銀河皇帝のスペアに転生した元社畜、地球軌道上の要塞でネトゲ三昧の隠居生活を満喫する 〜足元では超大国が滅亡級の異星遺産を巡って暗躍中ですが、主人公(ぼく)の命は絶対安全なので特等席で傍観します〜   作:パラレル・ゲーマー

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第126話 イギリス政府、《平和の檻》を破壊する

 ロンドンのどんよりとした空を映し出すかのように、世界中のインテリジェンス機関とニュースメディアの空気は重く沈み込んでいた。

 

『本日、グリニッジ標準時15時より。英国政府は《平和の檻(パックス・ケージ)》の取り扱いについて、最終的な決定を発表する』

 

 ダウニング街10番地から発せられたその短い公式アナウンスは、一瞬にして地球上のすべての通信回線を飽和させた。

 数日前、アシュワース財団という謎に包まれた組織が突如として世界へ提示した、暴力を無効化するアーティファクト。人類全体を安全な無菌室へ閉じ込めるのか、それともその檻を壊すのか。

 回答権を押し付けられたイギリスが、早くも沈黙を破ったのだ。

 

 インターネット上の掲示板やSNSは、発表の数時間前からすでに処理能力の限界を超えるほどのトラフィックを叩き出していた。

 

「ついに来た。早すぎるだろ」

「使うのか? それともぶっ壊すのか?」

「あの性格の悪いアシュワース卿が『封印は許さない』って言ってたからな。二択しかない」

「イギリス一国に人類の未来の責任を背負わせるのは酷すぎる。国連で決議しろよ」

「でも現物を持ってて、システムにアクセスできるのはあいつらだけなんだろ」

「頼むから起動してくれ。俺の国では今もミサイルが飛んでるんだ。家族を安全な場所で眠らせてくれ」

「使うな! 暴力を禁止されたら、独裁国家で虐げられてる市民はどうやって反乱を起こすんだ。ただの現状固定装置だぞ!」

 

 恐怖、切望、怒り、祈り。

 すべての感情が渦巻く中、日本政府、アメリカ大統領執務室、中国・中南海、そして漆黒の宇宙に浮かぶサイト・アオの観測者たちまでもが、一つのモニターに釘付けになっていた。

 

 ***

 

 ロンドン郊外、地図には存在しない強固な地下政府施設。

 フラッシュの嵐が焚かれる中、イギリス首相は静かな足取りで会見の演壇に立った。

 その顔には、五日五晩一睡もしていないかのような深い隈が刻まれ、頬は削げ落ちていた。だが、背筋は鉄柱が入ったように伸びており、カメラのレンズを射抜く瞳には、後戻りのできない決断を下した者の冷徹な光が宿っていた。

 傍らには、彼の理論的支柱であり、魔女との窓口を担うサー・アリスター・ペンブルックが、微動だにせず控えている。

 

「……本日、英国政府は、アシュワース財団より寄贈された《平和の檻》に関する、最終的な判断を発表いたします」

 

 首相の低く響く声が、全世界に生中継される。

 同時通訳の音声すら不要なほどの、絶対的な緊張感が走った。

 

「まず、皆様に事実をお伝えしなければなりません」

 首相は手元の原稿に目を落とすことなく、一億の視線へ向かって告げた。

「我々はこの数日間、最高の科学的、軍事的知見を集め、このアーティファクトの効果を検証いたしました。……結論から申し上げます」

 

 首相は、小さく息を吸い込んだ。

 

「《平和の檻》は、本物です」

 

 記者席から、堪えきれないようなざわめきが波のように広がった。

 オカルトや誇大広告ではなく、本当に世界から戦争をなくせるというのか。

 

「この装置は、限定された実験環境において、人間同士の殺傷を目的とした直接的暴力、銃火器の使用、他者への攻撃命令、さらには遠隔操作による爆撃や、自律型AI兵器による攻撃までをも、完全に抑制しました。

 ……そればかりか、中国の仙人たちが用いる超常的な気脈による攻撃や、ロシアのサイボーグ兵のシステマチックな戦闘行動に対しても、等しく『暴力を完遂できない』という強制力が働くことが確認されています」

 

 世界中が、その言葉の重みに震えた。

 未知のテクノロジーであろうと、霊的な力であろうと、そこに人間の『害意』が介在する限り、すべてを無効化する。

 

「つまり、この装置を最大出力で地球全土へ展開すれば……間違いなく、何百、何千万という命を即座に救うことができます」

 首相の言葉は、平和を渇望する人々の心に希望の火を灯すような響きを持っていた。

「凄惨な戦争、市街地でのテロリズム、罪なき人々への虐殺、政治的暗殺、日常に潜む暴力犯罪、そして現在拡散しているアポロンの矢の劣化版による襲撃……。そのすべてを、物理的に根絶やしにすることが可能なのです」

 

 そこまで語ったところで、首相は口を閉ざした。

 会見場は、まるで神の奇跡を目の当たりにした信者のように、静まり返っている。

 誰もが、「ならば今すぐ使ってくれ」という言葉を喉の奥まで出しかけていた。

 

 だが、首相の瞳は、微塵の喜びも帯びていなかった。

 彼は、これから自らが放つ言葉が、どれほどの絶望と憎悪を世界中に振り撒くかを理解していた。

 

「……これほどまでに確実な救済の力を持つ装置を前にして。

 それでも、我々英国政府は、《平和の檻》を地球全土へ開くことはいたしません」

 

 歓喜に沸きかけていた空気が、一瞬にして凍りついた。

 

「では、あの男が禁じていた『封印』を選ぶというのですか!?」

 耐えきれなくなった最前列の記者が、ルールを破って叫んだ。

 

「いいえ」

 首相は、静かに首を横に振った。

 

「英国政府は、本日この会見をもって……《平和の檻》を、恒久的に『破壊』することを決定いたしました」

 

 会場が、比喩ではなく爆発した。

 怒号、悲鳴、質問の嵐が演壇に叩きつけられる。

「正気ですか!」「明日死ぬはずの命を見捨てるのか!」「狂っている!」

 

 首相は、その嵐を真正面から受け止めながら、マイクの音量を一段階上げた。

 

「静粛に。……その理由を、今から説明します」

 彼の声に込められた圧倒的な為政者の覇気が、暴動寸前の記者たちを無理やり黙らせた。

 

「第一の理由です」

 首相は、アリスターと練り上げた論理を、世界へ向けて突きつける。

「《平和の檻》は、人間が『暴力を思いとどまる』よう啓蒙する装置ではありません。暴力を行使するという意志そのものを、行動に至る手前でシステム的に遮断し、剥奪する装置です。

 ……それは、人間の自由意志への、不可逆的かつ致命的な介入です。自らの意志で善を選択するのではなく、悪を選択できないようにプログラムされた状態を、我々は『平和』と呼ぶことはできません。それはただの、去勢された隷属です」

 

 記者たちの間から、息を呑む音が漏れる。

 

「第二の理由。そしてこれが、最も恐ろしい副作用です」

 首相は、あのアシュワース卿の悪辣な言葉を、自らの戒めとして引用した。

「『弱者が最後に握る抵抗もまた、暴力である』。……その通りです。

 暴力は憎むべき悪です。ですが人類の血塗られた歴史において、暴力によってしか止めることのできなかった絶対悪が存在したことも、また事実です。

 他国からの理不尽な侵略を食い止めるための戦い。狂った独裁者を玉座から引きずり下ろすための革命。愛する家族を理不尽な害意から守るため、自らの身体を投げ打って振るう反撃の刃。

 ……この檻は、強者の悪辣な暴力を防ぐと同時に。追い詰められた弱者が、最後に自らの尊厳を守るために振るう『正当な暴力』すらも、容赦なく根こそぎ奪い去るのです」

 

 世界中のモニターの前で、その言葉の意味を正しく理解した者たちが、青ざめ始めた。

 

「つまり、暴力を完全に封じてしまえば。すでに権力や資本、システムを掌握している者は、二度と引きずり下ろされる恐怖に怯える必要がなくなるということです」

 首相の言葉は、特定の国家を名指ししなかったが、誰もがその意図を正確に読み取った。

「支配とは、銃弾やミサイルだけで行われるわけではありません。

 不当な監禁、情報の完全な統制、法を悪用した弾圧、経済的搾取、医療の意図的な拒否……。物理的な暴力が消えても、悪意による支配構造は残り続けます。

 《平和の檻》は、そうした非暴力的支配を永遠のものとする、『現状固定の牢獄』となり得るのです」

 

 さらに、首相は未来への展望を語った。

「第三の理由。我々の科学顧問団は、一つの致命的な欠陥を指摘しました。

 この装置の最大効果範囲は、地球全土に限定されます。しかし、人類の歴史はいつまでもこの青いゆりかごの中だけで完結するわけではない。月へ、火星へ、あるいはさらに遠い星の海へと、我々の子供たちは進出していくでしょう。

 ……その時。地球という星の内側だけが暴力を完全に忘れ去り、牙を抜かれた状態であったならば。外宇宙の過酷な環境で生き抜き、武力を保持し続けた人類、あるいは未知の存在と遭遇した時……地球文明は、抵抗する術を持たない極めて脆弱な獲物へと成り下がります。

 真の平和とは、反撃する能力と意志を完全に放棄することと同義ではありません」

 

 首相の論理は完璧だった。彼らは五日間、文字通り血を吐くような議論の果てに、この装置がもたらす『緩やかな文明の死』を正確に見抜いていた。

 

「では、なぜ破壊するのか。なぜ、使わずに封印し、歴史の闇に葬り去らないのか」

 首相は、最後にその最大の疑問に自ら答えた。

 

「アシュワース卿が遺したルールというだけではありません。……封印された救済は、必ず人類を内側から腐らせるからです。

 どこかで戦争が起きるたびに。独裁者が市民を虐殺するたびに。空からの爆撃で子供の命が奪われるたびに。……人々は、我々を非難するでしょう。なぜ、あの檻を使わないのかと。

 悲しみに暮れる遺族は封印を憎み、絶望した兵士は管理を奪取しようと暴動を起こすでしょう。使えば自由が死に、封印すれば怨嗟が世界を引き裂き続ける。

 ……ゆえに、我々は封印という欺瞞(逃げ道)を選びません」

 

 首相は、演壇を強く握りしめ、マイクに顔を近づけた。

 ここからが、彼が為政者として背負わねばならない最大の『業』の告白であった。

 

「……今日。我々は、自らの手で人類の命を救ったなどと、傲慢なことは決して申し上げません」

 

 しんと静まり返った会場に、彼の掠れた声だけが響く。

 

「この決定により……明日救えたはずの命が失われるという事実から、目を背けるつもりもありません。

 未来のすべての戦争で亡くなる方々。テロリズムによって無残に命を絶たれる方。家庭内の密室で暴力に苦しむ方。

 ……そのたびに、我々は永遠に問われ続けるでしょう。なぜ、あの時、《平和の檻》を壊したのかと」

 

 首相の目には、薄っすらと涙が滲んでいた。だが、彼は決して下を向かなかった。

 

「……我々は、その厳しい問いから逃げません。その恨みと責任のすべてを、英国政府が背負います。

 しかし。……いかにその重圧が苦しかろうと。我々は、人類全体を、意志を奪われた『永遠の檻』へ閉じ込めることは、絶対にできないのです」

 

 ***

 

 質疑応答は、予測された通りの地獄の様相を呈した。

 

「今この瞬間にも、戦争地帯で血を流している子供たちを見捨てるというのですか!」

 怒りに満ちた特派員の絶叫が飛ぶ。

 

「……救える可能性があったことは、否定いたしません」

 首相は、血の滲むような声で答えた。

「だからこそ、これは決して勝利などではないのです。我々は、最も苦く、残酷な決断を下しました」

 

「なぜイギリス政府単独で破壊を決めるのですか! 人類全体の投票にかけるべきだったのでは!?」

「地球全土を不可逆的な檻に閉じ込めるか否かという選択を、現在進行形で傷つき、激情に駆られている大衆の多数決だけに委ねることは、歴史に対する無責任です。我々は同盟国と協議を重ねた上で、現物の管理責任を持つ国家として、独断で泥を被る道を選びました」

 

「破壊は、自国民を武力で弾圧し続けたい独裁国家への配慮なのでは!?」

「逆です。檻が発動すれば、体制を覆すための『市民の武装抵抗』が封じられます。暴力による現状変更の手段が消滅することは、すでに権力を握っている独裁者にとってこそ、最も都合の良い平和なのです」

 

「病院や難民キャンプなど、限られた地域でのみ限定運用することはできなかったのですか!」

 その問いに、首相は一瞬だけ苦しそうに目を伏せた。

「……それが可能であれば、どれほど良かったか。限定運用こそが、倫理的に最も望ましい道だったかもしれません。

 しかし、アシュワース卿の遺したシステムは、限定的な維持を許容するようには作られていませんでした。……それに」

 首相は顔を上げ、人間の果てしない欲望の本質を突いた。

「一度限定運用を始めれば、『なぜ私たちの地域も守ってくれないのか』という拡大要求は絶対に止まりません。病院の次は都市、都市の次は国家、国家の次は地球全土です。

 ……我々は、その破滅へと向かう滑り台を下り始めることを、ここで断固として拒否します」

 

 ***

 

 会見の映像が世界中へ配信されるや否や、人類の反応は真っ二つに割れ、凄まじい熱量で衝突した。

 

 破壊を支持する者たちは、理性的な安堵を口にした。

『よく言った。あれは平和をもたらす道具じゃない。人間を去勢する家畜化装置だ』

『独裁国家がこぞって賛成していた時点で、答えは出ていた。イギリスは泥を被ってよくやってくれた』

『人類を檻に入れなくて済んだ。自由意志は保たれたんだ』

 

 だが、破壊に反対する者たちの怒りは、それらを軽々と吹き飛ばすほどの悲痛な叫びであった。

『ふざけるな! 今まさに頭上でミサイルが飛んでいる子供たちの前で、同じ高尚な理屈を言ってみろ!』

『イギリスのような安全な国にいる連中が、勝手に人類の救いを壊しやがった!』

『これから先、世界中で起きるすべての殺人とテロの血は、イギリス政府の手を汚し続けるだろう。絶対に許さない!』

 

 そして、その中間に位置する多くの一般市民は、ただ途方に暮れていた。

『イギリスの理屈は分かる。でも……やっぱり壊すのは辛すぎる』

『限定運用できれば最高だったのに……アシュワース卿の性格が悪すぎるんだ』

『また「まだ早い」って言って、人類は救いを手放したのか。……今回は、使う形が悪すぎただけだと思いたい』

 

 各国の首脳もまた、この重い決断をそれぞれの立場で受け止めていた。

 

 東京、首相官邸地下。

 矢崎総理は、モニターの中で会見を終えたイギリス首相の疲弊しきった姿を見つめ、静かに息を吐いた。

「……イギリスは、破壊を選んだわね」

「ええ」三神編集長が、缶コーヒーを弄りながら言う。「現時点の人類の成熟度を考えれば、おそらく最も責任ある、そして最も過酷な回答でしょう」

「それでも……彼らはこれから永遠に、世界中から恨まれ続けることになります」沖田室長が、実務家としての同情を隠せずに言った。

「でしょうね。でも、地球を永遠の檻に入れなかった責任もまた、誰かが引き受けなければならなかったんです」三神は淡々と事実を述べる。

 総理は、デスクの上で両手を組み、決然と言った。

「日本はすぐに公式声明を出します。……『英国政府の苦渋の決断を尊重し、全面的に支持する』と。彼らだけに泥を被らせて、安全圏から傍観するような真似はしない。そして同時に、暴力被害者への国際的な人道支援を、我が国が率先して強化するわ」

 

 ワシントンD.C.、ホワイトハウス。

 キャサリン・ヘイズ大統領は、執務室の窓から遠くの空を見つめていた。

「……同盟国は、最も恨まれる答えを自ら選んでくれたわね」

「しかし、軍事戦略的な観点からは、唯一の正しい判断です。我が国の抑止力は保たれました」国防長官が事務的に答える。

「独裁国家の体制が永久に固定化されるリスクも回避されました。インテリジェンスの勝利と言ってもいい」CIA長官も同意する。

 だが、ヘイズは彼らを振り返ることなく、重苦しい声で呟いた。

「……それでも。明日の朝も、世界のどこかで人は理不尽に殺され続けるのよ」

 彼女は、自身のデスクに戻り、ペンを執った。

「すぐに声明を出しなさい。英国の判断を尊重すると。……だが同時に、あの《平和の檻》があれば救われたかもしれないすべての人々の痛みを、我々は決して忘れない、とね」

 

 ***

 

 世界中が激論に沸き返る中。

 イギリス政府の地下深く、幾重もの防爆扉と電磁シールドに守られた極秘保管室では、歴史の裏側での『最後の儀式』が行われようとしていた。

 

 防弾ガラスの向こう側で、《平和の檻》は淡く、まるで眠るように明滅を繰り返している。

 その手前に立つのは、イギリス首相、サー・アリスター、情報機関トップ、そして科学顧問の四名のみ。

 

 アリスターが、懐中時計を一瞥し、虚空に向かって静かに声をかけた。

「……魔女様。お越しください」

 

 直後。

 無機質なコンクリートの保管室の空気が、ふわりと柔らかく変質した。

 最上級のダージリンティーの芳醇な香りと、スコットランドの森の湿った霧の気配が満ち、彼らの目の前に、優雅なドレスを纏った『公認魔女』が音もなく現出していた。

 

「……呼ばれるとは、思っていましたよ」

 魔女は、ガラスの向こうの球体を一瞥し、首相に向かって微笑んだ。

「どうやら、あなたたちは自分たちで『答え』を出せたようですね」

 

 首相は、深く、深く頭を下げた。

「はい。……英国政府は、《平和の檻》を地球全土へ開かないことを決定いたしました。そして、後世に火種を残す『封印』という逃げ道も選びません」

 

 首相は、顔を上げ、まっすぐに魔女の瞳を見据えた。

 

「魔女様。……どうか、我々に代わり、あの《平和の檻》を完全に【破壊】してください」

 

 魔女は、少しだけ首を傾げ、首相の瞳の奥にある覚悟を値踏みするように見つめた。

「……本当に、それで良いのですね?

 私がそれを壊せば、明日、どこかの戦場で救えたはずの子供の命が、確実に失われますよ」

 

「……承知しております」

 首相の声は、血を吐くように重かった。

 

「未来永劫、その恨みを背負う覚悟が、あなたにあるのですね?」

 

「背負います。大英帝国の名において」

 

 その揺るぎない覚悟を聞き届け。魔女は、満足そうにふっと微笑んだ。

 

「……よろしい。では、壊しましょう」

 

 魔女は、優雅な足取りで防弾ガラスへと近づいた。強固なシールドなど、彼女にとっては水面のようなものだった。ガラスをすり抜け、彼女は台座の上の《平和の檻》の前へ立つ。

 

 球体は、魔女の接近に呼応するように、その淡い光を少しだけ強く明滅させた。まるで、最後に何かを問いかけているかのように。

 

 魔女は、すぐにそれを壊すことはせず、球体に向かって静かに語りかけた。

 

「……アシュワース。

 あなたの意地悪な第二問に。……人類は、こうして彼らなりの答えを出しましたよ」

 

 その声に反応したかのように。

 球体の表面の幾何学的なスリットが複雑に組み替わり、一瞬だけ、空中に光の文字が浮かび上がった。

 それは、死せるアシュワース卿が遺した、真のメッセージだった。

 

『第二問。人類は、強制された平和を受け入れるか』

 

『回答:破壊』

 

『評価:【保留】』

 

『人類は、平和よりも、血塗られた自由を選んだ。

 ……その選択が果たして正しかったのかどうかは。次に起きる大きな戦争が、証明してくれることだろう』

 

 その悪魔的な置き手紙に、首相は苦しそうに目を閉じ、アリスターは奥歯を噛み締めた。

 

「……本当に、最後まで意地悪な人」

 魔女は、呆れたように小さくため息をつき。

 

 パチン、と。

 指を一つ、鳴らした。

 

 爆発は起きなかった。破片が飛び散ることもなかった。

 ただ、《平和の檻》という立体パズルを構成していた概念そのものが、編み上げられた糸をほどかれるように、静かに、そして美しく分解されていった。

 幾何学的な線が空中に溶け、淡い光が最後に一度だけ、まるでため息をつくように保管室全体へと広がった。

 

 その瞬間。

 地球上のあらゆる場所で、ほんの一秒にも満たない間だけ、奇妙な現象が起きた。

 

 戦場の最前線で、敵に向けてアサルトライフルを構えていた兵士の指が、なぜか一瞬だけ引き金を引くことを躊躇った。

 薄暗い路地裏で、強盗がナイフを振り上げようとした腕が、見えない抵抗に遭ったようにピタリと止まった。

 家庭の密室で、妻に拳を振り下ろそうとした男の顔が、強烈な吐き気に歪み、その動きを止めた。

 

 それは、破壊された《平和の檻》が世界に遺した、最期の、そして優しすぎる『残響』であった。

「もしこれを使っていれば、この暴力は防げたのだ」という事実を、世界中の人々の無意識の底に一瞬だけ刻み込んで。

 

 光は完全に消え去り、台座の上には何も残らなかった。

 

「……我々は。あの男のテストに、合格したのでしょうか」

 首相が、空っぽになった台座を見つめながら、虚ろな声で問うた。

 

 魔女は、クスリと笑った。

「さあ?」

 

「魔女様」アリスターが嗜めるように呼ぶ。

 

「アシュワース卿なら、きっとこう言うでしょうね」

 魔女は、悪戯っぽく肩をすくめた。

「『彼らは答えを出した。だが、その答えが正解だったのか落第だったのかは……これからの人類自身が、自分たちの行いで証明しなければならない』、と」

 

「……残酷ですね」首相が呻く。

「ええ。あの人は意地悪でしたから」魔女は事も無げに頷いた。

 

「ですが」

 魔女は、消えゆく霧の中で、最後に少しだけ優しい声で言った。

「少なくとも、あなたたちは、安全なだけの檻の扉を、自分たちの意志で開けなかった。

 ……それは、人間としての一つの立派な『答え』ですよ」

 

 ***

 

 深夜。

 ダウニング街の首相官邸の執務室で、首相は一人、窓の外の暗い空を見つめていた。

 遠くの広場からは、今回の決断に対する大規模な抗議デモの喧騒が、微かに聞こえてくる。

 

『平和を返せ!』

『人殺し政府!』

『檻を壊してくれてありがとう!』

『自由は血で守られる!』

 

 相反するプラカードが並び、人々は互いの正義をぶつけ合い、憎しみ合っている。

 

 ノックの音とともに、サー・アリスターが静かに入室してきた。

「首相。各国からの公式声明と、世論の分析データが出揃いました」

 

 首相は窓から目を離さずに問うた。

「……賛否の割合は?」

 

「およそ半分が激しい非難。残り半分が苦渋の理解。……ですが、どちらの側も、全員が一様に苦しんでいます」

 アリスターは、報告書をデスクに置きながら答えた。

 

「そうか」首相は目を伏せた。「……それが、正しい反応なのだろうな」

「はい」

「アシュワース卿の第二問に、我々は確かに答えた」

「ええ、我々の手で」

 

「だが。……これで、世界が平和になったわけではないのだな」

 首相の言葉には、果てしない徒労感が滲んでいた。

 

「むしろ逆です、首相」

 アリスターは、外交官としての冷徹な事実を突きつける。

「我々は強制された平和の檻を壊した。……つまり、我々はこれから、自分たち自身の血と汗で、本物の平和を作っていかなければならなくなったのです」

 

 首相は、しばらく沈黙し。やがて、覚悟を決めたように目を開き、深く頷いた。

「……なら、やるしかないだろうな」

 

 《平和の檻》は、完全に砕け散った。

 

 戦争をスイッチ一つで止める魔法の檻は、もうこの世界のどこにも存在しない。

 人間の殺意をシステムで強制的に遮断する球体は、永遠に失われた。

 

 だからこそ人類は、もう一度、自分たちの不完全な手で、平和という名の幻想を積み上げていかなければならなくなった。

 それは、檻の中で与えられる安全な静寂よりも、はるかに不確かで、血に濡れ、果てしない失敗と絶望に満ちた泥濘の道である。

 

 だが、それでも。

 自らの意志でその残酷な道を選ぶことこそが。……アシュワース卿の第二問に対する、人類が血を流して絞り出した、最初の『答え』であった。

 

 




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