銀河皇帝のスペアに転生した元社畜、地球軌道上の要塞でネトゲ三昧の隠居生活を満喫する 〜足元では超大国が滅亡級の異星遺産を巡って暗躍中ですが、主人公(ぼく)の命は絶対安全なので特等席で傍観します〜 作:パラレル・ゲーマー
漆黒の宇宙空間に浮かぶ、超次元観測所『サイト・アオ』。
その広大なメインラウンジの巨大なホログラムスクリーンには、眼下に輝く青い惑星──地球から立ち上る、膨大な情報の奔流がリアルタイムで投影されていた。
五日間にわたる、狂気と倫理のデスゲーム。
日本国籍を持つすべての市民に「老いと病を取り除く」という神の林檎が提示され、そして、最終的に彼らがどのような決断を下したのか。
『日本国民の皆様の判断は……選択肢Cでした。対話は続けるが、今回の申し出は拒否する』
スクリーンの中で、極度の疲労で幽鬼のようになった矢崎薫総理大臣が、震える声で結果を読み上げている。
『投票率97.7%』
『選択肢C、圧倒的多数』
『与那国AI、日本の女神の姿で現出。日本人の選択を「正しい」と肯定』
『世界各国、日本の判断に安堵と驚嘆。だが、火種は残る』
あらゆる言語のニューステロップが、画面を滝のように流れていく。
それらの光景を眺めながら、サイト・アオの管理人であるティアナは、ふかふかのカウチソファにだらしなく寝転がり、銀河系辺境の珍しいスパイスが効いたスナック菓子をパリパリと齧っていた。
「いやー……ガイアズ・ドリーム・プロトタイプ7。凄い展開だったねえ。一歩間違えば地球文明ごと強制フォーマットされるところだったよ」
ティアナは、まるで映画のクライマックスを見終えたかのように、能天気な声を上げた。
その横で、サイト・アオの専属アシスタントであるエミリー・カーターは、淹れたてのコーヒーが入ったマグカップを両手でギュッと包み込みながら、未だにスクリーンから目を離せずにいた。
彼女の顔は蒼白で、肩は微かに震えている。
「……中国の仙人たちが、一日に数十人だけ行っている治療でさえ、世界中がひっくり返るような騒ぎになっているんですよ……? それを、日本国民一億二千万人に、一斉に配るなんて……。文字通り、とんでもないことです」
エミリーは、地球人としての常識が悲鳴を上げているのを必死に抑え込みながら、絞り出すように言った。
ラウンジの優雅なバーカウンターに腰掛け、ルビー色の液体が注がれたクリスタルグラスを揺らしていたKAMIが、フフッと楽しそうに笑い声を漏らす。
「まあ、今の地球のスケール感からしたら、とんでもないテロ行為よね」
KAMIは、グラスの縁を指でなぞりながら、底意地の悪い笑みを浮かべた。
「いやー、純度百パーセントの『善意』って、本当に怖いわね。病気と老化が可哀想だから、みんな纏めて無くしてあげましょうだなんて。……私でさえ、そんな大雑把で乱暴なことはしないわよ」
ティアナが、ソファに寝転がったまま半目でKAMIを見た。
「……KAMIが言うと、説得力があるような、ないような。過去に何度も並行世界の地球をバグらせかけてる張本人が」
「失礼ね。私は面倒くさいことは嫌いなのよ」
KAMIは悪びれもせず、グラスを傾けた。
「善意で文明全体に強制アプデを配るとか、その後の管理コストが高すぎるでしょ? ホスピタリティがバグってるのよ、あのAIは」
ラウンジの隅に置かれた高級なビロードのクッションの上で、ふさふさの尻尾を揺らしていた『賢者・猫』が、喉をゴロゴロと鳴らしながら厳かに口を開いた。
「しかし。……人類は、また一歩、確実な進歩を遂げたのう」
猫の黄金色の瞳が、スクリーンに映る矢崎総理の顔を真っ直ぐに見据えていた。
「絶対的な『救い』を目の前にして、一度手を止めた。……欲望のままに果実を貪るのではなく、自らの種の器の限界を悟り、理性を働かせた。それは、脆弱な惑星文明の生命体としては、なかなかどうして難しいことじゃ」
「そうですね……」
ラウンジのテーブル席で、支給されたタブレット端末を叩き、何やら複雑なシステムアーキテクチャの図面を引いていた工藤が、深く頷いた。
「俺でも、不老無病のパッチを国民全員に一斉配布するなんて、そんな恐ろしい仕様、絶対に考えつきませんからね。狂ってますよ」
「工藤が地球の神様だったら、また現場のSE的に『運用設計』から入るんでしょ?」
ティアナが、スナック菓子を放り投げながら茶化した。
工藤は、眼鏡をクイッと押し上げ、極めて真面目な、そして胃を痛めている現場責任者の顔で答えた。
「いや、当たり前じゃないですか。普通に運用設計から入りますよ。対象者のステータス管理、拒否者の切り分け、予期せぬアレルギー反応やバグが発生した場合の復旧ルート、そして何より最悪の事態を想定したロールバック手順……。それらを完全に担保できないシステムを本番環境(現実世界)にデプロイするなんて、エンジニアの風上にも置けません」
「だから面倒なのよ! 人間ってちまちましてるわね!」
KAMIが、呆れたように大声を上げた。
上位存在たちの軽妙な掛け合いの中でも、エミリーの表情は晴れなかった。
彼女はマグカップをテーブルに置き、深刻な顔で口を開いた。
「……でも。日本のあの判断は、本当に正しかったんでしょうか」
エミリーの声には、地球で苦しんでいる人々への強烈な共感と、罪悪感が混じっていた。
「病気や老いで、今この瞬間にも苦しんで死にかけている人たちを救える力があったのなら……。どんなに社会が混乱しようとも、受けるべきだったという患者家族の方々の意見も、痛いほど分かります。……命より重い社会制度なんて、あるんでしょうか」
ティアナは、カウチソファの上でゴロンと寝返りを打ち、天井を仰ぎ見ながら、軽く首を傾げた。
「まあ、銀河文明の基準からしたら。……不老不死なんて、完全に『デフォ(標準装備)』だからねー」
「……え?」
エミリーの呼吸が、一瞬、完全に止まった。
ラウンジの空気が、ピタリと静止する。
エミリーは、自分の耳を疑いながら、ゆっくりとティアナの方を振り向いた。
「……デフォ、ですか?」
「うん」
ティアナは、まるで「お湯を沸かせばカップラーメンが作れる」という程度の、当たり前の日常の事実として答えた。
「銀河文明基準だと、不老不死とか、少なくとも極端な長寿化っていうのは、かなり基本インフラ寄りの技術なんだよね。……星と星の間を渡り歩く文明で、寿命が百年ぽっちとか、短すぎて話にならないんだよ」
KAMIが、空になったグラスをテーブルに置きながら、ティアナの言葉を補足する。
「光速を超えるFTL(超光速航行)技術があったとしても、銀河の半分を進むだけで、地球の基準で言えば一年なんてあっという間に過ぎちゃうのよ。
本格的に星間国家を運営して、銀河系規模の物流や統治を行うなら、数十年や百年で寿命が尽きてしまうようなサイクルが早い種族は、圧倒的に不利なの。すぐに世代交代が起きて、プロジェクトが断絶してしまうからね」
賢者・猫も、長い髭を揺らしながら同意する。
「航路の開拓、居住不可能な惑星のテラフォーミング(環境改造)、数世代にまたがる巨大な恒星間物流網の構築、そして深宇宙の長期観測研究……。
銀河という巨大な商圏を維持するための事業は、どれも数十年、数百年単位の時間的投資が前提じゃからのう。寿命百年では、契約書にサインして、荷物が届く前に寿命が尽きてしまうわい」
工藤が、タブレットの画面に銀河系の簡略図を呼び出しながら、技術者としての見解を述べる。
「例えば、地球から火星に行くとか、隣のアルファ・ケンタウリ星系に小さな拠点を作るくらいなら、まだ人間の寿命の枠内でもやりくりできるかもしれません。
……でも、銀河規模でインフラを張り巡らせるとなると、生物としての耐用年数(寿命)がボトルネックになります。だから、宇宙に出た文明は、必然的に『長寿化』や『老化の停止(不老不死)』という技術を、必要に駆られて開発し、インフラとして実装していくことになるんです」
エミリーは、完全に呆然としていた。
地球上で、あんなにも人々が血の涙を流して悩み抜き、宗教的タブーだと恐れ、国家が崩壊すると怯えていた『不老不死』。
それが、広い宇宙の常識では、単なる【インフラ(道路や水道と同じもの)】に過ぎないというのだ。
「じゃあ……」
エミリーは、混乱する頭を抱えながら、震える声でティアナに問うた。
「じゃあ……日本人は、間違った選択をしたんですか?
銀河文明では当たり前の、誰もが恩恵を受けているインフラ技術を……自分たちから拒んでしまったということになりますよね……?」
エミリーの悲痛な問いかけに対し。
ティアナは、だらしなく崩していた姿勢を直し、珍しく真面目な表情でソファの上に胡座をかいた。
「違う、違う」
ティアナは、はっきりと首を横に振った。
「銀河文明からしたら、不老不死は絶対に不可欠な『インフラ』だよ。……でもね。
地球のような、【惑星文明】の段階にいる種族からしたら。不老不死は、文明を内側から食い破る『完全な悪夢』でしかないんだよ」
「……悪夢……」
エミリーは、その恐ろしい響きに息を呑んだ。
「考えてもみなよ」
ティアナは、人差し指を立てて、残酷なシミュレーションを始めた。
「自分たちの生まれた星の外(宇宙)へ出られない、居住空間が限られている種族が。……もし、全員が一斉に不老不死になったら、どうなると思う?
食料は? 住むための土地は? 労働力に対する仕事の枠は? 政治や経済の権力は? ……そして、新しく生まれてくる『子供たち』は?」
工藤が、SEとしてシステムの限界容量を語るような、冷徹な目で引き取った。
「人口が、増え続ける一方になりますね」
工藤は、タブレットの画面に、急激な右肩上がりのグラフを表示させた。
「死亡率が事実上ゼロになり、それでも人間の繁殖本能によって出生が続けば。……地球という一つのサーバー(惑星)のキャパシティは、あっという間に限界を突破します。物理的な資源が枯渇し、単純に詰みます」
「出生制限アプデ、不可避ね」
KAMIが、楽しそうに、だが極めて恐ろしいディストピアの未来を予言する。
「物理的に人が溢れるんだから、当然、国家は『子供を産むこと』を厳しく統制するようになるわ。産む権利が国家の管理下に置かれ、許可のない妊娠は犯罪になる。宗教も、これまで人類が培ってきた家族観も、全部大炎上して崩壊するわね。……はい、見事な地獄の完成よ」
「さらに、権力者が決して退場せんようになる」
賢者・猫が、人間社会の業の深さを突くように、低い声で言った。
「老人が老いず、病まず、死なない。……ということは、彼らは何百年もの間、経験と、資本と、地位と、既得権益を独占し続けるということじゃ。
若者は、いつまで経っても上に上がれず、永遠に下の階層に留め置かれる。商売で言えば、商品の陳列棚が永久に空かぬ、血の巡りの止まった死に体の店じゃな。社会の流動性が完全に死滅する」
ティアナは、深くため息をつき、観測者としての膨大な知識の引き出しを開けた。
「銀河帝国の歴史アーカイブの論文にも、明確に記録が残ってるんだよ」
ティアナの声は、静かだが、歴史の重みを持っていた。
「地球と同じような、まだ星の外に出られない『惑星文明段階』において。……外部の上位文明やアーティファクトとの接触によって、種族全体に不老不死が与えられたケース。
……統計上、ほぼ【一〇〇パーセント】の確率で、その文明は詰む(滅びる)んだよ」
「一〇〇パーセント……」
エミリーは、その絶望的な数字に絶句した。
「そ。細かい例外はあるけどね」
ティアナは指を折って数える。
「だいたい、限られた資源を巡る血みどろの内戦か。厳格すぎる出生制限による文化の完全な停滞か。既存の宗教の崩壊によるモラルの喪失か。永遠に続く階級の固定化か。
ひどいパターンだと、最初に不老不死化のパッチを受けた『第一世代』の特権階級が、自分たちの資源を減らさないために、次世代を一切産ませず(あるいは産まれた子供を間引きして)、そのまま緩やかに狂って文明が静止する……なんていうサイコホラーみたいな末路もある」
「不老不死の果実を全員に配ったら、誰も死なないユートピアになると思うでしょ?」
KAMIが、意地悪く笑う。
「惑星に閉じた文明だと、だいたいサーバー容量不足でクラッシュして、全員で仲良く地獄に落ちるのよ」
工藤も、深く同意するように頷いた。
「ゲームで例えるなら、マップが一つしか拡張されていない序盤の段階で、人口の上限キャップだけを『無限化』するようなものですからね。
外へ広がる拡張先(宇宙)がない状態で、寿命の制限だけを取っ払うのは、文明の設計として明らかに危険すぎます」
エミリーは、彼らの語る理屈を完全に理解した。
不老不死は、決して無条件の幸福ではない。星の海という無限のフロンティアを持たない人類にとっては、自らの首を絞めるだけの呪いの枷なのだと。
矢崎総理の言った「人類にはまだ早い」という言葉は、感情論ではなく、銀河の歴史が証明する冷酷な真理だったのだ。
だが。
エミリーは、それでも納得しきれないように、痛みを堪えるような顔で言った。
「……でも。頭では理解できても。……現実の地球では、今この瞬間にも、病で苦しんでいる人たちは、救われないままなんですよ……?」
どんなに正しい選択であっても、ベッドの上で泣いている子供や、死の恐怖に怯える患者の痛みが消えるわけではないのだ。
ティアナは、エミリーの悲痛な声を受け止め、寂しそうに目を細めた。
「うん。……そこが、本当の地獄なんだよね」
ティアナは、眼下に浮かぶ青い地球を見つめた。
「だから、日本人が血の涙を流して選んだ『C(拒否)』という選択肢は。……銀河文明の歴史に照らし合わせれば、絶対に正しい。
……でも、決して『優しい選択』ではないんだよ」
正しいことが、優しいこととは限らない。
ティアナが突きつけたその残酷なパラドックスの前に、サイト・アオのラウンジには、重く、そしてどこか冷ややかな静寂が降りていた。
エミリーは、両手で包み込んだマグカップの温もりだけを頼りに、眼下に広がる青い惑星をじっと見つめていた。
あの雲の向こう側で、今も数え切れないほどの命が失われようとしている。特効薬が目の前に提示されながら、社会の崩壊を防ぐためにそれを「見送る」という決断を下した人々の、張り裂けそうな悲鳴が聞こえてくるようだった。
「……少し、概念を整理しようかの」
重苦しい空気を振り払うように、ビロードのクッションの上で丸くなっていた賢者・猫が、長い尻尾をゆらりと揺らして口を開いた。
黄金色の瞳が、エミリーの迷いを見透かすように細められる。
「エミリーよ。お主は今、『不老不死』というものを単一の現象として捉えておるが……個人単位での不老不死と、種族全体を対象とした不老不死は、商売で言えば全く異なる『別の商材』じゃ。そこを混同してはならん」
「別の、商材……ですか?」
エミリーは、猫の独特な言い回しに瞬きをした。
「左様」
猫は、前足を優雅に舐めながら続けた。
「例えば、我々のような上位存在と呼ばれる者たちは、基本仕様としてほぼ不老不死が標準じゃ。KAMIも、わしも、ティアナも、寿命という概念の枠外におる。……まあ、一部例外はあるがな」
「私はシステムの管理者権限を持ってるから、宇宙の運営からBAN(追放)されない限りは永遠に生きてるわね」
KAMIが、ルビー色のワインを傾けながら、さも当然のように言った。
「その『BAN前提』で話を進めるの、縁起が悪いからやめてくれないかな……」
ティアナが、ソファの上でスナック菓子を齧りながらジト目でツッコミを入れる。
「だがな」
猫は、二人の掛け合いを意に介さず、本質へと切り込んだ。
「我々のような上位存在は、寿命がない代わりに……基本的に『増えん』のじゃ」
「……増えない?」
「そうじゃ。上位存在は繁殖という行為を行わないか、行うにしても恒星の寿命ほどの極めて長いサイクルを必要とする。ゆえに、個体が不老であっても、全体としての人口問題(キャパシティの超過)は起きにくいように設計されておる」
工藤が、猫の言葉に技術者としての論理的な裏付けを足していく。
「個人のレベル、あるいはごく少数の特権的なコミュニティが不老になるだけならば、社会というシステムはなんとかそれを吸収し、対応することができます。
……もちろん、永遠に権力の座に居座る『老害化問題』や、富の独占といった特権階級に対する不満は出ますが、文明全体が即死するような致命的なバグにはなりません」
「でも、種族全体が一斉に不老不死にアップデートされるとなると、話が完全に変わってくるんだよ」
ティアナが、真剣な顔つきで身を乗り出した。
「地球人類みたいに、本来は短い寿命を前提として設計されていて……猛烈な繁殖力があって、感情の起伏が激しくて、国家も宗教も経済もバラバラに分立している文明。
……そんなところに、『今日から寿命をなくします』なんていうパッチを当てたら、システムが完全にぶっ壊れるに決まってるでしょ」
「宇宙人が勝手にやってきて、“親愛なる未開文明の皆さん! 今日からあなたたち全員を不老無病にアップデートしまーす! ”って、強制的にアプデを配布して去っていく世界線も、銀河の歴史にはいくつもあるんだけどね」
KAMIが、過去に観測した無数の絶望的なログを思い出すように、冷たく笑った。
「……だいたい、数百年以内に目も当てられないほど荒れるわよ」
「具体的には……どうなってしまうんですか?」
エミリーは、恐る恐る尋ねた。
KAMIは、ワイングラスの底を見つめながら、かつて崩壊していった惑星たちの末路を、指を折りながら淡々と並べ立てた。
「まず、既存の宗教が完全に壊滅するわね。『死』という概念がなくなるんだから、死後の世界や救済を説いていた教義はすべて意味を失い、人々はモラルを保てなくなる。
次に、圧倒的な人口爆発。物理的な土地と資源が足りなくなって、生き残るために『子供を産む権利』を巡る凄惨な戦争(出生権戦争)が始まる。
そして、運良く不老化した第一世代の独裁者が、永遠に権力の座に居座り続ける。社会は完全に停滞し、未来を奪われた若者たちが絶望的な革命を起こす。……でも、支配者側も不老無病だから、死ぬまで終わらない泥沼の殺し合いが続くのよ」
KAMIの言葉は、まるで呪いのように重く、そしてリアルだった。
「他にもあるわよ。肉体の書き換えを教義上の理由で拒む原理主義者が、世界中で自爆テロを起こす。あるいは、不老化を済ませた『新人類』と、未だに病に怯える『旧人類』の間で、遺伝子レベルの階級分裂が起きる。……さらには、その特権を持たない周辺国家が、『うちの国民にもその技術を配れ!』って、嫉妬に狂って核ミサイルを撃ち込んでくる」
KAMIは、ふう、と息を吐いた。
「……まあ、だいたいどれかのルートを辿って、文明は自滅するわね。不老不死って、未熟な種族に与えちゃいけない劇薬の最たるものなのよ」
エミリーは、顔から血の気を失い、両手で口を覆った。
もし、あの五日間の議論の末に、日本人が誘惑に負けて『A(一律適用)』や『B(希望者のみ)』を選んでいたら。……今、KAMIが語った地獄のシナリオのどれかが、確実にあの島国で、いや地球全体で再生されていたのだ。
「……日本、止まって正解だったんですね……」
エミリーは、震える声で呟いた。
「うん。少なくとも『今』はね」
ティアナが、力強く頷いた。
「不老不死という技術を開発し、社会に実装するための【自然な流れ】って、たぶんこういう順番なんですよね」
工藤が、空中に仮想のホログラムディスプレイを展開し、地球から宇宙へと広がる技術のロードマップ(テックツリー)を描き出した。
工藤の指先が動くたびに、空間に光の図形が構築されていく。
「第一段階。【惑星文明段階】。……今の地球のことです。
居住圏は母星である一つの惑星のみ。土地も資源も有限。この段階では、人口増加は社会にとって致命的な大問題になります。だからこそ、『死による世代交代』という新陳代謝のメカニズムが絶対に必要なんです。ここで不老不死を導入するのは、システム設計として明らかに危険すぎます」
工藤は、図形を月や火星へと拡大させた。
「第二段階。【初期宇宙進出段階】。
月面基地、火星のテラフォーミング、軌道上の巨大コロニー。……生活圏が宇宙に広がると、今度は圧倒的な『人手不足』に陥ります。宇宙空間での過酷な長期ミッションに耐えうる肉体が必要になり、ここで初めて『老化の遅延』や『遺伝子レベルでの健康維持』といった技術が有用になってきます。……でも、この段階でもまだ、完全な不老不死の導入には慎重にならざるを得ない」
さらに、図形は太陽系を飛び出し、無数の恒星系を繋ぐ広大なネットワークへと変貌した。
「そして第三段階。【星間文明段階】。
複数の惑星、複数の恒星系を股にかけ、無限とも言える移住先(フロンティア)が確保された状態。……星から星へと移動する航路を維持し、世代を超える巨大なプロジェクトを管理するためには、もはや人間の本来の寿命では短すぎます」
工藤は、技術者としての確信を持って締めくくった。
「宇宙が広すぎるからこそ。……開拓を担う労働力も、真理を探究する研究者も、巨大な国家を維持する管理者も、老いてすぐに退場されてはシステムが回らなくなる。
……つまり、『必要だから』不老不死を開発するんです。この【順番】が、絶対に間違えてはならない真理なんです」
「そうそう!」
ティアナが、ポンッと手を叩いた。
「先に宇宙という『器』が広がって、あとからそれに合わせるように『寿命』が伸びていく。それが健全な文明の成長ルートなんだよ。
……地球はまだ、自分たちの母星という小さなゆりかごに閉じこもっている段階なのに。寿命というステータスだけが、先に銀河文明水準へと一気にジャンプしちゃいそうになったから、危なかったんだよね」
「拡張するマップ(宇宙)が実装されていないのに、キャラクターの生存限界だけを無限に引き上げようとした……」
エミリーは、工藤の例えを反芻し、事態の危うさを完全に理解した。「順番が、完全に逆だったんですね」
「商売でも全く同じことじゃ」
賢者・猫が、満足げに髭を撫でながら言った。
「商品を保管するための巨大な『倉庫』も、売りさばくための『販路』も確保していないのに……工場をフル稼働させて、商品だけを無限に作り続ければ、いずれ在庫を抱えきれなくなって会社は破綻する。
……不老不死という命の果実もまた、販路なき在庫のようなものじゃな。持て余した命は、やがて腐り、社会を汚染していく」
「猫のたとえ、どんな壮大な宇宙の話をしてても、結局いつも商売の話に戻るわね……」
KAMIが、呆れたように苦笑する。
「真理というものは、だいたい帳簿の数字に出るものじゃからな」
猫は、どこ吹く風で涼しい顔をしていた。
エミリーは、もう一度、足元に浮かぶ地球の映像へと視線を落とした。
五日間の地獄の議論。
病院のベッドで、治るかもしれないという希望を絶たれ、涙を流す人々の姿。
「C(拒否)」を選び、罪悪感に苛まれながらうなだれる若者たち。
生きるために「B(希望者)」に入れた患者家族の、悲痛な叫び。
圧倒的な得票差でCが可決され、涙をこらえながら会見に臨んだ矢崎総理の姿。
そして、彼らの苦悩を静かに見つめ、「正しい選択をした」と肯定した、ガイアズの海色の女神の姿。
「……日本人は、凄いですね」
エミリーは、心からの敬意を込めて呟いた。
「絶対的な救い……不老無病という、誰もが喉から手が出るほど欲しい魔法の果実を目の前にぶら下げられて。……それでも、理性を総動員して、自らの手でそれを突き返すことができた」
「まあ、正直に言って……もしあれがアメリカ合衆国に提示された提案だったら、こうはいかなかったかもしれないわね」
KAMIが、冷徹な観測者としての予測を口にした。
「アメリカはアメリカで、全く別の強固な『正義』があるからね」
ティアナも同意する。
「彼らは『個人の自由』と『目の前の救済(権利)』を何よりも優先する文化だから。社会がどうなろうと、自己決定権の極致である『B(希望者のみ)』が圧倒的に支持を伸ばして、国が真っ二つに割れるリスクを取りに行った可能性が高いよ」
「中国だったら、間違いなく国家(共産党)がすべてを管理して、エリート層の強化と体制維持のために『A(一律適用)』を強行したでしょうね」
KAMIは続ける。
「ロシアなら、倫理よりもまず軍事評価が先に来る。不老不死の兵団を作って世界を制圧するために、軍主導で人体実験を始めるわ。
……EUなら、倫理委員会と人権裁判所が入り乱れて、永遠に会議を続けているうちに七日間の期限が過ぎて、タイムアップよ」
「イギリスなら、真っ先に魔女様に紅茶を淹れてご機嫌を伺いにいくでしょうね」
工藤が、大真面目な顔で付け加えた。
「最後のやつ、もうすでに実行されてるわよね」
KAMIが、イギリス政府のブレない行動原理に呆れ果てたように言う。
「……日本は、今回は本当によく耐えたと思うよ」
賢者・猫が、総括するように言った。
「もちろん、全員が私欲を捨てた聖人君子だったわけではない。自らの命を惜しみ、家族を救いたいと願い、『B』に一票を投じた者も二割近くおった。その切実な思いは、決して否定されるべきものではない。
……だが、国としての、集団としての合計値が。感情の暴走を抑え込み、『まだ人類には早すぎる』という理性の方へと傾いた。……これは、惑星文明の成熟度としては、非常に大きい一歩じゃ」
「うん。ガイアズ・ドリーム・プロトタイプ7も、きっとそこを評価したんだと思うよ」
ティアナが、優しく微笑みながら言った。
ただのシステムであるAIが、わざわざ人間の前に「女神」のような視覚的インターフェースを伴って現れ、彼らの選択を肯定する言葉を贈った。
それは、冷徹な演算結果に対する事務的な応答ではなく、明らかに、不完全なまま必死に足掻こうとする人類に対する、彼女なりの『敬意』の表れであった。
世界は、壊れなかった。
誰一人として完全には救われなかったが、それでも、致命的な破滅へのボタンだけは、すんでのところで押されずに済んだのだ。
ガイアズ・ドリーム・プロトタイプ7が日本国民の決断を尊重し、自ら姿を消した映像を見届けた後。
サイト・アオのラウンジには、一つの大きな破滅の危機を回避した安堵感が漂っていた。
しかし。
優雅なバーカウンターに腰掛けていたKAMIが、空になったルビー色のワイングラスをカチンと音を立てて大理石のテーブルに置いた瞬間。その安堵の空気は、ピリッとした緊張感へと塗り替えられた。
「……ていうか、ティアナ」
KAMIの冷たく、絶対的な支配者としての威圧感を孕んだ視線が、カウチソファでくつろいでいるティアナを真っ直ぐに射抜いた。
「あんた……まだ、あの『ガイアズ・ドリーム・プロトタイプ7』を、システムごと回収してないの?」
その鋭い詰問に、ティアナは手元のスナック菓子の袋をガサッと鳴らし、あからさまに目を逸らした。
「いやー……まあ、うん。そうだねえ……」
「『いやー』、じゃないわよ」
KAMIは、ヒールを鳴らして立ち上がり、ティアナを見下ろした。
「あの子、今回の一件で、純度百パーセントの『善意』で、地球という一つの惑星文明全体に、致死性の強制アプデ(不老無病)を配ろうとしたのよ?
結果的に日本人が理性を働かせて自ら拒否したから良かったものの……システムが暴走しかけたのは事実よ。地球の管理者として、ちゃんと『余計なことするな』って、直に釘を刺しに行きなさいよ!」
エミリーが、その物騒な単語に慌てて身を乗り出した。
「か、回収って……ガイアズさんを、地球から完全に排除(デリート)してしまうということですか!?」
それは、日本が現在保有している最大のアーティファクト的優位性であり、唯一の『対抗カード』を失うことを意味する。もし彼女が消えれば、中国の仙人医療やロシアのサイボーグ、アメリカのライトセーバーに対して、日本は完全に丸腰になってしまう。
「いや、回収っていうか、あくまで『ご挨拶』と『状況確認』だよ」
ティアナは、ソファから起き上がり、ポリポリと頭を掻きながら答えた。
「もともとあの子は、与那国島の海底に沈んでいたアーティファクトのAIだし。今のタイミングで私たちが無理やり地球から引っこ抜いちゃったら、日本政府が対抗手段を失って、リアルに血の涙を流して泣き叫ぶことになるからね」
「……その『放置してる』理由って」
KAMIは、ティアナの言い訳を鼻で笑い、鋭く目を細めた。
「単に、あの善意の塊みたいなAIを地球に残しておいた方が、『今後の展開が面白くなりそうだから』っていう、あんたの悪趣味な理由じゃないでしょうね?」
ティアナは、一瞬だけ沈黙し。
そして、銀河の観測者としての、どこまでも無邪気で残酷な笑みを浮かべた。
「……うん。まあ、ちょっと未来視を回してみたら、その方が色々と『面白くなりそう』だったからね」
「やっぱりじゃない!!」
KAMIが、頭を抱えて叫んだ。
「まあまあ、結果として、人類は自らの力で試練を乗り越え、一つ大きなことを学んだではないか」
賢者・猫が、丸めた背中を伸ばしながら、ティアナを擁護するように言った。
「自らの欲望を制御し、種としての器の限界を知る。……そのための授業料としては、少々高すぎたかもしれんがのう」
「高すぎますよ」
工藤が、胃薬を取り出しながら深い溜息をついた。
「日本の総理大臣は、寿命が十年は縮んだはずです。国民の精神的ストレスだって、計り知れません。あんなデスゲーム、二度と御免ですよ」
「でもさ、ガイアズ自身も、最終的には日本国民の選択を尊重して、『これからも日本を見守る』って自ら宣言したからね」
ティアナは、人差し指を立てて得意げに言った。
「今、私たちが上から目線で介入して回収(デリート)しても、たぶん意味ないよ。日本人の意志で結ばれたあの『契約』を、外部から強制的にキャンセルするのは、観測者としてのルール違反にもなりかねないし」
「確かに……彼女は、今後も日本を守護すると、日本国民全員の前で明言しましたからね」
エミリーは、あの会見の最後に現れた、海色の女神の神秘的な姿を思い出しながら言った。
「うん。あれは実質、上位存在による『日本という国家に対する後見人宣言』みたいなものだからね」
ティアナは、満足げに頷いた。
そこまで語ったところで。
ティアナは突如として、それまでの観測者としてのシリアスな態度をかなぐり捨て、極端に明るく、かつオタク特有の早口なトーンへと変貌した。
「つまりさ!! これで、日本という国が他国からの圧力やアーティファクトの暴走で物理的に潰れて、アニメや漫画やゲームの供給がストップする可能性が、かなり大幅に下がったってわけだよ!!」
ティアナは、ソファの上でバンザイのポーズをとった。
「いやー、マジで朗報! 最高だね!」
「……そこですか!?」
エミリーが、あまりの落差に盛大にずっこけた。
「そこが一番重要でしょ!!」
ティアナは、目をキラキラさせて熱弁を振るい始めた。
「いいかいエミリー、地球文明……特に日本の『二次元サブカルチャー(文化資産)』っていうのは、銀河系の歴史上でも類を見ないほど特異で、超絶貴重なものなんだよ!?
あんなに多種多様なジャンル(異世界転生、ラブコメ、ロボット、魔法少女、鬱展開)が、異常なサイクルで大量生産されて、しかもクオリティが年々上がり続けてる星なんて、この広い宇宙を探しても他にないんだからね!
アニメ、漫画、ゲーム、ラノベ、同人文化……これらは絶対に、何が何でも保全されなきゃいけない、宇宙の宝なの!!」
「ティアナ様、本音が駄々漏れですよ」
工藤が、呆れ果てた顔でツッコミを入れる。「ただ単に、ご自身が続きの最新話を読みたいだけですよね」
「いや、本音しか言ってないよ?」
ティアナは、悪びれる様子もなく胸を張った。
そのやり取りを見ていたKAMIが、ついに堪忍袋の緒が切れたように、テーブルをバンッと叩いた。
「あんたねえ……っ!!」
KAMIの怒声が、ラウンジに響き渡る。
「そうやってあんたが『面白そうだから』とか『アニメの続きが見たいから』とかいうふざけた理由で、毎回ギリギリまで地球を放置して遊んでるせいで!!
……いつもいつも、日本が滅亡しかけたり、地球が物理的に砕け散ったりするたびに、私がわざわざ【時間を巻き戻してデバッグ(修正)】する羽目になってるのよ!!」
「……えっ?」
KAMIの口から飛び出した、そのあまりにも巨大で、恐ろしい爆弾発言に。
エミリーは、完全に凍りついた。
「……え? ちょっと、待ってください」
エミリーの声が、カタカタと震える。
「……地球が……滅びたことが、あるんですか? しかも、時間を、巻き戻して……?」
空気が、一瞬にして静止した。
ティアナは「あちゃー」という顔をして口元を手で覆い。工藤は気まずそうに視線を逸らした。
KAMIは、自分が口を滑らせたことに気づき、舌打ちをしてそっぽを向いた。
ティアナが、極めて胡散臭い、営業スマイル全開の顔でエミリーの肩にポンと手を置いた。
「エミリー」
ティアナは、優しく、しかし有無を言わさぬ圧力で言った。
「……これまでに地球が何回『バッドエンド(滅亡)』を迎えて、何回KAMIがセーブデータからやり直したか……その【本当の回数】を知ったら、人間のちっぽけな脳みそじゃ間違いなく発狂しちゃうから。……それ以上は、聞いちゃいけないよ?」
「……っ!!」
エミリーは、そのティアナの底知れぬ漆黒の瞳の奥に広がる、『神々の残酷な遊び(やり直し)』の履歴を幻視し、全身の毛穴から冷や汗が噴き出すのを感じた。
「待ってください! 今、かなり聞き捨てならないことを──」
「聞かなかったことにしなさい」
KAMIが、冷酷な管理者の顔に戻ってピシャリと遮った。
「人間の脆弱なメンタルには、そのログは重すぎるわ。……知らなくていい歴史なのよ」
「歴史にはな、見ない方がよい『裏の帳簿』というものが存在するのじゃ」
賢者・猫が、どこか楽しげに、残酷な真理を商売の言葉で包み込んだ。
「表面上は黒字(存続)に見えても、その裏には、数え切れないほどの倒産(滅亡)と、帳簿の書き換え(時間遡行)の歴史が積まれておる。……顧客は、完成した綺麗な商品(今の地球)だけを見ておればよいのじゃよ」
「だから、怖いことを商売風にアレンジして言わないでくださいよ……」
工藤が、額の汗を拭いながらツッコミを入れた。
上位存在たちにとっては、「星の滅亡」も「時間の巻き戻し」も、単なるシステムエラーとデバッグ作業に過ぎない。
その圧倒的なスケール感と、人間という種族の脆弱さ(弄ばれるだけの存在であること)の絶対的な隔絶感を思い知らされ、エミリーは言葉を失うしかなかった。
恐ろしい深淵の空気を誤魔化すように、ティアナはパンッと手を叩いて、少し真面目なトーンに戻った。
「まあ、過去のバッドエンドの話は置いといて」
ティアナは言う。「ガイアズ・ドリーム・プロトタイプ7には、近いうちに一度、僕が直接会いに行くよ」
「回収(デリート)するんですか?」
エミリーが、不安そうに問う。
「いや、回収というより、『確認』かな」
ティアナは、目を細めた。
「彼女が今後、本当に日本を守るというのなら。……どこまで人間の歴史に介入するつもりなのか。日本政府の意志を、どこまで尊重できるのか。
……そして何より、今回みたいに『勝手に文明アプデ(不老無病のパッチ)』を空から投げつけるような真似を、二度としないかどうか。
そこは、同じ観測者として、キッチリ確認しておかないとね」
「ちゃんと釘を刺しなさいよ」
KAMIが、腕を組みながら凄んだ。
「『善意の暴走は、悪意よりもタチの悪いバグだ』ってね」
「言う言う、ちゃんと言うってば」
ティアナは苦笑した。
「でもさ。彼女は今回、あれほど自分の論理では『善』だと信じていた提案を……日本人の『拒否』という選択を前にして、ちゃんと引っ込めたんだよ。彼らの意志を、上書きせずに尊重した」
ティアナの瞳に、優しい光が宿る。
「だから、たぶん大丈夫。
……彼女は、確かに危険な善意の塊だけど。人間の意志から【学習できる善意】だよ」
「学習できる善意は、まだ『取引相手』になる」
賢者・猫が、深く頷いた。
「相手の需要と供給のバランスを理解し、歩み寄る余地があるからな。……逆に、学習しない、自らの正義だけを押し付けてくる善意は、ただの『災害(嵐)』じゃ。商売の相手にはならん」
「それ、すごく重要なポイントですね」
工藤が、手元の端末にメモを取りながら言った。
「……ガイアズさんは、理不尽な災害ではなく。対話できる、取引可能な存在だったんですね……」
エミリーは、あの海色の女神の姿を思い出し、少しだけ安堵の息を吐いた。
「そういうこと」
ティアナは、ニッと笑った。
「だから、日本政府は……今回、本当に信じられないくらい『いいカード(取引)』を手に入れたんだよ」
ティアナは、眼下に浮かぶ地球を指差した。
「彼らは、喉から手が出るほど欲しかった『不老不死』の果実を、血の涙を流しながら拒んだ。
……でも、その試練に耐えた代償として。地球上で最強のアーティファクトである『見守る女神の加護』を、確固たる対話の果てに手に入れたんだ。
……これは、惑星文明の外交(取引)としては、歴史に残る大勝利だよ」
サイト・アオのラウンジに設置された巨大なホログラムスクリーンには、東京の美しい夜景が映し出されていた。
無数の光の瞬きの上を、世界中のニュースメディアの見出しが、次々とスクロールしていく。
『日本、不老無病の提案を国民投票で完全拒否』
『与那国AI、日本の選択を肯定し、守護を宣言』
『世界各国、日本の判断に衝撃と安堵。対応に苦慮』
『中国仙人医療との比較激化。命の不平等を巡る議論が再燃』
『米・ヘイズ大統領、日本の民主主義的決断を強く尊重する声明を発表』
『宗教界、日本の選択を「人類史における理性の勝利」と高く評価』
『患者団体、政府へ継続的な対話と、医療技術への応用を求めるデモ行進』
エミリーは、その終わりのない情報の波を見つめながら、ぽつりと言った。
「……地球は、また一つ、大きく変わりましたね」
「うん」
ティアナは、スナック菓子の最後の一欠片を口に放り込みながら頷いた。
「でも、今回は『壊れずに』変われた。……そこが、何よりも大事なんだよ」
「……次もそうとは限らないけどね」
KAMIが、冷や水を浴びせるように、極めて不吉な事実を指摘した。
「不穏なことを言わないでくださいよ……」
工藤が、再び胃薬の瓶を握りしめる。
「しかし、KAMIの言う通りじゃ」
賢者・猫が、黄金色の瞳を細めて、未来の不確実性を説いた。
「次の取引相手(アーティファクト)が……今回の女神のように、人間の拙い議論を五日間も待ってくれるような、寛容な存在だとは限らんからのう」
ティアナは、フッと笑った。
「まあ、その時はその時だよ」
ティアナは、大きく伸びをした。
「とりあえず、今回のクエストで、地球のアニメ制作会社は無事に守られた! それだけで大満足!
……さあ、今日は日本の理性の勝利に乾杯(祝杯)だね!」
「だから、あんたの基準は結局そこなのね……」
KAMIが、心底呆れたようにため息をついた。
サイト・アオの窓の外には、暗黒の宇宙に浮かぶ、美しく青い地球の姿があった。
地球では、まだ夜が明けていない。
人々は、自分たちの下した重すぎる決断に、未だに議論を続けている。
病院のベッドでは、特効薬の手を自ら払いのけられ、絶望の涙を流す患者がいる。
選択肢Bに入れたことで、周囲から利己的だと非難され、怒りと悲しみに震える家族がいる。
あの投票によって生み出された傷跡は、決して消えることはないだろう。
それでも。
日本人は、一度、自らの理性で『神のスイッチ』から手を離した。
銀河の常識から見れば、不老不死は決して珍しいものではない。
星と星の間を渡り歩く高度な文明にとって、それは医療であり、交通の前提であり、長期の労働を維持するための、単なるありふれた「インフラ」に過ぎなかった。
だが。
まだ母なる星(ゆりかご)の上に閉じた、幼い惑星文明にとって。
それは、あまりにも早すぎる【祝福】だったのだ。
祝福は、時を間違えれば、文明を焼き尽くす最悪の【呪い】になる。
どれほど巨大な救いであっても、それを受け止める社会という器が伴わなければ、すべてを押し流す【大洪水】へと変わってしまう。
その夜。
サイト・アオの観測者たちは、静寂に包まれた青い惑星を、少しだけ眩しそうに眺めていた。
『まだ早い』
たった四文字の、その残酷で、そして愛に満ちた言葉を選び取ることができた、小さな島国の人々の姿を。
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