銀河皇帝のスペアに転生した元社畜、地球軌道上の要塞でネトゲ三昧の隠居生活を満喫する 〜足元では超大国が滅亡級の異星遺産を巡って暗躍中ですが、主人公(ぼく)の命は絶対安全なので特等席で傍観します〜 作:パラレル・ゲーマー
ロンドン、ダウニング街10番地。首相官邸の地下に設けられた特別危機管理室は、重苦しい沈黙と、深い疲労感に包まれていた。
円卓を囲むのは、イギリス首相と、老外交官サー・アリスター・ペンブルック、そして招待席に座る公認魔女。また、EUの代表としてヘルメス協会の導師マルセルが同席し、巨大なモニター越しにはアメリカのヘイズ大統領、日本の矢崎総理、中国の李天明国家主席が、最高機密の暗号回線で繋がっている。
世界の覇権を握る国家のトップと、超常現象の専門家たちが一堂に会するこの場において、今日の議題はただ一つであった。
「諸君。……ネス湖の現象について、我々はもはや、一時的な物理的封鎖だけでは対応できない段階に入った」
イギリス首相が、鉛のように重い声で切り出した。
「本日の議題は、一つ。……あのネス湖という空間を、人類社会の中で【どう扱うか】だ」
メインモニターには、最新のネス湖周辺の映像が映し出されている。
幾重にも張り巡らされた鉄条網と装甲車の前に集まり、「死者に会わせろ」と泣き叫ぶ群衆たち。警察に保護される強行突破者。そして、ネット空間で爆発的に拡散し続ける「七日間の湖」「魂の手術台」「死者と別れる湖」という、あまりにも魅惑的で危険なトレンドワードの数々。
「……ネス湖は、もはや英国の一地方にあるただの湖ではありません」
アリスターが、冷徹な外交官の視点で静かに告げる。
「世界中の人間の『喪失』と『未練』が、国境を越えてあそこへ向かおうとしています。これは一国の治安問題の範疇を完全に超えている」
内務省と軍の担当者が、これまでの調査結果を簡潔に報告する。
確認された事実。
ネス湖周辺で、接触者にとって必要な『死者(あるいは過去の概念)』が実体化する。
接触者は、その死者との対話に強く執着し、湖畔に留まりやすくなる。
湖の領域内では、肉体的な衰弱(飢餓、脱水、凍傷など)がほぼ完全に抑制される。
初期に囚われた者たちの多くが、一週間前後で自力で帰還し、肉体的には健康であり、精神的にも深い『変容(成熟)』を見せている。……中には、自らを「生まれ変わった」と表現する者もいる。
しかし、未確認の事項も山積している。
あの死者が『本物』なのかどうか。湖が独自の意志を持っているのか。永続的に滞在した場合に何が起きるのか。囚われた人間を、力ずくで強制退去させた場合の精神的ダメージの度合い。……そして何より、Cicada 3301が再び面白半分に映像を再配信した場合、暴動の規模がどこまで膨れ上がるか。
『科学的には、これは人間の精神への直接干渉、記憶の現実投影、そして対象の肉体保護を同時に行う【複合アーティファクト】と定義できます』
アメリカ側の科学主任、ケンドール博士が冷静に分析する。
『少なくとも、現代の人類の医療や物理学の概念では、完全に分類不能な代物です』
「……分類など、しない方がいいでしょうね」
日本の会議室から、三神編集長が缶コーヒーを揺らしながら言った。
「分類し、名前を与えた瞬間。……人類は、それを『道具』として使う方法を探し始めますから」
その三神の指摘は、続く議論の最も重い火種となった。
『……帰還者の証言やデータを見る限り、ネス湖のシステムは、重度のPTSDや複雑性トラウマの改善に、我々の現代医学では前例のないほどの劇的な効果を示しています』
アメリカ側の国防・医療担当の幹部が、慎重に、だが明確な欲求を込めて切り出した。
『戦争帰還兵、銃乱射事件の遺族、災害の被害者、自殺遺族。……アメリカ国内だけでも、あの湖の“治療”を必要とし、救える人間の数は膨大です』
ヘイズ大統領は、苦々しい顔で頭を抱えた。
「軍や医療界からの『ネス湖を治療施設として使わせろ』という圧力は、日に日に強まっているわ。彼らにとっては、喉から手が出るほど欲しい魔法の薬なのよ」
『医療的価値は、確かにあります』
ケンドール博士も、科学者としての見解を曲げなかった。
『否定はできません。現代の心理療法では十年、あるいは一生かかっても治らない重度の症例が、あそこへ行けば、たった一週間で劇的に改善する可能性があるのですから』
その『治療の可能性』という甘美な言葉に、中国の李天明国家主席も静かに反応した。
『……我が国でも、事故、災害、貧困、そして過去の政治的な混乱の中で、無念の死者を抱えている者は多い。
仙人の医療は、病に苦しむ生者を救うことはできるが。……死者と対話させ、残された者の心の傷を癒やすことはできない。ネス湖の力は、国家の安定(不満のガス抜き)という点でも、極めて強力な魅力を持っている』
日本の矢崎総理も、沈黙していた。
日本にも、過去の大震災や凄惨な事件、終わらない経済不況の中で、救われない死者を抱えて苦しんでいる人々は無数にいる。総理として、「国民を救えるかもしれない手段」が目の前にあるのに、それを切り捨てることは、想像を絶する痛みを伴う判断だった。
しかし。
その『治療』という魅惑的な言葉を。
「……【治療】という言葉を、公式に使ってはなりません」
円卓の特等席で、公認魔女が、紅茶のカップを置いて静かに、しかし絶対の拒絶をもって言い放った。
会議室が、ピンと張り詰める。
「治療、と呼んだ瞬間。……世界中の傷ついた者たちが、ネス湖へ向かって暴走を始めます」
魔女の灰色の瞳が、冷酷な未来を見透かすように細められる。
「彼らは『患者』として来るでしょう。自分には【救いを受ける権利がある】と叫ぶでしょう。……そして、それを止める政府や軍隊を、自分たちから救済を奪う『加害者(悪)』と見なすようになります」
「これは、“死者に会える湖”という噂よりも、遥かに危険な状態です」
三神編集長が、魔女の言葉を後押しする。
「死者に会えるだけなら、大衆もまだ『罠かもしれない』と警戒できる。
ですが、“トラウマを治せる(生まれ変われる)湖”になった瞬間。……人々は、帰れなくなるかもしれないという致死のリスクすらも、『治療のための痛い副作用』として、狂信的に受け入れてしまいます」
「つまり、ネス湖を『救済の場』として認識された時点で……我が国の封鎖線は、国民感情という道徳的な正当性を完全に失いかねないということか」
アリスターが、事態の政治的リスクを正確に言語化した。
『政府が、特権階級だけで魔法の治療を独占している、と陰謀論に火がつくわね』
ヘイズ大統領が忌々しげに言う。
「はい」
三神が頷く。
「だから、公式には絶対に『治療』とも『救済』とも呼んではいけません。あくまで、“極めて危険な既存技術外事象(アーティファクト)の暴走”というスタンスを崩してはならないのです」
だが、議論はさらに深く、人間の倫理の根底へと切り込んでいく。
「……しかし。死者と会う機会を、政府が一方的に武力で封じてよいのでしょうか」
イギリスの法務・人権担当の高官が、苦渋の表情で問題提起をした。
「ネス湖が危険であるとしても、そのリスクを承知の上で、本人の明確な意思で入る『自由』は認めるべきではないか、という声が、すでに法曹界や人権団体からも上がり始めています」
死者と会う権利。
精神的自己決定権。
宗教的巡礼の自由。
政府による救済独占への反発。
イギリス国内だけでも、すでに政府の封鎖措置に対する違憲訴訟の準備が進められているという。
その「自由意思」という言葉に対し、ネス湖の泥を踏み、実際に死者と対話して帰還したEUヘルメス協会の導師マルセルが、静かに首を横に振った。
「……『本人の意思』という言葉は、この件においては、極めて慎重に扱うべきです」
マルセルの声には、自らも死者の誘惑に呑まれかけた者としての、深い実感がこもっていた。
「死者に会いたいと願う者は、決して冷静ではありません。……『喪失』という感情は、それ自体が、人間の理性を奪う強烈な【命令】なのです。彼らの判断は、すでに正常ではありません」
『会いたい、という願いは、一見すると美しい自由意志にも見える』
中国のチャオ最長老も、同意するように低い声で言った。
『だが、その願いの本当の主(あるじ)は誰じゃ? 本当にその者自身か?
……未練か、罪悪感か、孤独か、あるいは死者の呪縛か。一体『誰』が、その者の足を湖へと向かわせておる? 狂信と紙一重の衝動を、自由意志と呼ぶのは危険すぎる』
その言葉で、会議室の空気はさらに重くなった。
「ネス湖へ向かう自由を認めるには、人間の意思決定は、あまりにも過去の感情によって汚染されやすい」
三神が総括する。
「少なくとも現時点では、『自己責任だから好きにしろ』で済ませて放置できるレベルの話ではありません」
では、情報をどうコントロールするか。
イギリス政府は、自力で生還したエドワード・ヘイル博士の【記録映像(証言)】を保持していた。
『あそこは、死者に会える場所ではありません。……死者と、もう一度別れる場所です』
この生々しい証言を、世界に向けて公開すべきか否か。
「公開すべきだ。死者との再会という甘い夢を見ている人々に、現実の厳しさを知らせるべきだ。政府が『行くな』と言うより、経験者の言葉の方が心に届くはずだ」という公開賛成派。
対して、「逆効果になる」と主張する反対派。
「“死者と綺麗に別れられるなら、やはり行きたい”と考える人間が必ず増える。ヘイル博士が救われたという『成功体験』の部分だけが都合よく切り取られ、カルトやCicadaに編集されて再拡散されるだけだ」
議論の末、魔女が結論を提示した。
「死者の言葉は、聞く者の心の傷の形に合わせて、全く別の意味に解釈されてしまいます」
魔女は冷たく言う。
「ヘイル博士の痛切な証言ですら、ある種の人間にとっては、ネス湖への『極上の招待状』になってしまうのです。……全面公開は控えるべきです」
結論として、生還者の証言映像は一般公開せず、医療専門家や宗教的指導者への限定的な共有に留め、あくまで「推奨」ではなく「強烈な警告」の文脈としてのみ使用することが決定された。
さらに、各国の情報機関からの報告は、事態がすでに「個人の悲しみ」の枠を超え、組織的な犯罪やカルトの温床になっていることを示していた。
『どうせ現実に帰れないなら、ネス湖で永遠に死者と一緒にいたい』と、集団自殺に近い形での渡航を呼びかけるネットコミュニティ。
『ネス湖は魂の再誕の聖地だ。七日間の湖に入れば、全ての罪が浄化される』と謳う新興宗教。
『死者再会ツアー確約』『ネス湖の原水ペンダント』といった悪質な詐欺。
そして、富裕層や絶望した遺族から莫大な金を巻き上げ、封鎖線の突破や偽造許可証の手配を行う国際的な犯罪シンジケート(密航ビジネス)。
『Cicadaの配信以降、ネス湖は情報テロ、詐欺、カルト、密航の中心点(ハブ)になっています』
アルファが、冷酷なデータを示す。
『このまま放置すれば、湖のトラップそのものよりも……人間側の欲望とビジネスの衝突によって、大量の死者が出ます』
「アーティファクトの危険性と、人間の浅ましい商売根性の危険性が、最悪の形で合体しましたね」
三神が皮肉っぽく笑う。
『問題は、Cicada 3301の連中が、再びネス湖の映像を面白半分に再配信した場合よ』
ヘイズ大統領が、怒りを込めて言う。
『止められるの?』
『現時点では、彼らのシステムへの強制アクセス(完全停止)は不可能です』
アルファが答える。
『ただし、事前にカウンター情報を準備し、物理的な防衛線を厚くすることは可能です』
各国政府は、Cicadaが動いた瞬間に発動する「国際共同声明のテンプレート」を作成し、空港や港湾での即応体制、カルトや詐欺サイトの即時摘発ネットワークを構築することで合意した。
「Cicadaの口を物理的に塞げないなら、情報を受け取る側の国民の耳を、啓蒙と警告で守るしかありません」
三神が言う。
「彼らのやっていることは、もはや災害報道ではありません。……【報道という行為そのものが、災害】なのです」
そして、会議は最も政治的な、権益に関わる論点へと足を踏み入れた。
『ネス湖がこれほどの精神干渉と、トラウマの治療能力を持つアーティファクトであるならば』
中国の李天明が、鋭く切り込む。
『それをイギリス一国が独占して管理するのは、国際社会において不公平ではないか。人類共通の遺産として、国際的な管理下に置くべきだ』
アメリカも内心では同じことを考えていたが、ヘイズ大統領は外交的配慮から露骨な同調は避けた。
『中国の言い方には同意しないけれど、透明性のある国際的な枠組みは必要ね』
イギリス首相は、険しい顔で反論する。
「ネス湖は、紛れもなく我が国の領土内に存在する。主権は英国にある。……しかし、その影響が人類規模であり、我が国単独の軍事力では封鎖を維持しきれないのもまた事実だ」
ここで、魔女が静かに口を開いた。
「……【所有】という発想が、そもそも危ういのですよ」
魔女は、愚かな政治家たちをたしなめるように言う。
「あの湖は、土地や資源ではありません。……人間に突きつけられた【問い】です。
……その問いを、無理やり国家の力で所有(コントロール)しようとする国は、必ず、その答えの重圧に呑み込まれて自滅しますよ」
「現実的には、主権はイギリスに残すべきです」
三神が、実務的な落とし所を提示する。
「ですが、監視、研究、情報管理、そして倫理審査については、国際的な枠組みにした方がよいでしょう。“イギリスが奇跡の治療施設を独占している”という陰謀論の物語を放置すれば、世界中からテロや反発を招きます」
結果として、ネス湖の主権はイギリスが保持しつつも、日米英EU中の代表、ヘルメス協会、魔女、そして医療・宗教の専門家を加えた【国際監視委員会】を設置することが決定された。
一般人の立ち入りは完全禁止。研究利用は極めて限定的な審査制とし、情報は非公開。
そこまで決まったところで。
一部の強硬な軍・安全保障担当者から、極論が飛び出した。
「……これほど世界を混乱させ、管理が困難で危険なアーティファクトであるならば。《平和の檻》の時のように、物理的に【破壊(消滅)】させるべきではないのか?」
その提案に、実際にネス湖の泥を踏んだ二人の男が、即座に反対した。
「ネス湖は、悪意ある兵器(侵略者)ではありません」
導師マルセルが、強い口調で否定する。
「極めて危険な場所ではありますが、あそこでの対話を経て、実際に心を救われ、立ち直った事例もすでに存在しているのです。それを無思慮に破壊することは、人類にとっての大きな損失です」
『破壊すれば、今も湖畔で対話を続けている者たちがどうなるか、全く分からぬぞ』
チャオ最長老も、仙人の視点から警告する。
『死者と向き合い、魂の殻を開いている最中に、無理やり湖のシステムを物理的に破壊すれば……彼らの魂は、永遠に引き裂かれたまま戻らなくなるじゃろうな』
「《平和の檻》は、人間の自由意志を完全に奪う、悪しきシステムでした」
魔女も、静かに違いを説明する。
「しかしネス湖は、少なくとも最後には、本人が自分の足で戻るという『自由意志』を求めます。同じレベルで語るべきではありません」
「破壊は、本当にどうしようもなくなった時の最後の手段(ラストリゾート)です」
三神が締めくくる。
「現時点では、封鎖と管理で足ります。……あそこを壊してしまうには、あの湖は、人類にとってあまりにも多くの『可能性』を持ちすぎている」
結論として、ネス湖の即時破壊は却下された。
ただし、湖の力が増幅し、遠隔地まで影響が拡大した場合や、Cicadaが致命的な利用をした場合に備え、『緊急破壊計画』の策定だけは秘密裏に進められることとなった。
そして、最後の論争。
『限定的であれ、一般開放(医療利用)の道を残すべきか否か』。
「生還者がおり、治療効果があるのは事実だ。本人がリスクを承知の上で入るのなら、その自由を認めるべきだ」という一部の賛成派に対し。
「同意能力が担保できない。死者に会いたいと願う人間は冷静な判断ができない。戻れないリスクが高すぎる。社会的圧力で『お前もネス湖に行ってトラウマを治してこい』と治療を強制されるディストピアになる」という反対派が激しく対立した。
その時。
日本の矢崎総理が、静かに、だが強い決意を込めて口を開いた。
「……私たちは以前、ガイアズ・ドリームから『不老無病』という究極の救いを、国民投票の形で提示されました」
総理の言葉に、会議室の全員が耳を傾ける。
「あの時も、救いを受ける自由と、救いを拒む自由が問題になりました。
……ネス湖も、同じです。
『治せる技術があるから、使うべきだ』という単純な理屈では、人間の心は救えません。
……【治さない自由】。【まだ過去と向き合わないでいる自由】も、国家は守らなければならないのです」
『同感ね』
ヘイズ大統領も、深く頷いた。
『もし一般開放すれば、アメリカ国内では必ず“苦しんでいる退役軍人にネス湖の治療を受けさせろ”という強烈な政治運動が起きる。そして同時に、帰ってこられなかった者の遺族から“政府が兵士の心を実験台にして殺した”という猛烈な反発と訴訟が起きる。
……悲しいけれど、今の社会の成熟度では、このアーティファクトは絶対に扱いきれないわ』
『中国でも同じじゃ』
李天明も、渋々といった様子で同意する。
『国家が治療を強制(あるいは選別)しているのではないかという恐怖が必ず出る。……それを完全に否定しきれないのが、為政者としての我々の限界だ』
最終結論。
一般開放、一切なし。医療利用、一切なし。例外的な研究目的の接触も、国際監視委員会の全会一致の承認が必要とする。
残るは、この現象の【公式名称】の決定だった。
「『ネス湖精神再生現象』『七日間の湖』『死者と別れる湖』……どれも危険ですね」
三神が、提示された候補案を見て苦笑する。
「名前そのものが、ロマンチックな招待状になってしまっています」
「言葉は、扉です」
魔女が、冷たく言う。
「開ける気のない危険な扉に、美しい装飾や名前をつけてはなりません」
最終的に決定された公式名称は。
区域名:【ネス湖特別管理区域】。
現象名:【ネス湖既存技術外現象】。
極めて地味で、官僚的で、何の魅力も感じさせない名前だった。
「……あえて、魅力のない名前にしたわけですね」
アリスターが、その意図を正確に読み取って言う。
「はい」
三神が、静かに頷く。
「人を寄せ付けたくないものには。……『退屈な名前』をつけるのが、一番の防御策ですから」
イギリス首相が、最終決定された合意文書を読み上げる。
一、ネス湖現象を英国主権下の「特別管理区域」として恒久封鎖する。
二、一般市民の立ち入りは例外なく禁止する。
三、死者との再会、治療、救済、精神再生を目的とした利用は一切認めない。
四、ネス湖現象を「治療」「救済」「死者再会」等の言葉で公式には呼称しない。
五、国際監視委員会を設置し、日米英EU中および専門家の監督下に置く。
六、研究は限定的・非公開・厳格な審査制とする。
七、生還者の証言公開は、本人保護と社会的影響を考慮し厳重に制限する。
八、Cicada 3301等による情報災害に備え、国際共同のカウンターチームを設置する。
読み上げが終わった後、会議室は深い沈黙に包まれた。
誰も、これを「勝利」だとは思っていなかった。
人類を救済できるかもしれない奇跡の力(治療装置)を、自らの手が届かないように、恐怖と混乱を恐れて『厳重に封印した』だけの決定なのだから。
だが、現在の人類の精神的キャパシティと社会システムにおいては、これ以外の選択肢は存在しなかった。
公式会見。
イギリス首相は、世界中のメディアに向けて、決定された事項を極めて慎重な言葉選びで発表した。
「現象は依然として危険であり、一般市民の立ち入りは認められません。一部帰還者が確認されていますが、これは安全性を意味するものではありません。……死者との接触を目的とした渡航、封鎖突破、ツアー等は、厳に禁じます」
記者が、鋭く食い下がる。
「首相! ネス湖は、精神のPTSD治療に使えるという専門家の指摘がありますが!」
「そのような呼称や利用は、現時点で一切認めません」
首相は、鉄面皮で答える。
「生還者は、心が救われたと証言していますが!」
「個別の経験と、それを社会的なインフラとして利用できるかどうかは、全くの別問題です」
「……死者に会う権利を、政府が権力で奪うのですか!」
その最後の質問に。
首相は一瞬だけ沈黙し、マイクを握る手に力を込め、少しだけ苦しそうな表情を見せた。
「……私たちは、死者に会いたいという国民の切実な願いを、決して否定しません」
首相の言葉は、絞り出すような響きを持っていた。
「しかし……。国民を、取り返しのつかない危険な領域へ向かわせることも、また、国家としては絶対にできないのです」
***
会見が終わり、各国の通信が切断された後の、静かな別室。
あるいは、暗号通信の余韻の中。
魔女と三神編集長が、二人だけで短い言葉を交わした。
「……これで、収まると思いますか?」
三神が、冷めたコーヒーを飲みながら問う。
「いいえ」
魔女は、即座に、冷酷に否定した。
「でしょうね」
三神も、全く同感だというように笑った。
「一度『救い』を見せられた人間は、そう簡単には背を向けませんよ」
魔女は、窓の外の灰色の空を見つめる。
「……破壊をもたらす兵器なら、人は恐怖して逃げます。
命を奪う毒なら、人は避けて通ります。
ですが……【救い】は、人を呼び寄せるのです」
「ええ。救いを管理するということは、兵器を管理するよりも、ずっと難しくて厄介ですね」
三神が、今回の会議のすべてを象徴する言葉を吐いた。
魔女は、フッと小さく、皮肉げに微笑んだ。
「ええ。……兵器は、ただ『使わせなければよい』だけです。
でも、救いは……『使わせない者が、冷酷な悪人に見えてしまう』のですからね」
***
夜のネス湖。
イギリス軍による封鎖線は、これまでの何倍もの厚みに強化されていた。
無数の警告灯が赤と青の光を回転させ、軍用車両が隙間なく並び、上空には監視ドローンが飛び交っている。
遠くの安全圏からは、新興宗教の群衆が奇妙な祈りの歌を叫び、警察のバリケードに止められた遺族たちが、泥だらけになって泣き崩れている。
だが、その喧騒の向こう側。
黒く沈んだ湖は、どこまでも静かだった。
その湖畔の、深い霧の向こうで。
まだ現実への帰還を決意できず、泥の上に座り続けている誰かが、自らの愛する『死者』と静かに語り合っていた。
その死者が、生前と変わらぬ優しい声で問う。
「……まだ、帰らないの?」
生者は、泣きながら、子供のように首を横に振る。
「もう少しだけ。……お願いだから、もう少しだけ一緒にいさせて」
死者は、彼を責めることはなかった。無理に引き剥がすこともしなかった。
ただ、彼の頭を優しく撫でて、微笑んだ。
「いいわ。
……でも、いつかは、ちゃんと帰りなさいね」
ネス湖は、人を殺さない。
だが、生者が自分の足で「帰る」と決めるその瞬間まで。……永遠に、冷たい泥の上で待ち続けるのだ。
ネス湖は、破壊されなかった。
だが、開放されることもなかった。
人類はその日、紛れもなく存在したひとつの【救い】を、「救いとは呼ばない」という苦渋の選択をした。
死者に会える湖。
死者と別れる湖。
心の手術台。
七日間の湖。
大衆がどんなドラマチックな名で呼ぼうとも、その黒い水面が、人間の魂の最も深い未練を映し出し、試す鏡であることに変わりはない。
だからこそ、世界中の政府は、その湖に最も退屈で、魅力のない名前を与えた。
――【ネス湖特別管理区域】。
それは、人類にとってあまりにも優しく、そしてあまりにも危険すぎる劇薬の救いを、少しでも人間の脆弱な社会システムから遠ざけておくための、せめてもの『檻』だった。
だが、人間は知ってしまった。
あの霧の向こうには、もう一度会いたい誰かが、確実にいるかもしれないということを。
そして、その事実だけは。……これからどれほど分厚いコンクリートの封鎖線を築こうとも、世界中の人々の心の中から、二度と消し去ることはできなかったのである。
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