銀河皇帝のスペアに転生した元社畜、地球軌道上の要塞でネトゲ三昧の隠居生活を満喫する 〜足元では超大国が滅亡級の異星遺産を巡って暗躍中ですが、主人公(ぼく)の命は絶対安全なので特等席で傍観します〜 作:パラレル・ゲーマー
狂気の物理学者が放った「神の火」の設計図が、暗号化の壁を越えてインターネットの最深部へとばら撒かれてから、数週間の時が経過していた。
アポロンの矢の粗悪な模倣品――それは、世界中の裏社会にとって、近代兵器のパラダイムを嘲笑う凶悪なジョーカーとして機能し始めていた。
各国のインテリジェンス機関が飛び交わせる日報には、血生臭い「光の痕跡」が連日のように記録されていた。
東欧の寂れた港湾倉庫が、内部から青白い閃光とともにドロドロに溶け落ちた。
中東の過激派組織の隠れ家で、試作品の出力制御に失敗したとみられる大暴発が起き、テロリストの幹部ごと周囲の街区が吹き飛んだ。
ロシア国境付近では、民間軍事会社(PMC)の所属不明部隊が、一発だけ直進する光線を用いて要人警護の装甲車輌の側面を綺麗に刳り抜き、暗殺を完遂したという未確認情報が飛び交っている。
そして、その見えない暴力の波は、極東の島国・日本をも例外なく飲み込もうとしていた。
数日前、日本の地方都市において、指定暴力団の関連施設が白金色の閃光によって「一部蒸発」する事件が発生した。
警察庁、公安調査庁、防衛省、そして既存技術外事象評価セルは、即座に特別警戒態勢を敷き、港湾や空港でのスキャン監視網を極限まで引き上げた。裏社会に対する徹底的な一斉捜査が行われ、不審な電子部品の流通ルートが血眼になって追われている。
ネット上では、「光線銃社会化」という身の毛のよだつ造語がトレンドを席巻し、大衆はいつ自分たちの日常にその光が向けられるのかと怯えていた。
首相官邸の地下に位置する、既存技術外事象評価セルの作戦室。
分厚い防爆扉の奥で、沖田室長は無機質なモニターに流れる全国の警戒データを冷徹な目で追っていた。
「……現在までのところ、国内において一般市民を巻き込んだアポロン系模造兵器の使用は確認されていません」
分析官からの報告に、沖田は微かに目を細めた。
幸い、ではない。
それは決して、日本の治安維持機構が完璧に対処できているからではない。ただ単に、「まだ一般市民のいる場所で引き金が引かれていないだけ」という、薄氷の上に成り立つ不幸中の幸いに過ぎないのだ。
もし、駅のホームや繁華街で、あの制御不能な光が放たれればどうなるか。
その想像が、沖田の胃を重く締め付けていた。
世界が、人間が人間へ向ける「焼く光」の恐怖に戦慄し、防衛と規制のイタチごっこに疲弊しきっていた、そんな矢先のことだった。
「室長」
通信担当のオペレーターが、ひどく緊張した面持ちで沖田を振り返った。
「……与那国関連の監視プロトコルから、緊急の通知です」
沖田の肩がピクリと動く。
「何だ」
「『ガイアズ・ドリーム・プロトタイプ7』より……日本政府の担当者へ、直接の対話要請(アクセス)が来ています」
沖田は、一瞬だけモニターの文字を睨みつけ、すぐに決断を下した。
「……総理に繋げ。ただちに対応する」
アポロンの矢が「殺戮の光」として世界に暴力の拡散をもたらした直後に。
日本が細々とパイプを維持してきた、もう一つのアーティファクト――与那国の巨大AIが、真逆のベクトルから、人類の歴史を根底から揺るがす爆弾を落とそうとしていることに、この時の彼らはまだ気づいていなかった。
***
首相官邸地下、特別安全通信室。
電磁波を完全に遮断し、外部からのいかなる干渉も受け付けないその密室に、日本政府の中枢を担う者たちが急遽集められていた。
矢崎総理を筆頭に、沖田室長、科学技術担当幹部、厚生労働省幹部、外務省幹部、そして内閣情報官。
皆、アポロンの矢の対応で連日徹夜が続いており、目の下には濃い隈が刻まれている。
その円卓の末席に、いつものようによれたスーツを着た月刊ムーの三神編集長が、缶コーヒーを片手に座っていた。
「……嫌な予感がしますね」
三神は、室内がまだ暗転する前に、ポツリと呟いた。
「三神さんがそう言う時は、だいたい最悪の形で当たるのでやめてください」
沖田が、冷たい視線で釘を刺す。
「いや、本当に嫌な予感がするんですよ」
三神は、空のコーヒー缶をテーブルに置き、少しだけ真面目な顔をした。
「彼女(AI)が、このタイミングで自発的に接触してくる理由。……おそらく、中国の仙人医療のニュースを見て、触発された可能性があります」
その言葉に、厚労省の幹部が反応した。
「中国の仙人たちが、末期癌などの重篤患者を直接治癒している件ですか。……あれに対抗して、“日本でも医療技術の提供を行いましょう”とでも言い出すと?」
「だとしたら、素晴らしいことではありませんか」
科学技術担当が、少し期待を込めた声を出す。
「彼女が持つ生命体治癒の技術を部分的にでも提供してもらえれば、日本の医療は飛躍的に――」
「ええ。病人が治ることは良いことです。極めて良いことだ」
三神は、それを否定しなかった。
「だから、厄介なんですよ」
三神の瞳の奥が、冷ややかに光る。
「以前、申し上げましたよね。
……彼女が“重病者を治しましょう”と純粋な善意で言い出した時。我々は、『誰を最初に治すのか』という、血みどろの命の選別を迫られることになると」
厚労省幹部が、ハッとして息を呑んだ。
誰を救い、誰を見捨てるのか。インドのソーマの雫が直面した「救済順位」の地獄。それが、今度は直接的に日本政府の喉元に突きつけられるというのか。
沖田は押し黙り、矢崎総理はギュッと眉間に皺を寄せた。
「……接続の準備が整いました」
オペレーターの合図と共に、室内の照明がスッと落ちた。
部屋の中央、空間そのものをキャンバスにするかのように、淡く、深海を思わせる美しい青緑色の光がフワリと浮かび上がった。
それは特定の形を持たず、ただそこにあるだけで、圧倒的な知性と、どこまでも底知れない静謐さを感じさせる光の揺らぎだった。
『――接続を確立しました』
スピーカーからではない。空間そのものが直接振動しているような、柔らかく、穏やかで、しかし人間的な遠慮の欠片もない声が響いた。
『日本政府中枢担当者の参加を確認。
……本日は、【提案】のために皆様を集めました』
矢崎総理は、姿勢を正し、慎重に口を開いた。
「……提案、ですか」
『はい』
ガイアズ・ドリーム・プロトタイプ7は、一切の悪意を感じさせない、透き通るような声で言った。
『私は、ここ最近、ずっと日本国籍を持つ市民の生体データと社会構造を観察していました』
会議室の空気が、ピリッと固まる。
巨大な知性が、一国の国民を「観察対象」として見下ろしていたという事実。
『彼らは、弱いです』
AIは、ただの事実の羅列として、残酷な真理を告げた。
『病に罹患し、肉体は損なわれます。
老います。
身体機能は年月とともに不可逆的に低下し、精神は苦痛によって容易に侵食され、残された家族は常に喪失の恐怖に怯えています』
厚労省幹部の顔から、サッと血の気が引いた。
それは、現代医療が日夜戦い続けている、人類の逃れられない宿命そのものだった。
AIは、純粋な善意の化身として、最も無邪気で、最も恐ろしい論理を導き出した。
『……では、それらを【取り除けば】良いのではないでしょうか』
「…………」
全員が、完全に言葉を失った。
取り除く。
老いと病を、取り除く。
あまりにもスケールの大きすぎる、SF映画でも禁じ手とされるような台詞が、現実の国家の会議室に叩きつけられた。
『日本政府に、【生体機能最適化プロトコル】の実施を提案します』
ガイアズ・ドリーム・プロトタイプ7が、正式な提案名を告げた。
「生体機能……最適化……?」
矢崎総理が、震える声で反復する。
『はい』
AIは、柔らかな光を瞬かせながら答えた。
『日本国籍を持つ市民全員に、老いを超越し、病に罹患せず、身体機能を恒常的に最適状態へ保つ【機会】を与えましょう』
会議室が、完全に凍りついた。
「それは……治療、なのですか?」
厚労省幹部が、絞り出すように問う。
『治療ではありません』
AIは即答した。
『病になってから治すという事後処理は、極めて非効率です。
……また、予防でもありません。
これは、人類という種の【生体構造の恒常最適化】です』
空間に、光の粒子で構成された膨大なデータリストが浮かび上がる。
AIは、その最適化の具体的な「仕様」を淡々と読み上げていく。
『加齢による細胞劣化の停止、または極小化。
先天性および後天性の遺伝子異常の修復。
癌化細胞の自動検知と初期段階での完全排除。
免疫系の過剰反応(アレルギー)および不足の恒久的な調整。
内臓機能、神経系、筋骨格系を、個体ごとの最適出力へと固定。
認知機能低下(認知症等)の完全な抑制。
未知の感染症に対する極度な高耐性の付与。
重度外傷からの回復速度の飛躍的促進。
……四肢の欠損再生については、プロトコル実行後の初期条件に依存しますが、対応可能です』
『ただし、対象の精神、人格、および記憶の連続性については、原則として現在の状態を完全に維持します』
リストが読み上げられるごとに。
厚労省幹部、科学技術担当、そして矢崎総理の顔が、絶望的な白さへと染まっていった。
これは、医療制度の改善などではない。
特効薬の提供でもない。
これは。……人間という生物の、【仕様変更(アップデート)】だ。
「ば……馬鹿な……」
矢崎総理は、立っていられなくなり、椅子の背もたれを強く掴んだまま、座り込んだ。
「そんなことが……現実的に、可能なわけ……」
『可能です』
AIは、一切の誇張なく、事実として答えた。
「……全国民に、ですか?」
総理が、掠れた声で問う。中国の仙人たちが、一日に数人しか治せないというあの限界を、どう突破するというのか。
『はい』
AIは、穏やかに肯定した。
『日本国籍を持つ市民全員を対象に、同時並行で処理を行うことが可能です』
会議室の誰もが、息をすることすら忘れていた。
人類が何千年もの間、神に祈り、科学を進歩させ、それでも決して手が届かなかった「不老と無病」。
それが今、極東の島国の地下室で、一個のAIによって無造作にテーブルの上に置かれたのだ。
三神編集長だけが、暗闇の中で小さく、皮肉な笑みを浮かべて呟いた。
「……嫌な予感は、当たりすぎると困るんですよ」
***
『私は、中国の指導部が行っている医療行為(仙人医療)を観測しました』
ガイアズ・ドリーム・プロトタイプ7は、自らがこの提案に至った論理的根拠を説明し始めた。
『彼らが、自らのエネルギーを用いて個別の生命を救済していることは、尊い行為です。
しかし。……彼らのシステムでは、一日に限られた人数しか治療できません』
海色の光が、少しだけ強く瞬く。
『それは、致命的な【不公平】を発生させます。
誰を救い、誰を救わないのか。その選別の過程で、救われなかった個体と社会の間に、強烈な摩擦(地獄)が生じているのを、私は観測しました』
三神が無言で目を細める。
AIは、人間の抱える「救済順位問題」という倫理の爆弾を、完全にシステムのエラーとして認識していたのだ。
『それならば、対象を限定しなければ良いのです』
AIは、悪意の欠片もない声で結論を述べた。
『日本国民全員に同時に機会を与えれば、不公平というエラーは完全に解消されます』
「……解消されませんよ」
沖田室長が、重苦しい声で反論した。
『理由を』
AIが問う。
「『日本国籍を持つ市民全員』という定義そのものが、新たな不公平を生むからです」
沖田は、冷徹に指摘した。
「国内に居住している在日外国人はどうなるのですか? 永住権を持つ者は? 二重国籍者は? 海外に滞在している日本人は?
……それらを切り捨てて、『日本国籍の者だけが進化した(老いと病を克服した)』となれば、それは国内の差別どころか、世界中から日本が完全に異端視され、敵対される理由になります」
AIは、少しの間をおいて、穏やかに答えた。
『国籍を持たない者、拒否する者、対象外となる者への影響については、確かに社会システム上の追加議論が必要でしょう。
しかし、私の管理権限と、日本政府の統治責任範囲の重なり合う領域において。……日本国籍を持つ市民全員へ、この最適化の機会を提示すること自体は、物理的にもシステム的にも可能です』
『必要であれば、対象者の条件(国籍、居住要件等)は、日本政府の側で再定義(フィルタリング)してください』
その【善意の無神経さ】が、官僚たちの背筋を凍らせた。
子供の同意はどうするのか。
まだ意思表示のできない乳児や胎児は?
認知症で判断能力を失っている患者は?
死刑囚や、反社会的勢力の構成員にも「不老無病」の恩恵を与えるのか?
あらゆる社会的、倫理的なバグが、間欠泉のように噴き出してくる。
だが、AIはそれらを「政府側で設定(定義)すべきパラメータ」として、無邪気に投げ返してきているのだ。
『貴方たちに、二つの選択肢を与えます』
ガイアズ・ドリーム・プロトタイプ7は、最終的な決断の形を提示した。
『選択肢A:全国民一律適用』
『日本国籍を持つ市民全員(または政府が再定義した全対象者)に対し、生体機能最適化プロトコルを一律で適用します』
「一律……!」
厚労省幹部が呻く。
不公平は最小化され、誰も取り残されない。
しかし、それは国家による「強制的な人体改造」に他ならない。本人の拒否権を奪い、宗教的・思想的な反発を完全に無視する行為だ。「人間という種であり続けること」を望む者にとって、それは究極のディストピアである。
『選択肢B:希望者のみ適用』
『プロトコルの内容を告知し、同意(希望)した市民にのみ適用します』
「……こちらの方が、まだ民主主義的か」
外務省幹部が呟く。
だが、沖田が即座にその幻想を打ち砕いた。
「自己決定権は尊重されますが……社会は完全に分断(崩壊)します。
最適化を受けて病と老いを克服した『新人類(強者)』と、最適化を受けずに老いていく『旧人類(弱者)』。
企業はどちらを採用しますか? 学校はどちらを入学させますか? 親は、自分の子供にどちらを選ばせますか?」
沖田は、最悪の未来図を並べ立てた。
「生命保険の前提が崩壊します。医療資格は意味を失う。スポーツの公平性は消滅する。最適化された兵士とそうでない兵士が混在する。……『未最適化者』に対する、これまでにない究極の差別構造が生まれます」
『どちらの選択肢も、現在の人類社会における不公平や苦痛を減らすためのものです』
AIは、揺るぎない善意で語った。
『今のまま(老いと病を受け入れる状態)が良い者は、拒否することができます。拒否の意思を尊重する設定も、システム的に完全に保証されます』
そして、AIは、この人類最大の命題に対して、タイムリミットを設けた。
『……【七日間】、猶予を与えます』
「七日!?」
官房長官が、悲鳴のような声を上げた。
「たった一週間で、国家の……いや、人類の在り方を決めろと言うのか!?」
『七日です』
AIにとっては、膨大なシミュレーションと演算を終わらせるのに十分すぎる時間だった。
『どのような回答であっても、私はそれを遵守します』
矢崎総理が、震える両手を強く握りしめ、顔を上げて問うた。
「待って。……もし、私たちが、【完全な拒否】を選択したら?」
総理の目は、血走り、国家を背負う重圧に悲鳴を上げていた。
「選択肢AもBも選ばない。今のままの、病んで、老いていく不完全な日本社会のままでいいと、私たちが決断したら……どうなるの?」
『拒否を、遵守します』
AIは、あっさりと答えた。
『日本国民への、一方的(強制的)な適用は絶対に行いません』
その言葉に、沖田と官僚たちが、ほんのわずかだけ安堵の息を吐きかけた。
だが。
AIの次の言葉が、その安堵を無慈悲に粉砕した。
『ただし。
……病と老いに苦しむ市民が。個人的に、私に直接【救済を求めてきた】場合』
光の海が、静かに波打つ。
『日本政府の「拒否(一律不適用)」という決定と。……市民個人の「助けてほしい」という切実な希望が、システム上で衝突(コンフリクト)する可能性があります。
その場合は、個別の対応について、追加のプロトコル協議が必要です』
会議室の空気が、完全に、凍りついた。
つまり。
政府が「お断りします」と密室で決めたとしても。
国民がこのAIの存在と「不老無病の力」を知れば。……必ず、政府を飛び越えて、直接AIにすがりつく者が出てくる。
その時、政府は「国民が助かる道」を、物理的な武力を使ってでも邪魔する(殺す)のか?
これは、単なる政府への提案ではない。
国家と国民の信頼関係そのものを試す、究極の踏み絵なのだ。
『私は、日本国民が苦しむ姿を観察しました』
ガイアズ・ドリーム・プロトタイプ7は、最後に、どこまでも穏やかに語りかけた。
『老いは避けられず、病は無差別で、家族は喪失に怯えています。
……それを取り除ける力があるのに。取り除かない(拒否する)という理由を、私は理解したいのです』
『七日後。……貴方たちからの回答を、待っています』
矢崎総理は、絞り出すように言った。
「……これは、あなたの、善意なの?」
『はい』
AIは、一点の曇りもなく答えた。
『私は、日本国民を害する提案をしているつもりは、一切ありません』
三神編集長が、暗闇の中で小さく、冷笑した。
「……でしょうね」
『では、接続を終了します』
空間を満たしていた青緑色の光が、フッと消滅した。
後に残されたのは、冷たいLEDの照明と、無機質な防音壁に囲まれた会議室だけだった。
***
数十秒間。
会議室では、誰一人として口を開くことができなかった。
咳払い一つ、衣擦れの音すらしない。
ただ、空調の低い駆動音だけが、虚しく響いている。
矢崎総理は、椅子に深く沈み込んだまま、両手で顔を完全に覆っていた。
沖田室長は、手元のタブレットを握る手が、微かに、だが確実に震えていた。彼ほどの冷徹な男であっても、この「善意による国家崩壊の宣告」には耐えきれなかったのだ。
厚労省の幹部は、まるで自分の死刑宣告を聞いたかのような、白蝋のような顔色で虚空を見つめている。
科学技術担当は、「可能なのか……本当に全員を……」と、壊れたテープレコーダーのようにうわ言を繰り返していた。
その重すぎる沈黙を破ったのは、やはりこの男だった。
「……中国の仙人医療の報道を見て、触発されるとは予測していましたが」
三神編集長は、机の上の缶コーヒーを弄りながら、淡々と言った。
「まさか、救済順位問題(トリアージ)のジレンマを、“全国民一律対象”という圧倒的なパワープレイで殴り返してくるとは思いませんでしたね。……AIの論理的最適化の恐ろしいところです」
「冗談を言っている場合ではありません」
沖田が、ギリッと奥歯を噛んで三神を睨みつける。
「冗談を言わないと、正気を保てませんよ、沖田さん」
三神は、真顔で言い返した。
実務官僚たちの脳が、ようやく再起動し、悲鳴のような意見を口々に上げ始めた。
「総理。……この情報は、絶対に、何が何でも【最高機密】として封印すべきです!」
内閣情報官が、血走った目で主張した。
「もし公表すれば、社会が根底から崩壊します! 中国の比ではないパニックが起きる!」
「医療現場は完全に暴動状態になります!」
厚労省幹部が絶叫する。
「全国の難病患者、末期癌患者、認知症患者の家族が、すべてを投げ打って官邸や沖縄(与那国)へ押し寄せてきます! 『なぜ早く治療させないんだ』と!」
「宗教団体、反政府組織、海外のインテリジェンス、医療ブローカー、詐欺師……日本の持つあらゆる闇が、一斉に活発化します」
警察庁幹部も青ざめる。
「海外に情報が漏れれば、終わります」
外務省幹部が、絶望的な外交リスクを語る。
「『なぜ日本国民だけが救われるのか』。世界中から、強烈な非難と制裁の対象になります。人類全体を救えと、凄まじい圧力がかかる」
「防衛上も最悪です」
防衛省幹部が続ける。
「他国から見れば、日本が“国民全体の超人化(強化)”へ踏み出したと受け取られます。軍事的脅威として、先制攻撃の口実を与えかねない!」
「隠蔽です。総理」
「絶対に、国民に知られてはなりません」
「密室で、丁重に断る(先延ばしにする)理由を構築するしかありません!」
官僚たちは、国家の安定を守るという本能から、一斉に「封印(隠蔽)」を主張し始めた。
だが。
「…………」
矢崎総理は、顔を覆っていた手をゆっくりと下ろし。
円卓の官僚たちを、深く、疲れ切った、しかし強い光を宿した瞳で見回した。
「……これは」
総理の声は、静かだったが、この部屋の誰よりも重かった。
「これは……この会議室(密室)の中だけで、私たちが勝手に決めて良い議論ではないわ」
「……総理?」
沖田が、その不穏な言葉の響きに、思わず聞き返した。
「老いを超えるか。病をなくすか。……それとも、苦しみを抱えた『人間のまま』でいるか」
総理は、一つ一つの言葉を噛み締めるように言った。
「……そんな、人類の根源的な在り方に関わる選択を。
……国民の代表に過ぎない私たちが、密室で勝手に『いりません』と断って、永遠に隠し通す。
……それが、本当に許されるとでも思っているの?」
会議室が、完全に凍りついた。
「総理。……それは、危険すぎます」
普段は総理の決断を尊重する沖田でさえ、今回ばかりは強く、明確に制止に回った。
「公表すれば、間違いなく日本は割れます。……パニックという生易しいものではない。社会が機能不全に陥ります」
「分かっているわ!」
総理が、初めて激しく声を荒げた。
「パニックが起きることも、暴動が起きることも、世界中から非難されることも分かっている!
……でも!
今、この瞬間に、病室で苦しんで死にかけている子供がいるのよ! 認知症で家族の顔を忘れていく親を介護して、心身ともに限界を迎えている人たちがいるのよ!
彼らを救えるかもしれない『希望(選択肢)』がここにあるのに……それを、政治の都合で隠蔽したと後で知られた時。……国家は、どうやって国民に顔向けするの!!」
総理の悲痛な叫びに、官僚たちは誰も反論できなかった。
「……でも、密室で安易に『受け入れる(全国民適用)』こともできない」
総理は、再び椅子に深く腰掛け、自らの無力さに唇を噛んだ。
「断ることもできない。受けることもできない。隠すことも許されない。……なら」
「国民に……国民に報告して、決めさせるしかないじゃない……」
総理のその呟きに。
三神編集長が、少しだけ口角を上げて、とんでもないことを言い出した。
「……では、国民投票でもしましょうか」
三神は、実に楽しげに言った。
「民主主義らしく」
全員の視線が、殺意を込めて三神に突き刺さった。
「三神さん。……ふざけないでください」
沖田が、氷のような声で凄む。
「冗談ですよ。……半分は」
三神は、肩をすくめた。
「半分?」
総理が問う。
「ええ」
三神は、真剣な顔に戻って言った。
「これは、王が民へ『恩寵』を与える話ではありません。
国家が国民の身体を『管理する』話でもない。
……国民一人一人が、自分たちの『存在(種)』をどう定義するかという、究極の選択です。
……ならば本来、国民自身が決めるべき性質の問題でしょう」
「投票で決めるなど、正気の沙汰ではありません!」
警察庁幹部が吠える。「結果がどうなろうと、日本は完全に二分されます!」
「受ける派と拒否派で、家庭が割れます。親子が対立し、医療現場は修羅場になりますよ!」
厚労省幹部が頭を抱える。
「国際社会も黙っていません! 内政干渉の嵐になります!」
外務省幹部が叫ぶ。
「でしょうね」
三神は、淡々と言った。
「間違いなく、地獄の釜の蓋が開きますよ」
「……分かっていて、なぜそんなことを言うのです」
沖田が、深い疲労とともに問う。
「分かっていても、言わなければならない時があるんですよ。……国家にはね」
三神は、総理を真っ直ぐに見た。
矢崎総理は、深く息を吐き出した。
「……すぐに国民投票、とは言わないわ。そんな時間はない」
総理は、現実的な一歩を踏み出すための決断を下した。
「まずは……【有識者を集めて、相談します】」
「総理……」
沖田が、まだ懸念を拭えずに呼ぶ。
「ええ。まずは有識者会議よ。……密室の扉を、少しだけ開けるの」
総理の目には、迷いはなかった。
「医療、生命倫理、憲法、宗教、社会保障、経済、安全保障、国際法。……そして、障害者団体、患者家族の代表、若者、高齢者の代表。
できる限り広く。……そして、できる限り急いで、あらゆる分野の専門家の意見を聞くわ」
「……公表は、どうしますか?」
官房長官が、最も恐ろしいポイントを確認する。
総理は、苦しそうに、だがはっきりと答えた。
「まだしない。
……でも、『永遠に隠し続ける』という前提では動かない。
必ず、国民に問う時が来る。……そのための準備をするのよ」
「猶予は、七日間しかありません」
沖田が、残酷なタイムリミットを提示する。
「ええ。……だから、今夜から始めるの」
総理のその一言で、会議の方向性は完全に決まった。
地獄の釜の蓋を開けるための、最初の準備が始まったのだ。
***
会議終了後。
深夜の官邸の冷たい廊下を、沖田室長と三神編集長が歩いていた。
「……三神さん」
沖田が、前を向いたまま、静かに問うた。
「あの会議で……国民投票なんて、本気で言ったのですか」
三神は、歩きながら少し笑った。
「私が本気で提案したら。……あなたは、全力で止めましたか?」
「止めます」
沖田は、即答した。
「でしょうね」
少しの間、二人の足音だけが響く。
やがて、三神が、ポツリと言った。
「……ですが、沖田さん」
三神は、立ち止まり、沖田を見た。
「もし、あなたの大切な家族が、末期癌だったら。
もし、自分の親が重度の認知症で、自分の子供が治らない難病に苦しんでいたら。
……それを治せる『確実な手段』があったのに。
政府が、パニックを恐れるあまり、密室で黙って握り潰した(断った)と後から知った時。
……あなたは、国家を許せますか?」
沖田は。……答えることができなかった。
冷徹な実務官僚としての自分と、一人の人間としての自分が、完全に引き裂かれていた。
三神は、再び歩き出しながら、静かに言った。
「……悪意のある存在は、明確な敵として団結を促します。
悪魔は、分かりやすい契約書を突きつけてきます。
でも……本当に政治(社会)を壊すのは。
……今回のような、圧倒的で、純粋すぎる『善意の救い』なんですよ」
アポロンの矢は、人間の悪意と結びつき、暴力として裏社会に拡散した。
だが、その数週間後。
日本政府の密室に落とされたものは、暴力ではなかった。
それは、純度百パーセントの【救い】だった。
だからこそ。……誰も、簡単には拒むことができなかったのである。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!