銀河皇帝のスペアに転生した元社畜、地球軌道上の要塞でネトゲ三昧の隠居生活を満喫する 〜足元では超大国が滅亡級の異星遺産を巡って暗躍中ですが、主人公(ぼく)の命は絶対安全なので特等席で傍観します〜 作:パラレル・ゲーマー
ロンドン。
厚い雲が垂れ込める鉛色の空の下、金融街シティの片隅に静かに佇む重厚な石造りの建築物――『アシュワース遺産財団』本部。
かつて、無限に金や希少金属を生み出す《ロンドン万象器》というアーティファクトで世界の金融市場を崩壊の淵に追いやったその組織が、突如として一枚の短いプレスリリースを全世界のメディアへ向けて一斉送信した。
『本日、グリニッジ標準時14時より、当財団本部にて緊急の記者会見を実施いたします。
故アシュワース卿の遺言執行に基づき、人類社会に重大な影響を与え得る新たな収蔵品を公開いたします。』
内容は、たったそれだけであった。
質疑応答の有無や、公開される「収蔵品」の性質については一切触れられていない。だが、この数行のテキストは、日本の不老無病をめぐる国民投票の余韻で疲弊しきっていた世界のネット空間に、極上の冷水を浴びせかけた。
[X(旧Twitter) / タイムライン]
@WorldNews_Observer
アシュワース財団!? あの万象器を出してきたヤバい財団じゃん!
@Crypto_Trader_01
また何か出すのか!? ふざけんな、万象器の時は市場がパニックになって俺のポートフォリオが消し飛んだんだぞ! 今回は何を出すつもりだ!?
@Tired_Citizen_JP
やめてくれ……日本が「不老無病」を拒否して、世界中が五日間の哲学論争でメンタル削られたばっかりなんだぞ。少し休ませろ。
@Artifact_Watcher
アーティファクト時代になってから、ガチで毎週のように「人類の在り方」が問われてて胃が痛い。アシュワース卿って死んでるんだろ? なんで死後もこんなに世界を引っ掻き回すんだよ。
@Conspiracy_Theorist_99
「人類社会に重大な影響を与え得る」って、万象器以上のヤバい代物ってことか? 兵器か? それともまた経済を壊す何かか?
イギリス政府もまた、この突然の告知に対して即座に、かつ過敏に反応した。
ダウニング街10番地、首相官邸。
情報機関のトップが、顔色を青くして執務室へ駆け込んできた。
「首相。アシュワース財団が、あと一時間後に全世界へ向けて緊急会見を開きます」
イギリス首相は、サインしようとしていた書類から万年筆を離し、眉間を深く揉んだ。
「……財団から、我が政府への事前連絡はあったのか?」
「最低限の事務的なファックスのみです。内容については『故人の遺言により、会見のその瞬間まで明かせない』の一点張りで、完全に伏せられています」
その報告を聞き、部屋の隅に控えていたサー・アリスター・ペンブルックの顔に、サッと暗い影が落ちた。
「……首相」
アリスターの低く、緊張を孕んだ声が室内に響く。
「先日、公認魔女様が仰っていた『第二問』……その可能性が、極めて高いかと存じます」
首相の手がピタリと止まり、その顔色が紙のように白くなった。
あの魔女が、冷たい笑みを浮かべて言っていた言葉。
『第一問は、富でした。では、第二問は何でしょうね?』
「……すぐに危機管理室へ向かう」
首相は立ち上がり、ネクタイを締め直した。「全閣僚と各情報機関のトップを招集しろ。一秒も無駄にするな」
首相官邸地下の危機管理室。
壁一面の巨大なモニターには、すでに多数のカメラが立ち並ぶアシュワース財団の会見場の様子が映し出されていた。
部屋には、イギリス首相を中心に、サー・アリスター、外務、国防、情報機関の各長官、そして政府の主席科学顧問が顔を揃えている。全員が、まるで時限爆弾の解体を見守るような息苦しい沈黙の中にいた。
「アメリカや日本、あるいはEUの同盟国へ、事前に警戒を促すべきでしょうか」
外務高官が、額の汗を拭いながら問う。
「……まずは内容を確認するのが先だ」
首相が、重い声で制した。
「ですが、もしこれが魔女様の言っていた『第二問』であるならば。……確認してからでは、後手に回る可能性もございます」
アリスターが、外交官としての危険察知能力を働かせて進言する。
「分かっている」
首相は苛立たしげに答えた。「だが、いかなるアーティファクトなのか、それとも単なる未発表の古文書なのか。何も分からない段階で、無闇に世界を巻き込んでパニックを煽るわけにはいかない」
モニターの中、古い石造りの会見場が映し出されている。
重厚な木製の演壇。その背後には、アシュワース家の紋章が誇り高く掲げられている。
そして、演壇の横には、黒いベルベットの布をかけられた、小さな台座が置かれていた。
記者たちが席につき、フラッシュの光が断続的に瞬く中。
定刻の14時ちょうど。アシュワース財団の代表が、静かな足取りで演壇の前に姿を現した。
初老の財団代表は、世界中からの刺すような視線とフラッシュの嵐を前にしても、その顔に一切の感情を浮かべることはなかった。
彼はマイクの前に立つと、極めて事務的で、落ち着いた声で口を開いた。
「本日は、急なお知らせにもかかわらずお集まりいただき、感謝いたします」
代表は、ゆっくりと会場を見渡した。
「これより、故アシュワース卿の遺言執行に基づき、当財団が厳重に保管しておりました『ある収蔵品』を公開いたします」
最前列の記者が一斉に手を挙げ、マイクを突き出そうとするが、代表はそれを静かに手で制した。
「質問は、後ほど受け付けます。
……まずは、現物をご覧ください」
代表の合図とともに、横に控えていた職員が、台座にかけられていた黒いベルベットの布を、静かに取り払った。
そこに現れたのは。
一見すると、複雑な立体パズルのような『球体』であった。
大きさは人間の頭部ほど。金属とも、石とも、ガラスともつかない、この世のものとは思えない奇妙な質感を持った素材で構成されている。
球体の表面には、幾何学的な無数の細い線(スリット)が走り、見る角度によっては、それが完全な球体であるようにも、立方体や正十二面体であるようにも錯覚してしまう、空間の位相が歪んだような視覚効果を持っていた。
内部からは、呼吸するかのような微弱な淡い光が明滅している。
決して暴力的な輝きではない。だが、その光を見つめていると、胸の奥底を冷たい手で撫でられるような、奇妙で圧倒的な『圧迫感』を覚える。
「名称は」
財団代表は、その球体に視線を向けたまま、静かに宣告した。
「アシュワース卿の記録によれば――」
一拍の、重い間。
「《平和の檻》」
「ラテン語の学名では、『パックス・ケージ』と呼称されています」
会見場が、一瞬の静寂ののち、どよめきに包まれた。
[ネットの反応]
「平和の檻? なんだその名前」
「名前からして不穏すぎるだろ……」
「アシュワース卿のネーミングセンス、毎回裏に強烈な悪意が隠されてるから怖いんだよ」
「平和って言ってるのに『檻』ってつけてる時点で、絶対にろくな平和じゃないだろ」
「……この収蔵品には」
ざわめきが収まらない中、財団代表は淡々と説明を続けた。
「故アシュワース卿による、記録映像が付属しておりました。本日は、卿の遺言に従い、皆様にその映像をそのまま再生いたします」
会見場の壁面に設置された大型スクリーンに、映像が投影される。
それは、いかにも古い書斎で撮影されたような、少し画質の荒い映像だった。
革張りの重厚な椅子に深く腰掛けた、上品な老紳士がそこにいた。
故アシュワース卿。
彼は、カメラの向こうにいるであろう未来の人々に向けて、ひどく穏やかに、優しげに微笑んでいた。
だが、その目だけは。
薄暗い深淵のように冷たく、すべてを見透かすような、鋭く意地の悪い光を宿していた。
『――諸君。ごきげんよう』
アシュワース卿の、低く、知性に溢れた声が響く。
『もし、この映像が今、あなたたちの前で再生されているとするならば。……私が残した『第一問』は、すでに開かれ、そして何らかの結末を迎えた後なのでしょう』
首相官邸の危機管理室の空気が、その一言で完全に凍結した。
「第一問……」
サー・アリスターが、喉の奥で小さく呻くように呟いた。
映像の中のアシュワース卿は、まるで彼らの反応を楽しんでいるかのように、ゆっくりと続けた。
『第一問は……【富】でした。
無から無限の価値を生み出す箱。崩れ去る希少性の概念。……果てしない欲望を前にして、人類という種は、果たしてどこまで自らの理性を保ち、自制することができるのか。
……さて。諸君はあの万象器に対し、どのような答えを提示したのでしょうね』
彼は、ふふっ、と短く、どこか嬉しそうに笑った。
『では。……約束通り、【第二問】を始めましょう』
会見場にいる記者たちも、世界中で中継を見ている数十億の視聴者も、そして各国の首脳陣も。
誰もが息を呑み、画面の中の死者からの問いに釘付けになっていた。
アシュワース卿は、映像の中で手元にあった小さな手帳を閉じ、真っ直ぐにカメラを見据えた。
『そこにあるのは……《平和の檻(パックス・ケージ)》です』
彼は、まるで最新の家電製品の機能を説明するかのように、穏やかな口調でそのアーティファクトの恐るべき効能を語り始めた。
『その球体は……知性体同士の殺意、物理的な暴力行為、そしてあらゆる兵器の使用を。……一定の範囲内において、完全に【抑制】することができます』
会見場に、信じられないものを見るようなざわめきが広がった。
『小さく出力して使えば、一部屋の中で、人は他人を傷つけることができなくなります。刃物を振り下ろす腕は止まり、銃の引き金を引く指は硬直するでしょう』
卿の言葉は、魔法のようであり、同時に抗いがたい物理法則の改変のようでもあった。
『そして。最大出力で解放すれば……一都市、一国家、あるいは地球の全土にまで、その『抑制の檻』の範囲を広げることができるでしょう』
全世界が、そのあまりにも巨大なスケールに固まった。
『使えば、戦争を止められるかもしれません』
アシュワース卿は、人類が長年夢見てきたユートピアの情景を描き出す。
『暗殺を止められるかもしれません。虐殺を止められるかもしれません。
テロリストの爆弾を、怨恨による殺人を、家庭内の暴力を、核兵器を……。人間の手から、あらゆる『暴力』という手段を、完全に奪い去ることができるのです』
そこまで聞けば、それはまさに神の救済のような響きを持っていた。
誰も血を流さない、誰も悲しまない、恒久的な平和をもたらす究極の装置。
しかし。
アシュワース卿の口元が、わずかに、本当にわずかに、歪んだ。
『……もちろん。私の問いは、そこからです』
『人類は、有史以来、ずっと「平和を望んでいる」と主張してきました』
アシュワース卿の声は、どこまでも紳士的でありながら、隠しきれない猛毒を含んでいた。
『少なくとも、血まみれの手を隠しながら、そう言い続けてきましたね』
彼は、カメラのレンズ越しに、人類すべての偽善を覗き込むように目を細めた。
『では、望み通り、あなたたちに平和を与えましょう。
……ただし、それはあなたたちが自らの理性で勝ち取った「自由な平和」ではありません。システムによって強制された、『暴力を選ぶことができない平和』です』
会見場の空気が、徐々に、得体の知れない恐怖へと染まっていく。
『暴力は、一般に悪と呼ばれます。殺人は悪です。戦争は悪です。罪なき民を殺す虐殺は、絶対悪です。
ならば……それらを物理的に不可能にすることは、無条件の『善』なのでしょうか?』
卿は、少しだけ間を置いた。
その間が、聞く者の心に深い疑念の楔を打ち込む。
『……しかし、諸君』
アシュワース卿の声が、一段低く、重くなった。
『……弱者が、強者の理不尽に対して最後に握る抵抗もまた。『暴力』であることを忘れてはなりません』
その言葉が落ちた瞬間。
イギリス首相官邸の危機管理室にいた全員の背筋に、冷たい氷の刃が走った。
サー・アリスターが、青ざめた顔で小さく呟いた。
「……現状固定の、檻……」
アシュワース卿は、まるでアリスターの呟きが聞こえているかのように、その絶望的な真実を言葉にした。
『暴力が封じられた檻の中では。……暴君は、決して暗殺されません。
いかに腐敗した政府であっても、市民は武装して革命を起こすことはできません。
侵略者が巧妙な法的手段や経済支配で国を乗っ取ろうとした時、圧政に銃を向けて抗うことはできません。
……愛する家族が、暴力以外の方法(飢餓や洗脳、法的な弾圧)で傷つけられようとしている時。それを守るために刃を取ることも……できないかもしれないのです』
『さて』
アシュワース卿は、両手を膝の上で組み、実に楽しそうに告げた。
『この素晴らしい《平和の檻》を。……大英帝国、イギリス政府に寄贈いたします』
会見場が、文字通り爆発した。
記者たちが一斉に立ち上がり、マイクを握りしめて怒号のような質問を代表に浴びせかける。
「イギリス政府に寄贈!? 事前の合意はあったのですか!!」
「首相は、この装置の存在を知っていたのですか!!」
「我が国が、世界中の暴力を管理するというのですか!!」
首相官邸。
イギリス首相が、バンッと机を叩いて立ち上がった。
「……聞いていないぞ!! なんだこれは!!」
「財団が、政府の許可なく勝手に全世界へ公開し、送りつけてきたのです!」
情報機関トップが、血相を変えて叫ぶ。
アシュワース卿の映像は、そんな世界の混乱をよそに、静かに続いていく。
『使うも使わないも、諸君の自由です。
研究するも、深く隠すも、国際社会で議論するのも自由です。
……ただし、最後には、明確な答えを決めていただきたい』
映像の中の老紳士が、穏やかに、しかし絶対に逃れることのできない宣告を下す。
『この檻を開き……地球全土を、強制的な平和の範囲に収めるのか。
それとも。……この装置を、恒久的に【破壊】するのか』
全員が、言葉を失った。
『……封印では足りません』
アシュワース卿は、まるで先回りして言い訳を潰すように、きっぱりと言った。
『封印された平和は、世界で戦争が起きるたびに、必ず呼び起こされます。
どこかで虐殺が起きるたびに、なぜあの装置を使わないのだと、大衆は叫ぶでしょう。子を理不尽に失った親は、装置を封印している政府を憎むでしょう。前線で死んでいく兵士の死を知る者は、檻を解放せよと暴動を起こすでしょう。
……ゆえに、臭いものに蓋をするだけの「封印」という逃げ道は、存在しません』
「開けるか」
「壊すか」
『選択肢は、この二つだけです』
アシュワース卿は、映像の最後に、自らが人類へ突きつける真の『問い』を提示した。
『第二問』
『人類は……強制された平和を、受け入れるか?』
映像の中の老紳士は、人間という種族の愚かさと可能性を同時に愛でるような、少しだけ楽しそうな微笑みを浮かべた。
『よく議論することです。
平和とは、何か。
自由とは、何か。
暴力とは、常に排除すべき悪なのか。
……弱者が最後に抵抗する権利を、人類は『平和』という甘美な名のもとに、奪い去ることができるのか』
一拍。
『私は、諸君の答えを……心より、楽しみにしています』
映像が、プツリと切れた。
後には、薄暗い光を放つ《平和の檻》と。
完全に発狂した会見場の大混乱だけが残された。
「財団は、本当にこれをイギリス政府へ引き渡すのですか!!」
「なぜ事前に政府のセキュリティを通さなかったのですか! テロリストに狙われますよ!!」
「効果は確認済みなのですか! 人体への影響は!?」
「地球全土とはどういう意味ですか! 宇宙空間の兵器も無効化できるのですか!?」
「核兵器も止められるのですか! アポロンの矢の劣化版も止められるのですか!!」
「これは人類への救済ですか!? それとも、全人類を去勢する支配装置ですか!!」
記者たちの怒号が飛び交う中、アシュワース財団の代表は、一切の動揺を見せずに、用意していた短い回答のメモを読み上げた。
「当財団は、故アシュワース卿の遺言に厳格に基づき、この現物およびすべての関連資料を、イギリス政府へ無償で寄贈いたします。
……当財団は、この装置の『使用判断』はいっさい行いません。これは人類社会の根幹に重大な影響を与えるものであり、各国の政府および国際社会による開かれた議論が必要であると考えます」
「財団としては、使用に賛成なのですか、反対なのですか!」
最前列の記者が、唾を飛ばしながら詰め寄る。
財団代表は、数秒間、重い沈黙を保ち。
そして、極めて冷たく、機械のように言った。
「財団は、問いを提示するだけです。
……お答えするのは、あなた方です」
その、血の通っていない冷徹さこそが、アシュワース財団という組織の不気味な本質であった。
ダウニング街10番地。
イギリス首相は、頭を抱え、自身の髪を力任せに掻きむしっていた。
「世界中継で、イギリス政府に寄贈すると堂々と宣言された……!
これを受け取らない(突っぱねる)という選択肢は、我々にあるのか!?」
「……拒否すれば、世界中から非難されます」
外務高官が、絶望的な顔で答える。
「戦争やテロを止められるかもしれない究極の平和装置を、見殺しにした国として。とくに、現在紛争地域にある国々からの批判は免れません」
「だが、受け取れば、我々は世界中から狙われることになる!」
国防関係者が声を荒げる。
「すべての兵器を無力化できる装置だぞ! これを手に入れた国は、事実上の世界覇権を握るに等しい。……他国が黙って見ているはずがない!」
「すでに、財団本部周辺へ、各国の情報機関や武装組織が動き始めているという報告が上がっています」
情報機関トップが、タブレットの警告音を確認しながら言う。
「一刻も早く保護しなければ、強奪されるリスクがあります」
サー・アリスターが、静かに、しかし断固とした口調で言った。
「……魔女様の言っていた『第二問』です。
もう、世界中へ向けて問題文は読み上げられてしまいました。我々は、この回答から逃げることはできません」
首相は、深く息を吐き出し、決断を下した。
「……まずは、軍の特殊部隊を動かして現物を確保する。財団ごと保護しろ。
ただし、使用判断は絶対に行わない。……国内外へ向けて、即時声明を出せ!」
数十分後。イギリス政府から、緊急の公式声明が発表された。
『イギリス政府は、アシュワース財団から《平和の檻》の寄贈を一時的に受諾し、厳重な管理下に置く。
現時点において、使用方針は一切決定していない。
我々は、国際社会と広く協議し、科学的・倫理的・法的な検証を慎重に行う。いかなる単独使用も、絶対に行わないことを約束する』
だが、そんな「とりあえず預かります」という当たり障りのない声明で、パンドラの箱を開けられた世界が納得するはずもなかった。
イギリス政府の危機管理室内でも、この装置の真の恐ろしさをまだ咀嚼しきれていない者たちがいた。
若い閣僚の一人、あるいは人道支援を担当する高官が、少し戸惑いながら口を開いた。
「しかし……皆様。冷静に考えてみてください。これは、本当に素晴らしいことなのではないですか?」
場が、水を打ったように静まり返る。
彼は、周囲の重苦しい視線を受けながらも、必死に言葉を紡いだ。
「戦争を、止められるのですよ。テロリストの自爆攻撃も止められる。
……先日流出したアポロンの矢のような、無差別な拡散兵器を、人に向けて撃てなくなるのです。
学校にミサイルが落ちて子供が死ぬこともなくなる。虐殺も、要人の暗殺も、理不尽な銃乱射事件も……すべて、この装置一つで止められる。
……それの、一体何が悪いと言うのですか? 人の命が失われないこと以上の正義など、あるのでしょうか」
この問いは、決して愚かなものではない。
むしろ、ニュースを見ている世界中の一般大衆の多くが、最初に抱くであろう「純粋な希望」そのものであった。
だが、国防関係者が、苦虫を噛み潰したような顔で即座に反論した。
「では、国家の自衛権はどうなる。他国が領土を侵犯してきた時、我々は指をくわえて見ていることしかできなくなるのか」
「警察権も同じです」情報機関トップが続く。「凶悪な暴徒が街を破壊し、略奪を始めた時。武力(暴力)を使って彼らを制圧する手段が失われる。社会の秩序はどうやって維持するのです」
「……しかし、少なくとも、人は死にません。血は流れません」
若い高官は食い下がる。
そこで、情報機関のトップが、冷たい氷のような視線で彼を射抜いた。
「……『死なない支配』は、支配ではないとでも言うつもりか?」
その一言で、部屋の空気が完全に凍りついた。
重苦しい沈黙の中、サー・アリスターが、極めて冷静な、外交官としての整理を始めた。
「……皆様。《平和の檻》は、決して『平和をもたらす装置』ではありません。
これは、あくまで『物理的な暴力行使を抑制する装置』に過ぎないのです」
「違いは何かね」
首相が、重い口調で問う。
「平和とは、ただ単に『暴力がない状態』だけを指す言葉ではありません」
アリスターは、歴史の重みを知る者の声で語る。
「自由があり、法があり、正義があり、不当な支配への抵抗権があり、そして人間の尊厳が伴って初めて、それは真の平和と呼べるのです。
……それらが奪われたまま、ただ暴力だけを封じられた状態は、平和ではなく『ただの沈黙(隷属)』です」
アリスターは、先ほどのアシュワース卿の悪魔的な言葉を引用した。
「『弱者が最後に抵抗できるのもまた、暴力である』……。
暴力が悪であることは、ほとんどの場合において正しい。私たちもそう教育されてきました。
ですが……人類の歴史を振り返れば、暴力なしには決して終わらせることのできなかった『圧政』も存在します。
……ナチスの狂気を止めたのは、対話ではなく暴力でした。苛烈な植民地支配に抗い、独立を勝ち取った者たちも、時にやむを得ず暴力を選択しました。独裁者を打ち倒し、民主主義を打ち立てた数々の革命もまた、暴力という手段を含んでいたのです」
イギリス政府の首脳陣たちの顔に、深い絶望の影が落ちる。
「この檻は、確かに人類の愚かな暴力を止めます」
アリスターは、モニターに映る不気味な球体を見つめながら言った。
「……しかし同時に。人類の『最後の抵抗(自由の牙)』を、永遠に根こそぎ奪い去る可能性を持っているのです。それが、アシュワース卿の仕掛けた罠です」
会見からわずか数時間。
世界中のネット空間は、日本の不老無病騒動の時以上に、修復不可能なレベルで激しく割れ、燃え上がっていた。
[賛成派:絶対的平和主義]
「使え!! 今すぐ最大出力で使え!! イギリス政府はためらうな!」
「戦争を完全に止められるなら、自由意志なんてどうでもいい。人間は愚かすぎるから、機械に管理された方がマシだ」
「今日から、子供がミサイルの爆撃で死なない世界になるんだぞ!? 檻でもなんでもいい、平和をくれ!」
「アポロンの矢の劣化版が世界中に出回ってる時代だぞ。いつ誰が光線銃で隣人を焼き殺すか分からない。暴力を物理的に止める装置が絶対に必要だ!」
「反対してる奴は、ただ安全な先進国にいて、戦争のリアリティがないだけの偽善者だろ!」
[反対派:自由と権利の擁護]
「それは平和じゃない。人間の完全な『家畜化』だ!」
「人間の自由意志に首輪をつけるな! 暴力を選ぶ自由すら奪われたら、人間はただのプログラムと同じだ」
「独裁者が一番喜ぶ装置じゃんこれ。市民が武装蜂起できなくなるんだから、税金搾り取られ放題、弾圧され放題だぞ」
「革命権を奪うな。警察も軍隊も機能しなくなったら、マフィアや悪党が『暴力以外の手段(脅迫や洗脳)』で支配する無法地帯になる」
「支配者に都合のいい、生かさず殺さずの現状固定ツールだ。絶対にぶっ壊せ!」
[中間派:現実的調整の模索]
「これ、核兵器とか大量破壊兵器だけを対象にして止めることはできないの?」
「アポロンの矢の使用だけを限定的に無効化できないのかな」
「戦争地域とか、紛争地帯の国境付近だけ限定的に発動しようぜ」
「国連本部の中だけで発動しよう。会議中に政治家が殴り合いの喧嘩できなくなるし、平和的だろ」
「正当防衛の暴力はどうなるの? 暴漢に襲われた時、反撃できずにただ殴られ続けるしかないの?」
「人間以外は対象になるのか? 魔女の魔法は? 仙人の気は? サイボーグは人間扱い?」
世界中のありとあらゆる掲示板、SNS、ニュースサイトのコメント欄で、果てしない議論と罵倒が飛び交い、人類は完全に真っ二つに分断された。
そして、この混乱の中で、西側諸国のインテリジェンス機関を最も震え上がらせる【不穏な流れ】が起き始めた。
地球上のいくつかの強権的な独裁国家、あるいは人権弾圧が疑われている国家群が、こぞって表向きは極めて「平和主義的」な声明を出し始めたのだ。
『人類は、無益な戦争を終わらせるべきである』
『我が国は、《平和の檻》の地球規模での即時発動を強く支持する』
『暴力なき世界こそ、人類の進歩であり、未来である。イギリス政府は速やかに装置を起動せよ』
一見すると、非常にまともで、平和を愛する素晴らしい声明に見える。
だが、自由主義陣営の分析官たちは、その裏にある真の意図を読み取り、顔面を蒼白にしていた。
「……なぜ、彼らがこんなにも諸手を挙げて賛成するのか、分かりますか」
CIAの分析官が、報告書を叩きつけながら吐き捨てるように言った。
「市民が、政府に対して『武力抵抗(革命)』できなくなるからです!
すでに巨大な権力とシステムを握っている側にとって、市民の牙が物理的に抜かれることは、永遠の統治を約束されることに他ならない。こんなに有利な状況はない!」
ネットの集合知も、すぐにそのグロテスクな矛盾に気づき始めた。
「おい、あの独裁国家が賛成してる時点で、この装置マジでヤバいだろ」
「戦争は止まるかもしれないけど。……秘密警察による深夜の連行とか、強制収容所への隔離とか、国家による飢餓政策は止まるのか?」
「止まるわけない。殴ったり撃ったりする『暴力』じゃなくて、法とシステムを使った『支配』だからな」
「これは平和じゃない。強者が強者のままで居続けるための【現状固定の檻】だ」
《平和の檻》の真の恐ろしさが、知識層を中心に一気に広がり始めた。
しかし。
そんな「自由」や「抵抗権」を語る反対派の論理を、根底から黙らせてしまう、重く、血塗られた声もまた、世界中から上がり始めていた。
現在進行形で戦争が行われている地域の市民。
テロの被害者たち。
内戦で家族を無惨に殺された人々。
彼らは、血の涙を流しながら、SNSの動画で、あるいは難民キャンプのインタビューで、カメラに向かって絶叫した。
「あなたたちの言う『自由意志』を守るために。……私の子供は、空爆で死ななければならなかったのですか!?」
「安全な国で、暖かいコーヒーを飲みながら『抵抗権』を語るな! 明日、隣人に銃殺されるかもしれない恐怖を知らないくせに!」
「私は、暴力を選ぶ自由などいらない。復讐する権利もいらない! ただ、明日も家族が生きているという安全が欲しいんだ!」
「檻の中の平和だと? 結構だ。毎日爆弾が降ってくるこの空の下より、鉄格子の檻の中の方が、何万倍もマシだ!!」
その切実で、血を吐くようなリアルな叫びは、反対派のいかなる高尚な理論をも粉砕するほどの力を持っていた。
自由を尊ぶべきか。それとも、命の安全を最優先すべきか。
どちらも正しい。だからこそ、決して交わらない。
世界は、解決不能の倫理の泥沼へと引きずり込まれていた。
東京、首相官邸。
「不老無病」という神の果実を、国民の血の滲むような葛藤の末に拒否したばかりの日本政府首脳陣は、モニターに映るアシュワース卿の映像を見て、完全に言葉を失っていた。
矢崎総理は、コーヒーカップを持ったまま固まり。
沖田室長は、頭痛をこらえるように眉間を押さえていた。
「……アシュワース卿。第二問を出してきましたか」
オブザーバーとして同席していた月刊ムーの三神編集長が、ため息混じりに呟いた。
「しかも、今度は『平和』ですか。……本当に、あの男は意地が悪い」
「第一問は、富の暴走。第二問は、平和による束縛……」
矢崎総理は、重い声で言った。
「日本が、国民の総意として不老無病(究極の救い)を拒んだ、その直後に。今度は人類全体に対して、究極の平和を問われることになるとは」
沖田室長が、スケールが大きすぎる事態の連続に眩暈を覚えている。
「救いの次は、平和」
三神が、的確に本質を突く。
「どちらも、人類が昔から望んできた『絶対的な善』です。……だからこそ、真っ向から反対しづらく、危険なのですよ」
日本政府は、慎重に言葉を選び、公式声明を発表した。
『日本政府は、《平和の檻》の存在について重大な関心を持って注視する。
いかなる地球規模の発動も、国際社会全体の完全な合意なしに行われるべきではない。
平和と自由、正当防衛、不当な支配への抵抗権、そして法秩序の維持について、人類は極めて慎重な議論を行う必要がある』
自らが重い選択をした直後だからこそ、日本の声明には、性急な決断を戒める重みが込められていた。
ワシントンD.C.、ホワイトハウス。
キャサリン・ヘイズ大統領は、執務室で報告を受け、苦く、深く顔をしかめた。
「軍の機能が、完全に停止します」
国防長官は、当然のように強硬に反対した。
「核の傘による抑止力も、通常戦力の展開も、根本から崩壊します。同盟国を守ることもできなくなる。我が国の覇権の終わりです」
「暗殺やテロは止まるかもしれません」
CIA長官が、インテリジェンスの観点から懸念を述べる。
「しかし、スパイによる諜報活動や情報操作、経済的な制裁圧力、あるいはサイバー攻撃による政権転覆工作は……『暴力』と判定されるのかどうか、現時点では不明です」
モニター越しに参加しているセレスティアル・ウォッチのケンドール博士が、科学的分析を述べる。
「アシュワース卿の説明する効果が、あまりにも概念的すぎます。
システムが認識する『暴力』の定義が不明確です。人間が直接殴ることは防げても、サイボーグの行動は? AIによる自律兵器は? ドローンを使った遠隔攻撃は? あるいは、病原体の散布や、補給路を絶つ飢餓政策は? ……すべてにおいて、厳密な検証が必要です」
そして、暗号通信の向こう側にいるアルファが、冷酷な真理を告げた。
「これは、兵器を無効化する装置などではありません。……全人類の行動を管理する『文明統制装置』です」
ヘイズ大統領は、大きくため息をついた。
「……また、世界が壊れるわね」
だが、彼女も大統領として、即座に「絶対に破壊しろ」と結論を出すことはできなかった。
「……それでも。これを使えば、確実に救える命があることも事実よ」
その一言で、ホワイトハウスの会議室もまた、重苦しい沈黙に沈んだ。
北京、中南海。
中国政府の立場は、極めて複雑であった。
「我が国の仙人医療の拠点を守るためには、喉から手が出るほど欲しい技術だ」
李天明国家主席をはじめとする指導部は、激論を交わしていた。
「現在、世界中から暗殺者や、アポロンの矢の劣化版を持ったテロリストが中国を狙っている。この檻があれば、彼らの物理的な暴力から拠点を完全に防衛できる」
「だが、同時に我が国の『国家の暴力装置(軍と公安)』にも影響を及ぼすのだぞ」
別の幹部が反論する。
「市民の武装蜂起を止められるのは良い。だが、反体制派を強制的に排除するための、我々の側の武力行使も封じられてしまうのではないか?」
その会議の末席で、同席していた上位の仙人の一人が、静かに目を閉じたまま言った。
「平和とは……ただ力を失うことではない。
だが、この『檻』は、力そのものを概念的に縛るもの。……大地の気脈を滞らせる、極めて不自然な呪具だ」
中国は、表向きは国際社会へ向けて、
『人類の恒久平和のため、大国としての責任ある、慎重な議論を求める』
と無難な声明を発表しつつ。裏では、イギリス国内の工作員を総動員し、財団と装置に関するあらゆる情報の収集へと全力で動き始めていた。
イギリス首相官邸のホットラインは、鳴り止むことがなかった。
国連事務総長、アメリカ大統領、EU各国の首脳、中国、日本、ロシア、インド。
そして、現在進行形で戦争の被害に遭っている国家の代表、国際人権団体、宗教団体のトップ、軍需産業のロビイスト、警察組織の長、被害者遺族の代表。
文字通り、世界中のあらゆる権力と悲鳴が、イギリス首相の決断を求めて殺到していた。
全員が、完全に真逆のことを主張し、自らの正義を押し付けてくる。
首相は、執務室の椅子に深く沈み込み、赤く充血した目で虚空を見つめていた。
「……私は」
首相は、乾いた唇を舐め、掠れた声で言った。
「……最初にあの映像を見た時。……これは、素晴らしいものなのではないかと、少しだけ思ってしまった。戦争がなくなるのなら、と」
「ええ。素晴らしいものです」
傍らに立つサー・アリスターが、冷徹な声で同意した。
「……素晴らしいからこそ。最悪なのです」
「平和を壊すのか。それとも、自由を壊すのか」
首相は、自嘲気味に呟いた。
「その逃げ場のない二択の問いこそが。……アシュワース卿の仕掛けた、第二問なのでしょう」
アリスターの言葉に、首相は目を閉じ、ただ深く、深くため息をつくことしかできなかった。
ロンドン市内。
アシュワース財団本部から、《平和の檻》がイギリス政府の管理下へと移送されようとしていた。
黒塗りの強固な特殊装甲輸送車。
周囲を何重にも取り囲む、重武装した軍と特殊警察の護衛部隊。
上空には複数の軍用ヘリが旋回し、周辺の道路は完全に封鎖されている。
規制線の外側には、無数の報道陣のカメラが立ち並び、この世紀の移送劇を世界中へ生中継で配信していた。
厳重なジュラルミンの専用輸送ケースの中で、あのパズルのような奇妙な球体が、淡く、まるで生き物の鼓動のように光を明滅させている。
それは、首相官邸のさらに地下深くにある、最高レベルの防爆・電磁シールドが施された極秘保管室へと運び込まれていった。
分厚い鋼鉄の扉が閉まるのを確認し、サー・アリスターは、防弾ガラス越しにその球体をじっと見つめた。
「……第一問(万象器)は、人類の協力によって『封じる』ことができました」
アリスターは、隣に立つ首相に向かって静かに言った。
「ですが。……第二問は、封じることすら、アシュワース卿に許されていません」
「……『開ける』か、『壊す』か」
首相が、重い十字架を背負った声で呟く。
「どちらを選択したとしても。……世界は、決して納得しないでしょう」
情報機関のトップが、絶望的な未来を予測して言う。
「ならば」
首相は、ガラスの向こうの光を見据え、為政者としての覚悟を決めた。
「……ならば、せめて。我々が、人類としての『答え』を間違えないようにするしかない」
***
同時刻。
スコットランドの深い霧に包まれた森の奥。
古い貴族の邸宅で、公認魔女は、通信端末から流れるアリスターからの短い報告を、静かに聞いていた。
『――魔女様。アシュワース卿の第二問。我々イギリス政府が、お預かりいたしました』
魔女は、アンティークのティーカップに注がれた紅茶を一口飲み、小さく笑った。
「ええ。それが第二問です」
彼女は、窓の外の霧の向こうに、かつての友人の顔を思い浮かべるように目を細めた。
「……あの人は、本当に意地悪でした。
善意と平和という、誰も否定できない美しい衣を着せて、人間の最も脆弱な部分を刺し貫いてくる」
魔女は、カップをソーサーに置き、楽しげに呟いた。
「人類は、強制された平和を受け入れるのか。
……さて。次の答えは、どうなるかしらね?」
***
第一問は、富だった。
人類は、無限に増殖し続ける価値を前にして、自らの欲望を抑え込む「自制」を問われた。
第二問は、平和だった。
人類は、一切の暴力が消失した世界を前にして、代償として差し出す「自由」の重さを問われた。
互いの殺し合いを強制的に止める檻。
泥沼の戦争を、明日にでも終わらせることができる檻。
罪なき子供たちを、空からの爆撃から確実に守る檻。
そして。
強者に蹂躙される弱者が、最後に握りしめる反逆の刃すらも……優しく、残酷に奪い去る檻。
それを、開けるか。
それとも、壊すか。
故アシュワース卿が仕掛けた第二問は、世界中のあらゆる画面に映し出され、人類の理性を試すように淡く明滅を続けていた。
人類は、強制された平和を受け入れるか。
その悪魔的な問いに、まだ誰も、確かな答えを出すことはできなかった。
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