銀河皇帝のスペアに転生した元社畜、地球軌道上の要塞でネトゲ三昧の隠居生活を満喫する 〜足元では超大国が滅亡級の異星遺産を巡って暗躍中ですが、主人公(ぼく)の命は絶対安全なので特等席で傍観します〜   作:パラレル・ゲーマー

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第144話 サイト・アオ、リオの棺をゆりかごに戻す

 

 地球の軌道上に存在する、観測者たちの不可視の特等席。サイト・アオのラウンジは、かつてないほど重く、息苦しい沈黙と悲哀に包まれていた。

 

 普段であれば、ティアナが優雅な手つきで淹れた紅茶の香りが漂い、KAMIが地球のジャンクフードをかじりながらモニターを眺め、賢者・猫が窓辺のクッションで丸くなり、工藤がその超常的な光景に居心地悪そうに肩を竦めている場所だ。

 だが、今この空間を支配しているのは、部屋の隅のソファにうずくまって顔を覆う、一人の地球人少女の激しい嗚咽だった。

 

「……リオさん……っ! リオさん……!!」

 

 エミリーは、両手で顔を覆ったまま、子供のように声を上げて泣きじゃくっていた。

 ラウンジの中央に展開された巨大なホログラムモニターには、今まさに地球全土を覆い尽くしている、静かで悲痛な追悼の光景が映し出されている。

 サンタ・ミラージュの封鎖線の外側に、山のように積まれていく透明な水のペットボトル。その一つ一つに添えられた『For Rio』という手書きのメッセージ。世界中のSNSを埋め尽くす『#WaterForRio』のハッシュタグ。そして、涙ながらに自らの過ちを懺悔する陰謀論配信者や、ニュース番組で「レプティリアン」という言葉を二重線で消し、はっきりと「リオ」と呼び直したキャスターの姿。

 

 世界は、確かに彼を悼んでいる。

 だが、それは彼が冷たいガレージの床で青緑色の血を流し、永遠に瞳を閉じてからようやく始まったことに過ぎない。

 

「どうして……どうして、あんなことに……っ」

 エミリーは、しゃくりあげながら、自分の膝をきつく抱え込んだ。

「あの子、降伏してたじゃないですか……! 両手を上げて、人間の子供たちを守ってただけじゃないですか……! それなのに、背後から撃つなんて……!」

 

 彼女はアメリカ人だ。自らの母国の政府が、あるいはその暗部に巣食っていた古い組織が、言葉の通じる無抵抗な存在を「証拠隠滅」のために撃ち殺したという事実は、彼女にとって耐え難い恥辱であり、絶望だった。

 

 ティアナは、ホログラムの青白い光に照らされながら、いつものようにどこか軽薄さを残した口調で言った。

「いやー、見事にバッドエンディングだったね」

 

 その言葉に、エミリーが真っ赤に泣き腫らした目でティアナを強く睨みつける。

「ティアナさん! 人が死んだんですよ!? どうしてそんな風に……!」

 

「怒らないでよ。茶化してるんじゃないんだ」

 ティアナは、なだめるように両手を軽く上げた。その琥珀色の瞳には、冷徹な分析者としての光が宿っている。

「構造(シナリオ)としては、完全に、お手本のようなバッドエンドだったって話さ。……言葉が話せる相手を、話せる(証言される)からこそ恐れて撃ち殺す。未知との接触において、人類という種が抱える一番悪い癖(パラノイア)が、一番最悪のタイミングで発露してしまった。悲劇のメカニズムとしては完璧だ」

 

 KAMIは、グラスに注がれた赤ワインをクルクルと揺らしながら、シニカルな笑みを浮かべた。

「人類の愚かさと脆弱性が、これでもかってくらい綺麗に出てたわねぇ。開発陣へのバグ報告としては、最高に分かりやすいケーススタディよ。

 未知の存在を発見しました。理解する前に『レプティリアン』ってラベルを貼りました。ネットで煽ってオモチャにしました。政府は焦って隠そうとしました。対象がペラペラ喋って都合が悪くなったので、処刑しました。……はい、文句なしで文明スコア大幅減点ね」

 

 賢者・猫が、クッションの上で長い尻尾をパタン、パタンとゆっくり動かしながら、低い声で言った。

「まあ、KAMIよ。そう切り捨てるものでもない。最後に自らの間違いに気づき、涙を流せただけ、あの種族にはまだ成長の余地は残されておる」

 猫の黄金の瞳が、ホログラムの水のボトルを見つめる。

「理解する前に名を奪い、怪物と呼び、死んで灰になってからようやく『リオ』と呼んだ。遅い。あまりにも遅すぎる歩みじゃ。……だが、どれほど遅くとも、最後にきちんと名を呼んだことには、種の歴史において大きな意味がある」

 

 工藤は、腕を組み、ひどく苦い顔をして頷いた。

「バッドエンディングでしたけど……今のネットの反省ムードや、アメリカ大統領の会見を見てると、人類が進歩するには、こういう『取り返しのつかない痛み』が必要だった、ってことですかね」

 工藤は、自らの言葉の残酷さに気づき、顔をしかめた。

「……いや、自分で言っててきついですけど。痛みの代償が一つの命だなんて、割に合わなすぎる」

 

「うううううっ……」

 エミリーは、再び顔を覆って泣き崩れた。

「アメリカ人として、同じ人類として、恥じるばかりです……! それに……ここにいて、全部見ていたのに、何もできなかった自分が、悔しくてたまらないです……!」

 彼女は、ソファのクッションを強く握りしめた。

「私たちが見ていたなら……KAMIさんやティアナさんの力があったなら、あの銃弾を止めることだって、リオさんを助け出すことだって、できたかもしれないのに……!」

 

 エミリーの悲痛な叫びに、ティアナはいつもの飄々とした態度を引っ込め、少しだけ真面目で、上位存在としての厳格な顔つきになった。

 

「エミリー。そこは、君が責任を感じて気に病むところじゃない。思い上がっちゃ駄目だ」

 ティアナの声は優しかったが、その中には明確な線引きがあった。

「サイト・アオの理念は、基本的に『消極的干渉』だ。皇帝陛下がそう決めているし、現在の銀河コミュニティの基本方針も同じ。……発展途上の惑星文明に対して、僕らのような上位存在が都合よく手を突っ込んで、彼らが間違える前に『正解』を選ばせてあげるのは、極めて危険な行為なんだ」

 

「でも、失われなくていい命が、失われたんですよ!?」

 エミリーは、涙に濡れた顔を上げて反論した。

 

「助けられたさ。僕らの技術なら、銃弾を空中で静止させることも、あの黒服どもを瞬時に別の空間へ転送することも、造作もない」

 ティアナは、淡々と事実を述べる。

「でも、もしその瞬間に僕らが手を出してリオを無傷で救い出していたら、地球はどうなっていた?

 彼らは、『自分たちの愚かさで初接触に完全に失敗した』という、絶対に必要な痛みを経験できなくなる。

 リオを直接撃ったのは、あの旧軍系保全班という冷戦の亡霊だ。でも、その亡霊を生み出し、育てたのは、人類自身の歴史であり、隠蔽体質であり、未知に対する病的なまでの恐怖心だよ。

 そこを、僕らのような上位存在が『はい、これはナシね』ってデウス・エクス・マキナみたいに全部なかったことにしたら……人類は何も学ばず、また何十年後かに、全く同じ過ちを別の形で繰り返すだけだ」

 

 KAMIが、ワイングラスをテーブルにコトリと置いて、ティアナの言葉を補足する。

「要するに、セーブデータを巻き戻して、全員生存ルートを強制的にやり直させるのは簡単なのよ。

 でも、それをやりすぎると、プレイヤー(人類)が全く学習しなくなるのよね。『どうせ間違えても、見えざる神様がリセットして助けてくれるんでしょ』って、傲慢になり始める。

 ……それ、文明育成シミュレーションとしては、かなりクソみたいな仕様(ゲームバランス)なの。痛みが伴わない選択に、価値なんて生まれないわ」

 

「痛みには、代価としての情報価値がある」

 賢者・猫が、哲学的な響きを持って締めくくった。

「今回支払われた代価は、極めて重い。リオという、たった一つの個の命じゃ。……だが、その彼の死が、世界中のネットや社会に与えた『認識のパラダイムシフト』もまた、計り知れぬものがある。人類は、彼の血の代償によって、自らの野蛮さを一段階乗り越えようとしておる」

 

「……それ、理屈としては痛いほど分かりますけど」

 工藤は、額を押さえて深いため息をついた。「当事者からすれば、吐き気がするほど嫌な理屈ですね」

 

「うん。めちゃくちゃ嫌な理屈だよ」

 ティアナは、自嘲気味に笑った。「でも、上位存在が下位文明を『観測する』って、そういう泥をすするような側面があるんだ。すべてを救える力があるのに、あえて救わない痛みに耐えなきゃならない」

 

 エミリーは、涙を手の甲で乱暴に拭いながら、震える声で言った。

「なんで……人類はこんなに駄目なんですか……。

 ネス湖の時は、死者との対話を通して、少しだけ前に進めたのに……。ソーマの樹の時は、自然からの癒やしを正しく受け入れることができたのに……。

 どうして、リオさんのことだけは……守れなかったんですか……!」

 

 ラウンジに、再び重苦しい沈黙が降りた。

 人類の歩みは、決して右肩上がりの一直線ではない。三歩進んで二歩下がる、泥臭い迷走の連続だ。

 

 ティアナは、ソファにうずくまるエミリーの頭にポンと手を置き、その金糸のような髪を優しく撫でた。

 

「エミリー。前を向くんだ」

 ティアナの声音が、ふと、先ほどまでの冷徹な観測者から、悪戯を企む少年のように切り替わった。

「絶望するには、まだ早い。……人類としての課題(テスト)は終わったけど、まだ、僕らだからできる『ほんの少しのルール違反』が残っているのさ」

 

 エミリーが、ビクッと肩を震わせて顔を上げた。

「……え?」

 

 ティアナは、琥珀色の瞳をキラキラと輝かせ、ニヤリと笑った。

「アルファには、もう極秘回線で連絡してある。……さあ、今から彼がどう動くか、特等席で見せてもらおうじゃないか」

 

 エミリーは、完全に混乱していた。

「れ、連絡……? アルファさんにですか?」

 彼女は、ホログラムに映るサンタ・ミラージュの砂漠を指差した。

「でも、リオさんは……もう、あのガレージで……」

 

 KAMIが、退屈そうに指をパチンと鳴らした。

 すると、空間中央のホログラムが切り替わり、地球の風景から、極めて複雑な幾何学模様と数式で構成された、一つの【カプセル型装置】の立体構造図(ブループリント)が空中に浮かび上がった。

 それは、あの深夜の砂漠で、漆黒の列車から転がり落ちてきた、透明な外殻を持つポッドの透視図だった。

 

「あのさぁ。あんたたち、あのポッドのこと、ただの『エイリアンを保存しておくためのホルマリン漬けの容器』だと思ってたでしょ?」

 KAMIは、赤いマニキュアの塗られた指先で、ホログラムのポッドをツンと突いた。

「残念。……あれ、死体を入れておく『棺桶』じゃないのよ」

 

「え……?」

 エミリーが、間の抜けた声を出す。

 

「あれは、【レプティリアン系候補体専用の、保存・治療・再構成ポッド】だ」

 ティアナが、驚くべき事実をあっさりと口にした。

「勘違いしないでよ? 人間のDNA構造には全く対応していないから、陰謀論者が騒いでいたような『どんな病気も治すメドベッド』じゃない。人間が入ったらただ溺れるだけだ。

 ……でも、リオなら話は別だ。あれは本来、彼らのような代替知性種候補体の身体を数百年単位で長期保存し、もし細胞や器官が損傷した場合には、最適な状態に『再構成(リビルド)』するための、極めて高度な医療・再生装置なんだよ」

 

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 工藤が、勢いよく身を乗り出した。

「つまり……あのポッドを使えば、撃たれたリオを戻せる(生き返らせる)ってことですか!?」

 

「『戻せる可能性がある』、じゃな」

 賢者・猫が、厳密な定義を補足するように言った。

「死という状態が、魂(情報)の『完全な消失』に至っていなければ……の話じゃがな。肉体というハードウェアが破壊されても、脳の神経系ネットワークに保存されていた情報構造が完全に崩壊する前にあのポッドに格納できれば、理論上は肉体と神経系を再構成できる。

 ……ただし、魔法ではない。それには途方もない時間がかかるし、確実に元のまま目覚めるという保証もない」

 

「ポイントは、『人類用(人間用)の装置じゃない』ってことね」

 KAMIが、念を押すように指を立てた。

「ここ、設計思想としてすごく大事よ。もしこれを人間にも応用できる万能蘇生装置だなんてことにしたら、また世界中の権力者や難病患者が『私にもメドベッドを使わせろ!』って発狂して暴動が起きるからね。

 あくまで、あのポッドの本来の持ち主である、レプティリアン系の適合個体専用。リオ君みたいなポッド由来の個体だけが再生可能。……はい、仕様書の開示はここまで」

 

 エミリーは、涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、完全に言葉を失い、石像のように固まっていた。

 

「じゃあ……」

 数秒後、エミリーの唇がワナワナと震え始めた。

「リオさんは……まだ、完全には失われていない……?」

 

「そういうこと」

 ティアナは、ウインクをして見せた。

「ただし、このポッドの真の機能に、今の地球の科学力……セレスティアル・ウォッチの技術者たちが自力で気づくには、アプローチの方向性が違いすぎて時間がかかりすぎる。解析に手間取っている間に、リオの細胞の完全崩壊(真の死)が確定してしまう。

 だから、今回は僕らから、ほんの少しだけ『背中を押してあげる(ヒントを出す)』ことにしたんだ」

 

「蘇生という奇跡を直接起こすわけじゃない。ただ、彼らの持っていた正しい装置(クレイドル)に、本来の持ち主を戻す方法を教えるだけだからね」

 

「それ……消極的干渉のルール的に、アウトじゃないんですか?」

 工藤が、心配そうに尋ねる。

 

「グレーだね!」

 ティアナは、一切の悪びれもなく満面の笑みで即答した。

 

「完全に真っ黒に近いグレーよ」

 KAMIも、ワインを飲み干して笑った。「でも、人類の無自覚な暴力に対する意趣返しとして面白いし、何より、リオ君って結構いいキャラしてて私好みだったから。今回は特例で『セーフ寄り』ってことで処理しましょ。システム管理者権限よ」

 

「……理由が、軽すぎます……っ!」

 エミリーが、呆れたように突っ込むが、その声には先ほどまでの絶望の響きはなくなっていた。

 

「とはいえ、この介入には確かな筋が通っておる」

 賢者・猫が、静かに目を閉じて言った。

「我々は死者を無理やり現世に引き戻すわけではない。本来のポッド適合個体を、事故と暴力によって奪われた本来の保存槽へ戻すための、知識の提供じゃ。

 これは新しい奇跡を与えるのではなく、人類自身の手で壊された手順(プロトコル)を修復するだけの行為。……観測者の矜持として、許容範囲内じゃろうて」

 

「そういうこと。理屈の武装は完璧だ」

 ティアナは、満足げに手を叩いた。

「じゃあ、僕らからの極秘メッセージを受け取った、あの石頭のアルファがどう動くか……お手並み拝見といこうか」

 

 アメリカ国内。荒涼たる砂漠地帯の地下数百メートルに存在する、所在地完全非公開のセレスティアル・ウォッチ極秘研究施設。

 

 その最下層に位置する「バイオセキュリティ・レベル5」の厳重な隔離区画は、まるで巨大な霊廟のような、冷たく、そして重苦しい空気に満ちていた。

 

 広大なフロアの中央には、サンタ・ミラージュの脱線事故現場から無傷で回収された十一基の未覚醒の透明ポッドが、整然と並べられている。

 そしてその隣には、事故の衝撃で外殻がひしゃげ、内部の培養液が抜け落ちた【破損した一基のポッド】と。

 

 チタン合金製の無機質な検査台の上に、白い布を掛けられた【リオの遺体】が安置されていた。

 

 通常、このような国家機密レベルの未知の生物の遺体であれば、即座に解剖台に乗せられ、細胞サンプルを採取し、臓器の構造を徹底的に切り刻んで分析されるのが常である。

 だが、ここでは違った。

 リオの遺体は、単なる生物学的な『標本』としてではなく、アルファの絶対的な命令により、高度な思考と感情を持っていた【知性体の遺体】として、最大限の敬意と慎重さをもって隔離・保護されていたのだ。

 

 検査台の横で、科学主任のケンドール博士が、ホログラム・ディスプレイに次々と表示されるリオのバイタル・スキャンデータを見つめながら、眉間に深いシワを寄せていた。

 

「……信じられません」

 ケンドールは、隣に立つアルファに向かって、戸惑いの混じった声で報告した。

「完全に、生命反応はゼロです。心肺機能は停止し、脳の神経活動のパルスも一切検出されません。医学的な定義においては、彼は間違いなく『死亡』しています。

 ……しかし。細胞の劣化速度が、異常なほどに遅いのです。

 通常であれば、死亡直後から始まるはずのタンパク質の自己分解や、細胞壁の崩壊が、何らかの未知の防衛メカニズムによって極限まで遅延されている。死亡しているにもかかわらず、組織内の情報保持構造(DNAやシナプスのマッピング)が、凍結されたように崩壊せずに維持されているんです」

 

 アルファは、防護ガラスの向こう側に横たわる、胸に痛ましい弾痕を残したリオの体を、無表情のまま見つめていた。

 

「……それが、答えだったのかもしれないな」

 アルファは、ぽつりと呟いた。

 

「何の話です?」

 ケンドールが、怪訝そうな顔で振り向く。

 

「つい先ほど。……『サイト・アオ』から、私の暗号化回線に直接、極秘の通信があった」

 アルファが告げたその名前に、ケンドールの表情が一瞬にして凍りついた。

 

「……サイト・アオ……!」

 ケンドールは、周囲のスタッフに聞こえないよう、声を極限まで潜めた。

「大統領には、報告したのですか?」

 

「いや」

 アルファは、首を横に振った。

「サイト・アオの存在と、彼らとの直接的なコンタクト・ルートは、セレスティアル・ウォッチにおける最重要機密(アルティメット・クリアランス)だ。ヘイズ大統領にさえ、その実態は一切開示していない。

 ……だから、ここから先に行う措置は、完全に私個人の『独断』となる」

 

 ケンドールの顔に、明確な焦りと厳しさが浮かんだ。

「アルファ。……それは危険すぎます。今、ヘイズ大統領は、あの旧軍系保全班の暴走に対して烈火のごとく激怒し、すべての隠蔽案件を白日の下に晒そうと躍起になっています。

 このタイミングで、大統領にも内緒で、未知の存在からの接触情報に基づいて対象の遺体を操作したとなれば……あなたまで、あの忌まわしい『地下室の亡霊(隠蔽組織)』と同じ穴の狢だと見なされかねませんよ!」

 

「分かっている」

 アルファの声は、いかなる動揺も見せず、ただ静かで冷徹だった。

「私が責任を問われるリスクは承知の上だ。……だが、この件だけは、絶対に【政治案件】にしてはいけないんだ」

 

「……なぜです?」

 

「一度大統領に報告し、これを政府の公式な議題に上げれば、何が起こる?」

 アルファは、ケンドールを真っ直ぐに見据えた。

「果てしない『議論』が始まるからだ。……リオの遺体をどう扱うべきか。未知のテクノロジーを復活させるのは国家の安全保障上危険ではないのか。あのポッドの技術を、人間の医療(メドベッド)や不老不死に応用できないか。

 議会の公聴会、軍のタカ派、倫理や宗教団体、ネットの陰謀論者、永遠の命を金で買おうとする富裕層、そして不治の病に苦しむ患者の家族たち。

 ……すべての欲望とイデオロギーが、ハイエナのようにこのポッドの周りに群がり、果てしない泥沼の議論が数ヶ月、数年と続くことになる」

 

 アルファは、再びガラス越しのリオへ視線を戻した。

「……その愚かな時間稼ぎの間に。リオの細胞の保持構造は限界を迎え、彼を『再構成』できるかもしれない唯一の可能性の窓は、完全に閉ざされてしまう」

 

 ケンドールは、息を呑んだ。

「……サイト・アオからの情報は、それほどまでに確実なのですか?」

 

「あのポッドは、彼ら代替知性種(レプティリアン系候補体)専用の保存ポッドであり……同時に、損傷を修復するための『治療・再構成ポッド(クレイドル)』でもある」

 アルファは、サイト・アオから受け取った情報を淀みなく伝えた。

「人間のDNAには一切適合しない。使えば拒絶反応で死ぬだけだ。

 ……だが、対象であるリオを正しい手順で格納すれば、ポッドは自動で生体認証を行い、再生措置のプロトコルを開始する可能性が極めて高い」

 アルファは、言葉を区切り、重く付け加えた。

「もちろん、細胞の修復には途方もない時間がかかる。十年後か、あるいはもっと先か。再び目を覚ますという絶対の保証もない。……だが。彼はまだ、完全には失われていないのだ」

 

 ケンドールは、科学者としての圧倒的な好奇心と、人類の常識を覆すテクノロジーの存在に、足が震えるのを覚えた。

「夢のようなテクノロジーですね……。もしそのポッドの再構成システムの一端だけでも我々が解析し、リバースエンジニアリングできれば、人類の医療技術は数百年の進歩を遂げるかもしれない……!」

 

「ケンドール」

 

 アルファの声が、それまでの同僚としての温かさを一切排した、刃のように冷たい響きに変わった。

 その声に、ケンドールはビクッと肩をすくめた。

 

「……人類の技術的進歩より。リオの命が、先だ」

 

 アルファのその絶対的な意志の前に、ケンドールは完全に沈黙した。

 

「我々人類は、彼を理解しようとせず、言葉を交わそうとした彼を、一方的な恐怖と保身で撃ち殺した。……我々は、話せる相手を守れなかったのだ」

 アルファの無機質な表情の奥に、確かな「後悔」と「怒り」の炎が揺らめいていた。

「ならば。もし彼を戻せる可能性が万が一にもあるのなら、我々が最初にすべきことは、技術の解析でも、兵器への転用でもない。

 ……ただ純粋に、彼を『ゆりかご』に戻すことだ。それ以外の理由は、一切必要ない」

 

 ケンドールは、数秒間、アルファの目を見つめ返し。

 やがて、深く息を吐いて、ゆっくりと頷いた。

「……了解しました、主任(チーフ)。準備にかかります」

 

 アルファは、隔離区画内にいた無関係な研究員たちをすべて退出させ、最も信頼できるケンドールを含む数名のコア・スタッフだけを残した。そして、全員に対し、最高レベルの特殊機密保持契約(NDA)への再署名をその場で要求した。

 

 スタッフの一人が、端末を操作しながら不安そうに尋ねた。

「アルファ主任。……一連の作業記録と、大統領への報告レポートは、どう処理しますか?」

 

「まだ作成しない。サーバーへのログ記録もすべてオフにしろ」

 アルファは即答した。

 

「そ、それは……明確なセキュリティ規定違反では? 後で監査が入れば、我々全員が軍法会議ものですよ」

 

「規定上、対象の個体(リオ)は『死亡個体』として回収され、マニュアルに従い、腐敗を防ぐために専用のポッド内で『凍結保管』されることになっている」

 アルファは、嘘をつくわけではない、しかし巧妙に事実をすり替えた論理を展開した。

「我々が今から行うのは、あくまでその規定に沿った『保存措置』だ。……その保存措置の過程で、ポッド側が勝手に未知の自動修復プロトコルを走らせる可能性については、現時点では未確定事項であり、推測の域を出ない。よって、報告の義務は生じない」

 

 ケンドールが、作業を進めながら小さく呟いた。

「……見事な詭弁ですね」

 

「そうだ」

 アルファは、あっさりと認めた。

 

「ヘイズ大統領が後からこの事実を知れば、あなたがどれだけ彼女を支援してきたとしても、絶対に許さないでしょうね。烈火のごとく怒りますよ」

 

「彼(リオ)が無事に目覚めたら、その時は私が大統領の前に出て、首を差し出して怒られよう」

 アルファは、微塵の迷いもなく言い切った。

「もし目覚めなければ、彼はただの凍結された死体のままだ。報告すべき厄介な政治案件など、最初から存在しなかったことになる」

 

「……あなたらしくない、非合理的で感情的な判断です」

 ケンドールは、アルファの人間らしからぬAIのような普段の姿を知っているだけに、微かに微笑んで言った。

 

「そうかもしれないな」

 アルファは、自らの手袋をはめながら、低く言った。

「だが、リオは我々人類の旧軍系の保全ラインによって、一度理不尽に殺された。

 ……今度は、我々官僚組織の『政治手続きの遅さ』という理由で、彼を二度殺すわけにはいかないんだ」

 

 それは、常に論理と確率のみで動くセレスティアル・ウォッチの監視者が、初めて見せた「人間としての意地」であり、冷徹な独断に確固たる倫理的根拠を与える言葉だった。

 

 隔離区画の中央。

 リオの遺体を、どのポッドへ格納すべきかという問題が生じた。

 

 現場から無傷で回収された十一基の未覚醒のポッドのどれか空いているものを使用するのか。それとも、事故で外殻がひしゃげ、ひどく損傷しているリオ自身のポッドを修復して使うのか。

 

「……この破損したポッドの内部メモリには、対象であるリオの個体識別データと『生体同期記録』が、依然として強く残存しています」

 ケンドールが、スキャン結果を見て提案した。

「汎用的に作られているとはいえ、他者の別の個体用にチューニングされた未覚醒のポッドへ無理やり移すより、他の無傷のポッドから部品(リソース)を抜いてでも、本人のポッドのガワを修復して格納した方が、再構成の成功率は格段に高いはずです」

 

「では、その手順で進めろ」

 アルファが了承する。

 

 クレーンとロボットアームが稼働し、慎重な作業が始まった。

 ひしゃげてヒビだらけになった透明な外殻(キャノピー)が取り外され、他のポッドから流用された特殊な樹脂とチタン合金のフレームによって、即席で、しかし極めて堅牢に塞がれ、密閉空間が再構築される。

 そして、備蓄されていた予備のタンクから、あの青白い、羊水のような粘度の高い培養液が、シューッという音と共にポッドの内部へと再充填されていく。

 

 すべての準備が整い。

 リオの遺体が、ロボットアームによって静かに持ち上げられ、満たされた液体の底へと、ゆっくり、ゆっくりと沈められていった。

 

 彼が液体の完全に沈み切り、ハッチがロックされた、その瞬間。

 

 これまで完全に沈黙し、ただのガラスの棺桶のように見えていたポッド全体が、突如としてビクン、と反応した。

 

 ドクン……。ドクン……。

 まるで、巨大な機械の心臓が脈打つような、極めて低い、腹の底を震わせるような重低音が鳴り響く。

 

「……!!」

 ケンドールが息を呑む。

 

 ポッドの内部に、眩い【青白い光】が明滅し始めた。

 液体の成分が化学変化を起こしたように輝きを増し、ポッドの内壁に張り巡らされた無数の細いチューブの中に、生命の息吹のような金色の光の筋が、血管のように高速で走り始める。

 そして、その無数の光の糸は、リオの胸に開いた痛々しい銃創(傷口)へと集中的に集まり、まるで傷を縫い合わせるように微細な明滅を繰り返した。

 

「ポッドのメインシステム、起動しました!」

 モニターを監視していたスタッフが、興奮を抑えきれない声で報告を叫ぶ。

「対象の生体認証(DNA照合)……完全一致!

 ポッド内部で、高度な修復プロトコルらしき未知の反応を確認! 対象の脳神経構造のディープスキャンが開始されました!

 破損した組織の細胞分裂および遺伝子の再構成プロセスが、極めて低速ですが、進行し始めています!

 ……対象の胸部に、人間の心拍に相当する『微弱な周期反応』……あり!」

 

 ケンドールは、震える手で眼鏡を押し上げ、防護ガラスに張り付くようにしてポッドの内部を見つめた。

「……本当に、動き始めた。人類の常識を完全に凌駕する、再生システムだ……」

 

 アルファは、ポッドの正面に立ち、液体の底で静かに浮かぶ彼の姿を見つめた。

 

「……リオ」

 アルファは、彼がかつて呼ばれたその名前を、小さく口にした。

 

 リオは目覚めない。

 その金色の縦長の瞳は固く閉ざされたままであり、表情は深い眠りに落ちたようにピクリとも動かない。

 しかし。その状態は、もはや絶対的な「完全な死(エンド)」ではなかった。

 

「……意識の復帰予測は、現在の我々の演算能力では解析不能です」

 スタッフが、冷静なデータ分析を補足する。

「細胞レベルからの再構成が完了するまで、最低でも数年。場合によっては十数年、あるいは数十年以上の時間を要する可能性があります。

 また、プロセスの途中でエネルギーが枯渇し停止するリスクや、記憶や人格情報の完全性がどこまで保たれるかは、一切未確認です」

 

「構わない」

 アルファは、ポッドから目を離さずに、揺るぎない声で言った。

「明日にでも彼が再び目覚め、生きる可能性があるというのなら。我々は、何年でも待つ。……それでいい」

 

 再び、地球軌道上のサイト・アオ。

 

 ラウンジの中央のホログラムに、セレスティアル・ウォッチの地下施設で、青白い光を放ちながら脈動を始めたポッドの映像が映し出された瞬間。

 エミリーは、ソファから弾かれたように立ち上がり、両手で口を強く覆って息を呑んだ。

 

「動いた……! ポッドが、動いてる……!」

 エミリーの大きな目から、先ほどまでの絶望とは違う、大粒の涙がボロボロと溢れ落ちる。

「リオさん……! リオさん……!!」

 

 KAMIは、退屈そうに頬杖をつきながらも、どこか満足げに口角を上げた。

「はい、フラグ成立。これにて完全なバッドエンドのルートから、一縷の望みを残した『ノーマルエンド』へのルート分岐が確定したわね。

 これがハッピーなグッドエンドに繋がるかどうかは、数年後から数十年後のランダムな乱数調整次第ってところかしら」

 

「KAMIさん、だからそういうゲームみたいな言い方、本当にやめてくださいよ!」

 エミリーが、泣き笑いのような顔で抗議する。

 

 ティアナは、紅茶のカップを置き、少しだけ優しい声音でエミリーに語りかけた。

「でも、これで希望は残った。

 ……勘違いしちゃいけないよ。リオは、撃たれて死んだ。この事実は絶対に消えないし、無かったことにはならない。

 あのサンタ・ミラージュの冷たいガレージの床で、ジェイクたち少年と出会い、言葉を交わし、子供を庇って死んでいった『あの夜の彼(リオ)』は、一度確かに、完全に死んだんだ」

 ティアナの瞳は、厳粛な真理を射抜いていた。

「でも。……彼は、完全には失われていない。情報と魂の器は、こうして繋ぎ止められた」

 

「命とは、時に単なる等価交換の取引よりも、はるかに複雑で難しいものじゃ」

 賢者・猫が、クッションの上で目を細めて喉を鳴らす。

「一度完全に失われたものは、決して元通りには戻らぬ。……だが。記録された情報(記憶)と、それを受け止める器(肉体)さえ残っていれば、種子が冬を越えるように、再び芽吹くこともある。

 日本の『ソーマの樹』の事象と、どこか似ておるな。過去の罪や破壊を無かったことにするのではなく……その痛みを抱えたまま、未来をもう一度だけ『許す』のじゃ」

 

 工藤が、ホログラムの映像を見ながら、ふと現実的な疑問を口にした。

「……このこと。あのジェイクって少年に、知らせてあげるんですか?」

 工藤の脳裏には、ニュース映像で見た、ガレージの前で泣き崩れていた少年の姿が焼き付いていた。「あいつ、自分が外に出たせいでリオが撃たれたって、一生消えないトラウマ抱えて生きていくことになりますよ」

 

「……アルファなら、必ず知らせるよ」

 ティアナは、確信を持って断言した。

「ただし、彼は大統領にも秘密でこの独断措置を走らせている。公式なルートや、追跡可能な政府のネットワークを使って伝えることは絶対にできない。

 だから、伝えるとしたら……絶対に足のつかない『完全な匿名(アノニマス)』の形になる」

 

「いいわね。誰にも言えない、二人だけの秘密の希望」

 KAMIが、ワイングラスを傾けてクスクスと笑う。

「世界中の人間は、リオは完全に死んで灰になったと思って、お涙頂戴の追悼に浸ってる。でも、地球上でたった一人、あの少年だけが『彼はまだ、完全には終わっていない』っていう真実を知るのよ。

 ……ドラマチックで、最高にエモい展開じゃない」

 

「KAMIさん、だから言い方が軽すぎますって……っ!」

 エミリーは、呆れたように突っ込みを入れながらも。

 その顔には、ここ数日間の暗雲を吹き飛ばすような、安堵の入り交じった柔らかい笑みが浮かんでいた。

 彼女は、泣きながら、それでも確かな希望を胸に抱いて、青白く光るゆりかごの映像を見つめ続けていた。

 

 同じ頃。

 セレスティアル・ウォッチの極秘施設内で、アルファはメインコンソールに向かい、厳重なセキュリティで暗号化された一つのファイルを開いていた。

 

 それは、現在セレスティアル・ウォッチの最重要『保護プログラム(証人保護制度に似た隔離措置)』の下に置かれている、ジェイク・ミラーの個人データと、現在の滞在位置情報だった。

 表向きは、過激な陰謀論者やマスコミの狂騒から未成年者を守るための保護である。しかし実際には、人類史上初めて未知の知性体と「言語による有効なコミュニケーション」を成立させた、極めて重要な参考人としての隔離であった。

 

 アルファの背後から、ケンドール博士が声をかけた。

「……本当に、彼(ジェイク)に知らせるつもりなのですか?」

 

 ケンドールの声には、科学者としての懸念が滲んでいた。

「彼に中途半端な希望を与えて、もしこの先、ポッドの再生プロセスが失敗に終わり、リオが二度と目覚めなかったらどうするのです?

 少年は、永遠に叶わない待ちぼうけを食らい続け、二度、心を殺されることになりますよ」

 

「それでも。……彼は、真実を知る権利がある」

 アルファは、キーボードを操作しながら、一切の感情を交えずに答えた。

「彼が、あの日、見ず知らずの怪物相手に、恐怖を乗り越えて最初に『一杯の水』を渡したんだ。彼がいたから、リオは言語を獲得し、我々に接触を図ろうとした。

 ……リオの、この地球における『最初の接触記録(ファースト・コンタクト・ログ)』は、間違いなくジェイク・ミラーだ。

 いつか、数年後か数十年後か……リオが再びこの世界に目覚めた時。彼を狂気や孤独から繋ぎ止めるために、絶対に『彼の(ジェイクの)』存在が必要になる時が来るかもしれない」

 

「……あなたは、あの少年を、将来的に我々セレスティアル・ウォッチの組織に引き込むつもりですか?」

 ケンドールが、アルファの遠大な計画を察知して息を呑む。

 

「今はまだ、違う。彼はただの傷ついた未成年だ」

 アルファは、否定した。

「だが、遠い未来において、我々の『監視者』の候補リストの筆頭に載ることは間違いない。

 ……少なくとも、未知の恐ろしい存在に直面した時。最初に手にするのが『銃』ではなく、相手を思いやる『水』である人間を。……これからのアーティファクトの時代を生き抜くために、我々人類の組織は、どうしても必要としているんだ」

 

 アルファのその言葉は、セレスティアル・ウォッチという組織の持つ冷徹な理念の奥底にある、確かな『人間性への信頼』を示していた。

 

「この件、大統領には?」

 ケンドールが、念のために最後の確認をする。

 

「まだ言わない。言うわけにはいかない」

 

「……あなた、後でヘイズ大統領がすべてを知ったら、本当にシャレにならないレベルで怒られますよ」

 ケンドールが、半ば呆れたように肩をすくめる。

 

「構わない。……その怒りは、未来の私が処理する」

 

 アルファらしい、極めて無表情で論理的なその返しに、ケンドールは小さく鼻で笑って、それ以上の干渉を諦めた。

 

 アルファは、完全に足のつかない、いかなる国家機関も、Cicada 3301ですら追跡不可能な特殊な暗号化パケット(ワンタイム・プロトコル)を生成し。

 ジェイクの持っている端末に向けて、たった一度きりの『匿名メッセージ』の送信ボタン(エンターキー)を、静かに押し込んだ。

 

 アメリカ国内の某所。セレスティアル・ウォッチが用意した、安全で快適な、しかし窓の外の景色すら分からない無機質な保護施設の一室。

 

 ジェイク・ミラーは、ベッドの上に体操座りをしたまま、一睡もできずに虚ろな目で宙を見つめていた。

 部屋の小さなデスクの上には、あの日、彼がガレージでリオに手渡した【ミネラルウォーターの空のペットボトル】が、ぽつんと置かれている。

 鑑識の調査が終わり、もう何度も綺麗に洗われ、指紋一つ残っていないただのプラスチックのゴミだ。だが、ジェイクにとっては、リオと心を通わせたという、この世界に残された唯一の『最初の記録(絆)』であった。

 

 壁に掛けられた備え付けのテレビのニュースでは、いまだにサンタ・ミラージュの事件の余波と、世界中で巻き起こっているリオへの追悼のムーブメントが報じられている。

 画面には、『#WaterForRio』のハッシュタグと共に、世界中の人々が投稿した無数の「水の写真」が次々と映し出されていた。

 

 大衆はそれを「優しい追悼」として消費し、癒やしを得ているのだろう。

 だが、ジェイクにとっては、その水の映像を見るたびに、自らの心臓をナイフで抉られるような、激しい自責の念と後悔がフラッシュバックするだけだった。

 

(……俺が、あの時、水を渡してしまったから)

 ジェイクは、頭を抱え、自分の髪を強く掻き毟った。

(俺が水を渡して、あいつが俺たち人間のことを『信じて』しまったから……。だから、あいつは逃げずに両手を上げて降伏して、俺を庇って、死んだんだ。

 俺があんなことしなければ、あいつは本能のままに砂漠の奥に逃げ延びて、今もどこかで生きていたかもしれないのに……!)

 

 もしも、という決して戻らない過去への後悔が、ジェイクの心を真っ暗な絶望の底へと引きずり込んでいく。

 

 その時。

 ジェイクの手元に置かれていた、外部との通信が完全に遮断されているはずの政府支給の専用タブレット端末が。

 突如として、ピロン、と微かな電子音を立てて、画面を明るく発光させた。

 

「……?」

 ジェイクは、赤く腫らした目をこすりながら、力なくタブレットの画面を覗き込んだ。

 

 そこには、差出人不明、追跡不可の、奇妙な『匿名メッセージ』が一通だけ届いていた。

 あの悪趣味なCicada 3301の蝉のマークはない。彼ら特有の、人を小馬鹿にしたような茶化した文面も一切ない。

 ただ、黒い背景に、極めてシンプルで、事務的な白いテキストが数行、表示されているだけだった。

 

『――君が差し出した水は、決して無駄ではなかった。』

 

 その最初の一行を読んだ瞬間。

 ジェイクの心臓が、ドクン、と大きく跳ね上がった。

 

『彼は、完全には失われていない。

 

 再び彼が目覚めるには、途方もなく長い時間がかかる。

 だが、その時が来たなら、必ず君にも連絡しよう。

 

 最初の接触記録:ジェイク・ミラー。

 提供物:水。

 獲得結果:信頼。』

 

「な、なんだよ……これ……?」

 ジェイクは、震える手でタブレットを掴み、その短い文面を何度も、何度も、穴が開くほど読み返した。

 理解が追いつかない。頭の処理がショートしそうになる。

 

 そして。テキストの下に添付されていた『一枚の画像ファイル』をタップして開いた瞬間。

 

「……あ」

 ジェイクの喉から、声にならない掠れた息が漏れた。

 

 画像に映っていたのは。

 重厚な機械設備に囲まれた、青白い羊水のような液体に満たされた透明なポッド。

 その液体の底で、安らかに、ただ深く静かに眠っている……リオの姿だった。

 

 胸の痛々しい銃創はまだ生々しく残っている。

 だが、その傷口の奥深くの中心で。まるで小さな蛍の光のように、微かな『金色の光』が、トクトクと、命の鼓動のように確かに脈打っているのが、はっきりと見て取れた。

 

『彼は、完全には失われていない。』

 

 その言葉の本当の意味が、ジェイクの脳髄に稲妻のように突き刺さった。

 

「……リオ……っ」

 ジェイクの目から、再び大粒の涙が溢れ出した。タブレットの画面にポタポタと落ちて、映像を滲ませる。

 

 だが、その涙は。

 数分前まで彼を苛んでいたような、完全な喪失感と後悔にまみれた、真っ暗な「絶望の涙」ではなかった。

 微かな、本当に微かな糸のような……決して手放してはならない、「未来への希望の涙」だった。

 

 ジェイクは、タブレットを胸に強く抱きしめ、机の上に置かれていた空のペットボトルを、もう片方の手で力強く握りしめた。

 

「……待ってる」

 ジェイクは、しゃくりあげながら、誰に聞かせるでもなく、自らの魂に刻み込むように誓った。

「お前がまた目を覚ますまで。……何年でも、何十年でも。俺は、ずっと待ってるからな。

 絶対に、また会おうぜ。リオ……!」

 

 この瞬間、ジェイク・ミラーの未来は決定的に変わった。

 彼は、ただ「見知らぬ怪物を失い、心にトラウマを負った可哀想な少年」ではなくなった。

 いつか遠い未来、リオが再びこの星で瞳を開くその時に。誰よりも先んじて、彼を言葉と水で迎え入れるために、その場に立ち会わなければならない『使命を持った人間』へと成長するための、第一歩を踏み出したのである。

 

 そして、物語の幕引き。

 誰もいない、セレスティアル・ウォッチの地下最深部の隔離施設。

 

 すべての作業を終え、ケンドール博士たちスタッフも退出した後の静寂な空間で。

 アルファはただ一人、青白く脈動するポッドの正面に立ち、その透明なガラス越しに、深く眠るリオの姿を見つめていた。

 

「……リオ」

 アルファは、機械のような無機質な声で、しかしどこか人間らしい響きを込めて、小さく語りかけた。

 

「君は、合衆国の公式な記録上、完全に死亡したことになっている。大統領も、世界の何十億という人間も、君は灰になって消え去ったと思っている。

 ……だが。我々は、決して君を『二度殺す』ような真似はしない」

 

 ポッド内部の金色の光が、アルファの言葉に呼応するかのように、微かに、トクンと強く明滅した。

 

「君の細胞の再構成が完了し、再び目覚めるのが、十年後になるのか、五十年後になるのか、あるいは百年後になるのか、私には分からない」

 アルファは、ガラスにそっと手を触れた。

「だが、約束しよう。……次に君が目覚めた時、我々人類は、君を恐ろしい『銃口』で出迎えるような真似は絶対にしない。

 我々は、君を対等な知性体として、『言葉』で迎え入れる」

 

 アルファは、ポッドから手を離し、背筋を伸ばして踵を返した。

 

「……そして、可能であれば。

 君が目覚めた時のために……一杯の冷たい『水』も、用意しておこう」

 

 監視者の静かな足音が、霊廟のような空間に響き、そして消えていった。

 

 

 

 世界は、リオが死んだと思っていた。

 

 その認識は、生物学的な意味合いにおいても、社会的な意味合いにおいても、ほとんど『正しかった』と言える。

 サンタ・ミラージュの油臭いガレージで、怯えながら少年から差し出された水を飲み。

 彼らと不器用な言葉を交わして笑い合い。

 自らに銃を向ける保安官の行動原理を理解して『防衛個体』と呼び。

 そして最後に、自らの命を投げ打ってジェイクという少年を銃弾から庇った【彼】は。あの夜、あの瞬間、間違いなく、一度完全に死んだのだ。

 

 その「死」という事実は、決して無かったことにはならない。

 旧軍系の放った無慈悲な銃弾の痛みも、ジェイクの喉が裂けるような絶叫も、世界中のネットワークを駆け巡り、何十億もの人々の心を抉った「水をくれて、ありがとう」という最期の言葉も。すべては、消し去ることのできない重い現実(ヒストリー)である。

 

 だが。

 砂漠の闇夜を切り裂いて転がり落ちた、彼を長きにわたって眠らせていたあの透明なポッドは。……死者を葬るための、冷たい『棺(ひつぎ)』ではなかった。

 

 それは、彼らという種(代替知性種候補)が、過酷な宇宙の環境を生き抜き、いつか訪れる目覚めの日のために作られた、途方もなく長い長い、再生のための『ゆりかご(クレイドル)』だったのだ。

 

 いつか。

 それが何年後になるか、何十年後になるのか、誰にも分からない。

 

 だが、青白い羊水のような液体の底で。

 あの、すべてを見透かすような、知性と優しさに満ちた【金色の瞳】が、もう一度、静かに開かれる日が来るかもしれない。

 

 その時、長い眠りから覚めたリオが、最初に思い出す人類の姿は。

 自分に恐ろしい銃口を向け、忌まわしい怪物として排除しようとした、あの黒服の男たちの姿ではないだろう。

 

 冷たいガレージのコンクリートの床の上で。

 得体の知れない恐怖に震えながらも、それでも勇気を振り絞って、自分に向かって一杯の『水』を差し出してくれた……一人の、不器用で優しい少年の姿のはずだ。

 

 そして。

 その少年もまた。

 世界中の誰も知らない、いつか必ず来るかもしれない『再会の日』の約束を胸の奥底に固く抱きしめながら。

 消えない悲しみを背負いつつも、ほんの少しだけ、力強く前を向いて生きていくことを選んだのである。

 

 




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