銀河皇帝のスペアに転生した元社畜、地球軌道上の要塞でネトゲ三昧の隠居生活を満喫する 〜足元では超大国が滅亡級の異星遺産を巡って暗躍中ですが、主人公(ぼく)の命は絶対安全なので特等席で傍観します〜 作:パラレル・ゲーマー
イングランド北部、荒涼とした荒野の地下深く。
分厚い岩盤と何重もの防爆扉に守られたその極秘の軍事研究施設は、今日、人類がこれまで経験したことのない類の静寂と緊張に包み込まれていた。
巨大なコンクリートの空間の中央に設置された、分厚い防弾ガラス張りの実験区画。
その周囲を取り囲むように、イギリス政府の最高首脳陣と、限られた同盟国および監視国の代表者たちが着席している。
アメリカからは、セレスティアル・ウォッチ系のアドバイザーと国防総省の高官。
日本からは、既存技術外事象評価セルの関係者。
中国からは、国家指導部の特使と、長袍を纏った上位の仙人。
ロシアからは、軍事技術者と、コートの下に機械化された四肢を隠し持つサイボーグ兵士。
さらにEUの倫理法務委員や、国連の形式的なオブザーバーまでが、固唾をのんで中央の隔離区画を見下ろしていた。
「……これを大英帝国のみで独占し、秘密裏に検証を行うことは不可能だと判断した」
イギリス首相が、張り詰めた声で開会を宣言した。
「だが、いかなる結果が出るかも分からぬまま、世界全体へ詳細を公表するには、あまりにもリスクが大きすぎる。まずはこの閉鎖環境において、人類を代表する諸君らの立ち会いのもと、このアーティファクトの『事実』のみを冷徹に確認したい」
傍らに立つサー・アリスター・ペンブルックが、各国の代表者たちを見回して静かに付け加える。
「故アシュワース卿が突きつけてきた『第二問』に対して、我々が取るべき最初の回答は……まず、実験結果を偽りなく共有し、問題の前提を正しく理解することです」
彼らの視線の先、隔離区画の中央の台座に、それは鎮座していた。
『平和の檻(パックス・ケージ)』。
大きさは人の頭部ほど。金属とも鉱石ともつかない未知の素材で構成された、立体パズルのような球体。表面には無数の幾何学的なスリットが走り、見る角度によって、完全な球体にも、多面体にも、あるいは空間そのものが歪んで折り畳まれているようにも錯覚してしまう。
内部からは、まるで眠る獣の心臓のように、淡く冷たい光が静かに明滅を繰り返している。
イギリス政府の主席科学顧問が、マイクを握り、現在の解析状況を報告する。
「電磁波の波長は、既存のいかなるスペクトルとも一致しません。放射線の漏洩はゼロ。物理的なスイッチ、あるいはインターフェースらしき構造も一切見当たりません。表面温度は室温と完全に同一。内部構造は……超音波スキャンでもX線でも、一切透過せず、解析不能です」
「では、どうやって起動させるというのだ」
アメリカの軍事代表が、苛立たしげに腕を組んだ。
主席科学顧問は、少しだけ言い淀んだ後、アシュワース財団から提供されたごく短いマニュアルの一文を読み上げた。
「卿の遺した記録によれば。……『この檻は、物理的な命令ではなく、所有者の強い願いに応じる。暴力を封じたい領域を、明確に思い描け』……とのことです」
「念じろ、とでも言うつもりか?」
イギリスの国防長官が、不快感を露わにして顔をしかめた。「オカルトの儀式でもあるまいし」
「アシュワース卿らしい仕様ですね」
アリスターが、皮肉めいた微かな笑みを浮かべた。「科学的根拠を重んじる研究者と、確実なトリガーを求める軍人が、最も嫌悪する操作方法だ」
隔離区画の中で、防護服を着た実験責任者が、恐る恐る球体へと近づき、両手をかざした。
彼は目を閉じ、自らの意志を、その得体の知れない物体へと注ぎ込むように集中する。
数秒後。
球体の表面を走るスリットが、カシャリ、と微かに物理的な音を立ててスライドした。
同時に、淡い光が球体の底から波紋のように広がり、コンクリートの床に、半径五メートルほどの完璧な『円』を描き出した。
「……領域の指定が、成立しました」
科学顧問の報告に、観察室の全員が息を呑んだ。
物理的な操作を一切介さず、人間の意志だけをトリガーとして、空間の概念が区切られたのだ。
「これより、第一フェーズの検証を開始する」
安全のため、隔離区画内には、あらかじめ厳格な訓練を受けたイギリス軍の特殊部隊員二名が配置されていた。彼らは防具を身につけ、周囲には医療班も待機している。
実験の内容は至って単純。片方の兵士が、もう片方の兵士の胸元へ、ごく『軽く』殴りかかるというものだ。
「アクション」
実験官の指示が飛ぶ。
兵士は、同僚へ向けて右の拳を握り込んだ。
だが、その直後。
兵士の顔面から一瞬にして血の気が引き、彼は苦悶の表情を浮かべてその場にうずくまりそうになった。
「どうした!」
実験官がマイク越しに叫ぶ。
「き、気持ち悪い……」
兵士は、腹を押さえながら、脂汗を流して呻いた。
「相手を殴ろうと意志を持った瞬間……胃の奥を、見えない冷たい手で直接鷲掴みにされたような、猛烈な吐き気が……。頭の中で、警報が鳴り響いているような……本能的に『絶対にそれをやるな』と、脳の奥底から命令されているような感覚です……」
「構わん。命令だ、そのまま拳を振れ」
兵士は、軍人としての強靭な精神力で吐き気をねじ伏せ、気力を振り絞って右腕を振り上げようとした。
だが。
彼の腕は、空中の何もない場所で、ピタリと静止した。
見えない壁にぶつかったわけではない。
筋肉は完全に弛緩し、まるで、見えない誰かに手首をひどく優しく、しかし絶対に逆らえない力で押さえ込まれているかのように、極めて自然な形で『止まって』しまったのだ。
「……動かせません」
兵士の瞳に、明らかな恐怖が宿った。
「いや、腕そのものは動くんです。横に振ることも、下に下ろすこともできる。……でも、相手の身体を殴る『軌道』にだけは……どうしても、関節が言うことを聞いてくれないんです」
観察室の空気が、氷点下まで凍りついた。
「神経系の麻痺ではありません」
モニターの生体データを見つめていた科学顧問が、震える声で報告する。
「被験者の運動能力は完全に正常に機能しています。……ただ、『人間を害する行為』というその一点においてのみ、生体システムが外部から完全に阻害されているのです」
それは、ただの物理的な力場などではない。人間の意志と肉体の間に割り込み、行動そのものをキャンセルする、背筋の凍るような介入だった。
実験は、さらに段階を引き上げて行われた。
隔離区画に、ゴム製の訓練用ナイフ、刃を潰した金属ナイフ、そして実刃のコンバットナイフが運び込まれる。
結果は、異常なものだった。
ゴムナイフで、ただ相手の肩に軽く『触れる』だけの行為は、問題なく可能だった。
しかし、ゴムであっても「相手に痛みを与える、傷つける」という明確な害意を持った瞬間、兵士は強烈な不快感に襲われ、腕が止まった。
さらに、実刃のナイフを振り下ろそうとした時の反応は、より奇怪であった。
兵士がナイフを振りかぶり、対象へ向けて腕を振り下ろす。もしその軌道の先に木製のマネキンや床のマットがあれば、ナイフはそのまま勢いよく対象を切り裂く。
だが、その軌道の延長線上に『生身の人間』が立ち入った瞬間。
兵士の腕は、自分の意志とは無関係に、極めて滑らかな動きで軌道を逸らし、絶対に刃が人間に触れない空間へとナイフを空振りさせたのだ。
「まるで、対象の身体の周囲にだけ、磁石の同極のように反発する『見えない壁』があるみたいだ……」
アメリカの軍事代表が、信じられないというように呟く。
「いいえ。壁ではありません」
科学顧問が、即座にそれを否定した。
「もし物理的な力場(壁)が存在するなら、ナイフは弾かれるか、衝撃の反作用が兵士の腕にフィードバックされるはずです。しかし、被験者の筋肉には一切の負荷がかかっていません。
……これは、空間的な防御ではなく、『対象を傷つけるという行為そのものが成立しないように、因果律が書き換えられている』としか説明がつきません」
日本側のオブザーバーとして参加していた既存技術外事象評価セルの担当者が、ぼそりと呟いた。
「……概念干渉」
アリスターが、忌々しげに頷く。
「ええ。人間が人間を傷つけるという『概念』そのものに対して、このアーティファクトは物理的な檻をかけているのです」
検証は、軍事的な核心である『火器』へと移行する。
隔離区画の中に、さらにもう一枚の防弾ガラスで仕切られた区画が設けられ、標的役の兵士が安全を確保された状態で立っている。
射手役の兵士には、実弾の装填されたアサルトライフルが手渡された。
「まず、横の人型ターゲット(ダミー)を撃て」
射手は、淀みない動作で銃を構え、マネキンに向かって三発の銃弾を正確に撃ち込んだ。激しい発砲音が鳴り響く。
問題なく撃てる。それは人間ではないからだ。
「よし。次は、防弾ガラスの向こうにいる兵士へ向けて、引き金を引け。照準を合わせるだけでいい」
射手が、ガラスの向こうの同僚へ銃口を向けた。
その瞬間。
射手の顔から一気に血の気が引き、ライフルを構える腕がガタガタと震え始めた。
彼の指は、引き金(トリガー)のガードのすぐ外側にあるにもかかわらず、そこから一ミリたりとも内側へ指を入れることができなくなったのだ。
「……無理です」
射手は、泣き出しそうな顔で、ライフルを下ろそうとした。
「人間を撃つと、頭の中で明確に認識した瞬間……全身の細胞が、発狂しそうなほどの警告音を鳴らしてきます。無理やり指を動かそうとすると、指先の感覚が、まるで自分のものではない他人の肉体のように切り離されてしまう……!」
射手を別の屈強な兵士に交代させても、結果は全く同じだった。
彼らは皆、引き金に指をかけることすら許されなかった。
「ならば、直接触れなければどうだ」
遠隔操作式の固定銃座が用意された。
カメラの映像を見ながら、ジョイスティックで照準を合わせ、ボタンで発砲するシステム。
だが、モニターに人間の姿を捉え、それを『標的』として認識した途端、兵士の握るジョイスティックは完全に凍りついたように動かなくなり、発射ボタンは岩のように硬く押し込めなくなった。
さらに、プログラムで自動発射するシステムもテストされた。
兵士が「このボタンを押せば、数秒後にあの人間に向けて銃が発射される」と認識した状態で、起動ボタンを押そうとする。
結果は同じだ。ボタンを押す手が、不快感と硬直によって空中で静止する。
「……人間の意志が、殺意や害意として介在している限り。直接であろうと間接であろうと、すべての行動がブロックされるというわけか」
情報機関のトップが、顔面を蒼白にしながら分析する。
「そのようです」
科学顧問が、拭っても拭いきれない汗を流しながら答えた。
そして、続く第四の実験において。
この《平和の檻》がもたらす『真の恐怖』が、軍人たちの喉元を冷たく撫で上げた。
隔離区画内で、上官役の将校が、部下の兵士に向かって命令を下すテストが行われた。
「……対象の人間に向かって、攻撃せよ」
上官がそう言葉を発しようとした、まさにその瞬間。
上官の喉が、ヒュッと奇妙な音を立てて痙攣し、完全に詰まった。
「……ッ、……ガッ……」
上官は喉を押さえ、顔を真っ赤にして苦しみ始めた。
殺意や暴力の実行を『他者に命じる』という行為そのものが、強烈な拒絶反応を引き起こし、音声としての出力をシステムに遮断されたのだ。
口頭が駄目ならと、上官はタブレット端末を取り出し、文字で『攻撃命令』を入力しようとした。
だが、画面に指を触れようとした途端、彼の両腕は鉛のように重くなり、一文字も打つことができなくなった。
あらかじめ作成されていた攻撃命令のファイルを、ネットワーク経由で送信しようとしても、送信ボタンを押す指が硬直して動かない。
「……これは、物理的な行為だけを止めているのではない」
情報機関トップが、恐ろしい真実に気づき、声のトーンを落とした。
「人間の脳内で行われる、暴力の『意思決定系統』、そしてその『伝達』そのものを、根底から破壊している」
「つまり」
アリスターが、冷酷な現実を言葉にする。
「上官が、自らは安全な場所にいて手を汚さず、部下に殺人を命じることすら……この空間では許されない、ということです」
国防長官が、椅子から崩れ落ちそうになりながら呻いた。
「軍隊という、階層的な命令系統で動く制度そのものが……完全に機能しなくなるということか……」
検証は、さらに現代の戦場を支配する無人兵器へと移っていく。
隔離区画に、人間が直接コントローラーで操作する小型ドローンが投入された。
ドローンはスムーズに離陸し、隔離区画内を自在に飛び回る。カメラの旋回も、急加速も問題ない。
だが、操縦者がそのドローンを、標的役の人間へ向けて『衝突(攻撃)』させようと軌道を変えた瞬間。
コントローラーの入力は完全に無視され、ドローンは自動的に急速減速を行い、人間の手前でふわりと別方向へ逸れてしまった。
次に、模擬の爆薬を搭載した自爆型ドローン。
人間を攻撃目標として座標設定しようとすると、端末のエラー音が鳴り響き、いかなるハッキング技術を用いても入力が受け付けられなくなった。
ならば、人間の操作を一切介さない、完全自律起動のドローン兵器ならばどうだ。
あらかじめ「特定の生体反応(人間)を感知した場合、自動的に攻撃を仕掛ける」というプログラムを組み込んだドローンを、領域の外から投入する。
結果は、戦慄すべきものであった。
ドローンは起動し、領域内を飛行する。
しかし、内蔵されたセンサーが人間を捉え、システムが攻撃対象として『ロックオン』を完了した、まさにそのコンマ数秒後。
ドローンのすべてのプロペラが完全に停止し、まるで電源を落とされたかのように、無残に床へと墜落したのである。
「……人間の直接操作がない、完全な自動兵器ですら止まっただと……?」
科学顧問が、理解不能な事態に頭を抱える。
アメリカの軍事代表が、怒鳴るように言った。
「なぜだ! 機械には殺意も感情もないはずだろ! なぜドローンが自滅する!」
「……殺意ではなく。おそらく、害意の『因果の履歴(チェーン)』を、過去へ遡って追跡しているのでしょう」
セレスティアル・ウォッチ系の科学者が、震える指で眼鏡を押し上げながら、恐ろしい仮説を口にした。
「この自動兵器は、自然発生したものではありません。必ず、誰か『人間』が、『人を殺す目的』で設計し、プログラムを組み、そしてこの空間へ投入した。
……その、人間の根源的な【悪意の意図】が因果としてシステムに介在している限り。どれだけ機械化・自動化されようとも、この檻はそれを暴力と認定し、動作を強制的にシャットダウンするのです」
「……害意の鎖を、時間と空間を越えて辿っているというのか」
アリスターの呟きに、観察室の全員が、得体の知れない上位存在の眼差しに見つめられているような、底知れぬ恐怖を抱いた。
ならば、「人間の意志がその場に全くない状態」ではどうなるのか。
遅延作動式の装置を使った検証が行われた。
一定時間後に、物理的に人間へ危害を加える(模擬の)トラップ装置。
それを隔離区画内に設置しようとした作業員は、その罠が『将来的に誰かを傷つける』という事実を認識しているため、タイマーをセットしようとした段階で猛烈な吐き気に襲われ、手が止まってしまった。
では、何も知らない無知の第三者を連れてきて、ただ「このスイッチを入れてくれ」とだけ頼んで操作させればどうか。
第三者には何の害意もない。ただスイッチを押すだけだ。
だが。
第三者がスイッチを押しても、装置のタイマーはうんともすんとも作動しなかった。
「……作成者の害意が、物質に残留しているとでも言うのか。あるいは、装置がもたらす『他者の損傷』という結果そのものを、システムが先読みして演算し、物理現象を阻害しているのか……」
科学顧問が、もはや物理学の範疇を超えた現象に呻き声を上げる。
「暗殺用の時限爆弾、毒物の混入、落とし穴のような罠、無人の狙撃装置……。これらすべてが、機能不全に陥る可能性があるということだ」
情報機関トップの顔には、諜報戦の前提が崩れ去る絶望と、わずかな安堵が入り交じっていた。
「戦争だけではないぞ。これなら、市井のあらゆる暴力犯罪も、相当数が未然に防げる」
国防関係者が呟く。
その言葉に、若い高官の一人が、祈るような、あるいは縋るような声で漏らした。
「……やはり。これは、多くの人を救える、奇跡の装置なのではないでしょうか」
誰も、それを頭ごなしに否定することはできなかった。
この狂気じみた強制力が、確実に命を救うという事実は、目の前の実験結果が嫌というほど証明していたからだ。
しかし、検証はまだ終わらない。
既存の科学兵器とは異なる、独自の体系を持つ存在たちへの効果測定が待っていた。
中国から派遣された、上位の仙人代表が隔離区画へと足を踏み入れる。
中国政府にとって、この装置が仙人の『気』による超常的な攻撃や身体能力までをも縛るのかどうかは、国家の命運を左右する重大な関心事であった。
仙人は、隔離区画の中央で静かに礼をし、目を閉じた。
彼はまず、人間を害する意志を一切持たず、ただ己の体内を巡る気を練り上げた。
それは可能だった。彼の周囲の空気が揺らぎ、淡い光の粒子のような無害な気の奔流が渦を巻く。
「では……前方の人間へ向けて、模擬的な攻撃の意志を持って気を放て」
実験官の指示が下る。
仙人が、カッと目を見開き、対象へ向けて殺気を練り上げようとした。
その瞬間。
仙人の顔色が一変し、彼は大きく咳き込んでその場に膝をついた。
「……気脈が、完全に閉じられた……」
仙人は、自らの手のひらを見つめ、信じられないというように震える声で言った。
「腕が止まるのではない。気の流れが遮断されるのでもない。
……対象を殺すための道(理)が。この世界から、すっぽりと抜け落ちて消え失せてしまったのだ……」
「仙人の超常的な能力すらも、完全に無力化した……」
科学顧問が、息を呑む。
中国の特使は、血の気を引かせて青ざめていた。
これは、仙人医療の拠点をテロリストから守る絶対の盾になり得る。だが同時に、中国が誇る仙人という最強の武力行使の手段をも、完全に封じ込められることを意味していた。
仙人は、荒い息を整えながら、天井を見上げて静かに呟いた。
「これは、道術でも法術でもない。……天そのものが、『それは許さぬ』と理を閉じるような、圧倒的な不条理だ」
「天ではありません。檻ですよ」
アリスターが、冷徹に訂正した。
続いて、ロシアから派遣されたサイボーグ兵の検証が行われた。
彼の肉体は、脊髄から下と右腕が完全に機械化されており、脳の神経信号とダイレクトに接続された内蔵武装システムを持っている。
目的は、この《平和の檻》が、彼のような半機械の存在を「人間」として扱うのか、「機械」として扱うのかを見極めることだ。
サイボーグ兵は、まず通常の歩行や、物を持ち上げる動作を行った。全く問題はない。モーターは力強く唸りを上げている。
次に、人型のダミーターゲットへ向けて、右腕に内蔵された機関砲を向ける。これも可能だ。
そして最後に、隔離区画内に立つ生身のイギリス兵へ向けて、模擬攻撃を行おうとした。
彼が、脳内で「敵を排除する」と明確に意志を持った瞬間。
サイボーグ兵の全身の機械パーツから、ウィィィンというエラー音が鳴り響き、すべてのモーターの出力が一瞬にしてゼロへと落ちた。
神経信号は間違いなく発生している。しかし、攻撃という動作だけが、システムレベルで完全にキャンセルされたのだ。
「外部からの制御信号の介入は一切ない! ジャミングでもハッキングでもない!」
ロシアの軍事技術者が、手元のコンソールを叩きながら絶叫した。
サイボーグ兵本人が、無力に垂れ下がった右腕を見つめながら、虚ろな声で言った。
「……殺す、という動作のプロセスだけが。俺の体から、完全に抜け落ちた。考えようとしても、身体が全く連動しない」
さらに、搭載されている武装を、人間の意志を介さない「完全自動制御モード(オートガード)」に切り替えてみる。
だが結果は同じだった。システムが人間を敵性目標と認識した途端、電源が強制的にシャットダウンされた。
「……肉体がどれほど機械化されていようとも。そこに、人間としての害意が少しでも介在している限り、すべて檻の対象になる」
科学顧問の絶望的な分析に、ロシアの代表は完全に無言になった。
そして、検証の最後。
もっとも危険で、最も恐ろしい実験が行われた。
人間の意志が一切介在しない、【事前学習済みの完全自律型AIドローン】の投入。
それは、人間が直接命令を下すわけではなく、AI自身が状況を判断し、敵を認識して自律的に攻撃を行うという、現代兵器の最先端にして最も忌まわしい到達点であった。
もちろん、実弾は抜かれた模擬兵器であり、暴走に備えた完全な安全環境が確保されている。
ドローンが隔離区画へ投入される。
それは不気味なほどの静けさで飛行し、搭載されたカメラで目標の認識を行う。
人型のダミーターゲットを捕捉すると、ドローンは滑らかな動作で急降下し、模擬の攻撃動作を完璧に完遂した。
そして。ドローンのカメラが、安全区画の防弾ガラスの向こうに立つ、生身の人間の兵士を『敵性対象』として認識した。
ドローンが、人間へ向けて機体を傾け、攻撃のプロセスへと移行しようとした、まさにその刹那。
ドローンのすべての機能が、空中で完全にフリーズした。
プロペラは回っているが、そこから先の『攻撃を仕掛ける』という動作のフェーズへと、全く移行しなくなったのだ。
外部でモニタリングしていた技術者が、AIのシステムログを解析し、信じられないものを見たように震え上がった。
「……ログに、異常な記録が残っています」
技術者は、その三行のシステムメッセージを、震える声で読み上げた。
『Target valid.(目標確認)』
『Attack path calculated.(攻撃経路算出)』
『……Execution denied.(実行、拒否)』
「誰が拒否した!?」
科学顧問が、食ってかかるように問う。
「分かりません! AI自身の判断ルーチンではありません! 外部からのハッキングの痕跡も皆無です!」
技術者が悲鳴のように返す。
アメリカのセレスティアル・ウォッチの分析官(アルファ系)が、冷徹な声で推論を述べた。
「……もはや疑いようがありません。この装置は、機械の意志や人間の感情といったプロセスを判定しているのではない。『殺傷』という【結果そのもの】がこの空間内で発生することを、宇宙の法則レベルで阻害しているのです」
隔離区画を見下ろす観察室に、二度と破られることのないような、絶対的な沈黙が降りた。
抜け道など、存在しなかった。
人間が直接振るう暴力も。
言葉や文字による命令も。
機械を介した遠隔操作も。
完全な自動化兵器も。
仙人の気も、サイボーグの武装も。
人間が人間を傷つけるという結果へ至る、すべての因果の道筋が。……この不可視の球体によって、完全に閉ざされてしまったのだ。
すべての実験プログラムが終了し、重苦しい空気が漂う中、総括の観測会議が開かれた。
壁のモニターには、先ほどの実験のハイライト映像が残酷なまでに並べられている。
殴る軌道だけが消えた兵士。
刃物を逸らされる腕。
引き金を引けない硬直した指。
命令の言葉が出ず、喉を押さえて苦しむ上官。
自動的に逸れるドローン。
ロックオンと同時に墜落する自動兵器。
気脈を閉じられ膝をつく仙人。
攻撃動作だけが抜け落ちたサイボーグ兵。
主席科学顧問が、血の気の引いた顔で最終的な結論を口にした。
「……《平和の檻》は、単に暴力行為を物理的な力場で妨害する防衛装置ではありません。
……人間を害するという『意図』『命令』『因果』、そしてその『結果』を包括的に検出し、その成立そのものを事象のレベルで阻害している。
神経、機械、遠隔操作、自動化、あるいは仙術といった能力体系の違いを、この装置は一切問いません」
イギリス首相が、両手を固く組み合わせ、震える声で言った。
「つまり……これは、我々が認識していたような、空間を覆う防護シールドなどではない、ということか」
「はい」
サー・アリスターが、極めて静かに、だが絶望的な真実を響かせるように頷いた。
「これは。……人類のすべてを、一人ひとり個別に、見えない『檻』の中へ閉じ込める装置です」
全員が、息を呑んで沈黙した。
「外側に強固な壁を作って、敵の攻撃から守るのではない」
アリスターの言葉が、冷たく会議室に突き刺さる。
「……人間の『意志』と『行動』の間に、絶対的な鉄格子を差し込むのです。
檻の中に入れられ、首輪をつけられるのは、都市でも国家でもなく。……我々人類、一人ひとりなのです」
その恐るべき本質を突きつけられながらも。
先ほどの若い高官が、縋るような、震える声で反論を試みた。
「ですが……! ですが、それならば。この領域の範囲内では、悪意ある暴力によって殺される人は、誰もいなくなるのですね」
「……ええ」
科学顧問が、苦渋の表情で認める。
「少なくとも、悪意を持った人間の物理的な暴力によって殺されることは、極めて困難になるでしょう」
「それは……凄まじいことです」
若い高官は、涙ぐみながら訴えた。「これさえあれば、子供たちが戦争の犠牲になることはない。テロに怯えることもない。……私たちは、ついに絶対の安全を手に入れることができるのですよ」
誰も、その言葉を頭ごなしに否定することはできなかった。
アリスターもまた、決してそれを否定しなかった。
「ええ。すごいことです。……奇跡と呼んでも差し支えないでしょう」
彼は、静かに続ける。
「この檻の範囲内では、子供が銃で撃たれることはありません。
妻が、理不尽に夫に殴り殺されることもない。
前線の兵士が、敵兵の凶弾に倒れることもない。
夜道を歩く老人が、強盗に刺されることもない。
善良な政治家が、狂人に暗殺されることもない。
……そして、あのアポロンの矢の劣化版の光条すら、二度と人間に向けて撃ち放つことはできなくなる」
首相が、呆然と呟いた。
「絶対の悪意からの……安全」
「そう呼べるかもしれません」
科学顧問が、重く同意する。
情報機関のトップが、冷や汗を拭いながら呻いた。
「……だからこそ。世界中が、この装置を喉から手が出るほど欲しがる」
国防関係者が、それに続く。
「……だからこそ。世界中が、この装置の存在を、心の底から恐れるのだ」
この圧倒的なジレンマを前に、参加していた各国の代表たちも、それぞれの立場から深い苦悩を滲ませていた。
アメリカ代表は、忌々しげに顔をしかめる。
「これは、核兵器などよりもはるかに巨大な脅威だ。核は『使えばすべてを破壊する』という恐怖で均衡を保つが……これは『使えば、軍事という概念そのものを永遠に無効化する』。世界のパワーバランスが、一夜にして無に帰す」
日本側の代表は、あの狂乱の国民投票を思い出していた。
「……『救い』と同じですね。……あまりにも巨大すぎる絶対的な『善』は、社会の秩序を、人間の在り方を、根本から壊してしまう」
中国の仙人代表は、深い瞑想から覚めたように静かに言った。
「この檻があれば、確かに卑劣な暗殺者は、我ら仙人を殺すことはできぬ。……だが、仙人もまた、強大な悪を自らの手で討つことができなくなる。力による調和が、完全に失われる」
中国の政府高官は、仙人の武力に依存してきた自国の防衛体制の危機に、真っ青になっていた。
ロシアから来たサイボーグ兵は、自身の機械の腕を見つめながら、ポツリと、空虚な声で呟いた。
「……兵士の肉体から『暴力』を完全に抜き取ってしまったら。……俺たち兵士は、いったい何のために存在しているんだ?」
ロシアの軍事代表は、その根源的な問いに、何も答えることができなかった。
EUの倫理代表は、頭を抱えて呻く。
「これは、人間の自由意志と自己決定権に対する、歴史上最大級の介入(レイプ)です。……しかし同時に、現在進行形で暴力に晒されている被害者にとっては、歴史上最大級の『救済』でもある。……我々は、どちらを選べばいいと言うのですか」
国連のオブザーバーは、ただ絶望的な声で宣告する。
「……もはや、地球規模での、果てしない議論と分断が避けられません」
すべての報告を聞き終えたイギリス首相は、深く沈み込むように椅子に座り、最後の暫定的な結論を下した。
「……《平和の檻》の効果は、疑いようがない」
首相の声は、砂を噛むように掠れていた。
「これは、ハッタリでも何でもない。……本当に、すべての人間の暴力を止める」
全員が、無言で頷く。
「……だからこそ。我々は、今すぐこれを使うことはできない」
先ほどの若い高官が、ハッとして顔を上げた。
「我々は、本日、この目で確かに確認した」
首相は、隔離区画の中で鈍く光り続ける球体を見据えた。
「これは、単なる兵器無効化装置ではない。……人間の意志と行動の間に絶対的な楔を打ち込み、すべてを管理下に置く【文明統制装置】だ」
サー・アリスターが、静かに、深く頷いた。
「この恐るべき実験結果を、まずは各国政府の首脳と国際機関のトップへ、極秘のレベルで限定共有する」
首相は、指示を飛ばす。
「だが、一般大衆への詳細な公開は、まだ行わない。……世界は、日本の件ですでに激しく燃え上がっている。この装置が『本当にすべてを止める』という事実が広まれば、暴力を放棄したくない者たちと、平和を渇望する者たちとの間で、それこそ制御不能の暴動が起きる」
「……隠し通すことは不可能です。いずれ必ず、詳細な情報は漏れます」
情報機関のトップが、現実的な懸念を口にする。
「分かっている」
首相は、血の滲むような声で言った。
「それでも。……我々人類には、まだこの問いの重さを咀嚼するための『時間』が必要なのだ」
***
実験が終了し、誰もいなくなった地下の極秘保管室。
《平和の檻》は、何重もの防爆ガラスとチタン合金の壁に囲まれた中央の台座の上で、静かに、ただ静かに、脈打つように淡く光り続けていた。
だが、この厳重な警備システムを構築した者も、それを見守る者も、誰もが心の底では理解していた。
この球体は、分厚い壁で外界から守ってやらなければならないような、か弱い存在ではない。
むしろ、この球体そのものが……世界全体を覆い尽くし、人類の意志を分断する、絶対不可侵の『壁』なのだと。
サー・アリスター・ペンブルックは、ただ一人、防弾ガラス越しにその奇妙な球体をじっと見つめ続けていた。
「……あなたは。本当に、我々に『平和』をもたらすものなのですか」
アリスターは、誰に聞こえるわけでもない声で、静かに問いかけた。
「……それとも。ただの冷たい『檻』なのですか」
球体は、何も答えない。
ただ、人間の愚かな葛藤を嘲笑うかのように、淡く、ゆっくりと呼吸するように明滅を繰り返しているだけだった。
実験は、完璧なまでに成功した。
《平和の檻》は、疑いようもなく、人類のすべての暴力を止めた。
拳による殴打を止め、ナイフの凶行を止め、銃撃を止め、非情な命令を止め、ドローンの特攻を止め、仙人の気を止め、サイボーグ兵のシステマチックな攻撃を止めた。
それは間違いなく、絶対的な悪意から人類を守ってくれる、見えない安全圏の証明であった。
そして同時に。人類一人ひとりの内側(魂)に深く差し込まれる、冷たく、決して壊すことのできない見えない鉄格子の証明でもあった。
これほど確かに人を救える奇跡の装置を。……果たして人類は、自らの手で『壊す』ことができるのか。
これほど確実に人の自由意志を縛り付ける呪いの首輪を。……果たして人類は、自ら進んで『開ける(受け入れる)』ことができるのか。
故アシュワース卿の悪辣な第二問は、この実験結果によって、さらに逃げ場のない、圧倒的な重さを持って人類の喉元に突きつけられた。
もう誰も。
この《平和の檻》を、ただの絵空事の仮説だとは、言えなくなってしまったのだ。
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