銀河皇帝のスペアに転生した元社畜、地球軌道上の要塞でネトゲ三昧の隠居生活を満喫する 〜足元では超大国が滅亡級の異星遺産を巡って暗躍中ですが、主人公(ぼく)の命は絶対安全なので特等席で傍観します〜 作:パラレル・ゲーマー
漆黒の宇宙空間に、外界のいかなる物理法則からも独立して浮かぶ超次元観測所『サイト・アオ』。
その広大なラウンジの中心に設置された巨大なホログラムスクリーンには、地球上で進行している極秘の映像データが、複数のウィンドウに分割されて投影されていた。
それは、イギリス政府が地下の実験施設で執り行った、《平和の檻(パックス・ケージ)》の性能検証の記録である。
もっとも、イギリスの諜報機関がどれほど厳重な情報統制を敷こうとも、この観測所のネットワークをすり抜けることは不可能だった。彼ら上位存在にとって、地球上のあらゆるファイヤーウォールは、紙屑ほどの意味も持たない。
スクリーンの中では、信じがたい光景が次々と再生されていた。
同僚を殴りつけようとして、強烈な吐き気に襲われ腕を止める特殊部隊員。
防弾ガラスの向こうの標的に向けて、どうしても引き金が引けずに泣き出しそうになる射手。
部下へ攻撃命令を下そうとして喉が詰まり、赤黒い顔で咳き込む将校。
プログラムされた攻撃軌道から自動的に逸れていくドローンや、生身の人間をロックオンした瞬間にシステムダウンして墜落する自律AI兵器。
さらには、中国から極秘裏に派遣された上位の仙人が、攻撃の気脈を完全に塞がれて呆然と膝をつく姿や、ロシアのサイボーグ兵の機械腕から「殺す」という動作プロセスだけがすっぽりと抜け落ちる様までが、冷徹な高画質映像として記録されていた。
日本政府の地下会議室で、よれたスーツを着た三神編集長が、この装置を「平和主義のアーティファクト、すなわち因果律に介入する兵器である」と断じている映像も、別枠で静かに流れている。
ティアナは、最高級のレザーが張られたカウチソファにだらしなく寝転がり、クッションに頬杖をつきながら、半目でその映像群を眺めていた。
「いやはや……」
彼は、呆れたような、それでいてどこか面白がるような息を吐き出した。
「また随分と、悪趣味で意地悪なテスト問題を置いていったもんだねぇ、あのジーサンは」
彼の言う「ジーサン」とは、もちろん故アシュワース卿のことだ。第一問で「無限の富」を突きつけ、第二問で「強制された平和」を突きつけてきた死せる奇人コレクター。
そのティアナの隣のテーブル席で。
サイト・アオの専属アシスタントであり、地球人類の目線を持つエミリー・カーターは、両手を固く握りしめ、食い入るようにスクリーンを見つめていた。
彼女の表情には、上位存在たちのような余裕はない。ただ、切実な痛切さと、揺れ動く感情だけが張り付いている。
「でも……」
エミリーは、躊躇いながらも、自分の中にある素直な感情を口にした。
「暴力が、この世からなくなるというのは……本当に、素晴らしいことだと思うんです。
明日起こるかもしれない戦争も、罪のない人々を巻き込むテロも、残忍な殺人も……これがあれば、すべて止めることができるんですよね?」
それは、ニュースを見ている地球上の一般大衆が抱くであろう、最も自然で純粋な希望だった。
子供が空からの爆撃で死なない世界。誰かが理不尽な暴力で命を奪われない世界。それを否定することなど、誰にできるというのか。
バーカウンターで、年代物の赤ワインを揺らしていたKAMIが、ルビー色の液体越しにスクリーンを眺めながら、ふっとシニカルな笑みをこぼした。
「まあ、地球っていう『小さな水槽』のスケールで見れば、最高に素晴らしい魔法の装置に見えるわよね」
KAMIは、グラスを傾け、芳醇な香りを嗜む。
「でもね、エミリー。地球の歴史において、『暴力』っていうのは、ただの邪魔なバグじゃなかったのよ。……あれは、人間という種族が社会の秩序を維持し、歴史のステージを進めるために組み込んできた、極めて重要な『メインシステムの一部』だったわけ」
KAMIの言葉は冷酷だが、的を射ていた。
「法律を作るのも、国家を運営するのも、最後は『逆らえば物理的な制裁(暴力)を加えるぞ』っていう抑止力があって初めて機能しているの。それをね、ある日突然、上から『はい、今日から暴力は一切禁止でーす!』なんて強制的にパッチを当てたら……文明のOSの中核機能が消し飛んで、社会が完全にクラッシュするに決まってるじゃない」
ビロードのクッションの上で丸くなっていた賢者・猫が、黄金色の瞳を細め、長い尻尾をゆらりと揺らした。
「KAMIの言う通りじゃな」
猫は、老練な商人としての落ち着きを払って言う。
「暴力がなくなること。誰も血を流さずに済むこと。……それ自体は、紛れもなく『良いこと』じゃ。誰にも否定はできん。
……じゃがな。『良いこと』が、すなわち文明にとって『正しいこと』であるとは限らんのじゃよ。薬も過ぎれば毒となる。この檻は、患者の痛みを止める代わりに、手足の自由を永遠に奪い去るようなものじゃ」
タブレット端末で《平和の檻》の概念構造を独自の数式に落とし込もうとしていた工藤が、眉間を揉みながら口を挟んだ。
「正直なところ、俺はまだ、この装置の全貌を咀嚼しきれていません。……地球の一般人と同じ感覚ですよ」
工藤は、技術者としての戸惑いを隠さなかった。
「人を殺せなくなる。暴力を振るえなくなる。それなら、使えばいいじゃないかと思えてしまう。……もちろん、警察や軍隊が機能しなくなって社会が停滞するというリスクは理解できます。でも……この装置のシステム的な『例外』や『欠陥』は、本当にないんですか?」
工藤のその疑問を待っていたかのように。
ソファに寝転がっていたティアナが、パチンと指を鳴らして起き上がった。
「あるよー」
彼は、悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
「この《平和の檻》には、致命的で、どうしようもない『システム上の穴(限界)』があるんだよ」
ティアナは指先を動かし、空間に一つのホログラムを投影した。
青く輝く地球。そして、その地表から大気圏のギリギリ外側までを、薄い半透明の光の膜がすっぽりと覆い尽くしている。
「まず大前提として。アシュワース卿の遺言にもあった通り、この《平和の檻》の最大出力は『地球全土を覆うこと』だよね。
……ってことはさ。効果範囲の外側、つまり【宇宙空間】から暴力を行使されたら、地球の中にいる連中は、普通にボコボコにされちゃうってことだよ」
エミリーが、ハッとしてホログラムを見つめた。
「地球の、外側から……?」
工藤の技術者としての脳が、即座にそのシナリオを計算し、戦慄した。
「……月面基地からの質量弾攻撃、あるいは軌道上の衛星からのレーザー照射、さらには将来建設されるであろう火星コロニーからの遠隔攻撃ですか……!」
「そうそう、大正解」
ティアナは、地球の周りに月や火星の小さなホログラムを追加した。
「今の地球人類は、まだ自分たちの星からほとんど出ていない『惑星文明』だから、地上での殺し合いのことしか頭にないかもしれないけどさ。
……数十年後、数百年後。人類が本格的に宇宙へ進出して、月や火星、外宇宙に巨大なコロニーを作ったらどうなると思う?」
ティアナの言葉が、恐ろしい未来のディストピアを描き出す。
「地球という星だけが『暴力が存在しない絶対平和なゆりかご』になって。……宇宙に出た人類は、厳しい環境を生き抜くために、普通に『暴力や武力』を持ったまま発展していくわけだ」
エミリーは、そのアンバランスな構造の危うさに気づき、息を呑んだ。
「……地球だけが平和になる。でも、宇宙へ出た人類は、また新たな暴力の歴史を始めるんですね」
「そう。しかもタチの悪いことに」
ティアナは、ホログラムの地球をツンツンとつついた。
「地球側の人類は、何世代も経つうちに『暴力の使い方(戦い方や身の守り方)』を完全に忘れて、骨抜きになっていく。対して、月や火星のコロニー側は、宇宙海賊や厳しい自然と戦いながら、暴力のリアルな運用ノウハウを蓄積していく。
……その状態で、もし地球と宇宙のコロニー間で、資源や主権を巡る利害対立が起きたら。……どっちが勝つと思う?」
「……地球側は、抵抗する手段すら思いつかず、一方的に蹂躙される可能性がありますね」
工藤が、絶望的な予測を口にする。
「平和ボケどころの騒ぎじゃないわね。究極の『平和檻ボケ』よ」
KAMIが、冷酷に笑う。「抵抗する牙を抜かれた飼い犬が、野生の狼の群れに勝てるわけがないじゃない」
賢者・猫も、ヒゲをピクピクと動かしながら同意する。
「商売に例えるならばじゃ。本店の人間だけが『うちは完全非暴力の平和な商会です』とすべての武器を捨てて丸腰になり。遠方の支店や取引先だけが、ガチガチに武装した私兵を抱えているようなものじゃな。……そんな本店は、あっという間に支店に乗っ取られるか、外部の商人に身ぐるみ剥がされて終わりじゃ」
「猫のたとえ、どんな壮大なSFの話をしてても、絶対に最後は商売の損得勘定に戻るね」
ティアナが、クスクスと笑いながらツッコミを入れた。
だが、エミリーの顔は青ざめたままだった。
「……でも。それなら、地球社会は、宇宙に出なければいいのでは? ずっと地球の中で、平和に暮らしていけば……」
「それは無理な相談だよ」
ティアナは、ホログラムの表示を消し、真剣な顔で言った。
「人類はいずれ、資源の枯渇や人口増加、あるいは単なる好奇心から、必ず地球という星の外へ出ていく。それが知的生命体の本能だからね。
その時、地球社会が『暴力を完全に扱えない』状態になっているのは、致命的な弱点になるんだよ」
ティアナは、指を折りながら過酷な宇宙の現実を並べる。
「宇宙開発には、予測不能な事故への物理的な対処、無法者の宇宙海賊との戦闘、未知の凶暴な宇宙生物との遭遇、さらには他の星系文明との衝突リスクが必ずつきまとう。
……そこで、暴力を完全に忘れ去った、ナイフの持ち方すら知らない脆弱な文明が外へ出て行くなんて、自殺行為以外の何物でもない」
「危険物の扱い方(安全な運用方法)を学ばないまま、最も危険な地帯へ無防備に足を踏み入れるようなものですね」
工藤が、システム管理者の視点からその愚かさを指摘した。
「そうそう」
KAMIが、赤いマニキュアを塗った指先でグラスを弾いた。「刃物は危ないからって、包丁からハサミまで全部禁止しちゃった超過保護な文明が、いきなり猛獣だらけの未開のジャングルへキャンプに行こうとしてるような感じね」
「しかも、そのジャングルには、包丁どころか最新鋭のビームライフルや大砲を持った、えげつない異星の商人たちがうようよしておるんじゃからな」
猫が、さらに絶望的な条件を付け足す。
エミリーは、その光景を想像し、肩を震わせた。
「……銀河文明って、そんなに物騒なところなんですか?」
「んー、場所によるけどね。平和な星域はすごく平和だよ」
ティアナは、あっけらかんと言った。
「でもさ、『うちは完全な平和主義なんで、武力は一切持ちませんし、抵抗もしません』なんて公言してる文明は。……だいたい、どこかの強大な帝国の保護下に入って実質的に植民地化されているか、あるいはもうとっくの昔に海賊や好戦的な種族に滅ぼされて、星ごと更地にされてるかのどっちかだよ」
「……」
エミリーは、言葉を失った。
ティアナは、ソファの背もたれに深く寄りかかり、銀河の標準的な価値観を語り始めた。
「星の海を渡るレベルの『星間文明』における平和主義って、地球人が想像するようなお花畑の『完全非暴力』とは、ちょっと意味合いが違うんだよね」
「違うんですか?」
「うん。基本となるルールはこうだ」
ティアナは、指を一つずつ立てていく。
「決して、自ら先制攻撃はしない。他者の星を侵略しない。非武装の民間船は絶対に撃たない。対立が起きたら、最後まで交渉を最優先する。弱い文明をむやみやたらに搾取しない。
……でもね」
ティアナの瞳が、一瞬だけ、何百年もの星間戦争を見てきた冷徹な観測者の色に染まった。
「……自分たちを守るための『反撃能力(圧倒的な暴力)』は、絶対に、何があっても捨てない。
それが、銀河文明における標準的な平和主義のスタンスだよ」
「攻撃的平和主義、ってやつね」
KAMIが、薄く笑いながら補足した。
「攻撃的……平和主義……」
工藤が、その矛盾したような響きを持つ言葉を反芻する。
「言葉だけ聞くと物騒に思えるかもしれないけど、銀河基準だとむしろそれが一番健全で、長続きするんだよ」
ティアナは、パチンとウインクをした。
「『私は絶対に誰のことも殴らない。でも、もし私を理不尽に殴ろうとする奴がいたら、そいつの腕を根元からへし折るだけの準備は常にしている』。
……この強烈な『抑止力』があるからこそ、他者は迂闊に手を出してこないし、対等な交渉のテーブルにつくことができる。反撃の牙を持った上での平和主義なんだよね」
賢者・猫が、我が意を得たりとばかりにヒゲを撫でた。
「取引においても全く同じ理屈じゃ。……こちらから他者の倉を盗むような真似は決してせん。だが、もし我が商会に盗みに入ろうとする不届き者がおれば、地の果てまで追いかけて捕らえ、莫大な賠償金を吐き出させる。
……この防衛の意志と力を捨ててしまった商人は、もはや善人などではない。ただの『狩られるのを待つ哀れな獲物』に過ぎんのじゃよ」
ティアナは、再び地球のホログラムを呼び出し、今度はその表面にいくつかの小さな光のドットを配置した。
「だから、銀河文明において、こういう『暴力禁止フィールド』みたいなアーティファクトを使うとしたら、普通はもっと限定的な【局所用途】なんだよ。
星間会議の会場とか、絶対に戦闘行為を起こしてほしくない中立の避難所、傷ついた兵士を収容する巨大な病院船、希少生物の保護区。……そういう限られたスペースにピンポイントで張るなら、これ以上なく優秀な防衛システムになる」
ティアナは、ホログラムの地球全体を覆うように、光の膜を広げた。
「でも、それを惑星の文明全域に、しかも永続的にかけようとするなんて。……文明の進化の芽を摘み取り、自浄作用を失わせる、かなり危ない行為なんだ」
「じゃあ……」
エミリーが、少しだけ安堵したような、しかし複雑な表情で言った。
「この《平和の檻》は、地球人が考えているよりも、ずっと古くて未熟な発想のアーティファクトだということですか?」
「たぶんね」
ティアナは、肩をすくめた。
「おそらく、宇宙へ出る前の『惑星文明』に向けて作られた、かなり古い設計思想の平和主義アーティファクトだと思うよ。
あの意地悪なジーサン(アシュワース卿)のことだから、どっかの銀河マーケットの片隅で、こういう時代遅れの骨董品を面白半分で落札してきて、地球のど真ん中にぶん投げたんじゃないかな?」
「本当に、趣味が悪いわねぇ」
KAMIが、呆れたようにため息をついた。「人間の葛藤を高みの見物して楽しんでるのが見え見えじゃないの」
エミリーは、それでもなお、この装置にわずかな希望を見出そうとしていた。
「でも……局所的な用途なら、とても優秀なんですよね?
だったら、地球全体ではなく、戦争が起きている地域の病院や、避難民のキャンプ、子供たちがいる学校にだけ限定して使うなら……それは素晴らしい救いになるんじゃないですか?」
「それなら、かなり良い使い道だね」
ティアナも、そこは否定しなかった。
「戦火のど真ん中にある中立病院にかける。難民キャンプにかける。テロの標的になりやすい国際会議場にかける。あるいは、あのアポロンの矢の劣化版が出回って治安が崩壊している地域の学校周辺にかける。
……そういう、弱者をピンポイントで守る防壁としての使い方なら、たぶんめちゃくちゃ有能な道具として機能するはずだよ」
「なら、なぜイギリス政府はあそこまで絶望的な顔をしているんですか? なぜ、最終的に『破壊するしかない』みたいな重い空気になっているんです?」
工藤が、素朴な疑問をぶつけた。
「それはね」
ティアナは、少しだけ目を伏せた。
「あの意地悪な卿が、そういう『都合の良い逃げ道』を絶対に許さないように、ルールを縛っているからだよ」
KAMIが、ワイングラスを置いて冷酷に言い放つ。
「『封印も、都合の良い限定運用も認めない。地球全土に檻を開けるか、それとも完全に壊すか。二つに一つだ』。……これが、あの狂人が残した問題文なのよ。クソ意地悪にも程があるわ」
「道具としてのポテンシャルは極めて有用。じゃが、突きつけられた問いとしては最悪の極み」
猫が、総括するように言う。
「もし市場に流せば、欲しがる者は星の数ほどおるから、とんでもない高値がつくじゃろう。だが、いざ所有物として抱え込んでしまえば、どう扱うべきか永遠に答えが出ず、胃にいくつ穴が空いても足りん。……最悪の不良債権じゃな」
「猫さんのその評価が、一番腑に落ちますね……」
工藤が、深く同意して頷いた。
「《平和の檻》自体が、完全にダメで邪悪な道具ってわけじゃないんだよ」
ティアナは、ホログラムを消して言った。
「でも、それを『地球全土に強制的に開ける』という極端な選択肢しかない時点で、システムとしてはダメダメなんだ。
……しかも、もしイギリス政府が『人類の未来の自由』を守るためにこれを壊したとしたら。その後、世界のどこかで戦争や悲惨な事件が起きるたびに、被害者の遺族から『あの時、イギリスが檻を壊さなければ、この子は死なずに済んだのに』って、未来永劫呪いの言葉を投げつけられ続けることになる。
だから、あのアーティファクトを押し付けられたイギリス政府は、文字通りの地獄の業火に焼かれてるんだよ」
重苦しい沈黙が流れる中。
KAMIが、ふと何かを思い出したように、楽しげな笑い声を漏らした。
「平和主義、暴力の放棄……っていう観点で言えば。私が大昔に、別の惑星でやった実験のことを思い出すわね」
「……実験、ですか?」
エミリーが、嫌な予感に背筋を凍らせながら聞き返す。
「神様の気まぐれな実験ほど、嫌な予感がするものはありませんね」
工藤も、露骨に顔を引きつらせた。
「大丈夫よ、心配しないで。一応は成功例だから」
KAMIは、自慢げに過去の武勇伝を語り始めた。
「ある惑星の文明でね。彼らがあまりにも不毛な殺し合いばかりしているから、ちょっと介入してあげたの。
一つの巨大な大陸全土に、『いかなる言葉や種族の壁も越えて、相手の思いが正確に通じ合うフィールド』を付与してあげたのよ」
「思いが、通じ合う……?」
「そう。言語の壁は完全になくなり、文化の違いによる誤解も発生しない。相手が何を恐れ、何を望み、どれほどの敵意を抱いているのかが、ある程度ダイレクトに相互理解できるようになるの。
……もちろん、嘘をつくことはできるわ。でも、『あ、こいつ今、自分の利益のために心にもない嘘をついてるな』っていう違和感までは、相手に正確に伝わってしまうのよ。
つまり、騙し合いや裏切りが極めて困難になり、物理的な暴力に訴える前に『交渉』がめちゃくちゃ成立しやすくなる、究極のコミュニケーションフィールドね」
エミリーは、その機能を聞いて、目を輝かせた。
「それは……すごく良いことなのでは? お互いの痛みが分かれば、無用な争いは起きなくなりますよね!」
「ええ、とても良いことよ」
KAMIは、満足そうに頷いた。
「実際、そのフィールドの中は、かなり平和な社会になったもの」
ティアナが、思い出し笑いをこらえきれないように吹き出した。
「あははっ! あれは、横で観測しててなかなか面白い展開だったねー!」
「でしょ?」
KAMIは、ワイングラスを掲げた。
「結果として何が起きたと思う? その星の全人類が、こぞってそのフィールドが展開されている一つの大陸(地球で言えばアメリカ大陸くらいの大きさね)に、大移動して移住しちゃったのよ。
そして、外の野蛮な世界には一切関わらず、その大陸の中だけで平和に、ぬくぬくと暮らし始めたわ。あれは傑作だったわね」
「ぜ、全員が一つの大陸に!?」
エミリーが目を丸くする。
「人口密度、どうなったんですか……。インフラがパンクして、それこそ資源を巡る暴動が起きそうですが」
工藤が、現実的な懸念を口にする。
「まあ、初期の数年間は、当然ながら凄まじい混乱と地獄だったわよ」
KAMIは、あっけらかんと言った。
「でもね。彼らは暴力で相手を排除して解決するよりも、『徹底的に話し合って、妥協点を見つける方が、結果的に自分たちにとっても安全で早い』ということに気づかざるを得ない環境に置かれていたの。
だから、血みどろの戦争にはならず、案外どうにかなっちゃったのよ。
……最終的には、何世代もかけて、その『分かり合えるフィールド』の効果が、彼ら自身の精神の進化によって大陸の外へ出ても持続するようになるまで。ずーっと、その大陸の中に全員で引きこもってたわ」
「それはそれで……随分と極端な歴史の進み方ですね……」
エミリーは、苦笑するしかなかった。
「でも、真の意味で『平和主義』を星全体に根付かせるなら、システムで強制するならあれくらい極端なことをした方がいいのよ」
KAMIは、自信満々に言った。
「人間の行動(暴力)だけを物理的に禁止するより。人間の認識(コミュニケーション)を変えて、『分かり合える環境』を作ってあげる方が、文明の発展としてはよっぽどマシでしょ?」
ティアナが、KAMIの意見に深く頷いた。
「そうだね。KAMIのあの実験は、やり方は乱暴だったけど、方向性としてはかなり理にかなってると思うよ。
ただ単純に暴力を封じ込めるより、相手と分かり合うための土壌を作る。……本物の平和を作るなら、本当はそっちのアプローチの方が、何倍も上等なんだ」
エミリーは、それでもまだ腑に落ちない様子だった。
「……暴力をなくすだけでは、駄目なんですか?」
「駄目とは言わないよ。でもね」
ティアナは、諭すように言った。
「ただ暴力を封じるだけじゃ、争いの『根本的な原因』は何も解決していないんだよ。
……相手への憎しみも。未来への恐怖も。埋めがたい利害の対立も。根深い人種差別も。今日食べるものがないという飢餓や貧困も。
すべては、何一つ変わらずに残ったままなんだ。……ただ、『物理的に相手を殴れなくなっただけ』」
賢者・猫が、厳しい声で補足する。
「相手を殴れなくなった商人同士でも、言葉と法律を使って巧妙な『詐欺』を働くことはいくらでも可能じゃ。
不当な契約で相手の自由を縛り、嘘の情報で大衆を騙し、極端な価格操作によって、弱者を経済的に飢えさせて『殺す』ことはできる。
……暴力を封じたところで、人間の心の中にある損得勘定や悪意は、決して消え去ることはないのじゃよ」
工藤が、システム障害の対応に例えて納得したように言った。
「つまり……《平和の檻》というのは、病気の原因を取り除く『原因療法』ではなく、表面的な症状だけを抑え込む『対症療法』に過ぎないんですね」
「そうそう」
ティアナが頷く。
「しかも、副作用がめちゃくちゃ重くて、下手したら患者の命を奪いかねない対症療法ね。熱は下がるけど、患者の手足の自由行動まで一生止まっちゃう感じ」
「文明という身体に、無理やり巨大なギプスを巻きつけて固定して、『ほら、もうこれで骨折することはないから、あなたは永遠に健康ですよ』って言ってるようなものね。悪辣なジョークだわ」
KAMIが、鼻で笑う。
「でも……」
エミリーは、唇を噛み締め、地球の人間としての切実な痛みを代弁した。
「……でも。今まさに大怪我をして、骨折の痛みに泣き叫んでいる人からすれば。……そのギプスは、絶対に必要なんです。副作用があっても、手足が動かなくなっても……痛みを止めてほしいと願うのは、間違っているんですか?」
「そこなんだよね」
ティアナは、エミリーの痛みを真っ直ぐに受け止めた。
「だから、僕たちも、この装置を完全には否定できないんだ」
エミリーは、苦しそうに続けた。
「……人類の長い歴史とか、未来の宇宙進出とか、上位存在の方々の論理は理解できます。
でも……地球に生きている私たち人間からしたら。それでも、《平和の檻》のボタンを押してしまってもいいと、そう思えてしまうんです。
……明日、空から降ってくるミサイルで死ぬ子供がいるなら。今この瞬間にも、逃げ場のない家庭内で暴力に怯えている人がいるなら。
……人類の自由意志だの、革命の権利だのといった高尚な概念よりも。ただ『命を守りたい』という切実な声は、決して間違っていないと思います」
「間違っておらん」
賢者・猫が、エミリーの言葉を静かに肯定した。
「それは、生命として極めて正当で、切実な需要じゃ。誰にも咎める権利などない」
「そうね」
KAMIも、珍しく優しいトーンで言った。
「平和で安全な場所にいる人間が、上から目線で『暴力に抵抗する自由が大事だ』って語るのは、とても簡単なことよ。
でも、今まさに頭上に爆弾が降り注いでいる真っ只中にいる側からすれば……自由なんて後回しでいいから、檻でも家畜小屋でもなんでもいいから、とにかくこの惨劇を止めて助けてくれって、そう思うのは当然のことだわ」
「だからこそ……あのアシュワース卿は、底抜けに意地悪なんだよ」
ティアナが、忌々しげに天井を見上げた。
「完全に邪悪で、悪いことしか起きない道具なら、人類は迷うことなく結束して壊すことができる。
逆に、副作用のない完全に良い道具なら、みんなで感謝して使うことができる。
……でも、この《平和の檻》は。その両方の極端な性質を併せ持った、『良すぎる欠陥品』なんだ」
「良すぎる、欠陥品……」
工藤が、その矛盾した言葉を繰り返す。
「うん」
ティアナは、重々しく頷いた。
「今、この瞬間に救える命が、あまりにも多すぎる。
……でも、その代償として、人類が自らの力で未来を切り拓き、社会を設計していく自由を、永遠に、極端に狭めすぎてしまう。
……本当に、タチの悪いバグだよ」
エミリーは、両手で顔を覆い、深くため息をついた。
「……でも。最終的に、現物を押し付けられたイギリス政府は、どう判断するんでしょうか」
ティアナは、ホログラムスクリーンに、イギリス政府の地下危機管理室の映像を映し出した。
頭を抱える首相、冷徹に状況を分析するサー・アリスター、意見を戦わせる各国の代表たち。そして、厳重な防爆ガラスの向こうで、淡く呼吸するように明滅を続ける《平和の檻》の姿。
「さあねー。こればっかりは、彼らが自分で決めるしかない」
ティアナは、肩をすくめた。
「でも、サー・アリスターは、この装置の本質(現状固定の檻であること)を、すでにかなり正確に掴んでいる。イギリス首相も、使えば救える命の尊さと、使えば失う自由の重さの、両方をしっかり天秤にかけて苦悩している。
……それに、あの国には、助言を与えてくれる『魔女』もいるからね。
だから、短絡的で雑な答えにはならないと思うよ」
「でも、もし最終的に『壊す』という決断を下したら。イギリスは、世界中から未来永劫恨まれることになるわよ」
KAMIが、政治の冷酷な現実を指摘する。
「使えば、自由を奪われた未来の世代から恨まれる。……壊せば、命を見殺しにされた現在の世代から恨まれる」
賢者・猫が、目を細めて言った。
「本当に、よくできた究極の『問い』じゃ。これを市場に出せば、どれほど高く売れることか。……まあ、誰も買いたくはないじゃろうがな」
「絶対に買いたくないですね、そんな呪いのアイテム」
工藤が、心底嫌そうに吐き捨てる。
「だからこそ、『第二問』なんだよ」
ティアナが、静かに言った。
エミリーは、画面の中のイギリス首相の苦悩する姿を見つめながら、祈るように呟いた。
「……人類は、あの不老無病の時のように。……また『まだ早い』と、誘惑の前で踏みとどまることができるんでしょうか」
ティアナは、少しだけ真面目な顔になり、首を振った。
「……今回は、ガイアズの不老無病の時よりも、ずっと難しいと思うよ」
「……なぜですか?」
「ガイアズの不老無病の提案は、あくまで『自分たち自身の身体が変わる』という話だった。だから、自分たちが我慢すれば済むという自己完結の理屈が成り立ったんだ」
ティアナは、残酷な違いを説明する。
「でも、今回の《平和の檻》は違う。これを使えば、『明日死ぬはずだった見ず知らずの誰か』が、確実に死ななくなるという話だからね。
……これを拒否する(壊す)ことの痛みと罪悪感は、自分ではなく、圧倒的に『他人(被害者)』へと向かう。つまり、“救わなかったという直接的な責任”が、誰の目にも明らかに見えやすすぎるんだよ」
「しかも、その責任は、これから先ずっと、毎回突きつけられることになるわね」
KAMIが、追い打ちをかけるように言う。
「世界のどこかで戦争が起きるたびに。凄惨なテロで子供が死ぬたびに。政治家が暗殺されるたびに。
……『あの時、あんたたちが檻を壊したせいで、この悲劇は防げなかったんだ! この人殺しめ!』って、世界中から非難を浴び続けるのよ」
エミリーは、それ以上何も言えず、ただ黙り込むしかなかった。
サイト・アオの巨大な窓の向こうには、美しく、青い地球が静かに浮かんでいる。
その青い惑星の上では今。
日本も、アメリカも、中国の仙人たちも、イギリスも、EUも、ロシアのサイボーグたちも、インドも、国連も。
宗教家も、一般市民も、今まさに戦火の中にある戦争被害者も、軍人も、警察官も。
すべての人間が、それぞれの立場と正義を掲げ、終わりなき地獄の議論を続けている。
「……第一問は、無限の富。ガイアズからの提案は、不老無病という救済。そして、第二問は強制された平和、か」
ティアナが、ポツリと呟いた。
「いやー、最近の地球は、本当にイベント目白押しで忙しいねぇ」
「イベント過多ですよ、本当に。開発のスケジュール管理が完全に崩壊してます」
工藤が、現場のSEのような愚痴をこぼす。
「でも、最高に面白い展開じゃない」
KAMIが、楽しそうに笑う。
「面白いで済ませていい話じゃないです!」
エミリーが、たまらず抗議の声を上げる。
「済ませてないわよ。だからこそ、こうして特等席で観測してあげてるんじゃない」
KAMIは、グラスを傾けながらウィンクした。
「究極の問いを前にして、極限まで精神を削られながらも足掻く文明の姿ほど。……宇宙において高値で取引される美しいものはないからのう」
賢者・猫が、喉を鳴らす。
「さて。大英帝国(イギリス)は、どう答えるかな」
ティアナは、スクリーンに映る《平和の檻》を見つめた。
防爆ガラスの向こうで、そのパズルのような奇妙な球体は、淡く光っている。
まるで、静かに眠っているかのように。
あるいは、人類が自らその封印を解き、永遠の檻の中へと足を踏み入れてくるのを、じっと待ち構えているかのように。
暴力は、悪だった。
それは、いかなる理屈をもってしても、疑いようのない事実である。
だが、その血塗られた暴力は。人類が自らの自由を守り、不当な現状を打ち壊し、未知なる未来へと歴史を進めるために、その手に握りしめ続けてきた『最後の手段(刃)』でもあった。
《平和の檻》は、その汚れた刃を、人類の手から優しく取り上げる。
代わりに、一切の悪意が届かない、絶対的な安全を与えてくれる。
それは、神からの祝福だった。
そして同時に、悪魔からの呪いだった。
銀河の深淵から彼らを見下ろす観測者たちは、知っていた。
一つの星の上だけで完結するかりそめの平和は、人類がその星の重力を振り切って宇宙へ飛び出した瞬間に、音を立てて破綻することを。
人類がいつか、月へ、火星へ、そして名も知らぬ遠い星々へ進出していく運命にあるのなら。
暴力を完全に忘れ去ったまま、その無垢な姿で広大な宇宙へと漕ぎ出すことは。それは決して平和などではなく、ただの『無防備な自殺行為』に他ならないのだと。
だからこそ、アシュワース卿の第二問は、果てしなく重い。
人類は、強制された安全な平和(檻)を受け入れるのか。
それとも、血を流すという恐ろしい自由(牙)を、自分たちのものとして残すのか。
サイト・アオの窓の向こうで、青い惑星は、まだその答えを出せずにいた。
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