銀河皇帝のスペアに転生した元社畜、地球軌道上の要塞でネトゲ三昧の隠居生活を満喫する 〜足元では超大国が滅亡級の異星遺産を巡って暗躍中ですが、主人公(ぼく)の命は絶対安全なので特等席で傍観します〜 作:パラレル・ゲーマー
灰色の霧が、スコットランドの冷たい大地を舐めるように這い回っている。
ネス湖の外周に張られた強固な物理的封鎖線。その手前には、重武装のイギリス軍部隊が、一歩も中へ踏み込むことなく、ただ武器を下ろしたまま、凍りついたような緊張感の中で待機していた。
防護柵の向こう側、濃い霧に包まれた湖畔の岸辺には、先行して突入し、完全に「囚われて」しまった調査隊の科学者たちと、彼らを救出に向かったはずの軍人たちの姿が、ぼんやりと影絵のように見えている。
彼らは皆、そこにいるはずのない『誰か』と寄り添い、涙を流し、笑い、謝罪し、あるいはただ黙って肩を寄せ合っていた。
その異様で、あまりにも静かで、残酷なほどに優しい地獄の入り口に。
二人の男が、ゆっくりと足を踏み入れようとしていた。
一人は、純白の祭服を纏った、深い青い瞳を持つ初老の男。EUヘルメス協会の高位導師、マルセル・ヴァイス。
もう一人は、簡素な道着を着た、小柄で鋭い眼光を持つ白髭の老人。中国の仙人・太乙の直弟子にして国家指導部の一角、チャオ最長老。
二人は、封鎖線のギリギリに立ち、霧の向こうの湖面を見つめた。
遠くから、風に乗って、すすり泣くような、あるいは子守唄のような、微かな声の断片が聞こえてくる。
「……もう、呼んでいますね」
導師マルセルが、銀の護符を握りしめたまま、静かに言った。
「うむ」
チャオ最長老は、薄く笑ったが、その目は全く笑っていなかった。
「こちらの名を知らぬくせに。……魂の奥底の『名』を、直接呼んでおるわ。実に、不躾な湖じゃな」
二人は、互いの顔を見合わせ、事前に定められたプロトコル(ルール)を最後に確認した。
「死者らしき存在が現れても、絶対に触れない」
マルセルが、自分自身に言い聞かせるように復唱する。
「名前を呼ばれても、即答しない。湖面を長く見つめない。……そして、互いの状態を常に確認する」
「片方が呑まれかけたら、もう片方が引きずってでも戻す」
チャオ最長老が、厳しく釘を刺す。「よいな」
「ええ」
「だが」
チャオは、少しだけ目を細めた。
「……もし、相手が真に『何かを語る』存在であったなら?」
マルセルは、静かに息を吐いた。
「その時は……罠に半歩だけ、入るしかありません。会話を成立させなければ、我々がここへ来た意味がありませんから」
チャオは、鼻で嗤った。
「半歩で済めばよいがな。……こういう場所は、足首を掴まれたら最後、首まで持っていかれるぞ」
二人は、ゆっくりと、同時に一歩、霧の中へと踏み出した。
***
霧の境界を越えた瞬間。
外の世界の音が、完全に遮断された。
軍の車両のエンジン音も、兵士たちの無線の声も、上空を飛ぶヘリコプターのプロペラ音も、一切聞こえない。
足元の泥は氷のように冷たく、水面はインクを流したように黒く、深く沈み込んでいる。時間感覚が曖昧になり、たった今自分が何分歩いたのか、それともまだ一歩も歩いていないのかが分からなくなる。
遠くの岸辺に、囚われた者たちが見える。
ヘイル博士が死んだ恋人の手を握っている。若い兵士が戦死した戦友に泣いてすがっている。ソナー技師が妹を抱きしめている。
マルセルは、その光景を見て、顔をしかめた。
「これは……牢獄というより」
彼は、宗教学者としての直感で呟く。「……礼拝堂に近いですね」
「死者を祀る廟(びょう)にも見えるのう」
チャオ最長老が同意する。
彼らは気づいていた。
ここに囚われている者たちの顔には、恐怖だけではない。……圧倒的な『安堵』が浮かんでいるのだ。
失われたものを再び手に入れた、永遠の安寧。
だからこそ、ここはどんな戦場よりも危険なのだ。
サクッ……。
霧の向こうから、小さな足音が聞こえた。
マルセルの身体が、ピクリと硬直した。
霧が薄れ。
数メートル先に、一人の【幼い少女】が立っていた。
白いワンピースを着た、十歳にも満たない少女。
マルセルの実家の古いアルバムの中でしか見たことのない、あの日、不治の病で亡くなった、彼の愛する妹の姿だった。
少女は、にこやかに、とても嬉しそうに笑った。
「お兄ちゃん」
マルセルの喉が、ヒュッと鳴った。
彼が神学や秘儀の道へ入った理由。死の意味を理解し、彼女を失った喪失から逃れるために、彼はすべてを捨てて厳しい修行の道を選んだのだ。
その根源が、今、生前の最も愛らしい笑顔のまま、目の前に立っている。
チャオ最長老が、横から低く、鋭い声で警告した。
「……応えるな。名は縁じゃ」
マルセルは、唇を噛み締め、一度強く目を閉じた。
精神防壁を限界まで展開し、目の前の存在を「情報(幻影)」として処理しようと試みる。
だが、少女はゆっくりと近づき、悲しそうな声で続けた。
「お兄ちゃんは、まだ、私を探しているの?」
マルセルの心臓が、激しく早鐘を打った。
彼は、応答しないつもりだった。無視してデータを取ればいい。
だが、これを聞かずに帰れば、この湖の真の性質は何も分からない。
マルセルは、目を開き、震える声で問うた。
「……あなたは、私の妹なのですか」
少女は、少し首を傾げた。
「そう思うなら、そうよ」
「……私は、本物かどうかを問うています」
マルセルは、学者の理性を必死に保ちながら尋ねた。
少女は、ふふっと笑った。
「どちらでもいいの」
彼女は、マルセルの目を真っ直ぐに見つめて言った。
「お兄ちゃんが、私と話していると思えば。……ここでは、私は『私』になる。
でも、お兄ちゃんが“ただの幻”だと思えば、私はただの幻になる。
……ここは、そういう場所なの」
マルセルは、沈黙した。
同時に。
チャオ最長老の側でも、霧が大きく揺らいだ。
そこに、一人の【若い女性】が立っていた。
美しい絹の服を着た、チャオの記憶の中にある、かつての妻の姿だった。
彼が権力闘争に没頭し、家庭を顧みず、結果的に病と政争の影で死なせてしまった女性。
彼女は、チャオの顔を見て、静かに、少しだけ呆れたように微笑んだ。
「……あなた、ずいぶん小さくなったのね」
チャオは、その言葉に、鼻で短く嗤った。
「……死者にしては、口が悪いな」
「生きていた頃からでしょう?」
妻は、事も無げに返した。
チャオの顔が、わずかに固まる。
生前と全く同じ口調。少し首を傾げる癖。そして、彼を真っ直ぐに見透かすような、あの目。
「また、偉そうな顔をしている」
妻は、チャオの小さな体を上から下まで眺めた。
「でも、昔よりは……少しだけ、肩の荷が軽くなったようね」
「……余を、知ったような口を利くな」
チャオは、厳しい声で突き放そうとした。
だが、妻は優しく微笑んだ。
「知っているわ」
彼女は、一歩だけ近づいた。
「本物でも、幻でも。……あなたがそう感じるなら、私はあなたを知っているのよ」
ここで、チャオもまた、本物か偽物かという『科学的な真贋論争』では、この湖の罠からは逃れられないと悟った。
彼らは、相手の心の中の「本物」を、そのまま実体として出力しているのだ。
導師マルセルとチャオ最長老は、互いに目線を交わした。
「……これは、ただの幻覚ではありません」
マルセルが、低く言う。
「かといって、単純な死者蘇生(アンデッド)でもない」
チャオが応じる。
「……話すしか、ありませんね」
「罠に足を入れるぞ」
「覚悟の上です」
二人の精神的超人は、自らの防壁を保ちながら、あえて死者との【対話】を選ぶという、最も危険な綱渡りに踏み切った。
***
一方、アメリカのホワイトハウス地下、シチュエーションルーム。
モニター越しに二人のバイタルデータと音声ログを監視していたセレスティアル・ウォッチのケンドール博士が、血相を変えて叫んだ。
「アルファ! 二人がプロトコルを逸脱しました!
死者らしき存在と、明確な会話を開始しています!」
ヘイズ大統領が、机を叩いて立ち上がる。
「止められないの!?」
「止めれば、それこそ何も分かりません!」
ケンドールが、科学者としてのジレンマに苦しみながら答える。
「彼らは狂乱しているのではない。……意図的に、情報を引き出すために踏み込んでいます」
ロンドンの会議室で、イギリス首相が青ざめた顔で通信機を握りしめていた。
「……正気か。彼らもまた、湖に呑まれるぞ」
『……ええ。正しい判断です』
通信のノイズに混じって、公認魔女の静かな声が響いた。
『罠かどうかは、罠に触れてみなければ分からない。……彼らは、自分たちの精神を削ってでも、この湖のルールを解き明かそうとしているのです』
***
ネス湖の霧の中。
導師の妹は、マルセルをじっと見つめ、そして、とても明るく、にこやかな声で言った。
「……お兄ちゃんには、私はもう、必要ないみたいね」
マルセルの心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
「そんなことはありません」
マルセルは、一歩だけ前へ出た。
「私は、あなたを失ったあの日から、ずっと……」
「だから、秘儀の道へ入ったんでしょう?」
妹は、マルセルの心の最も深い部分を、優しく撫でるように言った。
「死を知りたかったから。魂がどこへ行くのか、知りたかったから。
……私に、もう一度会えるかもしれないと、心のどこかで思っていたから」
マルセルは、否定できなかった。
彼がどれほど高潔な神学を学ぼうとも、その出発点は、妹の理不尽な死を受け入れられなかった、ただの脆弱な少年の一つの「願い」だったのだ。
「でも。……今のお兄ちゃんは、もう私を探していないわ」
妹は、嬉しそうに笑った。
「死者を取り戻すためではなく、今生きている人を迷わせないために、立派な『導師』になった。
……だから、私はもう、不要なの」
その言葉は、マルセルの魂を、深い刃で抉るような優しさだった。
「……不要などと」
マルセルの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「言わないでください」
「必要だった時期はあったわ」
妹は、彼に手を伸ばそうとはしなかった。
「でも、いつまでも必要ではいけないのよ」
マルセルの精神防壁が、激しく揺らいだ。
彼の中に、強烈な【ここにいたい】という感情が湧き上がってくる。
この優しい言葉を、ずっと聞いていたい。彼女を抱きしめたい。
同時に、チャオ最長老の前でも、同じ残酷な対話が行われていた。
チャオの妻は、彼を静かに見つめ、全く同じ言葉を告げた。
「……あなたにも、私はもう必要ないわ」
「ほう」
チャオは、強がって鼻で笑った。「勝手なことを言う」
「だって、あなたはもう、私の夫ではないもの」
妻の一言が、チャオの心臓を鋭く突き刺した。
「……死者が、夫婦の縁を切るか」
チャオの声が、微かに震える。
「切ったのは、あなたよ」
妻は、責めるような口調ではなかった。ただ、事実を並べた。
「権力を選んだ時。……生き延びるために、私を思い出の奥へ押し込めた時。
……でも、それでよかったのよ」
「よかった、だと?」
「ええ」
妻は、誇らしげに微笑んだ。
「あなたは夫ではなくなった。でも、別の何かになった。
……『仙人』になったのでしょう?
なら、もう私を抱えて、地上の重いしがらみへ戻る必要はないわ」
チャオは、黙った。
怒りではない。恨みでもない。
それは、彼が何十年も求め続けて、決して得られなかった『完全な許し』に近い言葉だった。
チャオは、怒りや呪詛には誰よりも強い。
だが、この絶対的な「許し」には、彼の仙人としての強固な精神の壁すらも、脆く崩れ去りそうになっていた。
「……どうして、こんなことをするのですか」
マルセルが、涙を拭い、学者の理性を必死に繋ぎ止めて問うた。
「なぜ、死者を見せる。なぜ、人をこの湖に縛り付けるのです」
妹は、少し考えるような素振りを見せた。
「……それが、私達の『役目』だから」
「役目?」
チャオが、鋭く反応する。
「現世は、辛いから」
妻が、チャオの顔を見て静かに言った。
「人は、失ったものを置いていけない。でも、置いていけないままでは、ずっと同じ場所に立ち止まってしまう。
……だから、私達は出てくるの」
「……慰めるためですか」
マルセルが問う。
「慰めるだけなら、危ないわ」
妹は、悲しそうに首を振った。
「慰めは、時々、人を永遠に眠らせてしまうから」
「本当は、起こすためよ」
妻が、チャオに告げる。
「目を覚まさせるため。
……『もう進んでいい』と、言うため」
その言葉に、マルセルとチャオは、この湖の【真のシステム】の片鱗を、完全に理解した。
「……お前たちは、本物なのか」
チャオが、最後の確認のように問う。
妻は、クスクスと笑った。
「それ、そんなに大事?」
「大事じゃろう。偽物なら、余を騙しておることになる」
「本物なら、あなたはここに残るの?」
妻は、彼を真っ直ぐに見つめ返した。
「偽物なら、何も感じなかったことにするの?」
チャオは、答えることができなかった。
マルセルの妹が、優しく言う。
「……どちらでもいいのよ。
本人がそう思えば、そうなるの。
ここで大切なのは、私達が本物かどうかではないわ。
……あなた達が、私達と話して【何を手放すか】よ」
「……では、あそこにいる調査隊や軍人たちも」
マルセルが、遠くの岸辺で囚われている人々を見る。
「まだ、手放せない人たち」
妹は、彼らを憐れむように見た。
「まだ、言えなかった言葉を抱えている人たち。
……だから、私達が必要なの」
「でも、必要なものは……いつか、不要になるわ」
妻が、静かに締めくくった。
妹が、マルセルへ一歩近づく。
マルセルは、反射的に一歩、後退した。
妹は、寂しそうに、でも少し嬉しそうに笑った。
「……正しいわ。触れない方がいい」
「触れたら……囚われますか」
マルセルが問う。
「話しているだけでも、少しずつ囚われるわ」
妹は、湖の霧を見回して言った。
「ここは、優しい場所だから。
……優しい場所ほど、帰りにくいの」
妻が、チャオへ向かって言う。
「あなた達も、これ以上長く話せば、ここに残りたくなる。
……だから、去りなさい」
その言葉に。
マルセルの口から、彼自身でも信じられないような本音が、ポロリとこぼれ落ちた。
「……私は、もっとここにいたい」
「余も、もう少しだけ、話していたいものじゃ」
チャオも、自らの心の奥底の弱さを、隠さずに口にした。
だが、死者二人は、同時に、きっぱりと首を横に振った。
「だめ」
「あなた達は、戻りなさい」
「……なぜです」
マルセルが、すがるように問う。
「あなた達は、もう未練を捨てている」
妹は、彼を真っ直ぐに見つめた。
「少なくとも、私達に縛られてはいない。……新しい道へ入っている」
「導師。……仙人」
妻が、二人の『今の名前』を呼んだ。
「そういう名を持つ者は。……死者の膝で、眠ってはいけないのよ」
霧が、ゆっくりと晴れ始めた。
死者たちは、二人を湖の奥へと誘うことはなかった。逆に、彼らに背を向けたのだ。
「……兄さん。もう行って」
妹が、背中越しに告げる。
「また、会えますか」
マルセルが、震える声で問う。
「必要なら」
「……必要でなければ?」
「それは、幸せなことよ」
チャオの妻も、彼に背を向けた。
「……あなたも、戻りなさい」
「……余が望んでもか」
チャオが、苦笑して問う。
「望むからこそ、戻るのよ」
妻は、振り返らずに言った。
「欲しいものを、欲しいままにしないのが。……あなたの『修行』でしょう?」
チャオは、肩を震わせて笑った。
「……死んでも、口が達者じゃな」
「生きていた頃からよ」
二人の精神的超人は、死者たちから目を離し、ゆっくりと、確かな足取りで後退した。
死者たちは、水になって崩れることはなかった。泣くことも、苦しむこともなかった。
ただ、静かに霧の中へと溶け込み、消えていった。
***
封鎖線の外側。
導師マルセルとチャオ最長老が、濃い霧の中から無事に姿を現した。
「戻った……!」
待機していた観測班が、騒然となる。
二人のバイタルは激しく乱れていたが、精神は崩壊していなかった。そして、二人の顔には、明確に『涙の跡』が残っていた。
即座に、イギリス、アメリカ、EU、中国、日本の五極を繋いだ臨時共有回線が開かれた。
『戻ったか……!』
ヘイズ大統領が、画面越しに安堵の声を漏らす。
『二人とも、無事なのか』
イギリス首相が問う。
「無事、とは言い難いですね」
導師マルセルが、深く息を吐きながら答える。
「だが、戻った」
チャオ最長老が、静かに言い放つ。
『……何が、見えましたか』
ケンドール博士が、核心を突く。
「死者です」
マルセルが答える。「私には、亡くなった妹が現れました」
「余には、妻が出た」
チャオが続く。
会議室が静まり返った。
『……危険な存在でしたか』
イギリス首相が、恐る恐る問う。
マルセルは、少し考えてから答えた。
「危険です。……しかし、悪意あるものには思えませんでした」
「同感じゃ」
チャオが同意する。「敵ではない。……だが、敵より厄介じゃ」
『どういうことです』
サー・アリスターが問う。
「死者は、我々を引き留めませんでした」
マルセルが、信じられない事実を口にする。
「むしろ、“あなた達には私達は必要ない”と、自ら帰るように促されました」
「残りたいと言っても、拒まれた」
チャオも続く。
「我々はすでに未練を捨て、新たな道へ入っているから、死者は不要だと」
イギリス政府は混乱した。
『……死者が、残ることを拒んだ? 調査隊や軍人たちとは、全く違う反応ではないか』
国防大臣が声を荒げる。
その時。
日本側の回線から、それまで黙って聞いていた男が、静かに口を開いた。
「……なるほど。おぼろげながら、見えてきましたね」
月刊ムーの三神編集長が、目を細めて言った。
「何がです?」
矢崎総理が問う。
「彼らは、ただの死者ではありません」
三神は、断言した。
「あるいは、死者であること自体が『本質』ではない」
「では、何なのです」
沖田が問う。
「……【必要なものだけを見せる鏡】です」
会議室が、完全に静まり返った。
「観光客は、ネッシーを望んでいた」
三神は、これまでの事象を完璧に一つのロジックで繋ぎ合わせた。
「だからネス湖は、表層的な反応としてネッシーを見せた。
……しかし、調査隊はネッシーを信じていなかった。彼らにとって、ネッシーは『不要』だった。
だから湖は、もっと深いところを見せた。彼らの心の奥底にある、未練、喪失、後悔。……彼らにとって最も『必要だった“死者”』を出したんです」
「では、導師と仙人には、死者は必要なかったと言うのか?」
沖田が反論する。
「完全には違います。彼らの前にも死者は出た。つまり、彼らにも未練はあった」
三神の目が、鋭く光る。
「ですが、彼らはその未練に『囚われる必要はもうなかった』。
だから……死者自身が、“私達は不要だ”と言って、彼らを帰したんです」
三神は、ホワイトボードに一つの仮説を書き殴った。
『仮説:ネス湖は精神的反応装置』
『見たいものを見せる。ただし娯楽ではなく、心の奥に必要なものを映す。』
『未練を乗り越えた者には、死者が引き留めず帰す。』
『未練に囚われた者は、湖畔に留まる。』
「……つまり、ネス湖は単純な罠ではない」
三神は、結論を口にする。
「だが、安全でもない。
むしろ……危険な【治療装置】のようなものかもしれない」
「治療装置?」
総理が驚く。
「はい」
三神は、冷酷な比喩で表現した。
「心の傷を治すために、傷口を直接、麻酔なしで無理やり見せつけてくる装置です」
イギリス首相が、絶望的な声で問う。
『では、囚われた調査隊や軍人たちも。……自らの未練を手放せば、帰れるということか?』
「可能性はあります」
マルセルが答える。
「だが、簡単ではない」
チャオが冷たく現実を突きつける。
「死者に会ってしまった者に、“手放せ”と言うのは残酷じゃ」
「しかも、世界中の人々が、今まさにネス湖へ向かおうとしています」
三神が、最悪のタイムリミットを提示する。
「この情報を今公開すれば、“心を癒す湖だ”と都合よく解釈され、余計に人が押し寄せます」
「つまり、まだ真実は言えない」
矢崎総理が、苦渋の顔で言う。
「ええ。今はまだ、危険な湖として完全に封鎖するしかありません」
三神が頷いた。
『……少し、見えましたね』
通信の向こう側で、魔女が静かに言った。
『でも、まだ彼らに“名前”を与えてはいけません。
人間は、名前をつけると、すぐに利用しようとしますから』
***
ネス湖、夜。
封鎖線の外のテントで、導師マルセルとチャオ最長老が、無言のまま休んでいた。
彼らの顔には、深い疲労が刻まれている。
導師が、ぽつりと言った。
「……もう一度、会いたいと。……そう、思ってしまいました」
「余もじゃ」
チャオも、隠すことなく答えた。
「ですが、彼女は帰れと言いました」
「死者に追い返されるとはな。長く生きても、初めての経験じゃ」
チャオが、自嘲するように笑う。
導師は、小さく苦笑した。
湖の向こうでは、まだ調査隊や軍人たちが、死者と寄り添っている。
「……彼らにも、いつか“帰れ”と、言ってもらえるのでしょうか」
導師が、霧の奥を見つめて問う。
「言われるだけでは足りぬ」
チャオは、冷たい風を感じながら言った。
「……自分で、戻ると決めねばな」
霧の中で、死者たちの影が静かに揺れている。
導師と仙人は、死者に会った。
だが、死者は彼らを抱きしめなかった。湖の奥へ誘いもしなかった。
ただ、にこやかに告げたのだ。
『もう、私達は必要ない。あなた達は戻りなさい』、と。
それは救いの言葉にも聞こえた。
あるいは、別の形の拒絶にも聞こえた。
だが少なくとも、ネス湖はただの罠ではなかった。
ネッシーを望む者には、ネッシーを。
死者を抱える者には、死者を。
死者を手放した者には、別れを。
その黒い湖は、人間が自分でも知らない「必要なもの」を、水面に映し出す。
そして今、人類はようやく理解し始めた。
ネス湖の恐怖は、死者が現れることではない。
その死者が、自分にとって必要なのかどうかを……湖が容赦なく突きつけてくることなのだ。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!