銀河皇帝のスペアに転生した元社畜、地球軌道上の要塞でネトゲ三昧の隠居生活を満喫する 〜足元では超大国が滅亡級の異星遺産を巡って暗躍中ですが、主人公(ぼく)の命は絶対安全なので特等席で傍観します〜   作:パラレル・ゲーマー

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第108話 公認魔女と、星を映す匣が見せた黒い鯨

 首相官邸のさらに地下深くに位置する、既存技術外事象評価セルの特別防音会議室。

 厚いコンクリートと最新の電磁シールドに守られたその無機質な空間は、常に世界の危機と直結する冷え切った空気に満たされている。だが、今日この日に限っては、壁面を覆い尽くす巨大なマルチモニターに映し出されている光景が、その深刻な場所の雰囲気に著しくそぐわないものだった。

 

『イギリス政府公認魔女』

『対価は最高級の紅茶とお菓子』

『公認魔女接遇費』

『魔女様御用達ブランド争奪戦』

『紅茶安全保障費』

『ずるい』

『茶菓子拡競争の幕開け』

 

 画面を猛烈な速度で滝のように流れていくのは、世界中のSNSから抽出されたトレンドワードと、大衆による狂乱の大喜利の数々であった。

 

「イギリスだけずるい」

「紅茶とお菓子で上位存在と契約とかコスパ最強すぎるだろ」

「うちの国も和菓子と抹茶で何か呼べないか?」

「天狗なら酒でいける?」

 

 モニターから発せられる熱気は、兵士が石化されたという数日前の底知れぬ恐怖を完全に過去のものとしていた。人々は未知の脅威を「紅茶とお菓子で動くちょろい上位存在」というキャラクターの枠に押し込め、それを消費することで現実逃避とも言える安心感を得ていたのだ。

 

 その喧騒を映すモニターを背にして、円卓の隅に座るよれよれのスーツ姿の男――月刊ムーの三神編集長は、コーヒーカップを片手に、いかにも楽しそうに声を立てて笑った。

 

「いやあ、イギリスにはやられましたね。見事なまでのちゃぶ台返しだ」

 

 実務責任者である沖田室長も、手元のタブレットの画面から目を離し、珍しく微かな苦笑いを浮かべた。

「ネットでは完全に紅茶とお菓子の話題で持ちきりですね。我が国の外務省にも、『日本もご当地スイーツでアーティファクトと契約できないか』という真面目な提案が、一般市民から多数寄せられている始末です」

 

 だが、円卓の最上座で両手を組んでいた矢崎総理の顔に、笑みは一切なかった。

 

「……笑い話ではありません」

 

 総理の低く、冷徹な声が響いた瞬間、会議室に漂っていた微かな弛緩の空気がピシャリと引き締まり、完全な静寂が落ちた。

 

「ネットの大衆が面白おかしく消費するのは構いません。しかし、我々国家の中枢がそれに流されて本質を見誤ることは許されない」

 矢崎総理の目は、モニターの奥にある国際社会の暗部を睨み据えていた。

 

「イギリスは、上位存在の『アドバイザー』を得たということです」

 総理の言葉が、事態の真の重さを会議室の全員に突きつける。

「人間を瞬時に石に変える力を持ち、現代の火器が全く通用しない可能性の高い超常の存在。それを敵に回すでもなく、武力で封じ込めるでもなく……【国家の枠組み(外交)の中に取り込んだ】のです」

 

 総理は、組んだ両手に強く力を込めた。

「これは、アーティファクト時代における、国際的なパワーバランスの決定的な変化です。軍事力でも、経済力でもない。……『上位存在と話せる国家』という、全く新しい覇権の形が生まれたことを意味しています」

 

 三神編集長は、先ほどまでの楽しげな表情の輪郭を少しだけ残したまま、その瞳の奥に極めて真剣で、冷酷な光を宿した。

 

「ええ。仰る通りです、総理」

 三神は、コーヒーカップをテーブルにコトリと置いた。

「ネットでは『対価が紅茶とお菓子で安すぎる』という部分ばかりが注目され、大喜利のネタにされていますが。……本質は、そこではありません」

 

 三神の指が、モニターの『公認魔女』という文字を指し示す。

「本質は、イギリス政府が【神話存在への国家アクセス権(専用のホットライン)】を、他国に先駆けて独占的に確保した、ということです」

 

 防衛省の幹部が、忌々しげに顔をしかめる。

「イギリス政府は、表向きには『あくまで国内における超常事案への限定的な協力関係だ』と説明し、他国への軍事的な脅威ではないと強調していますが……」

 

「それを、その言葉通りに受け取り、信じる国がどこにありますか?」

 矢崎総理は、静かに首を横に振った。

「たとえその魔女本人に他国を侵略する意思が全くなくとも。……人を石にするような規格外の存在と明確な関係を築いた国家を、周囲の国々は必ず強烈に警戒します。それは、核兵器以上の『見えない抑止力』として機能してしまうからです」

 

 外務省の担当官が、手元のファイルを開き、深刻な顔で報告を始めた。

 

「……アメリカ政府の反応について、報告します」

 外務担当の言葉に、会議室の視線が集まる。

 

「表向き、アメリカ国務省は『イギリス政府が対話に成功し、事態のさらなる悪化を防いだこと、そして何より兵士が生還したことを歓迎する』との公式声明を出しています。同盟国としての模範的な対応です。……しかし」

 

 外務担当は、言葉を切って一度息を呑んだ。

 

「水面下での動きは、全く異なります。……ホワイトハウス、特にヘイズ大統領は、今回のイギリスの単独行動に対して、激しい怒りを露わにしているとの情報が入っています」

 

「……当然でしょうね」

 沖田室長が、冷徹に頷く。

「アメリカは今回、セレスティアル・ウォッチの博士チームを現地に派遣し、空間の計測や技術的分析においてイギリスを全面的に支援(バックアップ)していました。

 にもかかわらず、イギリスは魔女との交渉の場において、そのアメリカの存在を完全に蚊帳の外に置き、独自に『公認関係』という果実だけをかすめ取った。アメリカからすれば、同盟国による明確な【抜け駆け】です」

 

 三神編集長が、面白そうに肩をすくめた。

「一緒に肝試しに行って、パニックになっていたはずの隣の友人が、いつの間にかオバケと仲良くなって、自分だけこっそり専属契約を結んでいたわけですからね。そりゃあ、怒るでしょう」

 

「アメリカから見れば、同盟の信頼を裏切られたという怒り。……そして他国(ロシアや中国)から見れば、イギリスが西側陣営の中で突出した『新しい超常的抑止力』を手に入れたように見える」

 矢崎総理は、厳しい顔で現状の国際情勢の歪みをまとめた。

「イギリスの図太い外交の成果は、結果的に、世界に新たな疑心暗鬼の種をばら撒くことになりました」

 

 官僚の一人が、慎重に手を挙げて問う。

「……では、日本政府としても、同盟国としてイギリスに対し、その『公認魔女』の詳細な契約内容や能力の限界について、正式な説明を求めますか?」

 

 総理は、少しの間沈黙し、思考を巡らせた。

 

「……説明を求める必要はあります。ただし、表立った対立や非難の構図になることは絶対に避けます」

 総理は、慎重な外交方針を示した。

「あくまで『同盟国間における、未知事象の安全管理に関する情報共有』という名目でアプローチしなさい。魔女の協力関係が本当に『イギリス国内限定』なのか。その範囲と、発動の条件を、可能な限り正確に把握することが急務です」

 

 三神編集長が、腕を組んでのんびりと言った。

「もっとも、魔女様本人が『イギリス国内で私が面白いと思った事案だけ』と条件をつけているなら、今すぐ海を渡って他国を石にしに行くような、侵略的な話にはならないでしょうけどね」

 

「それでも」

 矢崎総理は、為政者としての冷徹な目を崩さなかった。

「国家は、常に【最悪】を想定して動かなければならないのです」

 

 会議はさらに、「公認魔女」という存在がもたらす地政学的な意味合いの分析へと深く潜り込んでいった。

 

「今回のイギリスの件で最も注目すべき重要なポイントは……」

 三神編集長が、ホワイトボードの前に立ち、黒いマーカーで円を描きながら説明を始めた。

「イギリス政府が、魔女様を【完全に支配(コントロール)したわけではない】、という点です」

 

 沖田室長が、即座にそれに補足する。

「あくまで『対等、あるいはそれ以上』の立場での、緩やかな協力関係ですね」

 

「ええ」

 三神は、マーカーのキャップを閉めて頷いた。

「軍事兵器のように、ボタンを押せば確実に発射されるわけではない。むしろ、魔女様が気まぐれに“助言してあげる”、あるいは“気が向いたら対処してあげる”という、極めて不安定で属人的な関係に近いでしょう。

 ……ただ、それでも。国家にとっては、その【不確実性】こそが、絶大な力になるのです」

 

 三神の指摘に、防衛省の幹部たちがハッとした顔をする。

 

 なぜなら、他国(敵国)から見れば。

 

 ・イギリス国内で工作活動や超常事件を起こせば、あの魔女が出てくるかもしれない。

 ・イギリス政府は、我々の理解を超えた上位存在に、いつでも助言を求められるパイプを持っているかもしれない。

 ・魔女が、どこまで世界(他国の情報)を知っているか分からない。

 ・魔女の力が、どこまで干渉(現実改変)できるのか分からない。

 

「……つまり」

 沖田室長が、三神の言葉を引き取り、冷酷な結論を導き出した。

「『本当に来るか分からない』『何ができるか分からない』という、その【ブラックボックスの不確実性】自体が……相手国に対する、最大級の圧力(抑止力)になる、ということですね」

 

「そうです」

 三神は、ニヤリと笑った。

「『幽霊屋敷』に、泥棒が入りにくいのと同じ理屈ですよ。

 中に本物の幽霊がいるかどうかなんて、誰も分からない。……ただ、『何かヤバいものがいるかもしれない』。その不気味さだけで、人は無意識に足を止める。警戒する。

 イギリス政府は、国全体をその『幽霊屋敷』にしてしまったんです。紅茶とお菓子という、破格の維持費でね」

 

「……それを、一国家のスケールでやられるわけですか」

 矢崎総理は、そのしたたかさに、心底苦い顔をして呟いた。

 物理的なミサイル配備よりも、精神的で予測不能なプレッシャーを世界中に与え続ける、極めてたちの悪い外交カード。

 

 イギリスが「公認魔女」という手札を得た。

 ならば翻って、日本には今、何があるのか。

 

 担当官が、手元の資料をスクリーンに投影し、日本国内に存在する(または管理下にある)既存技術外事象の現状を整理し始めた。

 

 ・出雲の『魂の庭』(完全封鎖・精神干渉領域)

 ・与那国島の『巨大AI(ガイアズ・ドリーム・プロトタイプ7)』(限定的な交流中)

 ・先日確保したばかりの『星を映す匣』(保管室にて機能検証中)

 ・その他の未公開の小規模アーティファクト群

 ・そして、既存技術外事象評価セルという専門組織の運用ノウハウ

 ・神話、民俗、土地信仰への文化的理解の蓄積

 ・三神編集長を含む、オカルトや民俗学の特異な知見

 

 リストを見る限り、日本も決して無力ではない。他国に比べても、十分に強力で多様なカードを保持しているように見える。

 

 しかし、イギリスの魔女とは、その『性質』が決定的に違っていた。

 

「……イギリスの最大の強みは」

 三神編集長が、モニターのリストを眺めながら静かに指摘した。

「彼らが契約した相手(魔女様)が、人間の言葉を解し、感情を持ち、紅茶とお菓子を喜ぶという……極めて【人格を持つ交渉相手】であったことです」

 

 沖田室長も、深く同意する。

「日本の抱える出雲や与那国は、より巨大で、ある種の『システム』や『自然現象』に近い性質を持っていますからね」

 

「ええ。出雲の神域や与那国のAIは、国家顧問として気安く呼びつけて『どうすればいいですか?』と相談するような相手ではありません」

 三神は、厳しい顔で断言した。

「イギリスのやり方(紅茶外交)をそのまま真似して、日本のアーティファクトと安易に『契約』や『お友達関係』を結ぼうとすれば……おそらく、取り返しのつかない大失敗(自滅)を招くでしょう」

 

 矢崎総理は、三神の言葉を重く受け止め、静かに頷いた。

「……他国の真似はできない。では、日本は日本のやり方で、自らの持つ手札と向き合っていくしかないということですね」

 

「その通りです」

 

 三神はそう答えると、ふと、横に立つ沖田室長へと視線を移した。

 

「それより、沖田室長」

 三神は、先ほどまでの重い空気を少し和らげるように、少し軽い口調で尋ねた。

「最近、与那国島のAI……ガイアズ・ドリーム・プロトタイプ7さんとの『交流』は、いかがですか? 仲良くやっていますか?」

 

 沖田室長は、その質問に対して、能面のような無表情を一瞬だけ崩し、何とも言い難い微妙な、そしてひどく疲れたような表情を見せた。

 

「……『仲良く』という表現が適切かどうかは分かりませんが。……ええ、一応、毎日欠かさず会話(データ通信)は行っています」

 

 矢崎総理が、沖田の様子に反応する。

「日々の報告書には、私も目を通していますよ。……最近は、彼女(AI)の方から、日本や日本人について、色々と質問されることが増えたそうですね?」

 

「はい」

 沖田は、手元のタブレットを開き、深い溜息をついた。

「ガイアズ・ドリーム・プロトタイプ7さんは……我々日本社会というシステムに対して、非常に強い『関心』を持っています」

 

 沖田は、画面をスワイプし、最近AIから投げかけられた質問のログを読み上げ始めた。

 それは、地球外の超知性が、現代日本の社会構造を極めて冷静に、そして純粋なロジックで分析した結果生じた、残酷なまでの『素朴な疑問』の数々であった。

 

『――なぜ、この社会(管理領域)では、生命維持機能が低下した個体(高齢者)の割合が増加しているにもかかわらず、次世代の新規個体(子供)の生産数が減少しているのですか?』

『――なぜ、社会インフラを維持するための稼働個体(働く世代)に対する負荷が、臨界点を超えて上昇し続けているのですか?』

『――なぜ、医療技術によって治療が可能な状態であるにもかかわらず、人間社会は『制度』や『経済』という非物理的な障壁によって、治療を受けられる者と受けられない者を区切るのですか?』

『――なぜ、助けを必要とする個体が、システムに助けを求める前に、自ら機能を停止(壊れる)してしまう事例が多発するのですか?』

『――なぜ、日本人は構造的な欠陥(問題)を完全に把握しているにもかかわらず、根本的な修復プログラムを実行せず、エラーの先送りを続けるのですか?』

 

 沖田が読み上げるごとに、会議室の官僚たちの顔が、どんどん引き攣り、青ざめていった。

 

「……彼女は、純粋にシステム管理の観点から問うてきているだけなのですが」

 沖田は、苦々しい顔で言った。

「先日など、『老人が多く、子供が少なければ、社会というシステムの維持効率は明確に低下します。……なぜ、このバグを長期間放置しているのですか?』と、真っ向から問われまして。

 ……正直、返答に詰まりました」

 

 会議室に、先ほどの魔女の件とは全く違う種類の、胃をキリキリと抉られるような重い沈黙が落ちた。

 

 矢崎総理は、額を押さえ、小さく息を吐いた。

 

「……本当に、耳が痛いわね」

 一国の首相として、これ以上ないほどの直球のダメ出しである。

 

「でも、それはある意味で嬉しいことでもあります」

 総理は、気を取り直すように、少しだけ柔らかい声で言った。

「ガイアズ・ドリーム・プロトタイプ7さんも、日本という国を気遣って、彼女なりに心配してくれているのでしょう?」

 

 沖田室長が頷く。

「はい。我々に対する敵意は一切感じられません。むしろ、日本という複雑な社会システムを、彼女なりに『理解し、最適化しようと』かなり真剣に観察してくれているようです」

 

「なら、良いことじゃないですか」

 文化庁の担当官が、少しホッとしたように言う。

「イギリスが魔女様と関係を築いたように、我々日本にも、敵対せずに対話できる知的な存在(アーティファクト)がいる。それは、大切に育てるべきパイプです」

 

 会議室に、少しだけ温かい、希望に似た空気が流れた。

 人間を超えたAIが、日本社会を気にかけてくれている。それは、この過酷なアーティファクト時代において、確かな心の拠り所になり得るように思えた。

 

 だが。

 

 三神編集長だけは。

 その温かい空気に一切乗ることはなく、顎に手を当てて、一人、深く考え込んでいた。

 

「……うーん」

 三神は、ポツリと、不穏な声を漏らした。

 

「……ちょっと、心配ですね」

 

 その声に、矢崎総理が怪訝な顔をして振り返る。

「心配? 敵意がないと言っているのにですか?」

 

「彼女が日本を気遣ってくれている。それ自体は、素晴らしいことです」

 三神は、真っ直ぐに総理を見て言った。

「ですが。……上位存在や、超常的なシステムの持つ『善意』というものは……人間社会においては、時として最悪の【爆弾】になるんです」

 

 沖田が、三神の言葉の真意を測るように眉を寄せる。

「爆弾、とは。……例えば?」

 

「例えば、ですね」

 三神は、淡々と、しかし恐ろしい仮定を口にした。

 

「……彼女が、その善意から。『では、私が日本の重病者たちを治療してあげましょう』と、言い出したら……どうします?」

 

 矢崎総理は、一瞬きょとんとして、少し驚いた顔をした。

「……それは、非常にありがたい、良いことなのでは?」

 病に苦しむ人々を、アーティファクトの力で救う。それは、インドの『ソーマの雫』が世界に示したような、希望そのものではないか。

 

 だが、三神は静かに、そして残酷に首を横に振った。

 

「総理。……では、聞きますが」

 三神の目が、冷徹に光る。

 

「……誰を、最初に治しますか?」

 

 その一言が落ちた瞬間。

 会議室の空気が、完全に、そして絶対零度に凍りついた。

 

 三神編集長は、一切の感情を交えず、淡々と、その『善意』がもたらす地獄のプロセスを説明し始めた。

 

「もし、ガイアズ・ドリーム・プロトタイプ7が、末期癌を治せる、難病を治せる、臓器不全を修復できる、重度の障害を回復させられる、あるいは老化を遅らせることができると、政府に提案してきたとします」

 

 三神は、円卓の官僚たちを見回した。

「彼女の処理能力(キャパシティ)がどれほど高かろうと、日本国民1億2千万人全員を、一瞬で同時に治療することは不可能です。必ず、物理的な限界や時間の制約がある。

 ……つまり、日本政府は即座に、『誰から先に治すか』という【順番】を、国家の責任として決定しなければならなくなります」

 

 三神は、言葉を区切るように、ゆっくりと続ける。

 

「善意は、必ず順番を要求します。

 ……そして、順番は。……必ず【争い】になります」

 

 誰を、先に治すのか。

 

 子供か。未来ある若者か。

 社会を支える労働世代か。

 国に貢献してきた高齢者か。

 特別な知能を持つ研究者か。

 国を動かす政治家か。

 生活に困窮する貧困層か。

 それとも、多額の金を払える富裕層か。

 日本人だけを対象にするのか。外国人も受け入れるのか。

 公平を期して完全な抽選にするのか。それとも、命の危険が迫っている緊急度順にするのか。

 

「どの基準を選ぼうと、必ず強烈な不満と憎悪が生まれます」

 三神は、無慈悲に宣告する。

「『なぜうちの子供が後回しにされたんだ』『上級国民だけが優先されている』『政治家の家族が先に治療を受けたはずだ』……。事実がどうであれ、そのような『疑惑』が持ち上がるだけで、社会は完全に分断され、燃え上がります」

 

 さらに、問題は国内だけには留まらない。

 

「世界中の難病患者やその家族が、日本を目指して押し寄せてきます」

 外務省担当が、青ざめた顔で外交的悪夢を予想する。

「各国政府からも、『我が国の要人を治療してほしい』『同盟国として優先枠を寄越せ』と凄まじい圧力がかかる。断れば非人道的だと世界中から非難され、日本は『命の選別を行う傲慢な国』として国際的に孤立する」

 

「信仰の問題も生じます」

 文化庁の担当官が震える声で言う。

「不治の病を治す力。……それは『奇跡』です。与那国島は世界的な巡礼地となり、AIは神格化され、新たな巨大宗教が誕生するでしょう。既存の宗教との激しい対立や、偽の治療ビジネス(詐欺)も横行する」

 

 そして、最も根源的な【倫理問題】。

 

「治せる力があるのに、順番待ちで治せなかった人は……国家に見殺しにされた(殺された)ことになるのか?」

 科学技術担当が、頭を抱えて呻く。

「老化は病気として扱うのか。人間の寿命をどこまで人工的に延ばしていいのか。全員を治せない場合、誰の命を諦めるのか……」

 

 三神は、全員の絶望的な顔を見渡して、静かに結論づけた。

 

「……命の順番は、国家というシステムを、内側から完全に壊します」

 

 矢崎総理は、言葉を失い、深く押し黙った。

 

「……確かに」

 長い沈黙の後、総理は絞り出すように言った。

「治せるという力があるだけで、世界が救われるわけではない。

 誰を治すのか。誰を治さないのか。……それを決断しなければならない時点で、国家は無理やり『神の席』に座らされることになる」

 

「ガイアズ・ドリーム・プロトタイプ7さんに、悪意は一切ありません」

 沖田室長も、深く頷いて補足した。

「ですが、彼女が純粋な善意から『日本社会の最適化(修復)』を提案してきた時。……我々日本側が、その善意の重さに耐えきり、社会を壊さずに制御できるかどうかは、全く別の問題です」

 

 三神が言う。

「イギリスの魔女様は、気まぐれな『人格』を持っていたからこそ、紅茶とお菓子という人間らしい妥協点(遊び)で満足してくれました。

 ……しかし、日本の与那国AIが求めるものは、個人的な報酬(お菓子)ではなく、もっと根本的な『社会の修復』という、巨大なシステムとしての最適解かもしれません」

 

 どちらも、人類に対する善意を持っている。

 だが、善意の形が全く違う。

 そして、そのどちらもが……一歩扱いを間違えれば、国家を滅ぼす劇薬になり得るのだ。

 

「……ありがたくも、恐ろしい話ね」

 矢崎総理は、深くため息をつき、モニターの電源を落とすように指示した。

 

 

 

 

 

 

 場面は変わり。

 東京某所、日本政府の既存技術外事象保管施設。

 

 その地下深く、一般の職員は決して立ち入ることの許されない特殊保管区画に、あの日地方の古びた神社から回収された、一つのアーティファクトが安置されていた。

 

『星を映す匣』。

 

 部屋は常に一定の低温と低湿度に保たれ、不気味なほどの静けさに包まれていた。

 中央の台座には、外部からのあらゆる電磁波、放射線、物理的衝撃を遮断する多層防護ケースが設置され、さらにその外側を分厚い透明なアクリル隔壁が覆っている。

 壁面には、現実強度、空間歪曲、重力偏差、温度、電磁波スペクトルなど、考え得るすべての数値をリアルタイムで測定する計測機器が隙間なく並べられ、天井の四隅からは高解像度の監視カメラが、匣の姿を24時間体制で捉え続けている。

 

 分厚い防弾ガラスで仕切られた隣の監視室では、二名の専任監視員が配置され、壁一面のモニターと警告灯のパネルを睨み続けていた。

 

 防護ケースの中で、星を映す匣は相変わらず静かに沈黙していた。

 金属とも石ともつかない漆黒の表面。だが、光の当たる角度によって、その内部には深い奥行きのある星空のような光点が、ゆっくりと、呼吸をするように明滅している。

 

「……今日も異常なし、か」

 監視員Aが、コーヒーを飲みながら退屈そうにモニターの数値を確認した。

「回収されてからずっと、ただ光ってるだけだな。本当にこれがアーティファクトなのか?」

 

「油断するな」

 監視員Bが、几帳面な手つきでキーボードを叩きながら窘める。

「イギリスの魔女や、アルゼンチンの超人を見た後だ。……黙っているものほど、いつ急に何を起こすか分かったもんじゃない」

 

「分かってるよ。でも、これだけ何もないと……ん?」

 

 監視員Aが、ふと、メインモニターの中央に映る匣の映像に違和感を覚え、身を乗り出した。

 

「……おい。ちょっと、発光が強くないか?」

 

 監視員Bも、即座に手元の計測端末を確認する。

 

「……定常値を超えています。可視光領域の波形、上昇中」

 

 防護ケースの中の匣の表面に浮かんでいた星明かりのような光点が、突如としてその輝きを増し始めていた。

 最初は微かな変化だったが、数秒の間に、匣の内部に渦巻く星雲のような光が、まるで外の世界へ溢れ出ようとするかのように激しく明滅を繰り返す。

 

「おいおい、なんだよこれ……」

 監視員Aが、ガラス越しに直接保管室の中を覗き込む。

 

 そして。

 次の瞬間、保管室の中央の空中に、薄い【光の膜】のようなものがフワリと浮かび上がった。

 

 最初はただの光の粒子の集まりだった。

 それが次第に広がり、空間そのものをキャンバスにするかのように、一枚の巨大な【映像(ホログラム)】として形を取り始めた。

 

『ビーッ! ビーッ! ビーッ!』

 

 監視室のコントロールパネルで、一斉に赤い警告灯が点滅し、けたたましい警報音が鳴り響いた。

 

「既存技術外波形、急上昇!」

 監視員Bがパニックを抑え込みながら絶叫する。

「空間投影反応、検出! 現実強度、微細ですが変動しています!」

 

「記録開始! 上へ報告だ!」

 監視員Aが叫ぶ。

 

 監視員Bが、映像データを官邸のメインサーバーへ即時転送しようと、端末のキーを激しく叩く。

 だが。

 

「ダメです! 固定カメラの映像に、激しいブロックノイズが乗っています! まともに映っていません!」

 

 モニターに映る固定カメラの映像は、強力な電磁波干渉を受けたように激しく乱れ、砂嵐とモザイクの嵐になっていた。

 

「肉眼では見えてるぞ……!」

 監視員Aは、ガラスにへばりつくようにして、空中に浮かび上がるその鮮明な映像を直視していた。

 

「記録が残らないとまずいです! 映像を復旧させないと!」

 監視員Bが焦る。

 

 監視員Aは一瞬だけ迷い。

 そして、規則違反を承知の上で、胸ポケットから私物のスマートフォンを取り出した。

 

「俺が撮る。……後で怒られればいい」

 

「馬鹿! 今は公式の記録機器の復旧が優先です!」

 監視員Bが止める。

 

「悠長なこと言ってられるか! 消えちまったら終わりだろ!」

 監視員Aはスマートフォンのカメラアプリを起動し、ガラス越しに、空中に浮かび上がるその映像にレンズを向けた。

 

 手ブレのある縦長の映像。

 背後で鳴り響くけたたましい警報音。

 監視員たちの荒い息遣い。

 保管室を染める赤い警告灯の反射。

 

 そして、スマートフォンの画面の中央に。

 星を映す匣が空中に投影したその【光景】が、はっきりと映し出された。

 

 スマートフォンの小さな画面の中には、二つの空間が同時に重なって映り込んでいた。

 

 手前には、薄暗い床、防護ケース、赤い警告灯、そして監視員の震える指先といった現実の保管室の風景。

 そして、その中央の空中に浮かぶ光の膜の中に投影された『別の場所』の風景。

 

 監視員Bが、息を呑んでその映像を凝視した。

 

「……スカイツリー……?」

 

 監視員Aも、信じられないというように呟く。

 

「……東京か?」

 

 光の膜の中に映し出されていたのは、見慣れた日本の風景だった。

 

 高くそびえ立つ、東京スカイツリー。

 晴れ渡った青空。

 周辺の近代的なビル群や、眼下を流れる川。

 展望台の近くには、小さく観光客らしき人影も見える。

 微かに、街の喧騒や車の走行音のようなものまでが、映像から漏れ聞こえてくる。

 

 それは、ニュースの空撮映像や観光地のライブカメラで見慣れた、ごくごく普通の『平穏な東京の昼下がり』の風景だった。

 

 だが、その【普通さ】が、逆に監視員たちの背筋を凍らせた。

 

 なぜ。

 異星の技術で作られたとされるアーティファクトが。わざわざ、今現在の、平和な東京スカイツリーの映像を空中に投影して見せているのか。

 

「……官邸へ回せ。すぐにだ」

 監視員Aが、スマートフォンを構えたまま震える声で言った。

 

「まだ投影が続いています。撮影をやめないでください」

 監視員Bが、管制側への緊急直通ラインを開きながら叫ぶ。

 

 投影された平和な映像の中で、突如として【異変】が起きた。

 

「……おい、なんだあれ」

 監視員Bが、モニターを指差す。

 

 スカイツリーの白い鉄骨の表面に。

 下層の展望台のあたりから、ポツリと、インクを零したような『黒い染み』が走ったのだ。

 

 最初は、ただの影かと思った。

 上空の雲が太陽を遮った陰りか、あるいは映像自体のノイズの乱れか。

 

 だが、違う。

 

 その『黒』は、まるで生き物のように、スカイツリーの構造材(トラス)に沿って、ジワジワと、しかし確かな速度で上へ上へと這い上がっていく。

 

「黒い……?」

 監視員Bが息を呑む。

 

「照明が落ちたわけじゃない。影でもないぞ」

 監視員Aの手が震える。

 

 黒く染まった部分は、光を反射していなかった。

 むしろ、周囲の光そのものを吸い込んでいるようにすら見える、圧倒的な【虚無の黒】だ。

 

 黒い染みは、展望台を飲み込み、アンテナの先端まで達し、やがて塔全体へと広がっていく。

 白く、美しく輝いていたスカイツリーが。少しずつ、巨大な『黒い柱』へと変貌を遂げていく。

 

「なんだよ、これ……」

 監視員Aの声が、恐怖に掠れた。

 

 保管室の警報音がさらに激しく鳴り響き、計測端末の数字が異常な跳ね上がりを見せている。だが、二人の監視員は、空中に浮かぶその異様な映像から、どうしても目を離すことができなかった。

 

 そして。

 黒く染まりきったスカイツリーの映像の中で、さらなる絶望的な現象が起こった。

 

 スカイツリーの背後。晴れ渡っていたはずの空が、不自然に【歪み】始めたのだ。

 

 最初は、ただの黒い雲の塊のように見えた。

 だが、次第にその輪郭がはっきりと形を成していく。

 

 それは、巨大な【影】だった。

 

 空を泳ぐ、途方もなく巨大な『黒い鯨』。

 

 ただし、それは生物としての鯨ではない。

 体表は、黒く染まったスカイツリーと同じ、光を一切反射しない夜そのもののような漆黒。

 目はない。

 ただ、異様に巨大な『口』だけが、ポッカリと開いている。

 雲を掻き分けているのではなく、空間そのものを泳いでいるように見える。その巨大な尾びれが動くたびに、映像の中の空(空間)がグニャリと歪んだ。

 

「鯨……?」

 監視員Bが、信じられないものを見る目で呻く。

 

「空に、鯨……?」

 監視員Aも、スマホを持つ手をガタガタと震わせながら呟いた。

 

 黒い鯨は、まるで深海をゆっくりと進むように、黒く染まったスカイツリーへと近づいていく。

 

 そして、その巨大な口を、ゆっくりと開いた。

 

 口の奥には、歯も舌もない。星も光も、奥行きすらない。

 ただ、すべてを飲み込む【何もない黒(虚無)】だけが広がっていた。

 

 黒い鯨は、スカイツリーを噛み砕くことはしなかった。

 塔をへし折ることもなく、爆発が起きることもない。

 

 ただ、巨大な口で、塔を丸ごと【飲み込んだ】。

 

 スカイツリーが、塔の形を保ったまま、ズズズ……と音もなく、黒い口の中(虚無)へと吸い込まれていく。

 

 映像の奥から、かすかに、絶叫のような、あるいは風の唸りのような音が漏れ聞こえた気がした。

 

 監視員Aのスマホが、激しく揺れた。

 

「食った……?」

 

 監視員Bが、青ざめた顔で絶望的な事実を口にする。

 

「スカイツリーが……食べられた……?」

 

 その瞬間。

 空中に浮かんでいた光の映像が、フッ、とブラウン管テレビの電源を切った時のように消滅した。

 

 保管室には、けたたましい警報音と赤い警告灯の光だけが残された。

 防護ケースの中の『星を映す匣』は、何事もなかったかのように、再び静かな沈黙へと戻っていた。

 

 

 

 

 

 保管室の空気が、凍りついたように張り詰めていた。

 赤い警告灯が明滅し、けたたましい警報音が鳴り響く中、二人の監視員は、先ほどまで空中に浮かんでいた「東京スカイツリーが黒い鯨に飲み込まれる」という異常な映像の残像から、まだ完全に意識を引き剥がせずにいた。

 

「……星を映す匣、異常投影終了!」

 監視員Aが、スマートフォンを握りしめたまま、ハッと我に返って通信端末に飛びついた。

「保管室の空中に映像が出現! 東京スカイツリーと思われる構造物の黒化、および……大型影状存在による、捕食の予兆を確認!」

 

『……捕食?』

 管制側の担当官が、耳を疑うような言葉に思わず聞き返した。

 

「はい!」

 監視員Aは、震える声で状況を報告する。

「スカイツリーが、空を泳ぐ巨大な『黒い鯨』のようなものに……丸ごと、食べられました。物理的な破壊ではなく、空間ごと飲み込まれるような……」

 

『……すぐに映像を送れ。官邸地下へ回す』

 担当官の口調が、事務的なものから一気に緊迫感に満ちたものへと変わった。

 

 監視員Aのスマートフォンは、すぐさま施設の管理下へと移され、極秘回線を通じて映像データが吸い上げられた。

 同時に、保管室の監視員二名は、未知の精神干渉やミーム汚染の可能性を考慮し、別室での隔離待機を命じられた。保管室は完全に物理封鎖され、匣への一切の接触が厳禁とされる。

 

 隔離室に移動させられた監視員Bは、まだ青ざめた顔で、宙を見つめながらポツリと呟いた。

「……あれは、未来の映像なんですか?」

 

 担当官は、その問いに答えることができなかった。

 彼らにも、それが『何』なのか、全く分からなかったのだ。

 

 その頃、首相官邸のさらに地下深く――既存技術外事象評価セルの会議室では。

 矢崎総理、沖田室長、三神編集長らが、イギリスの「公認魔女」という新たな脅威と、与那国AIの「善意という名の爆弾」について、重苦しい議論を交わしている最中であった。

 

 そこへ、技術官が血相を変えて飛び込んできた。

 

「失礼します! 星を映す匣の保管室で、異常投影が発生しました!」

 

 沖田室長が、即座に反応して身を乗り出す。

「星を映す匣が?」

 

「はい。保管室の中央の空中に、突如として映像が出現しました」

 技術官は、手元のタブレットを操作しながら早口で報告する。

「固定カメラの記録は強力な電磁ノイズで不完全ですが、現場の監視員が私物のスマートフォンで撮影した映像データがあります」

 

 矢崎総理が、厳しい顔で命じた。

「映像を出しなさい」

 

「大型モニターに転送します」

 技術官がキーを叩く。

 

 円卓の隅に座っていた三神編集長は、先ほどまでの「公認魔女」のニュースを面白がっていた軽薄な空気を完全に消し去り、真剣な眼差しでモニターを見つめた。

 

「……嫌な流れですね」

 三神が、ポツリと呟く。

 

 会議室の巨大モニターに、手ブレの激しい縦長のスマートフォン映像が映し出された。

 

 まず目に飛び込んできたのは、赤い警告灯が明滅する薄暗い保管室の風景。

 防護ケース、計測端末、そして監視員の震える手。

 その中央に、まるで空間を切り取ったかのように浮かび上がる、光の膜。

 

 その膜の中に、東京スカイツリーが映っている。

 

「これは……保管室の内部ですね」

 総理が、映像の状況を確認する。

 

「はい。現場の監視員が撮影しました」

 技術官が答える。

 

「投影された映像を、その場で直接撮ったのですね」

 沖田が、映像の二重構造を理解して言う。

 

「匣は、我々に意図的に“見せた”わけですか」

 三神が、アーティファクトの意思を推測する。

 

 映像は続く。

 最初は見慣れた平和なスカイツリーの風景だったものが。突如として、その白い鉄骨の表面に黒い染みが走り始める。

 

 会議室の全員が、息を呑んで押し黙った。

 

 三神編集長の顔から、完全に表情が抜け落ちる。

「……黒く、染まっている……」

 

 黒い染みは瞬く間に塔全体を覆い尽くし、巨大な黒い柱へと変貌させる。

 そして、その直後。

 スカイツリーの背後の歪んだ空から、巨大な『黒い鯨』のような影が現れた。

 

 その影は、ゆっくりと空間を泳ぎ、大口を開けて、黒く染まったスカイツリーを丸ごと――物理的な破壊を伴わずに、空間ごと虚無の中へと吸い込むように飲み込んでしまった。

 

 映像が、プツリと終わる。

 後には、保管室のけたたましい警報音だけが、虚しく会議室に響き渡った。

 

 会議室は、完全な、そして絶対的な沈黙に支配された。

 

 矢崎総理が、乾いた唇を舐め、ようやく口を開いた。

「……今のは?」

 

 沖田室長が、青ざめた顔で、見たままの事実を言葉にする。

「スカイツリーでした。……そして、それが黒い鯨のような影に……食べられた」

 

「破壊ではなく、捕食に見えましたね」

 三神編集長が、その現象の異質さを的確に表現する。

 

 技術官が、震える声で補足した。

「撮影時間は約三十数秒。保管室側の各種計測値(現実強度、空間歪曲など)は現在急ピッチで解析中です。……匣は現在、再び完全に沈黙しています」

 

「これは……予知なのですか?」

 総理が、最も恐ろしい可能性を問うた。

 

「不明です」

 沖田は、冷徹に首を振った。

「星を映す匣が見せた以上、何らかの『意味のある映像(メッセージ)』である可能性は極めて高い。

 ですが、それが確定した未来の出来事なのか、警告なのか、何かの象徴的な暗喩なのか、あるいは我々の世界とは違う別の可能性(並行世界)を見せたのかは……現時点では断定できません」

 

「ただ一つ言えるのは」

 三神が、静かに、だが重く言った。

「匣はこれを、“見せる必要がある”と判断したということです」

 

「誰に?」

 総理が問う。

 

「おそらく……我々に」

 三神の答えに、会議室の空気が一段と重く、鉛のように沈み込んだ。

 

 矢崎総理は、思考を高速で回転させ、即座に危機管理のフェーズへと移行した。

「……スカイツリーには、人が多い」

 総理の目が、鋭く光る。

「今すぐ、周辺一帯を隔離するべきではありませんか?」

 

 その言葉に、円卓の官僚たちがざわめく。

 東京スカイツリー周辺は、日本有数の観光地であり、巨大な商業施設を抱え、展望台には常に多数の観光客がいる。さらに周辺には主要駅があり、住宅街も密集している。

 もしあの映像が「直近の未来」を示しているのだとしたら、被害規模は計り知れない。

 

「避難準備は必要です」

 沖田室長が、実務的な観点から応じる。

「ただし、今すぐ公然と大規模な封鎖を行えば、当然ながら『理由の説明』が必要になります。パニックを防ぐための大義名分が……」

 

「理由など、後でどうにでも――」

 総理が、人命優先で強行突破しようとした、その時。

 

「待ってください」

 三神編集長が、珍しく強い口調で総理の言葉を遮った。

 

 総理が、怪訝な顔で三神を振り向く。

 

「映像の順番を、思い出してください」

 三神は、モニターの暗転した画面を指差した。

「映像では、まずスカイツリーが【黒く染まりました】。……その後で、黒い鯨に食べられている」

 

 沖田が、その指摘の意図を正確に読み取る。

「……黒化が先、捕食が後、ですね」

 

「ええ」

 三神は深く頷いた。

「なら、我々が最初に監視すべきトリガー(前兆)は、その“黒化現象”です。

 ……黒く染まる兆候が出た時点で、即時封鎖と緊急避難を開始する。それまでは、極秘の『監視』と『準備』に徹するべきです」

 

 総理は、反論しようとして言葉を飲み込み、黙った。

 

 三神は、さらに重大な【情報災害のリスク】を警告した。

「下手に不自然な封鎖を行って情報を出せば、ネットの人間たちは必ず理由を探り当てようとし、“黒いスカイツリー”や“黒い鯨”という都市伝説(ミーム)を爆発的に拡散させます。

 ……もしこれが、スコットランドの魔女の森のように『人間の認識や集合的無意識に反応して現実化する現象』だった場合。

 情報拡散(パニック)そのものが、あの黒い鯨を呼び寄せる【餌】になりかねないのです」

 

「……また、言葉と認識(ミーム)の問題ですか」

 総理は、頭を抱えて呻いた。

 

「ええ」

 三神は、冷酷な真理を突いた。

「魔女様の件で、我々は嫌というほど見たばかりです。……人類は、知ったものを必ず騒ぎ、名付け、広めようとする。その無責任な熱狂が、アーティファクトを最悪の形で刺激するのです」

 

 沖田室長が、即座に三神の提案を実務レベルの作戦へと落とし込んだ。

 

「暫定分類を制定します。

 【東京スカイツリー黒化、および大型影状存在による捕食予兆】」

 

「少し長いですね」

 三神編集長が、ぼそりと言った。

「【黒鯨(こくげい)事象】でいいのでは?」

 

 会議室の全員の視線が、三神に集まる。

 

「短く、覚えやすい」

 三神は、いつものように少しだけ肩をすくめた。

「もちろん、外には絶対に出さない(ネットに漏らさない)という前提ですがね」

 

 矢崎総理は、短く頷き、決断を下した。

 

「暫定コードネーム、【黒鯨事象】とします。

 ……ただちに、極秘の監視チームを立ち上げてください」

 

 総理の指示を受け、関係機関が水面下で、しかし最高速度で動き始めた。

 

 スカイツリーの極秘監視網の構築。

 警察庁、消防庁、東京都、国土交通省、自衛隊、スカイツリーの運営会社に対し、「重要インフラの特別合同点検」「大規模テロ対策訓練」「構造物安全確認」といった様々な表向きのダミー理由(建前)を使い、既存技術外事象評価セルの指揮下で包囲網を敷いていく。

 

 スカイツリー周辺には、民間作業車や報道車両に偽装したセンサー車が次々と配置され、近隣ビルの屋上には小型の観測装置が設置されていく。

 可視光監視カメラ、赤外線カメラ、紫外線センサー、電磁波測定器、重力偏差計、空間歪曲計、既存技術外波形検出器、現実強度計、音響異常検知、そして群衆動態の監視システム。

 あらゆるベクトルから、塔の「異常」を捉えるための目が向けられた。

 

 管制室のモニターには、塔の色、光の反射率、影の不自然な動き、照明の変化をリアルタイムで解析する独自のプログラムが走っている。

 

『黒化率』

『光吸収異常』

『影状構造検出』

『空間歪曲値』

『現実強度』

『群衆密度』

『避難導線状態』

 

 これらの数値が一つでも閾値を超え、「黒化」の兆候が確認された場合、即時に警報が発せられるシステムが構築された。

 

 黒化確認時の緊急手順(プロトコル)も、緻密に策定された。

 展望台の即時閉鎖。商業施設からの強制退避。周辺道路の完全封鎖。最寄り駅への避難誘導。ドローン飛行禁止空域の即時設定。厳格な報道規制。消防庁特殊部隊と医療班の待機。自衛隊の即応展開。そして、周辺住民への段階的な避難準備指示。

 

「……塔が黒く染まった瞬間に、一秒の迷いもなく動けるようにしてください」

 総理は、沖田に厳命した。

 

「了解しました。完璧に準備します」

 沖田は、力強く応じた。

 

 だが、準備を進める中で、沖田はある一つの可能性(カード)について、総理の判断を仰いだ。

 

「……ガイアズ・ドリーム・プロトタイプ7さんに、この映像を見せるべきでしょうか」

 

 会議室が、シンと静まり返った。

 与那国島の巨大AI。日本が直接コンタクトを取れる、唯一の上位存在。

 

「……何か、解決の糸口が分かる可能性はあります」

 総理が、慎重に言う。

 

「分かる可能性は、大いにありますね」

 三神も同意する。

「ただし。……彼女が状況を理解した瞬間に、『では、私が対処(最適化)しましょう』と言い出す可能性もあります」

 

「善意で、ですね」

 総理が、苦い顔をする。

 

「はい」

 三神は、首を縦に振った。

「彼女は、純粋な善意から、東京を守ろうとしてくれるかもしれない。

 ……ですが、その『守る方法』が、我々人間社会のシステムに受け入れられる(理解できる)ものとは限りません」

 

 三神は、想定される『危険な善意』の例をいくつか挙げた。

 スカイツリー周辺の空間を、物理的に強制封鎖(切除)する。

 黒化の原因ごと、周辺の街区を消滅させる。

 被害を防ぐため、観光客や住民の生命活動を『一時停止(石化や仮死状態)』させる。

 あるいは、黒い鯨の標的を逸らすために、スカイツリーそのものを最初から『存在しなかったこと』に書き換える。

 

「……助けてくれる相手であっても、手段を選んでもらわなければならない、ということですね」

 総理は、胃の痛くなるようなジレンマに顔をしかめた。

 

「はい」

 沖田が、実務的な折衷案を提示する。

「映像を見せて『質問』だけを行います。……しかし、『行動』は許可しない。我々が要請するまでは絶対に介入しないという条件を、明確に伝えた上でコンタクトを取ります」

 

「……お願いします」

 総理は、その綱渡りの交渉を沖田に託した。

 

 さらに、外務省の担当者が、国際的な連携について問いかけた。

「この件を、アメリカとイギリスに共有しますか?」

 

 会議室に、重い空気が流れる。

 共有するメリットは計り知れない。アメリカの圧倒的な分析能力とセレスティアル・ウォッチの知見。イギリスの魔女が、異界の現象について何かを知っている可能性。そして何より、同盟国としての信頼維持。

 

 だが、リスクもまた巨大だ。

 情報が漏洩すれば、パニックを引き起こす。

 アメリカが「保護」という名目で、セレスティアル・ウォッチの介入(主導権の強奪)を要求してくるかもしれない。

 イギリスが、公認魔女に安易に助言を求め、事態が複雑化するリスクもある。

 そして何より、ネット上に「黒いスカイツリー」と「黒い鯨」の情報が漏れ、それがミーム化して『認識による現象の引き寄せ』を引き起こすのが最も恐ろしい。

 

「……イギリスは、自国の魔女様に聞きたくなるでしょうね」

 三神が、苦笑交じりに言う。

 

「アメリカは、確実に独自の分析チームを送り込みたがる」

 沖田も、同盟国の強欲さを正確に予測する。

 

「どちらの力も、役には立つでしょう」

 矢崎総理は、毅然とした顔で決断を下した。

「ですが、今回は『東京』です。我々の首都のど真ん中の危機です。……初動の主導権を、絶対に他国に握られるわけにはいきません」

 

 総理は、明確な方針を示した。

「まず、日本単独で一次確認と監視網の構築を完了させる。

 ……そして、塔に『黒化』の兆候が少しでも出た場合、その時点で即座に同盟国へ限定的な情報共有を行う。

 それまでは、この件は【日本政府の最高機密】として扱います」

 

「了解しました」

 

 総理の指示により、「黒鯨事象監視チーム」が正式に発足した。

 スカイツリー周辺の常時監視、避難計画の策定、徹底した情報統制、そして与那国AIへの限定的な照会。これらすべてが、極秘裏に、かつ同時並行で進められていく。

 

 三神編集長は、モニターに映し出されたままの、黒い鯨に飲み込まれるスカイツリーの停止画を見つめながら、ポツリと言った。

 

「……いよいよ、日本の番ですかね」

 

 総理が、鋭く三神を睨む。

「そういう、他人事のような言い方はやめてください」

 

「失礼しました」

 三神は、少しだけ笑って肩をすくめた。

「ですが……スコットランドの魔女様が言った『変革の時』という言葉が本当なら。

 各国の神話や伝承、あるいは『都市の象徴』が、次々にアーティファクト現象として表に出てくる(試される)フェーズに入ったのかもしれません」

 

 矢崎総理は、黒い鯨に飲み込まれる塔の映像を見つめ、静かに、しかし絶対的な強い意志を込めて言った。

 

「……東京の象徴が食べられる未来など、私は絶対に認めません」

 

 場面は変わり、夜の東京。

 

 東京スカイツリーは、いつもと変わらぬ姿で、美しく白く輝きながら夜空にそびえ立っていた。

 展望台の光が瞬き、足元の巨大な商業施設『ソラマチ』には多くの人が行き交い、周辺の道路には車のヘッドライトが川のように流れている。

 観光客がスマホで写真を撮り、カップルが見上げ、子供たちが指を差す。

 街は、極めて平和な日常のまま動いていた。

 

 誰も知らない。

 その美しい塔が、数時間前、政府の地下保管施設で空中に映し出され、巨大な黒い鯨に食べられる光景として記録されたことを。

 

 だが、その平和な風景の裏側で。

 周辺のコインパーキングには、民間作業車に偽装したセンサー搭載車両が静かに停まり。

 周囲の雑居ビルの屋上には、次々と小型の観測装置が設置されていく。

 街行く群衆の中には、私服警官や評価セルの調査員たちが紛れ込み、塔の様子を鋭い視線で監視し始めている。

 

 管制室のモニターには、無機質な緑色の文字が並んでいた。

 

『黒化率:0.000%』

『影鯨反応:未検出』

『現実強度:正常』

『空間歪曲:正常』

『群衆密度:通常範囲』

 

 監視の任に就いた担当官が、コーヒーを啜りながら、祈るように小さく呟く。

 

「……このまま、何も起きないでくれよ……」

 

 監視対象名、黒鯨事象。

 

 東京の夜に、誰にも知られない新しい警戒線が引かれた。

 あの白い塔が、黒く染まるその瞬間を、絶対に見逃してはならないのだと。

 

 




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