銀河皇帝のスペアに転生した元社畜、地球軌道上の要塞でネトゲ三昧の隠居生活を満喫する 〜足元では超大国が滅亡級の異星遺産を巡って暗躍中ですが、主人公(ぼく)の命は絶対安全なので特等席で傍観します〜   作:パラレル・ゲーマー

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第114話 日本政府と、黒鯨後の世界地図

 首相官邸のさらに地下深くに位置する、既存技術外事象評価セルの特別防音会議室。

 深夜の冷え切った空気の中、円卓を囲む政府首脳たちの視線は、壁面に設えられた巨大なメインモニターの一点に集中していた。

 

 そこに表示されているのは、強固な量子暗号プロトコルを経てワシントンD.C.から直接送信されてきた、アメリカ合衆国政府からの公式な外交文書の要約である。

 

『――日本政府および日本国民の、未曾有の危機における冷静な対応に深く敬意を表する』

『人的被害を最小限に抑えた貴国の危機管理能力を、合衆国政府は高く評価する』

『つきましては、黒化事象に関する避難プロトコルおよび初期対応マニュアルの共有を希望する』

『また、黒鯨または類似する既存技術外捕食現象が米国領土内で発生した場合に備え、早期警戒情報の共有、避難誘導のノウハウ、および【可能な支援措置】について、日米間で事前協議を行う枠組みを構築したい』

 

 矢崎総理は、デスクの上で両手を強く組んだまま、その無機質な文字列を何度も目で追い、やがて小さく呟いた。

 

「……意外ね」

 

 その一言に、会議室の空気を満たしていた見えない重圧の正体が凝縮されていた。

 

「はい。正直なところ、もっと強硬な姿勢で出てくると想定していました」

 既存技術外事象評価セルの実務責任者である沖田室長が、手元のタブレットから視線を上げて応じた。その目には、安堵よりも深い警戒の色が宿っている。

 

「最低でも、非公式なルートを使って“あの光の正体を教えろ”と迫ってくるのが、これまでのアメリカのやり方だと思っていましたがね」

 官房長官が、疲労で凝り固まった首筋を揉みほぐしながら苦笑した。

「あれほどの規格外の現象を東京の空で見せつけられたのです。彼らが何も聞いてこないこと自体が、逆に不気味に感じられますよ」

 

「文面を見る限り、彼らはあくまで『共同危機管理の確認』という枠組みの中に留まろうとしています」

 外務省の幹部が、外交官特有の慎重な口調で分析を述べる。

「あの光が何であったのか。日本がどんなアーティファクトを隠し持っているのか。それを国際管理へ移せ、あるいは米国にも使用権を認めろ……そういった、我が国の主権や機密の核心に触れるような要求(ワード)は、この文書からは完全に見事に排除されています。極めて慎重に言葉を選んで編まれた文章です」

 

 矢崎総理は、深く息を吐き出した。

 

「キャサリン・ヘイズ大統領らしいわね。感情的に踏み込んで日米関係に致命的な亀裂を入れるより、今、アメリカにとって一番必要な【協力】を確実に取りに来た」

 

 総理の指摘通り、日本側はアメリカからのもっとヒステリックな反発や、同盟国としての義務を盾にした強圧的な情報開示要求を覚悟していた。

 だが、蓋を開けてみれば、アメリカは驚くほど理性的だった。

 しかし、その理性の裏側には、「聞けない理由」があるはずだ。その計算高さが、日本政府の首脳陣に薄ら寒い違和感を抱かせていた。

 

「沖田室長。こちらからの回答案は?」

 総理が水を向ける。

 

「すでに叩き台は作成済みです」

 沖田が手元のコンソールを操作すると、アメリカからの文書の横に、日本政府としての回答案が表示された。

 

『一、黒鯨事象または類似の黒化・捕食現象が米国で発生した場合、我が国は早期警戒情報の共有に全面的に協力する。

 二、日本で使用した黒化建造物への接近禁止および避難プロトコルの一部を、米国向けの運用基準に整理して提供する。

 三、迎撃支援等の物理的介入については、事象の性質、発生場所、被害規模、現地の避難状況を総合的に勘案し、可能な範囲で【協議】する。

 四、なお、当該事象収束の要因となった現象の詳細については現在解析中であり、回答を差し控える。

 五、日本政府は、黒鯨事象を特定の国家に対するものではなく、人類共通の脅威と認識している』

 

 沖田は、レーザーポインターで回答案の第三項を示した。

 

「総理。迎撃支援については、決して“約束(コミット)”ではなく、あくまで“協議する”という表現に留めています。

 ……ですが、アメリカ側はこれを、『いざという時には、日本が光の柱で助けてくれる意思を示した(含みを持たせた)』と実質的に受け取るでしょう。外交的辞令としては、それが狙いです」

 

 矢崎総理は、その文面をじっと見つめ、静かに頷いた。

 

「それでいいわ。……もし本当に黒鯨がアメリカの都市に出現した時、我々が見殺しにすることはできない。あれは国家間のパワーゲームの道具ではなく、人類全体に対する災害なのだから」

 

「しかし、総理」

 防衛省の幹部が、国防の観点から深刻な懸念を口にする。

「支援をあまりにも広く約束しすぎれば、今後、アメリカ以外のあらゆる国から『我が国にもあの光を撃ってくれ』という要請が殺到します。我々は世界の用心棒ではありません。ましてや、あの剣は一歩間違えれば星を割る危険な代物です。ホイホイと他国のために撃てるようなものではない」

 

「だからこそ、言葉を選ぶのよ」

 総理の目は、冷徹な為政者の光を帯びていた。

「日本は、“世界中に光の柱を撃って回る国”ではない。

 ……あくまで、“黒鯨事象に関する共同危機管理の一環として、情報共有と支援措置を協議する国”である。

 その建前(境界線)だけは、絶対に崩さない」

 

 その時、円卓の隅に置かれたパイプ椅子から、楽しげな声が響いた。

 

「“撃つ”ではなく“支援措置を検討する”。“兵器運用”ではなく“既存技術外捕食事象への共同危機管理”。……いやあ、役所の言葉というのは、こういう時に本当に便利にできていますねえ」

 

 いつものよれよれのスーツを着た月刊ムーの三神編集長が、缶コーヒーを片手にニヤニヤと笑っている。

 

「便利というか、国家の命綱ですよ」

 官房長官が、三神の軽口に渋い顔で応じた。

「一つの単語の選び間違いが、そのまま国家の破滅に直結する時代です。建前を構築できなければ、我々はあっという間に世界の欲望に飲み込まれてしまう」

 

 沖田室長は、官房長官の言葉に同意しつつも、依然として拭いきれない疑問を口にした。

 

「それにしても。……アメリカが共同管理や技術の移譲を言い出さなかったのは、やはり意外です。

 彼らの背後にいるセレスティアル・ウォッチの連中なら、あの光の柱をただの『光学的現象(自然現象)』だなどと、一秒たりとも信じていないはずでしょう」

 

 三神編集長が、少しだけ姿勢を正し、真面目なトーンで答えた。

「ええ、もちろん見抜いているでしょうね。我々が『天を裂く剣』という神話の概念兵器を使っているとまでは特定できていないにしても……あれが単なる高エネルギー照射ではなく、対象の概念や情報構造を斬り裂くような、何らかの『概念兵器』に類するものであるとは、彼らの解析力なら確実に推定しているはずです」

 

「ならば、なおさら強硬に“詳細を教えろ”と要求してきてもおかしくないのではないですか」

 官房長官が問う。

 

「あの光が、黒鯨『だけ』を選んで消したからです」

 三神は、モニターに映る無傷の東京スカイツリーの画像を指差した。

「東京の街は焼けていない。スカイツリーの鉄骨一本すら折れていない。熱でも爆発でもなく、ただ標的だけを正確に空間から削り取った。……その『対象を指定した極めて高度な干渉』という事実に、アメリカのインテリジェンスは震え上がったはずです」

 

 三神は、手元のタブレットを操作し、メインモニターの端に新しいリストを表示させた。

 

『ホワイトハウス』

『連邦議会議事堂』

『ワシントン記念塔』

『自由の女神』

『エンパイアステートビル』

『ゴールデンゲートブリッジ』

『ウォール街』

『スペースニードル』

 

「……これは?」

 外務省の幹部が眉をひそめる。

 

「アメリカが誇る、巨大な『象徴(シンボル)』のリストです」

 三神は淡々と説明した。

「黒鯨は、日本の現代文明の象徴であるスカイツリーをメインディッシュに選びました。

 もし、文明の象徴を餌にするという性質があの怪物にあるのなら。……アメリカという国は、黒鯨にとってこれ以上ないほどの『巨大なビュッフェ会場』です。餌には全く困りません」

 

 防衛省の幹部が、息を呑んだ。

「……アメリカには、黒鯨に対する有効な対抗手段がない」

 

「その通りです」

 三神は頷いた。

「いくら彼らが『アポロン・ソード(ライトセーバー)』という最強の近接武器を手に入れようと、空を泳ぐ数キロの怪物には届かない。かといって、自国の象徴であるホワイトハウスや自由の女神に向かって、核ミサイルを撃ち込むわけにはいかない。そもそも、通常の物理兵器があの怪物に通じるという保証すら、どこにもないのです」

 

 三神は、リストを見つめながら冷酷な結論を口にした。

 

「となれば。……アメリカにとって、現在の日本は、“何を隠し持っているか分からない疑わしい同盟国”であると同時に。

 ……黒鯨に対抗できるかもしれない、【世界で唯一の窓口】なんです」

 

「……だから、今は剣の正体を教えろ、とは言えないのですね」

 矢崎総理が、深く理解したように言った。

 

「ええ」

 三神はニヤリと笑った。

「ここで下手な圧力をかけて日本を怒らせ、機嫌を損ねてしまえば。いざ自国の空に黒鯨が現れた時、“黒鯨対策の窓口”を完全に失うことになります。

 アメリカは、それを正確に計算した上で、プライドを飲み込んで『協力』を申し出てきたのでしょう」

 

「キャサリン・ヘイズ大統領は、そこまで理解した上で、自国の強硬派を抑え込んで踏み込まなかった」

 矢崎総理は、海を越えた同盟国のトップの顔を思い浮かべながら、感嘆とも畏怖ともつかない息を吐いた。

「本当に、恐ろしく優秀で、厄介な相手ね」

 

「味方で良かった、と言うべきでしょうか」

 沖田が、皮肉交じりに呟く。

 

「味方であっても、油断は禁物です」

 三神は、即座に釘を刺した。

「表の大統領府(ホワイトハウス)がどれほど理性的で計算高くても。裏の研究部門や情報機関、あるいは軍の一部が、その方針に完全に納得して諦めるとは限りません。

 ……世界を滅ぼせるかもしれない力を、他国が独占している。その事実に耐えられない人間は、アメリカの中枢にも必ずいます」

 

「セレスティアル・ウォッチ内部の強硬派、ですか」

 防衛省の幹部が、警戒を強める。

 

「当然いるでしょう。アメリカは決して一枚岩ではありません」

 三神は、コーヒーを一口飲み、静かに言った。

「表面上は友好的な顔をして協力を求めつつ、裏ではあの光の柱の正体を突き止め、あわよくば手に入れようと、あらゆるスパイ網を日本国内に這わせてくるはずです」

 

 会議室に、再びジリジリとした緊張感が戻ってきた。

 

 アメリカ対応の方針が一段落したところで、三神編集長が、ふと話題を変えるように口を開いた。

 

「それはそうと、皆さん」

 三神は、手元の分厚いファイルの中から一枚の報告書を引き抜き、円卓の中央に滑らせた。

「今、アメリカ以上に、中国で起きている【異変】について、ご存知ですか?」

 

「……何をですか」

 沖田室長が、胡乱な目で三神を見る。またオカルト雑誌の怪しいリーク情報か、という警戒感が官僚たちの顔に浮かぶ。

 

「また仙人関係ですか」

 官房長官が、あからさまに嫌そうな顔をした。

 

「ええ」

 三神は、悪びれることなく頷いた。

「中国の背後にいる上位存在――仙人・太乙と呼ばれている者が、中国の国家指導部に、新たな【宝貝(アーティファクト)】を授けたらしいのです」

 

 防衛省の幹部が、ガタッと音を立てて椅子から立ち上がりかけた。

「攻撃兵器ですか!? 日本の光の柱に対抗して、中国が新たな破壊兵器を手に入れたと!?」

 

「違います」

 三神は、手で制して否定した。

「……【治癒】の宝貝です」

 

「治癒?」

 矢崎総理が、予想外の言葉に眉をひそめる。

 

「はい」

 三神は、報告書を指でトントンと叩きながら説明した。

「名称は『混元一気宝珠(こんげんいっきほうじゅ)』。

 人間の生命の気を極限まで活性化させ、肉体の自己治癒力を、物理法則の壁を越えて引き出す宝貝だそうです。

 ……噂では、末期癌すら完全に治療できるとか」

 

「末期癌を!?」

 これまで静かに聞いていた厚生労働省の幹部が、信じられないというように叫んだ。

「そんな馬鹿な! 現代の医療技術を何世紀も飛び越えています! それは、インドの『ソーマの雫』のような、環境再生ではなく、個人の肉体に直接作用する治療アーティファクトということですか!?」

 

「はい」

 三神は、さらに信じがたい情報を投下した。

「しかも、その宝珠を使って。……中国指導部の仙人たち本人が、今、毎日北京や各地方の一般病院に出向いて、自らの気を削って患者を直接治療しているらしいんですよ」

 

 会議室が、水を打ったように静まり返った。

 

「……国家主席や党の最高幹部たちが、自ら病院に通って、一般市民の治療をしている?」

 外務省の幹部が、自分の耳を疑うように聞き返した。

 

「信じられませんが、事実のようです」

 三神は、タブレットを操作し、断片的な情報をモニターに箇条書きで表示した。

 

『・北京の総合病院で、多臓器転移の末期肺癌患者が数時間で劇的に回復した』

『・上海、広州、成都、西安、ハルビンでも、同様の説明不能な完全治癒例が連続して報告されている』

『・患者の家族がSNSで「仙人様が来て光る玉を胸に置いた」と語っているが、投稿は即座に国家のネット検閲により削除されている』

『・しかし、海外にいる親族や、現地の医療関係者の口を通じて、情報はすでに水面下で漏れ出している』

『・治療が行われる直前、病院の一般病棟に、明らかに党指導部レベルの要人が極秘で訪問している記録がある』

『・現在、海外の外国人富裕層や闇の医療ブローカーが、この情報を嗅ぎつけ、中国への入国ルートを探って浮き足立っている』

 

「……そして、ここが最も異常な点です」

 三神は、最後の項目を赤字で強調した。

 

『・現時点では、治療対象は【中国の一般国民が優先】されている模様。党高官や富豪の金による割り込みは、今のところ厳格に抑えられている』

 

 厚労省の幹部が、呆然と呟いた。

「……末期癌が数時間で治る。そんな奇跡の技術があるなら、世界中の富裕層が全財産を投げ打ってでも北京に殺到しますよ。一日でも早く治療枠を手に入れるために」

 

「中国がその治療枠を『外交カード』として使えば、とんでもない影響力になります」

 外務省の幹部が、地政学的なパワーバランスの変動を直感して顔色を変える。

「アメリカの制裁すら、命を人質に取られれば無力化しかねない。中国に逆らえば、自国の要人が病気になった時に治してもらえないわけですから」

 

「しかし……中国国民優先、ですか」

 沖田室長は、そこに最も強い違和感を覚えていた。

「以前の中国政府(中国共産党)の行動原理からすれば、到底考えられない展開です。ああいった強権的な国家が未知の超技術を手に入れれば、まず党幹部の延命に使い、次に軍の強化に使い、その余りを外交カードとして外国の富豪に高く売るのが定石のはず。

 ……一般市民への無償治療が先行しているなど、どういう風の吹き回しですか?」

 

 三神は、コーヒーカップを口に運び、ゆっくりと味わってから言った。

 

「そこが、面白いところです」

 

 三神の目は、単なる政治分析を超え、アーティファクトが人間の精神に及ぼす影響を深く観察する目になっていた。

 

「もちろん、これを単なる『美談』としてだけ見るのは危険です」

 三神は、冷静な視点も忘れない。

「『党が奇跡を起こして命を救う』という新しい神話が形成されれば、仙人化した指導部の権威は絶対的なものになります。国内統治の強化、人民への思想統制の究極系として、これほど強力なプロパガンダはありません。……政治的な打算は、間違いなくあるでしょう」

 

 三神は、言葉を区切った。

 

「ですが。……それだけでもないように見える」

 三神は、少しだけ感心したように言った。

「彼らは、仙人としての『修行』をしているのかもしれません。

 ……権力闘争や他国への威嚇ではなく。自らの気を削り、直接、民の命と向き合う。

 軍事国家であり、党の独裁国家でありながら……同時に、国家そのものが【修行する国家】へと変質しつつある」

 

「修行する国家……」

 矢崎総理が、その奇妙な響きを反芻する。

 

「これは、かなり厄介ですよ」

 三神は、笑みを消して言った。

「純粋な悪の独裁国家なら、まだ対応のしようがあります。利益と恐怖で動くからです。

 ですが、彼らが本気で『民を救うための仙道』を国家レベルで実践し始めたら。……彼らの行動原理は、我々西側諸国の民主主義や資本主義のロジックでは、全く読めなくなる。

 悪い意味だけではなく、良い意味でも……底知れない不気味さがあります」

 

 厚労省の幹部が、焦りを滲ませて発言する。

「しかし、もし中国の仙人たちが一日一人治療できるとして。四十六人いれば、一日に四十六人です。……国家の医療政策(十四億人の人口)としては、あまりにも少なすぎる数です。焼け石に水ではないですか」

 

「マクロな統計で見れば、そうでしょう」

 三神は頷く。「ですが、治療を受けた一人とその家族にとっては、まさに世界が根底からひっくり返るほどの【奇跡】です。その熱狂は、数字では測れません」

 

 矢崎総理は、深くため息をついた。

「……救える力があるからこそ。救われなかった人々が絶望し、不満を抱く。

 インドの『ソーマの雫』が直面している、救済の順番問題と全く同じジレンマね」

 

「奇跡は、分配された瞬間に【政治】になりますからね」

 三神は、身も蓋もない真理を突いた。

 

「我々日本への影響はどうなりますか?」

 沖田が、自国への火の粉を懸念して問う。

 

「日本にも、同様の医療アーティファクトがあるのではないか、と各国から疑われるリスクは常にあります」

 外務省幹部が答える。

「しかし、中国がこれほど分かりやすい『治癒の奇跡』を連発してくれれば。……世界の医療難民や富裕層の熱視線は、一気に北京へと向かうはずです。

 結果として、日本の与那国AI(医療機能)に対する国際的な圧力が、一時的に分散する可能性があります」

 

 矢崎総理は、皮肉な笑みを浮かべた。

「……皮肉なものね。中国の仙人たちが、図らずも我々の【盾】になってくれるかもしれないなんて」

 

「ただし、中国が医療外交を本格的に開始すれば、それはそれで西側陣営にとって全く別の致命的な脅威になりますがね」

 沖田が、冷水を浴びせるように言う。

「命の順番を握る国家は、軍事力とは別の形で、相手国を完全に支配できますから」

 

「いずれにせよ」

 総理は、中国対応の方針を決定した。

「混元一気宝珠に関する情報確認は、最優先で継続してください。中国国内の異常治癒例、外国人治療枠の設定の有無、富裕層や医療ブローカーの動向。……すべてを継続監視。

 そして、日本の医療系アーティファクト(与那国)に話が飛び火しないよう、我々の対外発言は引き続き慎重を期すこと」

 

「了解しました」

 

 中国の驚くべき変貌についての議論が一段落したところで、官房長官が、ふと思い出したように話題を振った。

 

「そういえば。……EUとヘルメス協会の動きはどうなっていますか?

 ロンドンの万象器オークション以降、彼らは少し影が薄い印象を受けますが」

 

 その問いに、三神編集長が、少しだけ意味深に目を細めた。

 

「目立った成果は、今のところありません」

 

「ない?」

 経産省の幹部が、意外そうに聞き返す。

 

「ええ」

 三神は、指を折って世界地図の状況を整理し始めた。

「日本は、黒鯨を光の柱で退けた。

 中国は、仙人化し、治癒の宝珠を得て民を救い始めている。

 イギリスは、スコットランドの魔女を公認化し、独自の上位存在とのパイプを築いた。

 インドには、環境を再生させるソーマの雫がある。

 アメリカは、セレスティアル・ウォッチという巨大な解析機関を持ち、ライトセーバーを実戦配備しようとしている。

 ……世界の主要な極が、次々と目に見える『神話の力』を誇示している中で。

 EUだけが、未だに『規制案の作成』と『国際倫理委員会の立ち上げ』という、お上品なペーパーワークだけでこの時代を乗り切れるはずがありません」

 

「規制案と倫理委員会は、国際社会において非常に大事な役割ですが……」

 官房長官が、ヨーロッパの伝統的な外交手法を擁護しようとする。

 

「もちろん、平時であれば大事です」

 三神は、冷酷に切り捨てた。

「ですが。空から怪物が降ってきて都市を食い散らかそうとしている時に、倫理委員会は避難誘導をしてくれません。……法案の紙切れでは、サイボーグの装甲も貫けない」

 

「言い方」

 沖田が、三神の露悪的な表現を短く窘める。

 

 三神は肩をすくめた。

「EUの首脳陣や、特に裏で糸を引くヘルメス協会は、今、猛烈に【焦っている】はずです」

 

「焦り、ですか」

 矢崎総理が、その言葉の持つ危険性を直感する。

 

「ええ。他国が次々と超常の力を手に入れていく中で、自分たちだけが取り残され、ただの『ルールを口うるさく言うだけの無力な存在』に転落していく恐怖。

 ……だから彼らは、探しているはずです。いや、探さざるを得ない」

 

 三神は、ヨーロッパという土地が持つ、古い歴史の闇を指摘した。

「欧州には、中世から続く古い契約や、魔術的な封印、錬金術の伝承が山のように眠っています。

 焦った人間は、得てして『開けてはいけない蓋』を開けがちです。……欲しい力を探すあまり、地下で眠っていた致命的な問題を不用意に掘り起こす可能性が、極めて高い」

 

「……」

 矢崎総理は、深く息を吐き出した。

「EUとヘルメス協会については、目立った成果なし。ただし、焦りから水面下で危険な探索活動を強めている可能性が高い。

 外務省は、在欧大使館や情報機関、学術ルートを通じて、彼らの動向確認を徹底しなさい。もし欧州で新たなアーティファクト事案が発生した場合は、速やかにアメリカとも情報共有を検討すること」

 

「承知いたしました」

 

 沖田室長が、会議の総括として、ホワイトボードに各国の現状と役割を素早く書き出していった。

 

【日本】

 ・天を裂く剣、出雲、与那国。

 ・黒鯨事象の対応経験。

 ・役割:神話災害への最終対応札(剣)を持つが、安易には使えず、秘匿と協力のバランスに苦慮する。

 

【アメリカ】

 ・セレスティアル・ウォッチ、衛星観測網、軍事解析能力。

 ・役割:観測・解析・早期警戒の要。ただし黒鯨などの概念災害への直接的な有効打を持たず、日本への支援要請を余儀なくされている。

 

【イギリス】

 ・公認魔女、スコットランド低現実強度領域。

 ・役割:土地に紐づいた上位存在との、紅茶外交を通じた新たな対話(共存)モデルの確立。

 

【中国】

 ・仙人指導部、太乙、混元一気宝珠。

 ・役割:仙人国家化。治癒宝貝による限定的だが強烈な医療奇跡の独占と、それによる「修行する国家」への変質。

 

【インド】

 ・ソーマの雫、ソーマの樹。

 ・役割:環境救済の象徴。ただし、無限の需要に対する「誰を救うか」という地獄の選別(救済順位問題)を抱え込む。

 

【EU・ヘルメス協会】

 ・目立った成果なし。

 ・役割:未定。ただし、焦りから欧州由来の契約・錬金・境界系アーティファクトの危険な水面下探索を行っている可能性大。

 

 官房長官が、ホワイトボードに書き連ねられたその異様なリストを見て、深く、深くため息をついた。

 

「……世界中で、まるでバーゲンセールのように、奇跡の在庫が増えていますね」

 

 沖田室長が、マーカーを置き、無表情のまま応じた。

「ええ。我々がそれを、安全に在庫管理できればいいのですが」

 

「奇跡の在庫管理、ですか」

 三神編集長が、その言葉を聞いて、面白そうにクスクスと笑った。

「実に、人間らしい、官僚的な素晴らしい表現です」

 

「笑い事ではありません」

 沖田が、冷たい視線で三神を射抜く。

 

「笑っていませんよ」

 三神は、笑みをスッと消し、極めて真剣な声で言った。

「むしろ、そこが今の世界で一番の【致命的な問題】なんです」

 

 三神は、ホワイトボードのリストを指差した。

「奇跡は、ただそこにあるだけでは救いになりません。

 ……誰が管理するのか。

 誰が使うのか。

 誰に使うのか。

 そして……【誰には使わないか】。

 

 それを決めるための明確な『制度(ルール)』がなければ……奇跡は、ほんの数秒で、最も凄惨な争いの種(兵器)に変わります」

 

 矢崎総理は、三神の言葉を重く受け止め、静かに、しかし為政者としての強い意志を込めて言った。

 

「……黒鯨は去った。

 でも、世界は静かになるどころか、完全に次の段階(フェーズ)に入っている。

 日本だけが、剣を抱えて部屋の隅で黙って震えていれば済む時代は、もう終わったわ。

 ……我々自身が、その制度を作る側(プレイヤー)に回らなければならない」

 

「その制度ができる前に、次の致命的な事故が起きそうですがね」

 沖田が、悲観的な現実を口にする。

 

「怪異というものは、人間の法律や制度の完成を、おとなしく待ってはくれませんからね」

 三神が、肩をすくめる。

 

「待ってほしいですね……本当に」

 官房長官が、胃の痛みに耐えかねて呻いた。

 

 ***

 

 会議終了後。

 深夜の官邸地下の白く冷たい照明が照らす廊下を、沖田室長と三神編集長が並んで歩いていた。

 

 二人の足音だけが、無機質に響く。

 

「三神さん」

 沖田が、前を向いたまま、少しだけ疲れた声で口を開いた。

「……黒鯨というあんな規格外の化け物を倒したら、少しは、ほんの少しは世界が落ち着くと思っていました」

 

 三神は、缶コーヒーを開けながら、淡々と答えた。

「怪物を倒すと、その『怪物を倒した力』の巨大さに、世界が恐怖し、反応します。

 ……そして、その世界の騒がしい反応を見て。……別の、もっと深いところで眠っていた『古いもの』が、目を覚ます。

 怪異の世界では、全く珍しくない連鎖反応ですよ」

 

「国家運営という現実の仕事で、それを言われても困ります」

 沖田が、深いため息をつく。

 

「でしょうね」

 三神は、一口コーヒーを飲み、苦笑した。

 

 二人は、廊下の曲がり角に設置された、世界中のインテリジェンス・データを統合表示している壁面モニターの前で立ち止まった。

 

 モニターの中央では、巨大な世界地図がゆっくりと回転している。

 

 アメリカからの、黒鯨再発時の日米協議要請。

 中国の、混元一気宝珠による異常治癒例の広がり。

 イギリスの、公認魔女と結んだ沈黙の契約。

 インドの、ソーマの雫の第二粒形成に向けた世界の争奪戦。

 EUの、ヘルメス協会による非公開の探索活動の活発化。

 そして日本が抱える、天を裂く剣の重すぎる秘匿。

 

 沖田は、その地図を見つめながら、静かに呟いた。

 

「……世界が、どんどん『神話の在庫表』みたいになっていく」

 

「在庫表なら、まだマシですよ、沖田室長」

 三神は、モニターの光を受けて眼鏡を光らせながら言った。

 

「何がマシなんですか」

 

「在庫表があるということは……少なくとも、棚卸し(現状把握)ができるということです」

 

 沖田は、言葉を失い、押し黙った。

 

 三神は、モニターの暗い海(未開の地)の部分を見つめ、静かに、そして残酷な真理を告げた。

 

「本当に怖いのは……。

 棚に何があるのか、誰の所有物なのか、どんな機能があるのか。

 ……誰も分からないまま、突然、スイッチを押されて使われることです」

 

 沖田は、疲労の極みに達したような顔で、目を細めた。

 国境線という人間の作った脆い線の上に、今や、兵器の線、治癒の線、契約の線、信仰の線が、無秩序に、そして暴力的に重なり合って書き殴られている。

 それを正確に読める者は、今の地球上にはまだ誰もいない。

 

「……次は、何が起きるんでしょうね」

 沖田が、独り言のように呟く。

 

 三神は、すぐには答えなかった。

 残りのコーヒーを飲み干し、空き缶をゴミ箱に放り込んでから。

 少し間を置いて、飄々とした声で言った。

 

「起きる前に、見つけたいものですね」

 

 その言葉は、決して慰めではなかった。

 

 官邸地下の白い照明の下で、沖田は初めて、世界地図というものがただの国境だけでできているわけではないのだと、腹の底から実感した。

 いま、その地図には、怪物と奇跡と、人間がまだ名前をつけていない『何か』の線が、静かに、しかし確実に増え続けていた。

 

 読める者はいない。

 だが、国家を背負う彼らは、血を吐いてでもそれを読まなければならない。

 読まなければならない者だけが、ただ絶望的に増え続けている。

 

 




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