかけて成熟し、一定の複雑さを持った生命圏を形成するに至った惑星には、大抵の場合、自然発生的、あるいは過去の極めて高度な文明の干渉によって、少なくとも一つはそのような『特異点』が存在します。それは、その惑星で生き、そして死んでいった無数の生命の記憶を定着させ、精神の痕跡をアーカイブし、死後の情報処理のサイクルを担うための場所です。例えるなら、惑星という巨大なシステム全体を正常に維持するための、不可欠なバックグラウンド・インフラストラクチャーなのです」

 

 ザーラの説明は、地球というたった一つの惑星が抱える「魔法のような神秘」という幻想を静かに剥ぎ取り、それを宇宙という途方もなく巨大なシステムの一部として、冷徹に、しかし美しく再定義するものだった。

 魂の庭は、誰かが意地悪で隠している秘密の宝物庫ではない。惑星の生態系そのものを情報的・精神的な側面から支えるための、当たり前の「臓器」なのだ。

 

「ですから、問題は施設そのものが特異であることではありません。問題の核心は、『そのインフラを安全に扱えるだけの文明レベルに、今の地球が達しているかどうか』ということです」

 

 ザーラは、ホログラムのデータパッドに無数の銀河の星々のデータを流し込みながら、静かに、しかし断固として言った。

 

「地球の問題は、施設そのものの異常性ではなく、現代人類側の圧倒的な『準備不足』に尽きます」

 

「準備不足……」

 

 エミリーはその言葉を反芻した。それは、人類がまだ進化の途上にあり、宇宙の基準から見れば赤子に等しいという、〈サイト・アオ〉で働く中で何度も直面してきた事実だった。

 

「はい。実は、地球という惑星においては、過去の歴史の中で、『魂の庭』へのアクセスポイントは現在よりもはるかに多く、そしてより広範に存在していました」

 ザーラの言葉に、エミリーは弾かれたように顔を上げた。

 

「過去には、多かったんですか?」

 

「ええ。そして、当時の地球の生命――初期の人類や、あるいはそれに近しい霊性を備えた存在たち――と、庭の管理者との間には、比較的多様な『交流』もあったと推測されるデータが残っています」

 

 その事実が突きつけられた瞬間、エミリーの脳裏に、彼女が学んできた世界中の神話やフォークロアがフラッシュバックした。

 ギリシャ神話のオルフェウスの冥界下り。日本神話におけるイザナギの黄泉の国訪問。世界各地の先住民族に伝わる、精霊や死者の魂との対話の儀式。あるいは、忽然と人が姿を消し、全く別の時間を生きて帰ってくる神隠しの伝承。

 それらはすべて、古代の人間たちが無知ゆえに生み出した架空のファンタジーではなかったのだ。

 

「じゃあ……世界中に残る神話や伝承、冥界や死後の世界に関する話の一部は……」

 

「ええ。それらはすべて、過去に実際に存在した『魂の庭』の管理者たちとの交流の、ひどく風化し、長い時間をかけて歪んでしまった名残(なごり)である可能性が極めて高いでしょう」

 

 ザーラは、エミリーの推測を完全に肯定した。

 かつての地球人類は、世界が物質だけで構成されているわけではないことを知っていた。見えない境界線の向こう側に明確な意思が存在し、作法と畏れをもって接すれば、そこに触れることができた時代があったのだ。

 

「……ですが、今はその繋がりが、ほぼ完全に『断絶』しているのが最大の問題なのです」

 

 ザーラは、それ以上の具体的な過去の経緯――なぜ断絶してしまったのか、何が原因で扉が閉ざされたのか――については、今は語るべきではないと判断したのか、口を噤んだ。

 だが、「昔はあったものが、今はない」というその事実は、エミリーの胸の奥に、言葉にできないほどの深い喪失感と寂寥感をもたらした。

 現代の地球人類は、かつて持っていたはずの大切な感覚器官を、進化という名の下に自ら切り捨ててしまったのではないか。

 

「じゃあ、今の人類は、過去に使えていたはずのシステムへのアクセス権を、自分たちでほぼ手放して失っている状態なんですね……」

 

 エミリーの声は、少しだけ震えていた。

 

「そうなります」

 ザーラは、残酷な真実を、ただ静かに肯定した。

 

 二人のやり取りを、ソファの上で寝転がりながら聞いていたティアナは、組んだ両腕を枕にして天井を仰ぎ見た。

 銀河帝国最高権力者のクローンであるティアナは、かつて「神谷玲」としてこの地球の日本という国で、ごく普通のサラリーマンとして生きていた記憶を持っている。だからこそ、地球人類の限界も、その愚かさも、そして愛すべき不器用さも、誰よりもよく理解していた。

 

「まあ、ざっくり言うとさ」

 

 ティアナは、極めて軽い、まるで飲み会の席で友人の失敗談を笑うような調子で、現代人類への辛辣な評価を下した。

 

「今の人類は、ちょっと『物質主義』に寄りすぎちゃってるんだよね」

 

 ティアナは、天井の無機質なパネルを見つめながら言葉を紡ぐ。

 

「目に見えるもの、数値化できるもの、物理的に触って重さを量れるものだけを『絶対の真実』だと信じ込んでしまった。その過程で、精神的なもの、象徴的なもの、形のない『理(ことわり)』を扱うための『訓練』を、文明の進化と引き換えにすっかり手放しちゃったんだ。霊性なんてものは非科学的なオカルトだと笑い飛ばして、全部合理性で切り捨ててきた」

 

 ティアナの声音には、かつて自分が属していた種族に対する、深い愛着と、それと同量の諦念が入り混じっていた。

 

「だから、現代の人間たちは『科学の力で解析さえすれば、宇宙のどんな扉でも全部こじ開けられる』って、心の底から本気で信じ込んじゃってる。計測器を持ち込んで、データを取って、数式に当てはめれば、神様だって理解できるはずだ、ってね」

 

 ティアナはそこで少しだけ首を傾け、エミリーの方を見た。

 

「その態度のままじゃ、魂の庭のシステムとは絶対に噛み合わないよ。あっちは、純粋な精神と記憶の集積体なんだ。物質のモノサシで測ろうとした瞬間に、ノイズとして弾かれる。少なくとも、『よく分からないから、とりあえず全部データにして解析しようぜ』ってノリで土足で踏み込んでいい場所じゃないんだよ」

 

 ティアナは、大きく伸びをしてから、ソファの上に胡座をかいた。

 

「物質主義に傾倒しきって、精神の筋肉がすっかり退化してしまった現代人類に、魂の庭はまだ早すぎる。これはもう、文明としての成熟度の問題なんだよね」

 

 エミリーは、ティアナの言葉に黙って俯いた。科学を信奉する現代人として、その指摘が図星であることを認めざるを得なかったからだ。

 

「とはいえ、だよ」

 

 ティアナは、少しだけ声のトーンを上げ、思い出したように付け加えた。

 

「現代人類の中では、今回あの山奥にやってきた日本人たちは、まだ一番マシというか……『相性』がある方だとは思うけどね」

 

「相性、ですか?」

 エミリーが顔を上げる。

 

「うん。日本っていうのは、ちょっと特殊な環境でさ。徹底的に近代化されて物質主義に染まっているようでいて、心の底のどこかに『八百万の神』とか『アニミズム』みたいな、目に見えないものを畏れる土壌がまだギリギリ残ってるんだ。森や山や巨石には神様がいて、みだりに触れてはいけないっていう感覚を、完全に捨てきれてない」

 

 ティアナは、自分がかつて生きた国の文化を、少しだけ誇らしげに語った。

 

「だから、少なくとも日本神話の枠組みや、そういう土着の宗教観と完全に無縁な連中に比べれば、あの門が放つプレッシャーに対する『耐性』がある。……まあ、門前で即座に精神が潰れにくいってだけの話で、中に入れるわけじゃないんだけどさ」

 

 ティアナは、そこで言葉を区切り、真剣な表情になって、今回の一連の騒動に対する最終的な評価をはっきりと口にした。

 

「でもね。今回の日本政府の判断は、大正解だったと思うよ」

 

「正解、だったんですか?」

 エミリーが意外そうに聞き返す。国家の命を受けて赴いた調査隊が、成果ゼロで逃げ帰ったことが「正解」とは、どういうことなのか。

 

「うん。大正解」

 ティアナは力強く頷いた。

 

「現場でちゃんと、本能的な恐怖を感じて『これはヤバい』と気づいて止まったでしょ。科学の数値が狂っているというデータだけじゃなくて、同行させていた神職の『ここは入ってはいけない場所だ』っていう、極めて非科学的な感覚も捨てずに、無理をしなかった。危機管理としては、かなり優秀だったよ」

 

 ティアナは、XT-378のコンソールに流れていた、日本の調査隊「ヤタガラス」の撤退ログを思い出しながら言った。

 

「あそこで、もし指揮官が『国家の命令だから引き返せない』とか『科学の力でこのノイズを突破できるはずだ』って強がって、管理人の怒りを買ったまま無理やり押し込んでたら、どうなってたと思う? あの場にいた全員、普通に脳のヒューズが飛んで、廃人量産コースに直行だったからね。あのギリギリの土壇場での引き際の見事さは、素直に褒めていいレベルだよ」

 

 ティアナのその評価を聞いて、エミリーは強張っていた肩の力を少しだけ抜き、ホッとしたような表情を見せた。

 

「……日本政府、思ったよりもちゃんと『怖がる』ことができたんですね」

 

「そう。それが大事なんだ。『分からないものは、とりあえず力で殴ってこじ開ける』っていう、圧倒的な力を持った国が陥りがちな愚行に行かなかったのは、本当に偉いと思う。だから僕も、今回は裏でこっそりデバッグ(火消し)に走らずに済んだし、ソファでこうしてゴロゴロしていられるわけさ」

 

 ティアナが冗談めかして笑うと、部屋の空気が少しだけ柔らかくなった。

 しかし、その安堵の空気は、それまで黙って情報のログを整理し続けていたXT-378の、極めて冷徹な事実の提示によって、あっさりと打ち破られた。

 

「……代表。そうなると、次に懸念されるのは、アメリカ側の動向ですね」

 

 XT-378の合成音声には、感情の起伏は一切ないが、その指摘の鋭さは常に的確だった。

 

「アメリカ政府――ホワイトハウスは、今回の出雲の件を知れば、日本に対して強硬な介入、あるいは『共同調査』という名目での強制的な軍事力の投入を行わないでしょうか?」

 

 エミリーも、ハッとしてティアナを見た。

 アメリカは先日、地中海の孤島で「アポロンの矢」という圧倒的な戦略兵器のオリジナルを確保したばかりだ。世界の軍事バランスを単独で書き換えようとしている覇権国家が、日本に未知の精神的インフラ(特異点)が存在すると知って、指をくわえて黙っているとは思えなかった。

 

「うーん、それはないかな」

 

 だが、ティアナはソファのクッションを抱え込みながら、あっさりとその懸念を否定した。

 

「いまの日本の首相の矢崎と、アメリカのキャサリン・ヘイズ大統領の関係性を見る限り、国家レベルでの大規模な軍事進行とか、正面から日本の主権を踏み越えるような無茶なマネはしないと思うよ。少なくとも、『国としては』ね」

 

 ティアナは、あえて「国としては」という言葉に強いアクセントを置いた。

 

「ヘイズ大統領は、検事上がりで極めて合理的な人間だ。あの『アポロンの矢』の件でも、独占するリスクを天秤にかけて、日本と最低限の情報を共有する道を選んだ。彼女は、同盟関係という現実の安全保障の枠組みをぶち壊してまで、得体の知れない神話の遺跡に自国の軍隊を突っ込ませるほど愚かな政治家じゃないよ」

 

 ティアナの分析は、地球の地政学と為政者の心理を正確に読み解いていた。

 

 ティアナは、抱え込んでいたクッションを放り投げ、ソファからゆっくりと立ち上がった。

 そして、部屋の壁一面を覆う巨大な窓越しに、漆黒の宇宙空間に青白く浮かび上がる地球を見下ろした。

 その顔から、先ほどまでの軽い飄々とした表情が完全に消え去り、銀河の歴史を見通す観測者としての、静かで冷ややかな真顔になっていた。

 

「本当に怖いのは……」

 

 ティアナは、低く、絶対零度のような冷たい声で言った。

 

「セレスティアル・ウォッチの連中が、ホワイトハウスの意向を無視して、独自にこの件に絡んでくることだよ」

 

 エミリーが、ヒッと短く息を呑む音が聞こえた。

 大統領すらその全貌を把握していない、アメリカの深部で活動する超法規的秘密組織。彼らなら、国家の枠組みなど容易く逸脱して行動を起こすだろう。

 

「彼らは、精神主義や神秘的なものを、頭から完全否定しているわけじゃない。異星のテクノロジーや未知の事象に対する理解度は、間違いなく地球でトップクラスだ。でも、だからこそタチが悪い。彼らは最終的には『この世の全ては科学の力で解き明かし、我々の手で管理・統制できる』と狂信しているんだ」

 

 ティアナは、窓ガラスに映る自分自身の瞳を見つめながら言葉を紡いだ。

 

「だから、“どうしても科学で解けないもの”に直面した時、彼らは『引く』という選択肢を持たない。自分たちの理解が及ばないことを認めるくらいなら、より強硬な手段に出る。……魂の庭の管理人さんに、平気で喧嘩を売るタイプなんだよ、彼らは」

 

 ホログラム越しのザーラ博士が、ティアナの言葉を学術的な視点から補強するように静かに言った。

 

「彼らは、『そこに扉があるのなら、いかなる手段を使ってでも必ず開けられるはずだ』という、高度に発達し始めた文明が陥りがちな、一種の『文明病』を抱えています。それ自体は、宇宙の歴史において決して珍しいことではありませんが……魂の庭のような、純粋な精神的防衛機構を持つ絶対的な施設相手では、最悪の相性と言わざるを得ません」

 

「……もし、彼らが本当に強硬手段に出たら、どうなるんですか?」

 

 エミリーが、恐る恐る最悪のケースを尋ねてきた。彼女の声は、これから語られるであろう破滅的な未来への恐怖で微かに震えていた。

 

「そうだねえ」

 ティアナは、窓から視線を外し、再び軽い口調に戻って、まるで明日の天気でも予想するように答えた。

 

「科学的な観測装置を何トンも持ち込んで、境界線に対して物理的な干渉を試みたり……あるいは、空間の歪みを強制的に安定させるような兵器を使って、無理やり侵入しようとしたり……最悪の場合、管理人を『作戦の邪魔になる敵性の障害物』だと認識して、排除のための攻撃を仕掛けたりすれば……」

 

 ティアナは、わざとらしく肩をすくめてみせた。

 

「まあ、空間の側からの『拒絶』が、明確な『攻撃』へとフェーズが変わるだろうね。日本政府の連中みたいに、ちゃんと本能で怖がってサッと引いてくれるならいいんだけど。セレスティアル・ウォッチの連中は、『引く』ことを作戦の失敗だと考えるプライドの塊だから、本当に面倒なんだよ」

 

「……管理人さんと、セレスティアル・ウォッチが全面衝突したら……?」

 エミリーは、生唾を飲み込んで尋ねた。

 

「まあ、地球側(ちょっかいを出した連中)が、一方的に壊れる(デリートされる)かな」

 

 ティアナのその一言は、極めて軽く、冗談めかして放たれたが、その内容はエミリーの背筋が凍るほど恐ろしいものだった。圧倒的な暴力の差。それは戦争にすらならない、単なる「処理」になるだろう。

 

「……現状の地球の盤面を整理します」

 

 重苦しい空気を断ち切るように、XT-378が静かに報告をまとめた。

 

「日本政府は、出雲の件を国家案件に格上げしつつも、物理的干渉を避け、周辺からの慎重な遠隔監視体制に入っています。アメリカ政府本体――ヘイズ政権も、現時点では強硬な介入の兆候は見られません。しかし、セレスティアル・ウォッチの独自行動は、予測不能な変数として引き続き厳重な監視が必要です。さらに、欧州ではヘルメス協会が『ミノスの星円盤』の解析を秘密裏に進めており、彼らの時計も静かに動いています。……地球全体で、複数の危機が並走している状態です」

 

「ま、しばらくは特等席で様子見かな」

 

 ティアナは、再びソファに寝転がり、手元のコンソールを指先で弾いて、読みかけの地球のライトノベルのデータを開いた。

 

「日本はちゃんと怖がれたし、当面は出雲で大爆発は起きないでしょ。問題は……『怖がれない連中』が、次に何をするか、だね」

 

 ティアナは、モニターの向こう側で静かに自転を続ける地球の青い光を眺めながら、次の火種がどこで燻り始めるのかを、圧倒的な高みから静かに待つことにした。

 魂の庭の扉は、未熟な人類の前で、今も固く閉ざされている。




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