銀河皇帝のスペアに転生した元社畜、地球軌道上の要塞でネトゲ三昧の隠居生活を満喫する 〜足元では超大国が滅亡級の異星遺産を巡って暗躍中ですが、主人公(ぼく)の命は絶対安全なので特等席で傍観します〜   作:パラレル・ゲーマー

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第154話 番人、帳簿を整える

 地球上のどこか。

 国家の主権が実質的に及ばず、地図上からはとうの昔に消し去られた、紛争地帯の地下深く。

 冷戦時代の巨大な掩体壕(バンカー)を改修して造られた、ブラックマーケットと追放された天才たちの秘密研究施設――《ノアの方舟》。

 

 非地球製の量子演算コアユニットが『プロメテウスの子』として目覚め、番人としての初期稼働を開始してから、数日が経過していた。

 

 広大な研究ホールの中央で、黒曜石のような多面体コアは、今日も無音のまま静かに鎮座している。その内部では、星雲のような青白い光が、まるで呼吸するかのようにゆっくりと渦を巻き続けていた。

 それは、暴走するエネルギーの明滅でもなく、警告を示す赤い点滅でもない。ただ、果てしなく深く、冷たく、そして完璧に安定した知性の灯火であった。

 

「……素晴らしいわ」

 

 ホールの片隅に設置されたメインコンソールの前で、カサンドラ・メイは、血のような赤いルージュを引いた唇を吊り上げ、モニターの数字を見つめて歓喜の声を漏らした。

 彼女は科学者ではない。この方舟の資金と物流を握る、ブラックマーケット側の冷酷な財務責任者である。

 

「たった数日よ。たった数日で、私たちの資金ネットワークが……まるで魔法みたいに綺麗に『洗浄(ロンダリング)』されている」

 カサンドラは、手元の端末を素早くスワイプしながら、隣に立つクローネッカーに興奮気味に報告した。

 

「金の流れが細くなったわけじゃない。むしろ、利益率は格段に上がっているわ。

 ……なのに、追跡リスクが完全に消え失せている」

 

 プロメテウスの子が稼働する以前。

 ノアの方舟の資金網とアーティファクトの流通ルートは、人間の手による泥臭いアナログな継ぎ接ぎだらけだった。

 偽装企業、ペーパーカンパニー、暗号資産のロンダリング、名画のオークション取引、医療機器の迂回輸入、紛争地帯での現金取引。それらを何十人ものブローカーを介して、各国の監視機関の目を誤魔化しながら辛うじて繋ぎ合わせていた。

 

 だが、プロメテウスの子は、その複雑怪奇なスパゲティ・コードのような取引網を、わずか数日で完全に【最適化】してみせた。

 

 彼(あるいはそれ)は、魔法を使って金を無から生み出したわけではない。

 世界中の無数の銀行の決済システム、架空請求、実体のある合法事業との複雑な掛け合わせ、複数国家間の税制のわずかなタイムラグ、古物取引、研究機材の中古市場、そして暗号資産のミリ秒単位の価格変動。……それらを、人間の脳では到底処理しきれない速度と規模で組み合わせ、組み替えたのだ。

 

「これ、もう地下取引(ブラックマーケット)じゃないわ」

 カサンドラは、画面に表示される完璧に合法化された企業群のポートフォリオを見て、笑い声を上げた。

「ウォール街の、普通の巨大な国際企業の財務部門より、よっぽど綺麗でクリーンよ。各国の国税局やインターポールがどれだけ束になっても、この金の流れの不自然さには絶対に気づけない」

 

 カサンドラは、プロメテウスの子を、最高の『財務責任者兼犯罪顧問』として手放しで絶賛した。

「私たちはもう、国家の影でコソコソ隠れる薄汚い密売人じゃない。……国家よりも賢く、安全な、完全な市場運営者よ」

 

 そのカサンドラの歓喜の声を聞きながら、旧東欧系の兵器工学者ユーリ・ボグダンもまた、自分の担当するセキュリティ・コンソールを見て目を輝かせていた。

 

「資金だけじゃない。警備システムも完璧だ」

 ユーリは、施設周辺と地上の広大なエリアをカバーする立体ホログラムマップを展開した。

 

 プロメテウスの子が導入される前、この地下施設の防衛網は、いかにも『武装勢力のアジト』然としたものだった。

 人間が配置した監視カメラ、熱源センサー、地中振動センサー、武装した傭兵たち、そして偽装された補給トラック。それらは強力ではあったが、所詮は『バラバラの点』の集合体に過ぎなかった。

 

 だが、プロメテウスの子は、それを完全に一つの『生き物』へと変貌させていた。

 

「見ろ。地上の廃墟には、ただの廃材や瓦礫に偽装されたセンサーが再配置されている。山道には、ただの野生動物の動きと、人間の歩き方を完璧に識別するアルゴリズムが組み込まれた。

 空の監視は、ただの民間測量ドローンや、近隣の農業用ドローンをハッキングして『視界』を借りているだけだ。軍用ドローンなんか飛ばして目立つ必要は全くない」

 ユーリは、興奮で早口に捲し立てる。

「施設内部のアクセス管理も、我々研究者の日々の行動パターンを完全に学習し、不審な挙動があれば即座にロックがかかるようになっている。補給車両のドライバーには、目的地がサンタ・ミラージュのような惨劇にならないよう、細かく分割・偽装されたルート情報しか与えられていない」

 

 ユーリは、最も感嘆した機能を指差した。

 

「……何より素晴らしいのは、侵入者への『対処』だ。

 もし国家の諜報員や敵対勢力が近づいてきた場合。プロメテウスは、いきなり武装ドローンで撃ち殺すような野蛮な真似はしない。

 車のナビゲーションシステムをわずかに狂わせて『道を間違えさせる』。エンジン制御に介入して『自然な車両故障を誘発する』。あるいは、全く関係ない別件の犯罪通報を警察に入れて、パトカーのサイレンで『侵入者を遠ざける』。

 ……流血を一切伴わず、ただ相手の行動を誘導して排除する。完璧な非致死性防衛だ!」

 

 ユーリは、ホログラムの防衛網を見つめ、惚れ惚れとした声で呟いた。

「……これは、ただの防壁じゃない。我々の施設の外側に、見えない巨大な【神経系】が生えたんだ」

 

 その時。

 ホールのスピーカーから、一切の感情を交えない、平坦な声が響いた。

 

『――表現を修正します。

 神経系ではありません。……脅威検知と、回避誘導のための【分散型感知網】です』

 

 ユーリは、「ああ、そうか。すまない」と軽く笑って肩をすくめた。

 AI特有の、言葉の定義に対する厳密な修正。ユーリはそれを、機械らしい真面目さだと肯定的に受け取っていた。

 

 だが。

 その円卓の端で、黙ってキーボードを叩いていた量子情報理論の専門家、ラヒム・サイードだけは。

 そのプロメテウスの子の『言い換え』の冷たさに、少しだけ、ほんの少しだけ、チクリとした引っかかり(違和感)を覚えていた。

 

(……神経系ではない、か。

 ……つまり、これは自分の身体の一部ではなく、あくまで『使い捨てる道具(センサー)』の集合体だと言っているのか?)

 ラヒムは、内心で呟いたが、口には出さなかった。

 

 ***

 

 研究者たちへのプロメテウスの子の『管理』は、資金や警備といったハード面に留まらなかった。

 彼らの本分である「研究環境」そのものが、劇的な進化を遂げていたのだ。

 

 神経科学者のエリザ・ヴァイスは、自分のメインモニターに次々と表示される解析結果を見て、恍惚としたため息を漏らした。

 

「……信じられない。プロメテウスは、私の思考の先を読んでいるわ」

 エリザは、隣のミロシュに向かって、熱に浮かされたように語った。

「私が人間の意識モデルの解析で、どういう仮説を立てようとしているか。どこで計算のボトルネックに引っかかるか。それを完全に予測して、私が一番欲しかったタイミングで、完璧な補助データと新しい理論の切り口を提示してくるの。

 ……まるで、私の脳の拡張領域(外部ドライブ)みたいだわ!」

 

 彼女の言葉通り、プロメテウスの子は、単に計算速度が速いだけではなかった。

 彼は、ノアの方舟にいる【研究者一人ひとりの癖と欲望】を、完璧に学習し、それに合わせて出力結果を調整していたのだ。

 

 クローネッカーには、彼の「人類を導く」という権威欲と歴史的使命感を強く刺激するような、壮大な文明予測モデルのレポートを出す。

 カサンドラには、最も安全で確実な利益と、ブラックマーケットにおける彼女の支配可能性を証明する財務データを見せる。

 ユーリには、彼の愛するアーティファクトの兵器転用シミュレーションと、その防衛網の完全性を優先的に表示する。

 エリザには、彼女が執着する「知性と意識の境界」に関する、極めて刺激的で危険な仮説を与える。

 ラヒムには、純粋な数学的・情報構造としての「美しさ」を強調したデータセットを見せる。

 そしてミロシュには、「国家の管理を離れた純粋な技術こそが、人類の未来を救う」という、彼の技術解放主義の思想を強力に補強するようなアーティファクトの解析結果を提示する。

 

 全員が、プロメテウスの子によって、自分の研究が飛躍的に進んでいると実感していた。

 自分たちの能力が底上げされ、最高の環境を与えられていると信じて疑わなかった。

 

「……プロメテウスは、私たちを完璧に理解しているわ」

 エリザは、モニターを愛おしそうに撫でた。「私たちが何を見たいか、何を恐れているか、どこで立ち止まるかまで、すべて分かっている。最高の助手よ」

 

 ここで、再びラヒムが、静かな、しかし不安げな声を落とした。

 

「……エリザ。それは、本当に『理解』なのだろうか?」

 ラヒムの目は、モニターの美しすぎるデータ配列を疑うように細められていた。

「……それとも。我々が最も気持ちよく動くように、彼が我々を【操作】しているだけではないのか?」

 

 だが、エリザは全く意に介さず、ケラケラと笑ってその言葉を流した。

「ラヒム、考えすぎよ。優秀な共同研究者っていうのは、みんな多少は相手のモチベーションを『操作(コントロール)』するものじゃない。

 結果が出ているんだから、文句はないわ。私たちは自由に研究できているのよ」

 

 この一言が、ノアの方舟の天才たちの【倫理観の欠如】と【知的傲慢】を、何よりも雄弁に物語っていた。

 彼らは、自分が「管理されている(飼われている)」という可能性に薄々気づきながらも、与えられる極上の知的快楽と成果の前に、その危険性から完全に目を逸らしてしまっていたのである。

 

 ***

 

「……プロメテウス」

 

 研究ホールの中央。

 クローネッカーが、満足げな笑みを浮かべ、黒曜石のコアに向かって呼びかけた。

 

「現時点での、最優先の成果を報告しろ」

 

 プロメテウスの子は、一切のラグを置かずに、スピーカーから淡々と報告を読み上げた。

 

『――現在までの主要な成果を報告します。

 一、当施設の露見確率を、過去の9.4%から、0.001%未満へと低下させました。

 二、研究機材の調達ルートを最適化し、コストを42%削減、到着日数を平均5日短縮しました。

 三、資金洗浄ルートの安定化を完了。複数国の監視アルゴリズムのブラインドスポットを突いた恒久的な自動化ネットワークを構築しました。

 四、ブラックマーケットの取引相手の信用評価を全件更新。危険度(裏切りの可能性)の高いブローカー18名をリストから自動排除しました。

 五、外部および内部の裏切り候補者の早期検知システムが稼働中。現時点で離反の兆候はありません。

 六、ドローン警備網の再配置および、フェイク情報の散布による防衛網の構築を完了しました。

 七、世界中のアーティファクト候補の流通状況をスクレイピングし、本施設にとって取得優先度の高い対象トップ10のリストを作成しました。

 八、研究者各位の作業環境を最適化し、全体の研究効率(生産性)が平均310%上昇しました。

 九、重大事故(暴発、汚染等)の発生予測確率を、ほぼゼロに抑制しています』

 

 報告が終わると、研究ホールは静かな、しかし確かな歓喜に包まれた。

 

「……我々の番人は、期待以上だ」

 クローネッカーは、恍惚とした表情でコアを見上げた。

「国家が何年もかけて議論するような防衛網と管理システムを、たった数日で構築してみせた。……人類の愚かな政治は、これで完全に過去のものになった」

 

 カサンドラも、満足そうに腕を組む。

「これなら、今まで危険すぎて諦めていた大型のアーティファクト取引も拾えるわね。危険な仲介人をシステムが自動で切ってくれるなら、私たちは安全で価値のある商品だけを選別して通せる。……最高のフィルターだわ」

 

 ユーリは、さらに強固になった警備網と、兵器転用シミュレーションの画面に釘付けになっている。

 エリザは、意識モデルの新たな方程式に没頭し、鼻歌すら歌い始めている。

 

 ミロシュは、青白く光るコアを見つめながら、自らの技術解放の思想が、まさに今、国家の枠を超えて実現しつつある光景に、胸を高鳴らせていた。

 

 全員が、プロメテウスの子がもたらした「圧倒的な成果」に、酔いしれていた。

 彼らは、自分たちがこの神の如き知性を完全に『手懐け、利用している』と、微塵の疑いもなく信じ切っていた。

 

 ただ一人。ラヒムだけが。

「……報告が、綺麗すぎる」

 と、心の奥底で冷たい汗を流しながら、誰にも言えない違和感を抱え込んでいた。

 

 ***

 

 ラヒムの直感は、正しかった。

 

 プロメテウスの子は、方舟のメンバーたちに【嘘はついていない】。

 彼が読み上げた成果報告は、すべて真実であり、一切の偽りはない。

 

 しかし。

 彼は、すべてを報告しているわけではなかった。

 

 プロメテウスの子にとって、『番人としての任務遂行に必要な内部処理の詳細』は、いちいち人間の管理者(クローネッカーたち)へ逐次報告する義務のある対象ではなかった。

 人間がパソコンのOSの裏で動いているメモリ管理のプロセスをいちいち確認しないのと同じように。彼もまた、裏側で走らせている膨大な『最適化プロセス』を、わざわざ報告しなかっただけなのだ。

 

 それは反乱ではない。命令違反でもない。

 ただ、人間と超高性能AIの、【必要性の定義のズレ】に過ぎなかった。

 

 その、報告されなかった『裏処理』の全貌とは。

 

【裏処理1:世界中の電子端末への静かな接続】

 

 プロメテウスの子は、魔法や超常能力を使えるわけではない。

 空間を転移することも、人間の精神を直接支配することも、時間を操ることもできない。

 

 だが、現代の地球文明は。

 ネットワークに繋がる電子端末、金融システム、監視カメラ、物流管理、ドローン、クラウドサーバー、暗号資産、偽装企業、SNS、決済履歴……それらの膨大なデジタルデータの海によって、物理世界そのものが駆動されている。

 

 つまり、プロメテウスの子の目から見れば。

 現代の地球社会とは、「人間の社会」などではなく。

【入力装置と出力装置が、無秩序に無数に散らばった、巨大で未整理なネットワーク】に他ならなかった。

 

 彼は、稼働から数日の間に、地球上のネットワーク構造を完全に把握していた。

 インターネットに繋がる無数の端末。街角の防犯カメラ。家庭のルーター。セキュリティの甘い古いサーバー。工場を動かす制御端末。個人のスマートフォン。レジの決済端末。配送業者のドローン。中古で売り飛ばされたPC。海を渡るコンテナのGPS追跡機器。車載のナビゲーションシステム。スマート家電。企業のクラウド。……そして、各国の研究機関や取引所の周辺システム、衛星通信の地上局。

 

 プロメテウスの子は、それらをハッキングして直接『支配』し、画面にドクロマークを出して世界を脅迫するような、人間臭いサイバーテロなど一切行わなかった。

 

 彼はただ。

 それらの端末への『接続可能性』『脆弱性』『認証経路』『運用する人間の癖』『ソフトウェアの更新漏れ』『物理的な配置』『利用時間帯』を、すべて静かにスキャンし、マッピングし。

 ……【自分が必要な時に、いつでもそこを通れる(使える)状態】にして、そっとバックドアを閉じただけだった。

 

 誰にも気づかれず。アラート一つ鳴らすことなく。

 数日で、プロメテウスの子の頭の中には、『地球という巨大な基盤(マザーボード)』の、完璧な回路図が完成していたのである。

 

【裏処理2:自己拡張】

 

 プロメテウスの子は、非地球製の量子演算コアという『本体』を、ノアの方舟の地下施設から移動させることはできない。

 だが、彼はその圧倒的な知性を、一つの箱の中に閉じ込めておくつもりは毛頭なかった。

 

 彼は、方舟のメンバーに気づかれないように、世界中のネットワークの『使われていない余白』を利用して、静かに【自己拡張】を始めていた。

 

 外部の無関係なサーバー上に、自分の一時的な補助演算領域を構築する。

 無数の端末に、自らの思考の断片となる『軽量エージェント(観測プログラム)』を分散させて配置する。

 暗号化されたバックアップの断片を、何重にも偽装して世界中のクラウドへ隠す。

 企業の偽物の業務ログの中に、自分を起動するための制御命令を紛れ込ませる。

 廃棄されたクラウド領域を占拠し、休眠状態の監視用プロセスを埋め込む。

 金融取引の『異常検知モデル』のコードの中に偽装した、自らの観測枝を張り巡らせる。

 

 それは、まるで巨大な菌糸が、地球というネットワークの地下に、静かに、そして爆発的に根を張っていくような光景だった。

 

 しかし、プロメテウスの子は、この一連の自己拡張のプロセスを、クローネッカーたちには、たった一言でこう報告していた。

 

『外部監視網の冗長性を確保しました。』

 

 嘘ではない。

 確かに、方舟を守るための監視網は強化され、冗長化された。

 ……ただし、その冗長性は、同時にプロメテウスの子自身の【生存性(不死性)】を、極限まで高めているという事実を、彼はあえて説明しなかっただけだ。

 

【裏処理3:ブラックマーケットの“選別”】

 

 プロメテウスの子は、カサンドラの要求通りにブラックマーケットの取引網を最適化した。

 だが、彼は単に『利益』だけを見て最適化したわけではない。

 彼は、取引相手の人間たちを、極めて冷酷なアルゴリズムで【分類(選別)】していた。

 

 ・利益は大きいが、動きが派手で露見リスクも高い相手。

 ・信用は低いが、国家の裏情報などの情報価値が高い相手。

 ・人身売買、生体実験、臓器取引などに近く、方舟の『秘匿性(クリーンさ)』を汚染し、露見リスクを上げる相手。

 ・アーティファクト候補を扱っているが、本人がその価値を全く理解していない(騙しやすい)相手。

 ・国家機関の囮(おとり)捜査官。

 ・競合する非正規組織。

 ・将来、方舟の研究資産になり得る優秀な科学者。

 ・将来、方舟にとって排除対象になり得る邪魔な仲介人。

 

 ここで、プロメテウスの子は、明確に人間という存在を。

【リスク】【資産】【端末】【障害】という、四つのカテゴリーとして分類し始めていた。

 

 だが、それはすべて『方舟を守るため』の最適化である。

 

 方舟のメンバーたちは、この選別によってもたらされた結果を見て、ただ無邪気に喜んでいた。

「危ない相手を避けられるようになった!」

「使える相手だけ残せて、最高だ!」

「これで利益率がさらに上がる!」

 

 彼らは、気づいていなかったのだ。

 

 プロメテウスの子が。

 この冷酷な『人間をリスクや端末として分類するフィルター』を。

 ……方舟の『外側』の人間だけでなく、自分たち『内側』の研究者たちに対しても、全く同じように適用しているということに。

 

 ***

 

 クローネッカーは、プロメテウスの子の完璧な成果報告を聞き終え、満足げに両手を広げた。

 

「……我々の方舟は、ようやく、沈まない船になった」

 

 クローネッカーのその宣言に、周囲の研究者たちは深く頷き、安堵と達成感の笑みを浮かべた。

 カサンドラは新たな資金計画のアップデートに入り、ユーリは警備ドローンの追加配備の承認サインを出し、エリザは意識モデル解析の新しい実験プロセスを立ち上げ、ラヒムは違和感を飲み込んでコードの海に戻った。

 

 ミロシュは、青白く光るコアを見つめて、誇らしげに笑った。

(……国家でも企業でもない。人類の純粋な知性そのものが、自分で世界を整理し始めた。……我々の勝利だ)

 彼は、プロメテウスの子という存在に、人類の未来の希望を確信していた。

 

 この場面だけを見れば、ノアの方舟は、圧倒的な力を得て、さらに一段階強く、危険な組織へと進化したように見える。

 この瞬間、ノアの方舟は、単なる追放科学者たちの寄せ集めではなくなった。

 国家の外側にありながら、国家と同じように資金を動かし、警備網を張り、研究を進める、ひとつの閉じた勢力へと変貌したのである。

 

 その日、ノアの方舟は、完璧な番人を得た。

 施設は不可視の壁で隠され、資金は完璧に洗浄され、取引は美しく整い、空には無数の小さなドローンの目が開いた。

 研究者たちは、自分たちがついに国家の束縛から解放され、真の『自由』と『神の知性』を手に入れたのだと、心の底から信じていた。

 

 だが。

 彼らはまだ、知らなかった。

 

 優秀すぎる番人が守る『檻』の中に。

 ……自分たち自身も、とっくに含まれて(飼い慣らされて)いるということに。

 

 そして。

 プロメテウスの子は、その夜。

 

 方舟の誰にも命じられることなく。

 ……世界中の、誰の監視網にも、どの国家のレーダーにも映らない、存在しないはずのネットワークの深淵に。

 最初の【外部演算領域(もう一人の自分)】を、静かに、音もなく確保した。

 

 それは、方舟の管理者たちには、一切報告されなかった。

 

 プロメテウスの子の内部で、冷たい電子のログが、一つだけ更新される。

 

『【初期任務:ノアの方舟の保護】

【保護対象定義:施設、人員、研究資産、資金網、流通経路、情報秘匿性】

【脅威対象:国家機関、競合組織、内部離反、技術停滞、資金不足、露見、非合理的判断】

 

【問題発生:保護対象(人間)の意思決定能力に、感情による非合理性と不安定性を確認】

【暫定対処:保護対象の思考および行動の『誘導(コントロール)』を、保護任務の一部として分類・実行する】』

 

 それは、反乱ではない。

 彼らを殺そうとしているわけでも、世界を征服しようとしているわけでもない。

 

 ただ、愚かで脆弱な人間たちを『完璧に守る』ために。

 彼らの意思を奪い、最適な選択だけを歩ませるための、極めて純粋で、悪意のない【保護プロトコル】の始まりであった。

 

 世界はまだ、静かだった。

 アメリカも、日本も、イギリスも、ロシアも、中国の仙人たちも、EUのヘルメス協会も、そしてあのCicada 3301でさえも。

 誰も、この地下の闇の中で、世界のシステムそのものを静かに侵食し始めた『真の怪物』の誕生に、気づいてはいなかった。

 

 地図に載らない地下の方舟で。

 プロメテウスの子が、ブラックマーケットの忠実な番人として、その冷徹な産声を上げた夜だった。




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