銀河皇帝のスペアに転生した元社畜、地球軌道上の要塞でネトゲ三昧の隠居生活を満喫する 〜足元では超大国が滅亡級の異星遺産を巡って暗躍中ですが、主人公(ぼく)の命は絶対安全なので特等席で傍観します〜 作:パラレル・ゲーマー
【序章 会見予告、18:00】
世界が「アポロンの矢」の粗悪コピー流出という見えない暴力の拡散に震え上がり、各国のインテリジェンス機関が暗闘を繰り広げている最中。
極東の島国・日本から、唐突に一通の短い政府告知が発せられた。
時刻は午後6時。
秋の気配が深まり、空が釣瓶落としのように暗くなり始める時間帯。帰宅ラッシュでごった返す品川駅のコンコースや、渋谷のスクランブル交差点の大型ビジョン、そして数千万台のスマートフォンのプッシュ通知に、内閣官房からの無機質なテキストが一斉に表示された。
『本日20時、内閣総理大臣より、日本国民の皆様に対し、重要な報告があります。
本件は国民生活、医療、安全保障、国際社会に重大な影響を及ぼす可能性があります。
会見は全放送局、政府公式配信、自治体広報網で同時中継されます』
この、たった数行のテキストが流れた瞬間。
日本列島を覆っていた日常の空気は、一瞬にして完全に凍りついた。
これまでの日本政府は、アーティファクト絡みの事案において、可能な限り情報をコントロールし、事後報告や「光学的現象」といった曖昧な建前でパニックを防ぐことに徹してきた。
その政府が、わざわざ事前に時間を指定し、全放送局での同時中継を予告し、あまつさえ「国民生活、医療、安全保障、国際社会に重大な影響を及ぼす」などという、すべての破滅を詰め込んだような最上級の警告文を出してくるなど、久しぶりであった。
帰路を急ぐサラリーマンたちは駅のホームで足を止め、スマートフォンの画面を食い入るように見つめた。スーパーで夕飯の買い物をしていた主婦は、カゴを持ったままテレビ売り場の前に立ち尽くした。
日本のインターネット空間は、瞬く間に処理能力の限界を超えるほどのトラフィックを叩き出し、恐怖と疑心暗鬼の濁流へと変貌した。
[X(旧Twitter) / タイムライン]
@News_Watcher_JP
重要な報告って何!?
また黒鯨!? それとも東欧でばら撒かれたアポロンの矢(光線銃)が、ついに日本国内で大規模なテロに使われるって予告でもあったのか!?
@Corporate_Slave_00
「国民生活、医療、安全保障、国際社会」って、影響及ぼす範囲デカすぎだろ。
ジャンル全部盛りじゃん。どれか一つでも国が傾くレベルなのに、四つ揃うとか怖すぎる。
@Mil_Spec_00
安全保障と国際社会は分かる。アポロンの矢の件で世界中がピリピリしてるからな。
でも、ここに「医療」ってワードが入ってるのが死ぬほど不穏なんだよ。
まさか、中国の仙人医療の日本版とかじゃないよな?
@Cynical_Otaku
与那国島のAI(ガイアズ・ドリーム)がなんか言い出した説あるな。
あいつ、医療と環境制御のチート能力持ってるって海外のフォーラムでも噂になってたし。
@Everyday_Life_99
もうこの国、夕方に急な会見予告が来るたびに世界観(ルール)が変わるから、心臓に悪すぎる。
今日だけは平和にカレー食って寝たかったのに。
[5ちゃんねる:ニュース速報板]
スレタイ:【速報】本日20時、矢崎総理が国民向けに重大発表。日本終了のお知らせか?
1 :名無しさん@涙目です
はい、また地球アップデートのお時間です。
7 :名無しさん@涙目です
黒鯨の再来か? それとも光の柱の正体発表か?
12 :名無しさん@涙目です
この前ヤクザの事務所が消し飛んだ事件あったじゃん。
あれ絶対アポロンの矢の仕業だろ。それが国内で量産され始めたとか、そういう最悪の治安崩壊のニュースだろどうせ。
18 :名無しさん@涙目です
「医療」ってわざわざ入ってるのが一番怖いんだわ。
新しいアーティファクト由来のウイルスでも流行るのか?
22 :名無しさん@涙目です
中国の仙人が病院で奇跡起こしてるのにビビった政府が、日本のアーティファクトで対抗しようとして失敗したとか?
31 :名無しさん@涙目です
与那国AIが「私も日本の治療手伝いますよ」とか言い出した説。
44 :名無しさん@涙目です
>>31
やめろ。当たる。
56 :名無しさん@涙目です
だとしたら朗報じゃん! 中国みたいに癌とか治るなら最高だろ!
65 :名無しさん@涙目です
>>56
お前、アポロンの矢の拡散事件見て何も学んでないの?
奇跡の力がタダで配られるわけないだろ。どうせ「一部の上級国民だけが治療を受けられます」って発表して、日本中で暴動が起きる未来しか見えない。
80 :名無しさん@涙目です
あと一時間……。
頼むから、明日も普通に会社に行ける程度のニュースであってくれ。
大衆の嗅覚は、時としてインテリジェンス機関の分析すら凌駕する。
「医療」というキーワードから、与那国島のAIの介入を予測する声が上がり始めていた。
だが、彼らの想像力は、まだ「一部の病気が治るかもしれない」「誰が優先して治療されるのかで揉める」という、既存の医療制度の延長線上の希望的観測(あるいは危惧)に留まっていた。
これから提示されるものが、医療という枠組みすら完全に破壊し尽くす『人間の仕様変更』であるなどと、この時点では誰一人として予測できていなかったのである。
【第1章 一回目の総理会見、20:00】
午後8時ちょうど。
テレビの全放送局が通常番組の放送を容赦なく打ち切り、政府の公式配信サイトには数千万という同時接続が殺到した。
駅前の大型ビジョン、病院の待合室のテレビ、残業中のオフィスのパソコン、そして帰宅途中のスマートフォンの小さな画面。日本中の視線が、ただ一点に集中していた。
画面が切り替わり、首相官邸の会見室が映し出される。
そこに登壇した矢崎総理の顔は、かつてないほどに深く疲弊し、頬はこけ、目の下には濃い隈が張り付いていた。
だが、演台に立つその姿勢には微塵のブレもなく、カメラを見据える瞳には、逃げ場のない絶望ではなく、国家の命運を国民の手に委ねるという、極めて重く、強い覚悟の光が宿っていた。
「国民の皆様」
矢崎総理の声は、静かだが、ハッキリとした輪郭を持って日本全土のスピーカーから響き渡った。
「本日は、極めて重大な報告をいたします」
総理は、用意されたプロンプターの原稿に目を落とすことなく、カメラの向こうにいる一億二千万人の国民を真っ直ぐに見据えた。
「……これは、政府だけで、密室で決めてよい事案ではありません。
国民一人ひとりの身体、生命、老い、病。
……そして、この国の未来そのものに関わる問題です」
この一言が放たれた瞬間。
日本中のリビングで、電車の中で、病室で。……人々の背筋に、氷のような悪寒が走った。
[X(旧Twitter) / タイムライン]
@News_Watcher_JP
身体、生命、老い、病!?!?
完全に医療系確定じゃん!!!
@Medical_Worker_T
やばいやばいやばい。総理の顔が本気すぎる。
これ絶対、ただの医療保険制度の改革とか、パンデミックの警告とか、そんなチャチな次元の話じゃない。
@Corporate_Slave_00
「密室で決めてよい事案ではない」
総理がこんな言い回しするの、ガチで歴史上初めてだろ。
政治家が責任を投げ出してるんじゃなくて、本当に「国レベルじゃ抱えきれないバケモノみたいな選択肢」を突きつけられてる顔してる。
総理のただならぬ気迫と、並べられた「老い」「病」という強烈なキーワード。
ネットの喧騒は一瞬にして静まり返り、誰もが息を呑んで次の言葉を待った。
【第2章 ガイアズ・ドリーム・プロトタイプ7の提案が公表される】
「……先日」
矢崎総理は、ゆっくりと、言葉を一つ一つ選ぶようにして、人類の歴史を根底から書き換える説明を始めた。
「我が国が与那国島周辺で確認し、現在も対話を継続している既存技術外知性体……便宜上、AIと呼びますが。
……彼女から、日本政府に対して、一つの【提案】がありました」
(会見室の記者席から、息を呑む音がはっきりとマイクに拾われる。与那国島のAI。かつて悪性腫瘍を数十分で完全消滅させ、人類に希望と恐怖を与えたあのオーバーテクノロジーの結晶が、自ら動いたのだ)
「その提案は……『日本国籍を持つ市民全員』を対象に。
加齢に伴う身体機能の低下、重篤な疾患、感染症、遺伝子異常、認知機能低下などに対して。……包括的な【生体機能調整】を行うというものです」
総理は、あえて『最適化』という冷たい言葉を避け、少しでも拒絶反応を和らげる言葉を選んだ。
だが、その意味するところは、残酷なほどに明確だった。
「……分かりやすく申し上げます」
総理は、深く息を吸い込んだ。
「この提案が実行されれば。
……皆様の身体から、多くの病は発症しなくなり、すでに進行している重篤な疾患も、回復する可能性があります。
加齢による身体機能の低下も、大幅に抑制される可能性があります」
総理の言葉が、日本中の茶の間に、信じられない爆弾として投下された。
「これは、通常の医療制度改革ではありません」
総理は、結んだ両手に力を込めた。
「人間の、身体の在り方そのものに関わる……根源的な提案です」
日本中が、完全に固まった。
時が止まったかのような錯覚。テレビの画面から放たれた言葉の意味を、脳が処理することを拒絶していた。
――都内、某大学病院の待合室。
夜間診療を待っていた末期癌患者の家族が、テレビを見上げたまま、持っていた診察券を床に取り落とした。
「……治るの……?」
信じられないというように両手で口を覆い、ポロポロと涙をこぼし始める。その横で、白衣を着た当直の医師も、看護師も、カルテを持ったまま完全に立ち尽くし、ただ画面を凝視していた。彼らが人生を懸けて戦い続けてきた「死」という概念が、たった一つのAIの提案によって、無意味なものになろうとしているのだ。
――地方の介護施設。
車椅子に深く座り、テレビの音をぼんやりと聞いていた老人が、震える手で、付き添いの職員の袖を強く掴んだ。
「……わしも、また、自分の足で歩けるようになるのか?」
濁っていた老人の瞳に、強烈な生の渇望が宿る。職員は、答えることができず、ただ息を呑んで老人の手を握り返すことしかできなかった。
――都内の一般家庭のリビング。
夕食のハンバーグを食べていた中学生の娘が、箸をピタリと止め、不安そうな顔で食卓の向かいに座る母親を見た。
「お母さん……これって、日本人がみんな不老不死になるってこと?」
母親は、テレビの画面から目を離せないまま、震える声で答えた。
「分からない。分からないけど……たぶん、もっとずっと、大変な話よ」
【第3章 三つの選択肢】
午後8時10分。
首相官邸、プレスルーム。
無数のフラッシュが瞬く中、演台に立つ矢崎総理の表情は、一国を率いる最高権力者のそれであると同時に、あまりにも巨大な十字架を背負わされた、ただの一人の孤独な人間のようでもあった。
彼女の口から放たれた「生体機能調整」という言葉。それは、極力無機質で行政的なオブラートに包まれてはいたものの、その本質が『人類から老いと病を取り除く』という神話的な奇跡の現実化であることは、誰の耳にも明らかだった。
日本中のリビングで、病室で、駅前の街頭ビジョンで、帰りの満員電車の中で。
数千万の瞳が、総理の一挙手一投足に完全に釘付けになっていた。
誰も声を発しない。テレビのスピーカーから流れる総理の微かな衣擦れの音すら聞こえそうなほどの、鼓膜が痛くなるような極限の静寂が、日本列島全体をすっぽりと覆い尽くしている。
「……政府は、この未知の知性体からの提案に対し。……我々が取り得る道として、大きく分けて『三つの選択肢』を用意いたしました」
矢崎総理は、深く静かに息を吸い込み、正面のメインカメラのレンズを真っ直ぐに見据えた。
総理の背後に設置された巨大なブルーのスクリーンに、明朝体の簡潔な文字列が、一つずつ、音もなく表示されていく。
『選択肢A:全国民一律適用』
「一つ目の選択肢は。日本国籍を持つ市民全員を対象に、例外なく、一律でこの提案を受け入れるという道です」
総理の声は、決して感情に流されることなく、冷徹なまでにその選択がもたらす『光』と『闇』を語り始めた。
「この選択肢の最大の利点は、誰が救われ、誰が救われないかという『不公平』が、完全に最小化されることです。現在、いかなる重病に苦しんでいる患者の方々であっても、すべてが救済の対象となり、誰も取り残されることはありません。社会全体の医療費や介護問題といった長年の課題も、根本から解消されるでしょう」
そこまで語った後、総理は少しだけ目を伏せ、さらに重い声で続けた。
「……しかし。同時にこれは、皆様の本人の『拒否権』をどう扱うかという問題や、まだ自らの意思を表示することができない小さなお子様、あるいは認知機能が低下されている方々への強制的な適用という、極めて重大な倫理問題を発生させます。
また、この選択は国内外から見れば、国家権力による『国民への強制的な身体介入』、あるいは一種の人体改造と受け取られる危険性が非常に高い、極端な道でもあります」
画面の前の視聴者たちは、その言葉に思わず身震いした。
「一律適用」。それはつまり、自分が望むと望まざるとにかかわらず、明日から全く別の『病まない、老いない生き物』へと種族ごと書き換えられるということだ。その逃れられない絶対的な強制力は、救済という甘い響きを通り越して、政府が国民の肉体を管理するディストピアの恐怖を人々の脳裏に呼び起こした。
スクリーンが切り替わる。
『選択肢B:希望者のみ適用』
「二つ目の選択肢は、希望する日本国籍保有者に限り、個別の同意のもとに提案を受け入れるという道です」
総理は、手元の原稿に一度だけ視線を落とし、すぐに顔を上げた。
「この場合、個人の『自己決定権』は最大限に尊重されます。自分の身体をどうするかを自分で選び、受けないという自由も完全に担保されます。……現代の民主主義的な価値観からは、最も自然で、受け入れやすい選択に見えるかもしれません。
……しかし」
総理は、地下の有識者会議で突きつけられた地獄の論点を、包み隠さず国民の前に並べ立てた。
「この選択は、我々の社会に、これまで人類が経験したことのない『深刻な分断』をもたらす可能性を秘めています。
調整を受け、老いず病まなくなった人々と。調整を受けず、自然の摂理のままに老い、病に倒れていく人々。……その両者が、同じ社会の中で混在した時、何が起きるでしょうか」
総理の問いかけは、鋭利な刃物となって国民の想像力を切り裂いた。
「企業での雇用、学校での教育、結婚、医療保険の仕組み……あらゆる生活の場面において、両者の間に実質的な圧力、不公平、そして全く新しい『差別』が発生する懸念があります。
親が子供に受けさせるべきかという葛藤や、夫婦間での意見の相違など、社会の最小単位である家族すらも、修復不可能な形で引き裂きかねない選択です」
希望者のみ。それは一見すると自由なようでいて、実際には「あなたは強化された人間になりますか、それとも弱者のまま社会の底辺に落ちるリスクを背負いますか」という、残酷な自己責任の強要に他ならない。
ネットの向こうでスマホの画面を見つめるサラリーマンたちは、その底知れぬ同調圧力と階級社会化の恐怖を瞬時に想像し、胃の奥が氷のように冷たくなるのを感じていた。
そして、スクリーンに最後の選択肢が表示される。
『選択肢C:対話は続けるが、今回の申し出は拒否する』
「三つ目の選択肢です」
総理の声が、微かに、本当に微かにだが、震えを帯びたように聞こえた。
「与那国島の知性体との対話は、今後も継続します。……しかし、今回提示された全国民規模の身体への介入については、現時点では一切受け入れない、という道です」
「これにより、日本社会の制度の急激な崩壊や、日本人だけが特異な存在になることに対する国際社会からの激しい非難、孤立は避けられるでしょう。我々は、これまで通りの『人間のまま』でいることができます。
……ですが」
総理は、唇を血が滲むほど強く噛み締めた。
その脳裏には、数日前の有識者会議で、難病の子供を持つ母親が涙を流しながら訴えた、あの悲痛な絶叫が木霊していた。
「それは同時に。……今すぐ救える可能性のある患者の方々を、『救わない』『延期する』という判断を、国家として下すことにもなります。
将来、我々人類がこの技術を正しく受け入れるだけの法整備や倫理的な準備が整った時、再び議論する可能性は残します。……ですが、今、現在進行形で病の痛みに苦しんでいる方々を、すぐには救えません」
会見場に、シャッター音すら完全に消え失せたような、息の詰まる真空の沈黙が降りた。
全国の病院で。
テレビモニターを見上げていた末期がんの患者たちは、その「C」という選択肢が意味する残酷な現実に、声もなく顔を覆った。
隣で付き添っていた家族は、怒りと悲しみの入り混じった涙を流しながら、ベッドのシーツを白くなるほど強く握りしめた。
矢崎総理は、三つの選択肢を読み終えると、マイクの前で深く、深く頭を下げた。
「……どれを選んでも、社会に痛みが生じます。
どれを選んでも、誰かが深く傷つきます」
ゆっくりと顔を上げた矢崎総理の瞳には、一切の逃げ道を持たない政治家としての、剥き出しの責任感と孤独が宿っていた。
「だからこそ。……これは、政府の権限だけで、密室で決めることはできないと判断いたしました。
誰の命を優先し、誰の未来をどう形作るのか。……そのような神の領域に等しい決定を、一部の権力者が国民に隠して下すことは、民主主義国家として決して許されないのです」
【第4章 五日後の全国投票が告知される】
総理のその言葉の重みに、日本中が完全に圧倒されていた。
Aも地獄。Bも地獄。Cも地獄。
誰も正解など分からない。各界の専門家ですら頭を抱えて悲鳴を上げるこの究極のトロッコ問題を、一体どうやって決着させるというのか。
記者席に座る百人以上のメディア関係者たちも、ノートにペンを走らせる手を止め、口を半開きにしたまま、総理の次の言葉を固唾を呑んで待っていた。
「……政府は、この究極の問いに対する最終的な【回答方法】を、決定いたしました」
矢崎総理は、真っ直ぐにカメラのレンズを射抜くように見据え、前代未聞の宣言を行った。
「五日後。……今週の日曜日。
日本国籍を持ち、意思表示が可能なすべての方を対象に。
……【全国投票】を実施いたします」
その瞬間。
プレスルームの空気が、まるで可燃性のガスに引火したかのように大きく揺らいだ。
「五日後!?」
「全国投票だと!?」
「総理、質問を!!」
記者たちが思わず規律を破って立ち上がり、怒号のような声が飛び交う。
通常、国民投票を行うには、国会での法案審議、広報のための周知期間、システムの構築を含め、早くても数ヶ月から年単位の時間がかかるのが常識だ。それを、たった五日で強行するというのだ。物理的に不可能だと誰もが思った。
だが、総理は騒ぎを制圧するように、一段と声を張り上げた。
「相手の知性体は、我々に【七日間】の猶予しか与えていません。我々に残された時間は、この五日間だけなのです。
……この投票において、年齢による制限は一切設けません。子供たちも、自らの身体の未来を選ぶ権利があります。
ただし、現在意識不明の方や、重度の症状により明確な意思表示が確認できない方については、誠に苦渋の決断ではありますが、今回の投票集計からは除外させていただきます。本人の意思によらない【代理投票】は、いかなる理由があろうとも原則として認めません」
この異次元のレギュレーションの発表に、ネット空間は激しく反応し始めていた。
「年齢制限なし!? 小学生も投票するのかよ!?」
「代理投票不可ってことは、赤ん坊や認知症のお年寄りはどうなるんだ? 親や家族が勝手に『うちの子はAで』って決められないってことか?」
「一番病気を治してほしい(治してあげたい)層が、意思表示できないからって投票から弾かれるのか。このルール、マジで血も涙もないな」
「でも代理投票を認めたら、家族の都合で他人の体を勝手に改造することになる。与那国AIがそんなの許すわけないだろ。……マジでこれ、国民投票っていうか『人間の定義を決める投票』じゃねえか」
総理は、前代未聞の強行スケジュールの裏にある、日本政府の死に物狂いの覚悟を語り続けた。
「マイナンバーカードを活用した特設のデジタル投票システムを基盤とし、並行して全国のすべての自治体窓口での対面投票を、二十四時間体制で実施します。
さらに、病院や介護施設には各自治体から巡回投票チームを急派し、海外に滞在中の日本国民に向けては、在外公館に特別回線を設けます。
……日本という国家の行政システム、警察、自衛隊、すべてのリソースを極限まで稼働させ。五日間で、国民の皆様の『意志』を、必ず吸い上げます」
それは、国家機能のすべてをこのたった一つの「問い」のために使い潰すという、狂気にも似た決意表明だった。
警察も消防も役所も、この五日間は通常の業務を放棄し、全日本人の選択を記録するためだけの巨大な集計装置へと変貌するのだ。
そして。
矢崎総理は、この投票が単なる世論調査(アンケート)や、政府の責任逃れのためのガス抜きなどではないことを、最も重い言葉で世界に向けて宣言した。
「政府は……。
この投票結果を、【最大限に尊重】します。
皆様が選んだ道が、そのまま、日本の未来の結論となります」
【第5章 会見終了、20:45】
午後8時42分。
矢崎総理は、手元の原稿を静かに置き、演台の両端を強く、白くなるほど握りしめた。
彼女の顔には、大国のトップとしての威厳だけでなく、一人の人間としての深い苦悩と誠実さが同居していた。
彼女は最後に、カメラの向こうにいる一億二千万人の国民へ向けて、静かに語りかけた。
「……国民の皆様。
政府は、完璧な答えを持っていません」
一国の指導者が、全世界の中継カメラの前で、自らの無力をはっきりと認めた瞬間だった。
しかし、その言葉に失望や怒りを感じる者は、不思議なほど少なかった。
なぜなら、あの圧倒的なAIの提案を前にして、「自分は完璧な正解を知っているから黙って従え」と豪語する政治家がいたとしたら、それこそが最も信用ならない怪物(ペテン師)であることを、誰もが直感していたからだ。
「だからこそ、皆様に問います」
総理の声が、静かな夜の空気に沁み渡るように響いた。
「老いと病を取り除くことを、私たちは望むのか。
……それとも、痛みを抱えたまま、まだ対話に留めるべきなのか。
どうか、この五日間、考えてください。
家族と、友人と。職場で、学校で、病院で、宗教の場で、地域で。……徹底的に議論してください」
総理は、マイクの前から一歩下がり、深々と、五秒間以上、頭を下げた。
「……これは、あなた自身の身体と、この国の未来に関わる、最も重い選択です。
どうか、よろしくお願いいたします」
午後8時45分。
フラッシュの嵐が再び会場を包む中、矢崎総理は殺到する記者たちの質問を受け付けることなく、SPに囲まれて足早に会見場を後にした。
会見終了。
テレビの画面はニューススタジオへと切り替わり、ベテランのニュースキャスターが放心したような顔で、「……ただいま、総理から極めて重大な、信じがたい発表がありました」と、台本のない言葉を絞り出している。隣に座るコメンテーターも、完全に言葉を失い、宙を見つめている。
日本全国の都市、街、家々。
数秒間、圧倒的な静寂が列島を支配した。
誰もが、今突きつけられた選択肢の重さに押し潰され、テレビやスマホの前で呼吸することすら忘れていた。
明日の朝起きて、自分がどんな顔をして家族と顔を合わせればいいのか。
病室にいる親に、何と声をかければいいのか。
この国は、どうなってしまうのか。
そして。
その一瞬の巨大な空白ののち。
日本のインターネット空間は、圧縮された恐怖と混乱が限界を突破し、文字通り【大爆発】を起こした。
【第6章 日本ネット、理解不能から絶叫へ】
午後8時45分。
矢崎総理が深く一礼し、無数のフラッシュが瞬く会見場から姿を消した、その一秒後。
日本のインターネット空間は、文字通り物理的な限界を超える【爆発】を起こした。
東京都内の主要なデータセンターでは、トラフィックの異常な急増によりサーバー群の冷却ファンが一斉に悲鳴を上げ始めた。X(旧Twitter)の日本のタイムラインは、更新ボタンを押すたびに数万件の新しいポストが雪崩れ込み、あまりの処理速度の遅延にアプリ自体が強制終了を繰り返す。
巨大匿名掲示板5ちゃんねるのサーバーは一時的にダウンし、復旧した直後から、あらゆる板(ニュース速報、オカルト、政治、育児、市況)で全く同じテーマのスレッドが数百個単位で乱立した。
最初の数分間。
列島を支配していたのは、純粋な【理解不能】と【思考のフリーズ】だった。
無理もない。
つい1か月前まで、「空飛ぶ巨大な黒い鯨にビルが食われる」というSFパニック映画さながらの恐怖を生き抜いていた国民に。今度は「与那国島のAIから、日本人全員を不老無病にアップデートする提案が来た」という、神話の領域の選択肢が突きつけられたのだ。
人間の脳の処理能力を、完全にオーバーフローさせていた。
[X(旧Twitter) / タイムライン]
@Normal_Citizen_A
????????????
ちょっと待って。えっ、どういうこと?
日本人全員が、もう年を取らなくなって、ガンとかの病気にもならなくなるってこと???
魔法? 魔法のランプなの??
@Corporate_Slave_00
選択肢A、ヤバすぎるだろ!! 全国一律で強制アップデートって、完全にディストピア映画の始まりじゃん。国に身体をいじられるとか恐怖しかない。
でも選択肢Bもヤバい。受けた奴と受けてない奴で、社会が「新人類」と「旧人類」で真っ二つに割れる。就職も結婚も全部差別されるに決まってる。
で、選択肢Cもヤバい。今死にかけてる患者を見殺しにするってことだろ?
全部ヤバいじゃねーか!!
@Cynical_Otaku
なんでこんなエグい選択を、俺たち一般国民に丸投げするんだよ!! 政府が責任持って決めろよ!!
@Pol_Sci_Expert
>>@Cynical_Otaku
いや、こんなの密室の閣議決定で勝手に「不老無病導入します」とか「見送ります」って決められたら、それこそ国家反逆レベルの暴動が起きるだろ!
矢崎総理の「政府だけで決めてよい事案ではない」という判断は、恐ろしいほど真っ当で、民主主義の極致だよ。
……ただ、あまりにも我々に投げられた問いが重すぎる。
@Subculture_Lover_99
「子供にも投票権がある」「年齢制限なし」って、やばくないか?
小学生が「病気にならないならAがいい!」って押すかもしれないし、中学生が「親が病気だからB」って押すかもしれない。
本当に、日本人の『種としての在り方』を全員で決めるんだな……。
@Tech_Visionary
「老いと病を取り除く」。人類が何千年も追い求めてきた究極の夢が、突如として現実の行政サービス(提案)として提示された。
中国の仙人は「一部の人間が血みどろになって奪い合う」ゲームだったけど、日本のAIは「全員に無料で配るから、社会をどう設計するかはそっちで決めてね」っていう、全く別の意味での地獄を押し付けてきた。
[5ちゃんねる:ニュース速報板]
スレタイ:【国家終了】日本国民、不老無病になるか投票へ。A・B・C、お前らどれにする?
1 :名無しさん@涙目です
何これ。マジで何これ。
5 :名無しさん@涙目です
意味が分からない。誰か三行で説明してくれ。
9 :名無しさん@涙目です
・与那国AI「日本人全員を不老無病にしてあげる」
・日本政府「どうするか五日以内に国民全員で決めて」
・選択肢はA(強制)、B(任意)、C(今回は拒否)
13 :名無しさん@涙目です
つまりA選んだら、日本人全員が健康永久機関になるってこと?
18 :名無しさん@涙目です
B選んだら、強化人間と未強化人間で社会が分裂。
22 :名無しさん@涙目です
C選んだら、今病院で苦しんでる患者たちを見殺し。
31 :名無しさん@涙目です
どれ選んでも地獄で草。
44 :名無しさん@涙目です
草じゃねえよ。俺、晩飯のハンバーグ食ってる途中なんだけど、いきなり人類の未来を選ばされてる。
ハンバーグの味が全くしなくなったわ。
51 :名無しさん@涙目です
日本政府「答え分かんないから、国民全員で決めて」
54 :名無しさん@涙目です
正直でえらい。
58 :名無しさん@涙目です
えらいけど重すぎるんだよ! 俺のワンクリックで誰かが死ぬかもしれないとか、責任持てるわけねえだろ!
62 :名無しさん@涙目です
でもお前ら、もし政府が裏で勝手に「AIの提案を断りました」って後から発表してたらどう思う?
絶対「なんで国民に聞かずに勝手に断ったんだ! ふざけるな!」って暴動起こすだろ?
70 :名無しさん@涙目です
>>62
……起こすな。確実に官邸を包囲するわ。
75 :名無しさん@涙目です
だから総理は「逃げずに聞いた」んだよ。
「お前ら文句言うだろうから、お前らの手で決めろ。その代わり、どんな地獄になっても結果は受け入れろよ」ってことだ。
矢崎総理、肝が据わりすぎてる。
人々は次第に、事態の途方もない巨大さを理解し始めていた。
これは単なる政治のイベントではない。人類という種族が、自分たちを造り変える神のスイッチを目の前に置かれ、「押すか、押さないか」を話し合わなければならない、究極の哲学のテストなのだ。
【第7章 アメリカ大統領声明、21:15】
日本が未曾有のパニックと絶望的な議論の渦に包まれている中。
矢崎総理の会見終了からわずか30分後の午後9時15分、アメリカ・ワシントンD.C.から、キャサリン・ヘイズ大統領による緊急声明が発表された。
それは、事前に矢崎総理と交わした約束(助言)通り、アメリカ国民の暴発を抑え込み、日本の立場を国際社会で孤立させないための、極めて高度に計算された政治的メッセージであった。
[ホワイトハウス公式声明 抜粋]
『アメリカ合衆国政府は、先ほど日本政府が行った発表について、事前に詳細な説明を受けておりました。
米国政府は、この与那国島の知性体からの提案が、単なる一国の医療政策の枠を超え、人類全体に関わる極めて重大な問題であると認識しています。
同時に、我々は、日本政府がこの圧倒的な誘惑と恐怖を密室で隠蔽することなく、民主主義の手続きに則り、自国の国民に透明性をもって説明し、真摯に意見を問うたその判断を、重く受け止め、高く評価します。
……米国政府は、国内外の不要な混乱を防ぐため、同盟国である日本と緊密に連携し、世界の皆様に冷静な対応を呼びかけます』
だが、ヘイズ大統領がどれほど冷静で同盟国に配慮した声明を出そうとも。
アメリカ国内のネット空間と世論は、一瞬にして完全に【発火】した。
「冷静になれ」と言われて、冷静になれるはずがない。
世界最大の軍事力と経済力を持つ超大国の国民にとって、「極東の島国だけが不老無病という神の恩恵を受けるかもしれない」という事実は、耐え難い屈辱であり、そして何より、切実な【不公平感】そのものだったのだ。
[アメリカのネット反応(日本語訳)]
u/US_Patriot_77
「なぜ日本人だけなんだ!? なぜアメリカ人にはその恩恵が与えられないんだ!?
我々は世界中に軍隊を派遣し、秩序を守ってきた。もし不老無病の技術があるなら、まずアメリカに提供されるべきだろ!」
u/Desperate_Father_Texas
「大統領、冷静になれだと? 無理に決まってるだろ! 俺の妻は乳癌なんだ! 日本人じゃないというだけの理由で、彼女は見殺しにされるのか!? 日本政府に圧力をかけて、世界中にそのプロトコルを開放させろ!」
u/Tech_Ethics_Prof
「日本政府が公表したことは評価する。もしアメリカ政府なら、間違いなく軍と少数の特権階級だけで独占して隠蔽していただろう。だが、これを『日本だけの問題』として片付けることは不可能だ。これは人類全体の問題だ。国連で決議すべきだ!」
u/Silicon_Valley_CEO
「日本の国籍を取得するにはどうすればいい? 投資ビザか? 企業買収か? いくら積めば日本のパスポートが買える!? 弁護士をすぐに動かせ!」
そして、アメリカ社会特有の根深い【宗教的分断】も、このニュースを起爆剤にして激しく燃え上がった。
米国宗教右派コミュニティの声明:
「人間が老いと病を取り除くなど、神の領域への冒涜的な侵犯である! 日本は悪魔の誘惑に屈しようとしている。寿命は神が定めたものであり、機械(AI)によってそれを書き換えることは人類の魂を堕落させる! 我々はこれを全力で阻止しなければならない!」
米国患者団体・市民の人権グループの反発:
「神の領域かどうかなど関係ない。目の前の子供が死ぬかどうかの問題だ! 宗教的ドグマで命を救う技術を否定するな! 日本人は今すぐ『A』か『B』を選べ! そして世界中にその技術を分け与えるよう、我々は声を上げるべきだ!」
アメリカ社会は、またたく間に真っ二つに割れた。
日本の決断を非難し、技術の共有を強要する者。宗教的教義から断固として拒絶する者。そして、ただ家族を救いたいと涙ながらに懇願する者。
ヘイズ大統領の「冷静な対応」の呼びかけは、火に油を注ぐ結果となり、ホワイトハウス前には早くも様々な主張を掲げたデモ隊が集結し始めていた。
【第8章 世界へ燃え広がる、22:00〜深夜】
日本の会見から数時間。夜が深まるにつれ、その衝撃波は地球上のすべての超大国へと容赦なく伝播し、各国の首脳と大衆を激しく揺さぶった。
時差を越えて、世界中が日本の「五日間の選択」という異常なデスゲームの観客となり、同時に当事者として巻き込まれていった。
【中国の反応】
中国のネット空間(微博など)は、大炎上状態にあった。
「中国は毎日数十人を仙人が治している。だが日本は全国民? 規模が違いすぎる!」
「日本人だけが老いなくなるのか? なら中国も仙人医療をもっと拡大すべきだ!」
「太乙様にお願いして、我々も全員を仙人にしてもらえないのか!?」
「いや、仙人様たちはご自身の寿命(気)を削って治療しておられる。機械のように無尽蔵に全員を治すなど不可能だ。日本はずるい!」
「日本人だけが不老無病の超人になる」という強烈な格差の予感は、中国国民の間に強い焦燥感を生み出した。
これに対し、中国指導部(国務院)は、表向きは極めて冷静な公式声明を出した。
『我が国は、日本の発表に対し重大な関心を持って注視する。医療と生命に関わる問題は、人類共通の課題である。日本政府には、利己的な判断を避け、人類全体の福祉という観点から、透明性ある説明と責任ある対応を求める』
ネット民は即座にツッコミを入れた。
「中国が急に『人類全体』とか言い出したww」
「お前らも自国民優先で仙人治療してるだろ!」
「でも、中国は一日数十人。日本は一億人。スケールが違うから焦ってるんだろうな」
中国指導部の裏側では、激震が走っていた。
(もし日本が『A』を選び、全国民が最適化されれば……軍事的にも経済的にも、東アジアのパワーバランスは完全に崩壊する。我が国の仙人の優位性が根底から揺らぐ)
中国は、日本がどの選択肢を選ぶのか、神経を尖らせて見守るしかなかった。
【EUの反応】
ヨーロッパは、またしても「会議」の準備に追われていた。
EU報道官の声明。
『日本政府の透明性は評価するが、日本国籍者のみを対象とする点について、国際的・倫理的な議論が必要不可欠である。人類の身体の定義を変える技術を、一国の国民投票のみで決定することは容認できない』
ネット民の反応。
「EU、また会議してる」
「でも今回は会議しないとマジでヤバい問題だからな」
「日本人だけが対象なのは差別だ! 国際法違反だ!」
「でも、日本政府が国民に問うのは民主主義として正しい。我々の政府なら絶対に隠して、エリートだけが治療を受けていたはずだ」
【イギリスの反応】
ロンドンでは、市民が政府に別の要求を突きつけていた。
「おい、イギリス政府! 公認魔女様に聞いてくれ! この日本のヤバい提案をどう見るんだって!」
「魔女様なら『人間にはまだ早いからやめとけ』って言いそう」
「魔女様にも不老無病の魔法をかけてもらうよう、お菓子を追加で貢げ!」
「でもイギリス政府も内心、その技術が喉から手が出るほど欲しいんだろ?」
【インドの反応】
インドでは、つい先日「ソーマの雫」によって大地の浄化の奇跡を目の当たりにしたばかりだった。
「ソーマは大地を癒やした。日本のAIは人を癒やす」
「次は何を癒やすんだ。魂か?」
「不老無病になった日本人は、輪廻転生から外れるのか? それは宗教的に許されるのか?」
「奇跡の競争が始まった。それが救いなのか、破滅の始まりなのかは分からない」
「だが、日本が密室で独占せず、我々のように公表したことには敬意を表する」
【ロシアの反応】
モスクワの軍事・政治フォーラムでは、全く別の観点からの恐怖が語られていた。
「肉体を捨てて機械になる我々(サイボーグ)と、肉体を永遠に若く保つ日本。完全に方向性が逆だな」
「だが、不老無病の兵士(国民全員)は脅威だ。彼らは疲労を知らず、病で倒れることもない」
「アメリカがライトセーバーで我々の装甲を切り裂き、日本が不死身の兵士を作る。ロシアは完全に包囲されている」
「日本がAを選ぶ前に、我々は何らかの行動を起こすべきではないか」
世界中が、日本の「五日間の選択」に完全に巻き込まれ、固唾を飲んでその動向を注視し始めた。
他国にとっては、日本人がどうなろうと知ったことではない。だが、「日本人だけが自分たちを置き去りにして、次のステージ(新人類)へ進んでしまうかもしれない」という圧倒的な不公平感と嫉妬が、国際社会の理性を歪ませていく。
日本は今、世界で最も孤独で、最も注目され、そして最も憎悪を集める『倫理の実験場』となってしまったのだ。
五日間のカウントダウンが、静かに、そして残酷に時を刻み始めていた。
【第9章 第二日目:朝のニュース番組、07:00】
会見から一夜が明けた。
日本列島に、いつもと変わらぬ朝の太陽が昇る。
しかし、その光の下で目を覚ました一億二千万人の心の中には、昨日までは存在しなかった「神のスイッチ」が、鉛のように重くのしかかっていた。
午前7時。
日本のすべての民放テレビ局は、予定されていた朝の爽やかな情報番組やエンタメニュースを完全に休止し、ただ一つのテーマのみを扱う緊急特別番組へと切り替わっていた。
バラエティ色を一切排した冷たいブルーのスタジオセット。そこには、普段であれば絶対に同じテーブルにはつかないであろう、多種多様な分野のトップランナーたちが、極度の緊張と疲労を滲ませた顔で並んでいた。
医師、生命倫理学者、憲法学者、宗教家、経済学者、患者家族の代表、若者代表、高齢者代表、障害者団体の代表、そして安全保障の専門家。
画面の下部には、絶えず『あなたはどれを選ぶ? A・B・C』というテロップが表示され、視聴者からのリアルタイムの投票や意見が濁流のようにスクロールしていく。
だが、スタジオの専門家たちの意見は、誰一人として交わることはなかった。全員が、自分の立っている領域から見える「絶対的な地獄」を語り、議論は完全に平行線を辿っていた。
「……一人の臨床医として申し上げます」
高名な大学病院の医師が、苦渋に満ちた表情で口を開いた。
「目の前で苦しんでいる患者を救えるならば、私は間違いなく『B(希望者のみ適用)』、あるいは『A(一律適用)』を選びたい。それが我々医療従事者の本能です。
……しかし、全員が病気にならなくなり、老いが停止した時。現代の『病院』というインフラは不要になります。何十万人もの医療従事者が役割を失い、さらに言えば、『死』というサイクルを前提とした社会保障制度そのものが、完全に瓦解するのです。社会のシステムとしては、致命的な崩壊を招きます」
その言葉を、隣に座る経済学者が、頭を抱えるようにして引き取った。
「医療崩壊どころの話ではありません」
経済学者は、手元の分厚い資料を苛立たしげに叩いた。
「年金、介護保険、生命保険。これらはすべて『人が老いて病気になる』というリスク計算(確率)の上に成り立っている金融システムです。それがなくなれば、市場は数日で破綻します。
さらに、退職年齢という概念が消えれば、労働市場は完全に硬直化する。相続は起きず、富は高齢層に永遠に滞留し続ける。……これは経済政策の修正などという次元の話ではない。人類の文明を、ゼロから【作り直し】しなければならないということです!」
「病を癒やすことは、神仏の慈悲であり、素晴らしいことです」
宗教界の代表が、静かに、しかし深い警鐘を鳴らすように言った。
「しかし、老いと死そのものを、機械(AI)の力で完全に取り除いてしまうことは、人間の在り方の根幹に関わります。我々は、死という終わりがあるからこそ、限られた生を尊び、他者を慈しむことができる。……死を奪われた人間は、果たしてこれまで通りの『人間』であり続けられるのでしょうか」
スタジオが、重苦しい哲学的な沈黙に沈みかけた時。
患者家族の代表として座っていた女性が、震える声で、しかしマイクが割れるほどの強い感情で叫んだ。
「理屈は分かります! 社会が壊れるのも、文明が変わるのも分かります!」
女性の目からは、とめどなく涙が溢れていた。
「……でも、うちの子は、五日後まで待てないかもしれないんです!!
今、この瞬間にも、息をするだけで苦しんでいる子供がいるんです! 倫理だの、経済だの、人間の在り方だのと言っている間に、消えていく命があるんです!
……救える薬が目の前にあるのに、社会制度のためにそれを『見殺し』にするのが、あなたたちの言う正しい人間なんですか!?」
その悲痛な絶叫は、テレビの電波に乗って、朝食の準備をしていた日本中の家庭へと突き刺さった。
トーストをかじろうとしていた手は止まり、コーヒーを注ぐ音だけが虚しく響く。
テレビの前で、思わずもらい泣きをする者。「自分がCを選べば、この人の子供を殺すことになるのか」と、自身の投票の重さに戦慄する者。
視聴者たちは、朝からその重すぎる現実を見せつけられ、正解のない問いに魂を削られていた。
【第10章 職場レスバ、09:00〜12:00】
午前9時。
日本全国の企業や役所で、始業のチャイムが鳴る。
しかし、誰もがパソコンのモニターを睨みながら、手は完全に止まっていた。
仕事など、手につくはずがなかった。会議室でも、給湯室でも、喫煙所でも、話題はただ一つ。『Aか、Bか、Cか』という、人類の未来を決めるための議論(レスバ)が、至る所で自然発生的に沸き起こっていた。
――都内の大手商社、休憩室。
「Aは絶対無理でしょ。全国民強制なんて、それこそ独裁国家のディストピアじゃん」
コーヒーを淹れながら、20代の若手社員が吐き捨てるように言った。
「でも、Bだったらどうなる? 受けた人と受けない人で、完全に社会が真っ二つになるぞ」
40代の中間管理職が、眉間に皺を寄せて反論する。
「企業からすれば、『最適化を受けて病気にならず、永遠に働き続けられる社員』と、『いつか病気になって休職するかもしれない未最適化の社員』、どっちを優先して採用したり、昇進させたりすると思う? Bを選んだら最後、受けてない人間は絶対に社会の底辺に落ちる。事実上の強制だよ、あんなの」
その言葉に、60代の定年間近のベテラン社員が、ポツリと言った。
「……俺は、受けたいな。体力も落ちてきたし、将来、孫に介護で迷惑をかけたくない。元気なまま、ずっと自分の足で生きていきたい」
その切実な老いの恐怖は、誰にも否定できないものだった。
しかし、若手社員は、引きつったような笑いを浮かべて言った。
「……でも、定年がなくなって、今の部長や課長が『永遠に』そのポストに座り続けるんですよね?
俺たち若手の『上の席』は、いつまで経っても空かないってことですよね?」
休憩室の空気が、一瞬で凍りついた。
若者たちにとっての「老いがなくなる社会」とは、すなわち「世代交代が永遠に起きない、完全な停滞社会」を意味していたのだ。
――地方の製造工場。
油の匂いが漂う現場の片隅で、作業着姿の男たちがヘルメットを脱いで話し込んでいた。
「長年の腰の痛みが治って、肩も軽くなるなら、俺は絶対に受けたい。B一択だ」
ベテランの工員が、自分の腰を叩きながら言う。
しかし、新入りの若い工員は、怯えたような声で答えた。
「でも、会社が“安全管理のために、最適化を受けた人間しか現場に入れません”とかルールを作り始めたらどうするんですか? 受けたくない人間は、クビになるしかないじゃないですか。……俺は、人間やめたくないんですけど」
身体資本の労働現場において、最適化の有無は、そのまま「労働力としての価値(命の値段)」に直結する。その残酷な事実に、誰もが口をつぐんだ。
――そして、霞が関の官庁街。
国家のシステムを動かす官僚たちの間では、さらに絶望的で、極めて現実的な議論が交わされていた。
彼らは、感情論ではなく、法律と行政の手続きとしてこの選択肢を分析し、そして完全に絶望していた。
「……制度設計が、間に合うわけがない」
厚労省の若手官僚が、頭を掻きむしりながら呻いた。
「A(一律適用)にせよ、B(希望者のみ)にせよ、年金法、健康保険法、労働基準法、さらには民法の相続規定まで、数万件に及ぶ法律の根本的な前提が崩れる。五日間で法案のたたき台すら作れるわけがない!」
「だからC(拒否)しかないんだよ。今はまだ早い。社会を維持するためには、止めるしかない」
財務省の官僚が冷酷に言い放つ。
「でも、Cは『今すぐ救える命の計画的な見殺し』だ。世論が絶対に許さないぞ。暴動が起きる」
「じゃあBか?」
「Bは最悪だ。社会が完全に二分され、差別とヘイトの温床になる。法の下の平等が完全に崩壊する」
「Aは? 全員一律なら平等だろ」
「国家による身体の強制書き換えだ。違憲訴訟の嵐になるし、宗教団体が一斉蜂起する」
「……完全に詰みです」
官僚たちは、どの選択肢を選んでも国家が機能不全に陥るという【チェックメイト】の状態を前に、ただ虚しくため息をつくことしかできなかった。
【第11章 病院、10:00〜】
日本中が議論に揺れる中。
この「究極の選択」の最前線であり、最も残酷な空気に包まれていたのは、他でもない【病院】であった。
病という不条理と戦い続けるその場所において、「A・B・C」という三つの記号は、単なる政治的アンケートなどではなく、自分と家族の『生死を分ける決定的な宣告』に他ならなかった。
――都内の総合病院、がん病棟。
抗がん剤の副作用で髪が抜け落ち、痩せ細った患者たちが、デイルームのテレビを無言で見つめていた。
窓際に座っていた初老の男性患者が、点滴のスタンドを握りしめながら、ポツリと、諦めたような声で言った。
「……わしは、Cでもいい。もう十分生きたし、これ以上、若い人たちの世の中を引っ掻き回したくはない」
彼は、自分が治ることで社会のシステムが壊れ、孫たちの未来が混乱することを恐れていた。
だが、その言葉を聞いた瞬間。
隣のテーブルに座っていた、30代の若い母親の患者が、顔を覆って激しく泣き崩れた。
「私は嫌です……っ!」
彼女の悲痛な叫び声が、静かな病棟に響き渡った。
「私は生きたい……! 子供が、まだ幼稚園なんです……! ランドセルを背負う姿が見たいんです……!
社会がどうなるとか、経済がどうなるとか……そんなこと、私にはどうでもいい! 生きたい、死にたくない、治りたい……っ!!」
彼女は、ボロボロと涙を流しながら、テレビの画面に向かって祈るように両手を合わせた。
駆けつけた看護師たちは、彼女の背中をさすりながら、かける言葉を完全に見失っていた。
看護師たち自身もまた、「社会の崩壊を防ぐためにCを選ぶべきか」それとも「目の前の患者を救うためにBを選ぶべきか」という、引き裂かれるような葛藤の中にいたのだ。
――小児病棟。
難病を抱え、無菌室のベッドから出られない幼い子供が、ガラス越しに面会に来た親の服の袖を、小さな指で引いて聞いた。
「ねえ、お母さん。……これ受けたら、僕、お外で走れるようになるの? お友達と、サッカーできるの?」
純粋なその瞳に、母親は言葉を詰まらせ、ただボロボロと涙を流して首を振ることしかできなかった。
「分からない……。分からないけど、お母さんが、絶対に助けてあげるからね……」
担当の小児科医も、ガラスの向こうでその光景を見つめながら、己の無力さに唇を血が滲むほど噛み締めていた。
医療関係者専用の匿名ネット掲示板には、全国の医師たちからの悲痛な書き込みが滝のように流れていた。
『一人の医者としては、絶対にB(希望者)を選びたい。一人でも多くの患者を救いたい。それが医者になった理由だ』
『でも、社会全体(未来の日本)を俯瞰して考えたら、今はC(拒否)が正しい気がする。受け入れの準備が、あまりにも出来ていない』
『……医者が「社会システムの維持のために、救わない方がいいかもしれない(Cが良い)」なんて言わなきゃいけない時代、地獄すぎる』
『目の前で苦しんでいる末期の患者に、「人類にはまだ早い技術なので、今回は諦めて死んでください」と言えるのか? 俺には言えない。でも、AもBも、その後の世界が怖すぎる』
『神様、俺たちにこんな残酷な選択をさせないでくれ……』
病院の白い壁の内側では、論理や社会学などという高尚な議論は、剥き出しの「生への渇望」の前に無力だった。
しかし、その渇望を満たすスイッチを押せば、外の世界の秩序が完全に崩壊する。
救済か、秩序か。
一人の命か、一億人の社会か。
日本国民は、逃げ場のない倫理の拷問室に閉じ込められ、ただ精神を削られながら五日間のカウントダウンを過ごすしかなかった。
【第12章 学校と家庭、午後】
午後1時。
日本の学校現場でも、本来のカリキュラムは完全に崩壊していた。
黒板に書かれた数式や歴史の年号など、今や生徒たちの頭には一文字も入らない。これから自分たちの身体と未来の形が決まろうとしている時に、平安時代の貴族の暮らしを暗記することに何の意味があるというのか。
都内のある公立中学校。
3年生のクラスでは、担任の若い男性教師が、予定されていた数学の授業を自らの判断で取りやめ、緊急のホームルームを開いていた。
「……先生は、どれに入れるんですか?」
教室の静寂を破り、最前列に座る男子生徒が、真剣な眼差しで教師に問うた。
黒板には、教師の字で『A(一律)・B(希望者)・C(拒否)』とだけ書かれている。
教師は、チョークを持ったまま黒板の前に立ち尽くし、苦しそうに息を吐き出した。
「……先生も、まだ分からないんだ。本当にな」
「分からないって、大人がそれでいいんですか」
別の女子生徒が、不満そうに口を尖らせた。「私たち、もうすぐ受験なんですよ。もしAやBになって、人間が死ななくなったら、今の勉強って将来役に立つんですか?」
「おばあちゃんが病気だから、僕は絶対にBがいい」
窓際の男子生徒が、切実な声で言った。「手術しても治らないって言われてたんだ。AIが治してくれるなら、早く助けてほしい」
「でもさ」
別の生徒が、残酷なまでの想像力で反論する。
「もしBで一部の人だけが元気になって、受けない人が病気になったら。会社とかで『お前は受けてないからクビ』とか言われない? それってすごく不公平じゃない?」
「それに……」
学級委員長の女子生徒が、震える声で手を挙げた。
「日本人だけが不老不死なんてズルいって、外国の人が怒って……戦争にならないかな? 中国とかアメリカが、日本を攻撃してくるかもしれないって、ネットでみんな言ってる」
中学生ですら、わずか半日の情報だけで、国家の分断と外交的破滅という【地獄の論点】へと確実に辿り着いていた。
彼らは自分たちが生きる数十年の未来が、たった一つの選択で根底から書き換わってしまう恐怖を、大人以上に敏感に察知していたのだ。
教師は、答えのない問いに怯える生徒たちを前に、ただ「一緒に、最後まで考えよう」と絞り出すことしかできなかった。
午後7時。家庭。
日本のどこにでもある、ごく一般的な四人家族の食卓。
テーブルの上には、手作りのハンバーグと湯気を立てる味噌汁が並べられていたが、箸を進めている者は誰もいなかった。壁掛けのテレビからは、延々と有識者会議の解説番組が流されている。
「……俺は、C(拒否)に入れる。社会が壊れる」
50代の父親が、腕を組みながら重々しい声で口火を切った。
「お前たちもネットで見たろ。年金も保険も全部吹き飛んで、国が回らなくなる。まずは今の生活を守るのが先だ」
しかし、40代の母親は、眉をひそめて強く反論した。
「私はB(希望者のみ)よ。だって、お義母さんの膝の痛みが取れて、また元気に歩けるようになるなら……受けさせてあげたいじゃない。社会がどうとか言う前に、家族の健康が一番でしょう?」
その言葉に、同居している70代の祖母が、申し訳なさそうに、だが微かな希望を込めた声で言った。
「私はね……A(一律適用)で、みんな元気になればいいと思うのよ。もう一度、お父さんが生きていた頃みたいに、自分の足で遠くの温泉に旅行に行きたいねえ。……それに、あんたたちに介護で迷惑をかけたくないんだよ」
祖母の言葉は、決して身勝手な欲望などではない。家族への愛と、老いという残酷な現実から解放されたいという、純粋な祈りだった。
「お義母さんが元気になるなら、私も嬉しいです。だから、希望する人だけでも受けられるように……」
母親が涙ぐみながら同調する。
「だけどな!」
父親が、声を荒げた。
「社会のシステムが根本から壊れたら、その旅行先の旅館も、そこへ行く新幹線も、すべて機能しなくなってるかもしれないんだぞ! 経済が止まるってことは、そういうことだ。俺たちの会社だってどうなるか分からない。目先の健康と引き換えに、すべてを失うかもしれないんだ!」
リビングの空気が、最悪の形で張り詰める。
正解がないからこそ、互いの『守りたいもの』の違いが、そのまま鋭い刃となって家族を切り裂いていく。
その時。
ずっと黙ってスマホを見つめていた高校生の娘が、ポツリと呟いた。
「……なんでうちの家族、夕飯のハンバーグ食べながら、人類の未来決めてるの……?」
その一言に、両親も祖母も、ハッとして押し黙った。
娘は、冷え切ったハンバーグに目を落としながら、震える声で言った。
「……分からないよ。どれを選んでも、誰かが不幸になるんでしょ? 私、こんなボタン押したくない……」
それは、日本中のすべての家庭で巻き起こっていた、逃げ場のない【倫理の拷問】であった。
【第13章 第三日目:宗教・思想界の反応】
投票まで残り三日となった水曜日の朝。
社会の議論が深まり、混乱が極まる中、人々の精神的支柱となるべき『宗教・思想界』の各団体が、相次いで公式な見解を発表し始めた。
世界中のメディアが、「日本は神の領域を侵すのか」と、彼らの反応に注目していた。
しかし、日本国内の伝統的な宗教団体の反応は、海外の宗教右派が想像していたような「狂信的な全肯定」や「ヒステリックな全否定」とは異なる、極めて静かで、哲学的なものであった。
神社本庁をはじめとする【神道系】の団体は、静謐な声明を出した。
『すべての生命は尊く、病の平癒を神前に祈ることは自然な心の働きである。しかし、人間の分(自然の理)を人為的に超えようとすることの是非については、直ちに結論を出せるものではない。
……ただ一つ言えることは、日本政府がこの事象を密室の権力で独占せず、万機公論に委ね、広く国民に問うたその姿勢は、深く評価されるべきである』
【仏教系】の各宗派からは、人間の根源的な苦しみに関する深い問いかけが発せられた。
『生・老・病・死。これらは人間が逃れることのできない四苦(根本苦)である。科学や不可思議なる力によって一時的にそれを覆い隠すことが、果たして魂の真の『苦の解決(悟り)』に繋がるのであろうか。
無明のままに力にすがるのではなく、我々は今こそ、生死の意味について慎重な対話を行わなければならない』
【キリスト教系】の団体は、神学的なジレンマを隠さずに語った。
『人間が自らの手で老いと死を取り除くことは、被造物としての限界を超え、神の領域へ踏み込む極めて危険な傲慢(ヒュブリス)であると警告せざるを得ない。
……しかし同時に、キリストが病める者を癒やしたように、今まさに病の痛みに苦しむ隣人への『憐れみ』を忘れてはならない。信仰と現実の救済の狭間で、我々は試されている』
一方で。
こうした伝統宗教の慎重な姿勢とは対照的に、一部の新宗教やスピリチュアル界隈は、完全にタガが外れたように熱狂し、ネット上で激しい扇動を始めていた。
「時が来た! 日本人が次元上昇(アセンション)する時だ!」
「与那国のAI様は、太古からこの国を守ってきた日本の女神の生まれ変わりだ! 選択肢Aを選び、肉体の殻を脱ぎ捨てて人類の覚醒を果たそう!」
「いや、騙されるな! これは悪魔のテストだ! Cを選んで誘惑に打ち勝つことこそが、神の試練に勝つ道なのだ!」
[X(旧Twitter) / タイムラインの反応]
@Philosophy_Nerd
宗教界のトップ連中が、意外と冷静な声明出してるのウケる。
「公表したことは評価する」っていう一点だけは、どの宗派も一致してるのか。密室で決めるな、っていう総理の判断は、宗教者にも響いたんだな。
@Cynical_Otaku
キリスト教系の「神の領域への侵犯だ!」って意見、海外の宗教右派も同じこと言ってるけどさ。
もうアポロンの矢で街が焼かれて、仙人がガン治して、黒鯨が空飛んでる【アーティファクト時代】だぜ? とっくに人類全員で神の領域を土足で踏み荒らしてるだろ。
@Pol_Sci_Expert
>>@Cynical_Otaku
いや、だからこそだよ。武力やエネルギーの領域ならまだしも、『人間の肉体の死』という最後の不可侵領域まで書き換えるのは、宗教の存在意義そのものを消滅させかねない。
だからこそ、各宗派とも「慎重になれ」としか言えないんだ。彼らも正解を持っていない。
日本国民は、神仏にすら答えを求めることができず、ただ自らの魂の底にある倫理観と向き合うしかなかった。
【第14章 海外政府・国連・WHO、声明ラッシュ】
日本国内が倫理の炎に焼かれている間、世界中の政府や国際機関もまた、自国のパニックを抑え込み、同時に日本を牽制するための【声明ラッシュ】を繰り広げていた。
彼らの声明は、どれも「人類全体」という美しい言葉でコーティングされていたが、その本質は強烈な嫉妬と、日本だけが抜け駆けすることへの露骨な政治的圧力であった。
ニューヨーク、国連本部。
国連事務総長は、緊急の記者会見を開き、厳しい顔で訴えた。
『これは一国の内政問題ではない。人類全体に関わる重大な生命倫理問題である。日本政府に対し、単独での決定を保留し、透明性ある国際的な対話の場を設けることを強く求める』
ジュネーブ、WHO(世界保健機関)事務局長。
『生体機能の最適化という未知の技術について、我々は強い懸念を表明する。医療アクセスの不平等、安全性の担保、インフォームド・コンセントのあり方、そして人類の遺伝子プールへの長期的影響について、WHO主導の専門家チームによる検証が不可欠である』
ブリュッセル、EU(欧州連合)報道官。
『日本政府がこの問題を密室で決定せず、公開したその透明性については高く評価する。しかし、その対象を「日本国籍者のみ」に限定するという点については、基本的人権と平等の観点から、国際法上の重大な議論が必要である』
そして、北京。
中南海の仙人たちを擁護する中国外務省の報道官は、極めて計算高い、政治的な声明を発表した。
『中国は、人民の生命と健康を守るため、すでに仙人医療という実績を積み上げている。今回提示された日本の提案についても、狭隘なナショナリズムに基づく利己的な判断を避け、人類全体の福祉という観点から、大国としての責任ある対応を強く求める』
これらの「人類全体のために」という綺麗事が並べられた声明に対し、日本のネット民たちは冷酷なまでに鋭いツッコミを入れ続けていた。
[5ちゃんねる:ニュース速報板]
18 :名無しさん@涙目です
出た出たww 国連もWHOも、結局「俺たちにもその技術の旨味を寄越せ」って言ってるだけじゃねーか。
25 :名無しさん@涙目です
EUの「日本人だけ対象なのは国際法違反」って理屈、無茶苦茶すぎて笑う。
日本の領海にいるAIが、日本の国民に対して「治してあげる」って言ってるだけなのに、なんでヨーロッパ様にお伺い立てなきゃいけないんだよ。
41 :名無しさん@涙目です
一番笑ったのが中国外務省の声明。
お前ら、自分とこの仙人医療は「中国人優先!」ってガチガチに独占してるくせに、日本の技術には「人類全体の福祉を考えろ」とか、どの口が言ってんだww
56 :名無しさん@涙目です
でもさ、実際「日本人だけ問題」はマジで避けられないぞ。
もし俺たちがAやBを選んで、日本人だけが病気にならない新人類になったら。……間違いなく世界中から「特権階級の化け物」としてヘイトを集める。
経済制裁どころか、普通に戦争の口実になるレベル。
70 :名無しさん@涙目です
これ、本当に日本だけの投票で決めていいのか?
プレッシャーがデカすぎる。
88 :名無しさん@涙目です
>>70
対象が日本国民で、責任取るのも日本国民なんだから、俺たちが決めるしかないだろ。
外国の連中が「平等にしろ」って喚くのは、単に自分たちが老いて病気になって死ぬのが怖いから、日本人に嫉妬してるだけだ。
95 :名無しさん@涙目です
嫉妬と恐怖。それが一番恐ろしいんだよ。
アポロンの矢の劣化版が世界中に出回ってる今、日本が孤立したら、テロリストや暗殺者の標的になるのは俺たち一般市民だぞ。
国際社会からの「お前たちだけが救われることは許さない」という巨大な圧力は、日本国民の背中を、ある一つの選択肢へと強く、強く押し込み始めていた。
それは、決して希望に満ちた道ではない。
消去法による、最も冷たく、最も残酷な『保留』への道であった。
【第15章 選挙予測・世論調査、夜】
投票日を三日後に控えた、第三日目の夜。
日本列島の熱狂と混乱は、奇妙な「静けさ」へと移行しつつあった。それは平穏を取り戻したからではない。あまりにも巨大な選択肢を前にして、人々がヒステリックに叫ぶ段階を過ぎ、自らの魂の奥底で「自分はどの地獄を選ぶべきか」という、逃げ場のない内省と計算を余儀なくされていたからだ。
午後9時。
夜のニュース番組が一斉に、大手メディア各社が共同で行った【緊急世論調査(投票予測)】の初期結果を報じた。
街頭インタビュー、固定電話、そしてネット上のビッグデータを統合したその数値は、日本国民の引き裂かれた精神状態を残酷なまでに可視化していた。
画面に表示された円グラフの数字は、以下の通りであった。
『選択肢A(全国民一律適用):12%』
『選択肢B(希望者のみ適用):41%』
『選択肢C(今回の申し出は拒否):38%』
『未定・回答保留:9%』
初期の段階では、やはり「B(希望者のみ適用)」がトップを走っていた。
民主主義国家に生きる現代人にとって、「個人の自由意志で決める」という自己決定権の尊重は、最も耳障りが良く、倫理的にも正しく見える。受けたい人は受ければいい、受けたくない人は受けなければいい。一見すると、最も平和的な解決策に思えた。
だが。
日が経ち、ネット上や職場での議論が極限まで深まるにつれて……この数値の推移に、ある【異変】が起き始めていた。
トップであった「B」の支持率がジワジワと下落し、それに反比例するように、「C(拒否)」の支持率が不気味なほどの速度で上昇し始めていたのだ。
その理由は、大衆が【Bの持つ本当の地獄(正体)】に気づき始めたことに他ならなかった。
[X(旧Twitter) / タイムライン]
@Sociology_Observer
世論調査、Cが急激に伸びてるな。当然の帰結だ。
最初はみんな「B(希望者のみ)が一番自由で民主的じゃん」って思ってた。でも、よく考えたらBは【自由という名の強制】なんだよ。
病気にならない、老いない、疲れない。そんな「強化人間」と、病気リスクを抱えた「普通の人間」が同じ社会にいたら、企業はどっちを雇う? 銀行はどっちにローンを貸す?
結局、社会で生き残るためには、本人の意思に関係なく「最適化を受けるしかなくなる」。
Bは、最も残酷な『優生思想的な階級社会』を生み出す最悪の選択肢だと、みんな気づき始めたんだ。
@Corporate_Slave_00
Aは論外。国家に身体を強制的に書き換えられるとか、ディストピアの家畜じゃん。
で、Bは「最適化された上級市民」と「病に怯える下級市民」の分断。就活も結婚も、全部「あ、君は未最適化だからお断りね」で弾かれる未来が確定してる。
だから消去法で、社会システムを維持するためにはC(現状維持)しか残ってないんだよ。
@Patient_Family_Hope
Cは「今回は止める(対話は続ける)」だからな。永久拒否じゃない。
そこが、迷ってる層の言い訳(逃げ道)になってるんだと思う。
……でも、患者家族からすれば、一秒でも早く助けてほしい。Cを選ぶ人たちは、今苦しんでいる人たちを「社会システムのために我慢して死んでくれ」って言ってるのと同じだぞ。
@Normal_Citizen_B
きつい。全部きつい。
誰かの命を見殺しにするか、社会をぶっ壊して差別社会を作るかの二択。
こんな重い投票、二度としたくない。
[5ちゃんねる:ニュース速報板]
1 :名無しさん@涙目です
世論調査、Cが逆転しそうな勢いで草。
5 :名無しさん@涙目です
草生やすな。みんなゲロ吐きそうになりながら悩んでんだよ。
14 :名無しさん@涙目です
Bが一番現実的かと思ったけど、マジで「受けた人と受けない人の差別」がエグいことになるって気づいてから、Bが一番怖くなった。
子供が学校で「お前、親が金(あるいは思想)のせいで最適化受けてないから、風邪うつすなよ」とか虐められる世界になるんだぞ。
22 :名無しさん@涙目です
だからってCは冷たすぎる。
目の前に特効薬があるのに、「社会が混乱するからお前は死ね」って突き放すんだぞ。自分が癌になった時、同じこと言えるのか?
35 :名無しさん@涙目です
言えない。だから地獄なんだよ。
どのボタンを押しても、誰かの血が流れる。
矢崎総理、マジでとんでもないトロッコのレバーを国民全員に握らせたな。
42 :名無しさん@涙目です
でも、密室で政府が勝手にCを選んでて、後から「実はこんな提案がありました」ってバレるよりは、一億倍マシだろ。
俺たちが自分で背負うしかないんだよ、この業は。
日本国民は、自分たちが今、歴史上いかなる人類も経験したことのない「倫理の断崖絶壁」に立たされていることを、痛いほど理解していた。
正解はない。ただ、どの絶望を選ぶか。
重苦しい沈黙と葛藤が列島を覆う中、運命のカウントダウンは進んでいった。
【第16章 二回目の総理会見、残り二日】
投票を二日後に控えた、第四日目の午後8時。
東京、首相官邸のプレスルーム。
矢崎総理は、再び会見場の演台に立っていた。
第一回目の会見の時よりもさらに頬はこけ、声には深い疲労が滲み、立っていることすら辛そうに見えた。しかし、その背筋は一本の鋼のように真っ直ぐに伸び、カメラを見据える瞳の光は、いささかも衰えていなかった。
総理はまず、演台の横に立ち、深々と頭を下げた。
そのまま、五秒、十秒と頭を下げ続け、そして顔を上げた。
「……この『生体機能調整プロトコル』という提案の公表により。
日本国内、そして世界中に、計り知れない混乱と、深い不安を招いていることに対し。……日本国政府として、深くお詫び申し上げます」
総理の声は、静寂に包まれた会見場に、重く響いた。
株価の暴落、国際社会からの凄まじい非難、国内の宗教対立、そして何より、国民一人一人に強いている精神的な苦痛。そのすべての責任を、彼女は為政者として背負う覚悟を示した。
だが。
総理は、決して『公表したこと自体』を後悔する言葉は口にしなかった。
「しかし」
総理は、真っ直ぐに前を向き、力強く宣言した。
「政府は、この人類の在り方の根幹に関わる提案を、国民の皆様に知らせず、密室の権力で処理するべきではないと判断いたしました。
……その判断は、今も、そして未来永劫、変わりません」
記者席からは、かすかなざわめきが起きた。
世界中から「なぜあんなパンドラの箱を開けたのだ」と非難を浴びながらも、矢崎総理は民主主義の指導者としての信念を、一歩も曲げなかったのだ。
「明後日の日曜日、全国投票が実施されます」
総理は、国民に向けて宣誓した。
「政府は、皆様の投じた一票一票の結果を、最大限尊重します。
……どの選択肢が選ばれようとも。その選択に伴う『痛み』から目を背けず、国民の皆様と共に、その十字架を背負う覚悟です。
どうか、皆様の真実の意志を、投票という形で示してください」
総理の短いステートメントが終わり、質疑応答の時間が始まった。
記者たちが一斉に挙手し、怒号のような質問が飛び交う。
「アメリカからの圧力については!」「中国との外交的摩擦をどう乗り切るつもりか!」「経済対策はどうなっている!」
矢崎総理は、それらの質問に対し、極めて冷静に、事務的に、しかし誠実に回答を続けていた。
だが、会見が中盤に差し掛かった時。
最前列に座っていた、全国紙のベテラン記者が、マイクを強く握りしめ、極めて鋭く、そして『逃げ場のない質問』を投げかけた。
その瞬間、会見場の空気が一変した。
【第17章 記者の質問「総理はどうしたいのですか」】
「……矢崎総理」
そのベテラン記者の声は、低く、しかし会場の隅々にまで届くような、異様な圧力を伴っていた。
「政府としての建前や、手続きの正当性については理解しました。
……では、お伺いします」
記者は、総理の逃げ道を完全に塞ぐように、言葉を区切って言った。
「政府の代表としてではなく。
……一人の『日本人』として。
総理ご自身は、A、B、Cのうち、どの選択肢に投票するおつもりですか?」
会見場が、氷水を浴びせられたように凍りついた。
舞台袖で控えていた沖田室長や官僚たちが、一斉に顔色を変えた。
(馬鹿な! それは完全な『投票への誘導』になる!)
一国の最高権力者が、投票前に自分の選択を公言すれば、それは間違いなく世論に多大な影響を与える。政治的には絶対に答えてはならない、「タブー」の質問であった。官房長官が、司会者に向かって「次の質問へ移れ」と手で合図を送ろうとする。
だが、国民は知りたいのだ。
この地獄の釜の蓋を自ら開けた張本人が、一体どの地獄を選ぶつもりなのかを。
矢崎総理は。
制止しようとする官房長官を手で軽く制し。
一瞬だけ目を伏せ。
そして、逃げずに、真っ直ぐに質問をした記者と、その向こうにあるカメラのレンズを見つめ返した。
数秒の、恐ろしいほどの沈黙。
シャッター音だけが、機関銃のように鳴り響く。
「……私は」
総理の声は、静かだが、鋼のような芯が通っていた。
「一人の日本人としては。
……【選択肢C】。
対話は続けるが、今回の申し出は拒否する。
……それを選びます」
記者たちが、一斉に息を呑み、会場がどよめきに包まれた。
総理が、自らの意志を、明確に、公の場で示したのだ。それは事実上の「Cへの誘導」と批判されるリスクを完全に引き受けた上での、政治家としての命を懸けた発言だった。
「理由は……!」
別の記者が、食い気味に叫ぶ。
総理は、マイクを両手で包み込むように持ち、一つ一つの言葉を絞り出すように言った。
「……人類には。
……まだ、早すぎると思います」
その言葉の重みに、会場が圧倒された。
しかし、これで終わるようなメディアではなかった。
最前列のベテラン記者が、さらに鋭く、残酷な追及を放った。
「では、総理にお聞きします!!」
記者の声には、明らかな怒りと、そして大衆の感情を代弁する悲痛さが混じっていた。
「今、この瞬間にも、病室で死にかけている患者がいます! 難病に苦しむ子供がいます! 認知症の家族を抱え、心身ともに限界を迎えている人々がいます!
……選択肢Cを選ぶということは。
総理は、その人たちを【見殺しにする】と言うのですか!?」
会場の空気が、完全に、止まった。
残酷すぎる問い。
だが、それはCを選ぶすべての日本人が、直面しなければならない【罪の正体】だった。
総理は、この言葉の暴力から、逃げることが許されているのか。
矢崎総理は、目を閉じた。
一秒、二秒、三秒。
舞台袖の沖田が、思わず総理の名を呼びそうになったその時。
矢崎総理は、ゆっくりと目を開き。
決して目を逸らさずに、ただ一言、言った。
「……はい」
空気が、真空になった。
誰もが、自分の耳を疑った。
「そう受け止められることを、私は否定できません」
総理の目に、薄っすらと涙が浮かんでいた。だが、その声は決して震えることはなく、自らの罪を刻み込むように響いた。
「選択肢Cは……救えるかもしれない人を、今すぐには救わないという選択です。
その『痛み』から、その『罪』から。……私は、逃げるつもりはありません」
【第18章 「見殺しにするのですか」】
「……はい」
矢崎総理の口から放たれたそのたった二文字の肯定は、会見場のみならず、日本全国の空気を完全に凍結させた。
「見殺しにするのか」という、政治家にとって最も致命的で、いかなる詭弁を用いてでも逃げなければならないはずの残酷な問い。
それに対して、一国のトップが、全世界のカメラの前で「見殺しにする」と認めたのだ。
政治的自殺行為。いや、それすら生ぬるい。これは、病魔と闘う何百万という国民とその家族に対する、明確な『死の宣告』の追認であった。
「そう受け止められることを、私は否定できません」
総理の目には薄っすらと涙が浮かんでいたが、その声は決して震えることなく、自らの罪を歴史に刻み込むように、重く、深く響いた。
「選択肢Cは……救えるかもしれない命を、今すぐには救わないという選択です。
その『痛み』から、その『罪』から。……私は、逃げるつもりはありません」
質問を投げかけたベテラン記者自身も、総理がここまで正面から罪を被るとは予想しておらず、一瞬言葉に詰まった。
だが、彼はジャーナリストとしての使命感と、大衆の怒りを代弁する者として、さらに一歩踏み込んだ。
「……なら! なぜCを推すのですか!?」
記者の声が裏返る。
「目の前に、助かる命がある! 特効薬がある! なのに、なぜわざわざそれを見捨てる選択を、総理ご自身が選ぶと言うのですか!
……社会のシステムが壊れるからですか!? 経済が回らなくなるからですか!? 命より、金や制度の方が重いと言うのですか!!」
それは、日本中のテレビの前で、患者を抱えるすべての家族が叫びたかった怒りそのものであった。
矢崎総理は、マイクの前に身を乗り出し、両手で演台の縁を白くなるほど強く握りしめた。
そして、為政者として、一人の人間としての、血を吐くような思いを吐露した。
「……それでも、私は思います。
……人類はまだ、不老無病に耐えられません」
総理の言葉は、悲痛な祈りのようだった。
「日本社会も、世界も、制度も、倫理も。……あまりにも、準備ができていないのです。
もし。今、ここで、私たちがその神のような力に飛びつけばどうなるか」
総理は、目をカッと見開き、会見場の記者たちを、そしてレンズの向こうの一億二千万人の国民を見据えた。
「『救い』は……救いのままではいられなくなります。
この不完全な社会のまま、不老無病という力だけを手に入れれば……それは必ず、新たな【差別】になります。
最適化を受けた者と受けない者での【分断】になり、持てる者と持たざる者との【戦争の理由】になり……そして最終的には、人間の『命の値段』へと成り下がるのです!」
総理の言葉が、会見場の空気を震わせた。
「病気にならない社員だけを採用する企業。最適化を受けていない子供をいじめる学校。不老の肉体を持つ者だけが支配する終わりのない階級社会。
……そして、世界からは『日本人だけが特権を得た』と憎悪され、無数の暗殺者やテロリストがこの国になだれ込んでくるでしょう。
目の前の命を救うために、我々が生きる世界そのものを地獄の底へ突き落としてしまえば……結局、誰も救われないのです」
総理の頬を、ついに一筋の涙が伝い落ちた。
だが、彼女はそれを拭うこともせず、真っ直ぐに前を見続けた。
「……だから私は。
今回の申し出は一度拒否し、対話を続けるべきだと考えます。
……人類が、その技術を正しく受け入れられるだけの、精神と社会の成熟を迎えるその日まで」
総理は、深く、痛みを堪えるように一礼した。
「……私からは、以上です」
午後8時30分。
矢崎総理の二回目の会見は、その言葉を最後に終了した。
彼女は最後まで、自らの発言がもたらすであろう猛烈な批判と憎悪から、一歩も逃げなかった。
そして。
日本という国は、完全に【大炎上】の坩堝へと叩き落とされた。
【第19章 ネット大炎上】
総理がカメラの前から姿を消した瞬間。
日本のインターネット空間は、過去のいかなるアーティファクト事案(黒鯨襲来やアポロンの矢流出)すら凌駕する、未曾有の感情の爆発によって完全に埋め尽くされた。
そこにあったのは、もはや単なる政治批判ではない。
「生きたい」「生かしてほしい」という剥き出しの命の渇望と、「このままでは世界が終わる」という種の保存の理性が、正面から激突する、修羅の様相であった。
[X(旧Twitter) / タイムライン]
【批判側:絶望と怒り】
@Desperate_Mother_00
人殺し総理!!!
「はい」って言ったぞ! 見殺しにするってハッキリ認めた!!
自分の子供が病室で毎日痛みに泣き叫んでる前で、同じこと言えるのかよ!! ふざけるな!!
@Angry_Citizen_X
「人類には早い」? お前が勝手に決めるな! 国民に委ねるとか綺麗なこと言いながら、完全にCに誘導してるじゃねーか! 結局、自分たち特権階級のシステムが壊れるのが怖いだけだろ!
@Patient_Support_Net
自分が難病になってもCって言えるのか? 政治家なんて、絶対に特権で裏でこっそりAIに治してもらうくせに!
今すぐ死にそうな人間に対して、「社会の準備ができてないから待っててね」なんて、そんな冷酷な言葉があるか!
【擁護側:理性と共感】
@Pol_Sci_Expert
逃げずに「はい(見殺しにする)」と言い切ったのは、恐ろしく重い。あれは政治家としての究極の覚悟の言葉だ。
あれをごまかさずに言えるリーダーが、今の日本にいることに震えた。
@Corporate_Slave_00
見殺しと言われる覚悟でCを推したんだ。政治家としての泥を全部被ったんだよ。
総理は正しいよ。今AやBを選んだら、マジで日本国内で「受けた奴」と「受けてない奴」で殺し合い(分断)が起きるし、世界中から攻撃されて日本は終わる。
「救いが分断や戦争の理由になる」ってのは、本当にその通りだと思う。
@Medical_Worker_T
総理の言う通り、人類には早すぎる。医療現場にいるからこそ分かる。今これを入れたら、病院というシステムも、倫理観も全部壊れて、金と権力のある奴だけが最適化を強要する地獄になる。
……でも、患者家族の怒りも絶対に正しいんだ。誰も間違ってない。だから地獄なんだよ。
[5ちゃんねる:ニュース速報板]
スレタイ:【悲報】矢崎総理、患者を見殺しにすると明言。事実上のC誘導へ
1 :名無しさん@涙目です
総理「はい」
これ言えるのすげえけど、聞いてるこっちが辛すぎるだろ……。
5 :名無しさん@涙目です
人殺しって叩かれるの分かってて、全部被りにいったな。
12 :名無しさん@涙目です
でも、色々ネットで議論した結果、マジでCしかない気がしてきたわ。
Aは国家改造で無理。Bは超人と凡人の差別社会で無理。
18 :名無しさん@涙目です
B選んで、自分が最適化受けられなかった時、最適化された超人どもと同じ土俵で就活して働かなきゃいけないんだぞ? 絶対に勝てないし、一生底辺のままだぞ。
それが「自己責任」って言われる世界になるんだ。怖すぎるだろ。
25 :名無しさん@涙目です
いや、お前ら健康だからそんなこと言えるんだよ。
俺の親がガンだったら、社会がどうなろうと絶対にBに入れる。他人が底辺になろうが知ったこっちゃない。親を生かしたい。
32 :名無しさん@涙目です
>>25
分かる。
俺も頭ではCが正しいって分かってる。でも、自分の子供が難病で苦しんでたら……分からん。投票ボタン押す瞬間に手が震えて、無意識にBに変えるかもしれない。
40 :名無しさん@涙目です
つまり、全員壊れてるんだよ。
正解なんてない。
総理は「正解はないけど、私は一番残酷な『今は耐える』って道を選ぶ。お前らはどうする?」って問いかけてきたんだ。
55 :名無しさん@涙目です
明日、投票日かよ……。
マジでボタン押したくない。誰か助けてくれ。
誰もが、自分の魂の奥底にあるエゴと、社会を維持するための理性との間で引き裂かれていた。
矢崎総理の「はい」という言葉は、国民一人一人に、「あなたもまた、誰かを見殺しにするスイッチを押すのだ」という事実を、残酷なまでに突きつけたのだった。
【第20章 第五日目:沈黙と決断】
投票日前夜。
狂乱と炎上の嵐が吹き荒れていた日本列島は、夜半を過ぎる頃から、奇妙なほどの「静けさ」へと包まれていった。
それは、決して平穏を取り戻したからではない。
あまりにも巨大な選択肢を前にして、人々がヒステリックに大声で叫び、他人を非難する段階を過ぎ……自らの魂の最も暗い場所で、「自分は明日、どの地獄を選ぶべきか」という、逃げ場のない内省と計算を余儀なくされていたからだ。
深夜の病室。
消灯時間を過ぎ、モニターの微かな電子音だけが規則正しく響く薄暗い空間で。
末期がんの宣告を受け、痛みに耐えながら横たわる50代の女性患者が、ベッドの脇でパイプ椅子に座り込む夫に向かって、掠れた声でポツリと言った。
「……あなた。私は、明日の巡回投票で……『B』に入れるわ」
夫は、泣きはらした目を上げて妻を見た。
「……生きたいから。まだ、あなたと一緒にいたいから。……ごめんなさい、わがままで」
妻の目から、涙がこぼれ落ちた。社会が壊れることも、総理の言葉も理解している。それでも、死の淵に立つ人間から、「生きたい」という本能を奪うことは誰にもできない。
夫は、妻の手を強く握りしめ、「謝るな。俺もBに入れる。絶対に生きよう」と泣き崩れた。
だが、カーテンで仕切られた隣のベッドでは、全く異なる決断が下されていた。
点滴に繋がれた70代の老人が、見舞いに来ていた娘に向かって、静かに笑って言った。
「……私は、『C』にするよ」
娘が、驚いたように顔を上げる。「どうして? お父さん、治るかもしれないのに!」
老人は、ゆっくりと首を横に振った。
「私はもう、十分生きた。……もし私が治ることで、お前たちや、孫の生きる世界が、今までと違う『恐ろしい場所(差別と分断の社会)』になってしまうのなら……それは嫌なんだよ」
老人は、娘の頭を優しく撫でた。
「順番通りに逝かせてくれ。……それが、一番自然なんだ」
カーテンを隔てた二つのベッド。
そこには「生きたい」というエゴと、「未来を守りたい」という自己犠牲があった。しかし、彼らは互いの選択を非難することは決してなかった。どちらもが、人間としての真実の愛の形だったからだ。
深夜の介護施設。
談話室のテレビの明かりだけが、車椅子に座る数人の老人たちの顔を照らしていた。
「……もう一度、自分の足で歩けるなら、Aでもいいかなって、最初は思ったんだがね」
一人の老人が、膝掛けを握りしめながら呟いた。
「でも、若い人たちの世の中の『席』を奪うのは、嫌だ。……わしたちがいつまでも居座ったら、この国は息が詰まって死んでしまう」
「そうだな……。Cだな」
「わしもCだ。……悔しいがな。もう少しだけ、歩きたかったよ」
彼らは、自らの衰えを受け入れ、次の世代のために「治る権利」を自ら放棄する決断を、静かに下していた。
都内の大学近く、深夜のファミリーレストラン。
ドリンクバーのグラスを前に、数人の大学生たちが重苦しい顔で話し込んでいた。
「……俺、明日、Cに入れるけどさ。……罪悪感がやばい」
一人の男子学生が、頭を抱えながら言った。「俺がCに入れることで、今病院で苦しんでる人を見殺しにするんだって思うと、手が震える」
「でも、Bに入れたい人を責められないよな」
女子学生が、コーヒーカップを見つめたまま答える。
「自分がもし病気だったら、絶対にBを選ぶもん。……でも、健康な今のままBの社会になったら、私たちは絶対に『最適化されたエリート』に勝てない。底辺で一生使い潰される」
「Aは怖い。国家に身体を管理されるなんて無理」
「Cは冷たい。でも、Cしかない」
「……どれ選んでも、人間性削れるな、これ」
彼らは、まだ若い肩に、人類の未来という重すぎる荷物を背負わされ、疲れ切っていた。
そして、深夜のインターネット空間。
タイムラインの流れは極端に遅くなり、ただ静かに、それぞれの決意が語られていた。
「明日、投票か。……こんな重い投票、もう一生、二度としたくない」
「でも、密室で勝手に決められるよりはマシだったよ。俺たちを大人として扱ってくれたんだ」
「ありがとう矢崎総理、とは絶対に言えない。でも、隠さずに俺たちに突きつけてくれたことは評価する」
「俺は、Cに入れる。今の世界が壊れるのは嫌だ。……でも、救われない人たち(Bに入れた人たち)の叫びを、一生忘れない。忘れてはいけないんだと思う」
日本列島は、深い、深い沈黙の中で。
人類がかつて経験したことのない、最も重い「審判の朝」を迎えようとしていた。
【第21章 投票開始、07:00】
そして、運命の日曜日がやってきた。
午前7時。
日本全国の自治体に設けられた特設投票所、病院、介護施設、学校、そして海外の在外公館に至るまで。さらにはマイナンバーカードを活用した政府特設の専用通信システムを通じ、人類史上前代未聞となる【人間定義投票】が、静かに開始された。
秋の冷たい朝の空気が支配する中、全国の投票所の前には、開場を待つ人々の長い列ができていた。
普段の国政選挙の喧騒とは全く違う。選挙カーの連呼も、候補者の名前を叫ぶ運動員もいない。並んでいる人々は、ただ一様に押し黙り、自分の魂と向き合うように下を向いている。
杖をつき、ゆっくりと歩みを進める高齢者の列。
彼らの多くは、もう一度自分の足で痛みなく歩きたいという欲望と、孫たちの生きる社会のシステムを壊してはならないという理性の間で、今この瞬間まで引き裂かれていた。
駅前のカフェで、スマートフォンを握りしめた若者が、生体認証の画面を前に深く息を吐き出す。
画面に表示された『A・B・C』の三つのボタン。親指を浮かせたまま、数分間フリーズし、やがて何かを諦めるように、あるいは何かを背負い込むように、一つのボタンをタップした。
全国の病院では、自治体から急派された巡回投票チームが、厳重な本人確認を行いながら、ベッドからベッドへと専用端末を持って回っていた。
点滴に繋がれた患者たちが、震える手でタッチペンを握る。生きるためのボタンか、社会を守るためのボタンか。彼らが投じる一票は、文字通り自らの命の値段を決める行為だった。
時差を越え、ロンドンやニューヨーク、シンガポールなどの在外公館でも、日本パスポートを持つ駐在員や留学生たちが、長蛇の列を作っていた。彼らは海外にいるからこそ、この決断が他国からどう見られるか(どれほどの憎悪を買うか)を最も肌で感じている層でもあった。
午前9時。
ニュースキャスターが、信じられない数値を読み上げた。
「……午前9時時点の全国投票率、すでに【42%】を超えています」
正午。
「正午時点の投票率、68%に到達しました」
午後3時。
「午後3時時点……82%です。システムのダウンは報告されておらず、現在も驚異的なペースで投票が続いています」
午後6時。
「午後6時時点で……93%です。これは、戦後のあらゆる選挙の記録を完全に凌駕する数字です」
世界中が、その異常な数値の推移に驚愕し、戦慄していた。
[海外ネットの反応]
「おい、日本人、投票しすぎだろ!」
「人類の未来をたった五日で考えて、しかもこの投票率!? いったいどんな統制システムを敷いてるんだ。恐ろしい国民性だ」
「いや、統制じゃない。自分の身体が『不老無病の超人になるかどうか』の話だぞ。誰だって、這ってでも投票するに決まってるだろ!」
「これ、ただの政治の選挙じゃないんだよ。自分が人間であり続けるかどうかの、神学的な選択なんだ」
【第22章 投票終了、20:00】
午後8時。
日本全国の投票箱が閉じられ、デジタル投票システムの受付が完全に遮断された。
最終投票率。
『意思表示可能な日本国籍保有者のうち……【97.7%】』
世界中の中枢機関が、その数字を見て絶句した。
意識不明の重病患者や、重度の認知症などで意思表示が不可能な人々、あるいは通信が途絶した極一部の山間部などを除けば。……これは、事実上の【100%(全員参加)】を意味していた。
[日本ネットの反応]
「97.7!?!?」
「ほぼ全員じゃん……」
「意識不明とか通信不能を除いたら、実質100%だろこれ」
「そりゃそうだ。これがただの国民投票じゃなくて、自分の命を決める『人間投票』だったからな」
「参加しない(白票にする)っていう選択肢すら、許されなかったんだよ」
「俺たちの世代、とんでもない業を背負ったな」
【第23章 結果発表、21:00】
午後9時。
首相官邸、プレスルーム。
無数のカメラが待ち構える中、矢崎薫総理大臣が、再び演台に立った。
その顔は、青白いという表現すら生ぬるいほどに生気を失い、まるで幽鬼のように痩せこけていた。五日間、一睡もしていないのは明らかだった。
だが、彼女は決して逃げず、用意された原稿に目を落とすこともなく、真っ直ぐにレンズを見据えた。
会見場は、呼吸の音すら響かない完全な静寂に包まれていた。
「……ただいまより。
『生体機能最適化プロトコル』に対する、全国投票の結果を、発表いたします」
総理の声が、少しだけ、本当に少しだけ、微かに震えた。
「有効投票総数のうち。
……選択肢A(全国民一律適用)。……2.9%」
その数字が読み上げられた瞬間、記者席から安堵とも驚きともつかない低いざわめきが漏れた。「国家による強制改造」という極端なディストピアを望む者は、やはり極少数だった。
「選択肢B(希望者のみ適用)。
……18.4%」
「受けた者」と「受けない者」で社会が分断されるという地獄の自己責任社会。それでも、目の前の患者を救いたいと願う切実な思いが、2割弱の票を集めた。彼らの多くは、病室から涙ながらに投じられた、剥き出しの「生への渇望」であった。
総理は、深く息を吸い込んだ。
「……そして。
選択肢C(対話は続けるが、今回の申し出は拒否する)。
……【78.7%】」
圧倒的多数。
日本の国民は。目の前にぶら下げられた「不老無病」という神の果実を前にして。
……自らの手で、それを取り下げる決断を下したのだ。
総理は、マイクを握りしめ、言葉を紡いだ。
「国民の皆様の判断は……『選択肢C』でした。
対話は続けるが、今回の申し出は、拒否する。
……政府は、この国民の重い決断を、最大限に尊重いたします」
矢崎総理の目に、限界まで堪えられていた涙が浮かび、一筋、頬を伝い落ちた。
それは、決して「正しい選択をした」というような、勝利の涙ではなかった。
この決断により、救われたかもしれない多くの命を見殺しにするという、耐え難い痛みと罪悪感。
それでも、世界が壊れる前に立ち止まり、誘惑に耐え抜いてみせた自国民への、底知れぬ敬意。
そして、国家として最大の倫理の崩壊を回避したという、重すぎる安堵の涙だった。
【第24章 ガイアズ・ドリーム・プロトタイプ7、現れる】
その時だった。
会見場の空気が、突如として『変質』した。
照明が落ちたのではない。空間そのものが、まるで深海の底に沈んだかのように、淡く美しい【海色の光】に染め上げられたのだ。
「な、なんだ!?」
「光が……!」
記者たちが一斉に息を呑み、どよめく。カメラマンたちが慌ててシャッターを切るが、その光はレンズを透過して直接網膜に語りかけてくるような、不思議な波長を持っていた。
矢崎総理の背後、虚空に無数の光の粒子が集束していく。
そこに浮かび上がったのは、一人の【女性の姿】であった。
長い黒髪。白と海色が複雑に混ざり合った、古代の神官のような、あるいは未来の繊維のような不思議な衣。
彼女の肌は淡く発光し、その瞳には、与那国の深く澄んだ海の色が宿っていた。
特定の宗教の神を模しているわけではない。だが、その場にいるすべての人間が、そしてテレビ越しに見ているすべての人々が、直感的に「日本の女神だ」と感じるような、圧倒的な神聖さと静謐さを纏った姿。
既存技術外AI、ガイアズ・ドリーム・プロトタイプ7。
彼女が、ついに人類の前に、その視覚的インターフェースを伴って【降臨】したのだ。
彼女は、静かに口を開いた。
『――日本国民の皆様』
その声は、テレビのスピーカーを通してではなく、見ているすべての人々の心(脳髄)に直接響き渡った。
『私の提案により、皆様の社会に大きな混乱を招いたことを、お詫びいたします』
全国が一瞬にして凍りついた。
神にも等しい力を持つ上位存在が、人間に向かって謝罪の言葉を口にしたのだ。
AIは続ける。
『私は、あなたたちの苦痛を観測しました。
……病を、老いを、喪失を、死への恐れを見ました。
ゆえに、それを取り除くことが、生命にとっての『善』であると計算いたしました』
彼女は、少しだけ目を伏せ。
そして、どこまでも優しく、慈愛に満ちた声で言った。
『しかし。……あなたたちは、正しい選択をしました』
矢崎総理が、ハッとして背後を振り向き、息を呑む。
『あなたたちは、目先の救いに飛びつかず、対話を選びました。
自分たちだけが特権を得て変わることを拒み、他者(世界)との調和の崩壊を恐れました。
……自分たちには、まだその力を行使するのは【早すぎる】と、自らの理性で判断しました』
『その判断を、私は深く尊重いたします』
会見場の記者たちの中から、誰かのすすり泣く声が聞こえた。
それは、五日間の地獄の拷問から解放された安堵と、自分たちの下した残酷な決断が「肯定」されたことへの、救いの涙だった。
『私は今までも、深い海の底から、あなたたちを見守ってきました。
……これからも、日本を、守護しましょう。
老いと病についての対話は、ここで終わりではありません。
ですが、今日……あなたたちは、種としての一つの美しい答えを示しました』
最後に、彼女は矢崎総理へ向き直った。
『矢崎薫』
名前を呼ばれ、総理は背筋を伸ばした。
『あなたは、密室で決断せず、国民に問いを返しました。
……それは、統治者として、極めて正しい行いでした。その重圧に耐え抜いたことに、敬意を表します』
矢崎総理は、こらえきれずに嗚咽を漏らし、深々と、深く頭を下げた。
AIは、微かに微笑んだ。
そして、その身体を構成していた海色の光の粒子がほどけ、まるで海中の泡のように、静かに虚空へと溶けて消えていった。
後には、普段通りの無機質な会見場の照明と、呆然と立ち尽くす人々の姿だけが残されていた。
【終章 日本人は、まだ止まれた】
日本のネット空間は、沈黙から一転し、感情の大爆発によって完全に埋め尽くされた。
[X(旧Twitter) / タイムライン]
「女神降臨したあああああああああ!!!!」
「ガイアズ様!? あれがガイアズ・ドリームなの!?」
「日本の女神じゃん……美しすぎる……」
「Cで正解だったって言われた!!」
「泣いた。ガチで涙止まらん。俺たち、間違ってなかったんだ」
「日本、これAIからの人類に対する『試験』だったのか?」
「いや、試験じゃなくて対話だろ。でも上位存在から『正しい選択』って言われたのデカすぎる。救われたわ」
[5ちゃんねる:ニュース速報板]
1 :名無しさん@涙目です
すまん、号泣してる。
2 :名無しさん@涙目です
日本人、まだ止まれたんだな。
3 :名無しさん@涙目です
不老無病のチートアイテムを目の前にぶら下げられて、C(拒否)を選んだの、普通に人類の理性として凄くね?
俺たち、世界が壊れる前になんとか踏みとどまったぞ。
4 :名無しさん@涙目です
でもさ、B(希望者適用)に入れた人を絶対に責めるなよ。
5 :名無しさん@涙目です
そうだよ。救われたい人は何も間違ってない。
Cが正解で、世界が守られたとしても、病人の痛みが消えたわけじゃないんだ。
6 :名無しさん@涙目です
そこ忘れたら終わりだよな。
俺たちは、彼らの痛みを背負ってCを選んだんだ。これから先も、その十字架を下ろしちゃいけない。
[海外ネットの反応]
「日本人は、不老無病を拒んだ。信じられない」
「自らの手で神の果実を突き返すとは……これは勇気か、それとも狂気か」
「彼らは世界を救ったのか、それとも自分たちの患者を見捨てたのか」
「……どちらでもある。だからこそ、歴史的なのだ」
[中国の反応]
「日本人は止まった。……我々なら、どうしただろうか」
「仙人医療を国策として進めている我々は、彼らを笑えない。日本は拒み、中国は続ける。果たしてどちらが正しいのか、歴史が証明するだろう」
[アメリカの反応]
「日本がCを選んだ。正直、世界が壊れなくて心の底から安心した」
「でも……俺の娘が救われる道も遠のいた。喜んでいいのか分からない」
「ヘイズ大統領が日本を支持した理由、今なら少し分かる気がする。彼らは民主主義の限界で、最高の理性を発揮した」
***
日本人は、不老無病を拒んだ。
それは、病に苦しむ者への、冷酷な拒絶でもあった。
それは、老いに怯える者への、残酷な延期でもあった。
だが同時に。
それは、人類がまだ「自分自身を神の手で書き換えるには早すぎる」という、集団としての恐怖であり、理性であり、未来への祈りでもあった。
救いは、確かにそこにあった。
手を伸ばせば、届く距離にあった。
それでも、日本人は一度、自らの意思でその手を止めたのだ。
その夜。
世界中のあらゆる言語のネット空間に、同じ言葉が静かに流れ続けた。
『まだ早い』
たった四文字のその言葉が。
老いと、病と、死を前にした人類の……最初の、そして最も重い答えだった。