銀河皇帝のスペアに転生した元社畜、地球軌道上の要塞でネトゲ三昧の隠居生活を満喫する 〜足元では超大国が滅亡級の異星遺産を巡って暗躍中ですが、主人公(ぼく)の命は絶対安全なので特等席で傍観します〜   作:パラレル・ゲーマー

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第137話 サイト・アオ、ネス湖を観測する

 果てしなく広がる虚数空間に浮かぶ絶対安全圏、サイト・アオ。

 その中枢にある広大なラウンジでは、柔らかな間接照明と静かなジャズの音色が、くつろぎの空間を演出していた。だが、壁面の大半を占める巨大なメインスクリーンに映し出されている光景は、その優雅な雰囲気とは対極にある、生々しい人間の情念とパニックのるつぼだった。

 

 スクリーンはいくつものウィンドウに分割されている。

 一つは、スコットランドの荒涼とした空の下、イギリス軍が何重にも築き上げた重々しい封鎖線の映像。

 一つは、漆黒の水面を這う深い霧の奥で、泥にまみれながら目に見えない『何か』と寄り添い、語り続ける人々のドローン映像。

 一つは、血走った目で封鎖線を突破しようと警察に掴みかかる、世界中から押し寄せた群衆たちの姿。

 そして残りのウィンドウには、地球上のインターネットを駆け巡る文字情報の濁流が、滝のような速度でスクロールし続けていた。『死者と別れる湖』『七日間の湖』『魂の手術台』――人々が勝手に名付けたおどろおどろしいトレンドワードが、赤や黒のフォントで乱舞している。

 

「というわけで、ネス湖が完全に目覚めちゃったねー」

 

 上質なレザーソファに深く沈み込み、キャラメル味のポップコーンを放り込みながら、銀髪の少年――ティアナが、まるで深夜のバラエティ番組でも見るような、ひどく間の抜けた声を出した。

「まあ、大体僕の想定通りの動き方をしてるわけだけど」

 

 その言葉に、隣のソファで硬い表情をしてスクリーンを睨みつけていたエミリーが、勢いよく顔を向けた。

「想定通りなんですか!?」

 

「まあねー。あそこは昔から『何かある』って分かってた場所だし。最近の地球のアーティファクト密度の上昇とか、人類全体の喪失感の蓄積とかを計算に入れたら、そろそろ起動(アクティブ)になってもおかしくない頃合いだったんだよね」

 ティアナは、ポップコーンの欠片を指先で弾きながらケロリと言った。

 

「起きるかもって分かっていたなら……どうして事前に止めてくださらなかったんですか!」

 エミリーは、眉を吊り上げて抗議した。地球の人間たちが、最愛の死者の幻影に囚われてどれほど心をすり減らしているか。元地球人である彼女には、それが痛いほど分かるからだ。

 

 そんなエミリーの必死な訴えに答えたのは、ワイングラスの中で深紅の液体を揺らしていたKAMIだった。彼女は、ゆったりと長い足を組み替えながら、面白そうに目を細めている。

 

「えー? 止めたら、私たちが『観測』できないじゃない。もったいないわ」

 KAMIは、最高級のヴィンテージワインを味わうように、スクリーンの中の群衆の悲鳴を肴にしていた。

 

「そういうところですよ、あなたたちは!」

 エミリーは、額を押さえて深いため息をついた。上位存在の『観察者としての傲慢さ』には、いつまで経っても慣れることができない。

 

「まあまあ、エミリーちゃん。落ち着いて」

 ティアナが、なだめるように手をひらひらと振った。

「それに、止めるも何も、ネス湖は別に人類を滅ぼすための悪意ある侵略兵器じゃないんだから。……あれはただの、精神主義文明が置き忘れた『お寺(修行用アーティファクト)』みたいなものなんだよ」

 

「……お寺、ですか?」

 エミリーは、その場違いな単語に怪訝な顔をした。「つまり、ネス湖はトラウマや死者と対話させるアーティファクトだという理解で合っていますか?」

 

「そうね」

 KAMIが、ワイングラスをサイドテーブルに置き、解説を引き継ぐ。

「正確に言えば、はるか昔に地球を訪れた『精神主義』に偏重した異星文明が設置していった、自己鍛錬用の修行装置よ」

 

 ラウンジの円卓の上で、香箱を組んで丸くなっていた賢者・猫が、黄金色の片目だけをうっすらと開けて、低い喉鳴らしの音を立てた。

「うむ。我々のような物質や機械、あるいはエネルギーを至上とする文明とは違い、精神主義文明というものは、肉体よりも魂、精神、認識、そして自己境界の確立や未練の処理を絶対視する傾向にある。

 あのネス湖の装置は、その手の文明にはよく見られる代物じゃな。己の内面の一番深いところにある『弱さ』……すなわち死者への未練や後悔、喪失感を、外界の物理空間へ強制的に投影し、それと対話し、断ち切り、受け入れさせることで、精神的な再誕(リボーン)を促すためのシステムじゃ」

 

「まあ、彼らにとっては、ちょっと座禅を組みに行くための地元の道場みたいな感覚だったんでしょうね」

 KAMIが肩をすくめる。

 

 ラウンジの片隅で、端末のメンテナンスをしていた工藤が、工具を持ったまま呆れたように口を挟んだ。

「……寺や道場にしては、凶悪すぎませんかね? 一歩間違えば、一生過去の幻影にすがりついて廃人になる仕様ですよ、あれ」

 

「精神主義文明の寺なんて、だいたい凶悪に決まってるじゃない。心を極限まで追い込むのが彼らのセオリーなんだから」

 KAMIが事も無げに言う。

 

「それに加えて」

 ティアナが、スクリーンの端に映る、泣き叫ぶ人々の顔を指差した。

「今の地球人類は、あの装置の『取扱説明書』を一切読まずに、いきなり電源の入った機械の中にノーガードで突っ込んだ状態だからねー。

 使い方も、終わらせ方も、適正な容量も知らないまま、魂の傷口を全開にして放り込まれたら……そりゃあ、ああやって阿鼻叫喚の地獄絵図になるのは当たり前だよ」

 

 エミリーは、背筋が寒くなるのを感じた。

「その異星人は……どうしてそんな危険なものを、地球に放置していったんですか? 回収忘れですか?」

 

「恐らくのう」

 賢者・猫が、尻尾をパタンと振る。

「宇宙を旅する種族にはよくあることじゃ。少し立ち寄って道場を開いたが、去り際に片付けるのを忘れたのか。……あるいは、これから発展していく地球人類のために、良かれと思って“恩寵”として残していったのか。今となっては真意は分からぬがな」

 

「回収忘れの可能性の方が高いわね」

 KAMIが冷ややかに推測する。

「あの手の精神偏重文明って、形ある物質の管理がめちゃくちゃ雑なことが多いのよ。『必要な者がいつか自ずと導かれて使うでしょう』とか、適当でポエミーな言い訳をして、危険物をその辺に置きっぱなしにして帰ったりするから、タチが悪いのよね」

 

「でも、人類のために残した可能性もゼロじゃないと思うよ?」

 ティアナが、擁護するようでもなく淡々と言う。

「地球の人類って、寿命が短くて、おまけに感情が豊かすぎるから。『死』と『喪失』の概念が、他の星の種族に比べて異常に重くなる文明に育つってことは、昔から見え見えだったし。彼らなりの親切心だったのかもね」

 

「それなら、せめて使い方を書いたマニュアルくらい一緒に残してくださいよ!」

 エミリーが、地球側の苦労を代弁して悲痛な声を上げる。

 

「精神主義文明はね、『説明書は、己の心で読め』って言うのよ」

 KAMIが、真顔で答えた。

 

「……工場で機械を扱う人間からすると、一番ぶん殴りたくなるタイプの取扱説明書ですね、それ」

 工藤が、心底ウンザリした顔で工具を机に置いた。

 

 エミリーは、手元の端末で日本の出雲におけるデータと、今回のネス湖の現象を比較し始めた。

「……一つ質問です。死者と話ができる、死者が実体化するという点では、日本の【魂の庭(出雲)】に似ている気がするのですが。これは、出雲のアーティファクトの劣化品みたいなものですか?」

 

 工藤の素朴な疑問に、KAMIは少しだけ考える素振りを見せた。

「そうね。純粋な『魂のシステム』の機能として比較するなら、完全な劣化品ね」

 

「劣化品なんですか、あれで?」

 エミリーが驚いて聞き返す。世界中をこれだけ狂乱させておいて、まだ下位互換なのかと。

 

「ええ。出雲は、魂そのものの保存、接続、そして独立した庭園化のレベルが桁違いに高いわ。本人の魂のオリジナルに近い情報をそのまま扱えるし、死者側にも強固な存在性(自意識)が維持されている。あれは上位の魂系アーティファクトとして、生者と死者の『関係性』を永遠に保存・接続する方向へ特化しているのよ」

 KAMIは、空中に二つのアーティファクトの概念図を描くように指を動かした。

「対して、ネス湖は違う。

 あそこに現れる死者が、魂のオリジナル本人であろうが、単なる記憶のコピーであろうが、そんなことは装置にとってはどうでもいいの。ネス湖は、ただ『今の使用者にとって、最も対話が必要な“死者像”』を、心の中から引っ張り出して実体化させているだけ。

 だから、魂の保存機能としては完全に劣化よ。本物かどうかの保証なんて何もないんだから」

 

『じゃが、こと“精神修行装置”という本来の用途においては、極めて出来が良いと言わざるを得んな』

 賢者・猫が、商人としての評価を下すように髭を揺らした。

『使用者が本物だと思い込めば、本物として振る舞う。ただの幻だと思えば、幻として振る舞う。その“曖昧さ”こそが、生者が自らの心の奥底にある未練を直視し、それを処理(手放す)ためには、最も都合の良いキャンバスになるのじゃ。

 出雲が“死者と一緒に生きるための庭”なら、ネス湖は“死者を置き去りにして前に進むための手術台”じゃな』

 

「そういうこと」

 ティアナが、パンッと軽く手を叩いた。

「ネットや政府の連中は『あれは本物か、偽物か』って議論してるけど、その問いを立てている時点で、もう完全に湖の術中にハマってるんだよねー。

 大事なのは、そこで誰が出てきたかじゃない。そこで何を話して、自分が何を『手放す(諦める)』か、なんだから」

 

 エミリーは、メインスクリーンに表示されているイギリス政府の集計データ――帰還者たちのタイミングの偏りに目を向けた。

 

「……ティアナさん。帰還者のデータを見ていたんですが、彼らが湖から自力で戻ってきているタイミングが、おおむね『一週間前後』に集中しているのは、偶然ですか?」

 

「偶然じゃないわよ」

 KAMIが、ワインを飲み干して答える。

「あの装置、大体一週間(セブンデイズ)単位で精神処理のプロセスを区切るようにプログラムされているの。

 精神主義文明の連中って、なぜか『七日』とか『十日』とか、そういう神秘学的な周期で修行を回すのが大好きなのよね。だから、ネス湖のシステムもそういうタイマー設定になってるってわけ」

 

「まあ、もともと地球人類の脳の構造向けに最適化されてるわけじゃないから、個人差はかなり大きいけどね」

 ティアナが補足する。

「処理の早い人は数日で終わるし、標準的な未練なら一週間。トラウマが深くて重い人は、一ヶ月くらいかかることもある。……それでも、ちゃんと段階を踏めば、システム側から『はい、治療終了。もう帰っていいよ』って促されるようになってるの」

 

「では、一ヶ月以上経っても、まだ湖畔に残っている人たちは……?」

 エミリーの問いに、ラウンジの空気が少しだけ冷たくなった。

 

「未練が深すぎて、死者から強制的に引き剥がされるのを拒絶しているか。……あるいは、死者ではなく『過去の自分自身』や『失った可能性』と延々と向き合い続けて、迷路から抜け出せなくなっているか」

 KAMIが、無慈悲に分析する。

「まあ、一ヶ月もあれば、大半の人間はケリをつけて戻ってくるわよ。それでも戻れないやつは……システムに囚われているんじゃなくて、ただ単に『本人が、現実に帰りたくないだけ』ね」

 

「帰還とは、湖から物理的に外へ出ることではない」

 賢者・猫が、黄金の目でスクリーンを見つめた。

「生者が、自分の足で“現実へ戻る”と、明確に決意することじゃ。……それができぬ者は、肉体が朽ちぬ限り、永遠にあの泥の上に座り続けることになろうな」

 

「……言い方は綺麗ですけど、事実はめちゃくちゃ怖いですね」

 工藤が、腕を摩りながら身震いした。

 

「でも、一週間も、人によっては一ヶ月も、飲まず食わず、眠らずに寒空の下にいて、なぜ肉体が無事なんですか?」

 エミリーは、医学的な観点からの異常性に疑問を呈した。「それが一番不可解です。死なないからこそ、人々は『安全だ』と誤解して殺到してしまうのに」

 

「あそこ、結界の中に入っている間は、肉体の時間がほぼ止まる(ステイシス状態になる)からねー」

 ティアナが、楽しそうに種明かしをする。

「餓死、凍死、脱水症状、睡眠不足による脳機能障害、免疫低下による感染症、細胞の老化。……そういう外界の物理的な『死因』を、だいたい無効化するようにできてるんだよ。

 外傷を負っても、致命傷になる前にオートで修復される。……使用者が、安心して自分の『心の地獄』へ深く潜っていけるように、環境が完璧に整備されてるわけ」

 

 エミリーは、顔を引きつらせた。

「……安心して、心の地獄に潜れる仕様……?」

 

「そう。良心的でしょ?」

 KAMIが、ウインクをして笑う。

 

「……私の知っている『良心』という言葉の定義を、根底から見直したくなりました」

 エミリーは、深い絶望を込めてため息をついた。

 

「本来は、極めて安全な場所なのじゃよ」

 賢者・猫が、擁護するように言う。

「肉体を保護し、外界のノイズを完全に遮断し、純粋な精神修行にのみ集中させる。見事な設計じゃ。

 ……ただし、生きた人間の精神の傷を麻酔なしで無理やり押し広げ、素手で中身をいじくり回すこと自体が、死ぬほど危険で痛みを伴う行為なのじゃがな」

 

「身体は絶対に死なせないように守るけど、心は容赦なくズタズタに切り開くんですね」

 工藤が、完全にドン引きした顔でまとめた。

 

「そうそう。だから、地球のあの月刊オカルト雑誌の編集長が言ってた『心の手術台』っていう比喩は、大正解なんだよねー」

 ティアナが、三神の洞察力を褒めるように笑った。

 

 その時。

 エミリーが、少しだけ考え込むように口元に手を当て、真面目な顔で提案した。

 

「……でも、それなら。

 ネス湖は、使い方さえ間違えなければ……重度のPTSD治療なんかに、劇的に使えるのではないでしょうか?」

 

 エミリーの言葉に、ラウンジの視線が集まる。

 

「戦争から帰還して夜も眠れない兵士や、理不尽な事故の遺族、凶悪な事件の被害者、災害で家族を失った人たち……。現代の医療やカウンセリングでは何年も、あるいは一生治らないような深いトラウマを、一週間で克服して『生まれ変われる』のなら。

 それは、苦しんでいる多くの人類にとって、紛れもない【救い】になる可能性があるのでは?」

 

 その提案に、真っ先に賛同したのはKAMIだった。

 

「使えるわよ」

 KAMIは、グラスにワインを注ぎ足しながら、あっさりと肯定した。

「めちゃくちゃ効くと思うわ。副作用も強烈な荒治療になるけど、効果は絶大。現代の地球の精神医学なんか、石器時代のおまじないに見えるレベルの劇薬よ。

 需要は無限にあるでしょ。戦争帰還兵のケアだけでも、アメリカ政府が喉から手が出るほど欲しがるシステムね」

 

「うむ。これをビジネスとして運用すれば、国家予算規模の金が動くじゃろうな」

 賢者・猫も、商人としての計算を弾き出す。

「ただし、金で買えるような安易なものではなかろうがな。代価はあくまで、本人の“精神力”じゃから」

 

「俺は、無神経かもしれませんけど」

 工藤も、作業の手を止めて真顔で言った。

「治るなら、使えば良いと思いますよ。

 現実に苦しんで、毎日死にたいと思いながら生きている人たちが、それで少しでも楽になって前を向けるようになるなら。……危険だとしても、それはやるべき治療なんじゃないですかね?」

 

「いや、普通に合理的な判断よ」

 KAMIが工藤に同意する。「治せるツールが目の前にあるのに、それを治さない理由って何? って話になるし。同意制にして、専門家の管理下で順次アクセスさせれば、立派な医療インフラになるわ」

 

「私も、最初は危険だと思いましたが……」

 エミリーは、少しホッとしたように表情を緩めた。

「生還できるシステムであると分かったなら。政府がただ恐怖して封鎖するのではなく、もっと前向きに活用する道を模索すべきではないかと――」

 

「――僕は、ちょっとねー」

 

 その和やかな『活用路線』の空気を。

 ソファでだらけていたティアナが、極めて冷たく、静かな声でぶった切った。

 

「え……?」

 エミリーが、ティアナを見る。

 

「ソーマの雫みたいに、物理的な毒素を消して地球の環境を綺麗にしてくれるとか、そういう全人類にとってプラスしかないアーティファクトなら、別にいいんだけどさ」

 ティアナは、ポップコーンの入ったボウルをテーブルに置き、珍しく真面目な、少しだけ憂いを帯びた目をエミリーに向けた。

 

「トラウマを完全に治せるからって……全員、綺麗に治せばいいって話でもないんだよね」

 

「どういう意味ですか?」

 エミリーが問う。

 

「誰だって、トラウマや、誰にも言えない重いものを抱えて生きてるわけでしょ?」

 ティアナは、スクリーンの向こうで生きる、不完全な人類の姿を見つめるように言った。

「死者に対する後悔だけじゃない。過去の失敗、罪悪感、捨ててしまった夢、選ばなかった別の人生。

 ……みんな、そういう『傷』を心の中に隠して、血を流して。それでも、朝起きてネクタイを締めて、日常を回してる」

 

「……」

 

「それを全部、“はい、この装置に入れば一週間で綺麗に治療できますよ。さあトラウマを引きずり出して治しましょうね”って、外部の力で強制的に引っ張り出してツルツルにするのは。

 ……僕から見ると、それはちょっと、乱暴で【暴力的】すぎるんだよ」

 

 工藤が、怪訝そうに反論する。

「でも、苦しんでいるなら、治した方が本人のためでは……」

 

「それはそう。苦しいのは可哀想だと思うよ」

 ティアナは、工藤の言葉を否定はしなかった。

「でもね。……『治療されて、過去の未練を綺麗に昇華した人間』は。

 ……『傷を抱えたまま、それでも泥臭く生きている人間』よりも、偉いの?

 精神的に未熟な人間は、人間として劣っているの?

 傷を抱えたまま、不完全な状態で生き続けることは……そんなに、間違ったことなの?」

 

 ラウンジの空気が、シンと静まり返った。

 

 ティアナの言葉は、完璧な効率と合理性を求める上位存在の視点ではなく。

 傷つきやすく、不合理で、愚かな『人間』という存在そのものを、深く、丸ごと肯定するような響きを持っていた。

 

「人間って、そんなに機械みたいに、綺麗に治ってから生きる生き物じゃないでしょ」

 ティアナは、ふわりと微笑んだ。

「傷があるまま、満員電車に乗って仕事して。

 夜中に思い出して、泣きながら飯食って。

 次の日には、すっかり忘れたふりして同僚と笑い合って。

 たまにトリガーを踏んで、また崩れ落ちて。

 ……それでも、また次の日の朝を迎える。

 そういう不器用さも、人間の『強さ』なんじゃないの?」

 

 エミリーは、少し驚いたように目を瞬かせた。

 いつも面白半分で世界を引っかき回すこの銀髪の少年が、これほどまでに人間の心の機微に寄り添った、繊細な倫理観を持っているとは思わなかったのだ。

 

「もちろん、どうしても必要な人、これがないと命に関わるような限界の人には、使えば良いと思う」

 ティアナは、少し言葉を緩めた。

「でも、人類全体に対して“あなたの傷、簡単に治せますよ”って、安易な救いとして提示するのは危ないんだよ。

 ……人間には、【傷を治さない自由】もある。

 見ないふりをする自由もある。まだ、過去と向き合わないで逃げ続ける自由もある。

 その選択肢を、『治るのが正解だ』って空気で奪っちゃいけないんだ」

 

「ふむ。……治療を受けぬ権利、か」

 賢者・猫が、感心したように髭を揺らした。

 

「そうそう」

 ティアナは頷く。

「ガイアズ・ドリームが提示した『不老無病』の国民投票の時と同じだよ。

 ……【救い】っていうのは、システムとして押し付けられた瞬間に、人間にとっては最悪の『呪い』になるんだから」

 

 エミリーは、ティアナのその深い洞察と、人類への温かい眼差しに、胸を打たれるのを感じた。

「……ティアナさん。あなた、意外と繊細なんですね」

 エミリーは、尊敬の念を込めて言った。

 

「俺も、正直見直しました」

 工藤も、素直に感心したように言う。「ティアナさん、いつも地球がパニックになるのを面白がってるだけのサイコパスかと思ってましたよ」

 

「ちょっと、失礼ね。まあ大体合ってるけど」

 KAMIが、横からクスクスと笑う。

 

「いやいや、僕だってちゃんと地球の未来について真面目に考えるよ?」

 ティアナは、少し照れたように頭を掻いた。

「だってさー。人類の心の傷を全部ツルツルに治療して、トラウマゼロの健全な社会にしちゃったらさ……」

 

 ティアナは、ニシシ、と。

 悪魔のように無邪気な、とびきりの笑顔を浮かべて、言った。

 

「……その後の地球って、ドラマが減っちゃって、観察者としては【めちゃくちゃつまらない】じゃん」

 

「……え?」

 エミリーの感動が、一瞬で凍りついた。

 

「みんなが未練を昇華して、精神的に成熟して、毎日前を向いてポジティブに生きてます! はい健全です! とかなったらさー」

 ティアナは、つまらなそうに唇を尖らせた。

「ドロドロした愛憎劇とか、復讐劇とか、過去のトラウマに縛られて狂っていく悲劇とかが、ごっそり無くなっちゃうわけでしょ?

 それって、物語として味が薄すぎるじゃん! 映画も小説も、絶対に面白くなくなるよ!」

 

 エミリーは、石像のように完全に固まった。

 

「あっはははははっ!!」

 KAMIが、ワインを吹き出しそうになりながら大爆笑した。

「出たわね、本音!! 結局、自分のエンタメ(娯楽)の質が落ちるのが嫌なだけじゃない!!」

 

「見事なまでに、台無しじゃな」

 賢者・猫が、呆れてため息をつく。

 

「……俺、人生で一番無駄な感動をしかけてました。返してください」

 工藤が、乾いた笑いを浮かべて天を仰ぐ。

 

「…………私、少しでもあなたを尊敬して感心した自分が、本当に心の底から馬鹿みたいに思えてきました」

 エミリーは、冷ややかな、絶対零度の視線をティアナに向けた。

 

「えー? 何で怒ってんの?」

 ティアナは、悪びれる様子もなく首を傾げる。

「本音(エンタメ重視)と、倫理(治さない自由の肯定)は、ちゃんと両立するでしょ? 僕の言ってること、間違ってないじゃん」

 

「間違ってはいないかもしれませんが、人間の心が欠落しています!!」

 エミリーの怒号が、ラウンジに響き渡った。

 

 一頻り騒いだ後、KAMIが笑い涙を拭いながら、会話を本筋に戻した。

 

「まあ、私とティアナで意見は分かれたけど。……結局のところ、これを使うにはまだ人類は未熟すぎるってことね」

 KAMIは、スクリーンに映る地球の首脳たちの会見映像を指差した。

「イギリス政府も、日本政府も、アメリカ政府も。『ネス湖は依然危険』『生還者はいるが安全ではない』『接近禁止』って、頑なに発表し続けてる。……彼ら、意外と分かってるじゃない」

 

「ああ、三神編集長とか、魔女とか、あのアリスターって老外交官とかね。あの辺の『オカルトの毒』を知り尽くしてる連中が手綱を握ってるのは、かなり正しい判断だよ」

 ティアナも、真面目なトーンに戻って評価する。

 

「特に、彼らが意図的に【治療】という言葉を使わなかったのは偉いわね」

 KAMIが感心したように言う。

「もし政府が公式に『ネス湖は精神の治療装置です』なんて言ったら、世界中の患者と遺族が暴徒と化して押し寄せるわ。言葉選びのギリギリのラインを攻めてる」

 

「商品名(レッテル)をつけた瞬間、需要が爆発して市場が壊れるからな」

 賢者・猫が同意する。

「彼らは、あの湖の本質を理解しつつも、あえて名付けを避けておる。賢い判断じゃ」

 

「名付けないことが、大事なんですね」

 エミリーが納得する。

 

「うん。人間は、システムに『名前』と『用途』をつけると、リスクを度外視してすぐに利用(コントロール)しようとするからね」

 ティアナが頷いた。

 

「それじゃあ、今回の騒動の元凶である【Cicada 3301】はどうなりますか?」

 エミリーが、怒りを込めて問う。

「彼らが面白半分に配信しなければ、ここまで世界中がパニックになることはなかったはずです」

 

「あいつら、また自分たちの技術力(テレポート)を見せびらかして、面白がって火をつけただけよね」

 KAMIが肩をすくめる。「でも結果的に、ネス湖のシステムの起動を早めて、帰還者の情報を世界中に広めたのも事実よ」

 

「情報商人としては、最悪の売り方じゃがな」

 賢者・猫が厳しく評価する。

「あれほど価値ある危険な情報を、全く受け取る準備の整っていない大衆の市場へ、無作為にばら撒いた。あれは啓蒙ではない。ただの相場破壊(テロリズム)じゃ」

 

「でも、Cicadaが隠蔽を暴いていなかったら……最初の調査隊の人たちは、誰にも知られずに、ずっと湖畔で囚われたままだったかもしれませんよね?」

 工藤が、少しだけ彼らを擁護するような視点を提示する。

 

「それもある」

 ティアナが頷く。

「Cicadaのやり方は最悪で下衆だけど、完全に無意味(無価値)な悪ってわけじゃない。あいつらは、国家が隠している臭いものに強制的に光を当てる、『災害みたいな報道機関』だからね」

 

「災害みたいな報道機関……。存在するだけで迷惑すぎて、嫌すぎます」

 エミリーが心底嫌そうに顔をしかめた。

 

「では、地球人類は、あのネス湖を今後どうするべきなんでしょうか」

 エミリーが、最終的な問いを投げかける。

 

「今のまま。封鎖継続。隔離しての研究はするけど、一般開放は絶対になし」

 ティアナが、即答した。

「どうしても人類の医療インフラとして使うって言うなら、数十年単位で、倫理、医療プロトコル、宗教的コンセンサス、そして法制度を完璧に整備してからだね」

 

「遅っ」

 KAMIがツッコミを入れる。

 

「遅くていいの。心の傷の治療は、工場のラインみたいに効率化すればいいってものじゃないんだから」

 ティアナが、工藤をチラリと見て言う。

 

「むしろ、急いで普及させようとするほど、自己判断を誤って発狂する事故が増えるじゃろうな」

 賢者・猫も同意する。

「未練とは、他人から“早く治せ”と急かされるほど、固く、冷たく凍りつくものじゃからな」

 

「じゃあ、今のところは、ずっと『絶対に入ってはいけない危険区域』として維持するしかないんですね」

 工藤が納得して頷く。

 

「そうなるね」

 ティアナは、スクリーンに映る地球の夜景――ネス湖の黒い湖水を見つめた。

「……ただし。ネス湖は、もう世界から消すことはできない。

 人類は、あそこに【救い】があることを、知ってしまったからね」

 

 ラウンジに、静かな時間が流れる。

 

 スクリーンの中のネス湖は、深い霧に包まれ、周囲の封鎖線のサーチライトに照らされながら、ただじっと、そこにある。

 

「……ネス湖はね、とっても良いアーティファクトだよ」

 ティアナが、少しだけ優しい声で言った。

「目的も明確だし、魂のケアシステムとしてもかなり優秀。……でも、良いアーティファクトだからこそ、人間の社会にとっては一番危ないんだ」

 

「……救いだから、危ないんですね」

 エミリーが、そのパラドックスを静かに噛み締める。

 

「そう。人類には、救いの方が、明確な毒(悪意)よりも人を狂わせることがあるからね」

 

「頭では分かるけど、本当に面倒くさい種族ね、人間って」

 KAMIが、呆れたように赤ワインを揺らす。

 

「だからこそ、人間の心は高く売れるのじゃよ」

 賢者・猫が、黄金の目を細める。

 

「頼むから、どこか別の星に売ったりしないでくださいね」

 工藤が、真面目な顔で釘を刺した。

 

 ティアナは、クスッと笑って、ソファから立ち上がった。

 

「まあ、心配しなくても、人間は傷を抱えたままでも、しぶとく生きていくよ。

 ネス湖に入らなくても、死者と綺麗にお別れできなくても。……それでも明日の朝は来るし、満員電車に乗って仕事には行くし、お腹が減ればご飯は食べる。

 ……それで、十分なんじゃない?」

 

 そのティアナの言葉に、エミリーは少しだけ、憑き物が落ちたような穏やかな顔になった。

 高次元の存在が、不完全な人類の営みを、優しく肯定してくれたような気がしたからだ。

 

 その直後。

 

「……まあ、観察者(ぼくら)としては、綺麗に治るより、人間がトラウマを抱えて拗らせて、もがき苦しんでるのを見る方が、圧倒的にエンタメとして面白いんだけどねー!」

 ティアナが、極上の悪党スマイルで付け加えた。

 

「……ッ!! だから、どうして最後の一言で全部台無しにするんですか!!!」

 エミリーが、クッションをティアナに向かって全力で投げつけた。

 

「あはははっ! 最高のオチね!」

 KAMIが手を叩いて爆笑し、ラウンジに賑やかな声が響き渡った。

 

 ***

 

 地球の北の果て。

 ネス湖は、単なる「死者に会える湖」ではなかった。

 それは、生者が死者と向き合い、自らを縛る未練をほどき、もう一度現世へと送り返すための、古い精神主義文明の遺した荒療治の修行装置だった。

 

 だが、その真実を知ったところで、今の地球人類がそれをすぐに健全に扱えるわけではない。

 

 救済は、時に猛毒よりも深く人を狂わせる。

 治療は、時に傷そのものよりも暴力的になり得る。

 そして人間は、傷を治さなくても、不完全なままで生きていくことができる強さを持っている。

 

 だからこそ、ネス湖はまだ、封鎖されなければならなかった。

 

 その黒く沈む湖は、進化の途上にある人類にとって。……あまりにも優しく、そしてあまりにも危険すぎる、早すぎた救済の鏡だったのだ。

 

 




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