光輝の都の頂へ〜元社畜、欲望渦巻く魔都にて傭兵生活を始める   作:ズブ左衛門

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閑話 第四章

「ようこそいらっしゃいました、キトルス・タチバナ様。あなた様のような新たなお客様をお迎えすることができて、私ども『摩天楼』のキャスト及びスタッフ一同光栄に思っております」

 

「……それはどうも。支払いはこれでいいか? というよりクレジット枠なら七大ギガバンクのは全部使えると聞いているが」

 

 ネオンとホログラムによって例え新月でも曇天の夜であっても変わらず光り輝くアシハラの中心街、人類社会を名実ともに統べるメガコーポの支社ビル群のすぐ側に店を構えることを許された快楽の宮殿と呼ぶべき超高級娼館『摩天楼』。最上階にして限られたVIP会員以外はお目にかかることすらできぬ、六五階の大半を占める専用ロイヤルスイートルームへと直通する専用エレベーターの中で、タチバナは漠然と居心地の悪さを感じていた。

 婚約者である六花の裸体以外では一切興奮しないと今なお豪語する彼にとって、本来ならこのような施設など全くの無用であり立ち寄る必要などないのだが、今回ばかりはそうもいかない。なぜなら、今の彼の人生そのものである婚約者の復讐を大いに前進させる重要な情報が眠っていると判明したからだ。

 

「そ、それはテラン中立貯蓄信用組合のキャッシュカード……もちろん使用可能でございます!!」

 

「ならいい。三〇〇分コース、VIPパス専用のオプション付け放題プランで頼む」

 

「誠にありがとうございますタチバナ様、間もなく到着いたしますので今しばらくお待ちください」

 

 それ以外のことなど、無視してもいい些事でしかない。それでも後から支払いのことを云々と言われるのは色々と鬱陶しいと感じたタチバナは、七大ギガバンクの中でも最上級の信用度を誇る銀行のカード──正確には端末に表示された支払いコードだが──を提示して先に黙らせた。

 無論、これはタチバナ名義ではなく数ある偽名口座の一つでしかなく、表向きは非合法物資の調達に用いるペーパーカンパニーと取引があるという設定を持つ別のペーパーカンパニーの社用口座であり、事実上彼の個人資金である。

 とはいえ店舗側としてはきちんと代金が支払われるならば些細なことは気にしない。現代の特権階級が集うこの店でも、様々な『訳アリ』のお客様などさして珍しくなく、店に重大な損害をもたらさない限りそれらを詮索しないでおくのが不文律であるからだ。

 

「到着いたしました。最上の時間をごゆっくりお楽しみ下さいませ」

 

「おう、ありがとう」

 

 それから十秒と経たずにエレベーターは最上階へと到達し、扉が開けばまるで近世ヨーロッパの王宮を彷彿とさせる豪奢な空間が姿を現す。看板のキャストを指名して一晩利用するならば下層労働者の生涯年収数人分のクレジットが必要と言われるだけはあり、廊下の内装ですら一切の手抜かりはない。

 そうして手荷物を受け取ったタチバナはチップを案内役のスタッフへと渡す。もちろんクレジットではなく日本円であり、紙幣にせよ硬貨にせよ咄嗟の賄賂としてあらかじめ決められた額を充填する必要のある物理スティックよりも優秀なためだ。

 手の中に押し込まれた一〇円紙幣──クレジットに換算するとだいたい四万ほどだ──にスタッフは驚きつつも、普段はしない最敬礼で部屋へと入るタチバナを見送っている。彼らにとって上客とはより沢山の金を落とす客とチップの気前がいい客であり、この街の裏側を騒がせる傭兵はその両方を満たしていた。

 

「キトルス・タチバナだ」

 

『タチバナ様、お待ちしておりました。どうぞお入り下さいな』

 

 ノックをして、ドアの向こうから招かれてからドアを開く。その先には在りし日に権勢を振るった王侯貴族たちの居室と言われたら誰もが信じてしまうような作りの部屋、というよりそこ自体が一棟の屋敷であるかのような空間が広がっており、初めて見た者を圧倒する光景となっている。本来ならばそれが非日常感を高め、これからの出来事に対する期待に胸を膨らませるのだろう。

 しかしタチバナにとっては、自分の実家の客間と比べても遜色ないだろうなどという感想しか抱くことはない。『あの日』の前はそれがほぼ日常であり、この特段物珍しさも特別感も覚えることはなかった。

 それよりも彼が気にしていたのは、ドアから二メートルほど離れた位置で自らに丁寧な一礼をした若い女性である。この女こそが自分をこんな場所に呼びつけた張本人であり、これから何を言うのか分からないという点では確定的な敵よりも警戒すべき相手であった。

 

「初めましてタチバナ様、わたくし『アイ』と申します。さあ、お掛けになって」

 

 仮に普通の男ならば、一目見た瞬間に扇情的な色使いと布面積のネグリジェのみに覆われた蠱惑的なボディラインと人好きのする可愛らしい顔に目が行き、あっという間に心を奪われ虜になってしまうのだが、タチバナは違う。亡き婚約者こそ世界で一番の美女だと今なお確信し公言して憚らない男からすれば、目の前の女性は確かに綺麗で性的魅力があるのは間違いないのだろうが、そんなに凝視するほどでもないという評価に行き着いた。

 

「まあ、こんなに暑いのに真っ黒な外套……」

 

「性分なんだ。それに言うほど暑くはない」

 

 弱冠二〇歳で女性キャストのナンバー二までのし上がった絶世の美女と聞いていたが、存外大したことないな。そんな割と失礼なことを考えながらも、外套を脱ぐと彼女の案内に従って広いリビングの片隅にある小さめのテーブルセットへと腰掛けた。

 当然ながら単なるテーブルとログチェアではなく一セットで数千万クレジットほどする超高級品であり、アイが流れるような所作で淹れる紅茶は現代で『お茶の王様』とまで言われる最高級のセイロンティー。古式ゆかしい英国式のカップ一杯で何と一万クレジット近い。主流ではないが、風情のある角砂糖と一九世紀の英国で作られたソーサーから注がれるミルクも加えればもう一千クレジットほど上乗せされる。

 だがその程度ここを訪れ一夜の楽しみを買う者たちからすれば、懐から落としたとしても意に介さぬはした金でしかない。

 

「ささ、お茶をどうぞ」

 

「……本物のセイロンティーか。いつ飲んでも変わらん味だ」

 

「あら、お口に合いませんでしたか?」

 

「いや、紅茶自体は嫌いじゃない……」

 

 この『摩天楼』はアシハラの内外にゴマンとある売春宿とは違い、ただ単に性的快楽を得るためのものではない。キャストは皆コンパニオンとしての教育をも受けており、主な客層たる支配者や有閑な富豪たちの振る話題についていけるだけの教養を有しているため、夜会のように『健全な』社交を楽しむことだってできる。

 言ってしまえばこの店に所属するキャスト全員が江戸時代における花魁や上位の太夫のようなもので、ただ獣のように体を重ねるだけが楽しみではない。それ故に気の緩んだゲストがついうっかりと漏らしてしまった極秘情報が少なからず集まっているため、彼は復讐に繋がる重要な手がかりを求めてこのようないかがわしい場所にまで足を運んでいるのだ。

 

「メッセージによれば、仕事と引き換えにその情報を渡してくれるとな……さあ、俺は何をすればいい? 気に食わん客もしくはライバル候補の暗殺か誘拐、密輸もしくは阻止、競合店への破壊工作でもいい。内容によっては追加で対価が必要になるかもしれんが、適切な準備時間さえ貰えれば大体何だってやってのけるぞ」

 

「ふふ、頼もしいお言葉。例え相手が魑魅魍魎であっても、容易く斬り捨ててしまいそうですわね」

 

「いかな化け物だろうと、血なりオイルなりが出りゃ殺せる。それだけだ」

 

 あまり悠長なことをしてられないタチバナは前振りなど挟まずに本題へと入り、暗にさっさと決めてくれと言わんばかりの態度で尋ねた。その様は表面的に見れば世間一般が想像する典型的な傭兵であり粗野な仕草なのだが、アイとてこの若さで多くの客を取り苛烈な競争社会を成り上がってきた色街ニューヨシハラの新たなトップスターである。見せられた野蛮さが意図的かつ見せかけのものであることを瞬時に見抜いており、同時に前者が粋がりではなく単なる想定を羅列しただけなのだとも理解していた。

 とはいえ彼女も眼前の男に驚いていた。指先一つで数十兆クレジットと十万の軍隊を自由に操れると豪語するメガコーポの重役も、小惑星資源採掘の先駆者として一財を成した新興財閥の総帥も、その類稀なる頭脳でダース単位の特許を取得し科学の進歩を十年は早めた若き天才博士でさえも、彼女の前では盛りのついた一匹の雄に成り果てる。

 始めは偉そうに高説を垂れたり真面目くさっていた男も次第に半ば露出した胸元や下腹部へと目をやり、彼女を押し倒し、獣欲の赴くままに隅々まで貪り堪能する。そうして自らの体を売って目も眩むような大金を一夜にして稼ぎ出すのが今の仕事であり、密かな楽しみでもあった。

 普段は偉そうにしていたり賢しらに振る舞っている人間が、いざ自分に覆いかぶさるとだらしない表情で腰を振る様は中々に滑稽なもので、彼らも同じ欲に塗れた人間であるのだと分かるのは暗い喜びを彼女に与えている。

 

「……それで、依頼の内容は?」

 

「おや、当代最強と名高い傭兵であっても存外せっかちなのですね……そんなに急かずとも、わたくしも依頼も逃げませんのよ? もっとのんびりなさればいいのに」

 

「単刀直入と言ってくれ。仕事関連で回りくどいのと後回しが好きじゃないだけだ」

 

 だが目の前に座る傭兵の目線は彼女の目から全く動かない。まるで性的欲求が元から全く存在しないかのような挙動のため、タチバナはどこかの企業が極秘で製造した全身義体の戦闘用サイボーグだという噂を思い出したが、さりげなく密着させた胴体からは確かに心臓の鼓動や脈、生物としての体温が感じられたので、それが根も葉もない嘘であることを察している。

 とはいえこれ以上の露骨な誘惑は逆に相手を不快にしかねないと判断したアイは、色仕掛けを一旦諦めて本題を切り出した。

 

「では、わたくしの依頼は……『口裂け女』の討伐。アシハラの路地裏に時おり現れては何事かを問いかけ、その後に犠牲者を切り刻む恐ろしい怪物を討ち果たして頂きたいのです」

 

「ほう、口裂け女……え、はぁ? すまない、聴覚オーグメンターの異常かもしれん。五秒後にもう一度言ってくれ」

 

 しかし余りにも予想外過ぎるアイの言葉に、タチバナは数秒ほど硬直した。正確に言えば、内耳と外耳に接続された聴覚強化機器に何かエラーがないか確かめ、念のため一度簡易リブートをかけた上でもう一度問いかけたのだ。

 

「そうなのです。アシハラのとある裏路地に時おり化け物が出ると妹から聞きまして、面白半分にカメラの映像を入手したところ実在していてとても驚きました……タチバナ様は口裂け女という伝承をご存知でしょうか?」

 

 しかし現実は非情である。出来れば聞き間違いであってほしいと思っていた単語は実際に発せられており、彼を大いに困惑させたのだ。

 

「……ああ、旧世紀後半に流行ったというくだらん都市伝説(フォークロア)の類だったか。そんな実在しないものを倒せと言われても……正直困る。どうしてもと言うならソイツが描かれた屏風なり絵画でも用意して、そこから誘き出してくれるだろうか? 伝承が正しかろうと俺なら素手でもひねり潰せるしな」

 

 口裂け女の討伐。それが彼女の依頼であると確定した瞬間、タチバナは珍しく露骨に顔をしかめた。いかに対価さえ払えば何でも請け負うとは言えど、そんな実在しない怪異の討伐という心底馬鹿馬鹿しいことに時間を費やす気はないし、第一そんな噂になりやすいセンセーショナルな話題があるのならば、ある程度は自分の耳にも入っているはずだと判断している。

 まともな仕事かと思っていたのに、つまらない馬鹿話によって貴重な時間を浪費させられたと感じたためか少し語気を強め一休宗純のとんちを交えた皮肉で返すが、アイの表情は至って真剣だ。

 

「……では、こちらの映像をご覧いただけますか」

 

 それどころかベッド脇に置かれている彼女自身の端末を持ってくるなり、タチバナに密着して映像を再生し始めている。媚びていないのに甘くとろける声、鼻腔を心地よくくすぐる香り、そしてさりげなく押し付けられるハリと柔らかさを兼ね備えた豊かな双丘。大半の男の理性を砕き、発情した獣へ変えるにはどれか一つだけでも充分な要素なのだが、当代最強とまで言われる傭兵には全くと言っていいほど効果がない。

 

「……ほう、昔懐かしの恐怖映像ってか。確かにクソ暑いアシハラの夏にはぴったりだな、中心街のホロモニターをジャックして流してやれば一度か二度くらい冷えるかもしれん」

 

「そ、そんなことをしては何人もの方がびっくりして冷たくなってしまいますわよ……」

 

 あくまで懐疑的な態度を崩さないタチバナであったが、見せられた三本の映像に映っていたのはまさしく『口裂け女』と言うべき存在であった。どこで手に入れたのか不明な監視カメラであるため音声こそ入っていないのだが、遭遇した不幸な犠牲者に問いかけ、正体を現し、悲鳴を上げて逃げ惑う対象を捕らえて刃物でズタズタに切り裂いてしまう様はまさしく伝承の通りだ。

 

「……うわ、うーわ、マジでいるのかよ。都市伝説を模倣した愉快犯にしても滅茶苦茶凝ってるな……」

 

 しかしそれよりも気になったのが、犠牲者を追い詰める際の異様な脚力と俊敏さである。映像にはまるで瞬間移動したかのような、そんな光景も彼には見覚えがあった、というよりよく知っていた。

 

「それに、ニューロンブースター持ちだなこれ……だとするとちょっと面倒だ。そんな適性持ちが快楽殺人をして回ってるなんて世も末だ」

 

 そう、ニューロンブースター。彼は最新の軍用モデルを光学神経系及び電脳部分とリンクした上で更にチューニングしてあるため従来型とは一線を画した性能をしているが、基本動作はどんなモデルでも変わらない。効果時間は実時間換算で数秒だが最低でも常人の十数倍という速さで動き回ることができ、圧倒的なアドバンテージを手に入れられる。

 

「わたくしとて自分の話だけで信じてもらえるなどとは思っていません。だからこうやって証拠映像を用意しましたの」

 

「……いずれも合成画像の可能性はかなり低い。信憑性としては最低ラインを超えて及第点に近いな」

 

 一応AIによる合成画像の可能性を疑ってはみたが、どんなに高性能な隠しきれない物体間の再現精度のばらつきや不自然な描写は存在せず、何より売れっ子の高級娼婦である彼女がわざわざ一人の傭兵をからかうためだけにとも考えにくかった。

 万一そうであった場合でも、報酬である重要な情報さえ手に入るのならばそれでいい。それすらも渡さないというのであれば相応の報いを与えるつもりだが、色街の過酷な人間関係を生き抜きのし上がってきたであろう彼女が何の因縁もない客候補を理由なく愚弄するほどの考え無しではないとは思っている。

 

「……了解した、依頼を受けよう。俺はこの世を魑魅魍魎が跋扈する魔界と勘違いした愚か者を討ち取る」

 

「そしてその対価に、わたくしはあなた様が求める情報をお渡しする。これでよろしいでしょうか?」

 

「ああ、問題ない」

 

 嘘と誇張に塗れた都市伝説から飛び出してきたような存在の討伐という、一見するとホラー映画の導入じみた奇妙で危険な依頼であり、本来なら敬遠すべき類のものだ。しかし高い技量を持ち数多の経験を積んだ傭兵であるタチバナは、都市伝説の言い伝えと見せられた証拠映像から敵の戦術を大体掴んでいる。

 

「標的に恐怖を与えるために『口裂け女』の習性を模倣してるのだろうが、おおかた何を言っても襲いかかる事は確定していて、その際には高確率でニューロンブースターを用いている。武装は確認できる限りだと出刃包丁で、貫通能力はさして高くなさそうだ」

 

 そう、敵はニューロンブースターを使って無作為に単身の通行人を殺害する異常者であり、無抵抗の被害者を一方的に攻撃するだけなのでさして戦闘力は高くないと踏んでいた。あの機器は適性さえあれば極めて簡便に戦闘能力の大幅な向上を実現する夢のようなガジェットだが、欠点として攻撃パターンが単調になりがちになるというものがある。

 すなわち、神経加速による超高速近接戦闘に依存してしまい、それ以外の戦術を学び技量を磨く機会を著しく損なってしまう。貴重な適性持ちの傭兵が力に溺れて道を誤ったり、志半ばで冷たい骸となって路地裏に転がる何度も見てきたのだ。

 

「では、契約成立ですわね。連絡先をお渡しいたしますので、いつでも連絡をくださいな」

 

「任せておけ。相手が愉快犯だろうと化け物だろうと叩き潰す、吉報を待っているといい」

 

 その後は三〇〇分などという長時間コースを選択したことを心底後悔しつつも他愛ない雑談で何とか時間を凌ぎ、依頼状況の確認や情報交換のためにメッセージアプリのアドレスを交換している。

 そうして一階まで一緒に降りてきたアイに見送られて『摩天楼』を出るころには日付が変わっており、歩行者の往来こそ昼間の一割ほどになっているが、中心街の幹線道路は相も変わらず大小様々な自動車でごった返していて、あちらこちらからに展開されたホログラム広告からは真夜中だと言うのに企業の新製品の宣伝が大音量で流れている。

 人類社会の栄華を体現していながらも品性や風情といったものが微塵も感じられない光景であり、現代の貴族を気取る高慢ちきな大富豪や旧世紀から生き残っている由緒ある名家の者の多くはこの街や他の自由都市を低俗で猥雑な場所として嫌い、本当に必要がない限り中々近寄らない。

 だがタチバナはそんな混沌とした夜景を嫌いになることはなかった。それは人間という生き物を表した風景であり、良いところも悪いところも全て内包した上で日々変わりながら動き続ける様は、虚飾に塗れ半ば停滞した上流社会よりよっぽど人間味があって好感が持てるからだ。

 

「人の命と夢を食らって動く化け物みたいな街にも、ついに本物の化け物がデビューしたか……犯人が何をしたいのかまでは知らんし興味ないが、俺の復讐のためにさっさとくたばってもらう。恨むなら出没したタイミングの悪さを恨むことだ」

 

 そんな街に、旧世紀の馬鹿馬鹿しい噂の世界から飛び出してきたような存在が潜んでいる。彼女の前ではくだらないと言い切ったが、人を人とも思わぬ化け物(メガコーポ)どもが幾つも棲み着いている街には中々お似合いだと内心で思っていた。

 とはいえ仕事は仕事であるため、さっさと討ち取って情報を得たいのが彼の本音である。前座も前座など素早く終わらせて残る三人を徹底的に追い詰め、恐怖と絶望の末に待つ苦痛に満ちた死を与えるべく、彼は夜空を彩る星々を打ち消すほどに光り輝く中心街からどこか暗がりへと姿を消していった。

 

 

 そうして翌日の日暮れ時、しっかりと準備を整えたタチバナは出没地点に面する低層雑居ビルの一室を不法占拠して仮設キャンプを築き、件の監視映像が撮影された時間帯とその前後にサラリーマンや下層労働者、時に浮浪者に扮して往来することを数日間続けていたが、数日が経っても一向に『口裂け女』は現れない。

 現場は昼間でも薄暗く少しでも日が傾けばたちまち暗闇に閉ざされる裏路地であり、夜ともなれば中々雰囲気のある場所であったが、日中はそこそこ人や車の往来があるためさして不気味な場所とも言えなかった。

 

「……もしかして、殺気を悟られてるのか? だとしたらかなり長期戦になりそうな予感がする」

 

 血に飢えた狂人というのは常人にはない直感を持つ者も少なくなく、生命固有の危険感知センサーが反応して身を潜めている可能性を察して彼は苦い顔をする。無力な一般人ばかり狙い、勝ち目のない敵を察知したら身を隠してやり過ごす。そんな山賊じみた敵の動きは腹立たしいが極めて合理的であり、彼を少なからず苛立たせた。

 これは不倶戴天の仇敵に対する復讐、その前座も前座であり、そこで躓いている現状は彼にとって不本意でしかない。しかし敵が姿を現さないことにはどうにもならない上に、手がかりが襲撃時の映像しかないとなればこちらから隠れ家を特定して急襲することも不可能である。

 

「やりにくい相手だ……自分の力をこれ見よがしに振るうバカなら速攻で始末してやれるのに」

 

 つまり彼が一番苦手とするひたすら待ちの持久戦を強要される上に、成果と呼べるものはなく無為に日時だけが過ぎていく。ここ数ヶ月は恐ろしくスムーズに進んでいるだけで、血の復讐も成果がない時の方がずっと長かったのだと自らに言い聞かせて平静を保っていた。

 それでも企業の最精鋭たる特殊工作部隊やギャングのエリート戦闘団ならともかく、たかが狂った殺人鬼一人に足止めされている事実は

 

 そうして何のアクションもないままアイとの邂逅から九日が経った日の夕方。世間はお盆となり徐々に日の入り時間が早くなりつつあることを実感する日の夜に、もはやルーチンワークとして変装し他に誰もいない道を歩く。この日はメガコーポの末端下請け工場で働く夢も希望もない下層労働者に扮しており、珍しく残業がなかったため心なしかウキウキしながら家路を急いでいるという設定だ。

 

「……さっさと来い化け物、今日も来なかったら生活用品を買い足しに出なきゃならないんだからな」

 

 そんな彼の自分本位な悪態に反応したのかは定かではないが、ふと嫌な予感がしたと思うと日本本土と同じく高温多湿のベタつきがちな空気に、血液の鉄臭さとそれを打ち消さんばかりに撒かれた複数のきつい香水の混じった臭いが混じり、背後に不穏な気配を持つ何かが姿を現した。

 本来のタチバナならばそこですぐさま避けるなり迎撃なりができるのだが、わざわざ向こうから出向いてきたチャンスを逃さないためわざと敵の土俵に乗ってやり、恐る恐るといった体で足を止めた。十中八九お目当ての存在とは言え、一般人を斬り捨ててしまっては後味が悪いからだ。

 故にまだ一般人のふりをして、伝承の通りに放たれるであろう言葉を待つ。そして予想通りの言葉が聞こえた瞬間、さもびっくりした体を装いながら振り返った。

 

「ねえ、ワタシ……きれい?」

 

 そこにいたのは、綺麗や美しいといった言葉からは真反対の位置にいる女であった。血と何かでギトギトになったフード付きパーカー、目元から下を覆う膿と血に塗れたマスク、肘から先が不気味に隠された右腕、そして救いようのない狂気に満たされ血走った双眸。

 爛々と輝いて見えるそれに理性の光は感じられず、何とか聞こえるようなかすれた小声で彼に言い伝え通りの問いかけを行なっている。それは伝承に照らし合わせてみても、間違いなくターゲットの『口裂け女』であった。

 

「ねえ、きれい……でしょ?」

 

 だから、タチバナは小物相手に九日間も待たされた腹いせも兼ねて思い切り挑発してやることにした。綺麗と言っても醜いと言ってもどの道襲いかかってくるのであれば、相手を怒らせて冷静さを失わせ、取れる戦術を限定させてやることはかなり有効であるし、失敗したところでダメ元の作戦なので元の通りに対処すればいいからだ。

 

「ぺっ、寝言は寝てから言えやクソブス。さっさと失せろ」

 

 なるべく声色に侮蔑と嘲笑の色を込め、不気味な笑みを浮かべる女へと悪罵の声を飛ばす。いかな標的とは言え人の容姿を露骨に貶めたり冷やかすのはあまり好きではない行為だが、それでも仕事は仕事であり成功率を高めるための努力は惜しまないし、たかが数人殺した程度小物如きが自分を散々待たせた事に対する恨みもあったのだ。

 

「……!」

 

 次の瞬間、一瞬だけ硬直した後に凄まじい殺気が路地裏に満ちた。張り付けた仮面のような笑みと同時に不潔なマスクが剥がれ、顎まで裂けた口が露となるばかりか右手に隠し持っていた刃渡り三〇センチ以上の返り血で汚れた出刃包丁が微かな明かりを反射して鈍く輝いている。

 顔には自らの顔を痛罵されたことはもちろん様々なことに対する怒りに満ちており、まずは小癪な目の前の男をズタズタに引き裂いてやろうとおぞましい唸り声を上げつついつも通りニューロンブースターを起動している。

 

「おおぉぉぉぉ……!!」

 

 もちろんタチバナはそんな悍ましい姿を見たところで一切恐れていないし慌ててもいない。ただ冷静にニューロンブースターを起動し、加速した敵に強烈なカウンターを見舞うべく自らも超高速の世界に飛び込んだ。

 

「意外ともっさりなのな……となるとそこそこ古いモデルを使っているのか」

 

 そこで目撃したのは自らの半分にも満たない速度で動く敵の姿。それはさながらスロー再生の映像であり、彼から見れば何ら脅威を感じない。ただ猛烈な速さに身を任せて一直線にやってくるだけの楽な相手でしかなかった。

 

「まあ楽なら楽でいい。拍子抜けだが手間が省けるのはいいことだ」

 

 性能差もあって完全に動きを見切れるタチバナは強化プラスチール製の長剣を抜き放ち、口裂け女による出刃包丁の一撃を余裕をもってかわすと背後に回り込んで思い切り首を斬り落とした。皮膚、血管、筋肉、骨、そしてインプラント。現代文明の粋を集めて鍛え上げられた刃はそれら全てを障子紙のように断ち切っていき、頭部を胴体から完全に切り離したのだ。

 そして念のために心臓のある部位に長剣を突き刺して、きっちりと破壊しておく。過去の仕事では脳を破壊した程度では死なない存在には何度か遭遇しており、その場合でも生命の源である心臓やそれに類する器官を破壊するか機能不全にしておけば仕留められた経験があるからだ。

 

「『幽霊の 正体見たり 枯尾花』……大仰なマネをしていたにしては、最期があっけないものだな」

 

 当然ながら口裂け女は人智を超えた超自然の化け物ではなく心身が壊れた人間の成れの果てであるため、首を切り落とされた上に心臓を破壊までされては生きていることはできない。

 双方の加速が終わり視界が元の色彩に戻ると、生首が路上に転がり大量の血がアスファルトを赤黒く汚す。残された胴体は制御を失って首と胸部から鮮血を噴き出しながら血の海へと沈み、そのままピクリとも動かなくなった。

 前例があるため誰もいない路地でしばらく何かアクションを起こしてこないか警戒していたタチバナだが、何分経っても切り口から再生することはなかったため更なる情報を得るべく近付いていく。もちろん一定の警戒はしながらだが、それでも警戒の度合いは下がっていた。

 

「ははぁ、なるほど……そういうことか」

 

 そうして数分かけて死体を詳しく調べてみると、意外な事実が判明している。その正体は数年前に解体されたとある企業のニューロンブースターを用いた超高速強襲部隊の元隊員であり、副作用で人格が崩壊し正気を失ったままアシハラを放浪していた末にこのような凶行に及んだのだろうと推測していた。

 部隊については彼も噂や断片的な情報程度でしか知らなかったが、前線指揮官から末端の一兵卒まで全員が超高速戦闘可能なことを売りにしていたにも関わらず、実際は非適合者にまで無理やり装着して戦わせていたことで次々に隊員が廃人化もしくは精神異常を発症して戦力価値を喪失。僅か一年と少しで部隊は解散し、戦力価値を有していた者は別の部隊へと移籍したがそうでない者は僅かな慰労金兼退職金と共に放り出されたのだという。

 

「……こんな悲劇は企業(コーポ)勤めの常とは言え、実に哀れなことだ。せめて根堅洲国にて安息があらんことを」

 

 今し方引導を渡した怪異じみた人間は、悲運にも適合しない機器によって精神を破壊されて苦しみ抜き、それでもなお己の存在証明を求めた末に旧世紀の都市伝説へ自らを擬え化け物となっている。そして自分の身に何が起きたのかすら理解できないままに首と胴体が泣き別れ、タチバナの呟いた先人の俳句を餞としてその命を散らしたことで、ようやく現世という彼女にとっての地獄から解放されたのだ。

 

「それで、写真をしっかり撮影して……と。結構グロテスクなのに欲しがるのか。客を取ってない時間はよっぽど暇なんだろうな、話した限りだと外出とかも結構厳格な許可制みたいだし……こんな妙ちきりんな話題に食いつくのも納得だ」

 

 

 

 そうして口裂け女の死体をしっかりと写真に収めたタチバナは依頼完了の報告と報酬の受け渡しを行うべく再びアイに接触を図ろうとしたのだが、彼にしては珍しく大切なことを失念していた。それは彼女が『摩天楼』の最上級に位置する大人気のキャストであり、ナンバー一にこそ及ばないもののほぼ毎晩太客の指名が入ることだ。

 予約のアポイントメントを取った際にようやく気付いた彼は慌てて予約を取ろうとするも、最速でも次回の指名可能日は一三日後と言われた時には天を仰ぎたくなる気分であった。

 その上追い討ちと言わんばかりにそれまでの退屈しのぎに他のキャストを指名してみてはと提案されたり、期待の新人から定番のベテランまでまとめた支配人お薦めのキャスト──何故か男性が二人も混じっていたため本気で腰を抜かすハメになった。彼は混じり気のない異性愛者(ヘテロセクシャル)なのだ──一覧を渡されたりと、これまた珍しくタジタジになってしまっている。

 店側としてはいきなり店の誇るナンバー二を指名して大量のオプションをつけた彼は新たな太客候補なので、大して金のかからない範囲で色々サービスをしてみただけなのだが、皮肉にもそれが今まで立ち向かった大抵の攻撃よりも彼を狼狽えさせていた。

 

「クソ、色街の常識を失念してた。ったく、人を何だと思ってやが……おや? 支配人からだ」

 

 しかし口裂け女を討伐した日から三日後に支配人よりメッセージが入り、事態が一変したことを知らせていた。曰く、ちょっとしたアクシデントが起こってしまい、彼女が客前に出られる状態ではなくなってしまったという。

 故に本来の客には全額返金と次回指名の優先権を確約して一旦引き下がってもらい、熱心に指名しようとしていた彼にオファーをしたというわけだ。ただし指名時間は一八〇分までかつプレイ内容にも大幅な制限がなされ、それでいて通常と同一の料金がかかるという。

 当然ながらタチバナの目的は全く違うことにあるため、それを快諾して予約を取っている。何せ依頼の達成報告を行い報酬を受け取るためなのだから、そんな制約などあってないようなものだからだ。

 

 

「お待ちしておりましたわ、タチバナ様……あら、わたくしに何かついていますか?」

 

「……その傷は」

 

 そうして再び訪れた『摩天楼』の最上階にて彼はアイと再会したのだが、その様は二週間近く前に見た美貌こそ変わらないが痛々しい姿になっていた。左の頬には大きな青痣があり、よく見れば胴体だけではなく腕や脚にも幾つもの痣や傷がついており、左脚に至っては少し血の滲んだ包帯が巻かれている。

 その様はアシハラにおいて治安や収入が平均未満の地区では決して珍しくない姿なのだが、警察署の地下にある遺体安置所で婚約者との無言の再会をした人生最悪の瞬間を想起させ、心の奥底で煮えたぎる憤怒と憎悪が噴出しそうになっていた。

 

「その、昨晩少し……激しい方と一夜を……共に……」

 

「俺には暴行を受けたようにしか見えないがな」

 

 人目に憚られる性癖を有している者は少なくない。特に途方もない財貨と多少の無法を押し通せる特権を併せ持つ者はそれがより顕著になる傾向があり、きっと彼女はそういった輩によって理不尽にも度を超えた形で傷付けられたのだろうと推測していた。

 当然ながら、支配者階級の中ではそれがさして悪いことだと思っていない。彼らからすれば自立して喋る人形を扱っているような認識であり、いかな一晩楽しむのに数百万クレジットを要する娼婦といえど同じ人間として見ていないのだ。流石に故意で死なせてしまったら話は別だが、そうでもない限り誰も気にすることはない。

 

「……はい、ことの最中に何度も何度もわたくしを打擲したのです。『フランクに抱かれないよう今ここでキズモノにしてやる』とおっしゃいながら……!」

 

「嘘だろ、いくら何でも酷すぎる……上流階級ってこんな頭おかしいのが野放しになってるんだから本当にタチ悪いんだよな」

 

 生家の縁戚にも酒に酔った勢いでやれ娼婦を本気で命乞いさせただの、些細な失敗をしただけの召使いを足腰立たなくなるまで折檻しただの、本来ならその場で斬り捨ててしまいたいほどの醜態を大音声でさも武勇伝であるかのごとく喧伝し、家名を汚す不届き者が複数いたことを思い出している。

 そんな個人的な恨みを抜きにしても、彼としてはそんな理不尽が許せなかった。婚約者を似たような形で失った身としては、彼女の身に降りかかった災いは看過できるものではない。

 

「いかがなさいましたかタチバナ様、とても怖いお顔をされていますわ……」

 

「……もし下手人に心底くたばってほしいと願うのであれば、遠慮なく連絡しろ。五パーセントくらいなら依頼料を割り引いてやる」

 

 本来ならばタチバナとアイの関係など所詮は依頼者と傭兵の関係性でしかない上に、それすらもうじき終わってしまいそうな程に薄い。あくまで一件の仕事を請け負ったに過ぎず、それが成されたことでこれ以上関係を深める必要性など皆無であった。

 それでも彼が思わずそう口にしてしまうほどに様態は酷く、店舗側も罰則金の一〇倍にもなる大金を即決で支払ったことを口実に事実上のお咎めなしというのは許し難かった。

 

「……そんなことを気にして頂いたのは……初めてです。どうしてたかが一介の商売女にそこまで優しくしていただけるのでしょうか?」

 

「俺は昔からそういう分別のない奴と理不尽なことが死ぬほど嫌いなだけだ……おっと、話が逸れ過ぎた。本題に戻ろうか」

 

 少しヒートアップしてしまったものの、今回の来訪の目的を思い出したタチバナは微妙になってしまった空気を変えるべく本題の話題を出している。とはいえ口裂け女の討伐報告は事前に知らせておいたこともあってものの三〇秒で終わり、報酬たる復讐対象の機密情報の受け取りもそれより少し長めの時間で済ませている。

 

「はい、確かにお渡しいたしましたわ。タチバナ様のお役に立てて嬉しいです」

 

「こちらこそ極めて有意義な取引になった。感謝する……では、俺はこの辺りでお暇させてもらおう」

 

「えっ」

 

 これでやるべきことは終わったし、さっさと帰らせてもらおう。まだ二時間近く時間は残っているが、何かこれ以上することはないなら余り長々と居座っても怪我をしている彼女に悪いだろう。そう考えて簡潔に別れの挨拶をして部屋から出ようとしたタチバナであったが、不意にアイが彼へと駆け寄って後ろからぎゅっと抱きしめる。

 豊満と名高い肉体を用いて帰ろうとする客を引き留めるという他の客には別途料金なしにはしない行為を突然実行した裏には、自らが本来の目的で使われないことに対する不満と興味、そしてささやかな感謝が混じっていた。

 

「……客が早く帰るのは嬉しくないのか?」

 

「……そういうタチバナ様は、わたくしを抱いて頂けませんの? 手前味噌ではありますが、体の方もそういった技術にも自信がありまして……一度きっとご満足いただけるはずですわ」

 

 自らになびくことなく、ただ己を貫き通すタチバナという男。それは彼女のプライドと好奇心をいたく刺激していた。彼と出会うまでは、男なんて勝手に惚れて欲情してくるものだと半ば思い込んでおり、今回もそうなるだろうと楽観視していた。しかし彼にはいかなる誘惑も効果をなさず、その全てが軽くあしらわれたという事実に少なからぬ衝撃を受けている。

 しかしそれ以上に彼に対する強い関心を与え、このとてつもない朴念仁もしくは唐変木を何とか籠絡してやりたいと思うようになり、また最上位に近いとはいえ一介の傭兵がそこまで強固な意思を持つに至った理由や背景を知りたいとも感じていた。

 強さと勝利を至上とする実利主義的な傭兵でありながら、所々に感じる育ちの良さと不可解な優しさを持つ。そんなどこか矛盾した特徴を持つ存在の正体を知りたい。そんな思いが彼女に本来ありえない突発的な行動を取らせている。

 

「……こう言っちゃ何だが、実のところ重サイバネ化と度重なる遺伝子改良の副作用で生殖機能関連が軒並みイカれてるんだ。それにいつ死ぬか分からん奴の心配なんてしなくていい、貴方が望むような太客には多分なれないからな」

 

 そんなアイの関心を引いてしまったことに気付いていないタチバナは、しつこい誘惑を彼女を明確に拒絶するべく直接的な嘘をついた。あくまでこんな場所に来たのは復讐相手の情報を入手するためであって、それですら六花に対する不義理だと思っている節がある。

 ましてや彼女と関係を持ってしまうなんて許されざる行いだ。例え恋愛関係でなかったとしても、ビジネスとして必要であったとしても、それは死別した最愛の人とのへの裏切りになる。そう思い込んでいる彼にとって今回の出来事は確かに有益だが危険な接触でもあり、出来ることなら早く終わらせたかった。

 しかしアイは容易く引き下がらない。こんな興味深い人を逃してしまえばもう会えないことをすぐ理解しており、また会うと言わせたかった。それ故に多少の危険を冒してでも彼の気を惹こうとしたのだ。

 

 

「ならば……今回のようにタチバナ様の求める情報をわたくしが差し上げられるなら、またお越しいただけるのですね?」

 

「んんん、まあ……その、理論的にはそうなるが、単なる噂話ではなく今回のような精度と確度が必要になる。そんなものをこちらの求めに応じてホイホイと用意してくれるなら、というただし書きがつくがな」

 

 絞り出すような言葉に思わず頷いてしまったタチバナだが、大して気にしていない。復讐対象の情報というのは、街の精通した複数の信頼できる情報屋から少なくない対価と時間を費やして得ているものであり、それですら時おり古い情報や偽装が混じっている。その中から本物を見分け、複数を多角的に組み立てていくことによって、致死率一〇〇パーセントの罠へと追い立てていくのだ。

 そんな貴重で厳重に隠されたものを、諜報戦ではズブの素人であるアイが持ってこれるものか。確かに睦事の最中や事後にうっかり漏らす情報の量こそ多そうだが、その中で必要なものが都合よく転がっていることなんてあるはずがない。そう高を括っていた彼はならやってみろと言わんばかりに承諾している。

 

「はいっ、わたくしにお任せください」

 

 とはいえ新たな情報ルートの開拓は歓迎できるという徹底した合理主義的な側面もある。普通ならば費用対効果(コストパフォーマンス)の面で尻込みするだろうが、タチバナにそんな観念はない。復讐とは今の彼が生きる意味そのものであり、どれだけ費用を注ぎ込もうとも必要な情報を入手できたなら、それは確かな勝利なのだから。

 

「……そこまで言うなら、一度テストしてみようか。二週間のうちに、コイツだ……コイツの八月最終週の行動スケジュールを入手してくれ。精度は時間単位でいいし、可能なら九月第一週の分もあると助かる」

 

 仮に失敗してもダメ元の策であり、成功すれば万々歳。標的は元々内外に敵が多いタイプであるため情報収集していたのが自身だと気付く可能性は低く、万一気付いて特定されたとしても報復されることはまずないと考えられている。

 実のところ、そもそもこの男は彼の復讐対象でもそれに連なる者ですらない。ただ、その内どこかから暗殺なり誘拐なりの依頼が発せられそうな雰囲気が漂っているだけであり、企業からの高額報酬目当てでいの一番に掻っ攫ってやろうと思っているだけだ。

 

「ふふ、ではまた二週間後のこの時間にお待ちしています。報酬は……タチバナ様のこと、もっと教えてくださいね」

 

「言葉通りの結果であることを期待している……まあ俺の無味乾燥で刹那的な人生が知りたいというなら、それでいいだろう」

 

 そうしてタチバナは予想だにしていなかった形でアイとの再会を約束すると、今度はしっかりと二週間後に予約を取ってからエレベーターで一階へと降り、そのまま涼しい館内から蒸し暑さが残る真夜中のアシハラへと歩いていく。

 彼女から得られた情報によって次なる標的を定められた彼の心に揺らぎなど無く、裁きの鉄槌を下すことに対する言いようのない高揚感で満たされていた。結局のところ彼は復讐に狂奔する存在であり、それが満たされぬ限り彼は決して許せぬ敵ごと心身を焼き尽くさんとする憤怒からも、自らの誤った選択という罪の意識からも逃れられないだろう。

 

「……あと三人、あと三人なんだ……待っててくれ六花、君を苦しめた奴ら全員にこの世へ産まれたことを後悔させてやるまで終われない、止まれないんだ」

 

 まもなく終電が発車するというアナウンスを背に彼は地下鉄駅へと入っていく。周りを歩いている残業明けのサラリーマンの中で、漆黒の外套に身を包み機械仕掛けの瞳でがヴァイオレット級への昇格も間近と名高い傭兵だと気付く者は一人もいなかった。

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