銀河皇帝のスペアに転生した元社畜、地球軌道上の要塞でネトゲ三昧の隠居生活を満喫する 〜足元では超大国が滅亡級の異星遺産を巡って暗躍中ですが、主人公(ぼく)の命は絶対安全なので特等席で傍観します〜   作:パラレル・ゲーマー

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第133話 ネス湖へ向かうな

 東京、首相官邸地下。既存技術外事象評価セルの特別防音会議室。

 壁面の巨大マルチモニターから、Cicada 3301の不気味な蝉のマークがフェードアウトした直後。

 会議室は、まるで真空状態に放り込まれたかのように、息苦しい沈黙に支配されていた。

 

 矢崎総理は、デスクの上で両手を強く組み、微かに震える指先を必死に抑え込んでいた。

 

「……今の映像、本物なの?」

 

 総理の低く、絞り出すような声が、静寂を破った。

 

「映像そのものの改竄痕跡は確認できません」

 サイバーセキュリティ担当官が、キーボードを叩きながら顔面を蒼白にして答える。

「……しかし、あれが現在進行形の『現地(ネス湖)の映像』であるかどうかは、イギリス政府側への確認が必要です。事前収録されたフェイク、あるいは高度に生成されたシミュレーション映像である可能性も、ゼロではありません」

 

「総理。イギリス政府へ至急問い合わせます」

 沖田室長が、即座に実務的な決断を下す。

 

「すぐに。ヘイズ大統領にも共有を」

 総理が指示を出した、まさにその瞬間だった。

 

 バンッ、と。

 会議室の重厚な扉が開き、内閣情報調査室の連絡官が血相を変えて飛び込んできた。

 

「総理! 国内で……すでに、ネス湖へ向かう動きが爆発的に出ています!」

 

 矢崎総理は、眉をひそめた。

「……早すぎるわ」

 

「いえ、異常な速度です」

 連絡官は、手元のタブレットのデータをメインモニターに投影した。

「Cicadaの配信終了からわずか数分で、国内の主要航空券検索サイトにおいて、ロンドン・エディンバラ方面の検索数が通常時の『数十倍』に跳ね上がっています!

 旅行会社への問い合わせの電話も殺到。SNS上では、“今から空港へ向かう”、“パスポートを取りに行く”という投稿が秒単位で急増しています。……英国大使館への問い合わせ回線も、すでにパンク状態です!」

 

 会議室が一気に騒然となった。

 これまで、アーティファクトの脅威といえば、万象器のような経済破壊や、黒鯨のような物理的災害であった。それらは恐ろしいが、一般市民の行動としては「逃げる」か「怯える」かの二択しかなかった。

 

 だが、今回は違う。

 『死者に会える湖』。

 その甘美で、あまりにも残酷な誘惑は。人々を「逃げさせる」のではなく、自ら進んで「危険地帯へと向かわせる」という、最悪のベクトルを持っていたのだ。

 

「……緊急に対策を講じなければなりません」

 沖田室長が、冷静さを取り戻して声を張り上げた。

 

 だが、会議室の意見は、初動の段階から真っ二つに割れた。

 

「待ってください。まだ事実確認ができていません!」

 慎重派の官僚が、声を荒げる。

「相手はCicada 3301です! 彼らの映像だけで政府声明を出すのは危険すぎます! 完全なデマ、あるいは大衆を操るための社会的実験(トラップ)の可能性もあります。……イギリス政府の公式確認を待つべきです」

 

「そのデマがもし本当だった場合、対応が遅れれば、国民が次々とネス湖へ向かってしまいます!」

 緊急派の官僚が、机を叩いて反論する。

「航空券を買って空港へ向かった人々を、後から止めることは困難です! イギリス側の空港が日本人であふれ返り、国際問題になります! 何より、国内の家族・遺族団体が本格的に動き出せば、政治的に手がつけられなくなる!」

 

「だからと言って、政府が安易にCicadaの配信を『事実』として扱えば、彼らの情報災害(プロパガンダ)に国家が加担することになるのですよ!」

 

「だが、事実だったらどうする! 死者に会いたいという執念で、世界中がネス湖に向かうぞ!」

 

 激しい怒号が飛び交う中。

 矢崎総理は、頭を抱えて呻いた。

 

「待って。……まずイギリス政府に問い合わせを」

 

「既にホットラインを開こうとしていますが、イギリス側が完全な混乱状態にあり、正式回答が来ません!」

 外務大臣が、焦燥しきった顔で報告する。

 

「イギリス政府自体が、Cicada配信の最大の被害者です」

 沖田が、冷徹に状況を分析する。

「自国の軍事作戦と、その絶望的な失敗を全世界に晒されたのです。今は現場対応と国内のパニック処理で手一杯の可能性があります」

 

「総理、空港に呼びかけるべきです!」

 国土交通省の担当幹部が、立ち上がって進言した。

「英国行きの渡航自粛、少なくとも搭乗前の強い注意喚起を、今すぐ出す必要があります! 人が動き出してからでは遅いのです!」

 

 総理は、沈黙した。

 確証のない情報で国家を動かすリスク。だが、動かなければ国民が死の湖へ自ら飛び込んでいくリスク。

 その狭間で、彼女の政治家としての勘が、激しく警鐘を鳴らしていた。

 

「……三神さんは?」

 総理は、この異常な盤面において、最もフラットに人間の業を読み解ける男の名を呼んだ。

 

「現在、こちらに向かっている最中です」

 沖田が答える。「Cicadaの配信を見て、即座に官邸へ向かっているとのことです。まもなく到着します」

 

「急がせて」

 

「総理、三神さんを待つ間にも、国内声明を出す必要があります」

 官房長官が、胃の辺りを押さえながら切実な声で言った。

「マスコミも動き始めています。政府が沈黙を保てば保つほど、国民の疑心暗鬼は深まります。……何らかのメッセージを出さなければ」

 

「文面は?」

 総理が問う。

 

 官房長官は、ひどく苦い顔をして、手元のタブレットからメインモニターにいくつかの案を投影した。

「……それが、問題なのです」

 

 画面には、急遽作成された4つの声明案が並んでいた。

 

『声明案A:

 ネス湖に関するCicada 3301の配信映像について、現在事実関係を確認中です。国民の皆様は冷静に行動してください』

 

「慎重ですが……弱すぎますね」

 沖田が即座にダメ出しをする。「これでは、死者に会いたい人間を物理的に止めることはできません。むしろ『確認中なら、嘘と決まったわけじゃない』と解釈されます」

 

『声明案B:

 ネス湖周辺は極めて危険な可能性があります。英国への不要不急の渡航を控えてください』

 

「少し強いですが、事実認定に近すぎます」

 外務大臣が懸念を示す。「イギリス政府の許可なく、他国の特定地域を『危険』と断定するのは外交的摩擦を生みます」

 

『声明案C:

 ネス湖へ向かうことは、自身の生命・身体・精神に重大な危険を及ぼす可能性があります。政府は渡航を強く自粛するよう要請します』

 

「より踏み込みましたね」

 総理が呟く。

 

『声明案D:

 ネス湖へ向かうな』

 

「……分かりやすいですが、反発が強すぎます」

 官房長官が、頭を抱える。「『政府は死者に会う権利を奪うのか』という、強烈な批判の的になります」

 

「どれを出しても燃えるわね」

 総理は、深くため息をついた。

 

「はい」

 官房長官も、絶望的に頷いた。

 

 ***

 

 政府が密室で「言葉選び」に苦悶している間。

 Cicada配信直後の日本のネット空間は、もはや大喜利や考察の段階を完全に通り越し、人間の最も生々しい感情と倫理が激突する、修羅の様相を呈していた。

 

 [X(旧Twitter) / タイムライン]

 

 @Normal_Citizen_A

 ネス湖に行けば死者に会えるって本当?

 ……嘘だろ?

 

 @Desperate_Son_99

 嘘でもいい。映像に人影がいたよな? 確実に誰かいたよな?

 もし、本当に死んだ母さんに会えるなら……俺、行きたい。

 危険って分かってても、帰れなくなるって言われてても、絶対に行きたい。

 

 @Safety_First_JP

 いや行くな。絶対罠だ。

 Cicadaが『離れられなくなる』って言ってたじゃん。あれは人間を捕食するアーティファクトの誘蛾灯だ。政府は早く渡航止めろ。

 

 @Human_Rights_Bot

 止めるな。俺たちには死者に会う権利がある。

 それが罠だろうが幻だろうが、自分の命をどう使うかは本人の自由だ。国家がそれを制限する権利はない。

 

 @Logic_Thinker

 権利って何だよ。死者じゃなくて幻影だろ。湖が人間の記憶を読んで見せてるだけだ。目を覚ませ。

 

 @Occult_Sleuth_Z

 アーティファクト時代だぞ? 万象器で経済が壊れて、アステカの超人が軍隊を壊滅させた世界だ。

 ……「本当に死者が蘇生している可能性」が、ゼロだと誰が言い切れる?

 物理法則が崩壊してる以上、魂の再生だってあり得るだろ。

 

 @Corporate_Slave_00

 これ、止め方間違えたらマジで暴動起きるぞ。

「死者に会いたい」って感情は、金とか政治とかの欲望よりもずっと深くて重い。

 政府が力ずくで止めたら、国民と殺し合いになるぞ。

 

 [5ちゃんねる:ニュース速報板]

 スレタイ:【緊急】ネス湖、死者に会える湖になる。お前らどうする?

 

 1 :名無しさん@涙目です

 死者に会えるとか、人類に一番見せちゃいけない情報だろ。

 Cicada、マジで性格悪すぎる。

 

 2 :名無しさん@涙目です

 でも会いたいだろ。

 

 3 :名無しさん@涙目です

 会いたいけど行ったら終わりだろ。映像の調査隊、完全に精神壊れてたぞ。

 

 4 :名無しさん@涙目です

 死者じゃなくて、湖が作った精巧なコピー(ホログラム)じゃね?

 

 5 :名無しさん@涙目です

 コピーでもいい。声が同じで、触れて、抱きしめられるなら、それでいい。

 

 6 :名無しさん@涙目です

 お前それ本気で言ってるのか。

 

 7 :名無しさん@涙目です

 本気だよ。

 ……俺、親父が死ぬ前に大喧嘩して、そのままだったんだよ。

 一言でいいから、謝りたいんだよ。それだけでいいんだ。

 

 8 :名無しさん@涙目です

 ……。

 

 9 :名無しさん@涙目です

 これ止められる政府ある?

 みんな自分の命より大事な後悔を抱えてるんだぞ。

 

 10 :名無しさん@涙目です

 空港止めろ。物理的に行かせないようにしろ。

 

 11 :名無しさん@涙目です

 出国制限は人権侵害だろ。憲法違反だぞ。

 

 12 :名無しさん@涙目です

 国民が湖の底に囚われて全滅するよりマシだ。

 

 13 :名無しさん@涙目です

 この世界、もう無理。

 アーティファクトの力で、人間の心がどんどん試されて壊れていく。

 

 ***

 

 ネットのタイムラインに溢れる、血を吐くような「会いたい」という悲鳴。

 官邸地下の会議室でも、その声は深く重くのしかかっていた。

 

「……待ってください」

 ある閣僚が、沈痛な面持ちで口を開いた。

「国民には、死者と会う権利があるのではないですか」

 

 会議室の空気が、完全に凍りついた。

 

「死者ではないでしょう!」

 別の閣僚が、即座に大声で否定した。

「あれは幻影か、記憶の再現か、あるいはアーティファクトが作った人を喰うための罠(何か)です!」

 

「それはまだ分かりません」

 最初の大臣が、食い下がる。

「アーティファクト時代です。死んだものが蘇生しても、絶対におかしくないとは……今の我々には、誰にも言い切れない」

 

「もし本当に死者本人である可能性がゼロではないなら……」

 法務担当の官僚が、慎重な声で補足する。

「政府が一方的に『あれは偽物だ』と断じて、国民の渡航を力ずくで止めるのは、法的に極めて危険です。後で本物だと分かった時、国家は国民から『再会の機会を不当に奪った』として訴えられます」

 

「逆に、死者本人ではないものを“死者かもしれない”と少しでも認めた瞬間、遺族の動きは絶対に止まらなくなります」

 医療・心理担当の専門官が、悲鳴のように警告する。

 

「つまり……どちらとも言えない」

 矢崎総理は、額を押さえ、深く息を吐き出した。

 

 三神編集長が不在の会議室は、明確な指針を持てず、完全に迷走していた。

 

「対応を間違えると、間違いなく暴動が起きます」

 官房長官が、青ざめた顔で未来を予測する。

「空港で止められた遺族たちが、『政府は我々から死者に会う権利を奪うつもりだ!』と叫べば、世論は完全に二分されます。暴徒化する可能性も高い」

 

「……死者に会えるかもしれない、という希望を。政府が正面から否定する」

 矢崎総理は、その言葉の恐ろしい重さを噛み締めるように言った。

「……これは、本当に難しいわね」

 

 ***

 

 政府が密室で言葉選びに苦悶している間にも、現実は待ってくれなかった。

 日本全国の【移動のインフラ】が、パニックの最前線として悲鳴を上げ始めたのだ。

 

 成田国際空港、第1ターミナル。

 英国行きの航空会社のカウンター前には、深夜にもかかわらず、キャリーケースを持たない身軽な服装の人々が、異様な熱気とともに殺到していた。

 

「今すぐロンドン行きに乗せてください!!」

「航空券が取れないなら、中東経由でもいい! 一番早くイギリスに着く便を出してくれ!」

「政府が正式に渡航を禁止する前に、どうしても行きたいんです!!」

 

 航空会社のグランドスタッフたちは、突然の客の波と、彼らの放つ「切迫した殺気」に近い感情に圧倒されながら、必死に説明に追われていた。

 

「申し訳ありません、本日の英国行きの便はすべて満席となっております!」

「キャンセル待ちの列にもお並びいただけません!」

 

 羽田空港の国際線ターミナルでも、状況は同じだった。

 制服警官が急遽増員され、カウンター前で怒号を上げる人々を制止しようとしている。

 中には、泣き崩れながらカウンターのスタッフに土下座をして搭乗を求める者までいた。

 

 旅行会社のコールセンターの電話は、すべての回線が完全にパンクしていた。

 

「ネス湖ツアーはありますか!」

「今からでも行けますか!」

「封鎖される前に入りたい! いくら払えばいい!?」

 

 さらに、この絶望的な需要を狙って、ネットの暗部では即座に【悪質なSNS詐欺】が横行し始めていた。

 

『ネス湖封鎖突破・特別ルートツアー』

『死者再会サポート・英国入国ビザ手配』

『Cicada公認・ネス湖安全案内ガイド』

 

 消費者庁は深夜にもかかわらず、即座に公式アカウントで警告を発した。

『【緊急注意】Cicada 3301およびネス湖現象に関連する旅行詐欺に注意してください。現在、そのようなツアーや安全なルートは存在しません。絶対に料金を振り込まないでください』

 

 ネット民がそれを見て呟く。

「死者再会サポート詐欺とか、人間のやることじゃねえ……地獄すぎるだろ」

 

 ***

 

 バンッ!

 官邸地下の特別会議室の扉が、再び乱暴に開かれた。

 

 息を切らして入ってきたのは、三神編集長だった。

 いつもの片手の缶コーヒーすらない。その表情は、これまでのどんな事案の時よりも、極めて真剣で、冷酷な光を宿していた。

 

「総理」

 三神は、挨拶もそこそこに円卓に近づいた。

 

「三神さん。……状況は」

 総理が身を乗り出して問う。

 

「最悪です」

 三神は、一言で切り捨てた。

「Cicadaは、世界中の人間にとって、“最も見せてはいけない希望”を、最悪の形で見せつけました」

 

「ネス湖の現象は……本物だと思いますか?」

 沖田室長が、確認するように問う。

 

「少なくとも、Cicadaの映像は過去の傾向から見て本物と仮定すべきです」

 三神は、冷静に分析する。

「そして何より、あの配信の後、イギリス政府が即座に『フェイクである』と否定する声明を出していない。

 ……つまり、彼ら自身もあの状況を把握しており、隠しきれなくなった。かなり高い確率で、あれは本物(現実)です」

 

「……あの映像に映っていたのは、本物の死者なの?」

 矢崎総理が、震える声で問うた。

 

 三神は、すぐには答えなかった。

 そして、ゆっくりと首を横に振った。

 

「分かりません」

 

「分からない?」

 総理が眉をひそめる。

 

「はい」

 三神は、両手をついて総理を真っ直ぐに見た。

「死者本人かもしれない。

 記憶を読んだ幻影かもしれない。

 アーティファクトによる人格の再構築かもしれない。

 並行世界からの引き寄せかもしれない。

 あるいは……湖が人間を捕食するために作った、精巧な『餌』かもしれない」

 

 会議室の空気が、凍りつく。

 

「ですが、総理」

 三神は、言葉を強くした。

「政府声明では、絶対に【そこ(死者の真贋)】を断言してはいけません」

 

「では、何を言えばいいのですか」

 官房長官が、すがるように問う。

 

「一点だけです」

 三神は、ホワイトボードの前に立ち、マーカーで力強く書き殴った。

 

「【ネス湖へ行くと、帰れなくなる可能性がある】。

 ……死者かどうかではなく、そこだけを前面に出すべきです」

 

 三神は、政府が『言ってはいけないこと』と『言うべきこと』を、鮮やかに、そして冷酷に整理し始めた。

 

「まず、言ってはいけないこと。

 一つ。『あれは死者ではありません』。……これは猛烈に反発されます。『政府に何が分かる』『死者本人かもしれない』『私たちの会いたい気持ちを踏みにじるな』と。政府が敵になります。

 二つ。『あれは幻影です』。……証拠がありません。Cicadaの映像では、明らかに物理的な接触をしているように見えます。イギリスからも未確認です。

 三つ。『行くな。以上』。……ただの禁止は、権利侵害と受け取られ、陰謀論化して裏ルートでの密航を助長します。

 四つ。『政府が確認します』。……確認に行った職員が、湖に囚われてミイラ取りがミイラになるだけです」

 

「……では、言うべきことは?」

 総理が、真剣な眼差しで聞く。

 

 三神は、マーカーで箇条書きにしていく。

「一つ。現象は極めて危険であること。死者のように見える存在と接触した者が、湖周辺から離れられなくなっている可能性があること。

 二つ。正体は未確認であること。政府は、死者本人かどうかを現時点で断定しないこと。

 三つ。渡航は強く自粛すること。本人の生命・身体・精神の安全を重大に損なう恐れがあること。

 四つ。……【遺族感情への配慮】。会いたいという願いを、決して否定しないこと。しかし、危険な場所へ向かうことは、その人自身と、残された家族をさらに傷つけること。

 五つ。国際協調。英国政府および関係国と連携し、事実確認と邦人保護を進めること」

 

 総理は、三神のリストをじっと見つめ。

「……つまり。死者に会いたいという気持ちを否定せず、行動だけを止める、ということね」

 

「はい」

 三神は頷いた。

「彼らの感情を否定した瞬間、政府は『愛する人に会わせない悪魔』になり、彼らの敵になります。……寄り添いながら、止めるしかありません」

 

 ***

 

 方針が決まると、内閣法制局、警察庁、国交省の幹部たちによる「法的にどこまで止められるか」のギリギリの議論が始まった。

 

「できることは、渡航情報を最高レベルへ引き上げること。英国政府と協調してネス湖周辺への渡航自粛要請。航空会社への注意喚起。旅行会社へのツアー販売停止要請。空港での警告文配布。……そして、詐欺サイトの摘発と、在英日本人への警告です」

 

「難しいのは?」

 総理が問う。

 

「日本国民の【出国の禁止】です」

 法制局の長官が、苦渋の表情で言う。

「出国の自由を制限するには、極めて強い、そして明確な法的根拠が必要です。現時点の『危険かもしれない』という曖昧な情報だけでは、全英国便の停止や、パスポートの無効化は違憲訴訟の対象となります」

 

「空港で強制的に拘束することも不可能です」

 警察庁長官が補足する。

「犯罪を犯したわけでもない市民の身体を拘束すれば、空港で暴動が起きます」

 

「航空会社も、チケットの販売を完全に拒否することには限界があります」

 国交省の担当者も頭を抱える。

 

「……では、まずは強い渡航自粛要請と、空港での厳重な警告」

 総理が、現実的なラインで指示を出す。

「イギリス側には、日本人入国者への制限と、ネス湖方面への移動阻止を要請。

 ……ただし、人権侵害に見えない言い方をする」

 

「……かなり細い綱渡りですね」

 三神が、少しだけ同情するように言った。

 

「いつものことよ」

 矢崎総理は、自嘲気味に笑った。

 

 その時。

「総理! イギリス政府とホットラインが繋がりました!」

 通信担当官が叫んだ。

 

 メインモニターに、イギリス首相の姿が映し出される。

 その顔は、数日前とは比べ物にならないほど憔悴しきっていた。傍らには、サー・アリスターの姿もある。

(魔女の姿は、画面には映っていなかった)

 

「……首相」

 矢崎総理は、相手の疲弊を気遣いながらも、単刀直入に問うた。

「ネス湖の現象は……本物なのですか」

 

 イギリス首相は、数秒間、重い沈黙を保った。

 その沈黙が、何よりの答えだった。

 

 やがて、彼は苦しげに口を開いた。

『……少なくとも、我々は否定できません』

 

 日本側の会議室が、凍りついた。

 

 サー・アリスターが、冷静な声で引き継ぐ。

『調査隊および救援部隊の一部が、ネス湖周辺から離脱不能となっています。

 彼らは、死者と思しき存在と接触しています。

 その存在が、本物の死者であるかは不明です。……しかし、実体を持ち、会話し、接触できることは、確認されています』

 

 会議室が、完全な静寂に沈んだ。

 

「……日本国民への声明を出します」

 矢崎総理は、決意を固めて言った。

「英国への渡航、特にネス湖方面への移動を、強く自粛するよう呼びかけます」

 

『お願いします』

 イギリス首相は、深く頭を下げた。

『……我々だけでは、人の流れを止められません。世界中から、人が押し寄せてきているのです』

 

 通信が切れる直前。

 画面の外から、少しだけ楽しげな、しかし残酷な声が微かに聞こえたような気がした。

 

『死者に会いたい者を責めてはいけませんよ。

 ……ですが、行かせてもいけません』

 

 それは、魔女の言葉だったのか。

 その重い響きが、矢崎総理の心に深く突き刺さった。

 

 ***

 

 午後11時。

 矢崎総理の緊急記者会見が始まった。

 

 顔は疲れているが、言葉は極めて慎重に選ばれていた。

 

「本日、Cicada 3301を名乗る集団により、英国ネス湖周辺の映像が配信されました。

 日本政府は英国政府と連絡を取り、現地で重大な既存技術外事象が発生している可能性を確認しました。

 ……現時点で、映像に映る存在が死者本人であるか、幻影であるか、その他の現象であるかを断定することはできません」

 

 総理は、三神の助言通り、「死者ではない」とは断言しなかった。

 

「しかし、現地に接近した者が、強い精神的影響を受け、ネス湖周辺から離れられなくなっている可能性があります。

 生命、身体、そして精神の安全に重大な危険があります。

 政府は、英国ネス湖周辺への渡航・移動を、強く自粛するよう要請いたします」

 

 そして、総理はカメラを真っ直ぐに見据え、遺族へ向けて語りかけた。

 

「……亡くなった方に、もう一度会いたいという願いを。政府は、決して否定しません。

 その願いは、人として、あまりにも当然のものです。

 

 しかし。

 ……今、ネス湖へ向かうことは、皆様自身を取り返しのつかない危険に晒す可能性があります。

 どうか……向かわないでください」

 

 質疑応答。

 記者が、食い下がる。

 

「総理! 死者に会える可能性があるのに、それを政府が止めるのですか!」

 

「死者に会えるかどうかは、確認されていません」

 総理は、毅然と答える。

「確認されているのは、現地に近づいた人が『帰れなくなる危険』です」

 

「それでも、自分の意思で行きたいという国民の自由は!?」

 

「自由は重要です」

 総理は、言葉に力を込めた。

「しかし、自由な意思決定には、正確な情報が必要です。

 Cicadaの配信は、危険性の一部を娯楽化して見せています。政府は、国民が取り返しのつかない選択をしないよう、最大限の警告を行います」

 

「もし本当に死者本人だった場合、会う機会を奪うことになりませんか!」

 

 総理は、苦しそうに、だがはっきりと答えた。

 

「その可能性を、私は軽く扱いません。

 ……ですが、今は誰も、安全に戻れる方法を持っていません。

 会うことができても、帰れないのなら。……それは決して、救いではありません」

 

 総理の言葉は、強い説得力を持っていた。

 

 [X(旧Twitter) / タイムラインの反応]

 

【支持派】

「総理の言う通り。行ったら帰れない。会いたい気持ちは分かる。でも行くな」

「死者に会える湖とか、人類に早すぎるどころじゃない。あれはアーティファクトの罠だ」

「Cicadaは情報テロリストだろ。面白半分にこんな情報ばら撒きやがって」

 

【反発派】

「政府が死者に会う権利を奪った。自分の命をどう使うかは自分で決める!」

「上級国民だけ確認して、庶民には行くなと言うのか。俺は行くぞ」

「たとえ幻でもいい。会いたい人はいるんだよ。お前らにこの気持ちが分かるか!」

 

【中間派】

「総理の言葉は正しい。でも、心がついていかない」

「会えるなら会いたい。行っちゃ駄目なのも分かる」

「これ、理屈で止められないやつだ……」

 

 総理の会見が終わっても、空港の混乱は収まらなかった。

 

 深夜の羽田空港、国際線出発ロビー。

 警察官と航空会社の職員が、必死に説得を続けている。

 

「妻に会いたいだけなんです!」

 中年男性が、職員の腕を掴んで泣き崩れた。

「一度でいい……一目だけでいいんだ! なぜ止めるんですか!」

 

「ネス湖周辺は極めて危険です。政府から渡航自粛要請が出ています」

 職員が、涙ぐみながらマニュアル通りに答える。

 

「危険でもいい!!」

 男性の絶叫が、ロビーに響き渡った。

 

 別の場所では、若者が警察官に食ってかかっていた。

「母さんがいるかもしれないんだ……! 俺、最後にひどいこと言ったんだよ! 謝らせてくれよ!」

 

 誰も、悪人ではない。

 だからこそ、辛い。

 警察官も、職員も、止めるのが正義だと分かっていても、彼らの悲痛な想いを前にして、心が折れそうになっていた。

 

 ***

 

 会見後。首相官邸の地下会議室。

 

「……総理。第一波は抑えました」

 三神編集長が、疲労で座り込む総理に向かって、静かに言った。

「ですが、これは長期戦です」

 

「第一波?」

 総理が顔を上げる。

 

「Cicadaの配信直後に、衝動的に動いた人々です」

 三神は、冷酷な未来を予測する。

「……次は、計画的にネス湖へ向かう人々が出ます」

 

「密航、偽装観光、第三国経由……」

 沖田室長が、考え得るルートを挙げていく。

 

「ええ」

 三神は頷く。

「さらに、“ネス湖へ行かせろ”という政治運動も起きます。

 宗教団体、遺族団体、陰謀論者、Cicada信奉者。

 ……止める側も、行きたい側も、どちらも本気です」

 

「どうすればいいの……」

 総理が、弱音を漏らす。

 

「国民に言い続けるしかありません」

 三神は、真っ直ぐに総理を見た。

「会いたい気持ちは否定しない。……だが、行かせない。

 この二つを、同時に続けるしかないんです」

 

「……最も難しい対応ですね」

 沖田が、深く息を吐く。

 

「はい」

 三神は、窓のない地下室の天井を見上げた。

「ですが、死者に会える湖を前にして。……簡単な対応など、ありませんよ」

 

 夜の羽田空港。

 

 出発ロビーのベンチに、一人の女性が座っていた。

 手には、亡くなった幼い娘の写真。

 

 彼女は、スマートフォンでロンドン行きの航空券の予約画面を開いたまま。……政府の声明の映像を、繰り返し見ていた。

 

『亡くなった方にもう一度会いたいという願いを、政府は否定しません』

『しかし、どうか、向かわないでください』

 

 女性の目から、涙がこぼれ落ちる。

 

 スマホの画面には、娘の笑顔の写真。

 その下には、「キャンセル」ボタンと、「購入」ボタン。

 

 彼女の指が、震える。

 

 彼女は、購入ボタンへ指を伸ばしかけた。

 だが。……止まった。

 

 泣きながら、スマホを胸に抱きしめ、彼女はベンチで声を殺して泣き続けた。

 

 一方で。

 別の場所では。

 

 誰かが、ロンドン行きの航空券の『購入完了』の画面を見つめ、静かに立ち上がっていた。

 

 日本政府は、声明を出した。

 行くな、と。

 それは罠だ、と。

 帰れなくなる、と。

 

 だが、人は理屈だけで生きているわけではない。

 会いたい死者がいる。謝りたい相手がいる。もう一度だけ、声を聞きたい人がいる。

 その願いを抱えた人間に、危険だから諦めろと言うことは、正しい。

 

 そして、あまりにも残酷だった。

 

 ネス湖へ向かうな。

 その言葉は、日本中に届いた。

 

 だが、すべての足を止めるには、あまりにも弱かった。

 

 




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