銀河皇帝のスペアに転生した元社畜、地球軌道上の要塞でネトゲ三昧の隠居生活を満喫する 〜足元では超大国が滅亡級の異星遺産を巡って暗躍中ですが、主人公(ぼく)の命は絶対安全なので特等席で傍観します〜 作:パラレル・ゲーマー
日本列島を南北に縦断する山脈の麓、田畑と静かな住宅地がゆるやかに交差する地方都市の郊外。
ほんの数週間前、一個の黒光りする石によって「好きな髪色を授かる聖地」へと変貌を遂げた神社のある県から、わずかに県境を越えた先にある隣県の町に、その古社はひっそりと鎮座していた。
創建の由緒は千年以上前の平安期、あるいはそれ以前の神話の時代にまで遡るという。
古来より、地元の住民たちからは「髪」「身支度」「旅立ち」、そして「縁結び」に深い御利益がある神様として信仰されてきた。だが、全国的な知名度は皆無に等しく、休日に数人の参拝客が境内の砂利を踏む音と、風に揺れる鎮守の森の葉擦れの音だけが響く、どこにでもありふれた静かな社であった。
その本殿の裏手、白壁の古い宝物庫の奥深くには、代々の神職によって大切に守り継がれてきた、一本の木箱が眠っている。
収められているのは、《御髪櫛(みかみぐし)》と呼ばれる古い櫛だった。
長さは二十センチ弱。黒檀を思わせる深い黒茶色の材質でできているが、実際にいかなる木石によって彫り出されたものであるかは、記録にも残されていない。
驚くべきは、千年以上という長大な歳月を経ているはずにもかかわらず、細い歯がただの一本も欠けておらず、虫食いも、漆の剥離も、材質の反りも一切見られないことだった。ただ、何世代もの人々の手に触れられてきたことを物語るように、表面だけがしっとりと滑らかに磨き上げられ、背の部分には花とも星ともつかない微細な幾何学模様が、静かな光を吸い込むように沈み込んでいる。
かつて、昔の神職たちは、この社宝について数々の美しい伝承を語り継いできた。
「天降った天女の羽衣と御髪を、整え鎮めた霊櫛」
「旅の途上にあった姫君が、道中の安全を願って奉納した品」
「一度御櫛を通せば、七夜を経るまで御髪乱れず」
もっとも、それはあくまで神社としての箔をつけるための、雅な神話や宣伝文句の一種だと、当の神職たちでさえ思っていた。誰一人として、その古い櫛に、物理法則を根本からねじ曲げるような『本物の力』が宿っているなどとは、考えもしなかったのだ。
——あの日、一人の若い禰宜が、スマートフォンを片手に軽い気持ちで呟くまでは。
***
秋の日差しが柔らかく差し込む社務所の縁側。
三十代半ばの若い女性禰宜――この古社の宮司の娘でもあり、最近は参拝客誘致のための公式X(旧Twitter)アカウントの運営を一手に任されている彼女は、昼食後の休憩中に、手元のスマートフォンの画面を見つめて大きなため息をついていた。
「……隣の県、本当にすごいことになってるなあ……」
彼女がスクロールするタイムラインは、ここ数日、隣県にある神社の『髪染め石』の話題で持ちきりだった。
テレビのワイドショーを付ければ、「黒髪がピンクに」「推し活参拝の行列」「予約は三週間待ち」「地域経済が異次元のバブル」といったヘッドラインが躍っている。世界を終わらせる巨大怪獣やサイバーテロの鬱屈としたニュースに疲弊していた大衆にとって、その無害で華やかな『奇跡』は、格好の消費コンテンツとなっていたのだ。
「どうした、そんなに遠い目をして」
湯呑みを持った七十代の老宮司が、隣に腰を下ろして娘を覗き込んだ。
「いや、隣の県のお宮さんがさ。あの『石』のおかげで、参道の屋根修理から玉垣の作り直しまで、全部余裕で賄えるくらいお賽銭と人が来てるらしくて」
若い禰宜は、画面を指差して笑った。
「……そういえばさ、お父さん。うちにも、髪にまつわる御神宝、ありますよね」
老宮司は、茶を啜りながら淡々と答えた。
「あるな。《御髪櫛》のことか」
「社伝だと、あれって千年以上前からあるんですよね?」
「そう伝わっておるな」
「昔から、髪を整えたり、美しくしたりする御利益があるって……」
「そう伝わっておる」
数秒間。
社務所の縁側に、奇妙な静寂が訪れた。
老宮司と若い禰宜は、ゆっくりと互いの顔を見合わせ、そして同時に、机の上に置かれていたタブレット画面の『隣県の髪染め石バブル』のニュース映像へと視線を落とした。
「…………」
「…………」
「……お父さん」
「……なんだ」
「昨今はさ……『昔の神話は、実は本物のアーティファクトの伝承だった』みたいなパターンが、世間的にもお約束になってるじゃないですか」
「うむ。ニュースで日本の総理大臣もそんなようなことを言っておったな」
「……うちの櫛って。……ただの古い櫛、ですよね?」
「……当たり前だ。代々、大事なお祭りの時しか箱から出さぬ、由緒ある古美術品だ」
「ですよねー」
若い禰宜は、少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべ、スマートフォンの画面をタップした。
「じゃあ、ちょっとだけ。……本当にちょっとだけ、隣の県の波に便乗して、宣伝してみてもいいですかね」
「まあ、罰は当たらんだろ。どうせ誰も見向きもしない」
老宮司は、のんびりと茶を飲み干した。
数分後。
神社の公式Xアカウントに、宝物庫の桐箱に収められた、黒い幾何学模様の古い櫛の写真と共に、一本のポストが投下された。
『【ちょっと便乗です】
隣県の「髪色が変わる御神石」が世間で大変話題になっていますが、実は当社にも、千年以上前の平安期より伝わる「御神櫛(みかみぐし)」がございます。
古くから「髪を整え、乱れを鎮める」と伝わる、美と身支度の御神宝です。
……もしかして、うちの櫛にも、何か不思議な力があったりするのでしょうか?(笑)
※普段は宝物庫に厳重に収蔵しておりますので、一般の方は触れません』
それは、地方の神社が時折行う、愛嬌のあるSNSの地域交流ポストに過ぎなかった。
本気でアーティファクトを自称したわけでもなく、文末に笑い文字まで添えられた、謙虚な便乗。
だが。
「髪色石」によって、毛髪に関する未知の領域に極限まで感度が上がっていたインターネットの大海原は、そのささやかな一石が立てた波紋を、決して見逃しはしなかった。
***
投稿から二時間が経過した夕方。
若い禰宜が、掃除を終えて社務所に戻り、スマートフォンの画面を開いた瞬間。
通知マークの数字が、これまで見たこともない【99++】というカンスト表示に固定され、端末がブブブブブッ! と異常な振動を上げ始めた。
「……えっ!?」
タイムラインには、神社のポストを引用した投稿と、リポストの暴風雨が吹き荒れていた。
[X(旧Twitter) / グローバル・タイムライン]
「おい隣県が参戦してきたぞwww」
「髪アーティファクト戦争、ここに勃発してて草」
「色担当の隣に、形(スタイリング)担当の社があるの何なんだよ」
「日本の神様、毛髪への執着と情熱が強すぎだろ」
「待って、色が変えられて形も整えられるなら……次は絶対に『発毛神器』だろ!!」
「全国の薄毛民が、次の神社参戦を血眼になって待機してて涙が出る」
「隣の県同士で美容のフルコース揃えるのやめろww」
「全国の古社が、今ごろ『うちの蔵にもなんか毛に関わる神宝ないか!?』って捜索始めてそう」
ネット民の大喜利だけではない。
あの日、隣県の髪色石を検証して大バズりした、登録者数百万人の美容師系YouTuberが、即座にこのポストを引用して反応したのだ。
『いや待って。
“千年以上前から髪を整え、乱れを鎮めると伝わる櫛”って……今のアーティファクト時代の文脈で出す情報として、強すぎるだろ。
宮司さん、それ本当に「ただの櫛」ですか? 僕、明日カメラ持って検証に行っていいですか?』
さらに、地元の地方新聞社のデジタル版が、すばやく記事を配信する。
『隣県の髪色石に続け? ○○神社にも千年の歴史を持つ「髪の御神宝」。ネットで期待の声』
翌朝。
公式ポストの拡散数は、すでに数万リポストを超えていた。
社務所の電話が、朝からけたたましい音を立てて鳴りやまない。
テレビ局のワイドショーの取材班、美容師の集団、有名私立大の民俗学研究室、県庁の観光振興課。
……そして、極めつきは、電話口の向こうで極めて低い、落ち着き払った役人の声で名乗った男。
『――内閣官房、既存技術外事象評価セルの関係者です。
現在ネット上で話題となっている貴社の「御神櫛」について、念のため、安全性の確認と聴取を行いたく——』
老宮司は、ガチャンと受話器を置き、顔を真っ青にして若い禰宜を振り返った。
「…………お前」
老宮司の声が、ワナワナと震える。
「お前……いったい、何を書いたんだッ……!」
「い、いや! 私はただ、冗談で『もしかしてうちのも?』って……!」
若い禰宜も、完全に血の気を失っている。
「“もしかして”などと書くから、政府の謎の部署から電話が来るんだ!」
「だって、お父さんも昨日『社伝にあるな』って、偉そうに頷いてたじゃないですか!」
「伝説は伝説だ! 本当に魔法が起きるなどと、千年の歴史のどの神主も思っとらんわ!」
神社側としては、パニックの極みだった。
確かに千年以上守ってきた由緒ある御神宝であることは事実だ。だが、「実際に超常的な物理現象が起きる」などと言った覚えは一度もない。もし観光客が押し寄せ、「なんだ、ただの古い櫛じゃねえか」と暴動にでもなれば、神社の面目は丸つぶれである。
「……とにかく、外部の人間やカメラに触らせるわけにはいかない」
老宮司は、覚悟を決めた顔で言った。
「まず、我々の手で試す。……ただの普通の櫛であることを確認し、その動画をネットに上げて、世間の誤解を穏便に解くんだ」
***
本殿の奥、宝物庫から持ち出された桐箱が、社務所の広間に静かに置かれた。
周囲を囲むのは、老宮司、若い禰宜、神社の責任者である氏子総代の老人二人、そして自治体の文化財課から慌てて駆けつけた職員。
全員が、まるで爆発物を処理するような張り詰めた空気の中で、桐箱の蓋を見つめている。
老宮司が、丁寧に白い手袋をはめ、袱紗をめくって《御髪櫛》を手に取った。
ずっしりと、手になじむ重み。
黒茶色の幾何学模様が、社務所の蛍光灯の光を受けて静かに艶めいている。
どう見ても、息を呑むほどに美しい、第一級の古美術品であった。
「……で。どうやって試すんだ?」
氏子総代が、唾を飲み込んで尋ねた。
文化財職員が、社伝の記述を記録したメモを読み上げる。
「古文書によれば……『暁に御櫛を通せば、夕べまで御髪乱れず』、とあります。
現代語に訳せば、『一度この櫛で髪を梳けば、およそ一週間、髪型が乱れない』、と」
「…………」
全員が、櫛を見た。
「……そのまんまだな」
「何の謎かけもない、ストレートな説明文ですね」
「よし」
老宮司は、櫛を差し出し、若い禰宜へと向けた。
「お前が投稿して騒ぎを起こしたんだ。お前が梳け」
「いや、それ神様の御神宝ですよ!?」
若い禰宜は後ずさった。
「私なんかが普段使いみたいに頭に当てて、もし呪われたり、髪が全部抜け落ちたりしたらどうするんですか!」
「神様の櫛で髪が抜けてどうする! お前、今朝から電話対応で走り回って、頭の寝癖と湿気での広がりがひどいことになっておるだろう。ちょうどいい被検体だ」
「女の子に向かって『被検体』とか言わないでくださいよ! ……もう!」
若い禰宜は、覚悟を決め、震える手でその黒檀のような古い櫛を受け取った。
彼女の髪は、胸元まであるロングヘアだが、朝からの湿気と多忙でひどくうねり、寝癖で右側の毛先が完全にハネてしまっている。手ぐしでも直らない、梅雨時や秋雨の季節特有の、最も厄介な「広がった状態」だった。
彼女は、目を固く閉じ。
恐る恐る、右側の乱れた側頭部の髪に、御神櫛の歯を当て——。
スッ……。
上から下へと、ただ一度、ゆっくりと梳き下ろした。
何の音もしなかった。
光も出ない。雷も落ちない。青白いエフェクトも発生しない。
だが。
「……えっ?」
氏子総代の老人が、声を漏らした。
櫛の通過した場所の毛髪が。
さっきまで頑固にハネて、湿気で縮れ上がっていたはずの毛先が。
まるで、最初からそこにそう収まるように計算されていたかのように——スッ、と。
驚くほど自然に、しなやかに、元の直線の毛流れへと戻ったのだ。
「……え? 何?」
目をつぶっていた若い禰宜が、周囲の静まり返った気配に気づいて目を開ける。
「な、何か起きました? 私の髪、アフロにでもなりました?」
「……もう二回、反対側も梳いてみろ」
老宮司が、目を見開いたまま命じる。
彼女は言われるがまま、今度は左側のボサボサに広がった髪と、後ろ髪に、御神櫛をそれぞれ一度ずつ通した。
スッ。……スッ。
たった、三回。
かかった時間は、五秒にも満たない。
若い禰宜が手にした鏡を覗き込んだ瞬間。彼女は、自らの喉が完全に干からびるのを感じた。
「…………ええっ!?」
鏡の中に映っていたのは。
つい数秒前まで、湿気と寝癖で鳥の巣のように広がっていた、疲れ切った三十代の神職のボサボサ頭ではなかった。
それは、美容室で二時間かけて高級トリートメントを施し、プロの美容師がアイロンで丁寧にブローした直後のような……。
いや、それすらも違う。
「美容室帰りのいかにも『セットしました』という不自然な硬さ」が一切ない。まるで、元から極上の髪質に生まれた人間が、ただ自然に髪を下ろしているかのような、完璧な清潔感と、とろけるような滑らかな毛流れ。
適度な艶が生まれ、一本一本の毛が呼吸しているかのように、ふんわりと落ち着いている。
「ま、待って……! なにこれ、アイロン当ててないのに……っ!」
彼女は、混乱して自分の髪を両手でガシガシと激しくかき乱した。
通常なら、これで完全に元のボサボサに戻るはずだ。
だが。
彼女が手を離した、その次の瞬間。
サララッ……。
かき乱されたはずの毛髪が、まるで形状記憶合金のように、極めて自然な重力に従って、一瞬にして先ほどの『完璧に整った毛流れ』の配置へと、自動的に戻り、収まったのだ。
「うそでしょ!?」
彼女はパニックになり、社務所の扇風機を強風にして、頭へと真正面から当てた。
強風を受けて、彼女の髪は美しく、大きく揺れ動く。ワックスやスプレーでガチガチに固められたような不自然さはない。完全に柔らかい、自然な髪の毛だ。
だが。
扇風機のスイッチを切って風が止んだ、その一秒後。
サラッ。
髪は、一切の乱れも、絡まりも、ハネも残さず。
またしても、元の完璧な『最も美しいおさまりの形』へと、静かに着地した。
「………………」
社務所に、針の落ちる音すら聞こえそうな、絶対的な静寂が落ちた。
文化財職員が、震える手で社伝のメモを見つめた。
「……『暁に御櫛を通せば、夕べまで御髪乱れず』……」
老宮司は、天を仰いだ。
「……本物だ」
彼の声が、絶望的に響いた。
「……千年前の先祖は……一文字も、嘘を書いていなかったぞ……!」
***
それからの政府対応は、日本の官僚機構の歴史に残るほど、目覚ましい速度と洗練された手際で行われた。
理由は明確だった。
つい一週間前、日本政府は隣県の「髪色石」騒動において、関係各省庁を総動員して調整を行い、
『国内低危険度アーティファクト候補の現地保存・地域管理モデルケース』
という、無害だが大衆が殺到するアーティファクトを、地方自治体と連携して観光・安全管理する見事なマニュアル(枠組み)を完成させていたからだ。
今回は、そのマニュアルの『第二号適用案件』として、既存のレールの上を高速で走るだけだった。
東京、首相官邸地下。
既存技術外事象評価セルの特別会議室。
「隣県の神社から、新規アーティファクト疑いの自己申告です」
情報担当の職員が、タブレットの報告書を沖田室長のデスクへと提示した。
「現地自治体および警察との初期連携はすでに完了。隣県の『モデルケース』のプロトコルを適用し、すでに安全確認フェーズへ移行しています」
沖田は、連日の激務による頭痛を押さえながら問うた。
「……種類は?」
「……櫛、です」
数十秒の、何とも言えない沈黙。
「……また、髪ですか」
沖田の声は、平坦極まりなかった。
「また、髪です」
職員も、感情を排して答える。
「……効果は」
「毛髪の形状調整、および状態維持です。隣県の『石』が色彩(カラー)に干渉するのに対し、今回の『櫛』は毛流れや寝癖といった物理的な『形態(スタイリング)』を制御するものです」
沖田は、天井を仰ぎ見た。
「……隣接する二つの県で、どうしてこうも綺麗に『毛髪の美容ツール』のラインナップが揃うのですか」
「日本伝承における毛髪の神聖視と、文化的な保存密度の結果と考えられます」
職員が淡々と述べる。
「現地から送られてきた検証動画を流します」
メインモニターに、寝癖の若い禰宜が櫛を三回通し、扇風機の風を当ててもサラサラに戻る映像が再生される。
殺戮兵器、精神汚染、時間改変といった地獄の映像を見続けてきた会議室のモニターに、あまりにも爽やかで、平和な生活用品のデモンストレーションが流れていた。
「……人体被害や、精神への介入は」
「ゼロです。石の時と同様、触れた者の生体バイタル、脳波、精神スコアには一切の異常がありません」
職員は、科学分析班の初期レポートを要約する。
「出来ることは、寝癖を直す、毛流れを整える、絡まりを解く、梅雨時のくせ毛の広がりを抑える、適度な艶を与える、静電気を防ぐ。そしてその状態を、一度の利用でおよそ七日間、自律的に維持する。洗髪や入浴でも解除されません。……それだけです」
「出来ないことは」
「明確な制限が存在します」
職員はリストを示す。
「髪を『伸ばす』ことはできません。
髪を『切る(カットする)』こともできません。
毛根を再生して『増毛』することもできません。
白髪を治す効果も、色を変える効果もありません。効果が及ぶのは使用時点で存在している毛髪だけで、その後に新しく伸びた部分には作用しません。
もちろん、医療・軍事への応用可能性は実質ゼロです」
「……完璧に、隣県の石と機能が重複せず、棲み分けられていますね」
沖田は、呆れを通り越して感心すら覚えた。
「髪色石が『色(カラー)』。御神櫛が『形(スタイリング)』」
さらに、防衛省系の科学分析班から上がってきた微細構造のレポートは、このアーティファクトの『異星文明的な生活感』を浮き彫りにしていた。
「……分析班によれば」
職員が続けた。
「この櫛は、単なる静電気除去や化学的なワックス固定ではなく……毛髪一本一本の【内部水分量】【表面の静電電荷】【キューティクルの摩擦係数】、そして【毛髪同士の幾何学的な空間配置】を、原子レベルで極めて精緻に計算し、自動再調律しているとのことです」
「原子レベルで、寝癖を直す?」
沖田の眉が跳ね上がる。
「はい。科学者曰く、『人間で例えるなら、効果が続く約一週間、目に見えない無数の超小型ナノマシンが、頭の上で何億回も髪の毛一本一本のバランスを優しく微調整し続けているような状態』だと。
……加えて、櫛の背と歯の表面には、皮脂やフケ、細菌を自律的に分解・反発する超防汚構造が組み込まれています」
その時。
円卓の隅で、冷めた缶コーヒーを飲んでいた月刊ムーの三神編集長が、ひどく穏やかな笑みを浮かべて口を挟んだ。
「……考えてみれば、ごく当然のことなんですよ。沖田室長」
「何がです、三神さん」
「これまで我々人類が見てきた異星文明の遺物というのは、都市を制御する巨大コア、人を癒やす神樹、時間を干渉する札、兵器化された光の矢……そんな、文明の『極端な部分』ばかりでした」
三神は、モニターに映る美しい黒檀の櫛を指差した。
「……ですが、星と星の間を渡り歩く高度な異星人たちだって。毎日毎日、戦場で血を流したり、哲学的な問いに頭を抱えたりして生きていたわけではないでしょう。
朝起きて。
顔を洗って。
髪を整えて。
朝食を食べて。
仕事(あるいは研究)へ向かう。
……そんな、ごく普通の『穏やかな日常の朝』が、彼らにだって間違いなく存在したはずです」
沖田は、一瞬だけ言葉を失った。
「これは、兵器でも神話の試練でもない」
三神の目が、細められる。
「ただの、高度文明の【日常の身だしなみ用品(アメニティ)】です。
彼らが寝癖を直して快適に朝の支度をするために作られ、そして、何らかの理由で地球に置き忘れたか、奉納された品。……そう考えれば、この驚異的な安全性と、人間に優しい仕様にも、すべて納得がいきますよ」
圧倒的な宇宙の神秘が、急に「誰かの生活感のある朝の風景」に繋がり、会議室に不思議な温度のぬくもりが広がった。
***
政府による安全宣言と、『地域管理モデルケース・第二号』としての承認が下された数日後。
神社は、政府と自治体の支援を受けつつ、極めて限定的な【御神櫛の一般公開(テスト運用)】を開始した。
そして。
最初の参拝客たちが撮影した「体験動画」がSNSにアップロードされた瞬間。
……日本のインターネットは、隣県の髪色石の時すら凌駕する、すさまじい熱狂の【爆発】を起こした。
動画に映っていたのは、湿気と寝癖で髪がどうにもならなくなっていた一人の女子大生だった。
彼女が、境内に設えられた厳重な透明ケースの前で、監視員の指示に従い、御神櫛を自分の頭に三回通す。
その瞬間。
彼女のボサボサの髪が、息を呑むほどにサラサラと美しい、シルクのようなストレートヘアへと一変したのだ。
「えっ!? 待って待って待って!!」
動画の中で、女子大生が鏡を見て発狂したように叫ぶ。
「ヘアアイロン全く通してないよ!? トリートメントもオイルもワックスも何もつけてない!
……しかも、これが【一週間】続くんでしょ!? 毎朝のセットの時間が、五分どころか【十五分】ずつ浮くじゃん!!!」
この「一度梳けば、一週間にわたって朝の時間が十五分ずつ浮く」という、現代人にとって最も切実でリアルなベネフィットが放たれた瞬間。
日本のネット民——特に、毎朝の通勤・通学前の身支度に追われ、梅雨時のくせ毛や雨の日のうねりに絶望してきたすべての人々が、歓喜の咆哮を上げた。
[X(旧Twitter) / トレンド・ハッシュタグ]
#御神櫛
#寝癖絶対殺す櫛
#朝五分神器
#ヘアアイロン殺し
#梅雨特効神器
#社畜救済櫛
コメント欄の熱量は、凄まじかった。
「待って、これ髪色石より圧倒的に【実用性】高すぎないか!?」
「くせ毛で縮毛矯正に毎年何万もかけてる私からしたら、本物の『聖地』が現れた」
「『一週間、雨の日でも前髪が死なない』ってマジ!? それ、どんな国家防衛兵器より欲しいんだが!」
「日本のアーティファクト、色変える石の次は寝癖直す櫛とか、美容の神様しか住んでないのかよww」
「頼む、日本政府。この異星人のオーバテクノロジーを解析して、量産して全国の家電量販店で売ってくれ。十万円でも絶対に買う」
「宇宙文明、こういうのでいいんだよ。人類を試すモノリスとかいらないから、朝のセットが楽になる道具をたくさん地球に落としていってくれ」
さらに、隣県の『髪色石』で検証を行い、一躍時の人となったあの美容師系YouTuberが、当然のように今回の神社にも検証機材を抱えて乗り込んできた。
「えー、皆さんこんにちは! 前回は『色』のアーティファクトでした。そして今回はなんと……『形(スタイリング)』のアーティファクトです!!
……なんで隣県同士で、こんなに完璧に美容の神秘が棲み分けられて揃ってるんですか! 日本の地理、おかしくないですか!?」
YouTuberは、自らの髪をシャワーで濡らし、ドライヤーを雑に当てて、わざとひどい寝癖と爆発した鳥の巣ヘッドを作った上で、検証を開始した。
御神櫛を通す。一瞬で、プロのサロン帰りの完璧なスタイリングが完成。
そこから、さらに苛烈な「いじわる検証」が始まった。
・湿度90%相当の人工スチーム室に二十分入る。
・大型扇風機で風速十五メートルの暴風を当てる。
・帽子を深く被り、強く押し付けてから脱ぐ。
・ベッドに頭を力一杯こすりつける。
そのすべての妨害に対し、御神櫛の力は完全に勝利した。
風が止めば戻る。帽子を脱げば、自然なボリュームが立ち上がる。湿気を完全に跳ね除ける。さらに政府側の追跡検証では、毎日洗髪して普通に生活しても、約七日間は同じ毛流れへ戻り続けることが確認されていた。
検証を終えたYouTuberは、鏡を見つめながら、少しだけ遠い目をして笑った。
「……ねえ。これ、僕たち美容師……終わった?」
だが、彼は数秒後に力強く首を横に振った。
「いえ! 終わりません! なぜなら……【この櫛、髪は切れない】からです!!」
YouTuberの解説は、極めて正確だった。
御神櫛には「カット(切る)」の能力がない。パーマで根本的なデザインを変えることもできない。
「色は隣県の『石』に取られました。スタイリングはこの『櫛』に取られました。
……しかし! カットと、基本的なベースカットの相談、そして頭皮の根本的なケアは、我々美容師の技術が絶対に必要です!!」
この動画の結論を受け、地元の商業・美容界隈は、極めて凄まじい適応力とスピード感で動き始めた。
隣県の美容師組合と、こちらの県の観光協会が即座に手を組み、前代未聞の【周遊プラン】を打ち出したのだ。
『まずは隣県で、御神石で好きな色に染める!』
『次に、地元のサロンで、プロの美容師による最高のカットを施す!』
『そして最後に、こちらの神社で、御神櫛で完璧なスタイリングを固定する!』
人類のアーティファクトに対する商業適応の速さは、異星のテクノロジーすら完全に置き去りにしていた。
***
その頃。
現地調査を続ける政府の評価セルチームの中に、一人の五十代の男性職員の姿があった。
彼は、つい先週、隣県の『髪色石』の調査の際、
「発毛効果はありますか?」
「ありません」
と、分析科学者から冷酷な一刀両断をくらい、深く肩を落としたあの警察庁からの出向幹部であった。
頭頂部がひどく寂しい彼は、今回もまた、何かをすがるような、しかし半分諦めたような目つきで、分析を担当する科学者へと近づいた。
「……あの、先生。一つ、確認よろしいでしょうか」
科学者は、彼の頭頂部をチラリと見て、申し訳なさそうに言った。
「……幹部。前回も申し上げましたが、この櫛は『現在ある毛髪』にしか作用しません。毛根を刺激して、新しい毛を増やす(発毛させる)効果は——」
「いえ、分かっています。増えないのは、分かっています」
幹部は、震える手を少しだけ前に出した。
「……ただ。『毛量を整える過程で、自然なボリュームを持たせて、寂しい部分を最適にカバーする』……ということは、あるのでしょうか?」
科学者は、少しだけ目を瞬かせた。
そして、計測器のデータを再確認し、静かに頷いた。
「……それは、可能です」
「!」
「この櫛のアルゴリズムは、使用者の毛髪密度と頭部の形状をスキャンし、人間が視覚的に『最も美しく、バランスが整っている』と認識する毛流れへと、既存の髪を最適配置します。
……つまり。残されている毛髪を、決して不自然なバーコード状(いわゆる無理なバーコードハゲ)に固めるのではなく。最も風通しよく、かつ自然な立体感と立体的なカーブを持たせて、寂しい部分を『最高に美しく調和させて見せる』ことは……完璧に機能します」
幹部の目が、見開かれた。
「……試して、よろしいでしょうか」
「どうぞ」
幹部は、白い手袋をはめ、御神櫛をそっと自分の頭に当てた。
少ない、しかし大切に手入れしてきた残りの頭髪へ、優しく一度、櫛を通す。
スッ……。
その瞬間。
彼の頭上の毛流れが、奇跡の計算式によって再構築された。
無理に隠している不自然さは一切ない。上品なシニアの男性が持つ、最もダンディで、清潔感に溢れた、絶妙なボリューム感と毛束の配置。
強風が吹いても、見苦しく捲れ上がることはない。自然に揺れ、そして自然にその最も美しい配置へと戻る。
幹部は、手渡された手鏡を覗き込んだ。
「…………おお」
彼の手が、微かに震えた。
涙ぐんでいるようにも見えた。
科学者が、少しだけ気遣うように言った。
「……髪の絶対数は、増えてはいませんよ」
幹部は、鏡を見つめたまま、深く、誇り高く頷いた。
「……分かっています。
……ですが。今日は、これで……これで、十分に報われました」
それは、前回の石で傷ついた一人の男への、異星の遺物がもたらした、ささやかで深い【救済】の瞬間であった。
***
御神櫛の評価は、これまでで最もスムーズに、かつ最短時間で完了した。
『分類:国内低危険度アーティファクト候補(JPN-HG-01 / Hair Grooming)』
『危険度:低』
『人体影響:毛髪表層の物理的・光学的配置調律(無害)』
『精神作用:認められず』
『医療転用性:低』
『軍事転用性:極低』
『美容・生活支援価値:極めて高』
『現地保存:可』
『一般利用:条件付き可』
政府の現場責任者が、沖田室長にオンラインで報告する。
「……室長。前回の隣県モデルケースのプロトコルをそのまま転用し、問題なく現地管理の枠組みが完成しました」
沖田は、タブレットに電子署名を入れながら、わずかに口角を上げた。
「……あの『低危険度アーティファクト管理モデル』を作っておいて、本当に良かったですね」
「ええ」
矢崎総理も、執務室のモニターを見てため息をつく。
「これほど早いペースで、二件目の適用案件が来るとは思っていませんでしたけどね」
だが、問題になるのは常に、アーティファクトの危険性そのものではなく……それに群がる【人間の側の社会システム】であった。
御神櫛は、この世界に『一本』しか存在しない。
一人十秒で梳くとしても、一時間で三百六十人。一日に対応できる人数には、物理的な限界がある。
しかも、隣県の『髪色石』との距離が、車でわずか一時間強という近さなのだ。
案の定、現象が起きた。
「せっかく隣県まで来て髪の色を変えたんだから、ついでにこっちの神社に行って髪型も完璧にして帰ろうぜ!」
観光客たちの流れが、完全に二県をまたぐ巨大な【美容アーティファクト大巡礼ルート】として合流してしまったのだ。
両県の観光協会と自治体は、この千載一遇の特需を絶対に逃すまいと、猛烈な速度で動き出した。
数日後、両県の知事が連名で、歴史的な観光連携プロジェクトを発表する。
公式キャンペーン名:
【御髪二社巡り(みかみにしゃめぐり)】
駅や空港に、洗練された美しいデザインの合同ポスターが貼り出された。
青やピンクの鮮やかな髪色をした男女が、完璧なサラサラヘアで境内に立つ写真。
キャッチコピーは、シンプルで強力だった。
『色はあちら、形はこちら。』
『染めて、整えて、御髪参り。』
旅行大手各社が、即座に専用の周遊パスとバスツアーの販売を開始する。
・午前:隣県の『髪色石神社』を参拝。石に触れて推し色を授かる。
・お昼:両県境の特産品を使った「御髪ランチ」を堪能。
・午後:こちらの『御神櫛神社』を参拝。櫛を通して完璧なスタイリングを固定。
・夕方:重要文化財の境内で、プロのカメラマンによる記念写真撮影。
このバスツアーは、発売から数秒で数ヶ月先まで【即日完売】となった。
そして、SNS上では、隣県同士の住民や観光関係者による、どこか楽しげな『対抗意識の応酬(じゃれ合い)』が始まっていた。
「髪色石県vs御神櫛県、完全に毛髪でマウントを取り合う戦争始まってて草」
髪色石側の商店街公式アカウント:
「うちの御神石は、無限の色彩(カラー)の奇跡を授けます! 形を整えるだけのあちらとは、神秘の鮮やかさが違います!(笑)」
御神櫛側の商店街公式アカウント:
「うちの御神櫛は、一度梳けば一週間、毎朝の『通勤・通学の五分を救う』究極の実用品です! 一時的な色変えのエンタメとは、生活への貢献度が違います!(笑)」
両県の県庁公式アカウントが、慌てて仲裁する。
「どちらの神社も素晴らしい御神宝です! ぜひ、お得な『両県合同・御髪周遊パス』でお越しください!」
だが、現場の観光担当者たちの目は、互いにより多くのお土産や宿泊を自分の県に落とさせようと、笑っていなかったという。
***
東京、首相官邸地下。既存技術外事象評価セル。
モニターには、隣県の髪色石と、今回の御神櫛、二つの神社が映し出されている。
鮮やかなピンク色の髪をした女子高生たち。
完璧に整った前髪を維持して笑う女性たち。
両県を結ぶバスツアーの長い行列と、明るい観光ポスター。
矢崎総理は、その平和極まりない映像を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……つい先月まで。私たちは、アーティファクトで世界が滅びないか、不老無病で社会が壊れないかと、命懸けで議論していたはずなのですけれどね」
円卓の隅で、三神編集長が缶コーヒーを開け、笑った。
「今もしてますよ、総理。アメリカの地下室の掃除も、ドイツのナチスの残党追いも、進行中です」
「そうね。だからこそ、頭がバグりそうになるわ」
「ですが」
三神は、モニターに映る古い黒檀の櫛の画像を見つめ、静かに言った。
「……世界を滅ぼすための武器『だけ』を遺す文明なんて、広い宇宙のどこにも存在しませんよ」
総理が、三神を見る。
「星を消し飛ばす兵器を作った技術者にも。
都市全体を風から守るコアを設計した科学者にも。
……朝起きて、自分の髪の寝癖がどうにも決まらなくて、鏡の前でため息をついた『普通の日』が、間違いなくあったんです」
三神の言葉に、沖田室長も深く頷いた。
「……絶望や恐怖だけが、異星文明の形ではない、と」
「ええ」
三神は笑う。
「誰かを殺す槍を作り、誰かを治すポッドを作り……そして、朝の五分を少しだけ楽にする『櫛』を作った。
……そう思うと、顔も知らない遠い星の異星人たちが、ほんの少しだけ、親しみやすい隣人に思えてきませんか?」
矢崎総理は、少しだけ考えて、ふっと柔らかく微笑んだ。
「……そうね。
この程度で済むお隣さんなら、いつでも歓迎したいところだわ」
***
そして。
御神櫛の一般公開が軌道に乗った、とある日曜日の午後。
午後四時ちょうど。
神社の鳥居の前に、すでに長蛇の列ができていた。
だが、その列を構成しているのは、観光目的のアイドルオタクやインフルエンサー、派手な服を着た若者たちばかりではなかった。
並んでいたのは。
私服姿で、明日からの仕事を思って少し憂鬱そうな顔をした【会社員(社畜)たち】と、月曜日からの学校に備える【地元の高校生・学生たち】だった。
「……これ、今日通しておけば、次の日曜まで持つんだよな?」
会社員の男性が、列の進み具合を見ながら隣の同僚に囁く。
「持つ持つ。俺、先週もやったけど、金曜の雨でも全然崩れなかった」
「やばいな。明日からまた毎朝、十五分長く寝られるのか……」
「俺、日曜にここ来て一週間分まとめて髪を整えるの、もう習慣になりそうだわ」
神社側も、この『真の需要層(週一回の生活インフラ需要)』を完璧に把握し、鳥居の前に新しい看板を堂々と掲げていた。
『【御神櫛をご利用の皆様へ】
・御神櫛の効果は、一度の利用で【約七日間】持続します。
・土曜、日曜の午後は、翌週の通勤・通学に備える利用者で大変混雑します。
・前回の利用から七日以内の再利用は、混雑時間帯にはご遠慮ください。
・『御神櫛で、髪は増えません』』
最後の一文だけが、太字のゴシック体で、哀愁を込めて強く協調されていた。
週末の調査視察に訪れていた、例の警察庁の五十代職員が、その看板を見て、少しだけ寂しそうにぼやいた。
「……わざわざ、太字で書かなくても、分かっていますよ……」
「幹部、先週からずっと決まってますよ。一番自然な毛流れです」
若い部下が、フォローするように声をかける。
「……うむ。今週分も、整えてくる」
幹部は、少しだけ誇らしげに胸を張り、翌週の身支度を整える人々の列に加わっていった。
***
隣県の『髪色石』は、人々の日常に、鮮やかな色彩のエンターテインメントを加えた。
そして、この『御神櫛』は。
一度梳くだけで、その先一週間にわたって、日々忙しく生きる人々の朝から、面倒な身支度の時間を毎日【五分間】ずつ取り戻してくれた。
どちらも、世界を滅ぼすことはない。
国家を軍事的に強くすることもない。
泥沼の戦争に勝つこともできないし、死者を蘇らせることも、人間を不老不死の超人に変えることもできない。
だが。
朝、鏡の前で完全に爆発した寝癖を見て、「あーあ、もう今日学校行きたくない……」と絶望しなくて済む。
湿気の強い雨の日に、せっかく時間をかけて整えた前髪が、駅まで歩く五分の間にもうグシャグシャになってしまう悲しみを味わわずに済む。
そして何より。
疲れた夜の翌朝に、ベッドの中で『あと五分だけ』、安心して長く眠っていられる。
そんな、ささやかで、愛おしい程度の奇跡を。
現代に生きる人類は、世界を救う神の剣に負けないくらい、あるいはそれ以上に……全力で、心からの感謝を込めてありがたがったのだ。
隣り合う二つの県には、いつの間にか。
「髪の色を染める神社」と、「髪の形を整える神社」という。
千年前の神職たちが聞いたら、驚いて宝物庫の扉を閉めてしまいそうな……けれど、最高に平和で幸福な、日本の新しい観光名所が、しっかりと根を張っていた。
アーティファクトの時代は、今日も平和に。
人類の一週間分の朝の支度を、毎日五分間ずつ短くしていたのである。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!