銀河皇帝のスペアに転生した元社畜、地球軌道上の要塞でネトゲ三昧の隠居生活を満喫する 〜足元では超大国が滅亡級の異星遺産を巡って暗躍中ですが、主人公(ぼく)の命は絶対安全なので特等席で傍観します〜 作:パラレル・ゲーマー
イギリス政府が全世界に向けて、《平和の檻》の恒久的な破壊を宣言してから数日が経過していた。
人間の自由意志を剥奪する強制された平和を拒絶し、血塗られた自由を自らの手で残した大英帝国の決断は、今なお世界中に凄まじい余波を広げている。日本政府もまた、イギリスの苦渋の決断を尊重し、暴力被害者への国際的な支援枠組みを主導するための外交調整に追われ、不眠不休の対応を余儀なくされていた。
東京、首相官邸。
地下の極秘会議室に集められた矢崎総理と沖田室長、そして月刊ムーの三神編集長は、一息つく間もなく、新たな報告書の束と向き合っていた。
「……総理。インド政府より、既存技術外事象に関する極めて重要な打診が入りました」
タブレットを操作しながら、沖田室長が張り詰めた声で切り出した。
矢崎総理は、こめかみを揉みながら顔を上げた。
「今度は何かしら。また、人類の在り方を問うような悪意ある問題がどこかから降ってきたの?」
「いえ。……《ソーマの雫》の、国外使用に関する正式な提案です」
会議室が、水を打ったように静まり返った。
インドで発見され、死の川を蘇らせたという環境再生のアーティファクト。
沖田は、手元のデータをメインモニターへと転送した。
「インド政府は、自国内の複数箇所において《ソーマの樹》の発芽および環境再生を段階的に実施し、その効果と安全性を確認してきました。そして今、次のフェーズとして国外での使用を検討しています。
……その最初の候補地として。彼らは、フクシマを挙げています」
総理は、目を大きく見開き、絶句した。
福島第一原発周辺。かつて人類が引き起こした未曾有の原発事故により、深く傷ついた土地と海。
コーヒー缶のプルタブを開けようとしていた三神編集長が、その手を止め、静かに言った。
「……なるほど。インドも、極めて大きく、そして誠実な決断をしてきましたね」
モニターには、インド国内で既に実施された《ソーマの樹》の環境再生データが次々と映し出されていった。
サトレジ川流域での劇的な水質再生。重金属で汚染された工業地帯における土壌の再調律。深刻な干ばつに見舞われていた水源地の安定化。都市近郊の死の湿地帯における、驚異的な生態系の回帰。
鳥類が舞い戻り、死んでいた川に魚影が跳ね、荒れ果てた土から豊かな緑が芽吹いている。
そこに映っていたのは、もはや「雫」と呼べるような液状のものではなかった。
大地に根を下ろし、天に向かってそびえ立つ、翡翠のように透き通った巨大な幹。ダイヤモンドの結晶のような葉が太陽の光を受けて輝き、風に揺れている。
「すでに、インド国内の複数箇所でこれほどの規模で使われているのね……」
総理は、その神々しい樹の映像に圧倒されながら呟いた。
「はい。インド側は、国内での実績について、包み隠さず極めて詳細な観測データを提供してきています」
科学技術担当の官僚が、興奮を抑えきれない声で補足する。
「現時点において、無制御な異常繁殖や、周辺の既存生態系を破壊するような副作用は一切確認されていません。……この樹は、周囲の環境を別の惑星のように作り変えるのではなく、その土地が本来持っていた『安定した生きた状態』へと、極めて精密にチューニングを合わせながら戻しているように見えます」
三神が、顎を撫でながら分析する。
「一種のテラフォーミング用の種子ですね。ただし、環境を強引に上書きする劇薬ではなく、局所的な環境を本来の健康なサイクルへ『再調律』するタイプの、極めて穏やかなアーティファクトです」
数時間後、厳重な暗号回線を結び、インド政府とのトップ会談が行われた。
モニターの向こうには、インド首相、環境担当大臣、そして《ソーマの雫》を直接管理する、伝統衣装を身に纏った研究者兼儀礼担当者が並んでいる。
『我々は、国内の複数箇所で《ソーマの雫》を種子として大地に植え、その確かな効果を確認してきました』
インド首相は、威厳と深い慈愛を込めた声で語りかけた。
『そして今、我々はこの奇跡を独占せず、国外の傷ついた土地のために使用する段階に入ったと考えています』
矢崎総理は、真っ直ぐに問うた。
「……なぜ、フクシマなのですか」
インド首相は、少しの間を置き、深く静かな声で答えた。
『フクシマは、決して日本だけの傷ではありません。……世界が知る、近代文明が負った巨大な傷跡です。
水と大地を癒やすソーマの樹を、我々が初めて国外で使うとするならば。それは政治的な駆け引きの場ではなく、世界が絶対に忘れてはならない、最も深い傷を負った場所であるべきだと考えたのです』
会議室が、その真摯な言葉に静まり返った。
インド側のソーマ管理者が、穏やかな眼差しで言葉を継ぐ。
『ソーマの樹は、人間の生み出した汚れを憎み、排除するような攻撃的なものではありません。ただ、傷つき、呼吸を止めてしまった土地を、もう一度呼吸できる状態へと戻そうとするものです。
……フクシマの海と大地には、今、その力が必要だと、我々は信じています』
「……押しつけではないのですね」
総理の確認に、インド首相は力強く頷いた。
『もちろんです。我々は、日本の主権と、何よりもフクシマに生きる人々の意志を完全に尊重します。我々は、ただ提案するだけです』
会談が終了し、回線が切断された後。
日本政府内での、血を吐くような激論が始まった。
賛成派の意見は明確だった。
「インド国内で複数の見事な成功実績がある。重大な副作用は未確認。周辺環境の再生に寄与する可能性は極めて高く、福島の長期的な廃炉と復興課題に、全く新しい希望の光をもたらすことができる」
だが、当然ながら慎重派からの懸念も噴出する。
「相手は未知のアーティファクトだ。放射性物質という特殊な環境下で、どのような相互作用を引き起こすか完全には未知数だ」
「地元の同意なしに進められるはずがない。『また福島を実験場にするのか』という猛烈な反発が必ず起きる」
「ソーマの樹そのものが、世界的な宗教の対象になり、あるいは無責任な観光地化するリスクがある。枝葉や結晶片を狙うテロリストや裏社会の強奪に対抗するため、国家規模の警備が必要になるぞ」
矢崎総理は、すべての議論をじっと聞いた後、科学技術担当へ視線を向けた。
「……今のところ、人体や環境への致命的な副作用はないのね?」
「インド国内の複数事例では、まったく確認されていません」
科学技術担当が断言する。「ただし、福島第一原発周辺のような、複合的な環境負荷が存在する場所での使用は、慎重に段階を踏み、綿密なモニタリングを行う必要があります」
総理は、深く息を吸い込み、決然と言った。
「……ならば。フクシマで、使って良いのではないかしら」
会議室に、ピンと張り詰めた緊張が走った。
総理は、部屋の隅で黙って缶コーヒーを飲んでいた三神へ視線を向けた。
「……三神さんは、どう思う? あなたの口から、最悪のシナリオを聞いておきたいのだけれど」
三神は、缶コーヒーをコトリとテーブルに置き、珍しく、非常に素直な顔つきで言った。
「そうですねぇ。……今回は、私は『肯定寄り』です」
「……三神さんが、未知のアーティファクトを素直に肯定するなんて、本当に珍しいわね」
総理が目を丸くする。
「ガイアズの不老無病の提案や、《平和の檻》とは、根本的に性質が違いますからね」
三神は、理由を論理的に説明する。
「あれらのように、人間の自由意志を剥奪したり、社会制度を強制的に書き換えたりする類のものではありません。暴力を封じるわけでも、不老不死の特権を配るわけでもない。
……ただ、人間が傷つけてしまった土地と水を、再び生命が生きられる状態へと戻す。……今のところ、純粋にそういう機能に特化したアーティファクトです」
「ただし」
沖田が、冷徹に補足する。「問題は山積みですね」
「ええ、もちろんです」
三神は、指を立てて地雷の数々を列挙し始めた。
「第一に、放射性物質との相互作用。……どこまで吸収するのか、無害化するのか、あるいは土壌に強固に固定化するのか。別の物質へ変換するのか、ただ単に移動させるだけなのか。このメカニズムは、命綱として絶対に確認が必要です。
第二に、ソーマの樹そのものの安全保障。……フクシマの地に、光り輝く巨大な水晶の神樹が生えるわけです。世界中が血眼になって見ますよ。枝、葉、種子、根、樹液、落ちた結晶片。そのすべてが、億単位の金で取引される闇のターゲットになります。
第三に、宗教化と観光化。……人間は、光る木を見たら本能的に拝む生き物です。ましてやそれが、フクシマを浄化する神樹となれば。世界中から狂信的な巡礼者、スピリチュアル団体、陰謀論者、聖地ビジネスが間違いなく湧いて出ます。
そして第四に……地元の感情です」
三神の声が、一段と重くなる。
「フクシマの人々は、あの日から今日まで、何度も何度も外野から勝手な『意味づけ』をされてきました。復興の象徴、汚染の象徴、政治闘争の道具、反原発の旗印。
……今度は『神樹の聖地』です。地元の方々が全く望まない形で、彼らの土地がまた別の巨大な物語として消費される危険性があります」
総理は、その一つ一つのリスクの重さに、深く頷いた。
「ですが、それでも」
三神は、真っ直ぐに総理を見据えた。
「……使う価値は、十二分にあります。
これは、拒絶すべき呪いではなく。……正しく使わなければならない『奇跡』です」
総理の決断は、早かった。
「……警備と情報管理を極限まで高める必要があるわね。日本とインドだけでは、情報戦や物理的な強奪リスクを完全にカバーしきれないかもしれない」
「アメリカにも、協力を依頼するべきです」
三神が即座に提言する。
「日・印・米の『三国体制』を敷くのです。インドは保有者としての技術提供。日本は使用地を提供する主権国家。そしてアメリカには、軍事衛星による常時監視、情報支援、周辺空海域の警備、サイバー防衛を担わせる。……この三つの柱で、神樹の周囲を鉄壁にするべきです」
矢崎総理は即座に特別暗号回線を立ち上げ、アメリカのヘイズ大統領へとコンタクトを取った。
『フクシマに、ソーマの樹を……』
モニター越しのヘイズ大統領は、事態のスケールに一瞬絶句したが、すぐに大国を率いる顔つきに戻った。
『それは……世界中の耳目を集めることになるわね』
「ええ。だからこそ、アメリカの協力をお願いしたいの」
ヘイズは、少しだけ口角を上げた。
『もちろんよ。……ただし、これはあくまで日本とインドが主導する事業よ。アメリカが表に出すぎて、覇権主義的な政治的思惑を疑われるのは避けたい。
私たちは裏方に徹するわ。強力な護衛、インテリジェンスの提供、軍事衛星による二四時間の監視、サイバー防衛。……持てるリソースは惜しみなく提供する』
「ありがとう、キャサリン」
ヘイズは、真っ直ぐに矢崎総理を見つめ返した。
『薫。……フクシマが癒やされるのなら。それは同盟国の政治的仕事ではなく、我々人類としての仕事よ』
日印米の三国による、歴史的な国家プロジェクトが水面下で始動した。
だが、日本政府は、最も重要なプロセスを後回しにすることはしなかった。
福島県知事、関係する地元自治体の首長、漁業協同組合の代表、農業団体の代表、廃炉作業の責任者、住民代表、そして避難経験者たちを、極秘裏に集めた説明会が開催されたのだ。
「……インド政府より、《ソーマの雫》を種子として使用する提案がありました」
沖田室長が、巨大なスクリーンにインドでの成功事例の映像を映し出しながら、丁寧に説明を行う。
「インド国内では、すでに複数箇所でこの種子が使用され、劇的な環境再生効果が確認されています。日本政府としては、福島第一原発周辺の管理区域内において、極めて慎重な段階を踏みつつ、この使用を検討しております」
会場は、怒号とも悲鳴ともつかない、激しいざわめきに包まれた。
「……また、福島が実験場になるのか!!」
初老の漁業関係者が、拳を震わせて立ち上がり、怒鳴った。
その痛切な叫びは、あの日から積み重ねられてきた、中央への拭いがたい不信感そのものであった。
「得体の知れない外国の植物を植えて、もし地下水や海に予期せぬ影響が出たら、一体誰が責任を取るんだ!」
農業関係者も、強い懸念をぶつける。
「希望だ、奇跡だと言われても……正直、怖いものは怖いんです」
避難を経験した女性が、涙声で訴える。
矢崎総理は、演壇から降り、彼らと同じ目の高さに立って、直接語りかけた。
「……皆様が抱かれる恐怖と不信は、ごく当然のものです。
だからこそ、政府は皆様の頭越しに、隠して勝手に話を進めることは絶対にいたしません。……最終的な判断には、必ず地元に生きる皆様の声を反映させます。
フクシマのため、人類のためと言いながら、実際にその土地に根を張り、海と共に生きる皆様を置き去りにすることは、私が決して許しません」
総理の嘘偽りのない誠実な言葉に、会場の空気が少しずつ、わずかにだが変わり始めた。
しばらくの沈黙の後。
最後列に座っていた、日焼けした若い漁師が、ポツリと口を開いた。
「……もし。本当に、その樹が、海と土地を元に戻してくれる力があるなら……」
彼は、強く握りしめた手を見つめながら言う。
「もし……いつか俺の子供に、『ここは、危ないだけの場所じゃないんだ』って、胸を張って言えるようになるなら。
……海が戻るなら。俺は、その樹を、見てみたいです」
その一つの小さな、けれど切実な希望の声が、重く閉ざされていた扉をわずかに開いた。
植樹地点の選定は、科学的にも警備的にも極めて慎重に行われた。
いきなり原子炉建屋の直近に植えるような無謀は冒さない。選ばれたのは、福島第一原発を遠望できる、海風が吹き抜ける管理区域内の丘陵地であった。
「ソーマの樹は、成長に伴い、その根を通じて土地と水系へダイレクトにアクセスします」
三神が、地形図を指差しながら解説する。
「ゆえに、植える場所の選定がすべての鍵を握ります。建屋に近すぎれば、施設本体への予期せぬ物理的干渉リスクが読めない。遠すぎれば、浄化の効果が薄まる。
……地下水脈へのアクセスが可能であり、海への流出経路を監視でき、かつ地元代表の方々が遠くからでもその姿を確認できる。この丘陵地がベストです」
警備計画も、異次元の規模で策定された。
公式名称『福島環境回復共同実証計画』。
日印米の内部コードネーム、【オペレーション・ソーマライト】。
インド側は、ソーマの雫管理チーム、環境再生データ解析班、そして起動儀礼の担当者を派遣。
日本側は、自衛隊の精鋭、警察庁の特殊部隊、海上保安庁の巡視船団、原子力規制関係者、既存技術外事象評価セル、福島県警を総動員し、官邸直轄の対策室が指揮を執る。
そしてアメリカ側は、軍事衛星による二四時間監視、周辺空域と海上の徹底した封鎖、サイバー防衛部隊の展開、偽情報に対する監視、さらにセレスティアル・ウォッチ系の解析班を裏方として投入する。
「ソーマの樹は、植える時よりも、植えた後が本番です」
三神は、警備担当者たちに厳しく釘を刺す。
「一度発芽してしまえば、それは隠すことのできない巨大な灯台となります。……神樹が生えた直後から、世界中のあらゆる欲望がこのフクシマに押し寄せてくる。そこからが、本当の戦いです」
数日後。
インド国内の厳重な保管施設から、一つの小さなカプセル状の容器が取り出された。
その中には、液体ではなく……青と翠、そして微かな金色の輝きが複雑に混ざり合った、アーモンドほどの大きさの『結晶の種子』が収められている。
硬質な結晶体の内部では、まるで毛細血管のような微細な光の根が、静かに、生命の鼓動のように脈打っていた。
輸送作戦は、サスペンス映画を地でいく緊張感に包まれた。
複数の囮ルートとダミーの輸送機を用意し、アメリカの軍事衛星が常時監視する中、日印米で共有される最高レベルの暗号通信のみで座標がやり取りされる。
到着する空港は直前まで秘匿され、日本上陸後は陸路と空路を複雑に分散偽装し、福島に入る直前まで現物の位置情報は極く一部のトップにしか共有されなかった。
道中、正体不明の小型ドローン群の接近や、輸送ネットワークに対する散発的なサイバー攻撃が検知された。
『……やはり、嗅ぎつけて来ましたね』
アメリカ側の司令官が、通信越しに報告する。
「想定内です。速やかに電子的に排除(ジャミング)してください。武力衝突は極力避けるように」
日本の警備責任者が、冷静に指示を飛ばす。
モニターでその攻防を眺めていた三神が、ぽつりと呟いた。
「これが、《ソーマの雫》の真の価値です。……これは、ただの環境再生の種子ではない。国家の未来と、世界のパワーバランスを根底から変え得る、途方もない力を持った種子なのですから」
そして、運命の日。
フクシマの空は、薄い雲に覆われていたが、冷たくも心地よい海風が吹き抜けていた。
遠くに原発の排気筒やクレーン群を望む、丘陵地。
周囲は何重ものフェンスと武装した警備部隊に囲まれ、上空にはヘリが旋回している。
その中心には、矢崎総理、インド代表団、アメリカの連絡将校、そして特別に立ち入りを許可された地元の代表者たちが集まっていた。
「……この土地に。もう一度、未来を返すために来ました」
矢崎総理が、地元の代表者たちに向かって、深く頭を下げる。
インド代表のソーマ管理者が、静かに微笑んで応えた。
「インドの厳しい大地で育ったソーマの樹は、荒れ果てた川と土に、再び呼吸を取り戻させました。……本日は、その大いなる力を、このフクシマの地へお届けいたします」
地元の初老の男性が、不安と期待が入り交じった目で、用意された土の区画を見つめた。
「……本当に、戻るのかねぇ」
隣に立つ若い漁師が、祈るように両手を組んで言った。
「……戻るなら。俺は、その瞬間を目に焼き付けたいです」
厳重なセンサー群に囲まれた、植樹のポイント。
放射線量計、土壌成分センサー、地下水のモニタリング機器が、リアルタイムでデータを吐き出し続けている。
インドの管理者が、恭しく保管容器のロックを解除した。
取り出されたカプセル状の結晶種子が、曇り空の下で、自らが放つ淡い光によって輝いている。
全員が、これから大地に命を宿すための『種子』であることを、深く理解していた。
管理者が、丁寧に土に小さな穴を開け、その種子をそっと置き、優しく土をかぶせた。
一秒。二秒。
一瞬、何も起きなかった。
ただ、冷たい海風の音だけが、マイクを通して耳に届く。
地元の人々が、息を呑んでその場所を見つめ続ける。
やがて。
種子を埋めた場所の土の隙間から、極めて純度の高い、青緑色の光が漏れ出し始めた。
地面が荒々しく割れるような暴力的な変化ではない。
静かに、極めて自然な生命の営みとして、土がふわりと押し上げられる。
そこから、小さな結晶の『芽』が顔を出した。
それは植物のようであり、緻密な鉱物のようでもあり、あるいは凝縮された光そのもののようにも見えた。
芽は、周囲の土壌と空気を味わうように、ゆっくりと、しかし確かな力強さで上へ上へと伸びていく。
幹は、不純物を一切持たない翡翠のように透き通り、その内部を黄金色の光の脈が血液のように駆け巡っているのが見える。
幹から枝が広がり、そこから、ダイヤモンドの結晶のように硬質で美しい葉が、次々と生い茂っていった。
葉は、フクシマの海風を受けて揺れ。
シャラ、シャラ……と。
まるで、幾千もの水晶の風鈴が同時に鳴り響いたかのような、澄み切った、心洗われるような美しい音色を奏でた。
時間を忘れて人々が見守る中、ソーマの樹は立派な大樹へと成長を遂げた。
曇り空を背景にして、フクシマの丘陵地に、淡く発光する巨大な水晶の樹が、悠然と立ち尽くしていた。
地元の人々は、そのあまりにも神々しく、美しい光景に、完全に言葉を失っていた。
「……綺麗だな……」
若い漁師が、こらえきれずに涙をこぼした。
避難を経験し、この土地を諦めかけていた女性が、両手で口を覆いながら震える声で呟く。
「こんな、こんなに美しいものが……私たちの場所に……」
防護服を着たまま遠巻きに見守っていた廃炉作業員の一人が、ヘルメットを脱いでため息をついた。
「……こりゃあ、立派な神社でも建てて祀りたくなるな」
その言葉を聞き逃さなかった三神が、総理の横で小声で囁く。
「……ほらね。ああいうことを言い出す人がこれから山ほど増えるので、警備と管理が地獄のように大変になるんですよ」
だが、ソーマの樹の真の力は、地上に見える美しい枝葉だけではなかった。
「……地下への干渉を確認!」
観測テントの科学者が、興奮で声を裏返らせた。
「物理的な根とは別に、高密度の光の筋が、地下水脈へ向かって急速に伸びています! 排水路、そして海へと向かう水の流れのネットワークに、直接アクセスしています!」
データが、次々と書き換えられていく。
「地下水モニターに顕著な変化! 土壌中の放射性物質の濃度が、局所的ではありますが、明確な低下傾向を示しています!」
「これは、単なる汚染物質の移動ではありません! 物質の固定化、あるいは無害な状態への移行プロセスの可能性が高いです!」
「周辺土壌の微生物活動が爆発的に活性化しています! 水質が、劇的に変化しています!」
インド側の研究者が、冷静にデータを分析し頷く。
「我々のサトレジ川流域で見られた『再調律反応』と非常に近いパターンです。……ただし、放射性物質という特殊な負荷に対する作用は、より複雑で高度なアルゴリズムを用いているように見受けられます」
三神は、モニターの数値変化を見つめながら呟いた。
「……汚染そのものを、魔法のように消し去っているわけではない。環境が抱え込み、消化できる形へと変換している……?
あるいは、この土地に刻まれた『汚染』という意味そのものを、一つ一つ丁寧にほどいているのか」
「三神さん、あまり詩的な表現は困ります」
沖田が、冷静さを保とうと必死になりながら言う。「政府の公式な報告書に記載できる言葉でお願いします」
三神は、ふっと笑って言い換えた。
「では……『放射性物質を含む環境負荷を、生態系自身が再構築可能な、健全な状態へ移行させている可能性が高い』、でどうですか」
だが、ここで科学者から、極めて現実的で重要な報告が上がった。
「……原子炉建屋の内部、および燃料デブリそのものに対する直接的な作用は、現時点では一切確認されていません。
ソーマの樹は、破壊された施設そのものを修復するような機能は持っていないようです」
その報告に、落胆の色が見えた者もいたが、三神はきっぱりと言った。
「当然です。これは、人間が犯したミスをすべてチャラにしてくれる都合の良い魔法の杖ではありません。
……ですが、周辺の土壌、地下水、海域への環境負荷を大幅に低減し、これ以上の汚染の拡散を食い止めてくれる。……人間が、自らの手でこの土地を取り戻すための『時間』を、大幅に短縮してくれる。それだけで、十分に過ぎる奇跡です」
その言葉を聞いていた廃炉作業員の責任者が、静かに、しかし力強く頷いた。
「……なるほどな。じゃあ、俺たちの過酷な仕事が、これで全部終わるわけじゃないってことだ」
彼は、頼もしそうに水晶の樹を見上げた。
「……でも。先が見えない『終わりのない作業』ではなくなるかもしれない。俺たちの努力が、ちゃんと未来に繋がるってことだろ」
三神は、彼に向かって微かに微笑み、頷いた。
植樹から、数時間が経過した頃。
沿岸部で海水のモニタリングを行っていたチームから、驚くべき報告が入った。
「……海水のサンプルに、明確な変化が現れています!
周辺の生物反応が活性化し、遠ざかっていた魚群の動きや、海藻の育成パターンに、劇的な回復の兆候が見られます!」
地元の漁業関係者たちが、特別に許可を得て、防波堤の上から海を見つめていた。
午後になり、雲の切れ間から差し込んだ太陽の光が、ソーマの樹の結晶葉をキラキラと反射させ、その光の粒子が海風に乗って、青い水面へと溶けていくように流れていく。
海風が、彼らの頬を撫でた。
「……おい」
一人のベテランの漁師が、鼻をヒクつかせ、目を丸くして言った。
「……匂いが、違うぞ」
別の若い漁師も、深く息を吸い込み、泣き出しそうな顔で同調した。
「ああ……。俺たちの知ってる、昔の海の匂いだ……」
その一言は、いかなる高度な科学的データよりも、人々の心に深く刺さった。
ただ数字と風評だけで語られてきた冷たい海が。……今、確かな生命の匂いを取り戻し始めている。
派手な視覚的エフェクトよりも、その『匂いの変化』こそが、この奇跡が本物であることを何よりも雄弁に物語っていた。
だが、奇跡の裏側には、常に人間のどす黒い欲望が張り付いている。
『――警戒エリアの上空に、未登録の不審な小型ドローン群の接近を検知!』
アメリカ側のレーダー管制官から、鋭い報告が飛ぶ。
「ソーマの樹の結晶葉を近距離で撮影し、あわよくば採取しようとする輩でしょう」
沖田が冷徹に指示を出す。「電子戦部隊、即座にジャミングを展開し、無力化して回収しろ」
数秒後、接近していたドローン群はコントロールを失い、次々と海へ墜落した。
同時に、ネット上のSNSや動画サイトでは、早くも悪質なデマが拡散され始めていた。
『フクシマの神樹の葉を煎じて飲めば、ガンが治るらしいぞ!』
『あの樹の枝を持っていれば、放射線を完全に防げるらしい!』
『日本政府とアメリカが、人類を救う神樹の力を独占しようとしている! 我々の手に解放せよ!』
「情報班、即座にカウンター・インテリジェンスを発動」
三神が、タブレットを操作しながら指示を飛ばす。
「地元の方々に無用な混乱を起こさせないよう、すべてのデマプラットフォームに対して、政府の公式アカウントから徹底的に否定のファクトチェックをぶつけなさい」
さらに、海上保安庁の巡視船からは、規制海域へ接近しようとする国籍不明の不審船を捕捉し、アメリカ側の軍事衛星の情報支援を受けながら、威嚇射撃を伴う強硬な手段で退去させるという事案も発生していた。
「……ほら、始まりましたよ」
三神は、次々と入るインシデント報告を見ながら、皮肉っぽく笑った。
「ソーマの樹は、大いなる救いであると同時に……世界中のあらゆる欲望や狂気を引き寄せる、まばゆい『灯台』です」
矢崎総理は、風に揺れる水晶の樹を見上げながら、それでも力強く言った。
「……それでも。私たちは、この樹を植えて良かったと、心からそう思いたいわね」
「ええ」
三神は、珍しく本心からの同意を示した。
「……今回は。本当に、植えて良かったと思いますよ」
初期の観測結果が安定の兆しを見せた段階で、日印米の三国による歴史的な共同記者会見が、フクシマの現地から全世界へ向けて生中継された。
矢崎総理が、マイクの前に立つ。
「……本日、この福島において。インド政府の多大なる協力により、《ソーマの雫》の植樹が成功裏に行われました。
ソーマの樹は無事に発芽し、周辺の土壌、地下水、そして海域に対して、極めて良好な初期の環境再生反応を示しています。
……もちろん、これはすべての終わりではありません。過酷な廃炉作業も、厳格な検査も、地域社会の再生への道のりも、これからも長く続いていきます。
しかし。……今日、このフクシマの地に、新しい『希望』が確かに芽吹いたことを。日本政府として、ここに確認し、宣言いたします」
続いて、インド首相が威厳に満ちた声で語る。
「インドの厳しい大地で育ったソーマの樹は、これまで荒れ果てた川と大地を再生してきました。
今日、その大いなる力は、海を越え、日本へと届きました。……水と大地に、国境はありません。フクシマという地が癒やされることは、日本のみならず、我々人類全体の希望なのです」
最後に、アメリカのヘイズ大統領が、ホワイトハウスからの映像で声明を出した。
「アメリカ合衆国は、この歴史的な共同作業において、周辺の安全確保と情報支援という形で協力いたしました。
……今日、我々人類は。未知なるアーティファクトをただ恐れ、拒絶するだけでなく。互いに手を取り合い、『正しく使うこともできる』ということを、世界に証明したのです」
その会見の映像は、瞬く間に世界中を駆け巡った。
[日本の反応]
「フクシマに、ソーマの樹……」
「ニュースの画像見て、マジで泣いた。綺麗すぎるだろ……」
「でも、絶対に軽薄な観光地化とか聖地ビジネスだけはやめろよ。あそこは地元の人たちの、大切な場所なんだぞ」
「インド、本当にありがとう。この恩は一生忘れない」
「まだ全部が解決したわけじゃないのは分かってる。でも、間違いなくこれは希望だ」
「漁師さんの『海の匂いが違う』ってコメントで、涙腺崩壊したわ。ずっと数字と風評被害だけで語られてきた場所に、命の樹が生えたんだな……」
[インドの反応]
「我々のソーマが、フクシマに届いた!」
「サトレジ川の奇跡から、フクシマの海へ。水は世界を繋ぐんだ」
「インド政府が、この奇跡の力を自国だけで独占せず、傷ついた国へ惜しみなく提供したことを、一人のインド国民として誇りに思う」
[アメリカの反応]
「日・印・米の連携、普通に胸熱展開すぎる」
「《平和の檻》の絶望的なニュースで落ち込んでたけど、これは本物の希望だわ」
「アーティファクト時代になってから地獄みたいな話ばっかりだったけど、たまにはこういう話がないと、やってられないよな」
[世界の反応]
「人類は、奇跡の力を正しくコントロールできたのか」
「これは『拒否』でも『破壊』でもない。見事な『使用成功』の事例だ」
「フクシマが、汚染の象徴から、人類の『再生の象徴』へと変わる日が来るとは……」
数時間後。
東京の首相官邸に帰還した矢崎総理たちは、安堵の息をつきながら、初期報告の詳細なデータに目を通していた。
「……今回は、本当に良い使い方でしたね」
三神編集長が、珍しく素直な声で評価した。
総理が、コーヒーカップを置きながら目を丸くする。
「本当に珍しいわね。三神さんが、一切の皮肉を言わずにアーティファクトを褒めるなんて」
「あ、言いますよ、皮肉」
三神は、ニヤリと笑った。
「このあと、間違いなく『神樹教』みたいな新興宗教が乱立しますし、無責任なユーチューバーの観光地化も進みますし、強奪未遂のテロも頻発しますし、『ソーマの神樹のパワーが入った水』とかいう詐欺グッズが山ほどネットで出回りますから。警察と消費者庁は地獄を見ますよ」
「……やっぱり言ったわね、この男」
総理が呆れたようにため息をつく。
「ですが、それでも」
三神は、居住まいを正し、真剣な顔で言った。
「人間の自由意志を奪わない。
社会制度を根底から壊さない。
特定の権力者による支配の道具としても、極めて使いにくい。
……ただ純粋に、傷ついた土地と水を癒やし、人間が生き直すための手助けをしてくれる。
……こういう『健全な奇跡』は、恐れずにちゃんと使うべきです」
沖田室長が、深く頷く。
「アーティファクトの時代にも……我々が手にするべき『希望』は、確かに存在しているのですね」
「ええ、ありますとも」
三神は、缶コーヒーを掲げた。
「問題は、希望の皮を被った『凶悪な地雷』が、あまりにも多すぎるというだけです」
「……最後まで、台無しにしないで頂戴」
総理は、苦笑しながらも、その顔には数日ぶりの確かな安堵が浮かんでいた。
***
その日の夕暮れ。
フクシマの海に、オレンジ色の美しい夕陽が沈もうとしていた。
海風を受けて、巨大なソーマの樹が、シャラシャラと静かで清らかな音を立てて鳴っている。
透き通る翡翠の幹。光を反射するダイヤモンドの葉。内部を脈打つ青緑色の生命の光。
その向こうには、冷たくそびえる原発の関連施設が見え、手前には、この奇跡を見守り続けた地元の人々の姿があった。
もちろん、まだ何もかもが完全に元通りになったわけではない。
過酷な廃炉作業は、これからも何十年と続く。
厳格な放射線量の検査も続く。
神樹を狙う悪意から守るための、慎重な管理も続く。
様々な事情で、もう二度とこの土地に戻れない人もいるだろう。
心に刻まれた怒りや不信感が、そう簡単に消え去るわけでもない。
それでも。
確かに、この日、この場所で、何かが決定的に変わったのだ。
ずっと防波堤に立っていた初老の男性が、夕陽に染まる海を見つめながら、涙声で呟いた。
「……生きてるうちに、こんな日が来るとはな」
隣に立つ若い漁師が、潮風を胸いっぱいに吸い込みながら、力強く言った。
「まだ、完全に元に戻ったわけじゃない。
……でも。……いつか必ず、戻れるかもしれないって、そう思えるようになった」
インドのソーマ管理者が、静かに歩み寄り、大地の再生を司るソーマの樹へ向かって、深く、深く一礼をした。
福島の地元代表の男性も、彼に向かって静かに頭を下げた。
「……ありがとう」
「こちらこそ」
インド代表は、優しく微笑み返した。
「……この樹は、これからの永遠の時間を、このフクシマの地で、皆様と共に生きていきます」
最後に、ソーマの樹の結晶葉が、沈みゆく夕陽の光をいっぱいに受け止めた。
その美しい光の粒子が、海風に乗って広がり、静かに寄せる波の音に溶けていく。
人類は、すべての奇跡をただ恐れ、拒むわけではない。
不老無病という神の救いには、人類の歴史にはまだ早すぎると、理性を働かせて手を止めた。
強制された絶対の平和という檻は、人間としての血塗られた自由を守り抜くために、自らの手で打ち砕いた。
けれど。
人間の手によって深く傷ついてしまった、この大地と水を癒やすための『小さな種子』には……人類は、ためらうことなく、希望の手を伸ばしたのだ。
インドの過酷な環境で、何度も死の土地と川を蘇らせてきたソーマの樹は。
その日、フクシマの優しい海風の中で、確かに、新たな命として芽吹いた。
それは、過去の罪をなかったことにするような、都合の良い魔法の奇跡ではない。
失われた時間や命を巻き戻すような、神の御業でもない。
ただ、傷つき、立ち止まってしまった場所に、もう一度「未来」という時間を許すための、極めて静かで、優しい再生の光だった。
フクシマの空に、巨大な水晶の樹が立ったその日。
人類は、この呪われたアーティファクトの時代が、決して恐怖と試練だけで塗り潰されているわけではないということを。
……ほんの少しだけ、信じることができたのだった。
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