銀河皇帝のスペアに転生した元社畜、地球軌道上の要塞でネトゲ三昧の隠居生活を満喫する 〜足元では超大国が滅亡級の異星遺産を巡って暗躍中ですが、主人公(ぼく)の命は絶対安全なので特等席で傍観します〜   作:パラレル・ゲーマー

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第159話 仙人を殺した男、仙人になる

 中華人民共和国、北京市内。

 強固な軍事警備と、幾重もの情報統制の壁に守られた特別治療施設。ここは、中国政府が《混元一気宝珠(こんげんいっきほうじゅ)》から引き出された仙気の力を利用し、世界にその威信を示すために運用している、人類の最先端にして究極の医療拠点である。

 

 白を基調とした無機質で清潔なエントランスには、あらゆる病魔に侵された人々が集まっていた。

 手の施しようのない末期癌の患者。骨髄移植の適合者が見つからなかった白血病の子供。全身に重度の熱傷を負い、皮膚呼吸すら困難な青年。凄惨な事故によって四肢を失った労働者。現代の西洋医学では治癒不可能な、絶望の淵に立たされた者たち。

 

 中国政府は、ここで「自国民を優先する」という建前を維持しつつも、高度な外交カードとして「一定数の外国人治療枠」を明確に設けていた。これにより、この施設は事実上、地球上で最も価値のある聖域の一つとなっていた。

 

 その日の午後。

 施設の第一治療室で、一人の男が静かに息を吐き、額の汗を拭っていた。

 

 彼の名は、周文海(しゅう・ぶんかい)。

 

 年齢は戸籍上では六十代半ばに達しているが、仙人化のプロセスを経た彼の外見は、白髪一つない、活力に満ちた三十代後半の中年にしか見えない。

 彼は、かつて中国国内の総合病院で長く内科医を務めていた、根っからの臨床医であった。仙人化の恩恵を受けた後も、彼は軍属の戦闘部隊には入らず、《混元一気宝珠》を用いる治療班の主要施術者として、この施設に留まり続けていた。

 

 周文海は、戦闘の専門家ではない。その性質はどこまでも穏やかで、仙人という超越者になった今でも、口調にはかつての町医者のような温かみが残っていた。

 そして何より、彼の中国市民からの人気は絶大だった。

 

 理由は単純である。

 海外のエネルギー王やIT長者が、順番を早めてもらうために何十億円という裏金を積もうが、中国共産党の有力者の親族が横入りしようとしようが。彼は決して、自らの「患者リスト」の順番を変えなかったからだ。

 

「……周先生。本日の最後の方です」

 防護服を着た医療スタッフが、静かに扉を開ける。

 

 車椅子に乗せられて入ってきたのは、重い先天性の心疾患と多臓器不全を抱えた、まだ十代になったばかりの少女だった。付き添う母親の顔は、長年の看病の疲労と絶望で、実年齢よりも遥かに老け込んでいる。

 

 周文海は、穏やかな笑みを浮かべ、少女の前にしゃがみ込んだ。

 

「よく頑張ってここまで来たね」

 彼は、少女の細く冷たい手を握り、静かに目を閉じた。

 

 周文海の丹田から、淡い黄金色の光——《混元一気宝珠》から引き出した仙気のネットワークが、彼の腕を伝って少女の身体へと流れ込んでいく。

 光が少女の胸の奥で微かに弾け、細胞の機能不全を根底から書き換え、壊死しかけていた組織に強烈な生命力を吹き込んでいく。

 

 数分後。

 モニターに表示されていた危険なバイタルサインの警告音が消え、信じられないほど力強く、安定した心拍のリズムが響き始めた。

 

「……あっ」

 少女の土気色だった頬に赤みが差し、車椅子からゆっくりと自分の足で立ち上がった。

「……お母さん。息が、苦しくないよ」

 

「ああ……あああ……!」

 母親は、床に崩れ落ち、周文海の足元にすがりついて号泣した。

「先生……周先生! ありがとうございます、ありがとうございます……!」

 

 周文海は、大仰に救世主ぶることは一切なかった。

 彼は、泣き崩れる母親の肩を優しく叩き、立ち上がった少女に向かって、かつての町医者だった頃と全く同じトーンで言った。

 

「急に走り回ったら駄目だよ。今日は無理をしないように、よく眠りなさい」

 

 その光景こそが、彼が世界中の人々から「奇跡の医者」と慕われる理由であった。

 

 だが。

 少女と母親が深い感謝とともに治療室を退出した後。

 

「……ふぅっ」

 

 周文海は、急に膝の力が抜けたように、ふらりと壁に手をついた。

 その呼吸は荒く、三十代の外見には似合わない深い疲労の色が、彼の顔に色濃く浮かび上がっていた。

 

 《混元一気宝珠》は、確かに万能の治療装置である。

 だが、その力を行使する『施術者(仙人)』という中継点には、対象の病状が重ければ重いほど、すさまじいエネルギーの負荷と、精神的な消耗がのしかかる。

 特に今日のように、重症患者を連続して何人も治療した場合。周文海の体内の「仙人としての出力」は、一時的に枯渇に近い状態にまで大きく低下するのだ。

 

 もちろん、死ぬわけではない。食事を摂り、数時間深く眠れば、再び力は満ちてくる。

 だが、この治療直後の数時間だけは。彼は明確に、人間と変わらないレベルにまで【弱体化】していた。

 

「……周先生。本日は、ここまでです。本当にお疲れ様でした」

 スタッフが、気遣うようにタオルを手渡す。

 

「……ああ、そうしよう。さすがに、少し疲れたよ」

 周文海は、壁から手を離し、ゆっくりとした足取りで休憩室へと向かい始めた。

 

 建物の廊下には、当然、武装した中国公安の精鋭たちが護衛として配置されている。

 だが。

「施設の内部」であり、「一日の全業務が終了し、患者が帰った直後の安堵感」が漂うその数秒間。

 護衛の配置と、人間の意識の間に、ほんのわずかな【隙】が生じる瞬間がある。

 

 その、一瞬の隙を。

 ただ一つの目的のために、何日も前から息を潜めて待ち続けていた男がいた。

 

 ***

 

 エイドリアン・フェンター。四十六歳。

 

 南アフリカ共和国出身の彼は、長年、アフリカのダイヤモンド鉱山施設の警護や、中東の紛争地域での富豪の身辺警護など、裏社会と表社会の境界線を歩く民間警備業務(PMC)で食い繋いできた男だった。

 

 彼は、どこかの国家機関に所属するエージェントではない。

 中国の覇権主義に立ち向かうような、高尚な思想家でもない。

 中国人を憎んでいるわけでもなく、アーティファクトの力を持つ仙人たちに個人的な恨みがあるわけでもなかった。

 

 彼の動機は、ひどく単純で、それゆえに恐ろしく純粋だった。

 

 数ヶ月前。

 中国政府は、自国の仙人システムを誇示する過程で、世界に向けて一つの「決定的なルール」を公表してしまった。

 

『――仙人を殺害した者には。その仙人が受けていた【恩恵】が移る』

 

 その情報をニュースで聞いた瞬間。

 フェンターの脳裏には、数億円の報酬の話を聞いた時よりも、遥かに強烈な電撃が走った。

 

(……ならば。これは【奪える】のだ)

 

 彼は、特定の組織から「中国の仙人を暗殺しろ」という依頼を受けたわけではない。金のためでもない。

 ただ。

 衰え始めた己の肉体と、暴力だけが支配する泥沼の人生から抜け出すために。

 彼自身が、【不老無病の仙人になるため】に、この北京の施設へ潜入したのである。

 

 ***

 

 周文海が、護衛の公安警察と数メートルの距離を開けて、休憩室への短い廊下を歩いていた。

 

「……ん?」

 

 背後から、足音もなく近づいてくる影に気づき、周文海がゆっくりと振り返った。

 

 白衣を着た、見慣れない顔の清掃スタッフ。

 それがフェンターだった。

 

 フェンターの目は、殺意すら発していなかった。ただ、極度の集中力と、乾いた欲望だけがそこにあった。

 

「……君は」

 

 周文海が声をかけようとした、その瞬間。

 フェンターの手から、非金属製の特殊なコンバットナイフが滑り出た。

 

 ズブッ。

 

 刃が肉を裂く、鈍く重い音が廊下に響いた。

 それは、痛みで動きを止めるための腹部への刺突ではない。頚動脈と気管、そして延髄を同時に断ち切る、プロフェッショナルによる明確な【致命傷】の位置だった。

 

「……ガッ……!?」

 周文海の目が、驚愕に見開かれた。

 

 フェンターは、刃を抜かず、そのまま自らの体重をかけて男の身体を壁へと押し付け、二度目の刺突を心臓へと叩き込んだ。

 

 もし、普段の万全な状態の周文海であれば。

 たとえ奇襲であっても、仙人特有の反応速度でナイフを躱し、フェンターの腕をへし折って簡単に制圧できていたかもしれない。

 しかし、重度の先天性疾患の少女を治療し終えた直後の彼は、体内の仙気が完全に枯渇していた。

 

「動くなッ!!」

 

 数メートル離れていた護衛の公安警察が事態に気づき、アサルトライフルの銃口を向け、躊躇なく引き金を引いた。

 

 ダダダッ!!

 

 狭い廊下に、鼓膜を劈くような銃声が轟く。

 フェンターは、周文海の身体を盾にしようとしたが、完全に防ぎ切ることはできず、自らの左肩と右の脇腹に、熱い衝撃と強烈な痛みが走った。

 5.56ミリカプセル弾が肉を抉り、フェンターの身体が大きく弾き飛ばされる。

 

「……あ、あ……」

 周文海は、首から大量の血を吹き出しながら、ゆっくりと床に崩れ落ちた。

 彼の瞳から、急速に光が失われていく。

 人々を救い続けた奇跡の医師は、自らが助けた命の温もりを手に残したまま、冷たい廊下で、あっけなく【死亡】した。

 

 ドサッ。

 フェンターもまた、壁際で血の海に倒れ込んだ。

 肩と脇腹を完全に撃ち抜かれている。肺に穴が開き、息をするたびに血の泡が口からあふれる。通常の人間であれば、数分以内に確実に出血死する、致命的な傷だ。

 

(……くそっ……やり遂げたのに……ここで、終わりか……!)

 

 護衛たちが、怒号を上げながら銃口を突きつけて殺到してくる。

 フェンターは、薄れゆく意識の中で、自らの無謀な賭けが失敗に終わったことを悟り、目を閉じた。

 

 しかし。

 ……次の瞬間だった。

 

「……ッ!?」

 

 フェンターは、自らの体内で【爆発的な熱】が生まれたのを感じ、カッと目を見開いた。

 

 熱は、心臓から始まり、血液に乗って全身の血管を一瞬にして駆け巡った。

 撃ち抜かれたはずの左肩と右脇腹の傷口から、猛烈な勢いで肉芽が盛り上がり、細胞が異常な速度で分裂し、絡み合うようにして【傷口が閉じ始めた】のだ。

 

 流れ出ていた血が、ピタリと止まる。

 穴の空いた肺が修復され、ゴボゴボと鳴っていた呼吸が、信じられないほど深く、力強く安定していく。

 それだけではない。

 彼の年齢を刻んでいた白髪交じりの髪から、一瞬にして白い色素が消え去り、若々しい黒へと染まっていく。顔に刻まれた深い皺が薄れ、皮膚が内側から張りを取り戻す。傭兵時代に負った無数の古傷の痕すらも、嘘のように消え去っていく。

 

 四十六歳だった中年の男の外見が。

 たった数秒の間に、細胞の時間を巻き戻したかのように、【三十歳前後】の強靭な若者の肉体へと変貌を遂げたのだ。

 

「……嘘だろ」

 

 壁際に座り込んだまま、フェンター本人が、一番驚愕していた。

 彼は、血まみれの自分の両手を見つめ、指先を強く握りしめた。

 今まで感じたことのない、底なしの生命力が、全身から溢れ出している。

 

「……本当だったのか」

 

 中国政府が世界に公表したあのルールは、彼らを牽制するためのハッタリでも、複雑な儀式が必要なものでもなかった。

 

『仙人を殺せば、本当に、自分が仙人になれる』のだ。

 

「動くな! 手を頭の後ろで組め!!」

 数人の公安警察が、銃口を向けたまま怒鳴りつける。

 彼らは、目の前の男の容貌が若返ったことには気づいていたが、まだその「意味」を完全には理解していなかった。

 

 フェンターは、ゆっくりと立ち上がった。

「……悪いが」

 彼は、まだ自分自身の新しい能力(限界)を理解していなかった。

 だが、身体が、羽のように異常に【軽い】。

 

 バンッ!!

 

 フェンターが、目の前の警備員の胸を軽く蹴り上げた。

 ただの牽制のつもりだった。だが、警備員の身体は、まるでトラックに跳ねられたように宙を舞い、十メートル先の壁に激突して気を失った。

 

「撃てッ!!」

 

 残りの護衛たちが、一斉に発砲する。

 数発の弾丸がフェンターの胸と腕に命中した。

 だが、彼は痛みすらほとんど感じなかった。弾丸は強靭な筋肉の層で止められ、傷口は数秒で煙を上げて塞がっていく。致命傷にならないのだ。

 

「……ハハッ。最高だ!」

 

 フェンターは、狂ったように笑い声を上げ、目の前の分厚い防護扉を、渾身の力で蹴り飛ばした。

 轟音とともに、鉄の扉が蝶番ごと吹き飛ぶ。

 彼は、完全にパニックに陥った施設内の警報と混乱に乗じ、凄まじい脚力で疾風のように駆け抜け、北京の街の闇の中へと【逃亡】した。

 

 ***

 

 事件発生から数十分後。

 

 中国政府は、国家の威信を懸けた、凄まじい規模の初動対応を見せた。

 中国国内の全警察、武装警察、公安部、軍の検問所、そしてすべての国境管理機関および空港・港湾施設へ向けて、【特別重要指名手配】の緊急通達が発令されたのだ。

 

 最新の監視カメラ網から抽出された、鮮明な顔写真。

 事前に清掃会社に偽装登録されていた指紋データとDNA情報。

 そして、逃亡時の『若返った現在の容貌』のシミュレーション画像。

 

 名前:エイドリアン・フェンター。国籍:南アフリカ共和国。

 容疑:【第一級殺人】。

 

 当然、南アフリカ政府にも即座に身柄拘束の通報がいき、INTERPOL(国際刑事警察機構)に対しても、国際手配のための協力要請が正式に行われた。

 物理的な国境封鎖と、電子網による監視の網の目は、アリ一匹逃さないほどの密度で敷かれた。

 

 ……しかし。

 その対応の『空気感』は、世界のインテリジェンス機関が予想していたものとは、少し異なっていた。

 

 北京の、中国指導部が集まる極秘会議室。

 李天明(リー・ティエンミン)国家主席をはじめとする最高指導部の顔ぶれは、確かに重苦しかったが……どこか、妙に【冷静】だったのだ。

 

「……優秀な仙人を一名、失った。しかも、政治的に極めて価値の高い、医療担当の周文海をだ」

 幹部の一人が、渋面を作って報告する。

 

 だが、別の幹部が、静かな声で言った。

「……しかし。これは、当初から【想定されていたこと】ではある」

 

 会議室に、沈黙が落ちる。

 

 中国は、自らの手で、世界に向けて「殺せば移る」というルールを公表した。

 それは、暗殺のリスクを承知の上で、世界に対する【圧倒的な力への恐怖と、手の届かない存在であることの証明】を見せつけるための、高度な心理戦であった。

 ……つまり、いつかどこかの命知らずの馬鹿が、一攫千金(不老不死)を夢見て、そのルールが本当かどうかを「試す」時が来ることは、指導部も、仙人たち自身も、痛いほど分かっていたのだ。

 

 円卓の最奥。

 深い瞑想から目覚めたように、仙人たちを統括する象徴、太乙(たいいつ)が、ゆっくりと目を開けた。

 

「……奪われたか」

 太乙の口から出たのは、怒りでも悲しみでもなく、ただの事実の確認だった。

 

「はい。申し訳ありません、我々の警備の落ち度です」

 公安のトップが頭を下げる。

 

 太乙は、白く長い髭を撫で、超然とした態度のまま言い放った。

 

「ならば、それまでだ」

 

 周囲の幹部たちが、少しだけ驚いた顔で太乙を見た。

 

「……怒られないのですか、太乙殿?」

 李主席が、探るように問う。

 

「何に怒るというのだ?」

 太乙は、不思議そうに首を傾げた。

 

 太乙をはじめとする、死線を越えて「気」の真理に辿り着いた仙人たちの価値観は、もはや国家の官僚たちとは完全に異なっていた。

 

 得た力を、自らの油断によって守り切れなかった。

 相手は、己の命をチップにして、死地に飛び込み、力ずくでそれを奪い取った。

 そして、奪った側(フェンター)もまた、これからは【その力を、自らの命を懸けて世界中から守り続けなければならない】運命を背負ったのだ。

 ……ただ、それだけのことだ。

 

「……それもまた、【修行】である」

 

 太乙は、目を閉じ、己の世界へと戻るように深く息を吸い込んだ。

 

 この太乙の超然とした態度を受け、中国政府は、極めて冷静でドライな【公式方針】を決定した。

 

 中国政府:

『殺人は殺人である。我が国の刑法に基づき、容疑者は逮捕し、裁判にかける。

 周文海は国家の重要職員であり、当然、全力で追跡する。

 ……しかし。相手が「仙人の力を奪ったから」という特別な理由で、感情的な国家間報復を行ったり、他国の主権を無視した無差別な海外工作(暗殺部隊の派遣)には走らない』

 

 同日夕刻。中国外務省の報道官が、世界に向けて公式声明を発表した。

 

「中華人民共和国公民であり、偉大な医師であった周文海氏が殺害された凶悪事件について。我が国は、エイドリアン・フェンター容疑者を殺人容疑で国際手配しました。本件は、厳正な【刑事事件】として処理されます」

 

 そして、世界中のメディアが最も聞きたかった「あの疑問」についても、報道官は表情を変えずに、あっさりと認めた。

 

「また。……容疑者への【仙人能力の移転】につきましても。監視カメラの映像解析および生体データの痕跡から、事実であると【確認されました】」

 

 その公式声明を聞いた世界中の情報機関と指導者たちは、一瞬、完全にフリーズした。

 

(……えっ?)

(……本当に、移ったのか!? しかも、中国はそれを隠さずにあっさり認めた!?)

 

 この、中国政府の「想定内だ」と言わんばかりの冷静すぎる対応は、かえって世界を底知れぬ混乱と恐怖へ突き落とすことになった。

 

 ***

 

 だが。

 政府や仙人がどれほど超然としていようとも。

 ……その日々の生活の中で、周文海という一人の人間に命を救われてきた【中国市民たち】は、そんな乾いた理屈で納得できるはずがなかった。

 

 周文海は、高慢な仙人ではない。金持ちだけを優遇する権力者でもない。

 中国の一般市民の希望であり、普通の患者たちを、己の身を削って救い続けてきた「奇跡の人気医師」だったのだ。

 

 しかも、彼が殺されたタイミングが、あまりにも最悪だった。

 

 国営放送のニュースで、事件の経緯が詳細に報道される。

『周文海医師は、先天性疾患を持つ女児の治療を終え、疲労困憊の状態で休憩室へ向かう途中に、背後から襲撃されました』

 

 ニュースの画面には、数時間前に撮影されたばかりの映像が流れる。

 病変が消え、自分の足で立ち上がった少女。

 泣いて喜ぶ母親の肩を優しく叩き、「今日は無理をしないように」と穏やかに笑いかける、周文海の後ろ姿。

 

 ……その、わずか数十分後に。

 彼は、薄汚い外国人傭兵の凶刃に倒れ、血の海の中で息絶えたのだ。

 

 この事実が知れ渡った瞬間。

 中国のインターネット空間は、かつてないほどの激しい【怒りの大爆発(炎上)】を起こした。

 

 微博(Weibo)、大手動画サイト、各種掲示板。

 あらゆるプラットフォームが、フェンターへの殺意と憎悪で埋め尽くされていく。

 

『絶対に許すなッ!!!』

『人の命を治して、ボロボロに疲れているところを背後から刺しただと!?』

『仙人同士の、気高き決闘ですらない! ただの卑怯なクズ野郎じゃないか!』

『周先生が、今まで何千人の命を治したと思ってるんだ! あの人は中国の宝だぞ!』

『政府が「これも修行だ」とか言って冷静ぶって流しても、俺たち人民は絶対に流さないからな!!』

『見つけろ! 地の果てまで追い詰めろ!!』

『世界のどこに逃げようが、絶対に探し出して、八つ裂きにしてやる!!』

 

 中国の公安当局は、慌ててネットの検閲を強化し、「私人による勝手な復讐行動は犯罪です。警察の捜査に任せてください」と自重を促す声明を出した。

 だが、十四億人の人民の感情に火がついた今、そんな建前で止められるはずもなかった。

 

 ***

 

 そして、事態はさらに感情的で、巨大なうねりへと発展していく。

 

 これまで周文海に治療され、奇跡的に命を助けられた【元患者たち】と、その家族が、次々と声を上げ始めたのだ。

 

『私は、去年の冬、周先生に末期の膵臓癌を治してもらいました。先生がいなければ、私は今生きていません。……犯人を絶対に許しません』

『事故で失った息子の腕を、再生してくれたのは周先生です。我が家の恩人です』

 

 彼らは、SNSで感謝と怒りの言葉を投稿するだけでは終わらなかった。

 

『警察だけには任せておけません。……犯人発見に繋がる有力な情報を提供した者に、私の全財産から【賞金(一万元)】を出します!』

 

 一人の元患者の投稿から始まった、民間の『報奨金(バウンティ)』の申し出。

 一人ひとりの出す金額は、決して大きくはなかった。

 しかし。……その【人数】が、文字通り桁違いだった。

 

『私も出します!』

『俺も五千元出す!』

『私の家の貯金から三万元!』

 

 草の根の怒りは、あっという間に雪だるま式に膨れ上がり。

 さらに、そこに「中国の英雄を殺されたことへの義憤」に燃える、中国国内の巨大企業の経営者、IT富豪、有名芸能人、そして世界中にネットワークを持つ海外の華僑たちが、次々と巨額の資金を【上乗せ】し始めたのだ。

 

『我々〇〇グループは、犯人の生け捕り、あるいは確実な所在情報に対し、五千万人民元を提供します』

 

 結果として。

 中国政府が出した公式の国家懸賞金とは全く別に。

 中国市民の怒りによって集められた【民間の情報提供報奨金】の総額は、たった数時間で天文学的な数字へと膨れ上がっていた。

 

 ***

 

 ……ところが。

 世界は、中国市民の『義憤』とは、全く【別の理由】で、エイドリアン・フェンターを血眼になって探し始めていた。

 

 ここが、今回の事件の本当の恐ろしさであり、狂気への転換点であった。

 

 事件直後。各国のインテリジェンス機関(CIA、MI6、モサド、日本の評価セルなど)は、中国の公安サーバーから流出した、フェンターの逃亡時の監視カメラ映像を、フレーム単位で徹底的に解析した。

 

 事件前、フェンターは白髪交じりの、くたびれた四十六歳の男だった。

 事件直後。施設を破壊して逃走するフェンターは……肌に張りのある、三十歳程度の強靭な青年に変貌していた。

 さらに、公安が撃ち込んだ5.56ミリ弾の銃創が、走りながら煙を上げて瞬時に修復していく様子が、赤外線カメラにハッキリと映っていた。

 

 そして何より。中国政府自身が、『能力移転を確認した』と、公式に世界へ発表してしまった。

 

 つまり。

 世界中の人間が、一つの【確定した事実】を、完璧に理解してしまったのだ。

 

(……あの男(フェンター)を殺せば。……次は、【自分が仙人になれる】)

 

 その瞬間から。

 世界の地下社会(ダークウェブ)のネットワークにおいて、エイドリアン・フェンターにつけられた呼び名が変わった。

 

 殺人鬼でもなく。テロリストでもなく。

 

【歩く仙丹(せんたん)】。

 

 あるいは、【人間仙丹】。

 中国のネット民からは、憎悪を込めて《盗仙賊》と呼ばれた。

 

 世界中の、ありとあらゆる犯罪者、傭兵、暗殺者、そして権力と金を持て余した裏の富豪たちが、一斉にこの「一つの命」に向けて動き出した。

 

 通常の賞金首(バウンティ・ターゲット)であれば、目的はシンプルだ。

 ターゲットを殺し、あるいは生け捕りにして、依頼主から『賞金』を受け取る。それだけのことだ。

 

 しかし、フェンターの場合は、構造が全く違っていた。

『彼を自分の手で殺せば、自分が不老不死になる』のである。

 つまり、賞金などという紙幣の束よりも、彼を殺すことによって得られる【フェンターの肉体そのもの(命の権利)】が、究極の報酬となってしまったのだ。

 

 この異常すぎる構造により、世界中で、目的の全く異なる『変な勢力』が同時多発的に発生し、入り乱れることになった。

 

【A:普通の賞金稼ぎ・傭兵】

「中国の民間賞金なんてどうでもいい。見つけたら、依頼主にも渡さず【俺が自分で殺す】。そうすれば、俺が超人になれるんだからな」

 

【B:世界の富豪・権力者】

 本人は老い先短い老人であり、フェンターと直接格闘して殺す身体能力はない。

「何百億払ってもいい! あの男を絶対に【生け捕り】にしろ! 四肢を切り落としてでも、私の目の前へ連れてこい! ……最後の一刺しだけは、私が自分でやる」

 

【C:巨大犯罪組織(カルテル)】

「生け捕りにして厳重に拘束し、ダークウェブのオークションへ出品しろ。『世界で唯一、あなたを神にする権利』だ。……落札額は、国家予算規模になるぞ」

 

【D:各国の情報機関】

「他国に奪われる前に、まず我々が確保しろ。殺すのは後だ。まずは彼を解剖し、仙人化のメカニズムを科学的に【研究・解析】する」

 

【E:過激な宗教団体】

「あれは、神の奇跡(命の理)を力ずくで盗み出した、最も忌まわしき罪人である! 我々の手で浄化(火あぶり)にしなければならない!」

 

【F:単なる狂人・一般の犯罪者】

「銃さえあれば、俺でも仙人になれる! 俺が世界の王になるんだ!」

 

 事件から、わずか二十四時間。

 

 フェンターの首(というより、彼に止めを刺す権利)にかけられた懸賞金は、民間の義捐金だけでも数十億円相当に達し。

 地下社会の暗号通信では、「完全な状態での生け捕り」に対して、その十倍……数百億円という匿名案件が乱立し始めていた。

 

 しかし。世界の誰も、彼の本当の価値を『金額』で正確に換算することなどできなかった。

 

 なぜなら、彼が持っているのは【不老無病】と【超人的な身体能力】という、人類が有史以来求め続けてきた『神の力』そのものだからだ。

 余命宣告を受けた世界の富豪からすれば。その権利が手に入るなら、百億円でもタダ同然であり、一千億円払ってでも安い買い物なのだ。

 

 エイドリアン・フェンターは、史上最悪、かつ史上最高額の【賞金首(生贄)】として、地球上の全人類から命を狙われることとなった。

 

 ***

 

 場面は転換する。

 

 中国国内の、監視カメラの網の目をすり抜けた先にある、窓枠の歪んだスラム街の安宿の一室。

 

 エイドリアン・フェンターは、洗面所の割れた鏡の前に立ち、上半身裸のまま、自分自身の身体を食い入るように見つめていた。

 

「……信じられない」

 

 若い。

 肌は三十代の輝きを取り戻し、筋肉は弾けそうなほどに隆起している。

 肩と脇腹に受けた致命的な銃創は、わずかにピンク色の新しい皮膚が形成されているだけで、完全に塞がっている。

 身体が、羽のように軽い。持病だった腰痛も、視力の衰えも、アルコールで傷んでいた内臓の不調も、すべてが嘘のように消え去っている。何より、身体の奥底から尽きることのないエネルギー(仙気)が湧き上がってくるのを感じる。

 何十年も、あるいは何百年も続くかもしれない、完璧な命。

 

 彼は、自分の人生で常に付きまとっていた『老いと死の恐怖』から完全に解放されたことを実感し。

 ……鏡の中の自分に向かって、ニヤリと、達成感に満ちた笑みを浮かべた。

 

「……やった。俺は、勝ったんだ」

 

 彼は、使い捨ての暗号化スマートフォンを起動し、ニュースサイトを開いた。

 

 画面には、自分の顔写真がデカデカと表示されている。

 中国語のニュースサイト。

 英語のCNNやBBC。

 フランス語。アラビア語。スペイン語。

 ……文字通り【世界中】のすべてのメディアが、彼の顔と、「仙人を殺した男」という見出しで埋め尽くされていた。

 

 フェンターは、鼻で笑った。

「騒ぎすぎだ。俺はただ、誰もやらなかったことを一番にやっただけだ」

 

 彼は、事前に大金を払って逃走ルートを確保させておいた、東南アジアを拠点とする長年の付き合いのブローカーへ、暗号回線で電話をかけた。

 

「……俺だ。ニュースは見たろ? 予定通りだ。早く俺を中国の国外へ出してくれ」

 

 電話の向こう側は、数秒間、重苦しい沈黙が流れた。

 

「……おい? 聞いてるのか?」

 フェンターが眉をひそめる。

 

 やがて、ブローカーの男が、ひどく乾いた、感情のない声で答えた。

 

『……無理だ』

 

「何だと? 金なら、今まで稼いだ全額を払ってやる! 倍でもいい!」

 フェンターは声を荒げた。

 

『そうじゃないんだ、エイドリアン』

 

 ブローカーの男は、ため息をつくように言った。

 

『……お前を苦労して国外へ逃がして、お前から逃走費用の数千万を受け取るよりも。

 ……お前の居場所を、今俺にコンタクトしてきている“顧客”に売った方が。……【何百倍も儲かる】んだよ』

 

 プツッ。

 ツー、ツー、ツー。

 

 電話が、一方的に切られた。

 

「…………」

 フェンターの顔から、余裕の笑みが完全に消え去った。

 

 彼は、ゆっくりとスマートフォンを下ろし、背筋に冷たい汗が流れ落ちるのを感じた。

 

 彼は、窓のブラインドの隙間から、そっと外の通りを見下ろした。

 

 ……怪しい黒いワゴン車が、通りを挟んだ向かいの路地に、エンジンをかけたまま停まっている。

 ……通りの角でタバコを吸っている浮浪者風の男が、チラリと、こちらのアパートの窓を見上げている。

 

 それが、たまたま停まっている車なのか。ただの浮浪者なのか。

 ……それとも、自分を殺しに来た【狩人】なのか。

 

 分からない。

 誰も信じられない。

 

 フェンターは、ここで初めて、決定的な自分の過ちに気がついた。

 

 彼は、不老不死という究極の力を手に入れた【勝者】になったのではない。

 全人類の欲望の的となった、世界で最も価値のある【獲物(エサ)】に成り下がってしまったのだと。

 

 ***

 

 一方。中国政府の国家安全部(情報部)では、対応に追われる幹部たちが完全に混乱し、頭を抱えていた。

 

「……報告します。フェンター容疑者を追っているとみられる非合法勢力が、凄まじい勢いで国内に侵入(あるいは潜伏機関が活動開始)し、急増しています!」

 情報部の分析官が、悲鳴のような声を上げる。

 

「何勢力だ!?」

 公安トップが怒鳴る。

 

「現在、我々が通信傍受で判明しているだけで……【二十七勢力】です!」

「二十七だと!? ……我々(中国の警察・軍)の追跡網を除いてか!?」

「はい! ロシア系マフィア、南米カルテルの暗殺部隊、正体不明のPMC、中東の過激派、そして各国の非公式な諜報部員たちです!」

 

 さらに、分析官は信じられない事実を付け加えた。

「しかも……彼らの目的は、『その場で殺害して力を奪う』グループと、『何が何でも生け捕りにして国外へ連れ去る』グループが、完全に混在しています! すでに彼ら同士での銃撃戦の兆候すらあります!」

 

 中国の幹部たちは、言葉を失った。

 

「…………」

 

 事態は、ブラックジョークのような最悪の皮肉へと捻れ始めていた。

 

 下手すると。

 中国政府(公安警察)は、自分たちの恩人である周文海を殺した憎き暗殺者を……世界中から殺到する賞金稼ぎたちから、【全力で保護して守らなければならない】状況に陥りかねないのだ。

 

 なぜなら。中国政府は、彼を中国の法律の下で「裁判にかけたい(生け捕りにしたい)」。

 しかし、世界中の人間は、彼を「今すぐ殺して仙人になりたい」。

 

 自国の犯罪者を、他国の犯罪者から守る。

 ……これほど馬鹿げた、そして胃の痛くなる国家のミッションはなかった。

 

 その絶望的な報告を聞いた、仙人の統括者である太乙は。

 円卓の奥で、ただ一人、白髭を撫でながら、面白そうにフッと笑った。

 

「……ほう」

 

 李国家主席が、恨めしそうに太乙を見る。

「……何が面白いのです、太乙殿。我々は、世界中を相手に、一人の殺人鬼の警護をさせられようとしているのですよ」

 

 太乙は、目を細めて言った。

「……奪った瞬間から。あの男は、永遠に【守る側】になったのだ。

 ……良いではないか。あの男が、世界中の欲望を相手に、自ら望んで手に入れたその命を、どこまで守り抜けるか、じっくりと見せてもらおうではないか」

 

 太乙は、ニヤリと笑って、いつもの決め台詞を口にした。

 

「……それもまた、【修行】である」

 

 中国指導部の幹部たちは、全員で深々とため息をつき、「……あなたは、何でもかんでも全部それで済ませますね……」と、心の中で一斉にツッコミを入れた。

 

 ***

 

 中国政府が「法治国家としての冷静な対応」を崩さないため、中国市民の怒りは、行き場を失い、さらに恐ろしい方向へと加速していた。

 

「政府は、大人しくしすぎだ! なぜ軍隊を出してあのクズを即座に処刑しないんだ!」

「法律だの裁判だの言っている場合か! なら、俺たちが自分たちの手で情報を集めて、追い詰めてやる!」

 

 ネット上には、フェンターの過去の写真、PMC時代の詳細な経歴、以前勤務していたダミー会社、交友関係、そして世界各地での目撃情報が、一億人を超えるネットユーザーたちのマンパワーによって次々と特定され、晒されていった。

 

 中国公安部は、「私人による殺害行為(私刑)は犯罪です。絶対に接触しないでください」と何度も警告を発した。

 だが、市民たちの目的は、建前上は「見つけて、中国警察へ引き渡すため」だ。誰も彼らの怒りの情報収集を止めることはできなかった。

 

 そして、海外では、この事態をもっと冷酷なエンターテインメントとして報じていた。

 

 アメリカの、大手ニュース番組の夜の討論。

 

『……現在、世界で最も危険な人物は、あの仙人となったフェンター容疑者自身ではありません』

 安全保障の専門家が、真顔でキャスターに語りかけた。

 

『どういう意味です? 彼が超人的な力を使って、テロを起こすと?』

 キャスターが問う。

 

『違います。……本当に危険なのは、彼という歩く特効薬を【殺そうとして群がっている、人間の数】です。……彼がどこかの都市に現れれば、そこは瞬時に、不老不死を奪い合う、血で血を洗う戦場と化すでしょう』

 

 その一言が、この異常事態の本質を最も正確に突いていた。

 

 各国政府の反応も、水面下で極度の緊張状態にあった。

 

 アメリカのシチュエーションルーム。ヘイズ大統領は、国防総省とCIAに厳命を下した。

「もし彼が自国や同盟国の領域に現れても……絶対に、現場の判断で【勝手に殺すな】。何が何でも、拘束を優先しろ」

 

 理由は明白だった。

 もし、現場の一兵卒や、パトロール中の警官が、撃ち合いの末にフェンターを殺してしまったら。……その『仙人の能力』が、自国の一公務員に勝手に移ってしまうのだ。

 超人的な力を持った不老不死の兵士など、国家の指揮系統を根底から崩壊させる最も厄介なバグである。アメリカ政府としては、そんな制御不能な存在が誕生することは、是が非でも避けなければならなかった。EU各国の首脳も、全く同じ判断を下していた。

 

 日本、首相官邸地下。既存技術外事象評価セル。

 

 沖田室長が、頭痛薬を水で流し込みながら、担当官に問うた。

「……もし、あの男(フェンター)が、日本へ密入国してきた場合は、どう対処しますか」

 

 担当官が、即答する。

「【保護拘束】が妥当かと」

 

「……指名手配中の第一級殺人犯をですか?」

 沖田が、念を押す。

 

「はい。……彼を、世界中のハンターたちから【殺させない(日本国内で仙人を誕生させない)】ためにです」

 担当官は、極めて真面目に答えた。

 

 沖田は、完全に頭を抱え、机に突っ伏した。

「……世界中から命を狙われる殺人犯を、我々警察権力が身を挺して守らなければならないとは。……アーティファクトの時代は、本当に嫌な冗談ばかりですね」

 

 ***

 

 そんな世界中がパニックと矛盾に陥る中。

 

 インターネットのさらに深層、ダークウェブの暗号化された情報取引掲示板の片隅に。

 無数に乱立する「フェンター殺害・確保」の高額案件リストの中に紛れて。

 

 一件だけ。

 出所不明の、異常なほど桁違いに高額な【生体確保(完全な状態での捕獲)限定】の依頼が、静かに掲載されていた。

 

 依頼主の名前はない。

 ただ、その資金の出所は、どこの国家の追跡も受け付けない、完璧に洗浄された口座から提示されていた。

(それが、あの地下の『ノアの方舟』の番人であるプロメテウスの子が、研究サンプルの確保のために自動生成したオーダーであることに、気づく者はまだ誰もいなかった)

 

 ***

 

 逃亡の果て。

 中国国内の、とある地方都市の地下駐車場。

 

 フェンターは、フードを深く被り、周囲を警戒しながら、ブローカーの手配した(はずだった)逃走車両へと歩みを進めていた。

 

 コツン、と。

 暗い駐車場の柱の陰から、突然、複数の足音が響いた。

 

 フェンターは立ち止まり、即座に懐の拳銃に手をかけた。

 

 現れたのは、制服を着た中国の公安警察ではない。

 重武装した、所属不明のプロの傭兵とおぼしき男たちが四人。彼らは、フェンターを完全に包囲する形で、アサルトライフルとサブマシンガンを構えていた。

 

「……誰だ。誰の差し金だ。金なら払う」

 フェンターは、低い声で威嚇した。

 

 だが、男たちは答えず、ただ冷酷な殺意だけを向けてくる。

 

 やがて、リーダー格の男が、一歩前に出て、静かに言った。

「……悪く思うな、エイドリアン」

 

 男の顔には、フェンターと同じ、暴力の世界で老いさらばえていくことへの恐怖が張り付いていた。

 

「俺にも……どうしても、死にたくない理由があるんだ」

 

 ダダダダダッ!!

 

 銃火が火を吹き、暗い地下駐車場に凄まじい銃声がこだまする。

 

 フェンターは、仙人の超人的な反射速度でコンクリートの柱の陰へと跳び込み、反撃に出た。

 確かに、彼の手に入れた肉体は圧倒的だった。被弾しても傷は一瞬で塞がり、膂力は人間の限界を超えている。彼は素手で男たちに肉薄し、次々とその首をへし折り、見事に撃退していった。

 

 だが。

 四人を仕留め、血まみれになって息を吐いたフェンターの耳に。

 

 ……キキィィッ! と。

 地下駐車場の別の出口から、急ブレーキを踏んで停まる、新たな複数の車両の音が聞こえた。

 

 車のドアが開き、さらに十人以上の、見知らぬ武装した男たちが降りてくるのが見えた。

 

「……ッ!」

 

 フェンターの顔から、完全に【余裕】が消え去った。

 

 彼は理解した。

 これは、ただの偶然の襲撃ではない。

 この街の、いや、この世界のすべての人間の目が。……今の自分の居場所を、監視し、密告し、そして殺しに来ているのだということを。

 

 ***

 

 世界のニュース速報が、絶え間なく流れ続けている。

 

【エイドリアン・フェンター容疑者、依然として逃亡中。中国国内に潜伏の可能性】

 

 中国政府は、殺人容疑で国際手配網を敷き、彼を追う。

 中国の市民たちは、恩人の仇として情報提供報奨金を吊り上げ、彼を追う。

 地下社会は、巨額の生体確保案件として彼を追う。

 世界の富豪たちは、不老不死の器として個人的な捕獲依頼を出し、彼を追う。

 傭兵たちは、自らが仙人になるために彼を追う。

 

 そして。

 ニュースを見ている、ごく普通の一般人までが。

「あの男を殺せば、自分も仙人になれる」という、禁断の果実の味を知ってしまった。

 

 フェンターは、暗い路地裏を、血と泥にまみれながら、逃げるように歩き続けていた。

 

 すれ違う全員が。……自分を、値踏みするように見ているように感じた。

 道端に座る老人。スマホをいじる若者。パトロール中の警官。タクシーの運転手。コンビニの店員。

 

 誰もが。

【自分を殺した瞬間に、神(仙人)になれる】権利を持っているのだ。

 

 エイドリアン・フェンターは、あの時、自分が望んだものをすべて手に入れたはずだった。

 

 若さ。健康。超人的な肉体。病に怯える必要のない強靭な細胞。

 何十年、あるいは何百年続くかもしれない、永遠の命。

 

 ……ただし。

 その究極の命を手に入れた、まさにその瞬間。

 

 地球上の、何十億というすべての人間たちに。

「彼を殺せば、それが自分のものになる」という事実を、広く知らしめてしまった。

 

 中国政府が、彼につけた罪状のレッテルは、『殺人』。

 中国の市民が、彼につけた怒りの名は、『恩人を背後から刺した卑怯者』。

 

 そして……世界が、彼につけた真の価値は。

 もはや、紙幣の金額で表せるようなものではなかった。

【不老不死への、唯一のチケット】そのものだった。

 

 エイドリアン・フェンターは、見事、仙人になった。

 

 そして、全く同じ日に。

 彼は……この地球上で最も、全人類から【命を狙われる獲物】になったのである。




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