銀河皇帝のスペアに転生した元社畜、地球軌道上の要塞でネトゲ三昧の隠居生活を満喫する 〜足元では超大国が滅亡級の異星遺産を巡って暗躍中ですが、主人公(ぼく)の命は絶対安全なので特等席で傍観します〜 作:パラレル・ゲーマー
【第1章 ポッド映像流出直後、陰謀論者たちは勝利した】
アメリカ合衆国、ニューメキシコ州の果てしなく広がる暗い砂漠。
その地図にも載っていないような寂れた廃線で、名もなき少年たちが、震える手で偶然撮影してしまった数秒間の動画。
ひしゃげたコンテナ。青白い未知の発光。転がり出た透明な強化ガラスのポッド。
そして……緑がかった粘着性の培養液の中に浮かぶ、鱗状の皮膚と、鋭い知性を放つ【金色の縦長の瞳】を持つ、爬虫類型のヒューマノイド。
その圧倒的なまでの『現実感(リアリティ)』を伴った映像が、Cicada 3301と思われる匿名ネットワークを通じて世界中のサーバーにゲリラ的にばら撒かれた直後。
インターネットの最深部から表層に至るまで、最も狂喜乱舞し、ドーパミンの過剰分泌によるお祭り騒ぎの頂点に達していたのは……間違いなく、長年世間の日陰に追いやられ、冷笑され続けてきた【陰謀論者(コンスピラシー・セオリスト)】たちであった。
それは、ただのバズやトレンドの爆発ではない。
何十年も前から自分たちが信奉し、家族や友人から見放され、社会から「アルミホイルを頭に巻いた精神異常者」として扱われてきた彼らにとって、あの数秒の映像は、自らの人生のすべてを肯定してくれる『神の啓示』に他ならなかったのである。
[海外巨大匿名掲示板 / Megathread:ニューメキシコ事変・総合討論スレッド]
スレタイ:【超速報】ニューメキシコの軍用列車事故、ガチでレプティリアンのポッドを輸送していた模様【俺たちの完全勝利】
1: User_Truth_Seeker_00
「おい見ろ!!! 見たかお前ら!!!
あの青い光! 鱗! そしてあの縦長の瞳孔!!!
はい勝利!!!! 俺たちの完全勝利だ!!!!
政府はやっぱり、地下深くでトカゲ人間(レプティリアン)を飼ってやがったんだよ!!!」
15: User_Wake_Up_Sheeple
「うおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!
何十年も俺たちのことを『電波野郎』『統合失調症』って笑ってた一般人(シープル)ども、今どんな顔して息してる!?
お前らが信じてきたテレビのニュースや政府の公式発表が、全部クソみたいな大嘘だったってことが、これで完全に証明されただろ!!」
32: User_Lizard_Hunter
「レプティリアン! レプティリアン!! レプティリアン!!!
ついに世界の真実が暴かれたぞ!
アメリカの歴代大統領も、英国王室も、巨大IT企業のCEOどもも! やっぱり全員、中身はあの中に入ってたトカゲ人間だったんだ!!」
55: User_MedBed_Believer
「おい、みんなあの動画をよく解析しろ!
ポッドの中に満たされているあの緑色の液体……あれ、絶対に『メドベッド(万能治療ポッド)』の培養液だろ!?
間違いない! 政府の特権階級とディープステートの連中は、病気になってもあのポッドに入って、自分たちだけ不老不死の治療を独占して享受してたんだ!!」
78: User_Area51_Veteran
「デンバー国際空港の地下も、今すぐ重機で掘り返せ!!
あそこの地下にはフリーメイソンの巨大な秘密軍事施設(DUMBs)があるって、俺は十年前から言い続けてきた!! 絶対にあそこにも、今回と同じレプティリアンの冬眠ポッドが何千個も眠ってるはずだ!!」
102: User_Roswell_1947
「ニューメキシコの砂漠……。そして軍用列車の深夜の極秘輸送。
1947年のロズウェル事件から今までの点と線が、全部完璧に一本の線に繋がったな。
墜落したUFOから回収されたエイリアンは、死んでなんかいなかったんだ。ずっとアメリカ政府の奥底で、生きたまま保管・培養されてたんだよ!
俺たちの推察は、ただの一つも間違っていなかったんだ!!」
スレッドのスクロール速度は、常人の動体視力では追いつけないほどの異常なスピードで更新され続けていた。
英語、スペイン語、ロシア語、日本語、アラビア語。あらゆる言語で翻訳されたその動画は、世界中の陰謀論者たちに、強烈な万能感と全能感を与えていた。
彼らは今、完全に自分たちを『歴史の勝者』であると錯覚していた。
テレビのニュースキャスターが「未確認の映像ですが」と慎重に報じているのを鼻で嗤い、政府が「有毒化学物質の流出事故です」と苦しい言い訳をするのを見て腹を抱えて笑った。
だが。
この段階において。彼らの狂乱の裏側に潜む、ある絶対的な『欠落』に気づいている者は、皆無に等しかった。
画面の向こうでキーボードを叩き割らんばかりの勢いで熱狂している彼らにとって。
あの透明なポッドの中に浮かび、冷たい砂漠の夜風の中で目を覚ました存在が――【一体何を考え、何を感じ、どれほどの恐怖に震えていたのか】などという人道的な疑問(エンパシー)は、一ミリたりとも存在していなかったのだ。
150: User_Alien_Catcher
「おい、最新のリーク情報だと、あのコンテナから一匹だけ逃げ出したらしいぞ!
地元警察の無線を傍受した奴がいる! 早く捕獲配信しろよ!」
175: User_Gun_Rights_Now
「逃げたってマジか? なんでその辺の自警団で撃ち殺さないんだよ。
俺の庭に現れたら、即座にショットガンで脳天ブチ抜いてやるのに。
頭だけ剥製にして剥製マニアに売れば、一生遊んで暮らせる額になるぜ」
201: User_Truth_Seeker_00
「バカ言え、撃ち殺したらただの肉塊(死体)になっちまうだろ!
生け捕りにするんだよ! 生きたまま拘束して、ディープステートの秘密地下施設の場所と、メドベッドの隠し場所を全部吐かせるんだ!」
230: User_Dark_Web_Surfer
「拷問してでも喋らせろ。爬虫類に人権なんかないんだからな。
爪を一枚ずつ引っ剥がせば、エイリアンだって政府の機密コードを泣きながら喋るだろww」
255: User_Cicada_Fanboy
「政府が回収して闇に葬る前に、あのCicada 3301が先回りして、アイツを捕まえて尋問する様子を全世界に実況配信してくれたら最高に面白いのにww
おい蝉野郎、見てるならやれよ! 人類最強のエンタメを見せてくれ!!」
軽い。
おぞましいほどに、軽薄で、残虐だった。
安全な自室のモニターのこちら側から、未知の存在を完全に血の通っていない「怪物(モンスター)」として見下し、一方的にレッテルを貼り、消費し、エンターテインメントとして嘲笑う。
彼らにとって、あのヒューマノイドは、自分たちの信じる妄想(ストーリー)を現実のものとして証明してくれた、極上の『証拠品(アイテム)』でしかなかった。
もし相手が同じ人間であったなら、これほどの暴力的な言葉を投げつけることに躊躇いが生じたかもしれない。
だが、相手は人間ではない。ウロコを持った気味の悪い爬虫類だ。
「人間ではないから、どれほど残酷な扱いをしても構わない」。その無意識の免罪符が、ネット上の狂気を際限なくエスカレートさせていた。
それが、未知の存在と遭遇した時に、相手を理解する努力を放棄し、恐怖をエンターテインメントに変換することで心の安寧を保とうとする、人類という種の最も醜悪な防衛本能の発露であった。
【第2章 陰謀論配信者たちの狂騒】
ネットのテキストベースの掲示板が活気づくのと並行して、その熱量を直接的な【金と名声】へと変換しようとするハイエナたちもまた、恐るべき速度で動き出していた。
世界最大の動画配信プラットフォームでは、登録者数百万規模を誇る有名陰謀論系ストリーマーたちが、こぞって『緊急ライブ配信』の枠を立ち上げ、凄まじい熱量で語り続けていた。
その中でも、北米で最も過激な発言で知られ、何度もアカウントBAN(凍結)と復活を繰り返してきた悪名高い配信者、“パトリオット・アイ”ことマイク・バーンズの配信枠は、開始からわずか十分で同時接続視聴者数が五十万人を突破するという、異常な数値を叩き出していた。
配信タイトル:
『【歴史的完全勝利】レプティリアン実在の決定的証拠!! ニューメキシコ政府極秘輸送・列車脱線事故の闇を徹底解説!!』
画面の中で、奇抜な星条旗柄のサングラスをかけ、顔を真っ赤に紅潮させたマイク・バーンズが、興奮で唾を画面に飛ばさんばかりの勢いで、マイクに向かって絶叫している。
「みなさん!!! 見ましたか!? 私の声が聞こえていますか!!」
マイクは、両手を激しく振り回し、カメラレンズを指差した。
「我々は! 今までずっと、社会から笑われ、冷遇され、迫害されてきました!
職場の同僚からは距離を置かれ、家族からは『頭がおかしい』『病院に行け』と言われ、巨大IT企業からは理不尽にアカウントを消去され続けてきました!
我々は、孤独な暗闇の中で、それでも真実を求め続けてきたのです!!」
マイクは、息を荒げ、背後のグリーンバックに合成された『ポッドの中に浮かぶリオの映像』をバーンと大写しにした。
「しかし……!! 見てください、あの映像を!!!
透明な培養ポッド! 不気味に光る緑の液体! 爬虫類の鱗! そして、あの人間を嘲笑うかのような、縦長の金色の瞳孔!!
これを!! 【レプティリアン(爬虫類人類)】と言わずして、何と言うのか!!
ディープステートと腐りきった政府が、我々一般市民の税金を使って、何十年も地下深くで隠し育ててきた悪魔の正体です!!
我々がずっと叫び続けてきた真実が、ついに白日の下に晒されたのです!! アメリカ政府の嘘は、今この瞬間、完全に暴かれました!!!」
その演説は、何十年も鬱屈としたルサンチマンを抱えて生きてきた視聴者たちの心に、劇薬のようなカタルシスをもたらした。
[ライブのコメント欄(激流のように流れるテキスト)]
「うおおおおおおお!!!」
「マイク! あんたはずっと正しかったんだ!!」
「俺は信じてたぞ! 家族に縁を切られても、俺はあんたの配信を見続けてきたんだ!!」
「俺たちの勝利だ! ワシントンの腐った政治家どもを引きずり下ろせ!」
「メドベッドも絶対にある!! 難病の子供を救う技術を、政府のクズどもは自分たちだけで独占してるんだ!! 許せない!!」
「レプティリアンのポッドを全部破壊しろ! 地球は人間のものだ!!」
「いや、まずはレプティリアンを地下から解放して、政府の嘘を証言させろ!!」
「解放したら俺たち人類が支配されて食われるぞ!!w」
「どっちだよ草」
「とにかく、あのトカゲ野郎を捕まえて、真実を全部吐かせろ! アジトの場所を言わないなら、尻尾を切り落としてでも口を割らせろ!」
コメント欄の熱狂に呼応するように、画面の右側では、数千円、数万円単位のスーパーチャット(投げ銭機能)が、色とりどりの帯となって絶え間なく降り注いでいた。
チャリン、チャリン、という電子音が鳴るたびに、マイク・バーンズの口座には莫大な金が吸い込まれていく。
「ありがとうございます! スパチャありがとうございます!」
マイクは、狂気じみた笑みを浮かべ、さらに扇情的な言葉を重ねる。
「情報によると、あの一匹がポッドから逃げ出し、サンタ・ミラージュの町に潜伏している可能性があるとのことです!
地元警察は『化学物質の事故』などと馬鹿げた嘘をつき、町を封鎖して隠蔽工作を図っています!
ですが、我々の目は誤魔化せない! この配信を見ているテキサスやアリゾナの愛国者の皆さん! もし銃を持っているなら、今すぐピックアップトラックに乗り込み、サンタ・ミラージュを目指してください!!
政府にあの証拠を消される前に、我々の手でレプティリアンを捕獲するのです!! これは、人類の存亡を賭けた聖戦(クルセイド)です!!」
それは、もはや単なる動画配信の枠を超え、一個の危険な扇動テロリズムと化していた。
事実、このマイク・バーンズの配信を見た数千人の武装した陰謀論者たちが、実際にライフルやショットガンを車のトランクに放り込み、州境を越えてニューメキシコ州のサンタ・ミラージュへとアクセルを踏み込み始めていたのである。
彼らの中にあるのは、正義感と、真実を知ったという優越感だけだ。
ポッドの中にいたのが、知性を持つ一つの生命体であるかもしれないという可能性。
突然見知らぬ砂漠に放り出され、わけもわからず怯えているかもしれないという想像力。
そうした『他者への想像力』は、彼らの熱狂の炎の中では、塵芥(ちりあくた)ほどの価値も持っていなかった。
彼らは、相手を『レプティリアン』という便利な記号に押し込めることで、すべての暴力と残虐性を正当化していた。名前など必要ない。感情など必要ない。ただ、自分たちの敵であり、証拠品であればそれでいい。
この時、インターネットという巨大な集合的無意識は。
これから起こる悲劇の重さも、自分たちがどれほど残酷な『共犯者』になっているかも全く気づかないまま。
暗闇に怯える一人の『迷子』を追い詰めるための、最悪の包囲網を完成させようとしていたのである。
【第3章 一般ネットもミーム化する】
狂信的な陰謀論者たちが、長年の雪辱を晴らすかのように「完全勝利」の雄叫びを上げていたその数時間後。
この「ニューメキシコの砂漠で発見された謎のポッド」の映像は、インターネットの深層から表層へと一気に浮上し、全く異なる層の人々によって、全く異なるベクトルで消費され始めていた。
それは、「恐怖」でもなければ、「隠された真実の探求」でもない。
純度百パーセントの、【娯楽(エンターテインメント)】としての消費である。
現代のネットワーク社会において、情報の持つ最大の価値は、その真偽ではなく「どれだけバズるか」だ。
若者たちが日常的に集まるショート動画プラットフォームや、X(旧Twitter)のトレンドには、元の数秒間の映像をサンプリングした、無数のパロディ動画やコラージュ画像が、まるで致死性のウイルスのパンデミックのように溢れ返った。
[X(旧Twitter) / グローバル・タイムライン]
@Bored_Student_01
「人類のイベントスケジュール詰め込みすぎだろwww
福島の光る神樹、イギリスの死者に会えるネス湖、ってきて、次はアメリカの砂漠でレプティリアン!?
もう完全に設定が破綻したB級異世界転生モノじゃんww」
@Corporate_Slave_A
「明日会社遅刻した時に『すいません、通勤途中にレプティリアンに道を塞がれてて』って言ったら、有給扱いになるかな?
それともディープステートに消される?」
@Movie_Nerd_99
「『サンタ・ミラージュ(蜃気楼)』って、発生した町の名前からしてすでに怪しさ満点で草生える。
絶対にC級SFホラー映画のロケ地だろ。監督は絶対スピルバーグかシャマランの影響受けてるわ」
@Meme_Creator_X
「みんな、とりあえずこれ使っていいよ」
(※星条旗柄のサングラスをかけ、葉巻をくわえた筋骨隆々の爬虫類人間のAI生成画像。その下に大きなフォントでテロップ)
『政府「ただの化学物質流出事故です。安心してください」』
『ネット民「いやどう見てもレプティリアンだろ! 隠す気あるのか!」』
巧妙に加工され、キャッチーな文字が躍るミーム画像は、何十万という「いいね」と「リポスト」を獲得して、国境を越えて拡散されていく。
あるインフルエンサーは、自宅の巨大な水槽で飼っているペットのグリーンイグアナに、小さなサングラスとネクタイを乗せた動画を投稿した。
『【スクープ】我が家で、政府の列車から逃走した重要参考人を確保しました! 今から尋問(おやつタイム)を開始します!』
その動画は、数百万回再生され、コメント欄は「可愛いレプティリアンだ」「ディープステートの秘密をコオロギで吐かせろ」という好意的なジョークで埋め尽くされた。
また別の悪ふざけの投稿者は、怪しげな青いLEDライトが光るカプセルホテルの寝室の画像に、『最新型メドベッド(※ただしトカゲ・エイリアン専用。人間はお断り)』というテロップをつけ、陰謀論者たちが本気で信じている万能治療装置の噂を盛大に揶揄した。
音楽系のクリエイターたちは、動画に微かに記録されていた、脱線事故の金属音とポッドから漏れ出る青白い光の点滅をサンプリングし、EDM(エレクトロニック・ダンス・ミュージック)のビートに乗せたリミックス動画(通称『レプティリアン・ビート』)を一晩で作成し、クラブシーンで流行させようと目論んでいた。
彼らのこの軽薄なまでの反応の裏にあるのは、アーティファクトという圧倒的な未知に対する、人類の無意識の【防衛本能】であった。
もし、あれが本当に人類を脅かす未知の侵略兵器だとしたら。
もし、本当に政府が国民を騙し、何十年も地下で非人道的な実験を行っていたのだとしたら。
その事実を真正面から受け止めることは、一般の人間にとってあまりにも重く、恐ろしすぎるのだ。
だからこそ、大衆はそれを「笑い」に変換する。
「レプティリアン」という、B級オカルト映画の手垢のついた滑稽なレッテルを貼り付けることで、その存在の深刻さを極限まで薄め、自分たちとは関係のない「画面の向こう側のフィクション」に仕立て上げる。
理解できないものを、ミームという消費しやすいパッケージに押し込み、安全圏から小石を投げてゲラゲラと笑う。それこそが、情報化社会における最も効果的な現実逃避の方法だった。
だが、その徹底したエンタメ化の中で。
あの透明なポッドの中に浮かび、冷たく乾いた砂漠の空気に初めて触れ、暗闇の中で目を覚ました【彼】が。
一体何を考え、どれほどの恐怖に震え、何を求めていたのか。……彼が痛みを感じる一つの『生命』であり、知性を持つ『個』であるかもしれないという想像力は、誰の頭の中にも一ミリたりとも存在していなかった。
大衆にとって、彼はどこまでいっても、ただのバズを生み出すための便利な『素材(オブジェクト)』であり、不気味で滑稽な『怪物(モンスター)』でしかなかったのである。
【第4章 町の封鎖で空気が不穏になる】
しかし、インターネットという安全な仮想空間で人々が軽薄なお祭り騒ぎを繰り広げている間にも。
現実のアメリカ合衆国、ニューメキシコ州の赤茶けた大地の上では、全く笑えない、極めて重苦しく暴力的な【物理的な封鎖】が進行していた。
情報の流出から数時間が経過し、夜が明ける頃には、事態はミームやジョークの範疇を完全に超えた、緊迫したニュース映像として世界中に届けられ始めた。
[CNN ライブ中継 / ニュースデスク]
『……先ほど入った現地の最新情報をお伝えします。
ニューメキシコ州サンタ・ミラージュ近郊で発生した貨物列車脱線事故について、連邦当局は「高濃度の有毒化学物質が流出した恐れがあるための予防的措置」として、町の周辺数マイルを完全に封鎖しました。
しかし……現在、我々の報道ヘリが上空の規制空域ギリギリから捉えている現地の映像を見る限り、事態は通常の化学物質事故の対応とは、明らかに異なっています』
画面が切り替わり、望遠レンズで撮影されたサンタ・ミラージュの町外れの空撮映像が映し出される。
町へ繋がる唯一の主要幹線道路には、軍用の重装甲車(MRAP)が何台も横向きに駐車され、完璧な物理的バリケードを形成していた。
バリケードの前に立つ兵士たちの姿に、スタジオのキャスターが声を震わせる。
『ご覧ください。展開している部隊は、化学防護服(HAZMATスーツ)を着ていません。
彼らは全員、最新鋭のコンバットギアに身を固め、アサルトライフルを装備した完全な戦闘態勢(フル・アーマメント)です。また、車両のエンブレムはすべて黒く塗りつぶされており、正規の連邦軍なのか、州兵なのか、所属が一切不明となっています。
さらには、強力な電波妨害(ジャミング)が敷かれている模様で、町の中の住民とコンタクトを取ることは現在完全に不可能な状態に陥っています』
この、嘘とごまかしに満ちた強権的な軍事封鎖の現実(リアル)を突きつけられ、ネットの空気は、それまでの「おふざけ」から、一気に血生臭く、不穏なものへと変容していった。
[X(旧Twitter) / グローバル・タイムライン]
@News_Watcher_01
「おいおい……これ、思ったよりガチでヤバい事件なんじゃないか?」
@Skeptic_Truth
「ただの化学物質の事故で、あんな所属不明の特殊部隊が、アサルトライフル構えて町を完全包囲するわけないだろ。
アイツら、絶対に『逃げ出した何か』を血眼になって探してるんだよ!」
@Human_Rights_Now
「ていうか、町の中に閉じ込められてる一般の住民、かわいそうすぎないか!?
通信も完全に遮断されて、外に何が起きてるのかも分からないまま、銃を持った黒服がウロウロしてる町の中に閉じ込められてるんだぞ? 完全に戒厳令下の独裁国家のやり方だろ!」
そして、封鎖線の【外側】の状況は、さらに常軌を逸したカオスへと変貌しつつあった。
ニュースを見た野次馬や、自分たちの目で真実を確かめようとする者たちが、アメリカ中から車を飛ばしてサンタ・ミラージュの検問所の手前へと押し寄せ始めていたのだ。
報道陣の巨大な中継車や衛星アンテナの林立する隙間を縫って、スマートフォンを片手に「チャンネル登録よろしく! 今からレプティリアンの町に突撃します!」と叫びながら兵士に近づき、即座に地面に組み伏せられて拘束される迷惑系ストリーマーたち。
一方で、ピックアップトラックの荷台に星条旗を掲げ、ライフルやショットガンで武装した極右の民兵(ミリシア)組織の男たちは、拡声器を使って怒鳴り散らしていた。
「政府の犬ども! 道を開けろ! 俺たちの国に宇宙人のバケモノを隠しておくことは許さん!
レプティリアンを引きずり出して、俺たちの手で処刑してやる! 地球は人間のものだ!」
そのすぐ隣では、ヒッピー風の服を着たカルト的な新興宗教団体のメンバーたちが、全く逆の主張を叫んで座り込みを行っていた。
「宇宙の兄弟を解放せよ! 政府の軍事的弾圧を許すな! 彼らは我々に、高次元の愛のメッセージをもたらすためにやってきたのだ!」
そして、その狂騒の中で最も悲惨で、見る者の心を締め付けたのは。
酸素吸入器をつけた車椅子の子供を押しながら、バリケードを守る顔のない兵士に向かって、泣き叫びながらすがりつく家族たちの姿だった。
「お願いです!! 通してください!!
あの町に、メドベッドがあるんでしょう!? お願いです、うちの娘はもう長くないんです! どんなにお金を払ってもいい、どうか、あのカプセルに娘を入れてやってください!!」
彼らは、悪質な陰謀論に完全に騙され、ありもしない奇跡の治療装置の存在を信じ込み、全財産をはたいて遠方から駆けつけてきた絶望した人々だった。
兵士たちは無言のまま、ライフルを胸に抱え、彼らを冷酷に押し返し続けている。
この、人間の業のすべてを煮詰めたような地獄絵図がネットで拡散されると、匿名掲示板のオカルト板やニュース速報板の住人たちも、事態の深刻さに青ざめ始めた。
[5ちゃんねる:ニュース速報板]
345 :名無しさん@涙目です
うわぁ……封鎖線の外側、完全に世紀末の地獄じゃん。
武装した民兵と、カルト宗教と、難病患者の家族が入り乱れてる。これ、一歩間違えたら軍隊と民間人で大規模な撃ち合い(暴動)になるぞ。
352 :名無しさん@涙目です
おい、それよりヤバい噂が流れてるぞ。
あの初期の『ポッドの動画』を撮った、地元の高校生らしき若者のグループが、事故の直後から行方不明になってるらしい。
360 :名無しさん@涙目です
……え?
それって、完全に『政府が目撃者を消す(口封じする)』パターンのやつじゃん……。
371 :名無しさん@涙目です
マジかよ。いくらなんでもアメリカ政府が自国の子供を殺すわけないだろ?
……いや、でも、あの黒服の部隊の異常な武装を見てると、絶対にないとは言い切れないのが怖い。
国家の存亡に関わる超機密(エイリアン)を見られたんだぞ。子供数人の命なんか、砂漠に埋めて「化学物質の事故で亡くなりました」で処理されるに決まってる。
385 :名無しさん@涙目です
おい、Cicada 3301! お前らどこで見てるんだよ!
面白がって動画拡散するだけして、後は放置か!?
見てるならさっさと町の内部の様子をハッキングして配信しろよ! 子供たちが殺される前に!!
ネットの住民たちは、無責任に「Cicada」という絶対的な情報強者に助け(あるいはさらなる燃料)を求めた。
空気が、明らかに変わっていた。
「レプティリアン草」「異世界転生ww」と笑っていた軽薄な空気は完全に消え去り、「これは人が死ぬ、ガチでヤバい国家の陰謀事件だ」という、血の匂いを感じ取る緊張感へとシフトしていたのだ。
だが。
ここに至ってもなお、世界中の誰一人として。
その事件の中心にいる、『ポッドから逃げ出した存在』そのものの安否や、感情を心配する者は皆無であった。
「町の中の住民はどうなるのか」。
「巻き込まれた少年たちは無事なのか」。
「政府はどんな隠蔽工作をするのか」。
人々の関心はすべて、人間側のドラマと、事件全体のストーリーに向けられていた。
逃げ出した「彼」は、依然として、政府が必死に探している『危険な証拠品』であり、民兵が殺したがっている『怪物』であり、難病患者がすがりつく『魔法の道具』でしかなかった。
人類は、未知の存在を【理解】する努力を放棄し、自分たちに都合の良い【物語】のピースとして消費し続けていた。
彼らが、自らのその傲慢さと残酷さに気づき、取り返しのつかない後悔に打ちのめされる瞬間は、もう、すぐそこまで迫っていた。
【第5章 初期動画の考察班】
サンタ・ミラージュの町が、重武装の黒服部隊によって物理的に外界から切り離され、不穏な空気が漂い始めていた頃。
インターネットの海では、最初に流出したあの「数秒間の不鮮明な動画」を巡って、世界中の特定班、映像解析のプロ、そしてオカルト考察班たちによる、狂気じみた徹底解剖が行われていた。
彼らは、たった数秒の、手ブレとノイズにまみれた圧縮動画のコマを一つ一つ切り出し、あらゆるフィルターをかけ、ピクセル単位で情報の抽出を試みていた。
[海外動画検証フォーラム / 解析・技術スレッド]
「おい、ポッド内の個体の顔面をAIでアップスケールして、コントラストとシャープネスを極限まで引き上げた画像を見てくれ。
……完璧な『縦長の瞳孔(スリット・アイ)』だ。しかも、周囲の青白い光が眼球の角膜の曲面に沿って正確に反射(ハイライト)している。
CGのトラッキングエラーや、後から合成したようなライティングの矛盾は一切見当たらない。これがフェイクだとしたら、ハリウッドのトップVFXスタジオが数ヶ月かけてレンダリングしたレベルだ」
「あの緑色の液体の発光パターンと粘度を、スペクトル分析と流体力学のシミュレーションにかけた結果が出たぞ。
結論から言うと、先日話題になった日本の『ソーマの樹』や、ネス湖の発光現象とは、全く別の波長(エネルギー・シグネチャ)を示している。既知のアーティファクトの光の流用やコラージュじゃない。
そして液体の動きだが、重力に対する粘性の振る舞いが、ただの色水じゃなく『羊水』のような高濃度のタンパク質溶液に極めて近い」
「みんな、頭蓋骨のシルエットと、肩周りの筋肉の動きに注目してくれ。
首から鎖骨、肩関節にかけての骨格構造が、人間の解剖学と物理的に適合していない。もし中に人間が入っている『着ぐるみ(スーツ)』や『特殊メイク』だとしたら、あの角度で頭部を動かした時に、必ず肩に不自然なシワや布のヨレができるはずだ。
じゃあ、精巧なアニマトロニクス(機械仕掛けのロボット)か?
……いや、瞼が開く瞬間の、眼輪筋の微細な痙攣(ピクつき)を見てくれ。サーボモーターの機械的な動きじゃない。完全に生体組織の反応だ。
……俺は映像のプロだが、断言する。あれはCGでも作り物でもない。紛れもなく【そこに実在している(生物である)】」
こうした素人ながらも極めて鋭く、科学的なアプローチからの解析結果が次々と投下されていく中。
匿名の真面目な科学者、進化生物学者、あるいは大学の研究者とおぼしきアカウントたちも、この異様な事態に対して、専門家としての慎重な見解をSNSやブログで発表し始めていた。
『映像の解析結果から判断するに、この未確認の存在を、安易に“爬虫類人類(レプティリアン)”という陰謀論的でオカルトな呼称で呼ぶことは、科学的に極めて不適切かつ危険です。
現段階で我々に言えるのは、「地球上の既知の生物分類には当てはまらない、未知の人型生命体(あるいは人工的に設計された知性体)らしきものが映っている」ということだけです。
彼らが生体としてどの程度の知性を持っているのか。地球の進化の系統樹に属するのか、あるいは全く別の起源を持つのか。そして、どのような目的で、誰によって保存されていたのか。……それらの情報は、すべて不明です。
我々は、安易なレッテル貼りをやめ、フラットな視点でこの未知の存在と向き合うべきです』
それは、パニックに陥り、狂乱する大衆に対して「冷静になれ」と呼びかける、理性の最後のブレーキであった。
しかし。
すでに「自分たちの信じる物語が証明された」と熱狂し、暴走する大衆と陰謀論者たちにとって、専門家のその冷静な言葉は、彼らのエンターテインメントに冷水を浴びせる「邪魔なノイズ」にしか聞こえなかった。
ブレーキどころか、彼らの持つ攻撃性をさらに煽り立てる、格好の標的(燃料)となってしまったのである。
「また御用学者の専門家(笑)が、難癖つけて言葉遊びで逃げてるよwww」
「『未知の人型生命体』じゃねえよ! レプティリアンってハッキリ言えや! トカゲはトカゲだろ!」
「お前らもどうせディープステートに買収されてんだろ! 政府の隠蔽工作に加担して、大衆の目を逸らそうとしてるクズどもめ!」
「あんなバケモノ、知性があるわけないだろ。ただの人間を食うトカゲだよ! さっさと軍隊で焼き殺せ!」
「あいつらは人類の敵だ! 地下で子供たちの血をすすって生きてきた悪魔だぞ! 専門家ぶってあんなバケモノを擁護する奴は、全員人類への裏切り者だ!」
言葉は、それ自体が鋭い刃を持った暴力となる。
「レプティリアン」「怪物」「トカゲ野郎」「人間を食う悪魔」。
ネット空間では、恐ろしいほどの速度で、その逃走個体に対する【非人間化(デヒューマナイゼーション)】が進行していた。
名前を奪い、個としての尊厳を剥ぎ取り、醜悪な怪物というラベリングを施す。
そうすることで、人類は自らの心の中にある「未知への恐怖」をコントロールしようとしていたのだ。
「相手は知性のない恐ろしい怪物なのだから、我々がどんなに残酷な言葉を投げつけても、政府がどんなに非道な手段で処分しても、それは正義の執行であり、何の問題もない」。
人類は、何千年もの歴史の中で繰り返してきた「異端者への迫害と魔女狩り」のプロセスを、この情報化社会において、わずか数時間というタイムスケールで完璧に再現していたのである。
【第6章 Cicadaの強制配信が始まる】
そして。
事態が、取り返しのつかない決定的な破局へと向かい。世界中が陰謀論の狂騒と、サンタ・ミラージュの軍事封鎖に釘付けになっていた、まさにその瞬間だった。
日本時間の昼下がり。アメリカ東部時間の深夜。
世界中のスマートフォンの画面が。オフィスのPCのモニターが。動画配信サイトのプレイヤーが。巨大な交差点のデジタルサイネージが。さらには一部のテレビ局の電波放送に至るまで。
ありとあらゆるネットワーク・ディスプレイが、一斉に、強制的に【ブラックアウト】した。
ザザザッ……という、ブラウン管時代の砂嵐のような視覚ノイズ。
そして、鼓膜を直接引っ掻くような、あの忌まわしい『蝉の鳴き声』の高周波音が、世界中のスピーカーから同時に響き渡った。
真っ黒に暗転した画面の中央に、幾何学的な線で構成された【Cicada 3301】のロゴマークが、ゆっくりと浮かび上がった。
[X(旧Twitter) / グローバル・タイムライン]
「……!? おい、画面が!」
「Cicada来た!!!」
「マジかよ、また強制ハッキングかよ!」
「嫌な予感しかしない……今度は何をばら撒く気だ!?」
「サンタ・ミラージュの件か!? 町の内部の映像が出るぞ絶対!!」
世界中の何十億という人間が、息を呑んで画面を凝視した。
政府の嘘を暴き、世界を何度もパニックに陥れてきた最悪の情報テロリストが、このタイミングで動いたのだ。絶対に、ただごとで済むはずがない。
数秒後。
暗黒の画面に、白いテキストで、極めて短く、そして人を食ったような軽い文面がタイピングされるように表示された。
『流石にやり過ぎだろ……旧軍関係者><』
その、あまりにも状況にそぐわない、ふざけきった顔文字(><)付きのテキストを見た瞬間。
世界中のネット民たちは、一瞬だけ困惑した。
「やり過ぎって何?」
「旧軍関係者?」
「顔文字が死ぬほど腹立つ。人が死ぬかもしれない事態だぞ」
「でも……これ、絶対に、シャレにならない【最悪のもの】が映る前兆だぞ……」
直後。
テキストが消え、映像が再生され始めた。
それは、薄暗く、油臭い空気まで伝わってくるような、一般家庭のガレージの映像だった。
ただ一つのアングルから撮られたものではない。ジェイクのビデオカメラの高画質な映像をメインに、リリーのスマートフォンの手ブレ映像、天井の古い防犯カメラの荒い映像、そして、突入してきた黒服の隊員が胸につけていたボディカムの視点までもが、まるで映画のように完璧に編集(同期)されて、同時に表示(マルチアングル化)されていた。
映像の音声は、驚くほどクリアだった。
子供たちの、恐怖で引き攣った荒い呼吸音。
遠くで吠え続ける犬の声。
そして。
ズガンッ!! という爆音と共に、ガレージのシャッターが吹き飛ばされ、強烈なタクティカルライトの光が雪崩れ込んでくる。
黒い防護服に身を包んだ、指揮系統不明の重武装部隊(旧軍関係者)の突入。
デイビス保安官が「子供のいる家で銃を構えるな!」と怒鳴り、力ずくで床にねじ伏せられる姿。
泣き叫ぶ少女たち。ジェイクの「撃つな! こいつは話せる!」という絶叫。
そして。
ガレージの最も深い暗がりから……ブルーシートを羽織った、あの『レプティリアン』と呼ばれた存在が、ゆっくりと姿を現した。
[動画のコメント欄 / リアルタイム]
「うおおおお! 本物だ!!」
「出た! トカゲ野郎だ!」
「でけえ……気持ち悪い」
「おい待て、あいつ……逃げないぞ?」
「手を、上げてる……?」
画面の中で。
その未知の存在は、向けられた無数の銃口を前にしても、怯えることも襲いかかることもなく。
ただ静かに、両手を頭の横へと掲げ、完全に無防備な姿を晒した。
『……私は、ここにいる』
その口から紡がれたのは、掠れてはいるが、明確な、知的生命体の言語(英語)だった。
『この群れを、害するな』
[動画のコメント欄]
「……え?」
「……喋ってる?」
「英語……!?」
「待て待て待て、会話してるぞこいつ!?」
「『群れを害するな』って……後ろにいる子供たちのことか?」
「嘘だろ……こいつ、自ら降伏(サレンダー)してるじゃないか!」
彼らが「人間の血をすする知性のない怪物」だと信じて疑わなかった存在が、流暢な言葉を操り、しかも自分よりも弱き者(人間の子供たち)を守るために、自らの命を差し出して投降したのだ。
その事実の前に、コメント欄の熱狂に、冷たい氷水がぶっかけられたような動揺が走り始めた。
だが。
映像の中の、黒服の現場指揮官は、その降伏宣言を聞いて、冷酷に言い放った。
『……自律言語能力の獲得を確認。対象は認知汚染リスク。……処分準備』
[動画のコメント欄]
「処分!?」
「は!?」
「なんでだよ!! 降伏してるじゃんか!!」
「いや待て、撃つな!」
「拘束しろよ! 殺す必要ないだろ!!」
「撃つな」
「撃つな撃つな撃つな!!!」
世界中の何十億という人間が、画面の向こうの指揮官に向かって、心の中で同じことを叫んだ。
映像は、残酷な現実を、一秒の容赦もなく映し出し続ける。
銃口が向けられる。
ジェイクが「撃つなら俺を!」と、身を呈して飛び出す。
銃口が、一瞬だけジェイクの体に重なる。
その瞬間。
未知の存在が、人間の視力を超える速度で動き、ジェイクを横へと激しく突き飛ばした。
自らの体を、銃弾の盾にするように。
ズガンッ!!!
乾いた、恐ろしい銃声が響き渡る。
その存在の胸の中心に、特殊弾が直撃し。……ポッドの中と同じ、青緑色の液体がガレージの空間に飛沫となって舞い散った。
彼らが「怪物」と呼んだ存在は、人間の少年をかばい、その代償として胸を撃ち抜かれ、くの字に折れ曲がって床に崩れ落ちた。
[動画のコメント欄]
「………………」
「…………………………」
滝のように流れていたコメントが。
この瞬間、まるでシステムがフリーズしたかのように、ピタリと、完全に停止した。
世界中の人間が、呼吸を止め、瞬きすら忘れて画面を凝視していた。
映像は、終幕へと向かう。
青緑色の血溜まりの中で、息も絶え絶えになっている彼のもとへ、ジェイクが泣き叫びながらすがりつく。
『リオ! 死ぬな!!』
彼は、苦しげな呼吸を繰り返し、少しずつ光を失っていく金色の瞳で、ジェイクたちを順番に見つめていく。
『……ミア。恐れながらも考え続ける個体。よい防衛だ』
『……トビー。君の物語は誤りだったが、未知を見ようとした』
『……サム。恐怖を認める個体は、生存率が高い。生きろ』
『……リリー。情報を燃やすな。守るために使え』
『……デイビス。防衛個体。群れを守れ』
最期の瞬間まで、彼らの特徴を的確に捉え、彼らのこれからの人生を肯定し、生きるための道標となる言葉を残していく。
それは、化け物の断末魔などではない。……どこまでも知的で、高潔な、一つの【魂】の終わりの姿だった。
そして。
彼は、ジェイクの温かい手を、冷たい手でそっと握り返し。
金色の瞳を、ほんの少しだけ細めて、言った。
『…………水をくれて、ありがとう』
『……私は、目覚める場所を、間違えたと思った。
だが……。最初に見た人類が、君で、よかった』
少年の絶叫が響き渡る中。
彼の手から力が抜け、金色の瞳が完全にガラスのように曇り、その命が完全に機能停止する瞬間が、残酷なほどの高画質で世界中に配信された。
画面が、再びブラックアウトする。
そして。最後に、Cicada 3301からの、とどめのメッセージが中央に浮かび上がった。
『怪物、ではなかったみたいだね。』
動画は、そこで終わった。
通常のテレビ番組へと戻り、スマートフォンの画面はいつものタイムラインへと切り替わった。
だが。
世界は、凍りついていた。
文字通り、何十億という人間の思考と感情が、絶対的なショックの前に完全に停止し、ただ無音の時間が流れていた。
【第7章 全世界の沈黙】
Cicada 3301という、人類史上最悪のサイバーテロリストによってばら撒かれた、数分間の「真実の動画」。
画面の中央に、人を食ったような顔文字(><)と共に『怪物、ではなかったみたいだね』というテキストが表示され、プツンと通信が途絶した直後。
地球上のあらゆるネットワーク、そしてその画面を見つめていた現実世界のすべての空間は、奇妙な、そして極めて不気味な【沈黙】に包まれていた。
現代のインターネット社会において、世界的特ダネやテロ映像が投下された際の初期反応は、通常であれば「爆発的なトラフィックの増大」と「ノイズの氾濫」である。
映像が流れた数秒後には、X(旧Twitter)のグローバル・タイムラインは滝のようなスクロール速度で更新され、無数のミーム画像、不謹慎な大喜利、自称専門家による考察、あるいは政治的な批判の長文投稿で埋め尽くされるのが常だった。
しかし、この夜だけは違った。
世界最大のSNSのサーバーは、アクセス過多で落ちたわけではない。……人々が、文字を打ち込むという行為そのものを忘れてしまったかのように、極端にトラフィックが『静か』になったのだ。
最初の数分間。
タイムラインに流れてくる投稿は、極端に短く、主語も述語もない、ただの言葉にならない感情の欠片ばかりだった。
「……」
「無理」
「え?」
「嘘だろ」
「なんで」
「今の見た?」
「見なきゃよかった」
「涙が止まらない」
「吐き気がする」
「息ができない」
「いや、これ無理だって」
海外の巨大匿名掲示板、Reddit(レディット)や4chan。
つい十分前まで、「レプティリアン完全勝利!」「ディープステートの嘘を暴け!」「トカゲ野郎を捕獲して解剖しろ!」と祝杯を挙げ、狂騒のどんちゃん騒ぎに包まれていたメガ・スレッドも、まるで冷水を浴びせられたように書き込みの奔流が完全にストップしていた。
自室の暗闇の中で、モニターの青白い光に照らされながら、彼らはマウスを握る手を震わせていた。
先ほどまで自分たちが「怪物」と呼んで嘲笑していた存在が、両手を上げて降伏し、人間の少年を銃弾から庇い、そして最期に「水をくれて、ありがとう」と感謝の言葉を遺して死んでいった。
その事実を、脳の処理回路が受け付けず、完全にフリーズしていたのだ。
やがて、ポツリ、ポツリと。
暗く重い石を、底なしの水底に向かって落とすような書き込みが投下され始める。
『I was laughing about reptilians ten minutes ago. I feel sick now.(十分前まで、俺はレプティリアン草とか言って笑ってた。……今、自分が吐き気するほど気持ち悪い)』
『He talked. He surrendered. He protected the kid.(彼は喋った。彼は両手を上げて降伏した。……彼は子供を庇ったんだぞ)』
『We called him a monster before he had a name.(俺たちは、彼が名前を持つ前に、勝手に怪物って呼んでたんだ)』
『What the hell did we just watch? An execution?(俺たちは今、一体何を見せられたんだ? ただの処刑じゃないか?)』
そして、あるユーザーが、絞り出すように一つのレスを書き込んだ。
『His name was Rio.(彼の名前は、リオだった)』
日本のネット空間でも、その重苦しい後悔と沈黙の空気は全く同じだった。
5ちゃんねるのニュース速報板でも、Xのトレンドでも、先ほどまで「異世界転生ww」「トカゲ野郎のコラ画像作ったった」と嘲笑し、エンターテインメントとして消費していた自分たち自身への、猛烈な自己嫌悪と後悔が溢れ出していた。
「これ、笑えない……」
「さっきまで『レプティリアンwww』とか言って、サングラスかけたトカゲのコラ画像作ってた自分を、本気でタイムマシンで戻って全力でブン殴りたい。死にたい」
「『水をくれてありがとう』は……反則だろ。あんなの、映画のラストシーンでも声出して泣くわ。現実で、あんな無抵抗な相手が目の前で射殺される映像見せられたら、メンタル壊れるって」
「あいつ、死ぬ直前まで、自分が撃たれたことじゃなくて、ジェイクって少年のこととか、子供たちのこれからの生存率のこと考えてたじゃん」
「怪物なんかじゃないじゃん……。ただの、優しくて、賢い『誰か』じゃんか……」
「俺たち、今まで何やってたんだよ。あいつがどんな気持ちで冷たい砂漠で震えてたのか、一秒だって想像しようとしなかった……」
それは、人類が自らの犯した罪を強烈に思い知らされたことによる『沈黙』であった。
無知と恐怖によって他者を消費し、理解する前に名前を奪い取り、勝手な物語の悪役に仕立て上げて石を投げつけていた。
安全圏から石を投げて遊んでいたつもりが、その石が、怯える迷子の頭をかち割っていたのだと気づいた時の、圧倒的な絶望感と罪悪感だった。
世界中のあらゆる国籍、あらゆる言語の人間が、画面の向こう側の冷たいガレージの床で流された青緑色の血を見て、同じように唇を噛み締め、言葉を失っていた。
【第8章 否認と反発】
しかし、人間の心というものは、自らの過ちと残酷さを直視し続けるには、あまりにも脆く、臆病にできている。
沈黙と自己嫌悪の次に来たのは、自らの心の安寧(アイデンティティ)を守るための、醜い【否認(ディナイアル)】と【反発】だった。
自分が「無抵抗な知性体を笑いながら見殺しにした共犯者」であるという事実を受け入れられない者たちは、強烈な認知的不協和を起こし、あの射殺映像自体を正当化する論理を捻り出そうと躍起になり始めた。
その先陣を切ったのは、旧軍擁護派や、国家の武力行使を絶対視する過激な愛国者(ナショナリスト)たちだった。
「落ち着けお前ら! 騙されるな! 相手は人類に危害を加える危険生命体だった可能性があるだろ!」
「そうだ! あの映像をよく見ろ、子供たちがすでに奴の未知のテレパシーか何かで認知汚染(洗脳)されて、奴を庇うように操られていたんだ! あの現場の黒服の指揮官は、子供たちを悪魔から救うために撃つしかなかったんだ! 感情的になるな、これは国家安全保障の問題だ!」
「『会話できるから危険』という軍の判断は、異常事態のプロトコルとしてはあり得る! 人類の言語を模倣して取り入ろうとするのは、寄生生物の常套手段だ! 彼らは国を守るために、苦渋の決断で引き金を引いたんだ! 彼らは英雄だ!」
自分たちの信じる「強い国家」や「正義の軍隊」が、両手を上げた無抵抗な存在を背後から撃ち殺すような、卑怯な殺人鬼であってはならない。
その一心から捻り出された冷酷な自己正当化の論理は、ネットのあちこちで声高に叫ばれた。
だが。
その血の通っていない理屈は、直ちに圧倒的な一般層の【怒り】の濁流によって押し流され、完膚なきまでに叩き潰された。
一度「リオ」という個人の魂に触れてしまった大衆にとって、国家安全保障という大義名分は、もはや最悪の言い訳にしか聞こえなかった。
「ふざけるな! 両手上げて降伏してたんだぞ! どこに撃つ理由がある!!」
「子供を庇って前に出た相手を撃ち殺すのが国家安全保障かよ!! お前らの守りたい国は、罪のない者の血で出来てんのか!」
「撃つ前にいくらでも拘束できただろ! テーザー銃だって持ってたはずだ! 単に自分たちの秘密をペラペラ喋られるのが怖かったから、証拠隠滅で口封じしただけじゃねえか! あれは戦闘じゃない、ただの処刑だ!」
「『話せるから危険』って、人類史上で最低最悪の理屈だろ。それ、今まで人間相手にもやってきたんだろ、お前ら旧軍の亡霊どもは! 異民族や、意見の違うマイノリティを『話せるから危険だ』って言って虐殺してきた歴史の繰り返しじゃねえか!」
怒りの炎は、擁護派の陳腐な理屈を跡形もなく焼き尽くした。
一方で、極右や極左の過激な陰謀論者たちもまた、自らの「ディープステートとの戦い」というストーリーが壊れるのを頑なに拒み、さらに狂った陰謀論を上塗りすることで都合の良い解釈を捻り出そうとした。
「みんな騙されるな! 思考を誘導されるな! これは政府の壮大な演出だ! レプティリアンに同情させるための、高度なCGと洗脳映像(サイオプ)だ!」
「『リオ』という名前も心理作戦だ! アイツはやっぱり人類を支配するディープステートの手先で、俺たちの同情を引いて油断させるために、あの純真な子供たちを利用したんだ! あの涙を誘う最後の言葉も、全部計算されたプログラムだ!」
彼らは、相手が血の通った存在であることを必死に否定し、再び「怪物」の枠組みに押し込めようとした。そうしなければ、自分たちがこれまで何十年も掲げてきた陰謀論そのものが崩壊してしまうからだ。
しかし、そうした声に、以前のような熱狂的な賛同は集まらなかった。
むしろ、かつては一緒に陰謀論を語っていた仲間たちや、一般層から、激しい軽蔑と怒りの言葉を顔面に投げつけられる結果となった。
「お前ら、まだあいつを利用するのかよ。いい加減にしろよ」
「死んだあとまで、あいつを『レプティリアン』って呼んで、自分たちの陰謀論の都合のいい証拠品扱いすんな。お前ら、あの引き金を引いた黒服どもより腐ってるぞ」
「目を覚ませって。あいつは政府の黒幕でも、人間の血をすする悪魔でもない。……ただの『リオ』だ。たった一晩だけ、あのガレージで生きてた『リオ』なんだよ」
「俺はもう陰謀論なんてどうでもいい。ただ、あの撃たれた彼に申し訳なくて仕方ないんだ。お前らのその薄汚い妄想に、これ以上あいつを巻き込むな」
ネット空間では、これまで「未知への恐怖と好奇心」という点で一枚岩だった大衆が完全に瓦解し、真実から目を逸らそうとする者と、自らの罪を背負ってでも真実を見つめようとする者との間で、かつてないほどの激しい分断と衝突が起きていた。
それは、人類という種が、「未知の他者」をどう扱うかという根源的な倫理の試金石を前にして、激しく産声を上げながら価値観のアップデートを強制されている痛みを伴うプロセスであった。
【第9章 陰謀論配信者、崩れる】
世界中のインターネットを覆い尽くした、重く冷たい沈黙と自己嫌悪の空気。
その決定的な転換点(ターニングポイント)となり、事態の空気を不可逆的に変容させたのは、ある巨大動画配信プラットフォームでの出来事だった。
ほんの数時間前。最初のポッドの映像が流出した直後に「歴史的完全勝利! レプティリアン実在の決定的証拠!」と狂ったように絶叫し、数百万の視聴者を熱狂の渦に巻き込み、わずか数十分で数千万円規模のスーパーチャット(投げ銭)を荒稼ぎしていた男がいた。
北米最大級の陰謀論系ストリーマーであり、ディープステートとの戦いを掲げるネットのカリスマ、“パトリオット・アイ”ことマイク・バーンズである。
彼が、自らのチャンネルで再び『緊急ライブ配信』の枠を立ち上げたのだ。
配信開始の通知を受け取った数十万の熱狂的なリスナーたちは、再び彼が政府の隠蔽を声高に罵り、ディープステートの完全なる崩壊を高らかに宣言し、レプティリアンの次なる野望を暴く「祝勝会の第二部」が始まるものだとばかり思っていた。
彼らは、用意したビールやポップコーンを片手に、コメント欄に「マイク最高!」「真実の勝利だ!」と書き込みながら、嬉々として配信枠へと雪崩れ込んだ。
だが。
画面に映し出されたその光景は、彼らの軽薄な期待を完全に裏切る、異様で不気味なものだった。
配信枠のタイトルは、『【謝罪】俺は、間違っていたのかもしれない』。
いつもなら、背後に巨大な星条旗のタペストリーを掲げ、派手な照明を焚き、ハイテンションなロックミュージックをBGMに流しているマイクのスタジオは、メインの明かりが完全に落とされ、どん底のように薄暗く沈んでいた。
画面の中央に、背中を丸めて座るマイク・バーンズ。
彼は、トレードマークである奇抜な星条旗柄のサングラスを外し、普段の威圧的で自信に満ちた態度は微塵も残っていなかった。その顔面は土気色に濁り、無精髭が伸び放題になり、目はひどく充血していた。まるでこの数時間の間に、地獄の底を覗き込み、魂を半分吸い取られて十歳も老け込んでしまったかのように見えた。
「……みなさん。声が、聞こえていますか」
マイクの声は、先ほどのマイクスピーカーを割らんばかりの覇気はどこへやら、ひどく掠れ、小刻みに震えていた。
「さっきまで、俺は……完全に、自分たちが勝ったと、思ってました。
十五年間だ。十五年間、俺は誰にも信じてもらえずに、変人扱いされ、妻にも逃げられ、社会から冷笑されながら、それでも政府の嘘を追いかけ続けてきた。
そして今日、ついにそれを暴いたって。ディープステートの動かぬ証拠を掴んだって。レプティリアンだ、メドベッドだ、俺たちがこの腐った世界を救う救世主になるんだって……本気で、心の底から、そう思ってました」
コメント欄の凄まじい勢いが、マイクの異様な様子と沈痛な告白を察知して、徐々にスピードを落としていく。
『おい、どうしたんだマイク?』『脅されてるのか?』『政府にハッキングされてるのか?』といった戸惑いの声が流れ始める。
マイクは、両手で顔を覆い、深い、深いため息をついた。
数万人の視聴者が固唾を呑んで見守る中、彼はしゃくりあげるようにして、胃の奥底から血を吐くような言葉を絞り出した。
「でも……あのCicadaが世界中に流した映像を、見た。
……あいつは、黒服どもに恐ろしい銃を向けられて、両手を上げて、無抵抗で降伏してました。
……あいつは、『この群れを害するな』って、人間の言葉で、得体の知れない宇宙人扱いしていた俺たち人類の子供たちを、必死に守ろうとしてました。
……あいつは、あんな恐ろしいアサルトライフルの銃口の前に飛び出して、人間の少年を庇って撃たれた。
……あいつは、胸に大穴を開けて血を流しながら、最期に……少年に向かって、『水をくれて、ありがとう』って、言って……死んだんだ」
マイクの目から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ち、机の上に黒いシミを作った。
彼は、大の大人であり、ネットの何百万人を扇動してきたカリスマでありながら、まるで迷子になった子供のように泣きじゃくっていた。
彼は、自らの決定的な過ちに気づき、そのあまりの罪の重さに完全に押し潰されていたのだ。
「俺は……あいつが暗いガレージで何を感じているのか、あいつがどういう存在なのか、あいつがどんな思いで砂漠の夜風に吹かれて震えていたのかを、たった一秒でも知ろうとする前に。
……勝手に『レプティリアン』って呼んで、人類の敵だって決めつけて、化け物扱いして、テロップをつけてオモチャにして遊んでた!!
政府の非道や隠蔽を非難しておきながら、俺も、あの人殺しの黒服たちと全く同じように……あいつから名前と感情を奪って、自分たちの陰謀論を証明するための『証拠品(モノ)』みたいに扱ってたんだ!!!」
マイクは、カメラに向かって、机に頭が激しくぶつかるほどの勢いで深々と頭を下げた。肩が激しく震え、後悔に満ちた嗚咽がマイクを通して全世界に配信されている。
「……俺は、自分の妄想を証明するためだけに、他人の命を消費した……最低のクソ野郎でした。
あいつは、怪物なんかじゃない。地球を支配する悪魔でもない。……あいつは、ただの『リオ』だったのに」
その魂からの痛切な懺悔。自分自身の人生を否定するような、血を流すような謝罪を聞いて。
コメント欄には、いつものような誹謗中傷や煽り、あるいは「裏切り者!」といった罵声は、驚くほど少なかった。
代わりに溢れ出したのは、マイクと同じように、Cicadaの映像を見て激しい自己嫌悪に苛まれ、自らの罪を直視せざるを得なくなった者たちの、極めて生々しい後悔の叫びだった。
[ライブのコメント欄 / リアルタイム]
User_TruthSeeker:
「俺もだ……俺もさっきまで勝ったと思ってた。バカだった」
User_WakeUp_99:
「俺も、トカゲ野郎って笑ってコラ画像作ってた……画面の向こうで生きてるって、血が通ってるって、想像できなかったんだ」
User_Lizard_Hunter:
「正直、捕まえて解剖しろって書き込んじまった。銃殺されて当然だって。……俺、人殺しと同じだ。死にたい」
User_Anon_Eagle:
「マイク、泣くな。謝るなよ。……俺たち全員が、最低のクソ野郎だったんだ」
User_Broken_Heart:
「ごめん、リオ。本当にごめん。一人で、あんな暗いところで、怖かったよな」
User_Never_Forget:
「今さら謝っても遅いけど、俺たちは本当に傲慢で、残酷だった。政府の連中を非難する資格なんて、俺たちにはなかったんだ」
陰謀論の最右翼に立ち、最も過激な言葉で大衆を先導していた彼が、自らの非を認めて完全に崩れ落ちたことで。
「レプティリアン」という陰謀論的かつ娯楽的な消費は、この瞬間、完全に終わりを告げた。
残されたのは、自分たちが「言葉の石を投げて知性体を殺した共犯者」であるという、圧倒的な「後悔」と「悼み」だけであった。
彼らは、アーティファクトという未知の事象を通じて、自分たち自身の心の中にある「怪物」と向き合わされることになったのである。
【第10章 陰謀論界隈の分裂】
マイク・バーンズの号泣する謝罪配信を皮切りに、世界中の「陰謀論界隈」はかつてないほどの激震に見舞われ、この日を境に完全に三つの派閥へと分裂することになった。
それは、人間の心が圧倒的な罪悪感と悲劇に直面した時、どのように自己を防衛し、あるいは崩壊していくかを示す、巨大な社会実験のような光景であった。
一つ目の派閥は、マイクのように自らの罪(無意識の非人間化)を認め、深く悔いる【自己反省派】である。
彼らはこれまでの自らの発言を恥じ、SNSのアカウント名から「レプティリアン・ハンター」や「覚醒者」といったイタい肩書きを外し、ただ一人の人間として、リオの死を悼み始めた。彼らが陰謀論界隈における最大勢力となった。
二つ目は、突きつけられた残酷な事実をどうしても直視できず、心が壊れるのを防ぐためにさらなる妄想へと逃げ込む【陰謀継続(サイオプ)派】である。
彼らにとって、自分たちが「善良な知性体を笑いながら見殺しにした」という事実は、自我を崩壊させるほどの猛毒だった。だからこそ、彼らは「あの映像そのものが嘘である」と信じ込むしかなかったのだ。
「みんな騙されるな! 思考を誘導されるな! これは政府の壮大な演出だ!」
「Cicadaの映像をよく見ろ! リオの流した青緑の血のテクスチャが不自然だ! あれはハリウッドのVFXスタジオで作られた高度なCGだ!」
「『リオ』という名前も大衆の同情を引くための心理作戦(サイオプ)だ! アイツはやっぱり人類を支配するディープステートの手先で、俺たちを油断させるためにあの純真な子供たちを利用したんだ! マイク・バーンズも政府に買収されて脅されて泣く演技をしてるだけだ!」
彼らは、必死にノイズだらけの映像を拡大し、「ここがおかしい」「このピクセルの影が矛盾している」と叫び続けたが、もはや彼らの声に耳を傾ける者は、同じように現実逃避を望むごく一部の哀れな狂信者しかいなかった。
そして三つ目が、最もタチの悪く、人間の強欲さを煮詰めたような【リオ殉教化(メシア)派】である。
彼らは、事態の空気が「恐怖」から「同情」へと完全に反転したことをいち早く察知するや否や、即座に手のひらを返し、自らの正当性を保ったまま新たな煽動(ビジネス)を始めようとしたインフルエンサーたちだった。
「皆の者、泣いている暇はない! 悲しみに暮れるな!」
ある新興の陰謀論ストリーマーが、画面越しに熱弁を振るう。
「リオは、ディープステートの悪事を暴こうとして政府の暗殺部隊に消された、純潔な被害者であり、尊い殉教者だ! 彼は我々に真実を伝えるために、命を懸けてあのガレージで戦ったのだ! 我々はリオの遺志を継がなければならない!
さあ、私のオンラインショップで『JUSTICE FOR RIO(リオに正義を)』とプリントされたTシャツとマグカップを買ってくれ! その資金で、ワシントンへデモ行進だ! リオの真実を暴き、政府に仇を討て!」
彼らは、対象を「怪物」から「聖人(ヒーロー)」へとスライドさせただけで、本質的にはリオを自分たちの反政府運動の『神輿(アイテム)』として、あるいは小銭を稼ぐためのグッズとして消費し続けようとしていたのだ。
他者の死すらも、自らの承認欲求とビジネスの道具にする。それは、人間の持つ最も醜悪な業の肯定であった。
だが。
このグロテスクな暴走に対して、猛烈なブレーキをかけ、ネット上で激しいレスバトル(言論戦)を仕掛けて徹底的な鎮圧にかかったのは、他ならぬ【自己反省派】の人間たちだった。
かつて同じ掲示板で陰謀論を語り合っていた仲間同士の、血みどろの内戦が勃発したのである。
[海外巨大匿名掲示板 / 陰謀論総合スレッド]
User_A(自己反省派):
「おい、お前らいい加減にしろ!! 恥を知れ!!」
User_B(殉教化派):
「なんだと? 俺たちは政府の陰謀を暴いて、リオの無念を晴らそうとしてるんだぞ! お前はディープステートの犬に成り下がったのか!」
User_A(自己反省派):
「ふざけるな! お前ら、リオが撃たれて死ぬ瞬間まで見ておいて、あの少年の泣き叫ぶ声を聞いておいて! それでもまだアイツを、自分たちの陰謀論ビジネスの『都合のいい駒(グッズ)』として消費する気かよ!」
User_C(自己反省派):
「同意だ。お前らがやってることは、あいつから名前を奪って銃弾を撃ち込んだ、あの黒服の政府の連中と何一つ変わらない! まだそんな薄汚いこと続ける気か!」
User_D(自己反省派):
「あいつは神様でも、反政府の英雄でも、ディープステートの使者でもない! 最後に少年に『ありがとう』って言って死んだ、ただの孤独な迷子だったんだよ! お前らのクソみたいな政治ゲームに巻き込むな! まず一人の『リオ』として、静かに弔ってやれよ!」
この、かつて同じ思想を共有していた内部からの、あまりにも痛烈で、真っ当な倫理的批判の集中砲火によって。
殉教化派のインフルエンサーたちのコメント欄は、大炎上し、彼らが販売しようとしていたTシャツのサイトはサイバー攻撃を受けてダウンした。
陰謀論という名の狂気は、急速に求心力を失い、あるいは支持基盤を完全に喪失して自壊していった。
彼らは長年、自らを「世界の真実を探求する者」と定義し、政府の嘘を暴く正義の味方であると信じて疑わなかった。だが、目の前で起きた痛ましい『本当の真実(他者の命の重さと、己の無自覚な加害性)』を前にして、その思想の底の浅さと残酷さを、世界中に完全に露呈してしまったのである。
「レプティリアン騒動」は、人類が宇宙の謎に迫った事件ではなく、人類が自分自身の醜い鏡を見せつけられただけの、重く苦しいレッスンとして、ネット空間に深い爪痕を残したのであった。
【第11章 アメリカ国内の政治爆発】
マイク・バーンズというネット界の象徴が自らの過ちを認めて崩壊し、陰謀論という名の歪んだ狂気が内側から自壊していく中、その膨大なエネルギーは瞬く間に次の対象へと向かっていった。
やり場のない巨大な悲しみ、そして自分たち自身が「知性を持った一つの命」を怪物扱いして消費していたという凄まじい自己嫌悪。それらすべてが混ざり合った濁流のような怒りが、ついにその悲劇の直接的な引き金を引いた【アメリカ合衆国政府】、とりわけリオを射殺した「旧軍系保全班」へと、メガトン級の爆発力を持って向かっていったのである。
アメリカ国内の主要ニュースネットワークは、それまで流していたネス湖のニュースや通常の情報番組をすべて緊急休止し、特別報道番組を編成してこの異常事態の政治的側面を秒単位で報じ続けた。
[MSNBC 特別報道番組 / ホワイトハウス記者会見]
『……ワシントンからお伝えします。ホワイトハウスの報道官は先ほど、臨時の緊急記者会見を行い、サンタ・ミラージュの民家ガレージにおいて無抵抗の未知知性体に対して発砲を行った、旧軍系保全班の現場指揮官ハロウおよび部隊の関係者全員を、合衆国大統領命令違反および国家反逆の容疑で直ちに身柄を拘束したと発表しました。
キャサリン・ヘイズ大統領は、冷戦期から歴代の政権の奥底でブラック・プロジェクトとして継承されてきた、すべての非公開封印案件に関する全面的な機密解除と特別監査を国防総省に命じました。大統領は「我が国の歴史の闇に、これ以上の暴走を許すわけにはいかない」と強い調子で述べています……』
普段であれば、大統領の決断や連邦政府の不祥事を巡って、保守系とリベラル系が互いのスキャンダルを暴き合い、激しい罵り合い(政治闘争)を繰り広げるのがアメリカの日常である。しかし、この日だけは違った。
Cicada 3301が全世界に突きつけた「両手を挙げて子供を庇った知性体を、証拠隠滅のために背後から射殺する」というあまりにも卑劣で凄惨な映像の前では、あらゆるイデオロギーの対立が完全に消失し、ただ一つの巨大な「反・旧軍官僚組織(シャドー・ガバメント)」の怒りとなってワシントンへと向けられたのだ。
[保守系最大手メディア(Fox News系)の論調 / 政治討論番組]
「これは、単なる連邦政府の一部門による行き過ぎた防犯活動、というような生易しい言葉で片付けてよい問題ではない! 我々国民が選挙によって選んだわけでもない、冷戦期の遺物である旧軍官僚制と影の組織が、勝手に軍用列車を走らせ、最高司令官である大統領の命令を公然と無視し、あろうことか自国の善良な国民の家(私有地)に強行突入して銃を乱射したのだ!
これは合衆国憲法修正第4条(不当な捜索・押収の禁止)および修正第2条に対する明確な冒涜であり、民主主義に対する明白なテロリズムである! 銃口を向けられ、命の危機に瀕したのが、我々と同じアメリカ人の少年であったという事実を、我々は絶対に看過してはならない! 現場の指揮官だけでなく、その背後で予算を流し続けていた国防総省の闇を徹底的に白日の下に晒すべきだ!」
[リベラル系最大手メディア(CNN系)の論調 / 緊急社説]
「国家安全保障という便利で傲慢な大義名分の名の下に、これまでどれだけの血塗られた秘密が、アメリカの地下深くで隠蔽されてきたのだろうか。
相手が人間であれ、未知の生命体であれ、自らの意志で両手を上げて降伏の意思を示し、『この群れ(子供たち)を害するな』と人類の言語で懇願した知性体を、自らの保身(隠蔽)のために問答無用で背後から射殺する権利など、この地球上の何人たりとも、いかなる国家権力であっても持ち得ない。
これは明確な虐殺であり、我々人類の持つ理性の完全な敗北である。ヘイズ大統領が旧軍系の解体を命じたのは当然の処置であり、議会は即座に特別調査委員会を設置し、冷戦時代の負の遺産をすべて根絶しなければならない」
ワシントンの政治家たちが世論の猛烈な逆風を恐れて次々と隠蔽部隊を非難する声明を出す中、アメリカ国内で最も深く、最も重く、そして現政権の安全保障政策にとって決定的な怒りを示したのは、実際に命がけで戦場を経験してきた【退役軍人(ベテラン)コミュニティ】であった。
星条旗を背負い、国家の交戦規定に従って規律正しく戦ってきた彼らにとって、あの現場の黒服たちがやった「卑怯な口封じ」は、自分たちの誇りを泥靴で踏みにじる行為に他ならなかったのだ。
全米の退役軍人たちが集まる巨大なオンライン・フォーラムやSNSのタイムラインには、血の混じった涙を流すような、悲痛な書き込みが濁流のように相次いだ。
[US Veterans Online Forum / サンタ・ミラージュ事変特設スレッド]
『俺は、イラクのファルージャやアフガニスタンの山岳地帯で、国家の命令に従って従軍してきた。前線では毎日が極限の状態だったが、軍の交戦規定(ROE)は絶対に遵守するよう脳に叩き込まれてきた。誰が本物の敵で、誰が守るべき民間人(非戦闘員)なのかを、俺たちは命がけで判断してきたんだ。
……だが。両手を上げ、自らの体を盾にして子供を庇い、完全に無防備になった相手に対して、至近距離からアサルトライフルで特殊炸裂弾を叩き込むような命令は、地球上のどんな軍隊であっても、絶対に【正当な命令】などではない。それは軍事行動ではなく、ただの隠蔽目的の惨殺(アサシネーション)だ』
『あの現場の黒服どもを、俺たちの神聖な「軍人」という名で呼ぶな。旧軍系保全班? ふざけるな。あんなものは軍隊ではない。自分たちの過去の過ちと秘密を闇に葬るためなら、自国の子供さえ平気で脅迫し、知性体を処刑する、ただの薄汚い隠蔽組織の掃除屋だ。
俺たちが命を懸けて守ってきた合衆国の星条旗を、その肩に背負う資格すらないクズどもだ。俺の戦友たちは、現地の子供を守るために身を挺して命を落とした。だが、あの黒服の指揮官は、真実を殺すために子供の目の前で引き金を引いたんだ。絶対に、地獄の底まで追い詰めて軍法会議にかけてやる』
『映像の最後で、あの異形の知性体が「群れを守れ」と保安官に言った時、俺は涙が止まらなかった。彼は軍人ではなかったが、あの場にいた誰よりも「軍人としての誇りと自己犠牲の精神」を持っていた。
それに引き換え、大統領の命令を無視してジャミングを敷き、証拠隠滅のために引き金を引いたハロウとかいう男はどうだ。あいつこそが、この国に巣食う本物の化け物だ。ヘイズ大統領、もし奴らを恩赦するようなことがあれば、俺たち退役軍人は全員でホワイトハウスを取り囲むぞ』
アメリカという巨大な近代国家の内部で、冷戦時代のパラノイア(被害妄想)から何十年間も密かに溜まり続けていた「見えない巨大な権力」への不信感という名の膿が、一人の異星の友人の痛ましい犠牲をきっかけにして、完全に破裂した。
ホワイトハウスの前には、数万人規模の市民が集まり、静かに「水の入ったペットボトル」を掲げて、政府の暗部に対する徹底抗議のサイレント・デモを開始していた。
【第12章 サンタ・ミラージュ地元の反応】
世界的パニックの暴風雨の爆心地(エピセンター)となった、ニューメキシコ州サンタ・ミラージュ。
その赤茶けた荒野に囲まれた寂れた小さな町は、ほんの数十時間前まで、突然やってきた正体不明の軍隊に強権的な道路封鎖を敷かれ、通信を遮断され、有毒化学物質の流出という大嘘を告げられて、住民全員が恐怖と怒りでパニックを起こしていた。
だが、セレスティアル・ウォッチの正規部隊によって旧軍系の暴走部隊が制圧され、電波ジャミングが完全に解除され、そしてあのガレージで起きた事件の「本当の真実の映像」を住民たちがそれぞれの端末で目撃してからは。……町全体が、まるで底なしの重い喪に服したかのような、深い悲しみと、静まり返った沈黙に包まれていた。
昼下がりの、誰も客のいない「ルート・ダイナー」。
ジリジリと照りつける砂漠の太陽が、窓ガラス越しに無人のテーブルを虚しく照らしている。普段なら常連の老人たちがコーヒーをお代わりしながらくだらない世間話や陰謀論に花を咲かせているはずのその空間には、油の染み付いた換気扇の鈍い回転音だけが響いていた。
店主の初老の男は、涙で何度も視界を曇らせながら、カウンターの木目を何度も何度も、力なく布巾で拭き続けていた。壁に掛けられたテレビからは、今も現場のサンタ・ミラージュからの中継が静かに流れている。
「……あの子たち、ジェイクも、ミアも、トビーも、サムも、リリーも。みんな、うちのダイナーのこのボックス席に座ってさ、よく放課後に安いハンバーガーとチョコレートシェイクを食ってたんだよ。ただの、ごく普通の、どこにでもいる地元の可愛い子供たちなんだ」
店主は、赤く腫らした目を袖で拭いながら、誰に言うでもなく掠れた声で漏らした。
「そんな、身近な地元の子供たちの家のガレージで……あんな酷い、悲しいことが起きてたなんて。あの子たちが、あんな冷たい真っ黒な防護服を着た連中に銃口を突きつけられて、泣き叫んでたなんて。
大人の俺たちが、同じ町にいながら、すぐ近くにいながら、何も知らずに、何一つしてやれなかったなんて……信じられないよ。あの子たちのこれからの心の傷を思うと、本当に、やりきれない」
町の片隅にある、錆びついた給油ポンプが並ぶガソリンスタンド。
日除けの屋根の下で、古いパイプ椅子に深く腰掛けていた老人は、遠くの幹線道路を見つめたまま、深いシワの刻まれた顔をさらに歪めていた。
「ワシらは昔から、暇つぶしにさ。あの使われてない古い廃線に夜中に軍の列車が走ってる、政府は宇宙人の死体でも隠してるんだって、半分はただの冗談で、半分は本気で言ってたんだよ」
老人は、トレードマークだった油まみれのトラッカーキャップを深く被り直し、声を震わせた。
「確かに、本当に怪しかった。政府は何かを隠してた。ワシらの勘は当たってたんだ。
……でもな。こんな血生臭い、誰も救われない悲しい終わり方を見たくて、あの陰謀論をビールのつまみに語ってたわけじゃないんだ。あんな、水をくれたからありがとうって言って、子供の身代わりになって死ぬような、優しい奴が地下に閉じ込められてたなんて……ワシらは、知りたくなかった。当事者になっちまうには、この町はあまりにも狭すぎる」
そして。
一晩前、このダイナーのボックス席で、ジェイクたちの前で真っ先に「地下秘密施設だ! レプティリアン支配だ!」と声高に叫び、得意げに大衆の恐怖を煽っていた、トビーの叔父。
彼は、自宅の薄暗い寝室のテレビの前で、ベッドの端に両手を固く握りしめたまま、一言も発さずにじっと画面を見つめていた。
彼の部屋の壁には、何年もの間、ロズウェル事件からエリア51、メドベッドに至るまでのオカルト雑誌の切り抜きや不鮮明なUFOのコピー写真が、赤い糸で複雑に結ばれた、巨大なコルクボードが壁一面に飾られていた。それこそが、彼の人生のすべてであり、退屈な日常から逃避するための聖域だった。
彼は、ゆっくりと立ち上がった。
そして、そのコルクボードの前に歩み寄ると、赤い糸をブチブチと引きちぎり、ピンで留められた不気味なトカゲ人間のイラストや政府の隠蔽を告発する記事の紙切れを、猛烈な勢いでむしり取り始めた。
最後には、その巨大なコルクボード自体を壁から力任せに引き剥がし、部屋の隅のゴミ箱へと乱暴に投げ捨てた。
「……俺は、ずっとあいつらのことを『レプティリアン』って呼んで、地球を裏で支配する邪悪な悪魔だと思ってた」
彼は、両手で顔を覆い、自分自身を激しく嘲るようにドスの効いた声で漏らした。
「だが、あいつは最後……俺の可愛い、たった一人の甥っ子の命を、そしてその友達の命を、文字通り自分の胸をブチ抜かれながら、盾になって守って死んだんだ。
……俺は、何十年もの間、一体何と戦って、何を見ていたんだろうな。政府の陰謀だ何だって偉そうに講釈を垂れて、一番近くにいた、ただの可哀想な『迷子』の悲鳴には、一秒だって耳を傾けようとしなかったんだ。俺があいつを怪物にしたんだ」
サンタ・ミラージュの地元の空気は、ほんの十数時間前の「世界的騒動の中心地」という下世話で野次馬根性的な興奮から、「一人の善良な隣人を失った、静かで深い葬送」へと、完全に様変わりしていた。
住民たちは、外から押し寄せるメディアのカメラを拒絶するように窓のカーテンを固く閉め、ただ静かに、あの油臭いジェイクの家のガレージの方向へ向かって、それぞれの祈りを捧げていた。
彼らは皆、サンタ・ミラージュの乾いた砂漠の砂風のどこかに、リオの魂がまだ漂っていて、人間の差し出した冷たい水の味を思い出しているような気がしてならなかったのである。
【第13章 ジェイクたちへのネットの反応】
Cicada 3301が全世界のネットワークをジャックして強制配信した、あの無編集のマルチアングル映像。
複数のカメラ視点から切り取られた残酷な真実の記録には、絶望的な悲劇の渦中に放り込まれたジェイクたち五人の少年少女の顔が、そして彼らを命がけで庇おうとしたデイビス保安官の姿が、一部とはいえ極めてはっきりと映り込んでしまっていた。
本来の、普段のインターネットという狂気と好奇心のるつぼであれば。
このような世界を揺るがす大事件に遭遇した一般人の映像が出回った瞬間、ものの数分で「特定班」と呼ばれる野次馬たちが動き出すのが常である。
彼らは、映像に映ったガレージの構造、背景のわずかな景色、少年たちの服装、聞こえてくるくぐもった声のアクセント、さらにはSNSの過去の投稿履歴や高校の卒業アルバムのアーカイブデータなどを、まるでパズルを解くような無責任な娯楽感覚で照合し、「ニューメキシコの高校生」「名前はジェイク」「学校はここだ」「あいつの裏アカウントを見つけ出せ」「直撃インタビューに行ってバズろうぜ」と、狂ったような個人情報の暴露(ドクシング)祭りを開始する。
大衆は、常に新しい刺激と、消費して使い捨てるための「次のターゲット」を、飢えた獣のように求めているからだ。
だが。
今回の彼ら「事件の渦中にいた少年少女たち」への注目は、かつて人類が繰り返してきた「無責任な消費と娯楽」とは、明らかに、そして決定的に異なる性質を持っていた。
リオという無垢な知性体を「レプティリアン」という陰謀論の記号として消費し、間接的に彼を死に追いやったという重すぎる罪悪感を共有したインターネットの集合的無意識は、これ以上の悲劇を、これ以上の無自覚な加害を、自らの魂が全力で拒絶していたのである。
[X(旧Twitter) / グローバル・タイムライン]
@Net_Watcher_99
「おい、お前ら! 言うまでもないと思うが、あの動画に映ってた少年たちを、絶対に特定しようとするなよ! これ以上の詮索はやめろ! 彼らの日常をこれ以上壊す権利は、俺たちには一ミリもない!」
@Ethics_Police
「完全に同意! 絶対に彼らの家に押しかけたり、マスコミはカメラを向けたり、無理やりマイクを突きつけてインタビューしようとするな!
あの子たちは世界に真実を暴いた英雄(ヒーロー)なんかじゃない。ただの平凡な未成年で、目の前でたった一晩だけ心を通わせた友達が、理不尽に背後から射殺されるのを見せつけられて、心に一生消えない深いトラウマを負った『被害者』だぞ! 彼らからこれ以上、何も奪うな!」
@Tears_For_Rio
「ジェイクって呼ばれてたあの子……今、どうしてるんだろう。大丈夫なのか。
目の前であんなことになって、しかも『自分が庇われたせいでリオが死んだ』『自分が外に出たせいで』って、絶対に、吐くほど自分を激しく責めてるはずだ……。想像しただけで胸が張り裂けそうになる。お願いだから、彼をそっとしておいてあげて」
@Anonymous_Mom
「最初に、あの得体の知れないエイリアン相手に、誰もが恐れるような状況で、銃や石じゃなくて『一杯の水』を渡した、本当に優しい子だよな。……あいつが勇気を出してくれたから、リオは最後に、この星で孤独じゃなかったんだ。彼をこれ以上、大人の身勝手な都合と野次馬根性で傷つけるな」
@True_Hero_Davis
「動画を撮るのをやめようとしたけど、最後は真実を世界に伝えるために、恐怖でガタガタ震えながらカメラを回し続けたリリー。それを止めずに、記録を残すことを選んだミア。自分の弱さと恐怖を隠さずに認めて泣き叫んだサム。
そして何より、自分のキャリアも命もすべて懸けて、黒服の銃口の前に立って子供を守ろうとしたデイビス保安官。
……彼らは、本当に立派だった。政府の腐った連中なんかじゃない、彼らこそが、人類の最後の良心だったよ」
ネット空間は、彼らを消費するためではなく、彼らを「世界中の悪意と好奇心から保護する」ための、巨大な見えない防壁(ファイアウォール)を形成し始めていた。
しかし、どれほど空気が浄化されようとも、人間の業の底辺を這いずるような者たちは必ず存在する。
一部の悪質なまとめサイトの管理人や、インプレッション稼ぎの迷惑系アフィリエイトアカウント、あるいは他人の不幸を金に換えることしか頭にないゴシップ系配信者たちが、彼らの本名や通っている高校、家族構成などを特定し、『サンタ・ミラージュ事件の少年たちを特定! 衝撃の素顔とは!?』というセンセーショナルな見出しで不穏な動きを見せ始めた。
だが、その悪意が芽吹いた瞬間。
世界のインターネットは、かつてないほどの統制された、そして凄まじいまでの【怒り】を持って、彼らに鉄槌を下した。
「やめろ!! 記事を消せ!!」
「今度は何も悪くない子供たちを消費して、小銭を稼ぐ気かクズども!!」
「リオを怪物として消費して殺した次は、心に傷を負った子供を悲劇の主人公としてエンタメ消費するのかよ! いい加減に学べよ人類!! これ以上、俺たちに罪を重ねさせるな!!」
世界中のユーザーからの猛烈なスパム報告とアカウント通報の嵐。
さらには、「アノニマス」に連なるような世界中の凄腕のホワイトハッカーたちが、一切の申し合わせもなく自発的に立ち上がり、それらの悪質サイトのサーバーに対して直接的なDDoS攻撃(分散型サービス妨害攻撃)を仕掛け、物理的にサイトをダウンさせた。
個人情報を掲載しようとしたアカウントは、ものの数時間で完全に焼け野原となり、プラットフォーム側からも永久凍結(バン)の処分を下された。
この強烈な自浄作用の働きは、リオの死という取り返しのつかない重い犠牲を払って、人類のインターネットという集合知が、わずかばかりの「成長(自制)」を見せた瞬間であった。
彼らは、ディスプレイの向こう側には血の通った人間(あるいはそれに等しい知性体)がいるという、当たり前すぎる事実を、ようやく骨の髄まで理解したのだ。
二度と、「誰かの人生や命を、エンタメとして無責任に消費しない」。それは、リオへの贖罪として、ネットの世界が共有した、無言の絶対的なルールとなったのである。
【第14章 「水をくれて、ありがとう」の拡散】
油まみれのガレージの床で。
青緑色の自らの血溜まりの中で、少年の手を冷たい指で握りしめ、最後にリオが遺した言葉。
『……水をくれて、ありがとう』
この、あまりにも不器用で、痛ましいほどに純粋な感謝の一言は。
翻訳AIと、世界中に散らばる有志たちの手によって、瞬く間にあらゆる言語へと翻訳され、国境という概念を嘲笑うかのような速度で、地球上の隅々へと拡散されていった。
英語圏では:『Thank you for the water.』
日本語圏では:『水をくれて、ありがとう。』
スペイン語圏では:『Gracias por el agua.』
フランス語では:『Merci pour l'eau.』
中国語、アラビア語、ヒンディー語、スワヒリ語、ロシア語。
それは、映画や小説の感動的な名言として、あるいは安っぽいポエムとして消費されたわけでは決してなかった。
人類が、未知の存在に対して取り返しのつかない致命的な過ちを犯したという、【原罪の記憶】と【戒め】の言葉として、人々の心の一番深い場所に、消えないタトゥーのように重く刻み込まれたのだ。
月曜日の朝。
東京のある中学校の教室で、登校してきた生徒たちは息を呑んだ。
誰もいないはずの教室の黒板の片隅に、誰かが白いチョークで、ただ一言、その言葉を書いていたのだ。誰もそれを消そうとはしなかった。教師もまた、その文字を見て黙祷するように目を伏せ、そのまま授業を始めた。
SNSのプロフィールの自己紹介欄。
自分が何者であるか、何を信条としているかをアピールするためのその場所のテキストをすべて消去し、ただ『Thank you for the water.』という一文だけを載せる者が、世界中で何百万人という規模で急増した。
そして、インターネットの枠を超え、現実の物理的な世界において。
「水」の入ったペットボトルや、透明なガラスのコップの写真を撮影し、その言葉と共に投稿する、静かで、しかし途方もなく巨大なムーブメントが、静かな波紋のように広がっていった。
ハッシュタグは、ただ一つ。
【#WaterForRio】
[世界中から投稿される、無数のタイムライン]
「今日、出社して、職場の自分の机の端に、透明なグラスに水を一杯注いで置いた。周りの同僚も、誰も何も言わなかったけど、同じように机にペットボトルの水を置いていた。……理由は分からないけど、そうしたかったんだ。彼が、喉を渇かせていないようにと祈って」
「ニューメキシコのあのひどく乾いた砂漠の町で。……人類が、最初に彼に差し出したものが、相手を傷つける『武器(銃)』ではなく、彼を気遣う『一杯の水』だったことだけが。この胸糞悪い事件における、人類に残された唯一の救いだよ」
「人類が最初にリオへ渡したものは、命を繋ぐための水だった。……そして、最後に渡したものは、命を奪うための銃弾だった。私たちは、この絶望的な落差と残酷さを、一生背負って生きていかなきゃならない。彼が最後に恨み言ではなく、水への感謝を述べたことが、余計に私たちの心臓を抉るんだ」
その言葉の持つ途方もない重みと、果てしない哀しみは。
どんな国境の線引きも、政治的なイデオロギーも、宗教の壁も、人種の壁も越えて、すべての人々の胸を深く突き刺した。
イギリスのロンドンに住むある女性は、雨の降る窓辺に置いた水の入ったグラスの写真を投稿し、こう添えた。
「ネス湖で、私たちは死者と静かにお別れをするための場所を、恒久的に守ることを決めた。それなのに、アメリカの砂漠では、生きていて、語り合えるはずだった知性を、自分たちの手で永遠の死者にしてしまった。私たちは、一歩進んで、二歩後退している」
インドのニューデリーの若者は、太陽の光を反射して輝くペットボトルの写真を投稿した。
「ソーマの神樹は、人類が汚染した大地を、何の見返りも求めずに癒やしてくれた。そしてリオは、自分を撃った人類の子供を庇ってくれた。……彼ら未知の存在の方が、よほど神に近く、慈悲深い。我々は、その愛にどう報いればいいのだろうか」
水という、生命を維持するための最も根源的で、最も無垢な物質。
そして、それを「与える」という、他者を慈しむ最も原始的な行為。
リオが最期に遺した感謝の言葉は、人類が本来持っていたはずの「優しさ」を思い出させると同時に、自分たちがいかにしてその優しさを「恐怖」によって放棄してしまったかを、残酷なほど鮮明に照らし出していた。
世界中の都市で、名もなき人々が、道端や広場の片隅に、花束の代わりにそっとペットボトルの水を置き始めた。
それは、誰に強制されたわけでもない、人類という種としての、一人の未知なる隣人への、深く、静かな弔いであった。
冷たい砂漠で散った彼の魂が、せめてもう二度と、渇きと孤独に苦しむことがないようにと。世界は、ただ静かに祈り、そして静かに涙を流し続けていたのである。
【第15章 専門家・倫理学者の反応】
事態が「都市伝説のエンタメ」から「人類史に残る痛ましい知性体の悲劇」へと完全に反転したことで、これまでネットの狂騒を冷ややかな目で静観していた各界の専門家たちも、この事件の歴史的な意味と深刻さを総括すべく、一斉に重い腰を上げ始めた。
アメリカ、金曜日のゴールデンタイム。
普段は最新の政治スキャンダルや緊迫する国際情勢を扱う、全米で数千万人が視聴する権威あるニュース討論番組『ナイトライン・ジャーナル』が、この日は急遽予定をすべて変更し、二時間の特別枠を設けて「サンタ・ミラージュ事件」を単独テーマとして取り上げた。
スタジオの巨大なモニターには、暗いガレージの中で両手を上げて降伏の意思を示し、少年を庇う直前のリオの静止画が、重苦しい存在感を放ちながら映し出されている。
円卓を囲むのは、著名なベテラン・ニュースキャスターを司会進行役とし、宇宙生物学者、国際法学者、そして生命倫理学者の三人の権威たちであった。
「……さて。我々はあの夜、紛れもなく歴史の転換点を目撃しました」
初老の司会者が、カメラに向かって、ひどく沈痛な面持ちで語り始めた。
「我々メディアを含め、多くのアメリカ国民は、あのポッドの最初の映像が流出した際、彼を『レプティリアン』というB級映画の怪物のような名で呼び、恐怖し、あるいは嘲笑し、エンターテインメントとして消費しました。
しかし、Cicada 3301が全世界に暴露したあの残酷な記録映像は、我々のその傲慢な認識が、いかに根本から間違っていたかを突きつけました。
……スターク博士。初接触倫理(ファースト・コンタクト・プロトコル)の専門家であり、宇宙生物学の第一人者であるあなたから見て、彼の行動はどう映りましたか?」
名指しされたアラン・スターク博士は、深くため息をつき、手元の分厚い資料ファイルをテーブルに置いた。
「結論から申し上げます。……我々が彼を『レプティリアン(爬虫類人類)』というオカルト用語で呼んでいたことは、科学的にも、そして知性に対する敬意という意味でも、極めて不適切であり、恥ずべき行為でした」
スターク博士は、モニターに映るリオの金色の瞳を指差した。
「あの映像を詳細に分析すれば、彼がただの獣ではないことは一目瞭然です。
第一に、言語能力。彼はポッドから出てわずか数時間で、人間の言語(英語)の文法構造と発音を理解し、コミュニケーションを確立しました。これは彼の脳神経構造が、他者と意思疎通を図るために高度に設計されている証拠です。
第二に、自己保存と他者保護の概念。彼は銃口を向けられた際、両手を上げるという『非武装・降伏』のサインを正確に模倣し、さらには自らの命を投げ出して、自分よりも弱き者(少年)を庇いました。
……生物学において、自己犠牲を伴う他者への極限のエンパシー(共感性)は、最も高度な社会性を持つ知性体のみに見られる特徴です。我々は彼を、恐怖の対象としてではなく、我々と同等、あるいはそれ以上に高潔な【知性体】として遇するべきでした。今回の射殺事件は、人類の初接触(ファースト・コンタクト)の歴史において、永久に拭い去ることのできない最悪の失敗例として刻まれるでしょう」
スタジオに、重い沈黙が落ちる。
次に司会者は、国際法と人権問題の権威であるエレナ・ロストヴァ教授に話を振った。
「ロストヴァ教授。法的な観点から見れば、あの現場で起きたことは何だったのでしょうか? 旧軍系部隊の指揮官は『対象は認知汚染リスク』と発言し、超法規的な処分を正当化しようとしていましたが」
ロストヴァ教授は、怒りで微かに唇を震わせながら答えた。
「彼らの言葉は、法治国家に対する最も醜悪な冒涜です。
確かに、現在の国際法や合衆国憲法には、地球外生命体や『非人類の知性体』に対する人権や法的手続きを定めた条文は存在しません。我々の法体系は、相手が人間であることを前提に作られており、彼らのような存在に対する法的な準備は、完全に白紙状態でした。
……しかし。だからといって、その法的な準備不足(空白地帯)が、両手を上げて明確に降伏の意思を示している相手を、背後から問答無用で射殺することの免罪符には絶対になりません」
ロストヴァ教授は、眼鏡の奥で鋭い光を放ち、旧軍系部隊の残虐性を弾劾した。
「あの指揮官は、対象を『捕虜』や『容疑者』としてではなく、単なる『危険な廃棄物』として処理しました。法が存在しないことをいいことに、いかなる裁判も、証言の機会も与えず、現場の独断で私刑(リンチ)を行ったのです。これは法の欠陥の問題ではありません。法を無視して自らの都合で命を奪うことを正当化した、権力の暴走そのものです」
そして。
最後にマイクを取った高名な生命倫理学者のジュリアン・ヴァンス博士が、この事件の背景に潜む、最も恐ろしい『人間の業の核心』を突いた。
「お二人の言う通り、我々は歴史的な初接触に失敗し、法的な手続きも踏みにじりました。……ですが、我々が最も直視しなければならない重大な倫理的欠陥は、別のところにあります」
ヴァンス博士は、両手を組み合わせ、カメラを真っ直ぐに見据えた。
「皆様、あの映像の音声を思い出してください。
現場の指揮官は、彼が『私はここにいる。群れを害するな』と喋ったのを聞いた直後に、処分の準備を命じました。
……つまり。彼らは、相手が言葉の通じない恐ろしい怪物だったからパニックになって撃ったのではありません。
彼らが引き金を引いた最大の理由は、彼が【話せる】と分かったからです」
その言葉の持つ途方もない冷酷さに、司会者も、他の専門家たちも息を呑んだ。
「相手が知性を持たず、ただ唸り声を上げるだけの獣であれば、彼らは麻酔銃で眠らせて、再び地下の檻に閉じ込めたでしょう。
ですが、彼は言葉を持っていた。人間の少年と心を通わせる感情を持っていた。……それは、彼が法廷や公の場で、自らが地下で受けてきた非人道的な管理や、国家の暗部を暴き立てる『生きた証拠(証言者)』になり得るということを意味します。
……これは、未知への恐怖が生んだ悲劇ではありません。自らの地位と秘密を守るために、不都合な証言者を消し去ったという、【証言への恐怖】が生んだ、極めて冷徹な政治的暗殺です」
ヴァンス博士の静かな、しかし刃のような分析が、スタジオの空気を絶対零度にまで凍りつかせた。
「我々は、未知の存在を恐れたのではありません。我々自身の『罪』が明るみに出ることを恐れたのです。……自らの保身のために、歩み寄ろうとした知性の手を払いのけ、その胸に鉛の弾丸を撃ち込んだ。それが、あのガレージで起きた事件の、最も醜悪で、最も絶望的な本質なのです」
この討論番組の内容は、即座に文字起こしされ、世界中のニュースサイトやSNSへと拡散されていった。
世界中の人々は、専門家たちの容赦のない論理的な整理によって、「なぜリオは殺されなければならなかったのか」という残酷な真実を、逃げ場のない形で再確認させられたのである。
彼は怪物だったから殺されたのではない。あまりにも知的で、あまりにも人間に近すぎたからこそ、人間の都合によって殺されたのだという事実を。
【第16章 宗教界の反応】
アーティファクトの出現によって、既存の教義や世界観が根底から揺さぶられ続けている世界の【宗教界】もまた、このサンタ・ミラージュの事件に対して、極めて深く、そしてかつてないほど統一された反応を示していた。
これまで、UFOや異星人の存在に対して「悪魔の化身だ」「神の創造の秩序に反する」と強硬な姿勢をとってきたアメリカ国内の保守的なキリスト教福音派のコミュニティでさえも、今回ばかりは沈痛な祈りの場へと姿を変えていた。
日曜日の朝。
テキサス州にある数万人を収容するメガチャーチ(巨大教会)の祭壇に立った高名な牧師は、いつものような熱狂的な説教ではなく、静かに、涙を堪えるような声でマイクを握った。
「……兄弟姉妹の皆さん。我々は今週、大いなる試練と、深い悲しみを目の当たりにしました」
牧師の背後の巨大なスクリーンには、ガレージで少年を庇うリオの姿が映し出されていた。
「つい数日前まで、我々の中にも、彼を『地獄から這い出てきたレプティリアンの悪魔だ』と呼び、政府が直ちに彼を滅ぼすよう祈っていた者がいたかもしれません。私自身も、未知への恐怖から、彼を神の敵であると疑いました。
……しかし。我々が『怪物』と呼んだその存在は。最後の瞬間に、自らの命を投げ打って人間の友を守り、そして、一杯の冷たい水を与えられたことに、心からの感謝を述べて息を引き取りました」
牧師は、分厚い聖書の上に手を置き、集まった信徒たちに向かって語りかけた。
「ヨハネによる福音書第15章には、こう書かれています。『人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない』と。
彼がどこから来た何者であったか、彼の肉体がどのような構造をしていたのか、我々には分かりません。しかし、友を守り、無私の愛を示し、最期に感謝の言葉を口にした存在を……我々が『怪物』や『悪魔』と呼び続けることは、神の教えに反する傲慢以外の何物でもありません。
我々は、愛の形を、外見や生まれで判断するという致命的な罪を犯しました。神よ、我々のこの愚かな目と、恐怖に支配された臆病な心を、どうかお許しください」
数万人の信徒たちが、静かに頭を垂れ、アーメンと呟きながら涙を流した。
海を隔てたヨーロッパ、バチカンのサン・ピエトロ広場でも、同様の深い哀悼と神学的な問いかけが行われていた。
日曜日のアンジェラスの祈り(正午の祈り)に集まった群衆を前に、教皇は書斎の窓から、静かで威厳に満ちた声で世界に向けてメッセージを発信した。
「親愛なる世界の皆様。今週、遠いアメリカの地で起きた出来事は、我々人類に対し、神の被造物に対する大いなる問いを突きつけました。
我々は、人間以外の知性体に『魂』が存在するのかどうか、軽々しく断定することはできません。それは神の領域の神秘です。……しかし、善きサマリア人のように、見知らぬ他者のために自らを犠牲にし、隣人を守るという気高い行為を、我々は決して無視してはなりません」
教皇の言葉は、広場に響き渡り、世界中の信者の胸を打った。
「神の愛は、我々の想像を遥かに超えた広がりを持っています。彼がどのような姿形をしていようと、その心に宿っていた慈愛と自己犠牲の光は、間違いなく神の恩寵の反射です。我々は、自らと異なる者を直ちに敵と見なす傲慢さを捨て、彼が遺した『水への感謝』という言葉の重みを、永遠に心に刻まなければならないのです」
一方で、東洋の宗教・哲学の指導者たちも、この事件の本質を独自の視点から深く洞察していた。
インド北部、ダラムサラの亡命政府に身を置くチベット仏教の高僧は、世界中のメディアに向けた公開書簡の中で、仏教の根幹である「縁起(繋がり)」と【名付け(言葉の暴力)】という概念を用いて、事態の悲劇性を説いた。
『我々人類は、彼に対して、最初から最後まで「言葉」による暴力を振るい続けました。
彼は、自らが何者であるかを語る前に、我々によって恐怖の対象として「レプティリアン」と名付けられ、迫害されました。我々は、自らの心の中にある煩悩(恐れや怒り)を、彼という鏡に投影し、勝手に怪物を作り上げていたのです。
しかし、サンタ・ミラージュの少年だけは、彼に「一杯の水」という慈悲を与え、最後に一人の友として「リオ」という名を呼びました。
……対象に【名付ける】ということは、その存在のあり方を決定づける、極めて重い行為です。我々が彼を「レプティリアン」と呼んでいる間、彼は殺すべき敵でした。しかし、「リオ」と呼んだ瞬間、彼は我々の失ってはならない隣人となりました。
我々は、彼が死の淵に立たされるその瞬間まで、彼の本当の名前を呼んであげることができなかった。……その名付けの遅さがもたらした取り返しのつかない悲劇を、人類は永遠に忘れてはなりません』
イスラム教の指導者たちもまた、「すべてを慈しむ者(アッラー)」の教えに反し、言葉の通じる平和的な存在を害した旧軍系の行動を厳しく非難し、ヒンドゥー教の学者たちも、生命の繋がり(ダルマ)の観点からリオの自己犠牲を高く評価した。
世界のあらゆる宗教が、教義の枠を超えて、たった一つの共通の結論に達していた。
それは、「我々人類は、神から(あるいは宇宙から)与えられた『精神的な試練(テスト)』に、完全に、そして無惨に失敗したのだ」という、強烈な悔恨の念であった。
祈りの言葉は、もはや死者の魂を救済するためのものではない。
自らの身勝手な恐怖によって、救えたはずの命を無惨に踏み躙ってしまった、人類自身の汚れた魂を浄化するための、血を吐くような懺悔の祈りとして、地球上のあらゆる寺院や教会で、途切れることなく捧げられ続けていたのである。
【第17章 日本ネットの整理】
言語の壁や物理的な距離によって、直接的なパニックの中心地(アメリカ)からは少しだけ切り離された安全圏にありながら、同時に「ソーマの樹」や「平和の檻」といった数々の特大級の既存技術外事象(アーティファクト)を当事国として、あるいは最前線の観測者として経験してきた日本のインターネット空間。
彼らのこの事件に対する反応は、海外の直接的な政治的怒りや宗教的悲嘆とは少し異なる、極めて俯瞰的で、かつ哲学的な内省(整理)を伴ったものへと発展していった。
ほんの数時間前、最初のポッドの映像が流出した直後の日本のネット掲示板やX(旧Twitter)のタイムラインは、他の国々と同様に、完全に無責任なお祭り騒ぎ(エンターテインメント)の様相を呈していた。
「またアメリカがとんでもないもん地下に隠してたww」
「UFOとかじゃなくて、ダイレクトに『レプティリアン』はさすがに草生える」
「これ完全に月刊ムーの三神編集長案件だろ。明日の朝のワイドショーで絶対ニヤニヤしながら解説するぞ」
「メドベッドもガチなら、俺の薄毛も治るのかな?」
そんな、深夜のバラエティ番組を実況するような軽いノリで事態を消費していた彼らの頭上へ、Cicada 3301のあの無慈悲なマルチアングル映像が叩きつけられたのだ。
その直後の、日本のネット民たちの反応は、自己の軽薄さに対する強烈な「羞恥」と「後悔」で埋め尽くされた。
[5ちゃんねる:ニュース速報板 / サンタ・ミラージュ事件考察スレッド]
241 :名無しさん@涙目です
さっきまで「レプティリアン草」とか書き込んでた自分を、全力でタイムマシンで戻ってタコ殴りにしたい。マジで吐き気がする。俺たち、ネットの向こうの命を完全にオモチャにしてたんだな。
255 :名無しさん@涙目です
あいつ、普通に喋ってたじゃん……。降伏して、子供たちのこと「群れ」って呼んで庇って。
怪物でも何でもない、ただの心のある『リオ』じゃんか……。
289 :名無しさん@涙目です
最後の「水をくれて、ありがとう」で俺の涙腺のダムが完全に崩壊して無理だった。
あんな風に笑って、感謝しながら死んでいくトカゲ人間がいるかよ。なんであんな優しい奴が撃たれなきゃならないんだ。理不尽すぎるだろ。
そして、議論は単なる事件への感想を越え、「アーティファクト時代」と呼ばれるこの狂った数ヶ月間全体における、人類の歩み(精神的な成長と退行)の比較・総括へと向かっていった。
日本人は、この未曾有の事態の連続を、一つの連続した「人類へのテスト」のように捉え始めていたのだ。
410 :名無しさん@涙目です
なんかさ……この数ヶ月のアーティファクト事件の連続を振り返ると、人類って本当に成功と失敗を交互に繰り返してるよな。
イギリスのネス湖の時は、死者との対話っていうパニックの中で、最終的には綺麗に『別れ』を告げて、死者のための静かな管理区域を作るっていう理性的な対応ができた。
418 :名無しさん@涙目です
福島の『ソーマの樹』の時もそうだった。最初は自衛隊が出動して撃つ一歩手前まで行ったけど、最終的には人類の過ちを認めて、自然(神樹)の癒やしを受け入れることができた。
イギリスが『平和の檻』をぶっ壊した時は賛否両論あったけど、あれは「誰かに管理された平和」じゃなく、自分たちで責任を背負って「自由」を選ぶっていう、人類としての大きな決断だった。
435 :名無しさん@涙目です
でも……今回の『リオ』の事件は。
未知の存在に対する「恐怖」っていう、一番原始的で最低な感情に負けて、言葉が通じる相手を、理解しようとする前に背後から問答無用で撃ち殺しちまった。
今までの事件で人類は少しずつ成長してる、未知と共存できるって思ってたのに……このニューメキシコの砂漠で、俺たちは一気に何百年も前の「魔女狩り」の時代まで精神的に退行したんだ。絶望しかない。
人類は、死者と和解し、神樹に許され、神の管理(平和の檻)を跳ね除けた。その「自由」で、彼らは「対話可能な知性体を恐怖で撃ち殺す」という選択をしてしまったのだ。
その事実の残酷さが、ネットの住人たちを深い虚無感へと突き落としていた。
一方で、事態の政治的側面、すなわち「アメリカ政府の責任」について、日本のネット民は比較的冷静な(しかし極めて重い)分析を行っていた。
512 :名無しさん@涙目です
でもさ、これアメリカ政府(ヘイズ政権)の全部が悪だったとは言えないよな。
映像の通信ログとか、ホワイトハウスのその後の動きを見る限り、ヘイズ大統領やセレスティアル・ウォッチの正規部隊は、マジでギリギリまでこの射殺を止めようとしてたっぽいし。
520 :名無しさん@涙目です
あそこで大統領命令をガン無視して、電波ジャミングまでして強行突入した「旧軍系保全班」とかいう連中が一番の癌(バグ)だろ。
冷戦時代から何十年も地下の秘密を守り続けてきて、自分たちが国を裏で操ってるって勘違いしちゃった『亡霊』ども。アイツらが、自分たちの不都合な真実を喋られそうになってパニック起こして口封じに走ったんだ。
538 :名無しさん@涙目です
『冷戦の亡霊』って言い方が、ここまで洒落にならない現実として突きつけられるとはな……。
新しい時代(アーティファクト時代)のルールに対応できない古い権力の残滓が、暴走して悲劇を起こす。歴史の教科書で何万回も見た最悪のパターンだよ。
そして、この陰謀論と現実が交錯する奇妙な事件の「本質」について、彼らはある一人のオカルト専門家の過去の言葉を引用して、見事に整理をつけていた。
601 :名無しさん@涙目です
前に、月刊ムーの三神編集長が深夜番組で言ってた解説が、今になって死ぬほど刺さってくる。
『陰謀論ってのは、結論(宇宙人が世界を支配してる等)は完全に間違いの妄想なんですけど、その元ネタになった事象(地下に何かを隠していた等)だけは本物だったりするから、一番厄介なんですよ』ってやつ。
615 :名無しさん@涙目です
ほんとそれな。
今回、レプティリアン陰謀論の「元ネタ」はガチで本物だった。でも、あいつは地球を裏で操る邪悪な支配者(ディープステートの黒幕)なんかじゃなくて。
……何十年も冷たい地下のポッドに閉じ込められて、最後は人間の子供の盾になって死んだ、一番可哀想な『被害者』だったんだ。
自分たちを裏で支配してると思って怯えてた相手が、実は自分たちよりずっと弱くて、優しい存在だったっていうこの事実……グロテスクすぎて、陰謀論者たちもそりゃ精神崩壊するわな。
日本のネット空間は、事件をセンセーショナルに消費するフェーズを早々に終え。
人類の愚かさ、古いシステムの暴走の恐ろしさ、そして「他者をレッテルで裁くことの罪」を、集合知として静かに、そして深く総括し始めていた。
【第18章 Cicadaへの反応】
世界を深い悼みと自己嫌悪の底へ叩き落としたこの事件において。
その凄惨な「真実」を、最も残酷な手法で全世界にばら撒いた絶対的なサイバーテロリスト、【Cicada 3301】に対するネット上の反応は、かつてないほど真っ二つに、そして激しく割れていた。
一方にあるのは、彼らのその「人の命を軽んじるような極めて悪趣味な演出」に対する、猛烈な【怒り】と嫌悪感であった。
[X(旧Twitter) / グローバル・タイムライン]
@Angry_Citizen_X
「ふざけるなCicada! あの胸糞悪い顔文字(><)はなんだ! 煽ってるのか!?
一人の知性体が、あんな悲惨な形で撃ち殺されてるんだぞ! 人の死をテロップ付きのバラエティ番組か何かと勘違いしてんのか! 最悪の配信者だ!」
@Morality_First
「そもそも、お前らが最初のポッドの脱線動画を面白半分で世界中に拡散して大衆を煽らなければ、あそこまで旧軍系の連中が焦って隠蔽(口封じ)のために強硬手段に出ることもなかったかもしれないだろ!
お前らが火をつけて、焼け死ぬのを高みの見物してたんだろうが! 共犯者め!」
@Anti_Cyber_Terror
「最後の『怪物、ではなかったみたいだね。』ってテキスト、本当に死ぬほど腹が立った。
自分たちだけはすべてを上から目線で見透かしてる神様にでもなったつもりか? お前らは正義のハッカーなんかじゃない。ただ他人の不幸をエンタメとして消費してるだけの、タチの悪いサイバーテロリストだ!」
Cicadaの「><」という軽薄な絵文字や、事態を俯瞰したような冷笑的なテキストは、リオの死という絶対的な悲劇の重さと最悪のコントラストを生み出し、多くの人々の倫理観を激しく逆撫でしていた。
彼らは、悲劇の当事者(ジェイクたちやリオ)に寄り添うことも、助けようとすることもなく、ただ安全圏から「最も世界が燃え上がる最悪のタイミング」を見計らって動画を投下したのだ。その悪意ある冷徹さは、確かに許されざるものであった。
しかし。
その激しい怒りの裏側で、彼らの行った「絶対的な情報暴露」のもたらした【結果】に対して、複雑で、しかし極めて冷徹な評価を下す声もまた、ネット上には確実に広がっていた。
[海外巨大匿名掲示板 / Cicada検証スレッド]
User_Hacker_Watcher:
「みんな、Cicadaの演出に腹を立てる気持ちは痛いほど分かる。俺だってあの顔文字を見た時は画面を殴りたくなった。
……だが、冷静に考えてみてくれ。もし、Cicadaがこのシステムに侵入していなくて、あのマルチアングル映像を世界中に強制配信していなかったら。……今頃、どうなっていたと思う?」
User_Truth_Seeker_02:
「……確実に、全てが『闇の中』だっただろうな」
User_Logic_Thinker:
「そう。旧軍系の黒服どもは、ジェイクのビデオカメラも、リリーのスマホも、あのガレージの防犯カメラのデータも、全部強引に没収して物理的に破壊していただろう。
そして、リオの死体は誰にも知られずに『危険な化学物質の焼却処分』として永遠に隠蔽され、あそこにいた少年少女たちやデイビス保安官は、口外すれば家族の命はないと脅されて、一生、国家の厳しい監視下に置かれたはずだ」
User_Realist_99:
「……俺たちは、あのふざけたテロリストのおかげで。
リオという存在が、確かにあのガレージで生きていて、言葉を話し、子供を庇い、水に感謝して死んでいったという【真実】を知ることができたんだ」
User_Silent_Observer:
「Cicadaがいなかったら、リオは名もなき『危険個体の処分完了』という国防総省の裏のレポートの一行で終わってた。あいつらが強引に真実を暴いたからこそ、旧軍系の暴走が白日の下に晒されて解体に向かい、世界はリオの死を『一人の知性体への悼み』として共有することができてるんだよ」
それは、究極のジレンマであった。
Cicada 3301は、決して困っている人々を助けにくる「正義の味方(ヒーロー)」ではない。
彼らは、撃たれそうになっているリオをハッキング技術で助け出すことも、少年たちの逃走をアシストすることもしなかった。彼らはただ、じっと暗闇の中でカメラのレンズを通し、惨劇の始まりから終わりまでを冷酷に『記録』し続けただけだ。
「助けない。ただ、隠蔽を燃やすだけ」
それが、アーティファクトの時代に出現した、彼らという存在の絶対的なスタンスであった。
「あいつらは、社会の欺瞞や国家の隠蔽という『燃料』に火を放って、世界中をパニックの業火で焼き尽くす、歩く『情報災害』だ。
……でも、その業火の中でしか、燃えカスの中から立ち上る【本当の真実】を見つけることができない。
人類の社会システムが腐敗している限り、俺たちはあの最悪のテロリストの配信を待つことしかできないんだよ。それが一番厄介で、情けない現実なんだ」
ネットの住人たちは、Cicada 3301に対する怒りを抱きながらも。
自分たちが、彼らの投下する劇薬のような「真実」に完全に依存してしまっているという、情報化社会のグロテスクな構造を、嫌というほど思い知らされていたのである。
【第19章 リオを悼む動き】
Cicada 3301の残虐な強制配信によって、アメリカの地下深くで蠢いていた旧軍系の暴走が白日の下に晒され、世界中のインターネットが深い後悔と自己嫌悪のどん底へと突き落とされたあの日から、数日が経過した。
情報の濁流の中で荒れ狂っていたネット上の怒りや陰謀論の残りカスは、時間の経過とともにゆっくりと鎮静化し、やがて現実の世界における「ある静かな行動」へと姿を変え始めていた。
それは、イデオロギーの対立でも、政治的なデモ行進でもなく。人類が自らの手で理不尽に命を奪ってしまった、見知らぬ星からの(あるいは地球の奥底からの)隣人を弔うための、自然発生的な【追悼】のムーブメントであった。
その震源地となったのは、悲劇の舞台であるニューメキシコ州サンタ・ミラージュの町外れ、いまだ州兵によって一部が維持されている封鎖線の外側だった。
ほんの数日前まで、そこは狂気に満ちたカオスの最前線であった。「レプティリアンを殺せ!」「宇宙人を解放しろ!」「メドベッドをよこせ!」と、自動小銃を肩に掛けた極右の武装民兵、ヒッピー風のカルト教団、そして絶望した難病患者の家族たちが入り乱れ、怒号とプラカードが飛び交う地獄絵図が展開されていた場所である。
だが今、そこに集まっている人々の群れは、かつての狂騒が嘘のように、深い沈黙に包まれていた。
彼らは武器もプラカードも持っていなかった。
その代わりに、彼らの両手には、近所のスーパーマーケットやガソリンスタンドで買ってきた、透明な【水の入ったペットボトル】が握られていた。
誰かが最初に、封鎖線のバリケードを形作る冷たいコンクリートブロックの足元に、一本の未開封のミネラルウォーターをそっと置いた。
花束ではない。十字架でもない。
それは、あの薄暗いガレージの中で、未知の恐怖に震える彼に対して、人間の少年が最初に差し出した「一杯の水」を模したものだった。
その一本のペットボトルを皮切りに。
次々と人々が前に進み出ては、ひざまずき、アスファルトの上に自ら持ってきたペットボトルの水を並べていった。
砂漠の強い日差しを受けて、無数の透明なペットボトルがキラキラと光を反射する。その数は数百、数千へと瞬く間に膨れ上がり、バリケードの前には巨大な「水の壁(クリスタル・ウォール)」が出現していた。
ペットボトルのプラスチックの表面には、黒い油性マジックで、彼らの思いを綴った手書きのラベルが貼り付けられている。
『For Rio(リオへ。君の魂に安らぎを)』
『Thank you for protecting the kid(あの子たちを守ってくれてありがとう)』
『You were not a monster. We were.(君は怪物なんかじゃなかった。怪物だったのは、私たち人間の方だった)』
『Please forgive us.(どうか、愚かな私たちを許してほしい)』
涙で文字が滲んだそのラベルを眺めながら、人々は帽子を胸に当て、静かに祈りを捧げた。
かつて彼を「レプティリアン」と呼んで銃口を向けようとしていた迷彩服の男も、ライフルを車に置いて、無骨な手でそっと水のボトルを置いて頭を下げた。誰も彼を責めなかった。なぜなら、自分たちもまた同じ罪を心に抱えていたからだ。
このサンタ・ミラージュでの「花ではなく、水を捧げる」という追悼の光景は、報道ヘリやドローンのカメラを通じて、瞬く間に世界中へと配信されていった。
そして、その祈りの連鎖は、アメリカ大陸を飛び出し、国境を越え、あらゆる文化圏へと波及していったのである。
日本。
物理的な距離は遠く離れていても、ネット空間を通じて悲劇の全貌を共有した日本の人々は、SNSというプラットフォームを通じて静かな追悼の意志を示した。
ハッシュタグ【#WaterForRio】と共に、日常の風景の中にある「水」の写真が、タイムラインに途切れることなく流れ続けた。
オフィスのデスクの端に置かれた、水滴のついた透明なグラス。
学校の机の上に、誰かが無言でそっと置いたペットボトル。
公園のベンチ、駅のプラットホーム、あるいは家庭のダイニングテーブル。
「リオへ。遠い日本からだけど、お前に水を置いたよ。一人で怖かったよな。ゆっくり休んでくれ」
「最初は怪物の映像だと思って笑ってごめん。お前が最後に子供に見せた優しさを、俺たちは絶対に忘れない」
「誰かに名前を呼ばれるって、本当は温かいはずなのに。あんな冷たいコンクリートの上で、最後に君が『ありがとう』って言えたことだけが、人類にとっての唯一の救いだ」
彼らは、普段何気なく飲んでいる「水」という物質の持つ根源的な意味――生命を潤し、他者を思いやり、異なる種族同士を繋ぐ最初の架け橋であったという真理を、画面の向こう側の出来事を通じて痛烈に噛み締めていた。
インド。
つい先日、人類が汚染した大地を浄化する「ソーマの樹」の奇跡を目の当たりにしたばかりのこの国では、追悼の動きはより深く、宗教的な自然観と結びついていた。
ガンジス川のほとりや、ヒンドゥー教の寺院の石段に、人々は素焼きの器に澄んだ水を並べて祈りを捧げた。
「水は生命の源であり、すべての魂を繋ぐ大いなる川の始まりである」
オレンジ色の袈裟を着た僧侶が、集まった人々に静かに語りかける。
「福島の神樹は、人類の過ちを許し、自然の癒やしを与えてくれた。そして遠いアメリカの地では、見知らぬ者が、自らの命を犠牲にして人類の子供を銃弾から守ってくれた。
……彼らが我々に示してくれたのは、限りない慈悲だ。最初に少年が差し出した一杯の水は、宇宙における最も尊い友好の証だった。我々は、その水に込められた愛を、決して銃弾で報いてはならなかったのだ。リオの魂が、大いなる生命の輪廻の中で、再び清らかな水として生まれ変わらんことを祈ろう」
夕日に染まる川面に、無数の小さな灯籠が浮かべられ、彼の魂を弔うマントラが響き渡った。
イギリス。
ネス湖において、死者たちと劇的な再会を果たし、そして永遠の決別を受け入れたばかりの人々は、この事件に対して誰よりも重く、複雑な感慨を抱いていた。
ロンドン郊外の薄暗いパブ。曇り空から冷たい雨がシトシトと窓ガラスを叩く中、仕事を終えた男たちが、ビールではなく、透明な水の入ったパイントグラスをテーブルの中央に置いて、無言で向き合っていた。
「……皮肉な話だと思わないか」
中年の男が、グラスの水滴を指でなぞりながら、ポツリと漏らした。
「俺たちは、ネス湖の冷たい水鏡を通して、すでにこの世を去った『死者』たちと対話をし、彼らの言葉に耳を傾け、理性を保って平和的な決別(クローズ)の場所を作り上げることができた。
……それなのに。アメリカの連中は、目の前で生きて呼吸をし、人間の言葉で『子供を害するな』と対話を求めてきた知性体を、恐怖に駆られて背後から撃ち殺したんだ」
「死者とは語り合えたのに、生きている者とは分かり合えなかった、か」
向かいの席の男が、苦々しく頷く。
「人類っていうのは、自分たちに危害を加えないと完全に分かっている相手(死者や樹木)にはどこまでも優しくなれるが。少しでも自分たちの支配を脅かすかもしれない未知の相手(生者)を前にすると、途端に一番残酷な野獣に成り下がる。
……結局、俺たちの理性なんてものは、相手が自分より弱いと確信できる時にしか発揮されない、薄っぺらいメッキだったってことさ」
グラスの中の水は、イギリスの人々にとって、人類の持つ「理性」という名のメッキがいとも容易く剥がれ落ちる脆さと、他者に対する根源的な恐怖心を映し出す、残酷な鏡となっていた。
このように、世界各地で自然発生的に巻き起こった「水」を通じた追悼のムーブメントは。
怒りや憎悪、あるいは政治的な批判の枠を越え、純粋な【悼み】と【人類としての深い自省】となって、地球を優しく、しかし重苦しく包み込んでいた。
彼らは皆、自分たちの心の中にある「未知を恐れ、排除しようとする怪物」の存在を自覚し、その怪物を鎮めるために、祈りの水を捧げ続けていたのである。
【第20章 リオという名前の定着】
世界中の名もなき人々による、水を通じた静かで巨大な追悼のうねり。
その圧倒的な大衆の「意志」のうねりは、やがて、情報社会における最大の権力装置である【メディアの言説(ナラティブ)】をも、根本から、そして不可逆的に書き換えていくことになった。
言葉の変化は、認識の変化そのものである。
事件発生の初日。ポッドの映像が流出した直後の、各国の主要メディアやニュースサイトの見出しを彩っていた言葉は、徹底して暴力的で、非人間的なラベリングの羅列であった。
『ニューメキシコで爬虫類型のヒューマノイドが発見か』
『軍の貨物列車から逃走したレプティリアン個体』
『危険な未知の対象(オブジェクト)、町に潜伏の恐れ』
『謎の怪物を巡り、陰謀論者が殺到』
彼らは、対象を「個の命」としてではなく、人類を脅かす危険な「物体」、あるいは視聴率を稼ぐためのセンセーショナルな「怪物(モンスター)」として扱っていた。名前を持たない存在には、人権も、同情も適用されないからだ。
しかし。
Cicada 3301の映像によって、彼が自らを犠牲にして子供を庇い、「水をくれて、ありがとう」と感謝を遺して死んでいったという残酷な真実が白日の下に晒され。
そして何より、ジェイクという少年が泣き叫びながら「お前はリオだ!」とその名前を呼んだ瞬間から。
メディアの最前線で働くジャーナリストやアンカーマンたちの間に、強烈な倫理的葛藤が生まれ始めた。
ある日の、全米ネットの夕方のニュース番組でのこと。
スタジオのメインキャスターであるベテランのジャーナリストは、プロンプター(原稿読み上げ機)に表示されたテキストを読み上げていた。
『……昨日、サンタ・ミラージュで旧軍系部隊によって射殺された、対象のレプティリアン個体についてですが、ホワイトハウスは――』
そこで、キャスターはふと、言葉に詰まった。
彼はプロンプターから視線を外し、手元の紙の原稿に目を落とした。そこには、ディレクターが書いた『対象の怪物(レプティリアン)』という文字が並んでいた。
彼は、胸のポケットから黒いペンを取り出すと、カメラの回っている本番中であるにもかかわらず、原稿のその単語の上に、ビーッと力強く二重線を引いて消し去った。
そして、真っ直ぐにカメラのレンズを見据え、自らの意志で、明確に言い換えたのだ。
「――訂正します。……昨日、サンタ・ミラージュで命を奪われた、未知の知性体。……彼の名は、【リオ】です。
ホワイトハウスは、リオに対する発砲を違法な権力行使と断定し……」
その瞬間。
それが、メディアという巨大なシステムが、一人の存在を「怪物」から「個(パーソン)」へと引き上げた、歴史的な転換点となった。
翌朝。
世界を代表する大手新聞、ニューヨーク・タイムズの第一面には、ガレージで両手を上げるリオのシルエットの写真と共に、極めて異例の「社説」がデカデカと掲載された。
『我々は、彼を怪物と呼ぶのをやめる(We Stop Calling Him a Monster)』
その社説は、メディア自身の過去の報道姿勢への猛省から始まっていた。
『我々報道機関は、彼が現れた当初、安易なクリックベイト(閲覧数稼ぎ)のために「レプティリアン」という陰謀論の言葉を用いて大衆の恐怖を煽った。我々は、彼の外見的な異質さだけを抽出し、彼が持つかもしれない内面や知性を完全に無視するという罪を犯した。
しかし、彼が最期に我々に見せた行動は、いかなる人間よりも人間らしく、高潔なものであった。我々は、自らの無知を恥じ、報道の倫理を取り戻さなければならない。……今日この日を境に、我々の紙面において、彼を貶めるような呼称はいっさい使用しない。彼は、サンタ・ミラージュの少年たちが名付けた通り、「リオ」という名の一人の知性体として、歴史に記録されるべきである』
このニューヨーク・タイムズの宣言に追随するように、世界中のメディアが雪崩を打って見出しのトーンを劇的に変化させていった。
英国BBC:
『サンタ・ミラージュ事件で不当に命を奪われた未知の知性体、“リオ”。旧軍系の暴走に国際社会から非難の声』
日本の全国紙:
『リオ射殺映像、世界に波紋。大統領は封印案件の全面監査を指示。「水をくれてありがとう」の最期の言葉が人々の胸を打つ』
フランスのル・モンド紙:
『“レプティリアン”ではなく“リオ”と呼ぶべきか。人類が直面した、他者への想像力の完全なる敗北』
この呼称の劇的な変化は、単なる「言葉狩り」や「ポリティカル・コレクトネス」の次元に留まらなかった。
名前が定着したことによって、彼が「保護されるべき一人の個体」として認識され、それが具体的な【法制度と権利の議論】という、現実の社会システムを動かす巨大な波へと発展していったのだ。
ジュネーブにある国連欧州本部の会議室では、国際法学者や人権団体の代表者たちが集まり、かつてない緊急のシンポジウムが開かれていた。
「我々の現在の国際法、および世界人権宣言は、対象が『ホモ・サピエンス(現生人類)』であることを前提に構築されています。しかし、今回のリオの悲劇は、その法体系の致命的な欠陥(バグ)を浮き彫りにしました」
議長を務める法学者が、白熱する議論の中で提言を行う。
「言語を解し、他者を思いやり、明確な自己意識を持つ【非人類の知性体(Non-Human Intelligence)】に対して、我々は生存権や適正手続き(デュー・プロセス)の保障を与えなければなりません。
『人間ではないから撃っていい』という旧時代の野蛮な論理を根絶するために、我々は直ちに、新たな地球的法体系のアップデート、すなわち【初接触時における知性体保護条約】の草案作成に着手するべきです」
リオの死は、人類の愚かさの象徴であると同時に。
人類が自らの法と倫理を、ホモ・サピエンスという種の枠組み(エゴ)から、宇宙的な広がりを持つ「知性全体」へと拡張させるための、重く、血塗られた第一歩となったのである。
最初、世界は彼を『レプティリアン』と呼んだ。
陰謀論の記号に押し込め、恐怖し、笑い、消費し、そして排除した。
しかし、彼が命を賭して遺した真実の姿によって、世界は自らの間違いに気づき、涙を流して懺悔した。
彼が死んで、その肉体が冷たい灰となってから。
世界は、ようやく彼を、彼自身の名前で呼ぶようになったのだ。
ニュースのキャスターも、国連の学者も、そしてSNSの向こう側にいる何十億の人間も。
彼の生前に、その名を優しく呼んであげることができたのは、暗いガレージの中で彼に一杯の水を差し出した、あのたった数人の少年少女たちだけだったという、取り返しのつかない悔恨を胸に抱きながら。
一つの短い名前が、人類の歴史の教科書に深く刻み込まれた。
リオ。
それは、人類という種が、あまりにも遅く、あまりにも痛ましい犠牲を払ってようやく覚えることができた……未知なる友人の、本当の名前であった。
【第21章 陰謀論者の長文投稿】
リオという名前が、世界中のメディアや人々の間で静かに、しかし確固たる事実として定着し始めた頃。
この一連の「ネット反応」の決定的なクライマックスとして、ある海外の巨大匿名掲示板のオカルト板の最深部に投稿された一つの長文が、有志の手によって各国の言語に翻訳され、瞬く間に世界中のSNSへと拡散されていった。
その投稿者は、事件の第一報である『ポッドの映像』が流出した直後、掲示板の先頭に立って「レプティリアン実在!」「俺たちの完全勝利だ!」と最も激しく狂喜乱舞し、数え切れないほどのスレッドを立てて大衆の恐怖と興奮を煽り立てていた、「最も過激な陰謀論者」の一人であった。
彼は、自らの過去の醜い書き込み履歴(IPアドレスと固定ハンドルネーム)をすべて隠すことなく晒した上で、血を吐くような、そして自己の魂を完全に解体するような長文の独白を投下したのである。
スレタイ:【俺は、リオを見ていなかった】
『俺は、何年も、何年も、レプティリアンやディープステートの陰謀論を、自分の人生のすべてを懸けて追っていた。
現実の社会に俺の居場所はなかった。誰にも認められず、仕事も長続きせず、ただ暗い部屋のモニターの前でネットの海を漁るだけの毎日。そんな惨めな俺にとって、「政府が何か巨大な嘘をついている」「世界は影の権力者に支配されている」という物語だけが、自分を「真実を知る特別な人間」「覚醒者」にしてくれる、唯一の強烈な精神安定剤だった。
だから、ニューメキシコのあの最初のポッドの映像を見た時。俺は完全に「勝った」と思ったんだ。
ついに政府のしっぽを掴んだ。俺は政府を出し抜いた。世界の真実を見た。何十年も俺を「アルミホイル頭の狂人」とバカにしてきた家族や世間の奴らを見返してやったと、最高にいい気分で、酒を飲みながらこの掲示板に狂ったように書き込みを連投した。「レプティリアンを捕獲しろ」「解剖して真実を吐かせろ」ってな。俺は、世界の王にでもなった気分だった。
……でも。Cicadaが配信した、あの残酷な射殺映像を見て。俺は初めて、自分の足元が完全に崩れ去るのを感じた。
俺が見ていたのは、リオじゃなかった。
俺は、あの不鮮明な映像の中に、「自分自身が信じたい、自分のちっぽけなプライドを満たしてくれる都合の良い物語」を見ていただけだったんだ。
あいつが、言葉も通じない冷たいコンクリートのガレージで、どんなに不安だったか。
あいつが、真っ黒な防護服を着た連中に一斉にアサルトライフルを向けられて、どれほど恐ろしかったか。
あいつがどうして、人間の子供たちを「群れ」と呼んで、自分の命を投げ出してまで、他種族であるはずの少年を守ろうとしたのか。
……俺は、そんなこと一秒たりとも考えなかった。考えようともしなかった。
俺はずっと、真実を隠蔽する政府や黒服の連中を「人間の心を持たない悪魔だ」「ディープステートの犬だ」と激しく批判してきた。
でも、俺はどうだ? 俺も、あいつを「政府の悪事を暴くための証拠品(対象・モノ)」としてしか見ていなかったじゃないか。
旧軍の連中が、自分たちの保身のためにあいつを「危険個体」として処理したのと同じように。俺もあいつから名前と感情と魂を奪って、「レプティリアン」って都合のいいラベルを貼り付けて、自分の承認欲求とエンターテインメントのために消費してたんだ。
あいつを引き金引いて殺したのは、確かにあの黒服だ。でも、あいつを「殺してもいい気味の悪い怪物」に仕立て上げて、あいつに向かって見えない石を投げ続けていたのは、俺たちだ。
俺は、最低のクソ野郎だった。
あいつは、レプティリアンなんかじゃなかった。
少なくとも、俺たちが勝手に恐れて、勝手に「人類を家畜にする邪悪な敵」だと思い込んでいたような、そんな大層な悪の支配者なんかじゃなかった。
あいつは、リオだった。
一人の、優しくて賢い、たった一つの命を持った知性体だった。
最後に、胸を銃で撃ち抜かれて、痛くて苦しくてたまらないはずなのに。自分を殺した人間という種族に恨み言一つ言わず、「水をくれて、ありがとう」って言って死んでいった……俺たちと同じ、血の通った、かけがえのない『誰か』だったんだ。
ごめんな、リオ。
俺はお前を、お前として見てやれなかった。名前を呼んでやれなかった。お前がどんなに孤独だったか、想像してやれなかった。
本当に、本当に、ごめん』
この、一切の言い訳を排し、己の醜さと傲慢さを完全に解体し尽くした痛切な懺悔の投稿に対し。
ネットの住人たちから、いつものような誹謗中傷や嘲笑、あるいはマウントを取るような冷笑的なレスがつくことは、一切なかった。
ただ、堰を切ったように、深く重い共感と、果てしなく連鎖する自己反省のレスが、無数に連なっていった。
「俺も同じだ……。俺も、あいつの恐怖を見ていなかった」
「俺も最低のクソ野郎だったよ。あいつをただの動く証拠品扱いしてた。相手が痛い思いをする生き物だなんて、想像力が完全に欠如してた。自分の正しさを証明することしか頭になかったんだ」
「陰謀論者だけじゃない。俺たちネットの野次馬、面白半分でミームを作って笑ってた奴ら全員がそうだったんだよ。分かった気になって『トカゲ野郎』ってラベルを貼って、それで安心してたんだ」
「彼を怪物にしたのは、俺たちの『無知』と『無関心』だ。あの黒服の銃弾は、俺たちが引かせたようなもんだ」
「名前を呼んでやるのが……あまりにも、遅すぎたな。本当に、ごめんなさい」
この長文投稿は、ある種の「集合的な免罪符」としてではなく、人類が犯した「集合的な原罪の共有」として機能した。
大衆は、アーティファクトという圧倒的な未知を前にして、自分たちが「他者を理解する努力を放棄し、物語として消費する」という、最も醜悪な病に罹患していたことを自覚したのである。
世界中のインターネットの空気が、一段深く、人類という種の未熟さに対する重苦しい真理へと沈み込んでいった。彼らは、もう二度と、軽々しく未知の存在を「怪物」と呼ぶことはできない十字架を背負ったのだ。
【第22章 子供たちを守れという流れ】
ネット上の大衆が、自らの無自覚な加害性に直面し、深い内省と贖罪のモードに入る中。その自制のベクトルは、悲劇の中心に立たされたジェイクたち五人の少年少女を守るための、極めて強固な世論の壁(ソーシャル・シールド)となって現れた。
事件の全貌が明らかになった直後、一部のハイエナのようなゴシップ・メディアや悪質なタブロイド紙の記者たち、そして再生回数至上主義の迷惑系YouTuberたちが、スクープ欲しさにサンタ・ミラージュの封鎖線の外側に群がり始めていた。
彼らは何とかしてジェイクたちの身元を特定し、マイクを突きつけて涙ながらの証言を引き出そうと血眼になっていた。『レプティリアンと接触した少年の独占告白!』『宇宙人の最期を看取った高校生たちの素顔に迫る!』といった下世話な見出しで、彼らのトラウマを金に換えようとする浅ましい企みである。
しかし、そうした旧態依然としたメディアの動きに対して、今度はインターネットの側から、かつてないほどの猛烈な「NO」が突きつけられたのだ。
[X(旧Twitter) / トレンド・ハッシュタグ:#ProtectTheKids(彼らからカメラを向けないで)]
「おいクソ・マスコミども! ジェイクたちを表の舞台に絶対に引きずり出すな!」
「あの子たちに無理やりマイクを向けて、フラッシュを浴びせて記者会見なんかさせるな! 彼らのプライバシーを暴くような記事を書いたメディアのスポンサー企業は、世界中で徹底的に不買運動するからな! 覚悟しろ!」
「カメラを向けるな。お前らは、リオを怪物としてエンタメ消費して殺した次に、今度は親友を目の前で殺された子供たちを『悲劇の主人公』として消費する気か。腐ってんのか!」
「彼らは世界を救ったヒーローでもなければ、宇宙人と交信した預言者でもない。ただの普通の高校生で、大人の身勝手な都合で一生消えないトラウマを植え付けられた『被害者』なんだよ。これ以上彼らから何も奪うな。そっとしておけ!」
この圧倒的な大衆からの拒絶反応(巨大なプレッシャー)を受け、主要なテレビ局や大手新聞社は、直ちにジェイクたちへの直接取材の完全な自粛を決定せざるを得なくなった。彼らは、ネット世論の逆鱗に触れれば、自らの企業ブランドが完全に崩壊することを理解したのだ。
一方で、リオの「この星での最後の友人」となった彼らの行動に対する、静かで、しかし途方もなく深い尊敬の念もまた、ネットの至る所で語られていた。
「よく考えてもみろよ。深夜の砂漠で、あんな得体の知れない存在に遭遇して。大人でさえ恐怖して銃を向けるような相手に対して、一番最初に『水を渡した』あの少年の勇気を。どれだけ純粋で、優しい心を持っていたら、あんなことができるんだ」
「パニックになって逃げ出してもおかしくない状況で、撮るのをやめようとしたけど、最後は真実を世界に残すために、震えながらカメラを回し続けたあの少女(リリー)。彼女のその決断がなかったら、俺たちはリオの存在すら知らず、すべては闇に葬られていたんだ」
「それを止めなかったミアは本当に強い。自分の弱さと恐怖を隠さずに認めて泣き叫んだサムも、普通の人間として一番正しい反応だった。あの子たちは、俺たち大人が失ってしまったものを持っていた」
「そして、何よりも。自分の命もキャリアもすべて投げ打って、あんな恐ろしい黒服の暗殺部隊の前に立ちはだかり、子供を守ろうとしたデイビス保安官。……彼こそが、俺たち人類の誇りであり、本物の大人だった」
だが、大衆は彼らを過剰に「美化」しすぎることはなかった。
彼らがスーパーヒーローなどではなく、友人の死を防げなかったことに深い絶望を抱き、心に深い傷を負っている等身大の人間であることを理解し、ただ遠くから、静かに見守る空気(ディスタンス)を形成し始めていたのである。
メディアが自制し、ネットが暴走を食い止める。
それは、リオの死というあまりにも痛ましい犠牲から、人類の社会システムが少しだけ「他者を思いやる想像力」を学んだ結果であった。
彼らは、二度と同じ過ち(無自覚な消費と暴力)を繰り返さないと、無言のうちに誓い合っていた。このサンタ・ミラージュの事件をきっかけに、人類は「未知との遭遇」において、自分たちの持つ狂気と理性の境界線を、はっきりと引き直すことになったのである。
【第23章 ヘイズ大統領の短い声明への反応】
事件発生から数日が経過した、ワシントンD.C.。
アメリカ合衆国の心臓部であるホワイトハウスのプレスパールーム(記者会見室)は、かつてないほどの異様な静まり返りを見せていた。
普段であれば、大統領の緊急会見の前には、各メディアの記者たちが特ダネを狙ってひしめき合い、怒号のような質問の準備やカメラマンのフラッシュのテストで騒然としているはずである。しかし、この日、プレスパールームに集まった百人以上のジャーナリストたちは、誰一人として無駄口を叩かず、まるで厳粛な葬儀の場に参列しているかのように、押し黙ったまま正面の演台を見つめていた。
彼らもまた、ジャーナリストである前に一人の人間として、あの痛ましい射殺映像に心をえぐられ、深い内省の中にいたのだ。
重厚なオーク材の扉が開き、キャサリン・ヘイズ大統領が姿を現した。
大統領の顔は、ここ数日の不眠と極度の精神的ストレスによって蒼白であり、目の下には隠しきれない濃いクマが刻まれていた。足取りは重かったが、その表情には、いかなる政治的な妥協も許さず、国家の最も深い病巣を自らの手で切開するという、揺るぎない鉄の決意が込められていた。
カメラの赤いランプが一斉に点灯し、無数のレンズが彼女を捉える中。
ヘイズは大統領の紋章の付いた演台に立ち、用意された原稿には一切目を落とすことなく、真っ直ぐにカメラのレンズ――すなわち、その向こう側にいる数億のアメリカ国民と、世界中の人々を見据えて語り始めた。
「親愛なるアメリカ国民の皆様。そして、この放送を見ている世界中の皆様。
数日前、ニューメキシコ州サンタ・ミラージュで発生した、取り返しのつかない悲劇的な事案について。合衆国大統領として、正式な報告と、政府の見解を述べます」
ヘイズの声は低く、しかし驚くほどよく通り、静まり返った部屋の隅々にまで響き渡った。
「まず第一に、サンタ・ミラージュの民家ガレージにおいて、明確に降伏の意思を示し、無抵抗であった存在に対し、背後から発砲を行った部隊についてです。
彼らは『旧軍系保全班』と呼ばれる、冷戦期から一部の非公開封印案件を独断で継承し続けてきた、正規の指揮系統を完全に逸脱した組織の残滓でした。彼らの行動は、軍の交戦規定を無視したばかりか、私の発出した『対象への攻撃禁止および生体保護』という大統領命令を完全に黙殺した暴走であり、民主主義国家において断じて許されざる明確な反逆行為です」
記者たちから微かなざわめきが起こるが、ヘイズはそれを鋭い視線で制して続けた。
「現在、当該部隊の現場指揮官、実行犯、および彼らに指示を出していた旧軍系ラインの全関係者は、すでに国家反逆の容疑で軍の特別施設に拘束され、徹底的な尋問を受けています。
私は、合衆国軍の最高司令官として。この輝かしいはずの国の地下室に、民主主義の統制を受けず、独自の歪んだ『正義』と『恐怖』によって動く古い権力の亡霊が巣食っていた事実を、重く、痛切に恥じます。
本日をもって、冷戦期に由来するすべての非公開封印案件(ブラック・プロジェクト)を大統領直轄の特別監査委員会に移管し、国家の暗部を徹底的に解体し、浄化することを、アメリカ国民の皆様にここに固く約束します。我々の国は、二度と恐怖によって他者の口を封じるような真似はしません」
ヘイズは、一呼吸置き、さらに声のトーンを下げて、最も重要で、最も繊細な核心に触れた。
「次に、現場で事件に巻き込まれた、サンタ・ミラージュの未成年者たちについてです。
彼らは現在、政府の厳重な保護下にあり、心身のケアを最優先とした対応を受けています。彼らは、国家の秘密を暴いた反逆者でもなければ、宇宙人と交信した特別な存在でもありません。彼らは、ただ深夜に友人と映画を撮っていただけの、ごく普通の善良な少年少女たちであり……大人の理不尽な暴力によって、心に深い傷を負わされた被害者です。
メディアの皆様には、彼らのプライバシーを完全に尊重し、過度な接触や取材を厳に控えるよう、合衆国大統領として強く要請します。彼らから、これ以上何も奪わないでください」
そして。
ヘイズ大統領は、両手を演台の端に置き、少しだけ目を潤ませて。だが、一国を代表する者として、絶対にブレることのないはっきりとした口調で、歴史に刻まれるべき言葉を宣言した。
「……最後に。
サンタ・ミラージュの冷たい床の上で、命を奪われた存在について。
合衆国政府は、彼を『危険な敵対生物』や『レプティリアン』といった、陰謀論や恐怖に基づいた攻撃的な呼称で扱うことを、本日をもって公式に撤回します。
我々はあの映像を通じて、彼が我々と同等の言語能力を持ち、他者を思いやる共感性を持ち、恐怖に怯え、そして最期に感謝の念を示すことのできる……極めて高度で、高潔な【未知の知性体】であったことを知りました」
ヘイズの言葉は、ただの政府声明を超え、人類という種全体を代表した懺悔のように響いた。
「我々は、未知の存在と初めて手を取り合うことができたかもしれない、その貴重な機会を、自らの内なる恐怖と保身によって永遠に失ってしまいました。
……私たちは、彼を『怪物』としてではなく。彼が少年たちと出会い、彼らが呼び合った【リオ】という名で、公式の記録に留め、そして永遠に記憶します。
彼の不条理で痛ましい死に対し、アメリカ合衆国を代表して、心からの深い哀悼の意を表します」
会見は、そこで終わった。
質疑応答は一切受け付けず、ヘイズ大統領は深く一礼をした後、静かに壇上から降りて姿を消した。プレスパールームの記者たちは、大統領が去った後も誰一人として声を上げず、ただその言葉の重みを噛み締めていた。
この極めて異例で、しかしどうしても必要だった大統領声明に対するネットの反応は、概ね好意的であり、そして深い安堵と悲哀が入り交じったものであった。
[X(旧Twitter) / グローバル・タイムライン]
「大統領が……公式の記者会見の場で、彼を『リオ』って呼んだぞ……」
「これで、彼が怪物じゃなかったことが、人類を脅かす邪悪なレプティリアンなんかじゃなかったことが、国家レベルで確定したんだな」
「遅すぎる。本当に、射殺されてからじゃ遅すぎる対応だけど……でも、どうしても絶対に必要な宣言だった。ヘイズ大統領は、逃げずにちゃんと人間の心を認めた」
「ヘイズはよくやったよ。自分の国の汚部を隠さずに認めて、全世界に向けて謝罪したんだから。政治的なダメージは計り知れないだろうに、あそこで保身に走らなかったのは立派だ」
「大統領直轄の特別監査委員会か。旧軍系のクズどもを絶対に逃がすなよ。徹底的に裁いて、あのガレージで流された涙の分だけ、責任を取らせてくれ」
「『彼らから、これ以上何も奪わないでください』って言葉で泣いた。大統領が直々にジェイクたちを守る壁になってくれたんだ。これでハイエナみたいなマスコミも、手を出せなくなるはずだ」
リオという名前は、ここにきてようやく、世界で最も影響力のある国家権力のトップの口から公式に認められ、単なるネット上の愛称から「歴史の正史に刻まれる一個人の名前」へと昇華したのである。
人類は、失って初めて、彼に「戸籍」とも言うべき存在証明を与えたのだった。
【第24章 最後の追悼タイムライン】
サンタ・ミラージュの事件を巡る、世界中を巻き込んだ怒涛の狂騒と混乱は。
政府に対する怒りでも、陰謀論の醜い応酬でもなく、ただひたすらに静かで、美しく、そして途方もなく悲しい『悼み』のタイムラインとなって、ゆっくりと幕を閉じようとしていた。
世界のあらゆる場所で、あらゆる人々が、それぞれのささやかな日常の中で彼を思い出し、水という媒介を通して、心の奥底からの祈りを捧げていた。
それは、宗教や国境を超えた、人類という種全体で共有する「喪に服す」期間であった。
[世界中のSNSに投稿された、静かな声]
『今日、仕事から帰ったら、小学生の娘が学校の図工の時間に描いた絵を見せてくれた。「サンタ・ミラージュの新しいお友達」って言ってた。
……そこに描いてあったのは、ネットで大人が騒いでいたような気味の悪い鱗の怪物なんかじゃなく、とても綺麗な金色の目と、透明な水が入ったボトルと、優しく微笑んでいる少年の絵だったよ。
子供たちには、最初から分かってたんだな。あいつが悪い奴じゃないってこと。大人の俺だけが、恐怖で目が曇ってたんだ。泣きそうになったよ』
『職場の給湯室のテーブルに、今朝から誰かがペットボトルの水を一本、そっと置いていた。ラベルには手書きで“for Rio”って書いてあった。
誰もそれに触れないし、話題にもしない。誰が置いたのかも分からない。だけど、その水を見るたびに、殺伐としていたオフィスの空気が、みんなの心が、少しだけ優しくなっているのが分かる。彼は死んでしまったけど、彼が遺した感謝の言葉は、確実に私たちの間に残ってるんだ』
『昔は、UFOとかエイリアンの陰謀論を信じてる奴らを「頭がおかしい」ってバカにして笑ってた。でも、今日は陰謀論者を笑えない。
……人間は、自分の見たいものだけを見る生き物だ。俺も、あいつの動画を最初に見た時は、「ついに映画みたいなモンスターが現れたぞ」って、得体の知れない怪物だと思い込んで、ポップコーンを食べながら消費してたんだから。俺も、あいつに名前がないことをいいことに石を投げてた同罪だ。もう二度と、相手を知る前にレッテルを貼るのはやめる』
『リオが本当はどこから来たのか。遠い宇宙の彼方から乗ってきたのか、それとも地球の地下深くで我々とは別に進化した別の種だったのか、それとも誰かに作られた人工生命だったのか……もう、永遠に分からない。
科学者たちがいくら議論しても、本当の答えは彼と一緒に灰になってしまった。
……でも、彼が最後に自分の命を投げ出して誰かを守ったこと。そして、死の淵で恨み言ではなく「ありがとう」と微笑んだことだけは、永遠の事実だ。それだけで十分じゃないか。彼がどこから来たかよりも、彼がどう生きたかの方が、ずっと大切なことなんだ』
『怪物じゃなかった。遅すぎるけど、本当に遅すぎるけど……今はそう言うしかない。ごめんな、リオ。地球は、お前が思ってたよりずっと冷たくて、愚かな星だったよ』
『私たちが彼に何をしてあげられただろうって、ずっと考えてる。結局、私たちは彼を追い詰めて、撃ち殺しただけだった。
でも、あのガレージで、ジェイクっていう名前の少年が、震えながら彼に水を渡してくれたこと。デイビス保安官が、命を懸けて彼を守ろうとしてくれたこと。……それだけが、同じ人間としてのわずかな救いだよ。リオは、人類のすべてに絶望して死んだわけじゃない。少年の温かい手の感触を覚えて、旅立ってくれたと信じたい』
様々な言語、様々な背景を持つ人々が、それぞれの言葉で、一つの失われた命を悼み続けていた。
タイムラインは、怒りの炎から、静かで清らかな水の流れへと変わっていた。
そして。
何億という投稿が流れるタイムラインの、一番最後に。
ある匿名のアカウントから、一枚の写真と共に、一つの短いテキストが投稿された。
写真は、どこまでも続く乾いた赤茶けた砂漠を背景に、ぽつんと置かれた、半分だけ水の入った透明なペットボトルだった。
それに添えられた言葉は、この悲劇的な物語のすべてを総括し、人類の胸に永遠の楔を打ち込むものであった。
『最初に差し出したものが、銃ではなく、一杯の“水”だったことだけが。……この絶望的な話の、唯一の救いだ。』
【ラスト地の文】
最初、世界は彼を『レプティリアン』と呼んだ。
陰謀論者は自分たちの妄想が証明されたと勝利を叫び、配信者はその恐怖を煽って再生数と金を稼ぎ、メディアは謎の怪物の映像をセンセーショナルに繰り返し流した。
誰も、あの狭く冷たいポッドの中に閉じ込められていた存在が、何を感じ、何を恐れ、見知らぬ砂漠の夜風の中で何を見ていたのかなど、一秒たりとも想像しようとはしなかった。
人類は、未知を理解する前に、その存在から名前と尊厳を奪い取った。
自分たちが安心するために、彼を恐怖するための『物語』の枠組みに無理やり押し込み、笑い、騒ぎ、そして無責任なエンターテインメントとして消費した。
そして、彼が死んでから。
冷たいコンクリートの床に青緑色の血を流し、その鼓動が永遠に止まってしまってから、人類はようやく知ったのだ。
彼が、無数の銃口を前にして、静かに両手を上げていたこと。
彼が、見ず知らずの怯える子供たちを「群れ」と呼び、守ろうとしたこと。
彼が、銃弾が放たれる瞬間に、自らの命を投げ打って少年を庇ったこと。
彼が、薄れゆく意識の中で、自分に一杯の水を与えてくれた少年の手を握り返し、最後に不器用な言葉で、心からの感謝を伝えたこと。
――水をくれて、ありがとう。
その一言が、Cicadaのネットワークを通じて世界中に広がった時。
『レプティリアン』という、暴力的で無機質な言葉は、まるで朝日に溶ける霜のように、少しずつ画面の端へと追いやられ、消えていった。
代わりに、一つの短い名前だけが、世界中の人々の心の中に、消えない傷跡のように残った。
リオ。
それは、世界があまりにも遅く、あまりにも痛ましく大きな代償を払って、ようやく覚えることができた……未知なる友人の、本当の名前であった。