銀河皇帝のスペアに転生した元社畜、地球軌道上の要塞でネトゲ三昧の隠居生活を満喫する 〜足元では超大国が滅亡級の異星遺産を巡って暗躍中ですが、主人公(ぼく)の命は絶対安全なので特等席で傍観します〜   作:パラレル・ゲーマー

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第131話 ネス湖から離れられない

 灰色の霧が這いずるネス湖の岸辺は、もはや科学的調査の現場ではなく、狂気と慟哭が支配する凄惨な地獄と化していた。

 つい数時間前まで、「ネッシーなどという前世紀の遺物はこの湖には存在しない」と高らかに笑い合っていたエリート科学者たちの面影は、見る影もない。

 

「父さん……父さんッ……!」

 泥の上に膝をついた生物学者は、スーツの膝が汚れるのも構わず、初老の男の脚にしがみついて子供のように咽び泣いていた。

「ごめんなさい、お兄ちゃん……! 私が悪かったの、許して、許して……!」

 ソナー技師は、びしょ濡れの姿をした小さな少女を抱きしめ、何度も何度も謝罪の言葉を狂ったように繰り返している。

 政府連絡官は、軍服姿の青年の前で直立不動のまま、ボロボロと大粒の涙を流し続け、心理学者は、自分を見下ろす『若き日の自分自身』の冷たい視線から逃れるように、頭を抱えてうずくまっていた。

 

 そして、調査隊長であるエドワード・ヘイル博士は。

 泥の上に機材を取り落としたまま、自らの目の前に立つ一人の女性を、幽鬼のような虚ろな目で見つめていた。

 

「エドワード?」

 彼女は、ヘイルの顔を覗き込み、不思議そうに首を傾げた。

 生前と全く同じ、少しだけ掠れた、優しく透き通るような声だった。彼女が自ら命を絶ったあの暗いアパートの部屋での凄惨な姿ではない。ヘイルの記憶の中で最も輝いていた、春の日差しの中で微笑んでいた頃の、一番美しい姿のままだった。

 

「私、どうしてここにいるのか分からないの」

 彼女は、自分の手を見つめ、それから周囲の冷たい霧を見回して言った。

「……でも、あなたがいるのは分かるわ。ねえ、エドワード。どうして泣いているの?」

 

「あ……ああ……」

 ヘイルの喉から、言葉にならない空気が漏れる。

 幻覚だ。これは何かの神経毒か、あるいは湖底から発生した未知の幻覚ガスの影響だ。科学者である彼の理性は、必死に警鐘を鳴らし続けていた。しかし、その理性の防波堤は、彼女がそっと彼の方へ歩み寄り、その頬に手を触れた瞬間に、音を立てて粉々に崩れ去った。

 

「……調査隊が錯乱しています!! 各員、存在しない人物に向かって会話をしています!!」

 規制線の外側に立っていた現地の警備員が、無線機に向かって半狂乱で叫んでいた。

「対象を保護しますか!? 幻覚症状です! すぐに医療チームを――」

 

 だが、警備員は双眼鏡を覗き込み、その言葉を途中で飲み込んだ。

 

「……いや。……待て。違う」

 警備員の手が、ガタガタと激しく震え始める。

「カメラにも……カメラにも、映っている……!!」

 

 彼が覗き込む高感度カメラのモニターには、激しい電磁ノイズが走り、時折ブロックノイズで顔の輪郭が歪みながらも。……科学者たちの前に立つ『人影』の姿が、熱源と質量を持った物理的実体として、はっきりと捉えられていたのだ。

 

「こちらネス湖調査隊……ッ! 本部、応答願います!」

 政府連絡官が、無線機のマイクを握りしめ、嗚咽を堪えきれない声でロンドンへ向けて絶叫した。

「状況が……状況が分かりません!

 死者が……死者が、ここにいます! いいえ、幻覚ではありません! 触れます! 声が聞こえます!……私の、戦死した兄が、目の前にいるんです!!」

 

 その悲痛な報告は、暗号回線を通じて、即座にロンドンの中心部へと叩きつけられた。

 

 ***

 

 ダウニング街10番地、首相官邸地下の危機対応室。

 円卓を囲むイギリス政府の首脳陣は、モニターに送られてくる現地カメラの乱れた映像と、連絡官の泣き叫ぶような報告を聞いて、完全に言葉を失っていた。

 

「……何が起きている」

 イギリス首相が、真っ青な顔でモニターを睨みつけた。

「神経ガスか? 未知の生物兵器による幻覚作用か? ……それとも、Cicada 3301の連中が、我々の映像システムにハッキングを仕掛けてフェイク映像を流し込んでいるのか!」

 

「現地の空気成分に、異常は確認されていません」

 科学顧問が、震える指でキーボードを叩きながら報告する。

「バイタルデータ上、調査隊のメンバーは極度のストレスと興奮状態を示していますが、幻覚剤や薬物中毒に特有の脳波の乱れはありません。彼らの視覚神経は、正常に『そこにあるもの』を処理しています」

 

「サイバー攻撃の痕跡は!?」

 情報機関トップが問う。

 

「通信経路にジャミングの形跡はありません。……Cicadaの介入を示す痕跡も、現在のところゼロです」

 サイバー担当の技術官が、絶望的な事実を口にする。

「カメラが捉えている映像は、フェイクではありません。センサーは、現地に『物理的な質量を持った人型実体』が突如として複数出現したことを、客観的データとして弾き出しています」

 

「では、あの映像に映っている人影は何なのだ!!」

 国防大臣が、恐怖を怒りに変えて机を叩き割らんばかりの勢いで吠えた。

 

 誰も、答えられなかった。

 ネッシーなどという、可愛らしい未確認生物の調査のつもりだった。だが、湖の底から湧き上がってきたのは、プレシオサウルスなどではない。現場の人間たちの『過去』そのものだったのだ。

 

「……ネッシーではなかった、ということだけは確かですね」

 

 重苦しい沈黙の中、サー・アリスター・ペンブルックが、極めて冷たく、静かな声で呟いた。

 

「今は、気の利いた皮肉を聞きたい気分ではないぞ、アリスター」

 首相が忌々しげに言う。

 

「皮肉ではありません、首相。事実を申し上げているのです」

 アリスターは、モニターの中で亡き兄にすがる連絡官の姿を、冷徹な外交官の目で見据えた。

「……あれは、怪物ではありません。もっと、極めて個人的で、深く、そして残酷なものです」

 

 アーティファクトが、物理的な破壊ではなく、人間の『内面』に直接干渉してきた。

 その事実に、会議室の全員が背筋に冷たい氷をねじ込まれたような悪寒を感じていた。

 

「……その場での判断は危険だ」

 首相は、為政者としての直感を働かせ、強引に事態のコントロールを試みた。

「調査隊に指示を出せ。ただちに最寄りのホテルへ移動しろ。調査隊全員を一室に集め、絶対に外部との接触を絶て。医療チームと心理ケア要員を現地に向かわせる。……とにかく、湖畔から物理的に距離を取らせろ。異常現象の影響範囲を確認するのだ」

 

 通信機を通じて、ロンドンの冷酷な命令が現場へと飛ぶ。

 連絡官は、目の前の兄から目を離せないまま、涙で顔をぐしゃぐしゃにして無線に応えた。

『……了解、しました……。ホテルへ……移動します……』

 

 だが、ヘイル博士は、その命令が耳に入っていないかのように、ただ恋人の前に立ち尽くしていた。

 

「エドワード? どうしたの?」

 彼女は、心配そうにヘイルの顔を覗き込む。

「私、自分の部屋にいたはずなのに。……気がついたら、ここに立っていたの。ここはどこ? どうしてあなたは泣いているの?」

 

「……すまない」

 ヘイルの口から、嗚咽が漏れた。

「すまない……! 僕が、僕が君に気づいていれば……君を一人にしなければ……!!」

 

 彼は、自らの研究とキャリアを優先し、彼女の孤独によるSOSを無視し続けた。その結果が、彼女の手首に刻まれた冷たい傷跡だった。その消えることのない罪悪感が、天才科学者である彼の理性を完全に焼き尽くしていた。

 

 彼女は、困ったように優しく微笑み、冷たい指先でヘイルの濡れた頬に触れた。

 

「エドワード、何を謝っているの?」

 彼女は、自分が死んだことすら認識していなかった。

「私は、あなたと一緒にいられて嬉しいわ。……お願い、私を置いていかないで」

 

 その一言で、エドワード・ヘイルという一人の男の精神は、完全に、そして不可逆的に崩壊した。

 

 ***

 

「幻覚ではない……! 絶対に、幻覚なんかじゃない……!」

 移動の準備を進めながら、調査隊のメンバーたちは、狂ったように自分たちの目の前にいる『死者たち』の存在を、科学的アプローチによって証明しようとしていた。

 

 ヘイルは、恋人の手を強く、骨が軋むほどに握りしめた。

 温かい。柔らかい。脈拍がある。爪の形も、生前に彼女が丁寧に手入れしていたあの形のままだ。血の通った、完璧な人間の感触だった。

 

 医療用スキャナーを持ち出した生物学者が、父親の体温を計測する。

「……体温、35.2度。通常の人間よりわずかに低いが、代謝活動は確実に行われている。死体ではない! 彼は生きている!」

 

 ソナー技師は、妹の足元を狂ったようにカメラで撮影していた。

 泥の上に、彼女の小さな靴の足跡が、確かな質量を伴って深く刻み込まれている。

「録音機にも声が入っている……! 周波数は人間の声帯による発声そのものだ! ホログラムじゃない!!」

 

 さらに彼らを狂わせたのは、死者たちが持つ『記憶』の完全性であった。

 

「……お前、まだ生き物(そんなもの)を信じていないのか」

 父親が、生前の癖で眼鏡のブリッジを押し上げながら、生物学者に向かって呆れたように言った。

「お前が十二歳の時、庭で捕まえたトカゲをこっそり逃がしたことを覚えているか? あの時のお前は、もっと命というものを不思議がっていたはずだがな」

 

「……っ!」

 生物学者は、その言葉を聞いてその場に泣き崩れた。

「誰にも……誰にも話していない秘密だ……! 父さんだ、本当に父さんだ……!!」

 

 視覚、聴覚、触覚、熱源、質量、そして記憶。

 すべてが、彼らが『本人』であることを証明していた。

 彼らは、湖が作り出した精巧な人形でもなければ、人間の脳が作り出した幻影でもない。

 ネス湖は、彼らの最も深い喪失の記憶を読み取り、それを『完全な物理的実体』として水際へ引きずり上げてきたのだ。

 

「全員、車に乗ってください……!」

 連絡官が、涙と鼻水で顔をドロドロにしながら、用意された大型のバンへとメンバーを促した。

 

「同行者も……同行させます」

 連絡官が無線でロンドンへ報告する。

 

『同行者? 何を言っているのだ』

 内務大臣が怪訝に問い返す。

 

「死者です」

 連絡官は、兄の腕を強く引き寄せながら、絶対に譲らないという声で言った。

「死者たちを……置いていけません」

 

 ロンドンの会議室は、絶句した。

 国家の命令よりも、目の前の死者への執着が勝った瞬間だった。

 

「……始まりましたね」

 サー・アリスターが、深いため息とともに静かに呟いた。

 

「何がだ」

 首相が青ざめた顔で問う。

 

「湖が、彼らを『結び』始めました」

 アリスターの目は、モニターの向こうの狂気を見透かしていた。

「相手は攻撃をしてこない。ただ、彼らが最も欲しかったものを返しただけです。……だからこそ、彼らは自ら進んで、その甘い毒沼に沈んでいくのです」

 

 バンの中に、調査隊員たちと、彼らの『死者』たちが乗り込んだ。

 ヘイルは恋人の手を両手で包み込むように握りしめ、ソナー技師は幼い妹を膝の上に抱きかかえている。生物学者は父親と向かい合い、連絡官は兄を助手席に座らせた。心理学者だけが、目の前に座る『若い頃の自分自身』の冷ややかな視線から逃れるように、窓の外を見つめていた。

 

 エンジンが掛かり、車はネス湖の湖畔を背にして、霧の立ち込める一本道を走り出した。

 

 ***

 

 車がネス湖の湖畔から離れ、数キロの距離を走った時だった。

 

「……お兄ちゃん」

 最初に異変に気づいたのは、ソナー技師の膝の上に座っていた妹だった。

「……寒い」

 

「どうした? 暖房を上げるからな。毛布も……」

 ソナー技師が妹の肩を抱こうとした瞬間。

 彼の顔が、恐怖に引き攣った。

 

 妹の、温かかったはずの肌の表面が……まるで水滴が滲み出すように濡れ始め、その輪郭が少しずつ『半透明』に透け始めていたのだ。

 彼女の柔らかな金糸の髪から、黒く冷たい水滴がポタポタと床に落ちる。

 

「だめ……」

 妹の小さな唇が震え、彼女は技師の胸に顔を埋めた。

「ここから……出ちゃだめ……」

 

「おい、どうした!? どうなってるんだ!!」

 ソナー技師の絶叫に、車内がパニックに包まれる。

 

 その異変は、妹だけではなかった。

 ヘイルの隣に座っていた恋人もまた、全身を激しく震わせ、ヘイルの腕を強く握り返した。

 

「エドワード……」

 彼女の声が、水中で喋っているようにゴボゴボとくぐもる。

「水が……水が、私を呼んでるの……」

 温かかった彼女の手が、氷のように冷たく濡れそぼっていく。

 

「何を言っている! 君は僕と一緒に来るんだ! もう二度と、一人にはしない!」

 ヘイルは狂乱したように彼女を抱きしめる。

 だが、彼が力を込めれば込めるほど、彼女の肉体は形を保てなくなり、指の間から黒い水となって零れ落ちていく。

 

「だめ……私、ここから出られない……!」

 

 生物学者の父親の顔のシワが水となって流れ落ちる。連絡官の兄の軍服が溶け、心理学者の若い姿がドロドロに崩れていく。

 彼らは一様に苦しみ、生者たちにすがりついた。

 

「戻して……!」

「湖へ……!」

「ここから離れられない……!」

「お願い、置いていかないで……!」

「暗い水底に、連れていかないで……!!」

 

 生者たちの悲鳴と、死者たちの水音混じりの哀願が、狭い車内に反響する。

 

「やめろ! やめろ!! 妹を返せ!!!」

 ソナー技師の手の中で、妹の小さな手が完全にほどけた。

 肉体が溶けたのではない。形を保てなくなった水の彫像のように、人間の輪郭が完全に崩れ去り、ただの【黒く冷たい湖水】となって、車の座席と床にバシャリと音を立ててぶちまけられたのだ。

 

「ああああああっ!!!」

 ソナー技師は、床に広がる黒い水を両手で必死に掻き集めようと狂ったように叫んだ。

 

 ヘイルの腕の中でも、恋人の姿が完全に崩壊しようとしていた。

 彼女は、水に変わっていく顔で、涙を流した。その涙もまた、黒い湖水だった。

 

「エドワード……ごめんなさい」

 彼女は、消えゆく意識の中で、彼に微笑みかけた。

「私、まだ……あなたと、一緒に……」

 

「嫌だ! 嫌だ! 連れて行かないでくれ!!」

 ヘイルは彼女の顔を両手で包み込もうとしたが、その手にはただの冷たい水しか残らなかった。

 

 ザバァッ……。

 恋人は、完全に水となった。

 車の座席には、彼らが着ていた衣服も、肉体も、何一つ残っていなかった。

 あるのは、ただの泥臭い、黒いネス湖の湖水だけだった。

 

「あ……あああ……」

 ヘイルは、空っぽになった自分の両手を見つめ、完全に精神の均衡を粉砕された。

 

「消えた!! 消えたああああっ!!!」

 運転席の連絡官が、助手席の兄が水になったのを見て、完全に発狂し、絶叫しながらハンドルを右に切った。

 

 キキィィィィッ!!

 車はコントロールを失い、道路脇の泥濘に突っ込む寸前で急停車した。

 

 車内は、完全な崩壊のルツボと化していた。

 ソナー技師は床の水を啜るようにして泣き叫び、生物学者は父親だった水たまりに向かって「父さん、俺が悪かった」と謝り続け、連絡官は兄の名前を呼びながらハンドルに頭を打ち付けている。心理学者は、自分自身が泥水になった光景に耐えきれず、ドアを開けて激しく嘔吐していた。

 

 ダッシュボードの無線機から、ロンドンの司令部の焦燥した声が響く。

『……応答しろ! 現地調査隊、状況を報告しろ!』

『通信が乱れている! 落ち着け! 何が起きた!!』

 

 ヘイルは、虚ろな目のまま無線機を掴み、喉から血が出るほどの絶叫を返した。

 

「消えた!!」

「彼女が消えた!! 水になった!!」

「僕が、また殺したんだ!! 僕が、彼女を湖から離したから!!!」

 

 ロンドン側の会議室は、その完全に狂乱したヘイルの報告に、何が起きているのか全く理解できなかった。

 

「落ち着け! ヘイル博士、深呼吸をして論理的に説明しろ!」

 首相がマイクを握って怒鳴る。

 

「戻る……!!」

 ヘイルの耳には、もはや国家の命令など届いていなかった。

「ネス湖だ!! ネス湖へ戻る!!」

「彼女はあそこにいる!! 湖へ戻れば、また会えるんだ!!!」

 

 その言葉を聞いた瞬間。

 ロンドンの会議室で、サー・アリスターの顔面からサッと血の気が引き、彼は青ざめた顔で小さく呻いた。

 

「……まずい」

 

「何がまずいのだ、アリスター!」

 首相が焦燥に駆られて問う。

 

「……彼らは、与えられてしまったのです」

 アリスターは、アーティファクトが仕掛けた最悪の罠の構造を完全に理解し、絶望的な声で告げた。

「……【戻る理由】を」

 

 ***

 

「ネス湖だ!! 戻れ!!」

 ヘイルは、ドアを蹴り開け、霧の立ち込める道路へ飛び出した。

 他の隊員たちも、何かに取り憑かれたように車を降り、あるいは車を無理やり方向転換させようと半狂乱で動き始める。

 

『戻るな!!』

 無線機から首相の怒号が響く。

『その場で待機しろ! 医療チームを送る! これ以上の接近は許可しない!!』

 

 だが、誰の耳にもその声は届かない。

 政府連絡官ですら、もはや任務や国家への忠誠など完全に消し飛んでいた。彼らはただ「もう一度、あの温かい手を握りたい」という狂気的な渇望だけを動力源にして、霧の道をネス湖に向かって全速力で走り出した。

 

 そして。

 彼らが、泥だらけになって息を切らし、ネス湖の岸辺へと戻ってきた時。

 

 そこには。

 

 何事もなかったかのように。

 先ほど水になって消えたはずの彼らの『死者たち』が、静かに立っていた。

 

 ヘイルの恋人は、服も髪も元通りで、水になった痕跡など微塵も残さず、ただ湖畔で彼の方を見つめていた。

 

「……エドワード?」

 彼女は、泥だらけで泣き顔の彼を見て、少しだけ不安そうに首を傾げた。

「どこへ行っていたの? 急に、あなたがいなくなって……私、怖かったわ」

 

「ああ……あぁぁぁっ!!」

 ヘイルは、獣のような鳴き声を上げながら、泥に足を取られながら彼女へ向かって走り、その身体を力強く、絶対に離さないとばかりに強く抱きしめた。

 

「大丈夫だ……!!」

 ヘイルは、彼女の温かい体温を感じながら、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして叫んだ。

「もう離れない!! もう一生、君から離れない!! ここにいれば、君は消えないんだな!!」

 

 彼女は、ヘイルの背中にそっと手を回し、少しだけ困惑したように言った。

「一生……?」

 

 ソナー技師も妹を抱きしめて号泣し、生物学者も父親の足元にすがりついた。連絡官は兄の肩を掴み、何度も何度も謝罪の言葉を繰り返す。

 

 彼らは、もう二度とこの場所から離れることはできない。

 離れれば、愛する者は再び水になって崩れ落ちる。その地獄の光景を二度と見ないために、彼らは自らの意志で、この霧の湖畔に永遠に留まることを選択したのだ。

 この時点で、彼らは調査隊としての機能を完全に失い、ネス湖に縛り付けられた【囚人】となった。

 

 ***

 

「……調査隊が、完全にシステムに取り込まれました」

 ロンドン、ダウニング街。情報機関トップが、ドローンからの映像を見て力なく報告した。

 

「馬鹿な……エリートの科学者たちが、あんな非科学的な幻影に簡単に絆されるなど……」

 内務大臣が、信じられないというように頭を抱える。

 

「首相、決断を」

 国防大臣が、冷徹な軍の論理を口にした。

「あのまま放置すれば、彼らは飢えと寒さで死ぬか、完全に発狂します。……軍の応援部隊を派遣し、対象(調査隊)を物理的に拘束してでも回収すべきです。現場を完全封鎖し、防護服と非致死性兵器で武装した部隊を送ります」

 

「……アリスター。どう思う」

 首相が、重い決断を前に外交官の意見を求めた。

 

 サー・アリスターは、深く目を閉じ、そして静かに目を開いた。

「……慎重に願います、大臣」

 アリスターは、国防大臣を真っ直ぐに見据えた。

「あの湖は、人間を攻撃しているのではありません。……人間の『心』を使っているのです」

 

「軍人は、パニックを起こすような軟弱な訓練は受けていない」

 国防大臣は不快そうに言い返した。

「対象が幻影であると事前に認識していれば、彼らは躊躇なく任務を遂行する」

 

「……訓練された軍人ほど」

 アリスターの言葉は、氷のように冷たく、残酷だった。

 

「……訓練された軍人ほど。救えなかった命や、凄惨な戦死の記憶を、心の奥底に重く抱えているものです。

 ……彼らに、それに耐えられると、本当に言い切れますか?」

 

 国防大臣は、一瞬言葉に詰まった。

 だが、見捨てるわけにはいかない。首相は重く頷き、部隊の派遣を許可した。

 

 ***

 

 数時間後。

 ネス湖の湖畔に、完全武装のイギリス軍特殊部隊が到着した。

 

 装備は対異常事象を完全に意識したものだ。

 防毒マスク付きの密閉型防護服、生体情報のリアルタイムモニター、非致死性のスタンガンと拘束ネット。後方には通信中継車と医療班、そして心理専門の将校が待機している。

 

 部隊を率いる隊長は、歴戦の猛者であり、極めて冷静な男だった。

「対象は錯乱状態にある民間調査隊だ」

 隊長は、インカム越しに部下たちへ低く命じる。

「湖畔に実体不明の人影が出現しているとの報告だが、噂に呑まれるな。我々の任務は調査隊の保護と周辺の完全封鎖だ。異常存在との接触は極力避けろ。……行くぞ」

 

 部隊は、霧の立ち込める湖畔へと、完璧なフォーメーションで足を踏み入れた。

 

 霧が濃くなる。

 最初は何の異常もなかった。

 

 やがて、水際に座り込んでいる調査隊の姿が確認できた。

 ヘイルたちは、それぞれの『死者』たちと寄り添い、まるで家族のピクニックかのように、静かに会話を交わしていた。

 

「……ヘイル博士。あなた方を保護します」

 隊長は、一定の距離を保ちながら、拡声器を使わずに地声で呼びかけた。

「直ちにこちらへ。……お連れの方々には、我々が後ほど対応します」

 

 ヘイル博士は、振り返り、血走った目で隊長を睨みつけた。

「嫌だ」

 彼は、恋人の肩を強く抱き寄せた。

「彼女を置いていくなんて、絶対にできない。お前たちも、僕から彼女を奪う気なら……ただじゃおかないぞ」

 

 狂気。完全に話が通じる状態ではない。

「……拘束しろ」

 隊長が、部下へ短くハンドサインを出す。

 

 兵士たちが、スタンガンを構えて一歩踏み出そうとした。

 その、瞬間だった。

 

「……隊長」

 

 霧の中から。

 隊長の真正面に、一人の若い兵士が姿を現した。

 

 隊長の顔面から、一瞬にしてすべての血の気が引いた。

 

「隊長」

 その若い兵士は、泥だらけの迷彩服を着て、悲しそうに微笑んでいた。

「あの日……『絶対に置いていかない』って、言ってくれましたよね」

 

「……そんな」

 隊長の手から、アサルトライフルが滑り落ちそうになる。

 彼は、中東の過酷な撤退戦で、敵の銃火の中に『置き去りにするしかなかった』、かつての部下だった。

 

 異常は、隊長だけではなかった。

 周囲に展開していた兵士たちの前にも、次々と『それ』が現れ始めたのだ。

 

「母さん……? なんで、病院にいるはずじゃ……」

「お前、あの時爆発で吹き飛んだはずだろ……!」

「すまない……すまない、俺がもっと早く助けに行っていれば……!」

「撃つな! 俺だ、撃たないでくれ!」

 

 戦死した戦友。

 テロで失った家族。

 救えなかった民間人。

 自分が引き金を引いて殺した敵の少年兵。

 

 軍人たちが、次々と膝をつき、銃を落とし、あるいはパニックを起こして後退し始めた。

 彼らが過酷な戦場を生き抜くために、心の奥底の鋼鉄の箱に厳重に封印していた『罪悪感』と『喪失』の記憶が。ネス湖という巨大な鏡によって、一斉に現実の岸辺へと引きずり出されたのだ。

 

「対象が複数出現!!」

 通信車から、オペレーターが絶叫する。

「いや、対象ではありません! 俺の……俺の娘です!!」

 オペレーターすらも、モニター越しに現れた死者の姿に発狂し始めていた。

 

「隊列を維持しろ!!」

 隊長は、必死に軍人としての理性を振り絞って叫んだ。

「幻覚だ! 撃つな! しかし惑わされるな!」

 

「無理です……! 撃てません! 逃げられません!」

 兵士の一人が、死んだ妻の幻影に抱きつかれ、泣き崩れながら叫ぶ。

 

 現場は、完全に崩壊した。

 軍隊という強固な命令系統が、一瞬にして『個人のトラウマ』という絶対的な暴力の前に粉砕されたのだ。

 

 若い兵士の幻影が、隊長に一歩近づく。

「隊長。……今度は、置いていかないでくださいね」

 

 カラン、と。

 隊長の銃が、完全に地面に落ちた。

 彼は、震える手で、その若い部下の肩を抱きしめた。

 

「……ああ。もう、どこにも行かない」

 

 ***

 

「……撤退命令だ!!」

 ロンドンの会議室で、国防大臣がモニターの惨状を見て狂ったように絶叫した。

「全員、湖畔から離脱しろ!! すぐにだ!!」

 

 だが、現場からの応答は、絶望的なものだった。

 

『……できません!』

 通信機の向こうで、副官が泣き叫んでいる。

『家族を……戦友を、置いていけません! これは命令違反ではありません! これは……これは……!』

 言葉にならない嗚咽だけが、ロンドンへ届いた。

 

 ネス湖の周辺には、軍人、科学者、そして彼らの『死者たち』が入り混じる、この世のものとは思えない異様な空間ができあがっていた。

 

 首相は、その映像を見て青ざめ、力なく椅子に座り込んだ。

「……これは、攻撃ではない。誰も殺されていない。……だが、部隊が壊れていく」

 

「はい」

 サー・アリスターが、冷たく、そして深く息を吐き出した。

「湖は、人を殺してはいません。

 ただ、彼らが『最も離れがたいもの』を、形にして返しているだけです。

 ……その結果、生者が自分から、自らの意志で、湖の鎖に縛られていく」

 

 国防大臣が、絶望的な顔でアリスターを見る。

「では、どうすればいい。……これ以上部隊を送れば、その部隊もまた飲み込まれるだけだぞ」

 

「その通りです。力ずくでの解決は不可能です」

 アリスターは、眼鏡を外し、疲れた目をこすった。

 

「誰かに……相談するしかない」

 首相が、虚ろな声で呟いた。「この、理不尽な超常の理を理解している者に」

 

 その場にいる全員が、一瞬で同じ人物の顔を思い浮かべた。

 

 紅茶とスコーンを対価に、イギリス政府が契約した、あの恐ろしい存在。

 

「……スコットランドの、公認魔女様か」

 内務大臣が、すがるような声で言った。

 

 ***

 

 ネス湖、夜。

 

 深い闇と霧に包まれた湖畔には、調査隊と軍人たちが、まるで何かの奇妙な難民キャンプのように集まっていた。

 

 彼らは、自分たちの『死者』と一緒にいる。

 泣いている者。笑い合っている者。謝っている者。ただ黙って抱きしめている者。

 

 その周囲を、後方から駆けつけた追加の警備部隊が遠巻きに囲んでいるが。……誰一人として、その警戒線の内側(湖畔)へ踏み込もうとする者はいなかった。

 中へ入れば、自分にも『誰か』が現れてしまうかもしれない。その恐怖が、軍人たちの足を完全に縫い止めていた。

 

 ヘイル博士は、冷たい泥の上に座り込み、恋人の手をしっかりと握りしめたまま、黒い湖面を見つめていた。

 

「エドワード」

 彼女は、心配そうにヘイルの横顔を見て、そっと問うた。

「ここにいて、いいの? あなた、お仕事があったんじゃないの?」

 

「ああ」

 ヘイルは、狂気の底で、どこまでも穏やかに微笑んだ。

「もう、どこにも行かない。ずっと、君と一緒にここにいるよ」

 

 彼女は、少しだけ寂しそうに微笑み、そして、誰も答えられない残酷な問いを口にした。

 

「でも……。

 あなたは、生きているのに?」

 

 ヘイルは、それに答えることができなかった。

 

 少し離れた場所で、軍の隊長もまた、死んだ若い部下と隣り合って座っていた。

 

「隊長、帰らなくていいんですか?」

 部下が、無邪気に問う。

 

「……帰れないさ」

 隊長は、空を見上げて呟いた。

 

 湖面は黒く、どこまでも静かだった。

 その黒い水の底で、何かが微かに脈動しているようにも見えた。

 

 ネス湖は、人を殺さなかった。

 叫び声を上げさせ、銃を落とさせ、命令を忘れさせ、人間の尊厳を溶かしただけだった。

 

 死者は襲ってこない。責めもしない。

 ただ、生前そのままの声で名前を呼び、温かい手を伸ばしてくるだけだ。

 だからこそ、人間は逃げられなかった。

 

 怪物なら撃てた。幻覚なら否定できた。

 だが、温かい手をした死者を、誰が再び置き去りにできるというのか。

 

 その夜。

 ネス湖の岸辺には、死者を抱いた生者たちが座り込み、誰一人としてそこから離れようとはしなかった。

 

 イギリス政府は、ようやく理解した。

 あれは、ネッシーではない。兵器でもない。侵略者でもない。

 

 もっと静かで、もっと残酷なものだ。

 人間が自ら歩いて戻ってしまう、黒い湖の檻だったのだ。

 

 




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