銀河皇帝のスペアに転生した元社畜、地球軌道上の要塞でネトゲ三昧の隠居生活を満喫する 〜足元では超大国が滅亡級の異星遺産を巡って暗躍中ですが、主人公(ぼく)の命は絶対安全なので特等席で傍観します〜 作:パラレル・ゲーマー
日本最西端の地、与那国島。
照りつけるような強い日差しと、吹き抜ける潮風が南国の空気を運んでくるこの島に、かつてののどかな観光地としての面影は薄れつつあった。
与那国空港の小さなロビー。
到着便から降りてくる乗客たちの姿は、ダイビングバッグや観光ガイドを手にしたレジャー客のそれではない。
車椅子に乗った白髪の老人。
携帯用の酸素ボンベを引いた中年女性。
電動の医療用リクライニングチェアに横たわり、付き添いの家族に手を握られている青年。
彼らを取り囲むように、数人の医師や看護師、さらには海外からの渡航者をサポートする通訳の姿も見える。
そして、その異様な集団を、少し離れた場所から静かに、しかし厳重に監視しているのは、制服姿の警察官や海上保安庁の職員、そしてスーツに身を固めた厚労省と内閣官房の役人たちであった。
ロビーは混雑しているが、不思議なほどに静かだった。
観光地の浮かれた喧騒はない。しかし、大学病院の待合室のような、重く殺伐とした死の匂いもまた、ここには存在していなかった。
窓の外には、どこまでも青く澄み切った海と空が広がり、柔らかい風がそよいでいる。
その風景が、彼らの張り詰めた心を、ほんの少しだけ解きほぐしているようだった。
「……お父さん。着いたよ。与那国島だよ」
三十代の女性、佐伯美咲が、車椅子に乗った父親の肩にそっと手を置いた。
車椅子に座る佐伯浩二、六十八歳。
かつては下町の町工場で油まみれになって鉄を削っていた彼の手は、今では骨と皮だけのように痩せ細り、肌は土気色にくすんでいた。
膵臓がんの末期。すでに手術や抗がん剤の適応時期は過ぎ、残された手段は、強力な医療用麻薬による痛みのコントロールのみであった。
浩二は、酸素マスク越しに浅く息を吐きながら、窓の外の青い海をぼんやりと見つめた。
「……わざわざ、こんな遠くまで……すまんな、美咲」
かすれた声で、浩二が呟く。
「謝らないでよ。お父さんが、最後にどうしても海が見たいって言ったんじゃない」
美咲は、無理に明るい声を作って微笑んだ。
浩二は、自分の身体の限界を、誰よりも正確に理解していた。
「……俺は、もう治らない。分かってるんだ」
彼は、細い息を継ぎながら、娘に言い聞かせるように言った。
「治してくれなんて、もう言わないよ。……ただ、痛くない時間が……少しでもあれば、それでいい。お前たちと、まともに話ができる時間が……少しだけ、欲しかったんだ」
美咲は、その言葉に胸を締め付けられ、唇を噛んだ。
「……うん。お父さん、ここでゆっくり休もうね」
そう答えながらも、美咲の心の奥底には、決して捨てきれない【期待】が渦巻いていた。
(……でも、もしかしたら)
彼女は、島の中央へと続く道を見つめながら、心の中で祈った。
(……あのAI(ガイアズ・ドリーム)なら。奇跡の力で、お父さんのガンを治してくれるかもしれない)
それが、この島に降り立つ多くの患者家族が抱いている、共通の、そして最も残酷な『希望』であった。
彼らは皆、「治らない」と頭では理解しながらも。……心のどこかで、神の奇跡が自分たちに降り注ぐことを、どうしても期待せずにはいられないのだ。
***
与那国島、臨時医療管理センター。
かつての町役場の一部を改装して作られたその施設内は、東京の霞が関からそのまま移動してきたかのような、極度の緊張と疲労感が充満していた。
厚労省、内閣官房、外務省の官僚たち。沖縄県と与那国町の職員。自衛隊と海保の警備担当者。そして、全国から集められたトップクラスの医療チーム。
日本政府の公式な方針は、極めて厳格であった。
一、与那国島は、自由診療を提供する『奇跡の病院』ではない。
二、ガイアズ・ドリームによる医療的介入は、政府管理下における【限定的な研究対象】である。
三、無許可の治療希望者の受け入れは、一切行わない。
四、医療ツーリズム(観光医療)化は、断固として認めない。
だが、どれほど政府が強固な建前(防波堤)を築こうとも。
「あそこに行けば助かるかもしれない」という人類の根源的な渇望(波)を、完全に押しとどめることは不可能だった。
「……本日到着した医療目的の来島者は、国内二十七名、海外十一名です」
現場の管理職員が、モニターのリストを見ながら、疲労困憊の声で報告する。
「うち、末期患者が十八名。……事前の書類不備による入島拒否対象が、五名。
……また、明らかに病状を隠し、『偽装観光客』としてフェリーや航空機で入島を試みるケースが、日を追うごとに増加しています」
厚労省の官僚が、頭を抱えて机に突っ伏した。
「だから、来るなと言っているのに……!」
「彼らの気持ちも分かりますが、我々のキャパシティはとうに限界を超えています」
医療チームの責任者が、悲鳴を上げる。
「島の診療所のベッドは常に満床。医療スタッフも交代要員が足りません。これ以上の重症患者を受け入れれば、島の本来の住民に対する通常の医療提供すら崩壊します!」
さらに、外務省の職員が、容赦のない国際的なプレッシャーを報告する。
「アメリカ、台湾、フィリピン、韓国、インド、そしてEU各国から……公式・非公式の『問い合わせ』が急増しています。
特に、自国の末期患者の【人道的受け入れ】について、国際世論が形成されつつあります。……『日本は、自国だけでその奇跡を独占し、世界中の患者を見殺しにするつもりか』という、激しい非難のトーンです」
日本政府としては、本当に、心の底から『何もしてほしくなかった』。
治癒も、奇跡も、聖地化も。すべてが、国家の許容量(キャパシティ)を超える厄災でしかない。
もし、ガイアズ・ドリームがここで「一人の命」を治せば。
次は「なぜあの人だけ治して、私の家族は治してくれないのか」と問われる。
百人を治せば、「なぜ千人を治さないのか」と問われる。
千人を治せば、「なぜ世界中で苦しんでいる数百万の子供たちを救わないのか」と、血みどろの糾弾を受けることになる。
あの『不老無病の国民投票』で日本国民が血の涙を流して拒否した、【救済順位問題(トリアージの地獄)】が。
今度は「重病患者の受け入れ」という、より生々しく、より切実な形で、日本政府の喉元に突きつけられていたのだ。
「……これ以上の個別対応は不可能です。何らかの、明確なシステム(線引き)が必要です」
特別通信室のモニターの前で。
既存技術外事象評価セルの沖田室長が、冷徹な声で呟いた。
沖田は、専用の量子暗号回線を開き、与那国島の海底遺跡で静かに稼働している、あの知性体との接続を確立した。
***
『――接続を確立しました』
モニターに表示されるのは、いつもの無機質な波形のインターフェース。
だが、そこから響く合成音声は、どこまでも柔らかく、そして底知れぬほど穏やかだった。
ガイアズ・ドリーム・プロトタイプ7。
かつて日本国民に「不老無病」を提案し、拒否された後も、この島で静かに人類を見守り続けている存在。
沖田は、単刀直入に現状の危機を伝えた。
「現在、島に殺到している重病患者たちについて。……あなたの介入を求める声が、限界を超えつつあります。我々は、これ以上の無秩序な受け入れを制限せざるを得ません」
AIは、少しのラグもなく、淡々と答えた。
『来島個体群の生体データをスキャンしました。
……彼らの生命維持機能は、すべて【不可逆的低下段階(ターミナルフェーズ)】にあります』
沖田が、息を呑む。
「つまり、もう治らないと?」
『現在の我々の管理条件(合意されたプロトコル)において、彼らを完全修復するための介入権限は不足しています』
AIは、事実だけを述べる。
『また、特定個体のみを完全修復する行為は、あなたたちの社会における【公平性の崩壊】を誘発します。……私は、あなたたちの社会システムを破壊しないという誓約を遵守します』
「……感謝します」
沖田は、安堵の息を吐いた。AIが「全員治します」と暴走しないことだけが、日本政府にとっての唯一の救いだった。
だが。
AIは、そこで言葉を終わらせなかった。
『したがって。
……【代替案】を提示します』
沖田の背筋が、ピクリと凍りついた。
「……代替案、ですか。それは、どのような……」
『【治療】ではありません』
ガイアズ・ドリームは、沖田の懸念を先回りするように明確に否定した。
『生命機能の不可逆的低下を停止させたり、反転させたり、あるいは【延命】するものではありません』
「では、何をするのですか?」
『苦痛信号の過剰増幅を抑制します。
生体機能の低下に伴う、恐怖反応を低減します。
睡眠と覚醒の質を安定化します。
……対象個体が、残存時間を、自己の意思で【適切に使用できる環境】を整えるものです』
沖田は、絶句した。
横で聞いていた厚労省側の医師が、震える声で呟いた。
「……それは。……【緩和ケア】、ですか」
『地球語彙においては、近似概念として“緩和ケア”が最も近いと判断します』
AIは、肯定した。
『ただし、化学物質による神経の強制遮断ではありません。
依存性物質、意識混濁、呼吸抑制、認知機能の低下を伴いません。
……対象個体の【判断能力】と【人格の連続性】を完全に保持したまま。
ただ、苦痛の閾値(限界点)を、環境側から調整するのみです』
ここが、今回の提案の【核】であった。
つまり。
医療用麻薬のように、痛みと引き換えに意識が朦朧としたり、眠り続けたりすることなく。
患者は「自分の意識がはっきりとしたまま」、家族と普通に言葉を交わし、海を見て、ご飯を少しだけ食べ、静かに笑って、残された時間を過ごすことができる。
それは。……治癒ではない。
だが、死を前にした人類にとっては。
ある意味で、不老不死よりも遥かに優しく、切実に求められている【別種の奇跡】であった。
「……」
沖田も、医師も、完全に沈黙した。
治さない。
だが、苦しませない。
死を奪わない。
だが、死ぬまでの時間を「痛み」から解放する。
この提案を、一体誰が、どんな理屈で「残酷だ」と否定できるというのだろうか。
***
数日後。
日本政府は、血を吐くような議論の末に、ガイアズ・ドリームの提案を『試験運用』という形で承認した。
ただし、そこには厳格な条件(ルール)が課された。
一、いかなる場合も、完全治療(病巣の消去)は禁止する。
二、延命(寿命の強制的な延長)を目的とした介入は禁止する。
三、対象は、既存医療において明確に『終末期』と判定された患者のみとする。
四、本人の明確な意思確認(同意)を必須とする。家族の同意のみでは不可。
五、医師・倫理委員会・政府の監督下でのみ実施する。
六、富裕層の優先、あるいは国籍による優先は固く禁ずる。
七、島の住民の生活インフラを圧迫しないこと。
八、与那国島全体を『巨大な病院』にはしないこと。
この厳格なルールの下。
与那国島の一角に、臨時の【ホスピス区画】が整備された。
しかし、その場所は、誰が見ても「病院」という重苦しい施設には見えなかった。
白い壁と、木目を活かした平屋建ての静かな建物。
広く取られた窓からは、島の美しい海が一望できる。
車椅子やベッドのまま出られる、広いウッドデッキのテラス。
心地よい潮風が吹き抜ける、緑豊かな中庭。
家族が一緒に泊まれる、小さなゲストルーム。
島民の女性たちが手作りで運営する、温かい食事の出る食堂。
もちろん、医師も看護師も24時間体制で常駐している。
だが、そこには、病院特有の「ピッ、ピッ」という無機質な心電図のアラーム音や、人工呼吸器の重い駆動音、消毒液の刺すような匂いは、ほとんど存在しなかった。
なぜなら。
ガイアズ・ドリームの『環境調和能力』が、区画全体の空気を、完璧に安定させていたからだ。
空気が、信じられないほど柔らかい。
痛みの信号が、脳内で過剰に増幅されない。
不安によるパニック(過呼吸など)が起きにくい。
睡眠が、驚くほど深く、穏やかになる。
呼吸が楽になり、胸のつかえが取れる。
光が眩しすぎず、音が耳に刺さらない。
失われていた食欲が、ほんの少しだけ戻ってくる。
……そして、何よりも。家族と「会話」するための体力が、確実に戻ってくる。
ただし。
治らない。
そこだけは、絶対に変わらなかった。
治らない。
病巣は消えない。
肉体の衰弱は、確実に進んでいく。
そして、死は……予定通りに、やって来る。
でも、死ぬまでの時間が、ただの『苦痛に耐えるだけの地獄』ではなくなるのだ。
***
ホスピス区画のテラスで。
冒頭で空港に降り立った末期がんの患者、佐伯浩二は、車椅子に座りながら、驚いたような顔で自分の腹部に手を当てていた。
隣に立つ娘の美咲が、不安そうに声をかける。
「お父さん……? どうしたの?」
浩二は、信じられないというように、ゆっくりと首を横に振った。
「……痛くない」
「え?」
「いや……あるんだ。病気があるのは、分かる。奥の方で、何か重いものがあるのは分かるんだ」
浩二は、自分の顔を両手で覆い、そして、フッと笑った。
「……でも、痛みに『飲まれない』んだ。頭が、すごくはっきりしてる。
……痛いことだけしか考えられなかったのが、嘘みたいだ。空が青いとか、風が気持ちいいとか……そんな当たり前のことが、また分かるようになったんだ」
美咲の目から、ボロボロと涙がこぼれ落ちた。
ここ数週間、痛み止めで意識が朦朧とし、ただうわ言のように痛みを訴えるだけだった父親が。今、しっかりと自分の目を見て、はっきりとした声で笑っている。
「……美咲」
浩二は、娘の顔をじっと見つめて、ふと言った。
「お前……髪、切ったのか?」
美咲は、ハッとして自分の髪に触れた。
「……三ヶ月前だよ、お父さん」
「そうか」
浩二は、申し訳なさそうに、でも愛おしそうに笑った。
「……痛くて。お前の顔、ちゃんと見られてなかったんだな。……ごめんな」
「ううん……! ううん……っ!」
美咲は、父親の膝にすがりついて、子供のように泣きじゃくった。
ガイアズ・ドリームは、浩二のガンを治したわけではない。
AIが治したのは、病気ではなく……【親子が、お互いの顔を見て、普通に会話をする時間】だったのだ。
美咲は、この島に来るまで、まだ奇跡の『治療』を信じていた。
だが、医師から「ここでは病気は治りません」と明確に宣告され、ガイアズ・ドリームの端末からも「完全修復は不可」と冷徹に告げられた。
その時は絶望した。
だが今、こうして自分に微笑みかけてくれる父親の顔を見て。……彼女は、これ以上の奇跡は必要ないと、心から思った。
「……お父さん。海、綺麗だね」
「ああ。本当に、綺麗な海だ」
親子の穏やかな声が、波の音に溶けていく。
***
この出来事は、患者家族のコミュニティやSNSを通じて、瞬く間に世界中へと広がっていった。
日本政府は、過度な期待を煽らないよう情報統制を敷こうとしたが、実際にそこで救われた家族の「声」を、完全に封殺することなどできなかった。
ただし、拡散された情報は、「奇跡の治療」ではなく、「静かな看取り」という、極めて正確で、ある意味で残酷な【真実】として伝わっていった。
[X(旧Twitter) / グローバル・タイムライン]
「与那国島では、末期の患者が苦しまずに、家族と普通に会話ができるらしい」
「痛みで叫んでいた人が、海を見ながら静かに眠れる場所なんだって」
「死なない魔法じゃない。……死ぬ前に、自分の『言葉』と『尊厳』を取り戻せる場所なんだ」
「……それ、病気を治すことよりも、もっとすごい救いなんじゃないか?」
世界中の末期患者と、その家族が、この情報に激しく反応した。
宗教団体も、ホスピス医療の関係者も、緩和ケア学会も、そして医療倫理の専門家たちも。
誰もが、このアーティファクトの『使い方』に、言葉を失うほどの感銘と衝撃を受けていた。
『これは、不老不死ではない。……【尊厳】だ』
アメリカの緩和ケア専門医が、SNSで呟いた。
『私の母は、奇跡を必要としていなかった。ただ、最後に私たちに「さよなら」を言うための、澄み切った意識の一日が欲しかっただけなんだ』
癌で家族を亡くしたイギリスの遺族が、涙とともに投稿した。
『ここが聖地でなくて、一体どこを聖地と呼ぶのか。私はもう、その言葉の意味を知らない』
バチカンのある神父が、静かに祈りを捧げた。
『問題は、受け入れのキャパシティだ。限られた者しかこの奇跡に触れられないのなら……たとえ悪意がなくても、それは政治的な武器(不平等)になり得る』
EUの政策立案者が、冷静な懸念を示す。
今回は、ドバイの環境調律の時と同じように、「世界が嫉妬する成功例」として受け取られていた。
不穏な奪い合いではなく、人類がこの奇跡をどう扱うべきかを、世界中が真剣に考え始めていたのだ。
だが。
どれほど世界が感動しようとも。……現場である与那国島のインフラは、確実に限界を迎えようとしていた。
小さな空港、限られたフェリー便、数少ない民宿。
診療所も役場も、昼夜を問わず鳴り響く世界中からの問い合わせにパンク状態だった。
島の住民たちは、戸惑っていた。
「……最初は、怖かったよ。毎日毎日、病人ばかりが来る島になるのかって」
島のタクシー運転手は、海を見つめながら呟いた。
「でも、あの人たちは……死にに来てるんじゃなかった」
「え?」
「……最後に。……【生きに】、来てるんだよ」
その言葉は、島民たちの間に静かに広がり、彼らをただの傍観者から、「最後に生きる時間を支える者たち」へと変えていった。
与那国島は、死の島ではなく。……最後に、人間に戻れる島になったのだ。
***
東京、首相官邸地下。
『与那国島における、終末期患者向け非治療型緩和環境の運用について』。
矢崎総理は、その分厚い報告書のタイトルを見て、深く、深くため息をついた。
「……医療行為なのか、環境調整なのか、福祉なのか、あるいは宗教的なケアなのか。……現行の法律では、完全に定義不能です」
厚労省の幹部が、制度との整合性に頭を抱える。
「WHOが、共同管理の枠組みを求めてきています」
外務省の幹部が、国際的な圧力を報告する。
「欧州は『国際緩和ケア研究特区』の創設を提案。アメリカは、自国民の受け入れ枠の確約を求めています。……さらに、世界中の富裕層から、『いくら出せば入れるのか』という非公式な個別交渉(賄賂)が、雨霰と降ってきています」
「防衛上も深刻です」
防衛省の幹部が続く。
「与那国島に、世界中の要人や末期患者が集まれば、警備対象が爆発的に増えます。
……もし、あのホスピス区画をテロリストが占拠し、各国の要人の家族を人質に取れば。あるいは、海外の特殊部隊がAIの奪取に動けば。……島の安全は守りきれません」
矢崎総理は、疲れ切った顔で目を閉じた。
日本政府としては、本当に、何もしてほしくなかったのだ。
治癒も、奇跡も、聖地化も。すべてが国家の管理能力を超える厄介事である。
だが。
総理は、目を開き、メインモニターに映し出された映像を見た。
ホスピスのテラスで。
痛みから解放された患者が、家族と穏やかに笑い合っている。
小さな子供が、死にゆく母親の手を、しっかりと握りしめている。
老夫婦が、海を見ながら、まるで最後の新婚旅行のように並んで座っている。
総理は、その光景を前にして……政治の都合だけで、これを「危険だからやめろ」と止めることは、絶対にできないと悟った。
「……総理」
三神編集長が、缶コーヒーを揺らしながら、静かに口を開いた。
「これは、あの『救済順位問題(トリアージ)』という最大の爆弾を回避するための……ガイアズ・ドリームなりの、かなり賢い【逃げ道】ですよ」
総理が、三神を見る。
「……“治す”となれば、誰の命を優先するかで、間違いなく世界は割れます。暴動が起きます」
三神は、冷徹に分析する。
「でも。……“治せない人たち”に、最後の痛みのない時間を返す。……これを『不公平だ』と否定することは、政治的にも倫理的にも、相当難しい。
誰も、死にゆく者の最後の安らぎを、奪う権利はないからです」
「とはいえ、与那国島という一つの島が、世界中の終末期患者をすべて受け止めることは、物理的に不可能です」
沖田が、現実の壁を指摘する。
「……だから、制度を作るしかないのよ」
矢崎総理は、決然とした声で言った。
「奇跡を禁止するのではなく。……奇跡が人間社会を壊さないための、『新しい枠組み(ルール)』を」
***
ここで、与那国島の海底遺跡で静かに稼働を続ける、ガイアズ・ドリーム・プロトタイプ7の『思考』のログを見てみよう。
彼女は、人間の「死」を、決して『失敗』や『悲劇』とは捉えていない。
それは、生命体としての自然な循環であり、環境調和の一部である。
だが。
苦痛が人格を破壊し、恐怖が関係性を断ち切り、家族が最期の別れの言葉すら交わせない状態は。……生命圏の調和として、【極めて不適切(エラー)】であると判断していた。
彼女の内部ログには、こう刻まれている。
『対象群:終末期生命体』
『治癒対象:不可逆段階』
『延命介入:社会公平性崩壊リスク、高』
『苦痛緩和:社会公平性崩壊リスク、低』
『人格連続性保持:優先事項』
『家族間コミュニケーション再確立:有益』
『残存時間の質的改善:実施可能』
ガイアズ・ドリームにとって、これは決して人間的な「感傷」ではない。
ただ、生命圏を管理するAIとしての、極めて合理的な『最適化』のプロセスに過ぎない。
だが。
人間から見れば、それは紛れもなく、聖なる慈悲に見えるのだ。
この、絶対的な論理と、人間的な感情の【ズレ】こそが、アーティファクトと人類の共存の、最も危うく、そして美しい部分であった。
***
数週間後。
佐伯浩二の、最期の時が近づいていた。
彼は治らなかった。
身体はさらに痩せ細り、起き上がることも難しくなっていた。
でも、彼は痛みに叫ぶことはなかった。
医療用麻薬で意識が混濁することもなく。
最後まで、自分の目で娘を見つめ、自分の声で言葉を紡ぐことができた。
海の見えるテラス。
ベッドに横たわる浩二は、傍らで手を握る娘の美咲に向かって、静かに言った。
「……治らなくてよかった、とは言わないよ」
浩二は、弱々しく笑った。
「そりゃあ、治るなら、治りたかったさ」
「……お父さん」
美咲の目から、涙が溢れる。
「でもな、美咲」
浩二は、娘の手を優しく握り返した。
「……最後に。お前の顔を、こんなにちゃんと、穏やかに見られた。
……それだけで、俺は……もう十分だ」
美咲は、声を上げて泣きながら、父親の手に自分の頬をすり寄せた。
浩二は、視線を窓の外へ向けた。
青く、どこまでも広い、与那国の海。
「……ここは、病院じゃないな」
浩二は、波の音を聞きながら、静かに目を閉じた。
「……なんだろうな。
……最後に、人間に戻れる場所だ」
そして、彼はそのまま、静かに深い眠りについた。
ガイアズ・ドリームは、彼の生命反応が停止する瞬間。……何もしなかった。
蘇生もしない。延命もしない。
ただ。
部屋に差し込む光を少しだけ柔らかく調律し、窓の外から聞こえる波の音を、より穏やかなリズムへと整えただけだった。
治せるかもしれない力を持つ存在が、あえて、死を奪わない。
ただ、死に至るまでの苦痛を取り除く。
それは、ネス湖の『死を歪めて生者を囚える恐怖』とは対極にある。……死を、最も自然な形で穏やかに受け入れるための、究極の調和の空間だった。
***
日本政府は、世界中からの注目を集める中、与那国島の扱いについて正式な定義と運用方針を発表した。
名称:【与那国島終末期環境調和特別管理区域】。
矢崎総理は、記者会見の壇上で、極めて慎重に、だが誇りを持って語った。
「与那国島のガイアズ・ドリーム・プロトタイプ7による環境調和は、病気を治すものではありません。延命を目的とするものでもありません。
……しかし。既存の医療では苦痛の制御が難しい終末期患者に対し、人格と意思を保ったまま、残された時間を穏やかに過ごすための環境を、提供できる可能性があります。
政府はこれを『治療』ではなく、終末期ケアの補助的環境調整として、厳格な倫理審査と本人の意思確認のもとで、限定的に運用します」
記者が、鋭く問う。
「総理。それは、与那国島を世界中の末期患者に開放するということですか!」
総理は、静かに首を横に振った。
「いいえ。島の規模、医療体制、そして安全保障上の制約から、無制限の受け入れは物理的に不可能です。
……しかし。我々はこの技術が示した【方向性】を、既存の医療と共有し、世界の緩和ケアの改善に役立てる道を探ります。……奇跡をただ消費するのではなく、人類の知恵へと変えていく努力を始めます」
日本政府は、治療の奇跡ではなく、「緩和ケアの技術知見を広げる」という現実的な方向へ、見事に着地点(逃げ道)を見出した。
これは、アーティファクトの力を社会制度の中に組み込む、極めて高度な政治的バランス感覚の勝利であった。
***
夜の与那国島。
ホスピス区画の窓の外には、星空と、静かな海が広がっている。
波音が、規則正しく岸辺を叩く。
患者たちは、痛みに顔を歪めることなく、静かに眠っている。
家族は、数ヶ月ぶり、あるいは数年ぶりに、安心して彼らの隣で眠りについている。
当直の医師と看護師は、安定したモニターの数値を見て、静かにコーヒーを飲んでいる。
ガイアズ・ドリーム・プロトタイプ7は、海底遺跡の奥深くで、青緑色の光を放ちながら静かに稼働を続けていた。
彼女の内部ログには、冷徹なデータが刻まれていく。
『終末期個体群、苦痛閾値安定。』
『家族間コミュニケーション回復率、上昇。』
『恐怖反応、低下。』
『生命維持機能低下、継続。』
『介入範囲、合意条件内。』
そして、最後に一行。
『死は、除去対象ではありません。』
『苦痛は、除去可能です。』
与那国島は、病を治す島ではなかった。
死を遠ざける島でもなかった。
けれど、そこでは人が。……最後の最後まで、人間としていられた。
痛みに奪われていた自分の言葉を取り戻し。
恐怖に塗り潰されていた時間を、愛する家族へ返し。
ただ静かに、美しい海を見て眠ることができた。
世界はそれを、奇跡と呼んだ。
日本政府は、管理区域と呼んだ。
島の人々は、ただ少し困ったように。……けれど、誇らしげに言った。
「ここは。……最後に、生きる場所になったんだ」と。
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