銀河皇帝のスペアに転生した元社畜、地球軌道上の要塞でネトゲ三昧の隠居生活を満喫する 〜足元では超大国が滅亡級の異星遺産を巡って暗躍中ですが、主人公(ぼく)の命は絶対安全なので特等席で傍観します〜   作:パラレル・ゲーマー

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第135話 ネス湖は、必要なものを映す

 灰色の霧が、スコットランドの冷たい大地を舐めるように這い回っている。

 ネス湖の外周に張られた強固な物理的封鎖線。その手前には、重武装のイギリス軍部隊が、一歩も中へ踏み込むことなく、ただ武器を下ろしたまま、凍りついたような緊張感の中で待機していた。

 

 防護柵の向こう側、濃い霧に包まれた湖畔の岸辺には、先行して突入し、完全に「囚われて」しまった調査隊の科学者たちと、彼らを救出に向かったはずの軍人たちの姿が、ぼんやりと影絵のように見えている。

 彼らは皆、そこにいるはずのない『誰か』と寄り添い、涙を流し、笑い、謝罪し、あるいはただ黙って肩を寄せ合っていた。

 

 その異様で、あまりにも静かで、残酷なほどに優しい地獄の入り口に。

 二人の男が、ゆっくりと足を踏み入れようとしていた。

 

 一人は、純白の祭服を纏った、深い青い瞳を持つ初老の男。EUヘルメス協会の高位導師、マルセル・ヴァイス。

 もう一人は、簡素な道着を着た、小柄で鋭い眼光を持つ白髭の老人。中国の仙人・太乙の直弟子にして国家指導部の一角、チャオ最長老。

 

 二人は、封鎖線のギリギリに立ち、霧の向こうの湖面を見つめた。

 遠くから、風に乗って、すすり泣くような、あるいは子守唄のような、微かな声の断片が聞こえてくる。

 

「……もう、呼んでいますね」

 導師マルセルが、銀の護符を握りしめたまま、静かに言った。

 

「うむ」

 チャオ最長老は、薄く笑ったが、その目は全く笑っていなかった。

「こちらの名を知らぬくせに。……魂の奥底の『名』を、直接呼んでおるわ。実に、不躾な湖じゃな」

 

 二人は、互いの顔を見合わせ、事前に定められたプロトコル(ルール)を最後に確認した。

 

「死者らしき存在が現れても、絶対に触れない」

 マルセルが、自分自身に言い聞かせるように復唱する。

「名前を呼ばれても、即答しない。湖面を長く見つめない。……そして、互いの状態を常に確認する」

 

「片方が呑まれかけたら、もう片方が引きずってでも戻す」

 チャオ最長老が、厳しく釘を刺す。「よいな」

 

「ええ」

 

「だが」

 チャオは、少しだけ目を細めた。

「……もし、相手が真に『何かを語る』存在であったなら?」

 

 マルセルは、静かに息を吐いた。

「その時は……罠に半歩だけ、入るしかありません。会話を成立させなければ、我々がここへ来た意味がありませんから」

 

 チャオは、鼻で嗤った。

「半歩で済めばよいがな。……こういう場所は、足首を掴まれたら最後、首まで持っていかれるぞ」

 

 二人は、ゆっくりと、同時に一歩、霧の中へと踏み出した。

 

 ***

 

 霧の境界を越えた瞬間。

 外の世界の音が、完全に遮断された。

 

 軍の車両のエンジン音も、兵士たちの無線の声も、上空を飛ぶヘリコプターのプロペラ音も、一切聞こえない。

 足元の泥は氷のように冷たく、水面はインクを流したように黒く、深く沈み込んでいる。時間感覚が曖昧になり、たった今自分が何分歩いたのか、それともまだ一歩も歩いていないのかが分からなくなる。

 

 遠くの岸辺に、囚われた者たちが見える。

 ヘイル博士が死んだ恋人の手を握っている。若い兵士が戦死した戦友に泣いてすがっている。ソナー技師が妹を抱きしめている。

 

 マルセルは、その光景を見て、顔をしかめた。

「これは……牢獄というより」

 彼は、宗教学者としての直感で呟く。「……礼拝堂に近いですね」

 

「死者を祀る廟(びょう)にも見えるのう」

 チャオ最長老が同意する。

 

 彼らは気づいていた。

 ここに囚われている者たちの顔には、恐怖だけではない。……圧倒的な『安堵』が浮かんでいるのだ。

 失われたものを再び手に入れた、永遠の安寧。

 だからこそ、ここはどんな戦場よりも危険なのだ。

 

 サクッ……。

 

 霧の向こうから、小さな足音が聞こえた。

 

 マルセルの身体が、ピクリと硬直した。

 

 霧が薄れ。

 数メートル先に、一人の【幼い少女】が立っていた。

 

 白いワンピースを着た、十歳にも満たない少女。

 マルセルの実家の古いアルバムの中でしか見たことのない、あの日、不治の病で亡くなった、彼の愛する妹の姿だった。

 

 少女は、にこやかに、とても嬉しそうに笑った。

 

「お兄ちゃん」

 

 マルセルの喉が、ヒュッと鳴った。

 彼が神学や秘儀の道へ入った理由。死の意味を理解し、彼女を失った喪失から逃れるために、彼はすべてを捨てて厳しい修行の道を選んだのだ。

 その根源が、今、生前の最も愛らしい笑顔のまま、目の前に立っている。

 

 チャオ最長老が、横から低く、鋭い声で警告した。

「……応えるな。名は縁じゃ」

 

 マルセルは、唇を噛み締め、一度強く目を閉じた。

 精神防壁を限界まで展開し、目の前の存在を「情報(幻影)」として処理しようと試みる。

 だが、少女はゆっくりと近づき、悲しそうな声で続けた。

 

「お兄ちゃんは、まだ、私を探しているの?」

 

 マルセルの心臓が、激しく早鐘を打った。

 彼は、応答しないつもりだった。無視してデータを取ればいい。

 だが、これを聞かずに帰れば、この湖の真の性質は何も分からない。

 

 マルセルは、目を開き、震える声で問うた。

 

「……あなたは、私の妹なのですか」

 

 少女は、少し首を傾げた。

 

「そう思うなら、そうよ」

 

「……私は、本物かどうかを問うています」

 マルセルは、学者の理性を必死に保ちながら尋ねた。

 

 少女は、ふふっと笑った。

 

「どちらでもいいの」

 彼女は、マルセルの目を真っ直ぐに見つめて言った。

「お兄ちゃんが、私と話していると思えば。……ここでは、私は『私』になる。

 でも、お兄ちゃんが“ただの幻”だと思えば、私はただの幻になる。

 ……ここは、そういう場所なの」

 

 マルセルは、沈黙した。

 

 同時に。

 チャオ最長老の側でも、霧が大きく揺らいだ。

 

 そこに、一人の【若い女性】が立っていた。

 美しい絹の服を着た、チャオの記憶の中にある、かつての妻の姿だった。

 彼が権力闘争に没頭し、家庭を顧みず、結果的に病と政争の影で死なせてしまった女性。

 

 彼女は、チャオの顔を見て、静かに、少しだけ呆れたように微笑んだ。

 

「……あなた、ずいぶん小さくなったのね」

 

 チャオは、その言葉に、鼻で短く嗤った。

「……死者にしては、口が悪いな」

 

「生きていた頃からでしょう?」

 妻は、事も無げに返した。

 

 チャオの顔が、わずかに固まる。

 生前と全く同じ口調。少し首を傾げる癖。そして、彼を真っ直ぐに見透かすような、あの目。

 

「また、偉そうな顔をしている」

 妻は、チャオの小さな体を上から下まで眺めた。

「でも、昔よりは……少しだけ、肩の荷が軽くなったようね」

 

「……余を、知ったような口を利くな」

 チャオは、厳しい声で突き放そうとした。

 

 だが、妻は優しく微笑んだ。

「知っているわ」

 彼女は、一歩だけ近づいた。

「本物でも、幻でも。……あなたがそう感じるなら、私はあなたを知っているのよ」

 

 ここで、チャオもまた、本物か偽物かという『科学的な真贋論争』では、この湖の罠からは逃れられないと悟った。

 彼らは、相手の心の中の「本物」を、そのまま実体として出力しているのだ。

 

 導師マルセルとチャオ最長老は、互いに目線を交わした。

 

「……これは、ただの幻覚ではありません」

 マルセルが、低く言う。

 

「かといって、単純な死者蘇生(アンデッド)でもない」

 チャオが応じる。

 

「……話すしか、ありませんね」

 

「罠に足を入れるぞ」

 

「覚悟の上です」

 

 二人の精神的超人は、自らの防壁を保ちながら、あえて死者との【対話】を選ぶという、最も危険な綱渡りに踏み切った。

 

 ***

 

 一方、アメリカのホワイトハウス地下、シチュエーションルーム。

 モニター越しに二人のバイタルデータと音声ログを監視していたセレスティアル・ウォッチのケンドール博士が、血相を変えて叫んだ。

 

「アルファ! 二人がプロトコルを逸脱しました!

 死者らしき存在と、明確な会話を開始しています!」

 

 ヘイズ大統領が、机を叩いて立ち上がる。

「止められないの!?」

 

「止めれば、それこそ何も分かりません!」

 ケンドールが、科学者としてのジレンマに苦しみながら答える。

「彼らは狂乱しているのではない。……意図的に、情報を引き出すために踏み込んでいます」

 

 ロンドンの会議室で、イギリス首相が青ざめた顔で通信機を握りしめていた。

「……正気か。彼らもまた、湖に呑まれるぞ」

 

『……ええ。正しい判断です』

 通信のノイズに混じって、公認魔女の静かな声が響いた。

『罠かどうかは、罠に触れてみなければ分からない。……彼らは、自分たちの精神を削ってでも、この湖のルールを解き明かそうとしているのです』

 

 ***

 

 ネス湖の霧の中。

 

 導師の妹は、マルセルをじっと見つめ、そして、とても明るく、にこやかな声で言った。

 

「……お兄ちゃんには、私はもう、必要ないみたいね」

 

 マルセルの心臓が、ドクンと大きく跳ねた。

 

「そんなことはありません」

 マルセルは、一歩だけ前へ出た。

「私は、あなたを失ったあの日から、ずっと……」

 

「だから、秘儀の道へ入ったんでしょう?」

 妹は、マルセルの心の最も深い部分を、優しく撫でるように言った。

「死を知りたかったから。魂がどこへ行くのか、知りたかったから。

 ……私に、もう一度会えるかもしれないと、心のどこかで思っていたから」

 

 マルセルは、否定できなかった。

 彼がどれほど高潔な神学を学ぼうとも、その出発点は、妹の理不尽な死を受け入れられなかった、ただの脆弱な少年の一つの「願い」だったのだ。

 

「でも。……今のお兄ちゃんは、もう私を探していないわ」

 妹は、嬉しそうに笑った。

「死者を取り戻すためではなく、今生きている人を迷わせないために、立派な『導師』になった。

 ……だから、私はもう、不要なの」

 

 その言葉は、マルセルの魂を、深い刃で抉るような優しさだった。

 

「……不要などと」

 マルセルの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

「言わないでください」

 

「必要だった時期はあったわ」

 妹は、彼に手を伸ばそうとはしなかった。

「でも、いつまでも必要ではいけないのよ」

 

 マルセルの精神防壁が、激しく揺らいだ。

 彼の中に、強烈な【ここにいたい】という感情が湧き上がってくる。

 この優しい言葉を、ずっと聞いていたい。彼女を抱きしめたい。

 

 同時に、チャオ最長老の前でも、同じ残酷な対話が行われていた。

 

 チャオの妻は、彼を静かに見つめ、全く同じ言葉を告げた。

 

「……あなたにも、私はもう必要ないわ」

 

「ほう」

 チャオは、強がって鼻で笑った。「勝手なことを言う」

 

「だって、あなたはもう、私の夫ではないもの」

 妻の一言が、チャオの心臓を鋭く突き刺した。

 

「……死者が、夫婦の縁を切るか」

 チャオの声が、微かに震える。

 

「切ったのは、あなたよ」

 妻は、責めるような口調ではなかった。ただ、事実を並べた。

「権力を選んだ時。……生き延びるために、私を思い出の奥へ押し込めた時。

 ……でも、それでよかったのよ」

 

「よかった、だと?」

 

「ええ」

 妻は、誇らしげに微笑んだ。

「あなたは夫ではなくなった。でも、別の何かになった。

 ……『仙人』になったのでしょう?

 なら、もう私を抱えて、地上の重いしがらみへ戻る必要はないわ」

 

 チャオは、黙った。

 怒りではない。恨みでもない。

 それは、彼が何十年も求め続けて、決して得られなかった『完全な許し』に近い言葉だった。

 

 チャオは、怒りや呪詛には誰よりも強い。

 だが、この絶対的な「許し」には、彼の仙人としての強固な精神の壁すらも、脆く崩れ去りそうになっていた。

 

「……どうして、こんなことをするのですか」

 マルセルが、涙を拭い、学者の理性を必死に繋ぎ止めて問うた。

「なぜ、死者を見せる。なぜ、人をこの湖に縛り付けるのです」

 

 妹は、少し考えるような素振りを見せた。

「……それが、私達の『役目』だから」

 

「役目?」

 チャオが、鋭く反応する。

 

「現世は、辛いから」

 妻が、チャオの顔を見て静かに言った。

「人は、失ったものを置いていけない。でも、置いていけないままでは、ずっと同じ場所に立ち止まってしまう。

 ……だから、私達は出てくるの」

 

「……慰めるためですか」

 マルセルが問う。

 

「慰めるだけなら、危ないわ」

 妹は、悲しそうに首を振った。

「慰めは、時々、人を永遠に眠らせてしまうから」

 

「本当は、起こすためよ」

 妻が、チャオに告げる。

「目を覚まさせるため。

 ……『もう進んでいい』と、言うため」

 

 その言葉に、マルセルとチャオは、この湖の【真のシステム】の片鱗を、完全に理解した。

 

「……お前たちは、本物なのか」

 チャオが、最後の確認のように問う。

 

 妻は、クスクスと笑った。

「それ、そんなに大事?」

 

「大事じゃろう。偽物なら、余を騙しておることになる」

 

「本物なら、あなたはここに残るの?」

 妻は、彼を真っ直ぐに見つめ返した。

「偽物なら、何も感じなかったことにするの?」

 

 チャオは、答えることができなかった。

 

 マルセルの妹が、優しく言う。

「……どちらでもいいのよ。

 本人がそう思えば、そうなるの。

 ここで大切なのは、私達が本物かどうかではないわ。

 ……あなた達が、私達と話して【何を手放すか】よ」

 

「……では、あそこにいる調査隊や軍人たちも」

 マルセルが、遠くの岸辺で囚われている人々を見る。

 

「まだ、手放せない人たち」

 妹は、彼らを憐れむように見た。

「まだ、言えなかった言葉を抱えている人たち。

 ……だから、私達が必要なの」

 

「でも、必要なものは……いつか、不要になるわ」

 妻が、静かに締めくくった。

 

 妹が、マルセルへ一歩近づく。

 マルセルは、反射的に一歩、後退した。

 

 妹は、寂しそうに、でも少し嬉しそうに笑った。

「……正しいわ。触れない方がいい」

 

「触れたら……囚われますか」

 マルセルが問う。

 

「話しているだけでも、少しずつ囚われるわ」

 妹は、湖の霧を見回して言った。

「ここは、優しい場所だから。

 ……優しい場所ほど、帰りにくいの」

 

 妻が、チャオへ向かって言う。

「あなた達も、これ以上長く話せば、ここに残りたくなる。

 ……だから、去りなさい」

 

 その言葉に。

 マルセルの口から、彼自身でも信じられないような本音が、ポロリとこぼれ落ちた。

 

「……私は、もっとここにいたい」

 

「余も、もう少しだけ、話していたいものじゃ」

 チャオも、自らの心の奥底の弱さを、隠さずに口にした。

 

 だが、死者二人は、同時に、きっぱりと首を横に振った。

 

「だめ」

 

「あなた達は、戻りなさい」

 

「……なぜです」

 マルセルが、すがるように問う。

 

「あなた達は、もう未練を捨てている」

 妹は、彼を真っ直ぐに見つめた。

「少なくとも、私達に縛られてはいない。……新しい道へ入っている」

 

「導師。……仙人」

 妻が、二人の『今の名前』を呼んだ。

「そういう名を持つ者は。……死者の膝で、眠ってはいけないのよ」

 

 霧が、ゆっくりと晴れ始めた。

 死者たちは、二人を湖の奥へと誘うことはなかった。逆に、彼らに背を向けたのだ。

 

「……兄さん。もう行って」

 妹が、背中越しに告げる。

 

「また、会えますか」

 マルセルが、震える声で問う。

 

「必要なら」

 

「……必要でなければ?」

 

「それは、幸せなことよ」

 

 チャオの妻も、彼に背を向けた。

「……あなたも、戻りなさい」

 

「……余が望んでもか」

 チャオが、苦笑して問う。

 

「望むからこそ、戻るのよ」

 妻は、振り返らずに言った。

「欲しいものを、欲しいままにしないのが。……あなたの『修行』でしょう?」

 

 チャオは、肩を震わせて笑った。

「……死んでも、口が達者じゃな」

 

「生きていた頃からよ」

 

 二人の精神的超人は、死者たちから目を離し、ゆっくりと、確かな足取りで後退した。

 死者たちは、水になって崩れることはなかった。泣くことも、苦しむこともなかった。

 ただ、静かに霧の中へと溶け込み、消えていった。

 

 ***

 

 封鎖線の外側。

 導師マルセルとチャオ最長老が、濃い霧の中から無事に姿を現した。

 

「戻った……!」

 待機していた観測班が、騒然となる。

 二人のバイタルは激しく乱れていたが、精神は崩壊していなかった。そして、二人の顔には、明確に『涙の跡』が残っていた。

 

 即座に、イギリス、アメリカ、EU、中国、日本の五極を繋いだ臨時共有回線が開かれた。

 

『戻ったか……!』

 ヘイズ大統領が、画面越しに安堵の声を漏らす。

 

『二人とも、無事なのか』

 イギリス首相が問う。

 

「無事、とは言い難いですね」

 導師マルセルが、深く息を吐きながら答える。

 

「だが、戻った」

 チャオ最長老が、静かに言い放つ。

 

『……何が、見えましたか』

 ケンドール博士が、核心を突く。

 

「死者です」

 マルセルが答える。「私には、亡くなった妹が現れました」

 

「余には、妻が出た」

 チャオが続く。

 

 会議室が静まり返った。

 

『……危険な存在でしたか』

 イギリス首相が、恐る恐る問う。

 

 マルセルは、少し考えてから答えた。

「危険です。……しかし、悪意あるものには思えませんでした」

 

「同感じゃ」

 チャオが同意する。「敵ではない。……だが、敵より厄介じゃ」

 

『どういうことです』

 サー・アリスターが問う。

 

「死者は、我々を引き留めませんでした」

 マルセルが、信じられない事実を口にする。

「むしろ、“あなた達には私達は必要ない”と、自ら帰るように促されました」

 

「残りたいと言っても、拒まれた」

 チャオも続く。

「我々はすでに未練を捨て、新たな道へ入っているから、死者は不要だと」

 

 イギリス政府は混乱した。

『……死者が、残ることを拒んだ? 調査隊や軍人たちとは、全く違う反応ではないか』

 国防大臣が声を荒げる。

 

 その時。

 日本側の回線から、それまで黙って聞いていた男が、静かに口を開いた。

 

「……なるほど。おぼろげながら、見えてきましたね」

 月刊ムーの三神編集長が、目を細めて言った。

 

「何がです?」

 矢崎総理が問う。

 

「彼らは、ただの死者ではありません」

 三神は、断言した。

「あるいは、死者であること自体が『本質』ではない」

 

「では、何なのです」

 沖田が問う。

 

「……【必要なものだけを見せる鏡】です」

 

 会議室が、完全に静まり返った。

 

「観光客は、ネッシーを望んでいた」

 三神は、これまでの事象を完璧に一つのロジックで繋ぎ合わせた。

「だからネス湖は、表層的な反応としてネッシーを見せた。

 ……しかし、調査隊はネッシーを信じていなかった。彼らにとって、ネッシーは『不要』だった。

 だから湖は、もっと深いところを見せた。彼らの心の奥底にある、未練、喪失、後悔。……彼らにとって最も『必要だった“死者”』を出したんです」

 

「では、導師と仙人には、死者は必要なかったと言うのか?」

 沖田が反論する。

 

「完全には違います。彼らの前にも死者は出た。つまり、彼らにも未練はあった」

 三神の目が、鋭く光る。

「ですが、彼らはその未練に『囚われる必要はもうなかった』。

 だから……死者自身が、“私達は不要だ”と言って、彼らを帰したんです」

 

 三神は、ホワイトボードに一つの仮説を書き殴った。

 

『仮説:ネス湖は精神的反応装置』

『見たいものを見せる。ただし娯楽ではなく、心の奥に必要なものを映す。』

『未練を乗り越えた者には、死者が引き留めず帰す。』

『未練に囚われた者は、湖畔に留まる。』

 

「……つまり、ネス湖は単純な罠ではない」

 三神は、結論を口にする。

「だが、安全でもない。

 むしろ……危険な【治療装置】のようなものかもしれない」

 

「治療装置?」

 総理が驚く。

 

「はい」

 三神は、冷酷な比喩で表現した。

「心の傷を治すために、傷口を直接、麻酔なしで無理やり見せつけてくる装置です」

 

 イギリス首相が、絶望的な声で問う。

『では、囚われた調査隊や軍人たちも。……自らの未練を手放せば、帰れるということか?』

 

「可能性はあります」

 マルセルが答える。

 

「だが、簡単ではない」

 チャオが冷たく現実を突きつける。

「死者に会ってしまった者に、“手放せ”と言うのは残酷じゃ」

 

「しかも、世界中の人々が、今まさにネス湖へ向かおうとしています」

 三神が、最悪のタイムリミットを提示する。

「この情報を今公開すれば、“心を癒す湖だ”と都合よく解釈され、余計に人が押し寄せます」

 

「つまり、まだ真実は言えない」

 矢崎総理が、苦渋の顔で言う。

 

「ええ。今はまだ、危険な湖として完全に封鎖するしかありません」

 三神が頷いた。

 

『……少し、見えましたね』

 通信の向こう側で、魔女が静かに言った。

『でも、まだ彼らに“名前”を与えてはいけません。

 人間は、名前をつけると、すぐに利用しようとしますから』

 

 ***

 

 ネス湖、夜。

 

 封鎖線の外のテントで、導師マルセルとチャオ最長老が、無言のまま休んでいた。

 彼らの顔には、深い疲労が刻まれている。

 

 導師が、ぽつりと言った。

「……もう一度、会いたいと。……そう、思ってしまいました」

 

「余もじゃ」

 チャオも、隠すことなく答えた。

 

「ですが、彼女は帰れと言いました」

 

「死者に追い返されるとはな。長く生きても、初めての経験じゃ」

 チャオが、自嘲するように笑う。

 

 導師は、小さく苦笑した。

 湖の向こうでは、まだ調査隊や軍人たちが、死者と寄り添っている。

 

「……彼らにも、いつか“帰れ”と、言ってもらえるのでしょうか」

 導師が、霧の奥を見つめて問う。

 

「言われるだけでは足りぬ」

 チャオは、冷たい風を感じながら言った。

「……自分で、戻ると決めねばな」

 

 霧の中で、死者たちの影が静かに揺れている。

 

 導師と仙人は、死者に会った。

 だが、死者は彼らを抱きしめなかった。湖の奥へ誘いもしなかった。

 ただ、にこやかに告げたのだ。

 『もう、私達は必要ない。あなた達は戻りなさい』、と。

 

 それは救いの言葉にも聞こえた。

 あるいは、別の形の拒絶にも聞こえた。

 

 だが少なくとも、ネス湖はただの罠ではなかった。

 ネッシーを望む者には、ネッシーを。

 死者を抱える者には、死者を。

 死者を手放した者には、別れを。

 

 その黒い湖は、人間が自分でも知らない「必要なもの」を、水面に映し出す。

 そして今、人類はようやく理解し始めた。

 

 ネス湖の恐怖は、死者が現れることではない。

 その死者が、自分にとって必要なのかどうかを……湖が容赦なく突きつけてくることなのだ。

 

 




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