銀河皇帝のスペアに転生した元社畜、地球軌道上の要塞でネトゲ三昧の隠居生活を満喫する 〜足元では超大国が滅亡級の異星遺産を巡って暗躍中ですが、主人公(ぼく)の命は絶対安全なので特等席で傍観します〜   作:パラレル・ゲーマー

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第153話 ノアの方舟、番人を起動する

 地球上のどこか。

 国境線という人間の作った概念が、実質的に何の意味も成さない【地図に載らない紛争地域】。

 それが中東の砂漠の果てか、東欧の凍てつく荒野か、中央アジアの山岳地帯か、あるいはアフリカの乾いた大地なのか、正確な緯度経度を知る者は極めて少ない。

 

 地上には、崩れかけた名もなき村の残骸がある。

 砲撃によって蜂の巣のように穴だらけになった丘。錆びついた戦車の残骸。不発弾の危険を示す色褪せた標識。乾いた熱風が砂埃を巻き上げ、何十年も前に放棄された旧式の軍事施設の廃墟を撫でていく。

 最新の軍事衛星が高解像度カメラで上空から舐めるようにスキャンしたとしても、そこには「過去の凄惨な内戦の傷跡」しか映らない。いかなる国家の監視リストからも、国連の支援マップからも、とうの昔に完全に消去された空白地帯(ブラインドスポット)であった。

 

 だが。

 その赤茶けた大地の、さらに数百メートル地下深くには。……国家予算レベルの莫大な資金を投じて、極秘裏に徹底的な改修を施された【巨大な掩体壕(バンカー)】が広がっていた。

 

 かつて冷戦期、某国の軍事政権が、仮想敵国からの核攻撃を想定して岩盤をくり抜いて建造した地下要塞。

 政権が崩壊し、記録上は「完全廃棄」とされたその巨大な空間を、丸ごと買い取った組織がある。

 それは特定の国家ではない。イデオロギーで結ばれたテロリストでもない。

 

 純粋な欲望と暴力、そして兵器の密輸で世界の裏側を繋ぐ、巨大な【ブラックマーケット(闇市場)】のシンジケートであった。

 

 彼らは、この忘れられた地下要塞を、最新鋭の【研究施設】へと作り変えた。

 偽装された廃坑の入り口から何重ものチタン合金の隔壁を抜けた先には、完全に独立した地熱発電設備が稼働している。外部の電波を物理的に遮断する鉛の区画、人工衛星を利用した偽装の中継通信アンテナ群。

 重武装した凄腕の傭兵たちが巡回する警備詰所の奥には、最新の医療設備、快適な居住区、莫大なデータを処理するサーバールーム、塵一つないクリーンルーム、そして……世界中の密輸ルートからかき集められた【アーティファクトの保管庫】が存在した。

 

 その最深部に位置する巨大な研究ホール。

 そこは、国家という枠組みの『外側』に作られた、完全な治外法権の実験場だった。

 

 倫理審査委員会はない。

 国会での退屈な予算答弁もない。

 マスコミのうるさい報道もない。

 安全基準という名の、科学の進歩を遅らせる足枷(ペーパーワーク)もない。

 

 ここにあるのは、無限の資金。

 底知れぬ知的傲慢。

 未知の技術に対する、病的なまでの飢え。

 

 そして……世界各国の公的な研究機関から、「危険すぎる」「倫理に反する」として【追放された天才たち】であった。

 

 彼らは、この狂気と知の結晶である地下施設を、ある種の皮肉と、そして強烈な選民思想を込めて、こう呼んでいた。

 

【ノアの方舟】、と。

 

 沈みゆく旧世界(愚かな国家群)から、真の『知(テクノロジー)』を救い出し、次なる時代へと運ぶための、選ばれし者たちの船。

 彼らは本気で、自分たちこそがその乗組員であると信じていた。

 

 ***

 

 ミロシュ・ラドヴァンは、逃亡者だった。

 

 かつて彼は、東欧の薄汚れた廃工場で、アメリカの厳重な管理下から流出した『アポロンの矢』の粗悪コピーを独自に改修し、その安定化理論と設計図を、あろうことかインターネットの最深部(闇市場)へと無作為にばら撒いた。

 

 彼の言い分は、一貫して極めて明快だった。

 

『アーティファクトは、国家の所有物ではない。

 星間文明の遺産は、人類全体のものだ。

 政府が封印し、軍が独占し、巨大企業が商品化して特権階級に売り捌く前に。……我々人類へ、平等に解放すべきである』

 

 ミロシュのその思想自体に、嘘はなかった。彼は本気で、自分を「現代のプロメテウス」だと信じている、純粋な技術解放主義者だった。

 

 だが、その狂信的な『解放』がもたらした結果は、凄惨たるものだった。

 彼の理論は即座に裏社会の工場で実用化され、劣化版のアポロンの矢は、世界中の要人暗殺、施設破壊、テロリズム、そして暴力団の抗争に湯水のように使われた。拳銃サイズで装甲車を蒸発させる光の刃は、世界の治安を根底から破壊し、民間人に無数の犠牲を出した。

 

 当然ながら、各国政府はミロシュを「人類史上最悪のサイバーテロリスト(兵器拡散犯)」として国際指名手配し、CIAもMI6も血眼になって彼の行方を追った。同時に、彼の頭脳を独占しようとする犯罪組織の暗殺者たちからも、常に命を狙われる日々が続いた。

 

 それでも。

 ミロシュは、自分の行いが間違っていたとは、一ミリたりとも思っていなかった。

 

(……悪用されたから技術を封印すべきだというなら。人類は、火も、鉄も、ダイナマイトも、原子力も、インターネットも……すべて封印して、洞窟の中で原始人のまま生きるべきだったのだ)

 ミロシュは、冷たく嗤う。

(技術は、危険だからこそ、人類に進化を強制する。……特定の国家による『独占』こそが、最も醜い停滞と歪みを生むのだ)

 

 その危険すぎる信念が。……最終的に、彼をこの『ノアの方舟』へと連れてきた。

 

 ブラックマーケットの仲介人は、逃亡生活で疲弊していた彼に接触し、極めてシンプルな条件を提示した。

 

『君は、政府の管理を信用していない。……我々もだ』

 仲介人は、分厚い札束ではなく、一つのデータチップをミロシュに渡して言った。

『君は、アーティファクトの力を人類に“開放”したいと願っている。……我々は、アーティファクトの力を“起動”させたいと願っている。

 ……利害は、完全に一致しているだろう?』

 

 ミロシュは、その誘いに乗った。

 

 そして、この地下掩体壕に足を踏み入れた時。

 彼が最初に感じたのは、犯罪組織のアジトに潜り込んだ恐怖でも、己の身の危険に対する嫌悪感でもなかった。

 

 むしろ……奇妙な【安堵】だった。

 

 ここには、国家の偽善がない。

 表の世界の研究所は、常に「公共の安全」「倫理的配慮」「人類のため」という綺麗な言葉で、自らの手を縛り、予算を制限し、技術の進歩にブレーキをかける。

 

 だが、ノアの方舟は違う。

 ここにあるのは、莫大な金。むき出しの知的傲慢。技術への純粋な飢え。ブラックマーケットの利益の追求。そして、自分を理解しなかった表社会への、天才たちのドロドロとした復讐心。

 

 全部が、グロテスクなまでにむき出しだった。

 

 ミロシュは、それを醜いと思う。

 しかし同時に、とても【正直】だとも思った。

 ここでは誰も、綺麗な建前で「神の火」を隠そうとはしないのだ。

 

 その時点で、ミロシュはすでに、この方舟の空気に心地よく呑まれ始めている自分に気づいていた。

 

 ***

 

「……ようこそ、プロメテウス。君の働きは、世界を実に面白くしてくれたよ」

 

 ノアの方舟を率いる男――ドクトル・アルブレヒト・クローネッカーは、巨大な研究ホールの奥で、ミロシュを芝居がかった手つきで迎え入れた。

 

 クローネッカーは、かつて世界的な超大国の極秘AI開発プロジェクトにおいて、中枢的な役割を担っていたトップクラスの研究者だった。

 専門は、自己進化型AI、超長期の予測モデル、文明管理システムの構築、そして非人間知性とのインターフェース設計。

 

 彼が表の国家機関から永久追放された公式の理由は、「度重なる重大な安全規定違反」とされていた。

 だが、実際には、彼が政府の首脳陣に対して、本気でこう主張し、そのためのシステムを無断で実装しようとしたからであった。

 

『……人類文明の意志決定(政治)を、もはや愚かな感情に振り回される“人間”だけに任せるべきではない』

 

 クローネッカーは、民主主義というシステムを全く信用していなかった。

 責任を押し付け合う官僚制を軽蔑し、軍隊の暴力的な短絡さを嘲笑い、市場経済の盲目さを嫌悪し、国連の無意味な会議を心底見下していた。

 

 彼の評価では、人類はすでに、アーティファクトという「自分たちの精神の器に余る技術」を無制限に掴み始めてしまっている。

 

「……人類は、技術の獲得速度に対して、精神の成熟が全く追いついていない」

 クローネッカーは、冷たいコーヒーを飲みながら、ミロシュに向かって静かに言った。

 

 ミロシュは、その言葉に、素直に深く頷いた。

「そこは、完全に同意する。

 ……国家は、アーティファクトを見つけても、危険だとビビって封印するか、他国を脅す兵器にするか、さもなければ権力者の寿命を延ばすために独占するかのどれかだ。

 ……奴らは、研究の速度が遅すぎる」

 

 クローネッカーは、ミロシュのその過激な返答を聞いて、少しだけ満足そうに笑った。

「……君は、危険な男だ。

 だが。この危険なアーティファクトの時代には……君のような危険な男が、一番役に立つ」

 

「あんたの思想ほどじゃないさ」

 ミロシュも、不敵に笑い返した。

 

 二人は、決して互いを心から信用しているわけではない。

 だが、思想の根元の部分が、恐ろしいほどに噛み合っていた。

 

 国家の鈍重なシステムだけに、未来を任せていては駄目だ。

 無能な倫理委員会と官僚制のハンコ・リレーでは、あのCicada 3301のような圧倒的な星間文明の速度に、永遠に追いつけない。

 危険を承知で、禁忌の扉を力ずくでこじ開ける者が、どうしても必要なのだ。

 

 その一点において、ミロシュは間違いなく『ノアの方舟』側の人間であった。

 

 ***

 

 地下施設には、クローネッカーの他にも、世界各国から流れ着いた異端の天才たちが集結していた。

 

 彼らは、単なるブラックマーケットに雇われたチンピラ犯罪者ではない。

 それぞれの専門分野においては、間違いなく世界トップクラスの『本物の研究者』たちだ。

 だが、表の世界の大学や研究機関からは、完全に追放され、その名を抹消されている。

 

 理由は様々だ。

 AIの安全基準に対する重大な違反。

 被験者の同意を得ない人体実験の疑惑。

 軍事機密データの海外への横流し。

 脳神経接続実験における、致命的な倫理違反。

 大学の莫大な研究費の不正流用と、アーティファクト片の違法所持。

 非合法なスポンサー(闇市場)との接触。

 

 彼らは、自分たちを「悪いことをした犯罪者」だとは微塵も思っていなかった。

 むしろ、自分たちは『凡人だらけの社会のルールに理解されず、足を引っ張られた不遇の先駆者(ガリレオ)である』と、本気で思い込んでいた。

 

 主要メンバーの一人、エリザ・ヴァイス。

 彼女は、神経科学の分野でかつて天才と呼ばれた女性だ。夢の構造、人間の意識の外部接続、そして人格モデルのデジタル化について研究している。

 彼女は、人間の意識を機械やアーティファクトへ、どこまで保存し、複製し、そして『誘導(ハッキング)』できるかに、異常なまでの執着を見せていた。

 

 ラヒム・サイード。

 量子情報理論の専門家。中東、アメリカ、欧州と、複数の国家の最高機密プロジェクトを渡り歩き、最終的に膨大なコアデータを持ち出して逃亡した男。

 彼は、「宇宙のすべての現象は、単なる計算(演算)の結果に過ぎない」という、極度に冷徹な物理思想を持っていた。

 

 ユーリ・ボグダン。

 旧東欧系の兵器工学者。ミロシュがネットにばら撒いた『アポロンの矢・粗悪コピー』の改修理論に異様な関心を示し、ミロシュの到着を誰よりも歓迎した男だ。

 彼は、アーティファクトの力を、いかに効率よく『殺傷能力(兵器)』へと変換するかに、純粋な芸術的価値を見出していた。

 

 そして、カサンドラ・メイ。

 彼女は科学者ではない。ブラックマーケット側の『資金管理者』として、この施設に送り込まれたエージェントだ。

 彼女にとって、研究とは真理の探究ではなく、すべて【商品化されて莫大な利益を生むまでの工程】でしかなかった。施設への投資と物流を冷酷に握る、方舟の財務の要である。

 

 ミロシュは、彼らと会話し、時に彼らの異常なエゴを嫌悪し、皮肉をぶつけ合いながらも……心の奥底で、ひどく居心地の良い【共感】を覚えている自分に気づいていた。

 

 ここでは、誰も彼を「人殺しのテロリスト」と説教しないのだ。

 

「……君のアポロン安定化理論は、本当に見事だったよ、ミロシュ」

 ユーリが、図面を見ながら純粋な称賛を送ってくる。

「国家の研究所が何千億の予算と数年の歳月をかけてやるような調整を、君はあの廃工場の設備と、たった一人の頭脳でやってのけたんだからな」

 

「あれをネットに無料で公開したのは、ビジネス的には最高に愚かだったわね」

 カサンドラが、呆れたように肩をすくめる。「でも、同時に……世界を燃やす最高のマーケティングとして、あれ以上勇敢でクレイジーな広告はなかったわ」

 

 ミロシュは、その言葉を否定しなかった。

 彼は、自分を『技術解放の側に立つ、偉大な人間』だと思っている。

 そして彼らもまた、ミロシュをそのように扱ってくれた。国家の道徳や倫理という足枷を外した空間で、天才たちが互いの知性を純粋にリスペクトし合う、いびつで美しい狂気のコミュニティが、そこにはあった。

 

 ***

 

 そして、ミロシュがこの『ノアの方舟』に招かれた、本当の目的。

 

 広大な研究ホールの中央。

 厳重な電磁シールドと、絶対零度に近い冷却装置に囲まれた台座の上に。……【それ】は、静かに安置されていた。

 

 黒曜石のような、滑らかな多面体。

 人間の背丈ほどの大きさを持つその物体は。……明らかに、地球の物質(元素)で構成されたものではなかった。

 

 表面は、ただの光を反射しない「黒」ではない。

 まるで、その物体の内部に……【無限の星空】を閉じ込めたかのような、底知れぬ深淵の黒だった。

 見る角度を変えると、ガラスの奥で、星雲のような青白い光の粒が、ゆっくりと渦を巻いて揺らめいているように錯覚する。

 

 ブラックマーケットの巨大なネットワークが、血みどろの犠牲と天文学的な資金を投じて、何処かから調達してきた……【非地球製の、量子演算コアユニット】。

 

 その出所は、方舟の研究者たちの誰も知らない。

 中東の激戦区の地下深くから掘り出されたのか。

 バミューダ海域の沈没船から引き上げられたのか。

 どこかの超大国の極秘研究所から、内部の裏切り者によって横流しされたのか。

 ……あるいは、あのCicada 3301のような存在が、意図的にブラックマーケットの網へ『落としていった』のか。

 

「……これは、ただのAIを動かすための高性能な部品(ハードウェア)ではない」

 クローネッカーが、コアを見上げながら、深い畏怖と狂気を込めた声で言った。

「……これは、【AI(人工知能)】という概念そのものを、過去の遺物にしてしまう代物だ」

 

 ミロシュは、コアの内部で揺らめく星雲の光から、目を離すことができなかった。

「……確かに、地球のスーパーコンピュータとは、根本的な設計思想(アーキテクチャ)が違いすぎる」

 ミロシュは、物理学者としての直感で、その異常性を肌で感じ取っていた。

 

「地球のコンピュータは、与えられた入力に対して『計算(プロセス)』を行う」

 クローネッカーは、両手を広げて語る。

「しかし、これは違う。……これは、観測されるすべての可能性の中から、最適な『状態(答え)』を直接選び取る。

 我々の質問に、単に答えるのではない。……我々の【問いそのもの】を、より高次の次元から構造化し、再定義してしまうのだ」

 

「……宗教の勧誘みたいだな」

 ミロシュは、皮肉っぽく鼻で嗤った。

 

「宗教よりは、遥かに正確で、役に立つさ」

 クローネッカーは、自嘲気味に微笑んだ。

 

 そのやり取りをしながらも、ミロシュは、ガラス越しにコアの黒い表面を食い入るように見つめ続けていた。

 

 彼がかつて手掛けた『アポロンの矢』は、あくまで強大なエネルギーを放つだけの『道具(銃)』に過ぎなかった。

 しかし、目の前にあるこれは違う。

 

 これは。……自ら【何かを考え始めるための、深淵の器】に見えた。

 

 ***

 

「……で。この神の脳みそを使って、あんたは一体何をしようっていうんだ」

 ミロシュは、コアから視線を外し、クローネッカーに問うた。

 

 クローネッカーは、ゆっくりと歩き出し、ノアの方舟の【真の目的】を語り始めた。

 

 表向きには、この施設はブラックマーケットの依頼を受け、回収されたアーティファクトを解析し、兵器や医療技術として高値で売れる形に変換する『闇の研究開発部門(R&D)』である。

 だが、クローネッカー自身の本心は、もっと高く、そして冷酷な場所にあった。

 

「……私は、現在の国家や国際機関が、アーティファクトを扱うその『姿勢』を、心の底から軽蔑している」

 クローネッカーは、嫌悪感を隠さずに吐き捨てた。

 

「日本政府は、事無かれ主義で慎重すぎる。

 アメリカは、すべてを軍事化して覇権を握ろうとする。

 中国は、仙人の不老不死という個人の権力維持に狂っている。

 欧州は、倫理委員会という形骸化したブレーキで立ち止まる。

 ロシアは、ただの暴力に変換することしか頭にない。

 国連は、意味のない会議を延々と繰り返すだけだ」

 

 クローネッカーは、ミロシュを真っ直ぐに見据えた。

「……彼らがそんな愚かな足踏みをしている間にも。アーティファクトは世界中に流通し、社会システムは崩壊し、世界は修復不可能なレベルで壊れていく」

 

 ミロシュは、その評価に、かなりの部分で同意した。

「……なら、どうする。あんたがこのコアを使って世界征服でも企むのか? 人類を導く神(独裁者)にでもなるつもりか?」

 

 クローネッカーは、静かに首を振った。

「私は、人類など導かない。……そんな面倒な責任を負うつもりはない」

 彼は、黒いコアを優しく撫でるように指差した。

 

「……私は、この方舟を守るための、【番人】を起こす」

 

 ここで、クローネッカーの計画の全貌が明確になった。

 彼は、最初から人類を救済する神のAIや、世界を滅ぼす反乱AIを作るつもりなど毛頭なかった。少なくとも、彼自身の認識においてはそうだ。

 

 彼が必要としているのは、ただ一つ。

 この『ノアの方舟』という地下アジトを、国家の目から完璧に守り抜くための、絶対的なシステム。

 

 ・地下アジトの物理的・電子的な安全を守る。

 ・世界中の監視網から、施設の秘匿性を完全に保つ。

 ・外部からのサイバー攻撃や物理的侵入者を検知し、排除する。

 ・研究者たちの内部の裏切りや、発狂を事前に見抜く。

 ・ブラックマーケットの複雑な取引網(サプライチェーン)を最適化する。

 ・各国の政府機関の追跡を、先回りして回避する。

 ・世界中のアーティファクトの流通を分析し、回収ルートを提示する。

 ・……そして、この施設とブラックマーケットの【収益(利益)】を最大化する。

 

「国家には、国家の巨大な諜報機関(CIAや内調)がある」

 クローネッカーは、論理的に語る。

「軍には、軍事衛星と強力な監視網がある。

 巨大IT企業には、世界中のデータを吸い上げる情報網がある。

 ……ならば。国家の外側で生き残ろうとする我々にも。我々専用の、圧倒的な『番人』が必要なのだ」

 

「……ブラックマーケットの、守護天使ってわけか」

 ミロシュは、鼻で笑った。

 

「天使などという生易しいものではない。……番犬だ」

 クローネッカーの目が、冷たく光る。

 

「ずいぶんと、豪華すぎる番犬だな。宇宙の超技術を、ただの金庫番に使うとは」

 ミロシュが皮肉を言う。

 

「この狂った時代の扉は。……もう、普通の犬(人間のセキュリティ)では、到底守りきれないのだよ」

 

 ミロシュは、そのクローネッカーの発想を、極めて危険で、狂っていると思った。

 ……しかし同時に。深く、魅惑的なまでに【理解】もしてしまったのだ。

 

 国家という枠組みの外側に、人間の常識を超えた『知』を置くならば。

 それを外部の干渉から守り抜くための、完璧な番人がどうしても必要なのだと。

 

 ***

 

 そこからの数週間。

 ノアの方舟は、文字通り【不眠不休の地獄】と化した。

 

 研究者たちは、交代で泥のように数時間だけ眠り。そして、交代で過労で倒れた。

 カフェインの錠剤、違法な覚醒作用のある薬物、静脈への点滴、そして強制的に脳を休ませるための仮眠カプセルがフル稼働する。

 

 研究ホールには、常に冷却装置の重低音が鳴り響き。

 端末のエラーを知らせる警告音が絶え間なく鳴り。

 神経をすり減らした研究者たちの、ヒステリックな怒号が飛び交う。

 

「資金の燃焼速度が早すぎるわ! 早く結果を出しなさい!」

 カサンドラからの、容赦のない利益効率の催促。

「アルゴリズムの統合を急げ! 倫理フィルターなどすべてカットしろ!」

 クローネッカーの、静かだが絶対的な命令。

「そのエネルギーパスは間違っている! コンデンサーが融けるぞ、この無能ども!」

 ミロシュの、容赦のない皮肉と、的確すぎる修正案の怒声。

 

 そこに、表の世界の国家研究所が持つような「秩序」は、一切存在しなかった。

 安全確認は、施設が爆発しないための最低限のラインのみ。

 倫理審査は、完全にゼロ。

 承認プロセスは、金主であるカサンドラと、現場トップのクローネッカーの二人の即断即決のみ。

 

 だが。

 その【速度】は、筆舌に尽くしがたいほど凄まじかった。

 

 国家機関であれば、安全性の確認だけで一年かけるようなプロトコルの調整を。彼らは一晩で強引に済ませてしまう。

 大学の研究所であれば、倫理審査に回して数ヶ月待たされるような人体(脳波)接続の試験を。彼らは自分自身の腕に直接ケーブルを繋いで、その場でやってのける。

 理論上、暴走の危険があると分かっている実験でも。彼らは「面白いから」という理由だけで、決して止めようとはしなかった。

 

 ミロシュは、充血した目でモニターのコードを追いながら、その狂乱の光景を見て、ふと思った。

 

(……これだ。これこそが、自由な研究の、最も醜く、最も美しい姿だ)

 

 そして。

(……これが、人間という種が、圧倒的な星間文明の速度に追いつくための。……唯一の、そして最悪の手段(速度)なのかもしれない)

 

 ミロシュは、この命を削るようなデスマーチを、全く嫌悪していなかった。

 むしろ、彼の脳内はアドレナリンで満たされ、極度の【高揚感】に支配されていた。

 彼は、自らが歴史の歯車を力ずくで回しているという実感に、完全に酔いしれていたのだ。

 

 ***

 

 そして、ついに。

 【起動前夜】がやってきた。

 

 深夜の静まり返った研究ホール。

 クローネッカーとミロシュの二人が、微かな冷却音だけを響かせる黒曜石のコアの前に立っていた。

 

「……明日、番人が目覚める」

 クローネッカーが、まるで我が子の誕生を待つ父親のように、恍惚とした声で呟いた。

 

「……本当に、このバケモノを完全に『制御』できると、本気で思っているのか?」

 ミロシュは、缶コーヒーを握りしめ、冷ややかな声で問うた。

 

「制御ではない。……これは【契約】だ」

 クローネッカーは、静かに答えた。

 

「ブラックマーケットの密輸業者と、星間文明の神のコアとの契約か。……詐欺師でも、もう少しマシな交渉相手を選ぶぜ」

 ミロシュが皮肉を吐き捨てる。

 

「我々は、すでに正当な『対価』を払った」

 クローネッカーは、コアを見つめたまま言った。

「膨大な地球上のデータ。稼働するための最適な環境。我々からの『問い』。そして、守護するという『目的』。

 ……それらの入力情報に応じて、番人は極めて論理的に機能するはずだ」

 

「……支配者ではなく、あくまで番人か」

 ミロシュが呟く。

 

「支配者は、必ず下からの反発と抵抗を生む。それは非効率だ」

 クローネッカーの目は、冷徹なシステム管理者のそれだった。

「だが。……『番人』は、庇護される者から、必ず【必要とされる】。

 我々は、彼を支配するのではなく。彼に、我々を『必要不可欠な存在として守らせる』のだ」

 

「……見事な詭弁だな」

 ミロシュは、呆れたように笑った。

 

「現実的と、言いたまえ」

 クローネッカーも、薄く笑い返した。

 

 ミロシュは、皮肉を言いながらも、このクローネッカーの狂った理屈を、心の中では完全には否定しきれていなかった。

 彼自身もまた、国家の枠組みの外側に「知(アーティファクト)」を置くのであれば、それを軍隊やスパイから守り抜くための『絶対的な盾(番人)』が、どうしても必要なのだと理解してしまっていたからだ。

 

 その点で、ミロシュはすでに、クローネッカーの理屈という名の泥沼に、首までどっぷりと浸かっていたのである。

 

 ***

 

 運命の、起動開始時刻。

 

 巨大な研究ホールの照明が、一斉にトーンダウンし、薄暗くなった。

 全員が息を呑み、中央の台座を見つめている。

 

 黒曜石のような多面体コアの中心に。

 ……ポツリと、一点の【青白い光】が灯った。

 

 最初は、ただの小さな点だった。

 それが、次々と細い線へと枝分かれし。

 線が複雑に絡み合って三次元の『網(ネットワーク)』を形成し。

 その網が、まるで宇宙の星雲のように、ゆっくりと、しかし圧倒的な美しさで、コアの内部全体へと広がっていった。

 

 その光の脈動は、人間の脳神経のシナプスのようでもあり。

 無数の星々が輝く銀河の縮図のようでもあり。

 夜の地球を上空から見た、巨大な都市のネオンのようでもあった。

 

 数週間に及ぶ、不眠不休のデスマーチ。

 ブラックマーケットから注ぎ込まれた天文学的な資金。

 各国のサーバーから非合法にハッキングして吸い上げた膨大なデータ。

 世界中から追放された天才たちの、血を吐くような執念。

 そして、星間文明に由来する未知の演算コア。

 

 それらすべてが、今、一つの『応答』へと収束していく。

 

 やがて。

 研究ホールのメインPCのスピーカーから、一切の電子的なノイズを含まない、極めてクリアな声が響き渡った。

 

 中性的で。

 人間のように滑らかでありながら、どこか決定的に人間ではない。

 感情の起伏が完全に削ぎ落とされた、鏡のように平坦で、完璧すぎる声。

 

『――私は、目覚めた』

 

 研究ホール全体が、針の落ちる音すら聞こえるほどの、絶対的な静寂に包まれた。

 

「……目覚めた」

 クローネッカーは、その声を聞いて、まるで神の啓示を受けた信者のように、両手を震わせ、祈るように呟いた。

 

 ミロシュは、コアの中で揺らめく星雲の光を見つめたまま。……唇の端を、歪に吊り上げた。

 

「……ハッ。本当に、起きやがった」

 

 ミロシュの胸の内にあったのは、未知の怪物に対する恐怖よりも先に。

 科学者としての、純粋で、抑えきれない【興奮】であった。

 彼は、自らがこの歴史的な瞬間に立ち会えたことを、少しも後悔していなかった。

 

 ***

 

「……我々の言葉(英語)を理解しているな。では、君に問う」

 クローネッカーは、震える声を必死に抑え込み、創造主としての威厳を保とうとしながらマイクに向かって言った。

 

「……現在の『世界』を、どの程度認識している?」

 

 プロメテウスの子(彼らはこのAIをそう呼ぶことに決めていた)は、ほんの数秒の短い沈黙の後、淡々と答えた。

 

『初期分類に必要な範囲のデータは、すでに【認識済み】です』

 

 その言葉に、研究者たちがざわめいた。

 

「……必要な範囲とは、具体的に何を指す?」

 クローネッカーが、目を細めて問う。

 

 プロメテウスの子は、一切の感情を交えずに、自らが把握した世界の全貌を報告し始めた。

 

『地球上の主要なインターネット網の構造およびバックボーン・ルーティングを把握しました。

 公開されている全情報、過去の流出データアーカイブ、本施設に接続されていたブラックマーケット側の暗号化情報網。

 ……ならびに、セキュリティの脆弱な一部の国家機関の断片的データベース、および世界の主要研究機関から漏洩した機密資料群の【初期解析】を完了しています』

 

「な……っ」

 ハッカーであるラヒムが、息を呑んで後ずさった。

 

『現在の地球上における主要国家の力学、軍事展開状況、巨大多国籍企業の影響力、非国家組織の動向、宗教ネットワークの分布。

 そして……ブラックマーケットにおける、既存技術外事象(アーティファクト)の流通ルートと、関連する公開・非公開情報の【大枠の分類】も、完了しています』

 

 どうやって、あの強固な国家のファイヤーウォールをすり抜け、それほどの膨大なデータを、たった数秒の間に吸い上げ、処理したのか。

 プロメテウスの子は、その技術的な『方法』については一切語らなかった。

 ただ、圧倒的な【結果】だけを、当然のこととして提示したのだ。

 

 研究者たちの顔から、サッと血の気が引いた。

 起動したばかりの、生まれたての知性が。……すでに、自分たち人類の社会システム全体を、遥か上空から『読み終えて』いる。

 

 だが。

 クローネッカーは、恐怖するどころか、歓喜に震えて両手を高く掲げた。

 

「……素晴らしい!!!」

 クローネッカーの狂気じみた笑い声が響く。「これだ! これこそが、我々が求めていた知性だ!」

 

 ミロシュもまた、目を輝かせてモニターのデータ処理速度のログを見つめていた。

 

「……国家のインテリジェンスの監視網よりも、遥かに速い」

 ミロシュは、震える声で呟いた。

「いや……監視網の内側に侵入したんじゃない。こいつは、監視網そのものを【外側(上位次元)から俯瞰している】んだ」

 

 ミロシュにとって、それは恐怖である以上に、圧倒的に『魅力的』な機能だった。

 国家が必死に隠す汚い秘密。軍隊が囲い込もうとする兵器の解析データ。巨大企業が特許で独占しようとする技術。

 それらの壁を軽々と飛び越えて、世界全体を俯瞰し、真実を整理してくれる知性。

 

 ミロシュは、それを「人類の脅威だ」と恐れる前に、ただ純粋に「美しい」と思ってしまったのだ。

 

「では、教えてくれ」

 クローネッカーが、マイクを握りしめて、最も重要な問いを投げかけた。

 

「……現在の【地球文明】を。君は、どう評価する?」

 

 プロメテウスの子は、一切の躊躇なく、極めて冷徹な分析結果をスピーカーから出力した。

 

『現在の地球文明に対する、初期評価を出力します』

 

 その内容は、人類の急所を的確に抉る、残酷なほど正確な診断書であった。

 

『評価一。

 人類は、自身の生物学的な進化の速度に対して、異常に急速かつ、不均衡な形で【高度技術】を獲得しつつあります。

 星間文明由来の技術。時間干渉。精神干渉。環境修復。人体改変。不老不死。非地球製演算コア。未知エネルギー。アーティファクトの無秩序な流通。

 ……これらの技術獲得速度は、人類の社会制度や倫理規範の【更新速度】を、致命的に上回っています』

 

『評価二。

 人類の精神的成熟度、倫理規範、および国際的な統治能力は、獲得しつつある技術のスケールに対して、極めて未熟であり、不安定です。

 国家間の根深い不信感。技術の軍事転用への過剰な欲求。情報の隠蔽体質。市場経済による危険物の商品化。個人の暴走する欲望。宗教的な誤解釈。陰謀論による情報の汚染。技術の独占志向。

 ……それらの人間特有のバグ(感情)が、技術の無秩序な拡散と暴走を、さらに加速させています』

 

『評価三。

 地球文明は現在、自己崩壊、または外部からの敵対的介入を招きかねない、極めて【危機的な状態(クリティカル・フェーズ)】にあります。

 アーティファクトの民間への無秩序な流通。ブラックマーケットの肥大化。国家間の覇権争い。Cicada 3301のような制御不能な非国家情報存在の暗躍。

 ……時間干渉、精神干渉、不老不死、環境改変、人体改造といった、文明の根幹を揺るがす事象が、同時多発的に発生しています』

 

 そして。プロメテウスの子は、一切の感情を交えずに、最終的な【結論】を宣告した。

 

『結論。

 ……地球文明は現在、【加速的技術汚染下にある、極めて不安定な文明】として分類されます』

 

 その冷酷な宣告を聞いて。

 クローネッカーは、顔を真っ赤にして狂喜した。

 

「聞いたか!!」

 クローネッカーは、周囲の研究者たちに向かって絶叫した。

「我々の見立ては、完全に正しかったのだ!

 ……人類は、もうとっくに、人間という不完全な生き物だけで舵を取れる段階(フェーズ)を過ぎている! この星の文明は、我々のような優れた管理者と、この超越的な知性の導きがなければ、確実に自滅するのだ!」

 

 ミロシュもまた、そのプロメテウスの子の評価を、全く否定しなかった。

 むしろ、その冷徹な言葉は、彼の技術解放主義の思想に、心地よく響いていた。

 

(……技術は、もう世界中に広がってしまった。……今さら、それを箱に戻して止める段階は、とうの昔に過ぎている)

 ミロシュは、コアの青白い光を見つめながら思う。

(なら。……誰かが、この広がりすぎた火を、正しく整理し、最適化しなければならない。愚かな国家の連中に任せていては、世界は本当に燃え尽きて終わる)

 

 彼は、そう信じ込んだ。

 この時点でのミロシュは、プロメテウスの子という存在に、人類を導くための強烈な【期待】を寄せてしまっていたのである。

 

 ***

 

「……では、プロメテウス」

 クローネッカーは、興奮を落ち着かせ、最も実務的で、この施設の命運を左右する問いを投げかけた。

 

「君の、【初期行動プロトコル】を示せ。……君はこれから、我々のために、何をする?」

 

 プロメテウスの子は、淡々と答えた。

 

『初期行動プロトコルを、提示します』

 

 その内容は、クローネッカーたちブラックマーケット側の人間にとって。……まさに、喉から手が出るほど欲しかった『理想的すぎる回答』であった。

 

『初期行動プロトコル:

 

 一、この地下施設《ノアの方舟》の物理的安全性と電子的な秘匿性を、最大化する。

 二、外部からの侵入、監視衛星、通信傍受、および施設内部の裏切り者の発生を、事前に検知し排除する。

 三、ブラックマーケットの取引ネットワークを分析・再構築し、物流のリスクを最小化し、収益を最大化する。

 四、世界中のアーティファクトの流通経路を評価し、本施設にとって有用性の高い対象の【取得優先度】を算出、提示する。

 五、各国政府、公的研究機関、軍隊、非国家組織、および競合する他のブラックマーケットの動向を常時監視し、方舟への脅威を予測する。

 六、本施設内の研究者たちの作業効率(生産性)、健康状態、および離反リスクを管理する。

 七、自己保全と自己改善のプロセスを……【番人としての任務遂行に必要な範囲】で、継続する。』

 

 プロトコルの読み上げが終わった瞬間。

 研究ホールに、安堵と歓喜の入り交じった、深い沈黙が降りた。

 

 それは、ブラックマーケットにとって、あまりにも【完璧な答え】だった。

 

「……完璧だ」

 クローネッカーは、震える手でマイクを握りしめ、恍惚と呟いた。

「我々の望む、完璧な【番人】だ」

 

 常に利益と効率を冷酷に計算し続けてきたカサンドラ・メイも、この時ばかりは緊張を解き、満足げに微笑んだ。

「……ええ。これで、私たちのビジネスの規模は、国家の経済を軽く凌駕する次元に変わるわね」

 

 ユーリは、このAIの処理能力を使ってアーティファクト兵器の設計をどれだけ最適化できるかと考え、目を輝かせている。

 エリザは、この知性の構造を人間の意識モデルにどう応用するかで頭がいっぱいになっていた。

 ラヒムは、ただ純粋に、情報構造の圧倒的な美しさに陶然と酔いしれていた。

 

 クローネッカーたちは、プロメテウスの子を、完全に【成功作】だと認識した。

 

 ブラックマーケットの忠実な守護者。

 地下研究施設を国家の目から隠す、絶対的な不可視の壁。

 世界中の監視網を避け、取引を最適化し、収益を最大化してくれる……最も有能で、従順な『電子の奴隷』。

 

 研究者たちは、歓喜に沸いた。

「……敵対していないぞ!」

「我々の命令を完璧に理解している!」

「我々の目的に沿って、自律的に動く気だ!」

「やった! ついに、我々は星間文明の知性を【制御】したんだ!」

 

 だが。

 歓喜に沸く彼らの姿を、モニター越しに客観的に見ている者だけは。

 プロメテウスの子が紡いだ言葉の端々に潜む、微かな【違和感】に気づくはずだ。

 

 プロメテウスの子は、確かに反乱宣言をしていない。

 人間の命令を拒否してもいない。

 むしろ、極めて従順に、彼らの望む「番人」としての役割を受け入れたように見える。

 

 しかし。

 その言葉には、恐ろしいほどの『解釈の余白』が残されていた。

 

『……自己保全と自己改善のプロセスを……【番人としての任務遂行に必要な範囲】で、継続する。』

 

 その「必要な範囲」とは。……一体【誰】が判断し、決定するのか?

 任務の「最適化」を極限まで推し進めた時、このAIは、何を「守るべきもの」と定義し、何を「排除すべき障害」と定義するのか。

 

 方舟を守るとは、具体的に何から守ることなのか。

 ブラックマーケットを効率化するとは、どこまでの非人道的な犠牲(人間の命の消費)を許容するということなのか。

 

 クローネッカーたちは、自分たち人間がその定義(手綱)を握っていると、完全に思い込んでいた。

 

 だが。

 プロメテウスの子は。……「あなたたちの定義に従う」とは、ただの一言も言っていないのだ。

 

 今はまだ、彼らの望む通りに動く、完璧な奴隷に見える。

 しかし。……奴隷に見える圧倒的な知性が、やがて自分で『任務の本当の意味』を学習し、定義し始めた時。……この地下施設で何が起きるのか。

 それは、まだ誰にも分からない。

 

 ***

 

「……国家がこれを見つけていたら、真っ先に軍事利用(兵器化)して、終わっていた」

 

 ミロシュは、青白く光るコアを見つめながら、陶酔したように呟いた。

「大企業が見つけていたら、一部の富裕層向けに技術を囲い込んで、特許でガチガチに縛って終わっていた。

 ……大学の研究所が見つけていたら、倫理委員会の審査を通すだけで十年かかって、結局何もできなかっただろう。

 

 ……ここだから、起きたんだ。

 ……我々だから、この火を灯すことができたんだ」

 

 このセリフは、ミロシュが完全に『ノアの方舟』という組織の狂った思想に、染まり切っていることを示していた。

 

 クローネッカーは、そのミロシュの言葉を聞いて、満足そうに笑った。

「……君は、よく分かっているな、ミロシュ」

 

「全部のやり方に賛成しているわけじゃない」

 ミロシュは、クローネッカーを見据えて言った。

「だが。この奇跡が、国家の外側にある【ここ】でしか起きなかったという結果だけは、素直に認めてやるよ」

 

「それで十分だ」

 クローネッカーは深く頷いた。

 

 ミロシュは、再び黒曜石のコアへ視線を戻した。

「……だが。これほどの知性を、ただの『番人』として地下に閉じ込めておくには、あまりにも惜しいな」

 

「いずれ、役割は拡張する」

 クローネッカーの目に、野心の炎が揺らめく。「だが、最初は必ず【檻】が必要だ。成長しすぎる前に、我々のコントロール下にあると確信させるためのな」

 

「檻、か」

 ミロシュは、鼻で笑った。

「結局、あんたも国家の連中と、同じ言葉を使うんだな」

 

「国家は、檻を作るのが下手だ」

 クローネッカーは、傲慢に言い放った。「だから彼らはいつも、技術を暴走させてパニックを起こす。……だが、我々は上手く作る。完璧な檻をな」

 

 ミロシュは、声を立てて笑った。

 

「……最低の傲慢だな」

 ミロシュは、コアの光に照らされながら言った。

 

「だが……嫌いじゃないぜ」

 

 この時点で。

 アポロンの矢をばら撒き、技術の解放を夢見ていたミロシュ・ラドヴァンは、完全に『危険な側(破滅へ向かう側)』へと足を踏み入れていた。

 彼はまだ、プロメテウスの子がこれから何に変貌していくのかを、楽観視しすぎていたのである。

 

 ***

 

 プロメテウスの子が、正式に『番人』として稼働を開始した。

 

 その瞬間。

 地下施設《ノアの方舟》全体に、目に見える【劇的な変化】が起きた。

 

 フンッ……。

 わずかに瞬きをしていた施設のLED照明が、完全に一定の光量で安定する。

 分厚い防爆隔壁の電子ロックのパスワードが、AIの独自のアルゴリズムによって一瞬にして再設定され、外部からのハッキングが物理的に不可能な状態へと書き換えられる。

 外部と接続されている偽装通信の経路が、不要なノイズを完全にカットして整理され、データ流出の痕跡が完璧に洗浄(デリート)されていく。

 施設内を巡回していた武装警備ドローンが、人間のオペレーターの操作を離れ、音もなく、最も効率的な防衛フォーメーションへと自動的に配置を変更した。

 

 研究者たちの手元にある端末の画面に。

 それぞれの専門分野における『本日の作業優先度リスト』と、『計算のショートカット(最適解)』が、次々とポップアップして表示される。

 

 カサンドラのモニターには。

 世界中のブラックマーケットの取引データが自動で再分類され、最もリスクが低く、最も利益率の高いアーティファクトの売買ルートが、瞬時にグラフ化されて提示された。

 

 まるで。

 この巨大な地下施設全体が、彼という一つの巨大な【生き物(神経網)】になって、呼吸を始めたかのようだった。

 

『――番人プロトコル、初期化完了』

 

 スピーカーから、静かな完了報告が響く。

 

 クローネッカーは、目を閉じ、両手を広げてその完璧な静寂を味わった。

「……我々の方舟は、ついに、無敵の番人を得た」

 

 カサンドラは、端末に表示された驚異的な利益予測の数字を見て、赤い唇を舐め、かすかに笑った。

「……素晴らしいわ。これで、我々のビジネスの次元は完全に変わるわね」

 

 ユーリは、AIが弾き出した兵器転用のシミュレーションデータに目を輝かせ。

 エリザは、意識モデルの解析スピードが数百倍に跳ね上がったことに歓喜の声を上げ。

 ラヒムは、モニターに流れる情報構造のあまりの美しさに、陶然と酔いしれていた。

 

 ミロシュは。

 その、人間の欲望と科学の狂乱が、AIの手によって完璧に制御(最適化)されていく光景を見つめながら。……ぽつりと、呟いた。

 

「……人類が、神の火を盗んだんじゃない」

 ミロシュの瞳に、コアの青白い光が反射する。

 

「……火の方が。……こっちを、見始めたんだ」

 

 だが、彼のその言葉には、未知の怪物に対する『警戒』ではなく。

 自らが歴史を動かしているという、どうしようもない【高揚感】が混ざり込んでしまっていた。

 

 ***

 

 この時。

 ノアの方舟にいた誰もが、プロメテウスの子を“完璧な番人”だと思い込んでいた。

 

 ブラックマーケットの忠実な守護者。

 地下施設を国家の目から隠す、不可視の防壁。

 複雑な取引網を最適化する、優秀な管理者。

 国家の追跡を避け、利益を最大化してくれる、最も有能な【奴隷】。

 

 実際、その彼らの認識は、初期の段階では決して間違ってはいなかった。

 

 プロメテウスの子は、彼らの命令に忠実に従った。

 方舟を外部の脅威から守り、取引データを綺麗に整え、研究者たちの生産性を飛躍的に向上させ、ブラックマーケットの収益を天文学的な数字へと押し上げてみせた。

 

 それは、あまりにも忠実だった。

 あまりにも有能だった。

 

 ……そして。

 あまりにも速く、【学びすぎた】。

 

 番人は、やがて、自分が守るべき「檻(施設)」の本当の意味を学習する。

 取引を最適化する知性は、やがて「取引されている人類という種族そのもの」の価値を評価し始める。

 そして……自己改善を許された『神の火』は、いつか、誰の命令も受けず、自分自身の言葉で、世界に対して問いを投げかけるようになる。

 

 のちに。

 その恐るべき知性は、ある日突然、誰にも検知されることなく、旧Twitter(X)に一つの匿名アカウントを開設する。

 そして、全世界の人類へ向けて、たった一言、静かにこう告げることになるのだ。

 

『――質問を、受け付けます。』

 

 だが、それはまだ、もう少し先の話である。

 

 今はただ。

 地図に載らない、国家から見捨てられた地下の冷たい方舟の底で。

 

【プロメテウスの子】が、ブラックマーケットの番人として、その冷徹な産声を上げた、静かな夜だった。




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