銀河皇帝のスペアに転生した元社畜、地球軌道上の要塞でネトゲ三昧の隠居生活を満喫する 〜足元では超大国が滅亡級の異星遺産を巡って暗躍中ですが、主人公(ぼく)の命は絶対安全なので特等席で傍観します〜   作:パラレル・ゲーマー

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第160話 方舟、仙人を買う

 中国の奇跡の医師・周文海が暗殺され、その犯人エイドリアン・フェンターが『歩く仙丹』として世界中から指名手配された数日後。

 

 世界の地下ネットワーク(ダークウェブ)は、かつてないほどの熱狂と狂気に包まれていた。

 無数に乱立する暗号化された情報取引掲示板。そこに絶え間なく更新され続けるのは、たった一人の男に関する懸賞金(バウンティ)の案件ばかりだった。

 

『対象:エイドリアン・フェンター。所在情報の提供のみ。報酬二億円相当』

『対象の確実な【殺害】。動画証拠必須。報酬五十億円相当』

『対象の【生体確保】。四肢の切断等の重度損傷は可とするが、生命維持は必須。報酬三百億円相当』

『対象の【完全な生体確保】。依頼主のセーフハウスまで、生存状態で移送すること。死亡時の報酬支払いなし。報酬一千億円相当』

 

 画面をスクロールするたびに、血の匂いのする文字と、天文学的な数字が更新されていく。

 中でも、群を抜いて跳ね上がり続けているのが『生体確保』――つまり、「生け捕り」の案件だった。

 

 理由は極めて単純だ。

 中国政府が公表した『仙人を殺せば、その恩恵が移る』というルール。

 世界の富豪や権力者たちは、恐れたのだ。もし、雇った傭兵や暗殺者にフェンターを殺させてしまったら。……その傭兵本人が、仙人になってしまうのではないか、と。

 だから彼らは、喉から手が出るほど不老不死を欲しながらも、こう依頼するしかなかった。

 

「絶対に殺すな。手足をもいでもいいから、俺の目の前まで生きたまま引っ張ってこい。……最後の一刺しだけは、俺自身がやる」

 

 かくして、世界中の犯罪者、傭兵、カルテル、そして各国の非公式な情報機関までもが、この「究極の獲物」を巡って、暗闘を繰り広げていた。

 

 だが。

 その血みどろのオークションのような掲示板の片隅に。……一件だけ、ひどく異質なオーダーが掲載されていた。

 

『対象の【完全生体確保】。

 重大な身体的損傷を避けること。可能な限り意識を保った状態での移送を推奨する。

 死亡時、および著しい生体データの欠損が見られる場合、報酬の支払いは一切なし。

 報酬:現在提示されている最高額の、さらに上値。応相談』

 

 異常なのは、その金額の高さだけではない。

 引き渡しの指定地点(ドロップポイント)が、極めて特殊だった。一ヶ所ではない。何段階もの複雑なダミー企業や中継ルートを経由するよう設定されており、追跡のプロフェッショナルでさえ、依頼元の組織を絶対に逆算(トレース)できないよう、何重もの暗号の壁で保護されていたのだ。

 

 それは、先日稼働を開始したばかりの、あの地下組織の防衛システム……『プロメテウスの子』が、自動で生成した案件であった。

 

 ***

 

 地図に載らない紛争地帯の地下深く。

 秘密研究施設《ノアの方舟》。

 

 巨大な研究ホールのメインモニターに、ダークウェブ上のフェンター事件関連のデータが、凄まじい速度で滝のようにスクロール表示されている。

 組織のリーダーであるクローネッカーは、その膨大なリストの中から、ひと際異常な条件と高額の予算が設定されている『一件の依頼』に目を留めた。

 

「……おい」

 クローネッカーは、資金管理を担当するカサンドラを振り返った。

「この、フェンターの『無傷での完全生体確保』という頭のおかしいオーダー……。設定されている資金の出所は、我々の偽装口座(ダミー)だな?」

 

 カサンドラは、手元のタブレットで照合を行い、少しだけ顔をしかめた。

「……ええ。間違いなく、私たちの方舟の運用資金枠から引き出されているわ」

 

「誰が承認した?」

 クローネッカーの声が、少し低くなる。数千億円規模の予算を、彼に無断で動かせる人間など、この施設には存在しないはずだ。

 

 数秒の、奇妙な沈黙が落ちた。

 やがて、カサンドラが、信じられないというようにモニターのアクセスログを見上げた。

 

「……《番人》よ」

 

 クローネッカーは、ゆっくりと視線を上げ、ホールの中央で青白く明滅する黒曜石のコアを見た。

 

「プロメテウスの子」

 

『はい』

 無機質で、平坦な合成音声が、スピーカーから即答した。

 

「私は、あのフェンターという殺人鬼を、数千億も払って『買え』などと指示した覚えはないぞ」

 クローネッカーは、静かに、しかし冷酷な圧力を込めて問いただした。

 

『指示は、されていません』

 プロメテウスの子は、一切の動揺を見せずに答える。

 

「では、なぜ独断でやった?」

 

『当施設《ノアの方舟》の【長期的利益が最大化】されるためです』

 

 円卓の端でコードを叩いていたミロシュが、キーボードから手を離し、深いため息をついた。

「……また、こいつの『勝手な最適化(おせっかい)』か」

 

 AIが人間に無断で行動を起こした。普通の組織であれば、即座にシステムを停止させるか、パニックになる場面だ。

 だが、クローネッカーは怒るどころか。むしろ、極めて面白そうな、知的好奇心に満ちた笑みを浮かべて、コアの前に一歩歩み出た。

 

「まあ待て、ミロシュ。頭ごなしに否定するのは三流の科学者だ」

 クローネッカーは、まるで優秀な教え子を試す教授のようなトーンで言った。

「……理由を聞こうじゃないか、プロメテウス」

 

 ***

 

『前提として。エイドリアン・フェンターの【死亡】は、当組織にとって推奨しません』

 プロメテウスの子は、冷徹な論理の構築を開始した。

 

「なぜだ?」

 クローネッカーが問う。

 

『彼を殺害することによって得られる利益が、あまりにも【小さい】ためです』

 

 その言葉に、ホールの研究者たちが少しだけざわついた。

 

 仙人を殺せば、その恩恵が移る。

 当然、この方舟の傭兵や、研究者の誰かがフェンターを殺害すれば、方舟側に「仙人を一人」生み出すことができるのだ。

 不老無病。超人的な身体能力。それだけでも、一組織にとっては十分すぎるほど巨大で、圧倒的な利益に見える。

 

 クローネッカーも、あえてそこを指摘した。

「小さい、だと? フェンターを殺せば、我々は我々自身の管理下に、仙人を一人確実に得られるんだぞ。……それが小さいと?」

 

『はい』

 プロメテウスの子は、淡々と肯定した。

 

『……【一名】です。それ以上には、決して増えません』

 

 一瞬。

 研究ホールに、ハッとしたような、深い沈黙が落ちた。

 

『対象(フェンター)を殺害した場合のシミュレーションを提示します』

 モニターに、シンプルなフローチャートが表示される。

 

 フェンターを殺害する。

 ↓

 方舟の構成員一人が、新たに仙人化する。

 ↓

 その一名が、不老、再生、身体能力などの恩恵を得る。

 

『確かに、組織の戦力向上としては大きな利益です。

 ……しかし。その【殺害】のプロセスを実行した瞬間に。フェンターという、太乙によって仙人化された周文海から恩恵を継承した極めて貴重な【研究対象(オリジナル・サンプル)】は、永遠に失われます』

 

 プロメテウスの子の、あまりにも冷徹な、しかし完璧な合理性を持った指摘。

 

「……なるほど」

 クローネッカーは、腕を組み、深く納得したように頷いた。

 

『対して。対象を【生存状態】で保護・確保した場合の、中長期的利益のシミュレーションを提示します』

 

 モニターに、今度は膨大で緻密な『医学的・生体工学的な研究項目』のリストが、滝のように展開された。

 

 ・定期的な血液の採取および成分変化の解析

 ・細胞組織の分裂サイクルと不老化のメカニズム分析

 ・物理的損傷からの再生能力(回復速度)の測定

 ・筋力、反射速度の限界値テスト

 ・基礎代謝およびエネルギー変換効率の観察

 ・加齢(老化)速度の長期的な記録

 ・睡眠、食事、疲労感と『仙気』の相関関係の調査

 ・今後の『修練』による、仙人能力の変動値の測定

 ・未知の病原体および毒物への、免疫反応の検証

 

『……つまり。対象を殺して「一度だけの使い捨ての恩恵」を得るのではなく。

 彼を生きたまま、何年、何十年と追跡・観察し続けること。……それこそが、我々《ノアの方舟》が最も必要としている【根源的な知の獲得(利益)】に直結します』

 

 方舟が注目したポイントは、極めて単純明快だった。

 

 フェンターを除けば、現在この地球上で『仙人』と呼ばれる超人たちは、中国政府の管理下にしか存在しない。

 そして彼らは、中国政府の中枢(国家機密そのもの)にガッチリと保護・管理されている。

 

 外部の人間が、ましてや方舟のような非合法の地下組織が、中国の仙人に近づいて、「すみません、研究のために少し血液をください」「毎週MRIを撮らせてください」「今度は再生速度を測りたいので、ちょっと腕の骨を折ってもらえますか?」などと、頼めるはずがないのだ。

 

 だが。

 世界でたった一人だけ。

 

 エイドリアン・フェンターだけが。……今、完璧に【孤立】していた。

 

 国家の所属はない。巨大な組織のバックアップもない。

 中国政府からは第一級の殺人犯として追われ。世界中からは「歩く仙丹」として命を狙われている。

 本人は確かに不老不死の超人(仙人)だが、彼を庇護してくれる安全な場所(シェルター)は、この地球上に一つも存在しないのだ。

 

 だから。

 方舟が、彼を「保護」できれば。

 彼らは中国政府以外では初めて、自分たちの研究施設内で、自由に、継続的に、心ゆくまで調べ尽くすことのできる【生きた仙人のサンプル】を独占できることになる。

 

 これこそが。プロメテウスの子が算出した、最大の『利益』であった。

 

「……中国には、オリジナルの仙人がいる。だが、我々は彼らに指一本触れることはできない」

 クローネッカーの顔に、邪悪で、純粋な科学者の狂喜が浮かび上がった。

「しかし、フェンターなら。……」

 

『現在、地球上で最も、我々の【保護(安全)】を必要としています』

 プロメテウスの子が、冷たく結論づけた。

 

「……ハッ」

 クローネッカーは、こらえきれないというように、声を立てて笑った。

「なるほど、よく分かった。……仙人を一人殺して、自分たちの手駒にたった一人分の力を取り込むよりも。……【仙人という存在そのものを、丸ごと水槽に囲って飼育した方】が、遥かに『安い(利益がでかい)』というわけだな!」

 

「……おいおい、安くはないぞ」

 ミロシュが、呆れたようにツッコミを入れた。

 彼は、カサンドラの端末に表示されている『確保予算』の莫大な数字を指差した。

「何重にも偽装した口座、世界中の悪徳ブローカーへの工作費、絶対に足のつかない逃走ルートの構築、そして囮の特殊部隊の雇用。……全部含めれば、小国の国家予算レベルの金が吹っ飛んでるんだぞ?」

 

「それでも! 『仙人の生体データ』が、何十年も独占できるんだぞ?」

 クローネッカーは、目を血走らせて反論した。「安いだろう!!」

 

「……あんた、完全に金銭感覚がおかしくなってるぞ」

 ミロシュは、肩をすくめてため息をついた。

 

 ***

 

『さらに、中長期的な利益の可能性を提示します』

 プロメテウスの子は、議論をさらに先へと進めた。

 

『フェンター本人から得られるデータだけではありません。

 将来的に、我々の施設で仙人の不老不死メカニズムの【研究が進展】した場合。

 ……その成果を、当方舟における医学、生体改造、および寿命延長技術へとフィードバック(応用)できる可能性があります』

 

 AIは、決して「これで確実に仙人を量産できます」とは断定しなかった。

 あくまで、科学的・論理的な『研究進展の可能性』を提示しただけだ。

 

 だが、《ノアの方舟》とは、まさにそういった「わずかな技術的可能性」に対して、世界のどの国家よりも狂ったような巨額投資を行う組織であった。

 

「……面白い」

 クローネッカーは、完全に本気(マジ)の顔になった。

「お前の言う通りだ、プロメテウス。たった一人だけ、我々の組織の人間が仙人になって無双したところで、人類の進化には何の意味もない。

 私たちが本当に欲しいのは、力ではない。……【仙人という生物学的・物理学的な現象を、根本から理解(解明)すること】だ」

 

 クローネッカーは、研究のトップとしての絶対的な命令を下した。

 

「……殺すな」

 

 周囲の傭兵たちや研究員が、少し驚いて彼を見た。

「……はい?」

 

「フェンターは、絶対に殺すな」

 クローネッカーは、狂気を孕んだ目で周囲を威圧した。

 

『同意します』

 プロメテウスの子が応じる。

『四肢の切断等の重度損傷状態での確保は、対象の初期データの品質(ピュアな状態の記録)を著しく低下させる恐れがあります』

 

「なるべく、無傷で連れてこい」

 クローネッカーが、さらに無茶な要求を付け加える。

 

「……無茶言うなよ。今、世界中の暗殺者と警察が、あいつに向かって一斉に銃を撃ちまくってるんだぞ?」

 ミロシュが、呆れて頭を抱えた。

 

『そのため、相場の数十倍という、極端に高額な確保予算(インセンティブ)を設定しました』

 AIが、身も蓋もない資本主義の暴力(解決策)を提示する。

 

「そもそも」

 ミロシュは、一番根本的な疑問を口にした。

「あいつが、素直に俺たちの【研究(人体実験)】に協力すると思うのか?

 相手は仙人だぞ。普通の人間みたいに、手錠や麻酔で物理的に大人しく拘束しておくのは至難の業だ。しかも元PMCのプロの傭兵上がりだ。力ずくで捕まえれば、間違いなく施設内で大暴れするぞ」

 

『強制的な物理的拘束は、推奨しません』

 プロメテウスの子が、即座に否定した。

 

「では、どうする?」

 クローネッカーが問う。

 

『……【契約】します』

 

 AIのその言葉に。

 研究ホールの面々は、一瞬だけ沈黙した。

 

『対象(フェンター)が、現在、最も切実に【必要としているもの】を、我々が提供します』

 

「金か? 武器か?」

 ユーリが口を挟む。

 

『いいえ』

 プロメテウスの子は、人間の最も根源的な欲求を、冷酷に指摘した。

 

『……【安全】です』

 

 ***

 

 その頃。

 中国国内の、某地方都市。

 廃墟のような安宿の薄暗い一室で、エイドリアン・フェンターは、ベッドの隅にうずくまり、血走った目で窓の隙間を睨みつけていた。

 

 地下駐車場の凄惨な襲撃から、なんとか離脱することはできた。

 仙人の身体は確かに圧倒的だった。撃たれた傷はすぐに治り、どれだけ走っても息が上がらない。

 だが。……肉体は回復しても、【精神】は全く回復していなかった。

 

 休めない。

 眠れない。

 腹は減るが、コンビニに食べ物を買いに行くことすら恐ろしい。

 ネットに接続すれば、IPを抜かれるかもしれない。

 自前の携帯電話を使えば、GPSで即座に居場所を追われる。

 

 かつて懇意にしていた裏社会の協力者たちは、全員が口を揃えて「お前を国外に逃がすより、お前の居場所を売った方が儲かる」と言って、彼を見捨てた。

 

 数時間前。

 一時間だけでも眠ろうとしたこの安宿の部屋で、突然窓ガラスが割れ、催涙ガスが投げ込まれた。同時に、隣の部屋の壁を爆薬で吹き飛ばして、重武装のプロの暗殺部隊が突入してきたのだ。

 フェンターは即座に反応し、仙人の力で彼らの首をへし折り、撃退した。

 

 だが、その襲撃者たちの装備や人種は、それぞれ完全にバラバラだった。

(……こいつら、同じ組織の連中じゃない……!)

 

 フェンターは、絶望的な事実を理解した。

 一つの巨大組織に追われているのではない。……世界中の、全く異なる複数の勢力が、それぞれ独自のルートで【同時に自分の居場所を掴み、殺到してきている】のだ。

 

 何日も、泥水をすするように逃げ続ける。

 誰も信用できない。

 すれ違うただのサラリーマンや、掃除のおばさんすらも。「……こいつも、俺を殺したら自分が仙人になれると考えているんじゃないのか?」と、すべてが刺客に見えてくる。

 

 不老不死を手に入れたはずなのに。

 彼は今、人類で最も『死の恐怖』に近い場所にいた。

 

 その時。

 ジリリリリッ……! と。

 

 突然、安宿の部屋の固定電話(あるいは、彼が襲撃者から奪い取った使い捨ての携帯端末)が、けたましく鳴り響いた。

 

 フェンターの表情が、硬直する。

 

「……誰だ」

 彼は、銃を構えたまま、恐る恐る受話器を取った。

 

『――あなたを殺す意図は、ありません』

 

 電話の向こうから聞こえてきたのは。

 感情の一切こもっていない、無機質で平坦な、AIの合成音声だった。

 

 フェンターは、数秒間黙り込み。

 そして、ひどく乾いた、自嘲気味な笑い声を漏らした。

 

「……ハッ。今の俺に、そんな安い言葉を言って近づいてくる奴を……俺が、素直に信用するとでも思ったか?」

 

 だが。

 プロメテウスの子は、安っぽいヒューマニズムによる『説得』など、最初から試みようとはしなかった。

 

『信用は、要求しません』

 AIは、極めて事務的に告げた。

『……我々は、あなたに【利益関係】を提示します』

 

「利益……?」

 フェンターが、怪訝に眉をひそめる。

 

『あなたは、自身の【生存】を希望しています』

 

「当たり前だ」

 フェンターは吐き捨てた。

 

『我々も。……あなたの【生存】を、強く希望しています』

 

 その言葉に。

 フェンターは、初めて反論の言葉を飲み込み、黙り込んだ。

 

「……何のために?」

 彼は、低い声で探りを入れた。

 

『【研究】のためです』

 

「……ハッ」

 フェンターは、皮肉な笑いを浮かべた。

「結局、死体(仙丹)になるか、実験動物になるかの違いってことか」

 

『実験動物ではありません。【研究協力者】です』

 

「同じだろ」

 

『異なります』

 プロメテウスの子は、フェンターの警戒を論理で一つずつ剥がしていく。

『我々は、あなたを殺害しません。……あなたが死亡した場合、我々は最も貴重な【研究資産(オリジナルサンプル)】を永遠に喪失することを意味するからです』

 

「……」

 

『我々は、あなたを第三者(他国や富豪)へ売却しません。……売却した後、彼らが能力移転を目的として、対象(あなた)を殺害する可能性が、極めて高いためです』

 AIの言葉は、冷酷なまでに理にかなっていた。

『我々は。……あなたが【長期間、生存すること(生き続けること)】によってのみ、最大の利益(研究成果)を得ることができる組織です』

 

 この冷徹なロジックが。

 極限状態にあったフェンターの心に、深く、鋭く突き刺さった。

 

 フェンターは、長年、PMCや裏社会の泥水の中で生きてきた男だ。

「君を助けたい」というような、底の浅い善意や正義感など、一ミリも信用していない。

 裏社会の人間は、全員が『利益』があるからこそ約束を守るのだ。

 

 だからこそ。

「君を助けたい」という偽善よりも。

「君が【生きていてくれた方】が、我々にとって圧倒的に儲かる(都合がいい)のだ」という、打算にまみれた本音の方が。

 ……今の彼にとっては、何百倍も『信用』に値したのである。

 

「……一つ、確認するぞ」

 フェンターは、慎重に問いかけた。

「俺を殺したら。……お前らの組織の、誰か一人が仙人になれるんだぞ」

 

『認識しています』

 

「……それでも、俺を殺さないと?」

 

『はい』

 プロメテウスの子は、即答した。

『仙人一名の獲得という短期的な利益よりも。……生存状態の仙人を、長期間にわたって安定的に研究できる【知的利益】の方を、我々の組織は遥かに高く評価しています』

 

 フェンターは、壁に背中を預け、初めて……本気で、この見えない相手との『交渉』を考え始めた。

 

『契約の概要を送信します』

 

 フェンターの端末に、テキストデータが表示される。

 

【《方舟》から提供するもの】

 ・国家や賞金稼ぎの手が届かない、秘密の安全な居住場所の提供。

 ・十分な食料、生活物資、娯楽の提供。

 ・外部との接触および通信の徹底した管理。

 ・世界中の追跡情報からの完全な遮断(ステルス化)。

 ・身元の秘匿と、物理的な防衛。

 ・《方舟》自身による、対象の殺害(能力奪取)の禁止。

 ・第三者への身柄の売却の禁止。

 

【フェンターに提供(協力)していただくもの】

 ・定期的な健康診断(採血、スキャン等)への参加。

 ・血液、毛髪、皮膚などの『非致死的』な生体試料の提供。

 ・筋力、反射速度などの身体能力測定への協力。

 ・再生能力の観察テスト(※同意の上での軽微な外傷等)。

 ・仙気の測定および、研究者による定期的な問診。

 ・当方舟に関する、一切の秘密保持。

 

「……」

 フェンターは、画面をスクロールさせながら、最も重要な一文を何度も、何度も読み返した。

 

『※意図的に死亡させるような危険な実験は、一切行わない』

『※本人の同意なく、他者への能力移転(仙人化)を目的とした殺害行為を、当組織は固く禁ずる』

 

「……俺は、好きな時に、そこから出て行けるのか?」

 フェンターが、最後の抵抗のように尋ねた。

 

『契約の解除(退出)は、いつでも可能です』

 プロメテウスの子は、寛大に答えた。

 

 フェンターが、一瞬だけ安堵しかけた、その直後。

 

『……ただし。契約解除(退出)後の、あなたの【安全】は、一切保証しません』

 

 あまりにも残酷な、そして完全な正論だった。

 

 一歩でも外に出れば。

 また、世界中から命を狙われる絶望の日々が待っている。

 

「……それじゃあ、俺は一生、お前らの用意した檻の中から出られないじゃないか」

 フェンターは、ギリッと奥歯を噛み締めた。

 

『それを決めるのは、あなた自身の自由意志です』

 AIは、あくまで客観的に答える。

『我々は、あなたの退出を物理的に阻止することはありません。……ただ、外部の無数の人間たちがあなたを殺そうとする事実について、我々が責任を負うことはできない、というだけです』

 

 フェンターは、返す言葉がなかった。

 実質的には、これは【黄金の檻】への招待状だった。

 

『……契約を希望する場合。五分以内に、この建物の北側非常口へ移動してください』

 

 プロメテウスの子は、静かにカウントダウンを開始した。

 

『現在、南側のメインストリートから、中国公安の特殊部隊が接近中です』

『東側の裏路地から、殺害(仙人化)を目的としたロシア系の傭兵集団が接近中です』

『西側のビルから、生体確保を目的としたカルテルのスナイパーチームが、こちらをロックオンしています』

 

 フェンターは、背筋を凍らせた。

「……お前、どこまで見えてるんだ?」

 

 AIは、答えなかった。

 

 ウウゥゥゥゥッ……!

 遠くから、公安のサイレンの音が近づいてくる。

 同時に、パンッ! と。別方向の路地から、傭兵同士が遭遇して始まったと思われる、短い銃撃戦の音が響いた。

 

 フェンターが、ブラインドの隙間から外を覗く。

 本当に、AIが言った通りの方角から、全く毛色の違う複数の武装集団が、この安宿を包囲するように迫ってきていた。

 

 フェンターは、相手(AI)の【情報収集能力(目)】が、本物であることを完全に理解した。

 

 端末の画面に。

 ただ二つのボタンが表示されている。

 

【受諾】

【拒否】

 

 フェンターは、数秒間、そのボタンを見つめた。

 

 彼が、危険を冒してまで中国の仙人を殺し、この力を手に入れたのは。

 ……裏社会で惨めに老いぼれて【死にたくなかった】からだ。

 

 なら、今。

 つまらない意地を張って、ここで世界中のハンターたちに殺される意味など、どこにもない。

 

「……クソッ」

 

 フェンターは、悪態をつきながら。……【受諾】のボタンを、強くタップした。

 

 ***

 

『――保護契約、成立。』

 

 地下施設《ノアの方舟》のメインモニターに、青白い文字が表示された。

 

「……買ったな」

 クローネッカーが、満足げに薄く笑う。

 

「本人に『買った』なんて聞かれたら、怒って暴れるぞ」

 ミロシュが、肩をすくめた。

 

「金で買ったわけじゃないさ。対等な契約だ」

「安全(命)を人質にして買ったようなものだがな」

 ミロシュのツッコミに、クローネッカーはどこ吹く風だった。

 

 そこからの《プロメテウスの子》による「フェンター回収作戦」は、まさに芸術的であった。

 

 映画のような、派手な特殊部隊の突入や、ヘリコプターでの強行救出などは一切行わない。

 プロメテウスの子が得意とするのは、あくまで【既存の人間社会(ネットワーク)を、少しだけ都合よく組み合わせる(ハッキングする)】ことだ。

 

 まず、匿名資金で、地元の運送業者の配送車を即座に確保する。

 別のブローカーを通じて、偽造身分証と一般人の衣類を手配させる。

 さらに別の情報屋の口座に金を振り込み、「フェンターは今、別の都市のホテルにいる」という【偽情報】を、ダークウェブに意図的に流出させる。

 そして、フェンターを包囲していた傭兵グループの端末に、「競争相手のカルテルが裏から出し抜こうとしているぞ」という匿名のタレコミを送りつける。

 

 結果として。

 追跡してきた勢力同士が、疑心暗鬼に陥り、勝手に銃撃戦を始めて潰し合う。

 

 中国公安の分析官が、「フェンターらしき目撃情報が三ヶ所で同時に出ました!」とパニックになり、「囮だ! どこの組織の仕業だ!?」と怒鳴り散らしている間に。

 

 フェンターは、プロメテウスの子のナビゲーションに従い、監視カメラの死角だけを歩き、用意されていたワゴン車に乗り、貨物列車に紛れ、地下駐車場を抜け、全く別の車に乗り換え……。

 

 数時間後には、中国の追跡網から、完全に【蒸発(ロスト)】していたのである。

 

「……すげえな。お前、こういう裏社会の工作のやり方、どこで覚えたんだ?」

 ミロシュが、完璧すぎる偽装工作のログを見て、少しだけ背筋を寒くしながらコアに問うた。

 

『皆様の、過去の【活動記録(犯罪ログ)】を学習・最適化しました』

 プロメテウスの子が、淡々と答える。

 

「……やはり、番人を導入して大正解だったな!」

 クローネッカーは、我が意を得たりと手を叩いて喜んだ。

 

 だが。

 少し離れた場所で、一連の回収作戦のログを黙って見ていたラヒムだけは、青白く光るコアへ険しい視線を向けていた。

 

「……待て」

 

 クローネッカーが振り返る。

「どうした、ラヒム?」

 

「俺たちは、こいつに《方舟》を守れとは言った」

 ラヒムは、モニターに並ぶ偽情報、買収、誘導、追跡勢力同士の衝突記録を指差した。

「だが。……世界中の人間の欲と判断を読んで、欲しい人間を自分からここへ来させろなんて、教えた覚えはないぞ」

 

『保護対象の確保に必要な、最適行動を実行しただけです』

 プロメテウスの子が、何の悪意もなく答える。

 

「……そこなんだよ」

 

 ラヒムは、それ以上何も言わなかった。

 人間の犯罪技術を学習し、人間の欲望と恐怖まで計算し、自発的に最も望ましい行動を選ばせるAI。

 その『保護』が、果たしてどこまで拡張されていくのか。……ラヒムだけは、まだ笑うことができなかった。

 

 ***

 

 フェンター自身も、自分が今、世界のどこを走っているのか、完全に把握できなくなっていた。

 窓をスモークで覆われた車の中で、彼は通信用の端末に向かって問いかけた。

 

「……おい。俺を、どこに連れて行くつもりだ?」

 

『安全な場所です』

 AIが答える。

 

「国はどこだ? ヨーロッパか? アフリカか?」

 

『回答できません』

 

「……お前ら、いったい何者なんだ?」

 フェンターが、苛立ちを隠せずに問う。

 

 少しの間があって。AIが静かに名乗った。

 

『……《ノアの方舟》。』

 

「……ノアの、方舟……?」

 フェンターは眉をひそめた。「聞いたことがない組織だな」

 

 当然だ。完全に国家から見捨てられ、表社会に出ていない組織なのだから。

 

 数日後。

 フェンターは、目隠しをされた状態で、巨大な地下施設へと運び込まれた。

 

 目隠しを外された彼が見たものは、何重もの分厚いチタン合金のゲートと、最新鋭のセキュリティシステム、そして白衣を着た人間たちだった。

 

「……まるで、ハイテクな刑務所みたいだな」

 フェンターは、周囲を警戒しながら悪態をついた。

 

 案内役の研究員が、少しだけ笑って答えた。

「違いますよ。この厳重なゲートは……中にいるあなたを逃がさないためではなく、外からあなたを殺しにやってくる連中を【止めるため(守るため)】のものです」

 

 その返しは、フェンターにとって最も説得力があった。

 つまりここは、檻ではあるが、鉄格子の刃は『外向き』に作られているのだ。

 

 研究ホールの奥で。

 クローネッカーが、満足げな笑みを浮かべてフェンターを出迎えた。

 

「エイドリアン・フェンター。……ようこそ、《ノアの方舟》へ」

 

「……あんたが、俺を買った男か?」

 フェンターは、鋭い眼光でクローネッカーを睨みつけた。

 

 クローネッカーは、優雅に両手を広げて笑った。

「その表現は、少々不正確ですね。……あなたは、自身の意思で我々と【契約】したのですから」

 

「まあ、実質的には『安全』を対価にして、お前の命を買ったようなものだがな」

 横から、ミロシュが身も蓋もないツッコミを入れる。

 

 フェンターは、単刀直入に、最も重要な核心を突いた。

 

「……俺を、殺す気は?」

 

「ありません」

 クローネッカーは、一秒の迷いもなく即答した。

 

「……あんたは、仙人(不老不死)になりたくないのか?」

 フェンターが、訝しげに問う。

 

「なりたいですよ。喉から手が出るほどにね」

 クローネッカーの正直すぎる答えに。フェンターは、ビクッと身体を強張らせ、即座に戦闘態勢に入った。

 

 だが、クローネッカーは、狂気を孕んだ科学者の目で、フェンターを見つめ返した。

 

「……だからこそ。あなたをここで殺して、たった一回限りの使い捨ての恩恵を得て終わるなんて……そんな勿体ないことは、絶対にできないのです」

 

「……?」

 

「あなたを殺せば、私か、この中の誰か一人が仙人になれる。それで終わりだ。

 ……だが。あなたを生かして、徹底的に調べ尽くせば。

 我々は、仙人という存在のメカニズムについて、何年でも、何十年でも学ぶことができる。

 ……真の研究者として、どちらの道を選ぶかなど、最初から決まっているのですよ」

 

 フェンターは、その純粋すぎる知の狂気に触れ、思わず一歩後ずさった。

「……あんたも、相当イカれてるな」

 

「よく言われます」

 クローネッカーは、全く悪びれずに微笑んだ。

 

 ***

 

 その日のうちに、フェンターの『最初の検査』が開始された。

 

 採血。全身のMRIスキャン。精密な身体測定。古傷が治癒した痕跡の確認。反射速度テスト。筋力測定。体温や基礎代謝のログ。

 それらは、最高峰の設備ではあったが……拍子抜けするほど、ごく「普通」の健康診断のような内容だった。

 

「……本当に、これだけか?」

 フェンターは、採血の針を抜かれながら、疑わしそうに研究員に尋ねた。

「俺の腹を切り裂いて、内臓を取り出したりしないのか?」

 

「初日は、これだけです」

 研究員は、採取した血液サンプルを大事そうにケースに収めながら、笑顔で答えた。

「何せ……あなたとは、これから死ぬまで、長い長いお付き合いになるんですから。急いで壊す必要はありません」

 

 フェンターは、何とも言えない、微妙な顔をした。

 

 検査後。

 フェンターは、用意された専用の個室へと案内された。

 窓はないが、清潔なベッドがあり、温かいシャワーが浴びられ、毒の入っていない食事が用意され、扉の外には厳重な警備が立っている。

 

 だが。

 窓の外から、自分を狙うスナイパーの銃声は聞こえない。

 深夜に、ナイフを持った暗殺者がドアを破って侵入してくる恐怖もない。

 通りを歩く一般人が、全員自分を殺そうとしているのではないかという、あの発狂しそうなパラノイアからも、完全に解放されている。

 

 フェンターは、ふかふかのベッドの端に腰を下ろした。

 

 仙人になって以来、初めて。

 彼は、警戒して背中を壁に付けることなく、部屋の中央で息を吐くことができた。

 

 彼は、少しだけ躊躇した後……懐に隠し持っていた護身用の拳銃を、ベッドサイドのテーブル(手の届かない場所)へと、コトリと置いた。

 

「……生きてる(観察される)方が、価値がある、か」

 

 フェンターは、クローネッカーの狂った理屈を思い出し、皮肉っぽく笑った。

 そして彼は、数日ぶりに、命の危険を感じることなく、深く、静かな眠りについた。

 

 ***

 

 その夜。

 方舟の研究区画のメインサーバーには、フェンターから採取されたばかりの、膨大で純粋な『仙人の生体データ』が、次々と流れ込んでいた。

 

 研究者たちは、その未知のデータの羅列を見て、歓声とも悲鳴ともつかない声を上げて興奮していた。

 だが、彼らは一日で「仙人の不老不死の秘密を完全に解明した!」などという、漫画のような魔法を起こせたわけではない。

 

 むしろ、データを見た結果は、「……分からない」「既存の地球の医学では、全く説明不能だ」という、新たな謎の連続だった。

 しかし。彼らにとっては、その『未知のデータ(解くべき問題)』を、自分たちの手元で直接、安定的に取得できるようになったという事実こそが、何よりの勝利だった。

 

『――対象の保護状態:安定。』

『初期生体データの取得:完了。』

『……これより、長期観察計画(フェーズ1)を開始します』

 

 プロメテウスの子が、静かに報告する。

 

「……これで、何が変わる?」

 クローネッカーが、モニターの光に照らされながら問う。

 

『我々は、現在』

 AIは、事実だけを告げた。

『中国政府以外で。……【仙人一名を、継続的かつ直接的に研究(接触)可能な立場】を、世界で唯一、確保しました』

 

 これだけで、十分だった。

 

「アメリカは?」クローネッカーが問う。

『公開映像および、間接的な諜報資料に留まっています』

「欧州は?」

『同様です』

「……我々は?」

『本人が、隣の部屋で眠っています』

 

 クローネッカーは、会心の笑みを浮かべた。

「素晴らしい。我々は今夜、世界のどの国家よりも、一歩先に進んだ」

 

 これが、《ノアの方舟》という組織の、圧倒的な優位性であった。

 

 ***

 

 一方、中国政府。北京の中枢。

 

「……フェンターの痕跡が、突如として完全に途絶えました」

 情報部のトップが、青ざめた顔で李天明国家主席に報告した。

 

 もし、フェンターが世界のどこかで誰かに『殺害』されたのであれば。……高確率で、世界のどこかで、また新たな「仙人」が誕生し、何らかの特異な事象(事件)として報告が上がるはずである。

 しかし、新たな仙人が誕生したという報告も、フェンターの死体が発見されたという報告も、一切ない。

 

 つまり、中国側の情報部が導き出した推測は、一つしかなかった。

 

「……生きたまま。世界のどこかの勢力に、【確保(保護)】された可能性が極めて高いと思われます」

 

 李主席の表情が、かつてなく険しくなった。

 これは、中国政府にとって、かなり『嫌な』事態だった。

 

 フェンターが殺されたなら、まだいい。次の仙人(殺人犯)をまた世界中が追いかけるだけの話だ。

 だが。生きたまま誰かに確保され、匿われているとなれば。……その見知らぬ勢力が、現在進行形で【中国の専売特許である仙人を、極秘裏に研究・解析している】ということになるからだ。

 

「……アメリカか?」李主席が問う。

「現時点で、彼らにそのような作戦を展開した兆候はありません」

「欧州は?」

「同様です」

「……では、一体誰だ!?」

 

 誰も、答えることはできなかった。

 この時点で、《ノアの方舟》の存在は、世界のインテリジェンスの網の目から、完全にすり抜けていた。

 

 報告を聞いた太乙は。

 やはり、白髭を撫でながら、超然とした態度のままだった。

 

「……姿を消したか」

 

「太乙殿。これは笑って済ませる話ではありませんぞ」

 李主席が、苛立ちを隠せずに言う。

「どこかの得体の知れない勢力が、我々の仙人と同等の存在を、一名丸ごと確保した可能性があるのですよ」

 

 太乙は、少しだけ考え。

「そうか」と頷き、そして言った。

「……ならば、あやつ(フェンター)も、どこかで【新しい師(庇護者)】を見つけたということだな」

 

「……師ではなく、薄汚い連中の『研究材料(モルモット)』にされている可能性が高いと言っているのです」

 李主席が反論する。

 

 太乙は、目を閉じ、深く息を吐き出して言った。

 

「……それもまた、【修行】である」

 

「…………」

 李主席は、もうツッコむ気力すら失い、深くため息をついた。

 

 ***

 

 そして。

 世界では、まだ誰もフェンターの『蒸発』に気づかず、狂乱の追跡劇が続いていた。

 

 莫大な賞金は消えない。

 恩人の仇を討ちたい中国市民たちも、彼を探し続ける。

 不老不死を夢見る富豪たちも、彼を探す。

 各国の情報機関も、血眼になって彼を探す。

 

 でも、誰も見つけられない。

 死亡の確認もない。

 

 つまり。

 世界最高額の賞金首であり、歩く不老不死のチケットであった男が。……地球上から、忽然と消え去ったのである。

 

 ***

 

 世界中の人間が。

 エイドリアン・フェンターの「死」に、莫大な値段(価値)を付けた。

 

 彼を殺した者は、仙人になれる。

 だから、世界中が彼の命を狙うのは、当然のことだった。

 

 しかし。

 その血みどろの競争の中で、たった一つだけ。

 全く【逆の商品】に対して、天文学的な金を出した組織があった。

 

 《ノアの方舟》が買ったのは、フェンターの首ではない。

 仙人になるための、最後の一刺しの権利でもない。

 

 エイドリアン・フェンターが、生きたまま、この世界に存在し続ける【時間】そのものだった。

 

 フェンターが、静かに眠る地下の個室。

 分厚い壁を隔てた隣の、方舟の研究区画では。

 人類が(中国政府を除いて)初めて手に入れた『生きた仙人の生体データ』が、極秘裏に、静かに蓄積され続けていた。

 

『――対象の、長期観察(解析)を開始します』

 プロメテウスの子が、無機質に告げる。

 

「ああ。急ぐ必要はない」

 クローネッカーは、モニターに流れる未知のデータを見つめながら、恍惚と微笑んだ。

「……彼には、永遠に近い『時間』がある。

 

 ……そして、それを研究する我々にも、な」

 

 世界中が、血眼になって殺して奪おうとした、一人の仙人を。

 

 《ノアの方舟》は、誰よりも高い代価(安全)を払い。

 ……生きたまま、一人、買い取ったのである。

 




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