銀河皇帝のスペアに転生した元社畜、地球軌道上の要塞でネトゲ三昧の隠居生活を満喫する 〜足元では超大国が滅亡級の異星遺産を巡って暗躍中ですが、主人公(ぼく)の命は絶対安全なので特等席で傍観します〜   作:パラレル・ゲーマー

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第130話 ネス湖、死者を映す

 イギリス、ロンドン。ダウニング街10番地。

 厚い雲が垂れ込め、細かい雨が降り続く午後。首相官邸の地下に設けられた危機対応会議室は、数日前の重苦しい空気とは少しだけ異なる、奇妙な『困惑』に包まれていた。

 

「……ネス湖、ですか」

 イギリス首相は、手元の分厚い報告書を一度閉じ、テーブルの上に放り投げた。その顔には、怒りや恐怖というよりも、心底呆れたような疲労感が浮かんでいる。

「我が国が《平和の檻》の破壊という歴史的決断を下し、日本は巨大な黒鯨と戦い、インドは環境を再生し、世界中が『Cicada 3301』のサイバーテロの影に怯えている……このタイミングで。

 ……ネス湖に、ネッシーが出た、と?」

 

「はい、首相」

 内務省の担当官が、極めて真面目な顔で、しかしどこか所在なさげに答えた。

「数日前から、スコットランド北部のネス湖周辺において、未確認の大型生物……いわゆるネッシーを目撃したという観光客からの通報が、文字通り『急増』しております。一日数件というレベルではなく、数百人規模の集団目撃証言が連続しています」

 

「集団ヒステリーだろう」

 国防大臣が、鼻で嗤うように言い捨てた。

「世界中がアーティファクトの脅威に怯えているのだ。不安になった大衆が、水面の波や流木を見て『怪物だ』と騒いでいるだけだ。……軍の時間を、そんなオカルト騒ぎに浪費させるつもりか?」

 

「通常であれば、我々もそう判断して放置するところです。……ですが」

 担当官は、スクリーンに数枚の画像と、短い動画クリップを投影した。

 

 霧の立ち込める湖面。

 そこを、確かに『黒い巨大な影』が、音もなく滑るように横切っている映像だった。

 別の動画では、水面が大きく割れ、恐竜のような長い首の一部らしきシルエットが、一瞬だけ霧の中に浮かび上がっている。

 画質はどれもスマートフォンのズームによるもので粗く、ピントもぼやけているが。……明らかに、そこに【何か】が物理的に存在していることだけは、誰の目にも疑いようがなかった。

 

「……フェイク動画の可能性は?」

 情報機関トップが、鋭く問う。

 

「専門機関の初期解析では、映像の加工やCG合成の痕跡は確認されていません。……極めて高い確率で、実際に『そこにあったもの』を撮影した映像です」

 

 会議室が、一瞬だけ静まり返る。

 だが、その沈黙は恐怖からくるものではなかった。「まさか、本当にネッシーが実在したのか?」という、ある種の滑稽さと、タイミングの悪さに対するウンザリとした空気だった。

 

「……首相」

 円卓の端で、完璧に仕立てられたスリーピースのスーツを着た老外交官、サー・アリスター・ペンブルックが、静かに口を開いた。

「今の世界において。……“ただのネッシー騒動”などという牧歌的なものが、都合よく発生するとお考えですか」

 

 首相は、顔をしかめた。

「……それは、どういう意味だ、アリスター」

 

「アーティファクトの時代です」

 アリスターの目は、冷徹なインテリジェンスの光を帯びていた。

「スコットランドの森には魔女がいました。日本の空には黒鯨が泳いでいた。

 ……ならば、ネス湖の底に、アーティファクト由来の【生物兵器】、あるいは未知のシステムが眠っていたとしても、何の不思議もありません。それをただの『観光客の見間違い』として放置するのは、現在の安全保障の基準に照らし合わせれば、極めて危険な怠慢です」

 

「……」

 首相は、深くため息をついた。

 アリスターの言う通りだ。今の地球上において、未確認の異常現象を「ただのオカルト」として切り捨てる権利は、どの国家の指導者にも残されていない。

 

「分かった。……調査隊を出そう」

 首相は、手で顔を覆いながら決断した。

「ただし、軍の大部隊は動かさん。騒ぎを大きくしたくない。……科学者中心の小規模なチームを編成しろ」

 

 内務大臣が、少しだけ口角を上げて言う。

「環境調査と観光客の安全確認、という名目ですね」

 

「ああ。……まあ、檻のせいで連日会議室に缶詰になっていた科学者たちにとっては、良い気晴らしになるだろう」

 首相は、少しだけ皮肉な笑みを浮かべた。

「休暇だと思って、ネス湖の空気を吸ってこいと伝えてくれ。そして、『ネッシーはいませんでした』という退屈な報告書を、速やかに提出しろ、とね」

 

 ***

 

 数日後。

 ロンドンから派遣された特別調査隊の車列が、スコットランド北部のハイランド地方へと向かっていた。

 

 調査隊長に任命されたのは、エドワード・ヘイル博士。

 水質環境学と湖沼生態学の権威であり、最新の水中探査技術のエキスパートである彼は、極めて優秀な科学者であると同時に、徹底した『懐疑主義者(リアリスト)』でもあった。

 

「……二十一世紀もずいぶん長く続いたというのに、まさか国家予算を使って『ネッシー探し』をやらされるとは思っていませんでしたよ」

 ヘイルは、車内でコーヒーを啜りながら、呆れたように笑った。

 

「同感です、隊長」

 同行する若き生物学者が、タブレットでネス湖の地形データを見ながら肩をすくめる。

「もしネス湖に巨大なプレシオサウルスの生き残りが繁殖しているなら、私の研究室で飼っている金魚も、実は古代魚の末裔かもしれませんね。生態学的に、あんな閉鎖水域で大型生物の個体群が数千年維持できるわけがない。あり得ない話です」

 

「それでも、映像には何か映っていたのでしょう?」

 政府から派遣された連絡官が、少しだけ真面目な顔で言う。

 

「流木、ボートの引き波、水鳥の群れ、あるいは特異な温度逆転層による光の屈折(蜃気楼)」

 ヘイル博士は、事も無げに否定のリストを並べ立てた。

「観光客というものは、ネッシーを見に来ているんです。だから、ちょっとした波の不自然な動きでも、『ネッシーの背中だ!』と脳内で都合よく補完して解釈してしまう。“見たいものを見る”という、典型的な集団心理のメカニズムです」

 

「今回の任務は、我々の持てる最新機材で湖底を丸裸にし、その『錯覚』を物理的・科学的に証明して、騒ぎを終わらせることですね」

 ソナー技師が、後部座席で機材のチェックをしながら自信満々に言う。

 

「そういうことです」

 ヘイル博士は、窓の外に広がるスコットランドの荒涼とした風景を眺めながら、フッと笑った。

「ソナーを入れ、水中ドローンを沈め、水質を調べ、湖面の波の挙動を解析する。

 ……そして、政府へ『何もいませんでした』という退屈な報告書を提出して、ロンドンのパブへ美味いエールを飲みに帰る。……悪くない休暇(ホリデー)ですよ」

 

 彼ら科学者チームの顔には、未知の領域へ踏み込むような緊張感は一切なかった。

 無理もない。彼らはつい先日まで、ロンドンの地下で『平和の檻』という、人間の常識を完全に破壊するような狂ったオーバーテクノロジーの解析に追われていたのだ。

 それに比べれば、ただの「未確認生物(動物)」の調査など、いかにそれがアーティファクト由来の可能性があると言われようと、彼らにとっては『物理法則の範囲内に収まる、可愛いおとぎ話』にしか感じられなかったのである。

 

 ただ一人、彼らを見送ったサー・アリスターだけが、出発前にヘイル博士に向かって、冷ややかな目で忠告していた。

 

『湖というものは……時に、人間よりもずっと古いものを抱え込んでいるものです。

 博士。……どうか、笑いすぎないように』

 

 ヘイル博士は、その言葉を「老外交官の過度な心配性」として軽く受け流していた。

「ええ。ご忠告、感謝します」と。

 

 ***

 

 調査隊の車列が、ネス湖の湖畔、アーカート城の近くの観光拠点へと到着した。

 

 そこは、彼らが想像していたような「未知の恐怖に怯える閑散とした街」とは、全く真逆の光景が広がっていた。

 

「……なんだ、この熱気は」

 ヘイル博士は、車を降りて周囲を見回し、呆気にとられた。

 

 湖畔には、無数の大型観光バスが停まり、スマートフォンや一眼レフカメラを首から下げた世界中からの観光客でごった返している。

 土産物屋の店頭には「ネッシー発見記念!」と書かれたTシャツやぬいぐるみが山積みになり、飛ぶように売れている。

 湖面に向かって実況配信をするインフルエンサー、カメラを回す地元メディア、そして「私は見た!」と興奮気味に語り合う老若男女。

 

 そこは、アーティファクトという恐怖の時代の空気を完全に忘れ去ったような、完全な【お祭り騒ぎ(フェスティバル)】の会場であった。

 

「……凄いな。恐怖より好奇心が完全に勝ってる」

 政府連絡官が、呆れたように呟く。

 

「見たんだ! 俺は本当に、長い首を見た!」

 近くで、アメリカからの観光客らしき大柄な男が、興奮して周囲に自慢話を繰り広げている。

「霧の向こうで、黒い巨体がザパーンって水面を割って! 最高だったぜ! 帰ったら絶対に家族に自慢してやる!」

 

「私も見たわ! 大きな背中のコブが、二つ!」

 女性観光客が、スマホのピンボケした写真を見せながら嬉しそうに同調する。

 

 調査隊のメンバーたちは、その熱狂的な様子を見て、顔を見合わせて苦笑した。

 

「……集団ヒステリーの、見事なサンプルですね」

 同行していた心理学者が、メモを取りながら冷ややかに分析する。

「誰もが『怪物を見た自分は特別だ(幸運だ)』と思いたいのです。……彼らが見ているのは、湖の底の真実ではなく、自分たちの脳内にある『期待』の投影に過ぎません」

 

「全くだ。……さて、彼らの楽しい夢を、科学の力で醒ましてやるとしますか」

 ヘイル博士は、現地の警察と協力し、調査のための湖畔エリアの封鎖作業を開始させた。

 

「皆様、安全確認のため、これより湖畔への立ち入りを一時的に制限いたします! ご協力をお願いします!」

 警察官の誘導に、観光客たちは不満の声を上げた。

 

「えー、今からボート出そうと思ってたのに!」

「ネッシーがいたんですよ! なんで止めるんですか!」

「一生の思い出だったのに! もう一回撮影させてくださいよ!」

 

「はいはい、ネッシーは今、お昼寝の休憩中です。危ないので下がってくださいね」

 調査隊のメンバーが、半ば冗談交じりに観光客をなだめる。

 

 そんな、どこかコミカルな雰囲気の中で封鎖作業が進められていく中。

 心理学者の横を通り過ぎた、数人の観光客の『会話』が、ふと彼の耳に引っかかった。

 

「……私は、ネッシーを見に来たのに」

 年配の女性が、少しだけ困惑したような、寂しそうな顔で呟いている。

「でも……霧の向こうの湖面に見えた影は……昔、実家で飼っていた、死んだ犬の後ろ姿だったような気がするの」

 

「いや、俺は確かに巨大な首を見たぞ」

 別の若い男性が、不思議そうに首を捻る。

「でも……首が水面に出た瞬間、なぜか、子供の頃に死んだじいちゃんの横顔に見えたんだよな。……疲れてるのかな、俺」

 

 その会話に、心理学者は少しだけ歩みを止め、眉をひそめた。

 

(……死んだ犬? 祖父の横顔?)

 

「どうしました、先生」

 ヘイル博士が、機材の搬入を指示しながら声をかける。

 

「……いえ。少し、興味深い錯覚の事例がありましてね」

 心理学者は、ノートにペンを走らせながら答えた。

「ネッシー(怪物)の形を期待していたはずの脳が、なぜか『個人の過去の記憶(喪失体験)』と混線して、視覚情報を処理してしまったようです。……霧の濃さと、水面の揺らぎが、ロールシャッハ・テストのような心理的投影効果を極限まで高めているのでしょう」

 

「なるほど。ネッシーは犬にも祖父にもなれるというわけですか。実に便利な怪物ですね」

 ヘイル博士は、軽く笑ってその話を流した。

 

 その時点では、彼ら調査隊の誰も、その観光客の言葉の裏にある【本当の異常性】に気づいてはいなかった。

 科学の光で照らせば、すべての影は消え去ると、彼らは心から信じていたのだ。

 

 ***

 

 午後一時。

 調査隊の乗った小型の専用ボートが、霧の立ち込めるネス湖の湖面へと滑り出した。

 

 空はどんよりと曇り、冷たい風が水面を撫でている。

 ネス湖は、全長約三十五キロメートルに及ぶ細長い湖であり、その最大水深は二百メートルを超える。

 そして、湖の水は大量の泥炭(ピート)が溶け込んでいるため、光を全く通さない、文字通り【漆黒の闇】であった。

 

「……水面が黒いだけで、雰囲気は確かにありますね」

 生物学者が、ボートの縁から湖を覗き込みながら言った。

「何かが潜んでいると思いたくなる人間の心理は、理解できます」

 

「だが、科学の目は誤魔化せませんよ」

 ソナー技師が、コンソールの画面を叩き、最新鋭のマルチビーム・ソナーと低周波探信儀を起動させた。

 

 ピーッ……。ピーッ……。

 

 規則正しいソナーの反射音が、ボート内に響き渡る。

 同時に、複数の水中ドローンが漆黒の湖底へと投下され、高解像度のカメラと熱源センサー、生物の微細な環境DNAを検出する水質採取装置が、くまなく湖をスキャンし始めた。

 

「湖底スキャン開始。……現在のところ、大型生物の反応、なし」

 ソナー技師が、無機質に報告する。

 

 ボートは、観光客の目撃証言が最も集中していたアーカート城沖の深水域を、ゆっくりと、しかし確実に網の目を潰すように航行していく。

 

 一時間経過。

「熱源反応、異常なし。……水温は水深に応じて正常に低下しています」

 

 二時間経過。

「水質サンプル回収。……未知の生物のDNA、およびアーティファクト特有の化学物質の痕跡、なし」

 

 三時間経過。

「湖底の地形データ、過去の調査記録と完全に一致。……隠された洞窟や、巨大な構造物は存在しません」

 

 調査は、極めて順調に、そして【退屈】に進んでいった。

 

 彼らの持ち込んだ最新の機材は、ネス湖の神秘を容赦なく剥ぎ取り、そこがただの『少し大きくて、水が黒いだけの、普通の湖』であることを、データとして完璧に証明し続けていた。

 

「……はい、終了ですね」

 夕刻が近づき、霧がさらに濃くなり始めた頃。

 生物学者が、大きく伸びをして、コーヒーの入った水筒を開けた。

「結論。……ネッシーはいません」

 

「我々がわざわざロンドンから出張してくるまでもない、完璧な空振りでしたね」

 心理学者も、ノートをパタンと閉じて笑った。

「観光客の期待と、SNSの過剰な拡散、そしてこの霧と波の視覚効果が重なった、見事な『集団ヒステリーの実験場』でした」

 

「観光庁からは、『夢を壊すな』と怒られるかもしれませんよ」

 ソナー技師が、機材の電源を落としながら冗談を言う。

 

 ヘイル博士は、ボートの操舵席に座り、満足げに頷いた。

「まあ、無駄骨ではありましたが、平和で何よりです。

 ……政府へは、『ネッシーは現在、有給休暇中につき不在でした』とでも書いておきましょうか」

 

 ボート内に、和やかな笑い声が響く。

 

「……ん?」

 その時。

 ソナー技師が、電源を落とす直前のモニターの隅に、ほんのわずかな『ノイズ』のような反射が映ったのを見て、眉をひそめた。

 

「どうしました?」

 ヘイル博士が振り返る。

 

「……いや。湖底の岩盤の近くに、少しだけ妙な反射がありました」

 ソナー技師は、目を凝らして画面を見つめる。

「大型生物……ではありません。もっと小さな。……まるで、湖底に【人が立っている】ような、そんな形のノイズが、一瞬だけ……」

 

 だが、彼がキーを叩いて再度スキャンをかけると、その反応はすでに消え去っていた。

 

「……ただの岩の誤検知でしょうね。水流の乱れか何かです」

 ソナー技師は、すぐにそれを取り消した。

 

「ええ、ただのノイズですよ」

 ヘイル博士は、全く気に留める様子もなく、ボートのエンジンを始動させた。

「さあ、冷えてきました。岸に戻って、温かい食事にしましょう」

 

 彼らは、科学者として『正しい判断』を下した。

 ノイズはノイズとして切り捨てる。データにないものは存在しない。

 その絶対の自信が、彼らをこれから待ち受ける【真の恐怖】に対して、完全に無防備にさせてしまっていた。

 

 ボートは、白い波を立てながら、静かに霧の立ち込める岸辺へと向かって進んでいった。

 

 ***

 

 ボートが桟橋に到着した時、周囲はすでに薄暗く、濃い霧が湖畔全体をすっぽりと包み込んでいた。

 

「いやあ、寒かった」

「早く機材を片付けて、ホテルに戻りましょう」

 

 調査隊のメンバーたちは、軽い足取りでボートから降り、機材のケースを運び出し始めた。

 彼らの心の中には、「任務完了」の安堵感しかなかった。

 

 だが。

 一番最初に桟橋から降りて、湖畔の土を踏んだ生物学者が。

 突然、機材のケースを地面に落とし、ガタガタと全身を震わせて立ち尽くした。

 

「……おい、どうした?」

 後ろに続いていた政府連絡官が、怪訝な顔で声をかける。

 

 だが、生物学者は返事をしない。

 彼は、目を見開き、信じられないものを見るような顔で、霧の向こう側――封鎖されて誰もいないはずの湖畔の木立の影を、凝視していた。

 

「……と、父さん……?」

 

 生物学者の口から、震える、掠れた声が漏れた。

 

「は?」

 連絡官が、眉をひそめてその視線の先を見る。

 

 霧の向こうに。

 一人の【男】が、静かに立っていた。

 

 古びたツイードのジャケットを着た、初老の男。

 彼は、何も言わず、ただ穏やかな目で、生物学者を見つめている。

 

「……嘘だろ。……父さんは、五年前の事故で……」

 生物学者は、幽霊でも見たかのように後ずさる。

「それに……なんで、あんな……【元気だった頃の姿】で……」

 

 父親は、ゆっくりと口を開き、優しく、しかしどこか嗜めるような声で言った。

 

『……お前は、まだ。……生き物を、信じていないのだな』

 

「あ、あああ……っ!」

 生物学者は、その声を聞いた瞬間、両手で顔を覆い、その場に泣き崩れた。

 それは、彼が科学の道へ進むと決めた日、意見がすれ違ったまま死別してしまった父親からの、最後の、そして最も聞きたかった言葉だった。

 

「おい、しっかりしろ! 何を言っている!」

 連絡官が、生物学者の肩を揺さぶる。

「あそこに誰かいるのか!? 警備部隊か!? 勝手に入ってくるな!」

 

 連絡官は、霧の向こうの人影に向かって怒鳴りつけた。

 だが、その人影は、連絡官が怒鳴った瞬間……スッと、別の姿へと【変わった】。

 

 初老の男の姿が霧に溶け。

 代わりにそこに立っていたのは、軍服を着た、血まみれの若い男だった。

 

「……っ!!」

 連絡官の顔から、一瞬にしてすべての血の気が引いた。

 

『……お前、まだ。……俺に謝るつもりでいるのか?』

 

 軍服の男が、悲しそうな目で、連絡官を見つめて言った。

 

「あ、兄さん……!?」

 連絡官は、腰を抜かして泥の上に座り込んだ。

「違う……! あの作戦で、俺が判断を間違えなければ、兄さんは死なずに済んだ……! 違うんだ……!」

 中東の戦場で、自らの指揮ミスで死なせてしまった実の兄。

 その兄が、血を流した姿のまま、目の前に立っている。

 

「どうしたんだ、二人とも!!」

 異変に気付いたソナー技師と心理学者が、ボートから慌てて降りてくる。

 

 だが、彼らもまた、湖畔に降り立った瞬間、完全に動きを止めた。

 

 ソナー技師の前には。

 彼が幼い頃、川遊びをしていて目を離した隙に溺死させてしまった、幼い【妹】が立っていた。

 妹は、濡れた髪のまま、小さな手で湖を指差し、無邪気に笑って言った。

 

『……お兄ちゃん。湖って、こんなに黒いんだね』

 

「ああああああっ!! ごめん、ごめんな……っ!!」

 ソナー技師は、泥の上に這いつくばり、狂ったように頭を地面に打ち付け始めた。

 

 そして、心理学者の前には。

 他の誰でもない。……【若い頃の、自分自身】が立っていた。

 

 二十代の頃の、希望に満ちていたはずの自分が。今の、権力に擦り寄り、打算だけで生きている彼を、冷ややかな目で見下ろしている。

 

『……あなた、本当は。……“魔女”を信じているのでしょう?』

 

「ち、違う!! 私は科学者だ!! そんな非科学的なものを……!」

 心理学者は、自分の顔をした幻影に向かって、絶叫しながら石を投げつけた。

 

 彼らは、完全に狂乱していた。

 

 ヘイル博士は、ボートの操舵席で、その異常な光景を呆然と見下ろしていた。

 部下たちが、何もない霧に向かって泣き叫び、謝罪し、這いつくばっている。

 

(……何が起きている。集団幻覚か? 神経性のガスか?)

 

 ヘイル博士は、科学者としての理性を総動員して、腰のホルスターから拳銃を抜き、ボートからゆっくりと降りた。

 

「全員、落ち着け!! 何も見えない! そこには誰もいないぞ!!」

 ヘイルは、部下たちを正気に戻そうと怒鳴った。

 

 だが。

 彼が、ネス湖の岸辺の土に、自分の足を踏み下ろした、その瞬間。

 

 彼の視界の、真正面に。

 一人の【女性】が、立っていた。

 

「…………っ」

 

 ヘイル博士の手から、拳銃がポロリと滑り落ち、泥の上に音を立てて落ちた。

 

 彼女だった。

 

 水死体のような、おぞましい姿ではない。

 血を流しているわけでもない。

 彼女は、濡れていなかった。

 ヘイルの記憶の中で、一番美しかった、あの時の笑顔のまま。

 彼が、仕事にかまけて彼女のSOSのサインを見落とし、一人アパートの部屋で【自殺】させてしまった、愛する恋人の姿が。

 

「……嘘だ」

 

 ヘイルは、後ずさりしようとしたが、足が完全に硬直して動かなかった。

 

「……そんな、はずがない」

 ヘイルの目から、とめどなく涙が溢れ出した。

「君は……君は、死んだんだ。……僕が、殺したんだ……!」

 

 彼女は、静かに、ヘイルを見つめていた。

 その瞳には、恨みも、怒りも、悲しみもなかった。

 

 ただ。

 彼女は、自分の手を見つめ。

 黒く沈むネス湖の水面を見つめ。

 そして、狂乱する調査隊のメンバーたちを見渡し。

 

 最後に、ヘイルの方を真っ直ぐに見て、本当に、純粋に困惑したような顔で、言った。

 

「……エドワード?」

 

 彼女の、生前と全く変わらない、優しく透き通るような声が、ヘイルの鼓膜を震わせた。

 

「私にも、分からないの」

 

 彼女は、少しだけ首を傾げて、静かに問うた。

 

「……ねえ。

 ……どうして、死んだはずの私が、ここにいるの?」

 

 ネッシーは、いなかった。

 少なくとも、彼らが探していたような巨大生物は、どこにもいなかった。

 

 だが。

 この黒く深い湖は、決して『空』ではなかったのだ。

 

 ネス湖の底に眠る何かは、怪物などという安っぽいものを見せなかった。

 それは、湖面を見つめた人間の脳の最も深い部分へアクセスし。……その人間が、最も見たいと願うもの、あるいは、最も見たくない【罪悪感(死者)】を、完璧な形で水際へと「引き上げて(映して)」くる、底知れぬ鏡であった。

 

 冷たい霧の中で。

 科学の光は完全に敗北し、彼らは自らの過去という名の、逃げ場のない真の恐怖(ホラー)の中へ、完全に飲み込まれていた。

 

 




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