銀河皇帝のスペアに転生した元社畜、地球軌道上の要塞でネトゲ三昧の隠居生活を満喫する 〜足元では超大国が滅亡級の異星遺産を巡って暗躍中ですが、主人公(ぼく)の命は絶対安全なので特等席で傍観します〜   作:パラレル・ゲーマー

167 / 167
第145話 アメリカ政府、ドイツの夜を再点検する

 ワシントンD.C.、ホワイトハウス地下。

 核攻撃の直撃にすら耐えうるよう設計された、極秘危機対応室の分厚い防爆扉の奥。冷え切った空調の音が、無機質な空間に重く、低く響いている。

 

 巨大な円卓の最上座で、アメリカ合衆国大統領キャサリン・ヘイズは、両肘を机に突き、組んだ指先に額を押し付けるようにして深く沈み込んでいた。

 彼女の眼前に広がるメインモニターには、すでに特定の映像は映し出されていない。ただ、各省庁から次々と上がってくる事後処理の報告書が、無感情なテキストデータの羅列となってスクロールしているだけだった。

 

『旧軍系保全班関連施設、四十二箇所の封鎖および監査完了』

『拘束された旧軍系関係者への尋問推移。連邦大陪審に向けた極秘証拠固め進行中』

『セレスティアル・ウォッチ管理外のブラック・プロジェクト一覧、抽出作業継続中』

『サンタ・ミラージュ封鎖の段階的解除プログラム、フェーズ2へ移行』

『ジェイク・ミラーら未成年五名の保護・心理ケア状況。現時点で極度なPTSDの兆候あり。外部メディアとの接触は完全遮断を継続』

 

 アメリカ合衆国政府は、かつてない速度で自らの「地下室の清掃」を強行していた。

 それは、長年国家の暗部に巣食っていた亡霊どもを根こそぎ解体し、二度とあのような独断専行を許さないという、ヘイズ大統領の凄まじいまでの怒りと執念の表れであった。

 

 だが。

 どれほど迅速に事後処理を進めようとも、どれほど世界に向けて誠実な謝罪と説明の声明を発しようとも。

 彼女の脳裏にこびりついて離れない、一つの『映像の残滓』を消し去ることはできなかった。

 

 モニターが真っ暗になっても、彼女の瞼の裏には、はっきりとそれが焼き付いているのだ。

 

 薄暗く油臭いガレージ。

 向けられた無数の銃口の前に、自ら両手を上げて歩み出た、鱗に覆われた未知の知性体。

『私は、ここにいる。この群れを、害するな』と、たどたどしい英語で降伏を示した姿。

 そして、無慈悲な銃弾が放たれる直前、自らの身体を投げ出して人間の少年を庇い……青緑色の血溜まりの中で、最後に残した、あのひどく純粋な言葉。

 

 ――水をくれて、ありがとう。

 

「……あの子は、話せたのよ」

 

 ヘイズの口から、掠れた、呻きのような声が漏れた。

 円卓を囲む国家安全保障補佐官も、国防長官も、その言葉に返す術を持たず、ただ重苦しい視線を落とすしかなかった。

 

「……話せた。両手を上げて降伏した。自分の命を懸けて、アメリカの子供を守った」

 ヘイズは、ギリッと奥歯を噛み締め、組んだ指先に力を込めた。

「……それでも、撃たれた。

 この国は、未知の存在から差し出された対話の手を、自らの恐怖と傲慢さで撃ち落としたのよ。……世界中の誰もが、我々アメリカをそう見ている。そして私自身も、そう思わずにはいられないわ」

 

 その悲痛な後悔の念が、室内の空気をさらに重く、冷たくしていく。

 

 だが、その沈黙を。

 暗号通信の向こう側から、氷のように冷徹な声が切り裂いた。

 

『大統領。……あのポッド群に関する、最終的なステータス移行の報告です』

 

 セレスティアル・ウォッチのオブザーバー・アルファだった。

 画面の中の彼は、深い影に包まれたまま、大統領の感傷など一切意に介さないような平坦な口調で告げた。

 

『サンタ・ミラージュで回収されたポッド十二基は、すべてセレスティアル・ウォッチの最高機密レベル管理下への移送を完了しました。旧軍系保全ラインのシステムアクセス権限は、物理的・電子的に完全に排除済みです。

 ……今後、あのポッド群に関して、我々以外の旧い亡霊が接触することは、未来永劫ありません』

 

 ヘイズは、少しだけ顔を上げ、疲労の滲む瞳で画面のアルファを見た。

 

「……そう。それだけは、安心していいのね」

 

『はい。確約します』

 アルファは、短く、しかし絶対的な重みを持って肯定した。

 

 アルファの内心には、大統領すら知り得ない、極めて重大な【秘密】が横たわっていた。

 セレスティアル・ウォッチの地下最深部で、青白く脈動する修復ポッド。その液体の底で、致死の銃創を負いながらも、微かな命の鼓動を刻み、途方もない時間をかけた再生プロセスに入っているリオの姿。

 彼が完全には失われていないことを、アルファと、傍らに立つケンドール博士だけが知っている。

 

 だが、それは絶対に言えない。

 もし今、大統領に「彼は生き返るかもしれない」と伝えてしまえば、それがどれほど微かな可能性であろうと、政治は必ずそれに群がる。彼をアメリカの外交的免罪符として利用しようとするか、あるいは不老不死に繋がる医療技術の源泉として、果てしない議論と利権争いの泥沼に引きずり込んでしまうからだ。

 だからこそ、彼らは黙秘を貫く。リオが再びその金色の瞳を開く、その不確かな未来の日まで。

 

 ケンドール博士は、画面の端でわずかに視線を伏せた。自国のトップにこれほどの重荷を背負わせたまま沈黙を続けることへの、科学者としての微かな罪悪感。

 だが、アルファは表情一つ変えることなく、冷酷なまでに実務的なトーンで言葉を継いだ。

 

『大統領。……我々には、落ち込んでいる暇はありません』

 

 その、あまりにも身も蓋もない直言に、会議室の空気が一瞬だけ凍りついた。

 国防長官が「アルファ、口を慎め」と険しい顔で凄もうとしたが、ヘイズ自身がそれを手で制した。

 

『旧軍からの引き継ぎ品、並びに隠蔽されていたブラック・プロジェクト・リストの精査は、現在も継続中です』

 アルファは、全く動じることなく続ける。

『今回の事件の根本的な原因は、旧軍系の管理外案件が、現代の危機管理体制に正しく接続されておらず、盲点となっていたことです。

 ……つまり。同じような、あるいはもっと質の悪い「未解明の時限爆弾」が、他にも存在する可能性が極めて高い』

 

 ヘイズは、自らの感傷を断ち切るように、深く、長く息を吐き出した。

 

「……ええ。分かっているわ」

 大統領の目に、再び冷徹な戦時指導者としての光が戻る。「それで? 次の火種の話をしに来たのね」

 

『はい。加えて』

 アルファの影の奥の目が、鋭く光る。

『スコットランドのネス湖の一件を契機に、セレスティアル・ウォッチは、現在【全世界規模での異常事象の再点検】を開始しています』

 

「再点検?」

 ヘイズが、怪訝そうに眉をひそめた。「ネス湖の件から?」

 

『そうです』

 ケンドール博士が、タブレットを操作しながら説明を引き継いだ。

『大統領。ネス湖は長年、ただの民間伝承や未確認生物の観光資源として、我々インテリジェンスの監視網から半ば軽視されていました。

 ……しかし実際には、あれは精神主義文明に由来する強大なアーティファクトが、何らかの理由で“目覚めた”事例だった。

 これが意味することは重大です。つまり、世界中に散らばる伝承、迷信、未解決事件、地域的な怪談の中に……まだ未覚醒の、あるいは隠蔽されたまま活動している既存技術外事象(アーティファクト)が、ごく自然な形で埋もれている可能性が高いのです』

 

 ヘイズは、苦い顔をした。

「……だから、世界中のおとぎ話や怪談を、国家のインテリジェンスの網でもう一度洗い直していると?」

 

『怪談だけではありません』

 ケンドールは、モニターに膨大なビッグデータの解析アルゴリズムの波形を投影した。

『医療記録の異常値、警察の不自然な未解決統計、不可解な失踪事件、局地的な気象変動、原因不明の家畜被害、宗教的な奇跡の報告、そして冷戦時代の古い軍事記録。

 我々は現在、これらのノイズの海を、アーティファクト特有のシグネチャをベースにしたAIで横断的に再解析しています』

 

 ヘイズは、こめかみを押さえた。

「……また頭が痛くなる話ね。それで、何が出たの?」

 

『その再点検のプロセスにおいて、一つ、極めて興味深い……というより、不気味な事象が浮かび上がりました』

 アルファが、メインモニターの表示を切り替えた。

 

 映し出されたのは、ヨーロッパの中心に位置する国家――【ドイツ】の地図だった。

 

 ベルリン、ハンブルク、ミュンヘンといった大都市の中心部ではなく。

 地方の小規模な都市、旧工業地帯、かつての東西分断の境界地域、深い森林地帯、そして……古い軍事施設の周辺に、不自然なほどの『赤い点』が、斑点のように散らばっている。

 

「ドイツ?」

 ヘイズが問う。

 

『はい』

 アルファの声が、一段階低く沈んだ。

『第二次世界大戦以降、ドイツ国内において。……夜間の暴行、原因不明の失血、および深刻な貧血を伴う事案が、周辺の欧州諸国に比べて、不自然なほどに多いことが分かりました』

 

「待って」

 ヘイズは、すぐさま合理的な反論を挟んだ。

「それは、単なる警察の捜査制度の違いや、医療記録の精度の問題ではないの? 都市化による犯罪率の増加や、移民問題の余波、あるいは統計の取り方の差というだけでは?」

 

『最初は我々もそう考えました』

 ケンドールが、手元のデータをスワイプしながら即座に否定する。

『防犯意識の時代的推移、警察の捜査技術の向上、報告制度の差異、薬物関連事件のノイズ。……それらすべての変数をアルゴリズムに組み込み、徹底的に補正をかけました。

 ……それでも、なお。ドイツの特定の地域においてのみ、統計学的に説明のつかない【異常なピーク値】が残るのです』

 

 モニターに、詳細な被害者データと事件の共通項が箇条書きで展開されていく。

 

『共通点:

 ・発生はすべて【夜間】。

 ・被害者は極度の貧血、または失血状態で発見される。

 ・多くは【死亡に至らない】。

 ・首筋、腕、太腿などの動脈付近に、鋭利な咬傷、または穿刺痕。

 ・被害者には記憶障害、極度の恐怖反応、軽い麻痺症状が見られる。

 ・加害者の目撃証言は「足を引きずる老人」「白い影」「動きの素早い若い兵士」「古い軍服を着た男」など、一貫性がない。

 ・警察は長年、これを薬物中毒者、カルト集団の儀式、野生動物の襲撃、あるいは被害者の精神疾患による自傷行為として処理。

 ・被害者の多くは、夜間の労働者、浮浪者、社会的弱者、または孤立者であり、事件化(報道)されにくい層に偏っている』

 

 ヘイズは、その不気味なリストを眺めながら、不快そうに顔をしかめた。

「……意味が分からないわね。血を抜かれているのに、殺されてはいない?」

 

『正確には、単純な出血(外傷)ではありません』

 ケンドールが、医療データの詳細を拡大する。

『記録が残っている一部の精密な血液検査の事例では、血液全体が減っているのではなく、血液中の特定成分……造血系細胞や、骨髄由来の極めて特殊な成分だけが、選択的に【吸い上げられている(減少している)】痕跡が見られます』

 

「つまり?」

 ヘイズの目が、鋭く光る。

 

『誰か、あるいは何らかの存在が。……被害者から、意図的に【血液を摂取している】可能性が高いということです』

 アルファが、冷酷な結論を口にした。

 

 ヘイズは、一瞬だけ沈黙し。

 そして、心底嫌そうに、うんざりとした声で言った。

 

「……吸血鬼(ヴァンパイア)、とでも言いたいの?」

 

 国家安全保障会議の場で出た、あまりにも古典的なオカルトの単語。

 だが、アルファは真顔のまま答えた。

 

『現時点では、吸血鬼と思わしき存在、としか表現のしようがありません』

 

『民間伝承の吸血鬼(アンデッド)であると断定する科学的根拠は、今のところありません』

 ケンドールも、慎重に補足する。

『しかし、行動パターンと被害の痕跡は、その伝承に極めて近い。……血を求め、夜に動き、記憶を混濁させる。まるで、吸血鬼という伝承そのものが、この事象から逆算して生まれたかのようにすら見えます』

 

 ヘイズ大統領は、腕を組み、深く考え込んだ。

「……そんな異常な事象が。なぜ今まで、セレスティアル・ウォッチの、あるいはヨーロッパのインテリジェンスの監視網に引っかからなかったの?」

 

『理由は複数あります』

 ケンドールが、ホワイトボードの代わりにモニターへ要因を羅列していく。

 

『・個々の事案が極めて小規模(単独犯的)であること。

 ・多くは死亡に至らないため、重大事件としての優先度が低いこと。

 ・被害者が社会的弱者であり、事件化そのものを避ける傾向にあること。

 ・夜間の暴漢、薬物、カルトといった「現実的な枠組み」で処理しやすいこと。

 ・ドイツ国内の警察・医療システムの中で情報が完結してしまっていたこと。

 ・そして何より……我々が介入すべき『既存技術外事象』であると断定するだけの、決定的な異常性(アーティファクトの反応)の証拠がなかったこと』

 

『加えて』

 アルファの低い声が、最も不穏な可能性を提示した。

『近年まで発生頻度が低く抑えられていたこと。……そして、関連データが、何者かによって【意図的に散らされていた】形跡があることです』

 

「意図的に?」

 ヘイズの眉が跳ね上がる。

 

『確証はありません』

 アルファは、冷徹にインテリジェンスの網目を分析する。

『ですが、記録の欠落や、不自然な事件分類のミスが多すぎます。

 特に……旧軍施設周辺、戦後に処理されたナチス関連資料の保管地域、そして極右組織の摘発歴がある地域において、この手の未解決事件の記録が、綺麗に「薄く」なっているのです』

 

「……ドイツの内部に、これを意図的に隠蔽している勢力がいるかもしれないと?」

 国防長官が、険しい顔で問う。

 

『可能性はあります。……それが国家の中枢なのか、地方の腐敗した組織なのか、極右の地下ネットワークなのか、あるいは全く別の既存技術外勢力による隠蔽なのかは、不明ですが』

 

 ヘイズ大統領は、ギリッと奥歯を噛み締めた。

「……もし本当に隠蔽されていたのだとしたら。なぜ今になって、急に網に引っかかったの?」

 

 ケンドール博士が、さらに別のグラフを画面に表示した。

 それは、過去数十年間の発生件数の推移を示す折れ線グラフだった。

 

 ヘイズは、そのグラフの右端を見て、目を細めた。

「……増えているわね」

 

『はい』

 ケンドールが、重く頷く。

『長期的には、極めて低頻度で、散発的に発生していた事象でした。

 ですが、世界中でアーティファクトが活性化し始めた時期から、やや増加の傾向を見せ。

 ……そして、【ここ一年】で、加速度的に急増しています。

 ネス湖の覚醒、ソーマの樹の出現、Cicada 3301の暗躍、そしてリオの事件。……それら世界の既存技術外事象の活性化と完全に歩調を合わせるように、グラフが跳ね上がっているのです』

 

「原因は?」

 

『不明です』

 アルファが答える。

『世界のアーティファクトの共鳴によって、彼ら(吸血鬼的対象)の活動が活性化せざるを得なくなったのか。

 ……あるいは、誰かが、意図的に彼らの活動を【再開(活発化)】させたのか』

 

 そして。ケンドール博士が、この報告を今日この場に上げた最大の理由を口にした。

 

『……先週。

 ついに、明確な【死者】が出ました』

 

「なんですって?」

 ヘイズの顔つきが、一気に険しくなる。

 

 モニターに、ドイツの地方都市における死亡事件の概要が表示された。

 深夜。被害者は夜勤帰りの若い男性。

 全身の血液量が異常なまでに低下し、首筋には深い咬傷と、肉を食いちぎられたような痕跡。

 致命的なショックと失血による、完全な殺害。

 

「……これまでは、生かさず殺さず、血だけを少しずつ奪っていたものが。……ついに、リミッターを外した(あるいは外れた)ということか」

 国家安全保障補佐官が、青ざめた顔で呻く。

 

『現場周辺の防犯カメラの、粗い映像データを入手しました』

 ケンドールが、不鮮明な夜間の映像を再生する。

 

 街灯の少ない石畳の路地。

 被害者の男性の背後を、影が追っている。

 

 最初は、杖をついた、腰の曲がった『老人』のような不格好なシルエットだった。

 だが、カメラの死角に入り、再び別のカメラに映り込んだ数分後の映像では。

 

 その影は、異常なまでに真っ直ぐな姿勢で、恐ろしいほどの俊敏さで壁を蹴り、獲物に飛びかかる『若く屈強な男』の姿へと変貌していた。

 

「何、これ……」

 ヘイズは、その不気味な変容に顔をしかめた。

 

『映像からの推測ですが』

 ケンドールが、科学者としての仮説を立てる。

『昼間、あるいは血が足りない状態では老人の姿。

 ……しかし、夜間に行動し、血液を摂取することで、急速に細胞を活性化させ、若年兵士に近い身体機能へと【変異(回復)】している可能性があります』

 

「……吸血鬼じゃないと言いながら、どんどん民間伝承の吸血鬼に寄っているじゃないの」

 ヘイズは、深い嫌悪感を込めて吐き捨てた。

 

『ええ。だからこそ、報告したのです』

 アルファが、影の中から静かに言った。

 

 ヘイズ大統領は、腕を深く組み、モニターのドイツ地図を睨みつけた。

 

「ドイツの吸血鬼。……そして、血を吸って夜だけ若返る老人」

 ヘイズは、冷たい声で呟いた。

「……嫌な予感しかしないわね」

 

『ドイツは、EUという巨大な政治経済ブロックの中核であり、同時に精神主義を掲げる【ヘルメス協会】の重要拠点でもあります』

 アルファが、地政学的な背景を整理する。

『通常であれば、既存技術外事象に対する監視は、彼らの手によって比較的強く敷かれているはずの地域です』

 

『にもかかわらず、長年この事象が検出をすり抜けている』

 ケンドールが続く。

『さらに、事件の分布の一部が、第二次世界大戦末期の軍事施設、戦後の記録抹消地域、そしてナチス関連資料の秘匿ルートと、不気味なほど重なり合っています』

 

「……ナチス・ドイツ関連の、何かだと?」

 ヘイズ大統領の目が、鋭くアルファを射抜く。

 

『可能性の一つとして、極めて濃厚です』

 アルファは、感情を交えずに答えた。

 

『ナチスが南米へ持ち込んだ《ゾンネンヘルツ計画(太陽の心臓)》の本流は、すでにアルゼンチンでアステカの超戦士(イツコアトル)によって破壊されたことが確認されています』

 ケンドール博士が、資料を提示する。

『ですが、ナチス末期の狂気的な超常軍事研究が、あの心臓の儀式だけだったとは限りません。

 彼らの残した膨大なオカルト研究の機密資料の断片には、不死化、超人化、霊的心臓置換と並んで……【血液維持】や【夜間歩兵】といった、不気味な単語が散見されます』

 

「……ドイツ政府は、これを把握しているの?」

 ヘイズが、外交問題としてのリスクを問う。

 

『現時点において、ドイツの中央政府がこれを組織的に把握しているという証拠はありません』

 アルファが答える。

『しかし、地方の警察、一部の医療機関、あるいは旧体制の思想を受け継ぐ極右ネットワーク内で、意図的に事件を「ただの未解決犯罪」として埋め込んでいる可能性は高い』

 

「……もし本当に、ナチスの超常兵器研究の残滓(亡霊)が、現代のドイツの夜を徘徊して市民の血を啜っているのだとしたら」

 ヘイズ大統領は、深い溜息をついた。

「それは、ドイツという国家にとって、これ以上ないほどの最悪の【政治爆弾】になるわね」

 

『はい。露見すれば、EUの根幹を揺るがす事態になりかねません』

 

 国防長官が、ここで強く進言した。

「大統領。事態は急を要します。ドイツ政府に我々が掴んだ証拠を突きつけ、正式に通告すべきです。そして、直ちにアメリカ主導の武装調査チームを派遣し、対象が吸血鬼型の異常存在であり、市民を襲っているというのであれば、軍事対応も辞さない構えで――」

 

「いいえ」

 

 ヘイズ大統領は、即座に、氷のような声でその強硬論を叩き斬った。

 

 国防長官が言葉に詰まる。

「しかし、大統領……!」

 

「アメリカが単独で他国の裏庭に乗り込むのは、最悪の選択よ」

 ヘイズは、冷徹な戦時指導者の目で、長官たちを見据えた。

「私たちは、つい先日……自国の地下室で飼っていた旧軍系の亡霊が何をしたかを、世界中に生配信で見られたばかりなのよ。

 ……同じ過ちを、他国(ドイツ)の亡霊を相手に繰り返すつもり?」

 

 会議室が、押し黙った。

 リオの流した青緑色の血の記憶が、彼らの頭を冷やした。

 

「未知の存在。血液。ナチス。そして、ドイツ本国」

 ヘイズは、一つ一つの単語の重さを噛み締めるように言った。

「これだけ危険で政治的な単語が並んでいる事件に、アメリカ軍が単独で、しかも強引に出張れば……それは、火薬庫の中に火のついた松明を投げ込むようなものよ。必ず暴発するわ」

 

「では、どう対処しろと?」

 

「今回は、多国間で動くわ」

 ヘイズは、断固とした決意で言った。

 

 アルファが、影の中から小さく頷いた。

『……同意します』

 

『リオ事件の教訓としても、初動で相手を「怪物」と決めつけて銃を向けることは、絶対に避けるべきです』

 ケンドール博士も、科学者としての理性を主張する。

『……ただし。今回は、リオの時とは明確に異なります。

 被害者が出ており、先週はついに「死者」も出ている。対象が明確に人間を襲って血を奪っている以上、対話前提の甘い考えだけで近づくのは、自殺行為です』

 

「そこは理解しているわ」

 ヘイズは、厳しく頷いた。

「リオは怪物ではなかった。……でも、今回の吸血鬼と思われる存在は、現実に人を殺している。そこを混同して同情するつもりは一切ないわ。

 ……アルファ。調査の枠組みは?」

 

 アルファは、すでに構築していたプランを提示する。

『ここは、アメリカ単独ではなく……ドイツ政府、EUのヘルメス協会、日本政府、そして我々セレスティアル・ウォッチによる【合同調査】が適切です』

 

「日本も?」

 ヘイズが、少し意外そうに眉を上げる。

 

『はい』

 アルファは、合理的な理由を並べる。

『日本は、これまで出雲、与那国、黒鯨、そして不老無病の国民投票という、複数の既存技術外事象の政治的整理に、極めて高いレベルで成功しています。

 矢崎総理の政治的判断力と、あの三神編集長の特異な分析能力は、今回の複雑なオカルト事案においても必ず有用に機能します。

 また、ナチス関連の既存技術外事象(ゾンネンヘルツ計画)については、日本政府も我々から過去の情報共有を受けており、文脈を理解しています』

 

『さらに、ヘルメス協会を巻き込むことは必須です』

 ケンドールが続ける。

『彼らはEU圏内での超常・精神・儀式系事象に対する強力な監視力と知見を持っています。

 今回の対象が、民間伝承の吸血鬼そのものではないにしても。……血液、夜間、命令、そして信仰(オカルト)の要素が絡む場合、彼ら導師の専門知識は不可欠です』

 

「ドイツ政府の対応は?」

 ヘイズが問う。

 

『まず、極秘に照会をかけます』

 アルファが答える。

『表向きには、「未解決の夜間連続暴行事件の、科学捜査インテリジェンスによる共同解析支援」という名目を使用します。

 相手が既存技術外事象(アーティファクト)である可能性については、ドイツ政府内のごく限定された関係トップにのみ共有し、パニックを防ぎます』

 

「中国の仙人たちは、呼ばないの?」

 ヘイズが、世界最強の武力(治癒力)を持つ勢力について確認する。

 

『現段階では、直接の要請は控えます』

 ケンドールが答える。

『彼らの力は強大すぎます。しかし、もし対象個体の肉体性能が我々の想定を遥かに超えていた場合……後続のフェーズで、中国の仙人、あるいは日本の剣など、高位の特殊戦力へ協力(介入)を要請する可能性は残しておくべきでしょう』

 

「中国に頼るのは、政治的にあまり気が進まないけれど……」

 ヘイズ大統領は、顔をしかめながらも、現実主義者としての決断を下した。

「リオの時のように、『アメリカの面子のために、必要な助けを遅らせる』ような真似は、もう二度としないわ。必要なら頭を下げる」

 

『その通りです、大統領』

 アルファが、深く頷いた。

 

 ヘイズは、即座に大統領権限で、ドイツ首相への極秘のホットラインを開設させた。

 

 数分後。

 画面に映し出されたドイツ首相は、深夜の突然の連絡に困惑しながらも、アメリカ大統領からの直々の要請に居住まいを正した。

 

「……吸血鬼、ですか?」

 ドイツ首相は、ヘイズから送られた概要を聞いて、不快そうに眉間に深い皺を刻んだ。

「大統領、我々は今、互いに非常に深刻な時代を生きています。……これは、悪質なジョークではありませんよね?」

 

「残念ながら、冗談なら私も笑っているわ、首相」

 ヘイズは、冷たく、真剣な声で返した。

「我々セレスティアル・ウォッチの異常事象再点検アルゴリズムによって、ドイツ国内の夜間失血事件の異常な偏りが浮かび上がったのよ」

 

 ドイツ首相は、最初は否定に近い態度を示した。

「我が国には、確かに未解決の暴行事件や、極右組織に関連する地下犯罪のネットワークは存在します。

 ……しかし、それを『吸血鬼』などというオカルトの言葉で呼ぶのは、あまりにも飛躍しすぎでは――」

 

 だが。

 アルファが、ドイツ側へ向けて、先ほど会議室で展開した【解析資料のフルパッケージ】を即座に転送した。

 

 過去数十年にわたる事件分布図。

 被害者の特殊な血液減少データ。

 先週発生した死者の詳細な検死報告。

 防犯カメラに映った、老人から若者へと変容する不気味な影。

 そして……それらが、ナチス関連施設や戦後の記録抹消地域と、不気味なほど正確に重なり合っているという事実。

 

 ドイツ首相の顔から、みるみるうちに血の気が引いていった。

 

『……これは』

 ドイツ首相は、画面越しに震える手で資料をめくり、絶句した。

『……これは、我々ドイツ政府の監視網が、完全に盲目であった(見落としていた)ということですか。

 ……あるいは。我が国の内部で、誰かが意図的に、この事実を見えないように隠蔽していたと……?』

 

「それを確認するための、合同調査よ」

 ヘイズが、鋭く告げる。

 

 ドイツ首相は、深い、深い沈黙に陥った。

 自国の暗部に、ナチスの残骸が、人を襲う化け物として八十年近くも潜伏し続けていたかもしれない。それは、現代ドイツにとって、国家のアイデンティティを破壊しかねない最大の悪夢だ。

 

『……我が国の、負の歴史に直接関わる可能性があるのですね』

 ドイツ首相は、絞り出すように言った。

 

「ええ。高い確率で」

 ヘイズは容赦なく肯定した。

 

『……ならば、我々にこれを隠し通す(拒否する)ことは許されません』

 ドイツ首相は、覚悟を決めた顔で顔を上げた。

『合同調査を、受け入れます。……ただし、公表のタイミングを誤れば、我が国内の極右勢力やネオナチが、これを「アーティファクトの力」として神格化し、政治的に利用する危険性が極めて高い。

 ……慎重に、しかし確実に、共に進めましょう』

 

 ここで、ドイツ側の正式な参加が決定した。

 

 続いて、アメリカはEUを通じ、ヘルメス協会の高位導師マルセル・ヴァイスへの極秘照会を行った。

 ネス湖での精神的過酷な調査から帰還し、修道施設で静かな祈りの日々を送っていたマルセルは、送られてきた資料に目を通し、静かに眉をひそめた。

 

『……吸血鬼という言葉は、少し軽すぎますね』

 画面の向こうの導師マルセルは、冷たい銀の十字架を握りしめながら言った。

 

「では、何と呼べば?」

 ヘイズが問う。

 

『血によって、命令を繋ぐもの』

 マルセルの深い青い瞳に、警戒の光が宿る。

『あるいは……死に損なった、古い兵士の影。

 まだ断定はできませんが、これは単なる民間伝承の怪物や、猟奇的な犯罪ではないでしょう。血の渇望ではなく、何らかの【強迫的な規則(ルール)】に従って動いているように見えます』

 

「ヘルメス協会として、この調査に協力していただけますか」

 アルファが確認する。

 

『もちろんです』

 マルセルは、静かに頷いた。

『ネス湖の次に、ドイツの夜ですか。

 ……人類というものは、本当に、自分の過去の罪を地下へ埋めて隠しておくのが好きな生き物ですね』

 

 その、人類全体への痛烈な皮肉は、ヘイズ大統領の胸にもチクリと刺さった。

 

 そして、最後に。

 アメリカ政府から、日本の首相官邸地下へ、極秘のホットラインが繋がった。

 

 モニターに映し出された矢崎総理、沖田室長、そして三神編集長に対し、ヘイズ大統領からドイツの事案の概要が手短に共有された。

 

「……ドイツで、吸血鬼ですか」

 矢崎総理は、頭を抱えて重い溜息をついた。

 

 だが、三神編集長だけは、その言葉を聞いて、少しだけ目を輝かせかけた。しかし、先日リオの死という痛ましい事件があった直後であるため、いつものような無邪気なオカルト的熱狂は意図的に抑え込み、努めて冷静なトーンで口を開いた。

 

「……吸血鬼というより、血液摂取型の既存技術外人体変異、と呼ぶべきでしょうね」

 三神は、腕を組みながら分析を述べる。

「ただ。ドイツ、夜間、血液、第二次世界大戦以降からの継続、そしてナチス関連施設との重なり。

 ……嫌な単語(フラグ)が、あまりにも綺麗に揃いすぎています」

 

「ナチス絡みだと、思うの?」

 矢崎総理が、三神の顔を見る。

 

「断定はできません」

 三神は首を横に振った。

「ですが、当時のナチスは、オカルト、超人化、不死の血統、そして霊的象徴に異常なほどのめり込んでいました。アルゼンチンの《ゾンネンヘルツ計画》のように。

 ……その副系統の研究、あるいは戦後に復元された【失敗作の残滓】が、ドイツの地下で生き延びていたとしても、私は全く驚きませんよ」

 

「驚かないんですか」

 沖田室長が、ジト目で三神を見る。

 

「残念ながら」

 三神は、缶コーヒーを一口飲んで、肩をすくめた。

「この、神話が現実をハッキングしてくるアーティファクトの時代において。……もはや、“吸血鬼が実在したくらいでは驚けない”というところまで、我々の感覚は麻痺して(来て)しまいましたからね」

 

「……最悪ね」

 矢崎総理は、心底嫌そうに呟いた。

 

『協力してもらえるかしら、薫』

 ヘイズ大統領が、画面越しに真剣な声で頼んだ。

 

「もちろんよ、キャサリン」

 矢崎総理は、即答した。

「ただし、ドイツの主権とEUの枠組みを最大限に尊重し、日本はあくまで情報解析とアドバイザーとしての『裏方』に徹します。現場の指揮に口出しはしません。

 ……三神さん。あなたにも、今回はオブザーバーとして行ってもらうことになるかもしれないわ」

 

「おや」

 三神は、少しだけ驚いた顔をした。

「吸血鬼の調査で、ドイツへ出張ですか。月刊ムーの編集長としては、これ以上ないほど光栄でワクワクするオファーですが。

 ……日本政府の特別顧問としては、また胃が痛くなる案件になりそうですね」

 

「胃薬なら、経費でいくらでも落としてあげるわ」

 総理が皮肉っぽく笑う。

 

 日本の協力が確定し、通信が切断された後。

 ホワイトハウスの地下会議室で、アルファは合同調査チームの最終的な編成案をモニターにまとめた。

 

『合同調査チーム編成案:

 ・ドイツ政府:既存技術外対応班(現場統括および警察力)

 ・EU(ヘルメス協会):導師マルセル・ヴァイス(超常・精神干渉評価)

 ・米国(セレスティアル・ウォッチ):科学・分析班(技術支援)

 ※アメリカ軍・対異常支援特殊部隊は、国境付近の国外拠点にて後方待機。

 ・日本政府:オブザーバーおよび情報解析支援(三神編集長含む)

 ・必要に応じ、後続フェーズで中国の仙人、あるいは特殊戦力への協力要請を検討』

 

「調査の目的を再確認します」

 アルファが、冷徹な声で読み上げる。

「第一。死亡事件の現場調査、および過去の夜間失血事件のパターン再解析。

 第二。ナチス関連施設および機密資料との照合。

 第三。ドイツ国内における、意図的な隠蔽勢力の有無の確認。

 第四。吸血鬼的対象の実在確認と、それが単体か複数かの特定。

 第五。……【ラスト・バタリオン】等の、旧ナチス超常組織との関連可能性の調査」

 

 ヘイズ大統領の眉が、ピクリと動いた。

 

「……ラスト・バタリオン?」

 ヘイズは、その古めかしくも不吉な単語に引っかかりを覚えた。

 

「まだ、断片的な名称に過ぎません」

 アルファが答える。

「我々が回収した古い資料の一部に、『Letztes Bataillon(最後の大隊)』というドイツ語が、幾度か暗号のように記されていたのです」

 

「最後の大隊……」

 ヘイズが呟く。

 

「ナチス末期に構想されたとされる、『不死の兵士』あるいは『夜間戦闘に特化した特殊歩兵』の計画に関連する可能性があります」

 ケンドール博士が、科学者としての見解を補足する。

「現時点では、ただの都市伝説と、一部の狂信者が信じていたオカルト機密資料の境界線にある単語に過ぎませんが」

 

「境界線にある単語は」

 ヘイズ大統領は、皮肉な笑みを浮かべて言った。

「……最近、だいたい『本物』になって、我々の目の前に現れるのよね」

 

『否定できません』

 アルファが、無慈悲に肯定した。

 

 会議の最後。

 ヘイズ大統領は、立ち上がり、アメリカ側のチームに向けて厳格な命令を下した。

 

「いいこと?」

 ヘイズの灰色の瞳が、アルファとケンドールを鋭く見据える。

「今回の対象が何であれ。……初動で、決めつけないこと。

 リオの時のように、『得体の知れない怪物だ』というレッテルだけで判断して、問答無用で引き金を引くような真似は絶対に許さない」

 

 アルファが、静かに頷く。

 

「ただし」

 ヘイズは、大統領としての冷徹な責任感を込めて続けた。

「今回は、リオの時とは違う。……すでに被害者が出ており、死者も出ているわ。

 対象が明確に人間の血を求め、人間を襲っている以上、『対話が前提』という甘い考えだけで近づくのもまた危険よ。

 ……民間人の保護を最優先としなさい。対話可能なら対話。危険なら拘束。殺害は、本当にどうしようもなくなった時の最後の最後の手段よ」

 

 ヘイズは、拳を机に押し当てた。

「そして。……どこの国の暗部(旧い組織)であろうと。自分たちの秘密を隠蔽するために、無実の市民を犠牲にすることは、私が絶対に許さない」

 

『了解しました』

 アルファが応じる。

 

「対象が本当に吸血鬼型であるなら、戦いは夜間になります」

 ケンドール博士が、実務的な懸念を提示する。

「現地の民間人への夜間外出禁止令や、速やかな避難計画の準備が必要です」

 

「準備して」

 ヘイズ大統領は、深く息を吐き出し、決然と言った。

「……私たちはもう、“知らなかった”では済まされないのよ」

 

 リオの死によって、アメリカは自国の地下室に残された冷戦の亡霊を、痛みを伴って直視することになった。

 だが、暗く、狂気に満ちた地下室を持っているのは、決してアメリカ一国だけではないのだ。

 

 ネス湖が、ただの観光伝説ではなかったように。

 ニューメキシコのレプティリアンが、ただの陰謀論ではなかったように。

 

 ドイツの夜にひっそりと積み重なってきた、失血、暴行、行方不明。そして、霧の石畳に響く古い軍靴の音もまた。

 ただの都市伝説ではないのかもしれない。

 

 世界が、リオという名前をようやく覚え、涙を流して悼んでいるその裏側で。

 別の深い夜が、静かに目を覚まそうとしていた。

 

 ***

 

 ドイツ、某地方都市。

 

 冷たい雨が、古い石畳の路地を黒く濡らしている。

 遠くで、教会の鐘が重々しく鳴り響く。

 

 深夜。街灯の薄暗いオレンジ色の光の下を、一人の若者が、傘も差さずに足早に歩いていた。

 彼は時折、不安そうに背後を振り返る。

 何か、嫌な気配がする。足音はない。だが、ひどく冷たい視線が、自分の首筋に突き刺さっているような気がしてならないのだ。

 

 若者が、再び後ろを振り返る。

 

 十数メートル後ろの暗がりに。

 一本の古びた杖をついた、腰の曲がった『老人』のシルエットが、雨の中にぼんやりと立っていた。

 

 若者は、少しだけホッとして息を吐いた。なんだ、ただのお爺さんか。

 彼は前を向き、再び歩き出そうとした。

 

 だが、次の瞬間。

 彼がもう一度、何気なく振り返った時。

 ……そこには、もう老人の姿はなかった。

 

「え……?」

 若者が、怪訝な顔をして立ち止まる。

 路地のどこにも、老人が隠れられそうな場所はない。

 

 その時。

 ポタッ……と。

 若者の頬に、雨粒とは違う、生温かい何かが上から落ちてきた。

 

 若者が、恐る恐る、上を見上げる。

 

 三階建ての古い建物の、急勾配の屋根の上。

 そこに、一人の【若い兵士】の影が、コウモリのように音もなく張り付いていた。

 

 赤黒く、異常な光を放つ双眸。

 時代遅れの、色褪せた古い軍服のような外套。

 そして、その青白い唇の端には、べっとりと、新しい血の跡がこびりついていた。

 

 兵士の影は、屋根の上から若者を見下ろし、雨の音に混じるような低い声で、機械のように呟いた。

 

「……血液、補給完了」

「……命令、継続」

「大隊は、夜を待つ」

 

 遠くで、警察のサイレンの音が鳴り響く。

 若者が悲鳴を上げるよりも早く、その影は、重力を完全に無視したような跳躍で、雨の降る夜の闇の奥へと、一瞬にして掻き消えていった。

 

 ドイツの夜は、まだ終わっていなかった。

 血を吸わなければ崩壊する兵士。

 八十年前に死に損なった、狂気の命令。

 そして、闇に潜む『最後の大隊』。

 

 世界のアーティファクトの針は、再び血生臭い歴史の泥沼へと、静かに時を刻み始めていた。

 

 




ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜(作者:パラレル・ゲーマー)(オリジナル歴史/戦記)

現代日本で死んだ主人公が転生した先は、江戸幕府を開いた徳川家。▼身分ガチャは大当たり――かと思いきや、幼名は国松。▼のちに兄・徳川家光と対立し、「暴君」と呼ばれて破滅するはずの徳川忠長だった。▼将軍の座など絶対にいらない。▼生き残るためには、兄・竹千代を全力で支え、「敵」ではなく「便利で忠実な弟」になるしかない。▼そう決意した国松が最初に始めたのは、天下の根…


総合評価:1408/評価:7.61/連載:87話/更新日時:2026年06月23日(火) 13:07 小説情報

祖父の遺品整理をしていたら封印AIが起動したので、地球中の異星遺産を回収して成り上がる(作者:パラレル・ゲーマー)(オリジナル現代/冒険・バトル)

三十五歳、売れないフリーライターの久世恒一は、親に頼まれて東京にある祖父・久世宗玄の家を整理することになる。▼変人扱いされていた祖父の家で彼が見つけたのは、封印された異星文明の管理AI《イヴ》と、現代ではチート級の価値を持つ超技術だった。▼最初の遺産《セル・チューナー》は、地球のバッテリーを桁違いの高性能品へ変質させる基幹技術。▼スマホは一ヶ月充電不要。死に…


総合評価:2446/評価:7.94/連載:49話/更新日時:2026年05月26日(火) 21:44 小説情報

元ITエンジニアの俺、祖先の召喚術から召喚プログラムを組み上げて神も悪魔も従える(作者:パラレル・ゲーマー)(オリジナル現代/冒険・バトル)

祖父の死に際、元ITエンジニアの御門悠真は、自分が「召喚師の家系」の末裔だと知らされる。▼御門家は、かつて神も悪魔も妖も精霊も呼び出した、万能召喚術の本家本元だった。▼だが、万能であるがゆえに術式はあまりにも複雑化し、始祖以降は衰退の一途を辿る。▼火だけを呼ぶ家、水神だけを祀る家、鬼だけを使う家――分家たちは属性や対象を絞ることで生き残った。▼一方、万能に固…


総合評価:1519/評価:8.48/連載:16話/更新日時:2026年06月15日(月) 17:23 小説情報

賢者の石を手に入れた在宅ワーカーだけど、神様って呼ばれてるっぽい(作者:パラレル・ゲーマー)(オリジナル現代/冒険・バトル)

フリーランスのWebデザイナーとして、都心のマンションで静かな日々を送る橘栞(たちばな しおり)。彼女の趣味は、複雑なルールのゲームを解析し、最適解を導き出すこと。そんな彼女の日常は、ある日、目の前に現れた【スキル『賢者の石』を入手しました】というウィンドウによって、静かに終わりを告げる。▼万物を対価(コスト)に変え、新たな能力を獲得できるその力に、栞は恐怖…


総合評価:5392/評価:7.07/連載:280話/更新日時:2026年06月16日(火) 20:30 小説情報

異界渡りを手に入れた無職がスローライフをするために金稼ぎする物語(作者:パラレル・ゲーマー)(オリジナル現代/冒険・バトル)

新田 創(にった はじめ)、35歳、無職。▼人間関係に疲れ果て、十数年勤めた会社を退職。都会の喧騒を離れ、実家でのんびりスローライフを送る…はずだった。▼無職初日の朝、創は異世界と現実を自由に行き来できる常識外れの能力【異界渡り】に突如として目覚める。▼恐怖と混乱も束の間、元プロジェクトマネージャーの社畜根性が、このとんでもない力を「金儲けの手段」として計算…


総合評価:2069/評価:6.91/連載:176話/更新日時:2026年02月15日(日) 19:52 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>