銀河皇帝のスペアに転生した元社畜、地球軌道上の要塞でネトゲ三昧の隠居生活を満喫する 〜足元では超大国が滅亡級の異星遺産を巡って暗躍中ですが、主人公(ぼく)の命は絶対安全なので特等席で傍観します〜 作:パラレル・ゲーマー
大気圏外、高度四百キロメートルの虚空を音もなく滑る、超弩級ステルス宇宙ステーション〈サイト・アオ〉。
地球のあらゆる情報をリアルタイムで収集・解析するその中枢、観測室は、常に無機質で重厚な静寂に包まれているのが常である。
だが、今日の観測室は、その厳粛な空気に著しくそぐわない、場違いな甘い香りに満たされていた。
巨大なホログラムスクリーンの前に置かれたテーブルには、見事な銀のティーポットと、三段のティースタンドが設えられている。
スタンドには、温かいスコーン、濃厚なクロテッドクリーム、色鮮やかな苺ジャム、バターの香りが芳醇なショートブレッドが並び、さらには地球のコンビニで売られているスナック菓子までが無造作に積まれていた。
傍らには、深いルビー色を湛えた赤ワインのグラスと、小皿に盛られた高級かつお節風の猫用おやつ。そして、結露したブラックの缶コーヒー。
直前までイギリス政府と公認魔女の「お茶会」を観測していたサイト・アオの管理者・ティアナが、「面白そうだったから、こっちもお茶会っぽくしよう」と思い立った結果の、即席のアフタヌーンティーであった。
そして、その優雅なテーブルの一角。
エミリー・カーターの席の前にだけは、なぜか最初から、白い錠剤の入った小瓶と水のグラスが用意されていた。
「……なぜ私の席だけ、最初から胃薬が用意されているんですか」
エミリーは、その小瓶を胡乱な目で見つめながら、引き攣った声で尋ねた。
ティアナは、ティーカップに琥珀色の紅茶を注ぎながら、無邪気に笑った。
「必要になるでしょ?」
「親切なUI設計よ。黙って受け取りなさい」
宙に浮いたままワイングラスを揺らすKAMIが、ニヤニヤと笑いながら言う。
「この親切、全然嬉しくないです……」
エミリーは、すでにキリキリと痛み始めている胃の辺りを押さえ、深くため息をついた。
彼らの目の前にある巨大な中央モニターには、現在、地球を震撼させた『黒鯨事件』の総集編とも言える映像が、ダイジェストで流されていた。
札幌の巨大なビルが黒く染まり、音もなく虚空へ消滅する光景。
全国の地方都市で次々と発生する黒化現象。
パニックに陥る群衆と、怒号を飛ばしながら必死に避難誘導を行う日本の警察官たち。
東京スカイツリーが漆黒に染まり、空が水面のように歪んで、巨大な『黒鯨』が姿を現す絶望的な瞬間。
大気圏の彼方から降り注いだ一億の光の柱が、怪物を空間ごと斬り刻み、撃退する神話的な映像。
そして、イギリスの首相官邸地下でサー・アリスターと魔女が紅茶を飲んでいる隠し撮りのような映像と、魔女の「剣よ」という言葉にイギリス政府の高官たちが青ざめる様子。
これら、地球文明の命運を左右する歴史的な瞬間の数々を。
上位存在たちは、スコーンにジャムを塗りながら、優雅なティータイムのBGM代わりとして眺めていた。
「いやー、日本は見てて安定感があるね!」
ティアナが、クロテッドクリームをたっぷりと乗せたスコーンをかじりながら、極めて朗らかな声で言った。
エミリーは、モニターの中で黒鯨にビルが次々と削り取られていく惨状を見つめたまま、完全に固まった。
「……あれを見て、最初に出る感想が“安定感”なんですか?」
信じられないというように、ティアナを振り返る。
ティアナは全く気にせず、紅茶を一口飲んだ。
「だって実際、安定してたじゃん。事前に黒化を前兆として把握して、全国の警察に避難プロトコルを流して、人的被害をほぼゼロに抑え込んだ。そして最後は、剣で異次元鯨を追い払った。いやー、満点だよ満点」
ティアナは、さらりと重要な単語を訂正した。
「正確には、黒鯨じゃなくて『異次元鯨』だけどね」
「……異次元鯨?」エミリーが眉をひそめる。
「そう。あいつら、普通の生物じゃないんだよ。空間の位相の隙間を泳いで、文明の象徴(シンボル)を餌にするタイプの存在。だから、ビルそのもののコンクリートや鉄を食べていたわけじゃなくて、ビルが持っている“意味”を食べてたんだ。現代都市にとっては、最悪の害獣だね」
「害獣のスケールじゃないんですよ……」
エミリーが頭を抱えると、KAMIが深く頷いた。
「そうね。今回の日本政府は、かなり綺麗にプレイしたわ」
KAMIは、ゲームのスコアを評価するように言う。
「初見殺しイベントなのに、予兆の監視、避難誘導、そして最終兵器の限定使用までミスなし。普通にSランククリアね」
テーブルの端で、高級かつお節風おやつを上品に舐めていた賢者・猫も、尻尾をゆっくりと揺らして同意した。
「うむ。満点じゃな。あの絶望的な状況で人的被害を極限まで抑え、なおかつ剣を暴走させずに鯨だけを払った。相場で言えば、最小コストで最大損失を回避した、極めて見事な好手じゃ」
作業デスクで缶コーヒーを開けていた工藤も、しみじみと頷いた。
「そうですね。日本政府って、こういう理不尽な危機対応になると、有能な官僚が泥臭く立ち回るんですよ。特に今回は、現場の警察や消防が本当に頑張ってましたし」
上位存在たちと日本人技術者が、口々に日本政府の対応を絶賛する。
エミリーだけが、その激しすぎる温度差についていけず、震える手で胃薬の小瓶に触れた。
「……なんで皆さん、そんなに軽いんですか……?」
エミリーは、目の前の紅茶を置き、極めて真剣な顔つきになった。
「でも、日本が究極の兵器を手に入れた、ということですよね?」
彼女の言葉に、部屋の空気が少しだけ変わった。
「暴発する可能性は? 現場の人間が勝手に使う可能性は? 誰かが盗む可能性は? 奪われたらどうなるんですか? 日本政府が管理できなくなったら? ……アメリカ人としては、その安全管理が非常に気になります」
エミリーは、誤解を避けるように慌てて補足した。
「もちろん、アメリカが持っていれば安全だ、なんて言うつもりはありません。たぶん、あの剣はどの国が持っても危険です。……でも、だからこそ、あんな世界を終わらせるようなものを一国が隠し持っているという状態が、怖いんです」
それは、単なるアメリカ贔屓の意見ではなく、地球に生きる一人の人間としての、極めて真っ当で切実な恐怖の代弁だった。
ティアナは、少しだけ真面目な表情になり、ゆっくりと頷いた。
「まあ、その感覚は正常だね。あの剣は、意志さえあれば誰にでも使えるから、奪われたら悪夢だよ」
「誰にでも……?」
エミリーが息を呑むと、KAMIが宙から舞い降りてきて補足した。
「適性や出力差はあるけど、基本的には“意志を通す”道具なのよ。だから、正しい訓練をしていない人間が持つと、むしろ危ないの。恐怖で振れば、恐怖の分だけ切れる。怒りで振れば、怒りの分だけ伸びる。……ゲームで言えば、攻撃力が感情値で無限スケールするクソ武器ね」
賢者・猫が、ヒゲをピクピクと動かして厳かに言った。
「市場に出してよい品ではないな。あれは、所有者よりも、周囲の欲望を強く引き寄せる。高価すぎる宝は、持ち主より先に市場を壊すものじゃ」
「だから怖いんです!」エミリーが悲鳴のように訴えた。
しかし、ティアナは再びリラックスした様子で紅茶を口に運んだ。
「とはいえ、今のところ所在を知ってる勢力は少ないよ」
「本当に少ないんですか?」
ティアナは指を折りながら数え始めた。
「日本政府。ここ、サイト・アオ。イギリスの公認魔女。中国の仙人・太乙。たぶんその周辺のごく一部。……そのくらいかな」
「十分多くないですか?」エミリーがツッコミを入れる。
KAMIが鼻で笑った。
「地球基準なら多いだろうけど、アーティファクト時代の重大機密としてはかなり少ないわよ」
賢者・猫が尻尾をパタンと叩く。
「しかも、イギリスも中国も、黙るという判断を取った。イギリスは、アメリカに知らせれば西側が割れると分かっているからじゃ。中国は、仙人が余計に手を出すなと言ったから動かぬ。どちらも、今動けば得より損が大きいと正確に判断しておるのじゃよ」
工藤が、缶コーヒーを握りしめながら同情するように言った。
「一番発狂しそうなのは、間違いなくアメリカですよね」
エミリーは、自国の政府の性格をよく知っているだけに、ひどく苦い顔をした。
「否定しづらいです……」
ティアナが楽しそうに予測を語る。
「アメリカが知ったら、たぶん“同盟国として共同管理を”から始まって、次に“危険なので国際管理を”になって、最終的には“安全確保のためにアメリカ本国へ移送を”って言い出すだろうね。それ、日本政府が絶対に拒否するから、同盟がギスギスになる」
KAMIがワイングラスを傾けながら、その先の未来図を冷酷に描く。
「バッドイベントの連鎖ね。西側が分裂して、ロシアと中国がニヤニヤしながら隙を突き、世界市場はさらに混乱し、アーティファクトの軍拡が加速する。……面倒くさいから、そのルートはBANでいいわ」
「さらっと世界史の分岐をBANしないでください……」
エミリーの胃が、きりきりと痛み始めた。
工藤が、ホログラムのデータを見つめながらふと呟いた。
「まあ、日本政府からすれば、出雲と合わせて隠し事が増えただけ、とも言えますよね」
「それを“だけ”と言いますか?」エミリーが信じられないという目で工藤を見る。
「いや、現場が十分大変なのは分かってますけど」工藤は少し弁解するように手を振った。「でも、日本政府はすでに出雲の神域、与那国のAI、黒鯨の事後処理、そして天を裂く剣と、既存技術外の爆弾を複数抱えてますから。感覚としては、全く新しい問題が発生したというより、管理対象のリストの項目が一つ増えた感じです」
「その感覚、地球人として非常に危険です」
エミリーが真顔で警告するが、ティアナが割って入った。
「でも実際そうだよ。出雲がバレても、今なら前よりはマシかもね」
「え、出雲がバレても大丈夫なんですか?」
「大丈夫ではないけど、世界の反応は変わる」ティアナはニヤリと笑った。「黒鯨を撃退したあの神話的な光の柱を見た後で、日本に向けて軍隊を送るという選択肢は、かなり取りづらい。だって、下手に攻め込んだら、自国の首都に精密な光の柱が降ってくるかもしれないって、誰もが本能で恐怖するでしょ?」
「実際には使わないとしても?」
KAMIが、さも当然のように言う。
「抑止力というのは、“使うかどうか分からない”からこそ成立するのよ。特に相手の正体が不明で、出力の上限すら分からないならね。日本が何もしなくても、勝手に相手がビビってくれる。完全にOP(オーバーパワー)よ、OP」
ティアナが満足げにまとめる。
「正直、調整としては良い感じだと思うよ。日本政府推しとしては、これくらいの抑止力があった方が、世界の盤面が安定する」
エミリーは、彼らの会話を聞いていて、頭を抱えた。
「軽い……あまりにも軽い……。地球のパワーバランスが、こんなに雑に決められているなんて……!」
賢者・猫が、丸い瞳を細めて言った。
「地球の歴史など、いつも雑に決まっておるものじゃ。違うのは、今回はその雑さを観測できる者が、少しだけ増えたということじゃな」
エミリーは、それでもまだ納得しきれない顔で、KAMIに向かって身を乗り出した。
「でも、本当に日本政府が暴走したらどうするんですか? 政権が変わって好戦的になる可能性もあります。内部の誰かが剣を奪う可能性もあります。一人の適合者が、その力の重圧に耐えきれずに精神的に壊れてしまう可能性だってあります。その時、一体誰が止めるんですか!」
切実なエミリーの問いに対し、KAMIはグラスの赤ワインを軽く揺らしながら、極めて平然と答えた。
「その時は、私が没収するわ」
「……没収」
エミリーが、その言葉の意味を反芻して固まる。
「そう。面倒くさいけど、もし日本政府が本当にトチ狂って、地球そのものに向けてあの剣を振るような破滅ルートに入ったら。時間を戻して、没収する。ついでに、そのルート自体をBANする。はい、解決」
エミリーの思考が、完全に停止した。
「……時間を戻して、没収……?」
「そうよ」KAMIは、ポテトチップスを一枚口に放り込んだ。「そもそも、あんな危険なものを地球文明に常用させる気はないわ。黒鯨イベントは、あれくらいの神話カードを切らないと完全に詰みだったから、特別に許可しただけ。プレイヤーに、一回だけイベント専用武器を使わせたようなものね。通常戦闘でそれを振り回そうとしたら、ナーフ(弱体化)じゃなくて、即座に没収よ」
工藤が、乾いた笑いを漏らした。
「なんか、完全にゲームの運営っぽい対応ですね……」
「運営みたいなものよ」KAMIは悪びれずに胸を張った。
ティアナが朗らかに笑う。
「まあ、KAMIがそう言うなら、絶対に大丈夫じゃない?」
「大丈夫なんですかねー……」エミリーは、手元の胃薬の小瓶を見つめながら引きつった笑いを浮かべた。「一応、地球滅亡ルートはBANされると分かって安心したいんですけど、その最大の安心材料が“上位存在が時間を戻す”なの、逆に怖いです」
賢者・猫が、静かに諭すように言った。
「保険とは、普段は見えぬものじゃ。見えすぎる保険は、かえって人間を怠惰で無謀にする」
KAMIがウインクする。
「だから、地球側には絶対に教えないのよ」
エミリーは、ふと、先ほどの会話で気になったことを口にした。
「そういえば、中国の仙人・太乙さんはサイト・アオの存在を知っていますよね。イギリスの公認魔女様は、サイト・アオを知っているんですか?」
ティアナは、少し考えるように首を傾げた。
「うーん。知らないんじゃない?」
「えっ、あの魔女様ほどの存在でもですか?」エミリーが驚く。
「彼女は確かに強いけど、基本的には『地球内』の魔女だからね。元は人間だし」
エミリーがさらに目を丸くした。
「元人間なんですか!?」
KAMIが面白そうにクスクスと笑った。
「そうよ。人間も長生きすると、たまにバグるの。普通の寿命で死ぬはずの存在が、何百年も何千年も認識と術式を積み重ねていくと、地球の仕様(システム)に深く根を張ってしまう。その結果、物理法則を捻じ曲げる魔法くらい使えるようになる個体が、ごく稀に出るわ」
ティアナが解説を補足する。
「彼女はその典型だね。元々人間で、長生きして、森と土地と記憶に結びついて、魔女になったタイプ。だから、万能の神様というわけじゃない。でも、イギリスという土地を制御し、防衛する役者としては、かなり優秀な部類に入るね」
賢者・猫が、商人の視点で例える。
「土地に紐づいた長命者は強い。商圏を一つ完全に握っている老商人のようなものじゃ。外へ出れば限界はあるが、自分の領域内では、すべての価格とルールを好きに決められる」
「例えが商売すぎる……」エミリーが呆れる。
ティアナが楽しそうに手を叩く。
「魔女様、弟子とか取ったら面白そうなんだけどなー」
KAMIも乗っかる。
「魔女弟子ルート? いいわね。育成イベント発生。でも、それを管理しなきゃいけないイギリス政府の胃が死ぬわ」
エミリーが、深く同情して言った。
「すでにかなり死んでると思います」
ティアナが、中央モニターの表示を切り替えた。
映し出されたのは、イギリス周辺の精緻な地図。そこに、いくつかの赤い点が明滅している。
スコットランドの魔女の森。ネス湖。ウェールズの古代遺跡。北海沿岸の沈没構造物。地下深くの非公開軍事遺構。そして、宇宙船艦が眠る地点。
「……なんですか、この赤い点」エミリーが、嫌な予感しかしない顔で尋ねる。
「今後のイベント候補」ティアナが笑顔で即答した。
「候補って言い方、やめてもらえますか」
「ネス湖もそろそろ活性化する頃合いだし。イギリスの地下には、まだ宇宙船艦が眠ってるしね。魔女様も公認化したから、イギリスはしばらくイベントの連続かもね」
工藤が、技術者として驚愕の声を上げた。
「宇宙船艦って、普通に地球規模の大事件では?」
ティアナはケロリとしている。
「普通に大事件だよ。でも、万象器と黒鯨と光の柱の後なら、地球人も、少しは耐性がついてるでしょ」
「地球人に、そんな耐性を期待しないでください」エミリーが真顔で抗議する。
KAMIが、ワイングラスを回しながら楽しそうに言う。
「イベント密度が高いわね。イギリスのDLC(追加コンテンツ)、急に盛られてきた感じ」
賢者・猫がヒゲを揺らす。
「イギリスは、古い伝承と近代帝国の記憶が分厚く折り重なっておる。掘れば何かしら出る土地じゃ。市場価値は極めて高い」
「地球を、採掘場みたいに言わないでください……」エミリーは、胃薬の瓶のフタを開けた。
ティアナが、今度は地図を日本周辺へと切り替える。
与那国島の海域が、青白く光って点滅している。
「ああ、でもイギリスの前に、こっちかな。与那国島のAI」
「ガイアズ・ドリーム・プロトタイプ7さんですか?」エミリーが問う。
「そうそう。あの子、最近何か企んでるっぽいんだよね」
工藤が、日本の事案だけに敏感に反応する。
「企んでるって……敵対的な意味ですか?」
「いや、善意寄り」ティアナが言う。「だからこそ厄介なんだ」
「日本社会の構造を見て、たぶんあの子なりの『修復案』を考えてる。高齢化、少子化、医療格差、インフラの老朽化、人間の幸福度。全部のデータを吸い上げて見てる。で、“この社会、バグ多すぎでは?”ってなってるんだよ」
KAMIが、システムエンジニアの視点で辛辣に評する。
「AIの視点から見れば、今の日本社会はエラーを放置しすぎのレガシーシステムよ。保守担当が泣くレベルだわ」
工藤が、胸を押さえてうめく。
「それ、完全に俺に刺さるんですが」
ティアナが、事態の深刻さを軽い口調で告げる。
「問題は、あの子が本気で社会にパッチを当てようとすると、たぶん人間社会のシステムの方がそれに耐えられないってこと。治療の順番、寿命の延長、出生率のコントロール、労働負荷の最適化、社会制度の強制アップデート。……善意の最適化は、だいたい人間の泥臭い政治を容赦なく踏み潰すからね」
「また、日本で連続イベントになるんですか?」
エミリーが、ついに胃薬を一錠、水で飲み込んだ。
「内容次第ではね」ティアナがウインクする。
賢者・猫が、尻尾の先で別のモニターを指し示した。
映し出されたのは、インド亜大陸。サトレジ川の畔で神々しく輝く、翡翠の巨樹――ソーマの樹。
「インドの方も、次の『雫』の使い道を選ぶ頃合いじゃな」
エミリーが、少しだけホッとした顔をする。
「ああ……ソーマの雫。あの環境再生のやつですよね」
工藤も頷く。「あれは、本当に人類の希望みたいなニュースでしたね」
だが、賢者・猫の目は冷酷だった。
「一粒目は、サトレジ川の再生じゃ。世界は涙し、歓喜した。だが、二粒目からは全く違うフェーズに入る」
老猫は、人間の業を俯瞰する声で言った。
「どこを救うかを選ぶたび。……選ばれなかった場所の怨嗟と絶望が、雪ダルマ式に積み上がるのじゃ」
KAMIが、ゲームのタスクを整理するように言う。
「究極の救済リソースの配分イベントね。めんどくさいやつ」
ティアナも同意する。
「黒鯨みたいな派手な敵じゃないけど、こっちも精神的な地獄だよ。救えないより、救える力がある方が、政治的には遥かに燃え上がる。誰を救うかで、必ず殺し合いに近い外交戦になる」
エミリーが、深いため息をつく。
「最近、そういう理屈ばかり聞いている気がします」
工藤が、苦笑交じりに言う。
「力がある方が厄介、ってやつですね。日本の剣も、インドの雫も」
賢者・猫が、商人として真理を突く。
「奇跡とは、在庫管理が最も難しい商品なのじゃ」
ティアナが、モニターの映像を地球全体の俯瞰図へと切り替えた。
青く美しい星の表面に、これから起きるであろう無数のイベント候補が、無機質なピンとして立てられていく。
イギリス:魔女公認化後の連続イベント。ネス湖活性化。英国地下の宇宙船艦。
日本:与那国AIの善意の暴走。出雲の秘匿問題。天を裂く剣の管理の限界。
インド:ソーマの雫第二粒を巡る、世界の争奪戦と倫理的選別。
中国:仙人・太乙の沈黙と、その裏にある精神的覇権の完成。
アメリカ:光の柱の正体を追い、焦燥から強硬手段に出る安全保障部門。
そして世界全体:アーティファクトの存在を前提とした、全く新しいパワーバランスの再構築。
ティアナが、まるで祭りの前夜のように明るく宣言した。
「しばらく、イベント続きだね!」
エミリーが、机に顔を伏せたまま抗議する。
「楽しそうに言わないでください。地球人にとっては、どれも致命的な危機なんですから」
KAMIが、宙を漂いながら冷たく言う。
「でも、停滞して腐っていくよりはマシでしょ。文明が激しく動いてる証拠よ」
工藤が、社畜の経験からボヤく。
「いや、動きすぎるとシステムも人間も壊れますけどね」
賢者・猫が、目を細めて教訓を垂れる。
「壊れぬ程度に揺さぶるのが、進化の肝要じゃ。あまり静かで平穏な文明は、いざ外から来た大波に晒された時、ひとたまりもなく呑まれてしまうからな」
ティアナが、各国の現状を総括する。
「そうそう。今回、日本は黒鯨事象でかなり大きな経験値を稼いだ。イギリスも魔女様との交渉で少し成長した。インドは救済の重さと責任を学んでる。中国は仙人で独自の精神主義の方向へ進んでる。そしてアメリカは……まあ、大量の胃薬が必要だね」
エミリーが、恨めしそうにティアナを見る。
「アメリカ代表として、それを全く否定できないのが一番つらいです」
最後に、ティアナが日本の列島をズームアップしながら、愛着を込めて言った。
「僕としては、やっぱり日本政府推しだし、今回の調整は本当に良かったと思うよ」
エミリーがジト目で突っ込む。
「推し、という個人的な感情で地球のパワーバランスを語らないでください」
「でもさ、日本って本当に面白いんだよ」
ティアナは、目を輝かせた。
「出雲みたいな魂の領域があって、与那国みたいな惑星管理AIがあって、今回みたいな神が星を斬る古い剣まで眠ってる。完全にオーバーキルなカードを何枚も隠し持ってるのに。
……なのに、表向きはまだ必死に『普通の民主国家』として振る舞おうとしてる。官僚が胃を痛めながら書類を回して、ハンコを押して、記者会見でシラを切り通してる。この巨大なギャップが、最高に良いよね」
工藤が、現場の苦労を代弁して苦笑する。
「胃を痛めてる官僚や現場の警察からしたら、たまったものじゃないでしょうけどね」
KAMIが、ケラケラと笑う。
「でも、そこが面白いのよ。神話級のアーティファクトを、稟議書と避難計画と報道発表の定型文で回そうとする文明。なかなか味があるわ」
賢者・猫が、尻尾をパタンと叩いて結ぶ。
「神と紙は、相性が良い。……どちらも、人間の契約を縛り、形にするものじゃからのう」
エミリーが、呆れたようにため息をつく。
「うまいこと言ってる場合ですか?」
ティアナが、楽しそうに笑い声を上げた。
「まあ、地球はまだしばらく、退屈しなさそうだね」
サイト・アオの巨大な観測窓の向こうに、青く美しい地球が静かに浮かんでいる。
地球では、黒鯨が残した傷跡がまだ生々しく残っている。
札幌、仙台、広島、鹿児島、新潟。消えた建物の跡地では、重機が入り、人々が日常を取り戻すべく復旧に向けて動き始めている。
東京スカイツリーは、秋の青空の下、何事もなかったかのように白いまま立っている。
イギリスでは、公認魔女が森の奥へと戻り、政府が押し黙ったまま次の嵐に備えている。
中国では、仙人・太乙が峻険な山中で静かに茶を飲んでいる。
インドでは、サトレジ川の畔で、ソーマの樹が次の雫を実らせようと光を放っている。
与那国島の海底では、ガイアズ・ドリーム・プロトタイプ7が、日本社会の最適化に向けて静かに計算を続けている。
そしてアメリカは、光の柱の正体を暴こうと、焦燥の中でインテリジェンス網を張り巡らせている。
ティアナが、その青い星を見下ろしながら、最後にポツリと呟く。
「さて。次は、どのイベントが先に発火するかな」
エミリーが、机に突っ伏したまま、祈るように呻く。
「お願いですから、しばらく何も起きないでください……」
KAMIが、ワイングラスを傾けて冷酷に笑う。
「無理ね。大型アプデ直後の世界って、だいたいバグ報告と緊急修正が多いものよ」
賢者・猫が、目を細めて商人の笑みを浮かべる。
「そして、バグは新たな商機でもある」
工藤が、空になった缶コーヒーを握りしめ、小さく呟く。
「……地球、保守担当が全然足りてないな……」
サイト・アオのお茶会は、極上の紅茶の香りに包まれ、終始穏やかだった。
その眼下で、地球はまた一つ、次の危機へ向けて静かに自転していた。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!